002 悪夢の始まり
それは、ジョアンが家に帰るより数刻ほど前のこと。
村の外れにあるトマスの家を、誰かが軽くノックする。扉を開けるとそこには、身分を隠すためなのか質素な外套を着た勇者と、その仲間たちが立っていた。
どうやら勇者たちは馬車を村の近くに隠した後、歩いてここまで来たらしい。近頃運動不足のトマスとしては、その強靭な体力にいたく感心するばかりである。
「初めまして、トマス。君が情報提供者だね、詳しい話を聞かせてくれるかな?」
「ええ、もちろんです。どうぞ中へ。ご覧のように狭い家なので、大したおもてなしはできませんが」
「いやいや、こういう質素な家もいいじゃないか。そう謙遜することはないよ」
親しみのある笑みを浮かべた勇者を家に招き入れながら、トマスは扉を閉めた。
◇◆◇
「アリソン、そろそろ出来上がるからイグニスさんを呼んできてくれるかい? さっき、フラッと出て行ったきり戻って来なくてねえ。できれば、ルノーが気付く前に見つけてきて欲しいんだけど」
「あ、うん。わかったよ」
母と共に台所に立ち、夕食の準備を進めていたアリソンは、前掛けをつけたまま裏口へパタパタと向かう。
振り返れば、いつも通り寡黙な父と、いつもよりはしゃいでいるルノー、そしてルノーをはしゃがせている張本人ジョアンの楽しげな姿が見える。
ルノーとジョアンはともかく、父もちょっとぐらい台所を手伝ってくれたら良いのに。王都の話に花を咲かせている3人を見つつ、扉を閉める。
家から一歩外に踏み出せば、広がっているのは茜色に染まる地平線。
同じ空の下に、ジョアンが暮らす華やかで活気あふれる王都が続いているなんて、にわかには信じがたい話だと未だに思う。地上深くから繋がっている穴に落っこちた先にあるのだと言われた方が、まだ信じられる。そのぐらい、ジョアンの語る日常は、アリソンの送る生活とかけ離れていた。
2年前、一緒に行こうと誘ってくれた手を握り返せなかったことを思い出す。きっとこれからも、その手を取ることはないのだろう。
「⋯⋯あっ、そうだ。イグニスさんを探さなくちゃいけないんだった」
しばし風の音に耳をすませ、果てのない空をぼうっと見つめていたアリソンは、ふいに我に返る。そうだ、そのために弟が話に夢中になっている間に出てきたのだった。急いでイグニスを見つけて帰らないと。
「イグニスさーん。どこですかー?」
聞く者がいればおよそ人を探しているようには思わないだろう、間延びした呑気な声が、呑気なりに張り上げられる。
古びたサンダルが柔らかく湿った地面を踏みつけ、風にそよぐ麦の中に声が吸い込まれていく。
「イグニスさーん?」
家の近所から、そう離れたところには行っていないはずだ。なにしろ彼は、怪我人であるのだから。
けれど麦畑の近くに探し人の姿はなかった。ならばどこにいるのだろう。あんなに背が高く、なおかつドルフ村では目立つよそから来た人間が見つからなくなんてこと、あるはずがないのに。
もしかして入れ違いになったのだろうか。自分がぼうっとしていた間にイグニスが家に玄関から入ったのだとすれば、ありえない話ではない。そう思い、アリソンが踵を返そうとした時。
ざぁっと、大きな風がアリソンと麦畑の間を駆け抜けていく。「わっ」と声をあげ、翻るスカートと舞い上がる髪をそれぞれ別の手で押さえた時、アリソンはどうして自分が彼を見つけられなかったのか分かった。
「こんなところにいたんだ⋯⋯」
ぽつりと呟いた声が風に飲まれる。うねるような風にあおられた麦の中に、彼はいた。
麦畑と同じ色をした長い髪を、アリソンが今そうしているように押さえた長身の男──イグニス。彼がこちらを振り向きさえすれば、その見慣れない褐色の肌と赤黒く染まった瞳がよく見えるだろうが、イグニスは今、アリソンに背を向ける形で黄金の中、佇んでいた。
「イグニスさーん⋯⋯!」
声を張り上げるも、まだ声は届かない。仕方なく、黄金の中をかき分けながら近づいていく。いつも物音に鋭い彼にしては珍しく、あと少しで背中に手が届く、という段階になって初めてびくりと振り返り、アリソンを見やるとほっとしたように息を吐いた。
「君か、どうしたんだ? 友人が来ているのではなかったのか?」
「イグニスさんを探しに来たんです。もうすぐお腹いっぱいになる時間だから」
「お腹⋯⋯? ああ、夕餉の時間か」
夕餉、とアリソンは聞き返す。
夕食のことだ、と答えてイグニスは微笑む。
自分は両手で胸元にかかる麦たちをかき分けているというのに、頭がいくつ分も高い彼は悠々と黄金色の畑を見下ろしていて、少し羨ましい。アリソンだって村の女性陣の中では背が高い方なのだが、イグニスから見れば子供と大差ないことだろう。
「なにを見ていたんですか?」
「いや、特に何をというわけではないがな。ただ、ここは美しいところだなと思って」
「そう、ですか?」
「ああ。君もそう思っているものだと思っていたのだが」
「私が?」
目を丸くしたわけでも、否定するような響きでもなく、ただ幼児が聞き返すようなその言い方に、イグニスは少し困ったように笑う。
「君は、この村が好きだろう?」
何を当たり前のことを、とアリソンは今度こそきょとんと目を丸くして答える。
「好きですよ。大好きな家族と、大好きなこの村で生きて眠るのが私の夢ですから。⋯⋯うーん、でも美しい、とか、そんな風に思ったことって、あんまりないかなって」
生まれた時から一緒の空や大地、家族と共に死ぬまで幸せに暮らすこと。そしてできれば、弟が成長して大人になるのを両親と共に見守りたい。
それは英雄譚になることに比べれば、ずっとささやかな夢のはずで、けれど弟の病を前にした時、そのささやかな夢はたちまち強欲な願いへと変わる。
かつて村を訪れた、少しだけ薬の知識を持つ行商人はルノーを「不治の病」と称した。
歳をとるにつれて徐々に体が弱くなっていき、最後には常人ならなんて事のない小さな風邪で死んでしまうだろう、と商人は言った。
『聖都マンディスの"癒し手"にでも見てもらわない限り、これはもう手のつけようがないよ。進行を遅らせることぐらいしかできない。⋯⋯残念だけど、この子は大人になる前に死んでしまうだろう』
あの日から、アリソンの夢は破られる日を待つだけのものだ。
1日また1日と、弟の鼓動が弱くなるのを聞いている。せめて最後まで幸せにと、叶えられるような願い事なんて、もうそれくらいしかない。
「あ、美しいと思わないからといって、汚いって思ってるわけじゃないんです。でも、えっと、この空も、この地面も、ここで暮らす私たちも、ただそこにあるものだなって思って。だから『美しい』っていうのは、なんだか違うかなって⋯⋯」
「⋯⋯なかなかに難解なことを言うな、君も」
「あ、よく言われます。アリソンはいつも何言ってるのかわかんない、って」
笑って頬をかくアリソンに、イグニスは「そういう意味ではないのだが」と苦笑する。首をかしげたアリソンに、「分からないのならそれはそれで構わない」と笑い、遠くの赤い、沈みゆく空に目線を移す。つられて視線を向けると、あまりの眩しさに目の前で色とりどりの光が舞った。
「⋯⋯だが、やはり私はこの村を美しいと思うよ」
独り言のように零されたイグニスの言葉に、彼を見上げる。アリソンに視線を合わせたように見えて、その実、彼の赤黒い瞳はどこか遠くのものを──否、遠くの誰かを映していて。
「なに、普遍的なものを美しいと思うことも、間違いではないだろう?」
肩を傾けて笑った彼に、頷き返す。
本当は「普遍的」がどういう意味か分からなかったのに、なんだか少し、背伸びをしてみたくなったのだ。
「ああ、そうだ。今度全員揃っている時に改めて言うと思うが、そろそろこの村を出ようと思っている」
「えっ」
「怪我も治ってきたからな。あまり長くお世話になるわけにはいかないだろう」
「治ってきた、って⋯⋯でもまだ2週間も経ってないのに、本当に大丈夫なんですか?」
「まあ、私は怪我の治りが早い方だからな。それに、故郷で帰りを待っている人がいるから、早く無事な姿を見せてやりたいと思ってな⋯⋯」
──そうだった。旅人である彼にも、アリソンにとってのこの村のような、帰る場所があるのだった。
そんな当たり前のことを思うと、たとえ彼の怪我が心配でも引き止めるのは間違いであるように思えて、アリソンは開きかけた口を閉じる。
「別に今すぐというわけじゃないが、ついでだから君に話しておこうと思ってな。家族にはまだ、秘密にしておいてくれ」
「うーん⋯⋯じゃあ、ルノーをどうやって宥めるか一緒に考えてくださいね、イグニスさん」
「む、それは難題だな⋯⋯分かった、いくつか案を出しておこう」
拗ねた弟は、いつものように頬を膨らまして子供らしく不満を訴えるだろうか。それとも「イグニスおにいちゃんなんかしらない!」とそっぽを向いてしまうかも。
真剣に悩み出したイグニスを横目に、「そういえば」とアリソンはふと思い出して切り出す。
「さっき言ってた帰りを待っている人って、もしかして恋人さんですか?」
「なっ⋯⋯!? い、いや、それは、その⋯⋯私は、そうなれたら良いと思っているが⋯⋯」
急に余裕をなくして、しどろもどろになるイグニスにアリソンは思わず声をあげて笑う。
いつもは落ち着いていて頼りになる人で、自分に兄がいたならこんな感じなのかな、なんて思うのに、今じゃ夕焼けの中でも分かるほど顔を赤くしていて。その落差がなんだかたまらなく可愛くて、頬が全然引き締まらない。
これじゃ、兄じゃなくて弟みたい──と、口には出さずに心の中で思う。
「大丈夫ですよ、イグニスさんならきっと」
「そ、そうだろうか⋯⋯本当にそう思うか?」
「そうですよ。だってジョアンもびっくりしてたんですよ、こんな格好いい人王都にもなかなかいないって。それにイグニスさんの、えっと人柄? は私たち家族が太鼓判を押せます!」
「そんな風に言われると、むず痒いものだな」
照れ臭そうにするイグニスに、アリソンは「本当のことを言ってるだけですよ!」といつになく力説する。
「いつか紹介してくださいね、イグニスさんの大切な人のこと。応援してますから」
「う、うむ⋯⋯善処する」
それは、もうすぐ日の暮れる頃。
夢の終わりを告げるかのように風が再び大きく唸り声をあげ、黄金の中立ち尽くす二人の間を通り過ぎて行った。
◇◆◇
「⋯⋯私の情報は、お役にたてましたでしょうか?」
「ああ、もちろんさ。ありがとう、君の勇気に感謝するよ」
にこりと笑った勇者の目は、冷たくギラギラしている。娘はやれ優しい目をしているだの、他人の夢を馬鹿にしない人だと言っていたが、一皮剥けばこれだ。勇者も結局は人間だということだ、大いに結構。
そのような内心は少しも悟らせることなく、笑みを浮かべ続けたトマスはチラリと勇者の後ろに目をやる。椅子に座っている彼と違い、彼の仲間だという二人は付き従うように立ちっぱなしだ。仲間というよりは従者のように見えるその振る舞いに、彼らの関係を垣間見た気がした。
「ああ、そういえば紹介がまだだったね。こちらはセネカ・レミントン。そしてこっちはニーナ。俺の自慢の仲間たちのうち、新入りの二人なんだ。そろそろ魔人との実戦経験があった方がいいかと思ってね」
「なるほど⋯⋯」
今気がついたというように、彼らを紹介するレインナートにトマスは適当に頷く。
セネカは深緑のローブを着た中性的かつ陰気そうな少年で、ニーナは対照的に純白の修道服を身に纏った、ボブカットの優しげな少女だった。
恐らくこのニーナという少女こそが、聖都で「聖女」として広く崇められている治癒術の使い手なのだろうが、とてもそのような尊大な人物には見えない。無論、そのようなところがより聖女らしいとも言えた。
「こう見えて、セネカは大人の魔術師でもなかなか描き出すことのできない『式』を多く扱えてね。天才魔術師なのさ」
自慢げに語るレインナートの後ろで、セネカがペコリと軽く頭を下げる。殊勝な態度だ、と言いたいところだが、その目つきに馬鹿にするような色があったことをトマスは見逃さなかった。
王都で勉学に励んでいた頃、王都出身者に幾度となく向けられた眼差し。田舎者を見る目。
気に食わないな、と思いながらもトマスはその感情を表に出さぬよう、適切に調整された笑顔をニコニコと浮かべる。こんな感情剥き出しの若造と自分は違うのだ、と見せつけるように。
「それで、具体的な作戦はどのようにするのですか? 他に私にできることは──」
「もうないよ」
レインナートはさらりと、穏和そうな顔を一欠片たりとも歪めることなくにっこり微笑んだまま言った。
「君にできることはもうない、トマス。保身のために余計な媚を売る必要もね。君の役目は既に果たされた。今すぐにでも、娘を連れて村を出るといい」
レインナートが指で扉の外を指し示す。
そこに止められた馬車は、恐らくレインナートが村に来るときに使った馬車なのだろう。いつの間に村の中に入り込んでいたのだろう。それだけでなく、御者と思しき男が、ぐったりと意識を失くしたジョアンを抱き抱え、馬車の中に座らせている。
そうだ、レインナートが家にいるのを見た娘が、あまりに混乱して話に口を挟もうとするものだから、睡眠作用のあるハーブで眠らせたのだった。今更ながらに思い出して、トマスはレインナートを見やる。身長はそれほど変わらないはずなのに、なぜか奈落から上を見上げているような心持ちになった。
「多大なご協力、感謝するよ」
ずしりと重い皮袋を手渡され、トマスは無言で娘の待つ馬車へと急いだ。
これでいい。後は何が起ころうが自分の知ったことではないのだ。
最後に一度だけ旧友の家を振り返って、トマスは馬車の中に乗り込む。勇者の手配した御者と挨拶を交わしてすぐ、馬車は暗い夜の中を走り出す。
それが、トマスとジョアンの故郷との今生の別れとなった。
◇◆◇
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、茜色などとっくに夜の帳に飲み込まれた後。
渋るジョアンを見送り、居間に戻ったアリソンを家族の声が出迎える。
「ジョアンおねえちゃん、かえっちゃったの?」
「うん。明日、帰る前にまた寄ってくれるって言ってたよ」
おかえりの挨拶もそこそこに待ち構えていたように尋ねられ、アリソンが肯定すると、ルノーは子供らしく頬を膨らます。
「ちぇーもっといろんなお話がききたかったのにな」
神父の語る英雄譚に目を輝かせていたのはジョアンだけでなく、ルノーもまた、彼女のように騎士に憧れていた。もっと話を聞きたかったのであろう弟を宥めながら、アリソンはいつかの光景を思い出す。
「⋯⋯元気そうだったな」
「そうねえ。立派に頑張ってるみたいで、安心したよ。ねえ、アリソン。⋯⋯アリソン?」
「えっ?」
はっとしたアリソンが顔を上げると、両親もルノーも「しょうがないな」と言いたげな、優しい呆れを含んだ顔をしている。
またぼうっとしてしまったのだと察し、アリソンも苦笑いをする。
「そういえば、イグニスさんは?」
「さっき部屋に帰ったよ。昼間はピンピンしてたけど、やっぱりまだ本調子じゃないみたいだねえ」
「⋯⋯あの男の回復力はすごいな」
「あんたもそう思う? あんなに脇腹から血が出てたっていうのに、しばらく寝てただけで畑仕事だの雨漏りの修理だの、なんでもない顔でこなせるようになっちゃうだから。まあこっちとしては大助かりだけど、あんなに動いて本当に大丈夫なのかねえ」
普段から寡黙な父が同意を示したせいか、母はいつも以上に饒舌に感嘆の言葉を連ねる。
「やっぱり、おばあちゃんの『やくそう』がきいたんじゃない?」
両親の隣で、眠そうに目を擦っていたルノーがふとそんなことを言う。
寝耳に水だったのか、両親は揃って「薬草?」と顔を見合わせる。ルノーが「しまった」という顔をして目を逸らすと、両親の視線は自然と、傍らで冷や汗を流しているアリソンへと向かうわけで。
「え、えっと⋯⋯昔、おばあちゃんに聞いたことがあって。裏山の薬草のお話」
「そうだったのかい⋯⋯でもアリソン、それは、」
「人に話してはならないぞ」
母の案じるような、迷いながらの言葉を遮って、しかめっ面の父がバッサリと切る。
「父さんと母さんにならいい。だが、他の人にそれは話すな。たとえこの村の人間であったとしても」
「⋯⋯うん」
肩に手を置き、言い聞かせてくる父にアリソンは頷く。
両親がそうまで案じる理由は知っている。裏山はのどかなドルフ村の唯一の禁忌であると言ってもいいからだ。
「でも、なんでいっちゃいけないんだろうね。やくにたつことなのにさー」
ルノーの疑問に、両親とアリソンは答える術を持たない。
何故ならそれは「そういうもの」だからだ。
かつてこの世界には、あるいはこの大陸、この王国には様々な「信仰の形」があった──らしい。詳しいことは村の誰も知らない。いや、もしかしたら村で唯一王都で勉強をしたことがあり、文字の読み書きができるトマスなら知っているのかもしれないけれど、誰も彼にそんなことを聞いたことはなかった。
しかし、数あった信仰もその殆どが今では「邪教」であり、唯一残された信仰の道は全て女神ベガに通じている。
祖母が幼いアリソンに聞かせてくれた昔話や、かつてあった古いしきたり。その殆どが、今では厳密に言えば「邪教」に分類されてしまうものなのだ。
「とにかく、誰かに知られたら良くない。それは分かるな?」
「うん」
「だから、例えイグニスが助かったのがおばあちゃんの薬草のおかげでも、それは言っちゃいけないんだ」
いつもは無口な父が、ダメ押しをするようにそう言う。
アリソンとルノーは顔を見合わせたのち、「ごめんなさい」と謝る。
「謝ることじゃないんだよ。⋯⋯誰かの知恵が、誰かを救う。本当は良いことのはずなのにねえ」
ため息混じりに母が零した言葉が、夜のしじまに溶ける。
重たくなった空気の中、ふいにルノーのあくびが響き渡った。
当の本人は「まだねむくない!」と抗議したものの、話の途中から明らかにこっくりこっくりと船を漕いでいたことは明らかだ。
「それじゃあ、私は機織り小屋の方に行くね」
「ええーおねえちゃんはまだおきてるの? ずるーい、ぼくもおきるー!」
「だめだよ、ルノーはちゃんと寝なくちゃ」
「アリソン、あんたもあんまり根を詰めすぎないようにね。本当ならあんただって寝てないといけない時間なんだから」
母の忠告に、アリソンは「分かってるよ」と微笑む。
「今日はジョアンと遊んでたから、夜のうちに少しでも進めておきたいの。大丈夫、ちゃんと夜が明ける前には戻るから」
「ほんとかなー。おねえちゃんっていっつも『シュウチュウ』すると、まわりのことわかんなくなっちゃうでしょー」
「うっ⋯⋯」
ルノーに図星をさされ、言葉に詰まるアリソンに両親は「程々にね」と苦笑を浮かべながらも、機織り部屋に行くのを止めることはなかった。
少しでも仕事を進めておきたい気持ちの、その裏にある本意を汲んでくれたのだろう。
家の外にある、家畜小屋を改築した機織り小屋に行くため扉を開ける。ジョアンを見送った時よりも、気温がさらに下がっているようだった。
肌寒さに震える肩に、ふわりと古びたショールがかけられる。振り向くと、困ったように眉根を下げている母の姿があった。
「ごめんよ、アリソン。あんたには苦労ばかりかけてるね」
「どうして? 私、幸せだよ?」
にこりと笑って答えたのに、母の憂いを取り除くことはできないようだった。
「⋯⋯気をつけるんだよ」
「うん、いってきます。お母さんも早く寝てね、明日も早いんでしょう」
何か言いたげに、けれど結局はその言葉を飲み込んで娘を送り出した母に、アリソンは小さく手を振ってから小屋に向かって歩き出す。
アリソンが機織り小屋に入ると同時に、家のドアもまた閉められる。
その音を聞いて、やっぱり自分は幸せ者だと思い直すのだった。
◇◆◇
「さて、それじゃあ俺たちも行くとしようか。準備はいいかい?」
トマスと彼の娘の乗った馬車を見送って、レインナートは連れてきた仲間二人を振り返る。
「当たり前だよ、このぐらい。⋯⋯ねえ、本当に僕も行かなくていいの? 外で魔術を使うだけでいいの?」
「ああ、それだけでいいよ。焦ることはないさ、これから何度でも魔人と遭遇する機会はある。ゆっくり慣らして行く方が大切だよ」
「⋯⋯それもそうだね。ごめん、勇者様」
「いいさ、分かってくれれば」
不満を隠しきれていないセネカに、レインナートは明るく声をかける。それだけで彼の不満を解消できたとは思えないが、少なくとも表向きは納得して引き下がってくれた。
対照的に、もう一人の仲間のニーナは、レインナートの采配に不満はなさそうだ。むしろ魔人との戦いに直接立ち会わなくても良いことに安堵すらしている節さえある。
「それじゃあ、行こうか」
二人の仲間に声をかけると、レインナートは彼らを伴って歩き出す。トマスが前もって場所を教えてくれたおかげで、初めてきた村の中でも迷うことなく進んでいける。
「さあ、粛清を始めようじゃないか」
犬小屋のような家を前にして、レインナートは穏和な笑みを浮かべて言った。
◇◆◇
窓から差し込む僅かな月明かりと、不規則に波紋を描く蝋燭の火だけが機織り小屋の中を照らしている中、アリソンは手慣れた動きで糸を織っていく。
作るのはトマスを介して売っている織物や、それを使って縫った衣服などだ。自分たちで着たり使ったりするものは殆ど無く、織り上げたものの大部分が売り物になる。
しかし悲しいかな、それでも売り上げのほぼ全てが生活とルノーの薬代に消えていく。ジョアンは王都で貯金を始めたらしいが、アリソンたちだけでなくドルフ村の殆どの住民にとって、金とは有事の際のために貯めておくものではなく、今日明日の飢えを凌ぐためのものだった。
休むことなく、アリソンは無心で織り続ける。家を出る前に弟が指摘した通り、アリソンは一旦集中状態に入るとなかなか現実に戻って来なくなるのだった。誰かが小屋の外で騒ごうが、耳元で喋ろうが、集中しているアリソンには聞こえない。それこそ、誰かが肩をつかんで揺らしたり、あるいは余程の事でもない限り。
しかしそんなアリソンの異常なほどの集中力を引き裂く、「余程の事」が起きた。
複数の、荒々しくも妙に規則的な足音がドカドカと響き渡ったかと思うと、直後、とんでもない爆発音が耳をつんざいたのだ。
鼓膜を突き破るような音に、アリソンは集中という無防備な状態にあったこともあり、人一倍のショックに見舞われた。びくりと飛び上がり、そのまま椅子から転げ落ちる。
「きゃっ! い、いまの音は⋯⋯?」
よろめきながら立ち上がると、パチパチと拍手にも似た炎の音が聞こえる。誰かの家で火事が起きたのかと慌てて扉を開くと──
「⋯⋯えっ」
──燃えているのは、自分の家だった。
無人の暗闇の中、轟々と燃え盛る炎に包まれた我が家が目に入り、想像だにしていなかった光景にアリソンは放心してしまう。
どうして。火の不始末? そんなまさか。あのしっかり者の母がそんなことをするわけがない。だけどそれなら何故? 一体何が起きているの?
空白状態の頭を過ぎる数々の疑問。だがそんなことよりも、大事なことがあった。
家の外には、誰もいない。
つまり、家族はまだあの中にいるのだ。あの火柱のような家の中に。
それに気がついた瞬間、アリソンは走り出していた。
この数年間一度も走ってこなかった足は、最初こそ不恰好に崩れたものの、無理矢理動かしているうちに走り方を思い出していく。
「お父さん、お母さん! ルノー、イグニスさん⋯⋯ッ!」
泣きそうな声で叫びながら、なんとかまだ火の手が上がっていない裏口にたどり着く。それでも、扉を開けば途端に煙が襲ってくる。
吸い込んでしまった煙にむせ返りながら、アリソンは家族の名前を呼ぶ。台所を、居間を、一階の隅々までを炎や煙と格闘しながら呼び回っても、誰も返事を返さない。
もしかしたら本当はもうみんな逃げ出せているのかもしれない。そんな希望が浮かぶが、すぐにアリソン自身がその考えを打ち消す。もし本当にそうだったなら、みんなまだ家の近くにいるはず。だけどさっき、外は無人だった。無人の静寂に、炎の音が響いていたから。
「みんな、どこにいるの!? お願い、返事をして⋯⋯っ」
かろうじて家が崩れないよう支えている柱に縋るようにもたれかかり、アリソンは息をつく。煙を吸い込みすぎたせいか、目の前がぼんやりしてくる。
その時、ふいにアリソンの耳にカタンと、何かが倒れるような物音が聞こえた。反射的に「ルノー!?」と弟の名前を口にしながら振り返ると、目の前には階段。
「そ、そうだ⋯⋯2階だよ。上にいるのかも⋯⋯っ!」
先程までの息苦しさはどこへ行ったのか、家族が2階で身を寄せ合う光景が頭に浮かんだ途端、煙もぼやけた視界もまるで気にならなくなる。
アリソンは物音がした2階へと、階段を駆け上っていく。背後で燃え落ちた屋根の一部が落ち、裏口を塞いだことにも気づかず、ただただ希望に身を任せて足を動かす。
炎が燃え広がったのなら1階から逃げようと試みるはずだと、最後まで思い至らぬまま。
◇◆◇
レインナートが作戦を「遂行」している間、セネカとニーナはその補助作業に徹していた。
例えば、村人が騒ぎを聞きつけて駆けつけてこないよう、村中に目くらましの魔術をかけるだとか、家を弱く調節した炎で包み込むだとか、そういったことだ。
この僕に対して、なんて退屈であくびの出るような任務だろう──セネカがやり場のない苛立ちに爪を噛んでいると、ふと、暗闇の中を何かが過ったような気がした。
「ねえ、今何か横切らなかった?」
「えっ⋯⋯と、特には見かけませんでしたけど⋯⋯」
隣に立つ少女、ニーナのオドオドした受け答えに、苛立ちが増す。
「特には見かけませんでしたー、じゃねえんだよ! 絶対にあったんだよ、お前が見てなかっただけで!」
「ひっ⋯⋯ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
「ったく、本当に怪我を治す以外は役に立たない女だよねえ、お前。しかも勇者様やこの僕らが怪我をするなんて事態なんて、そうそうないし。あれ、おかしいな。じゃあお前ってここにいる意味あんの?」
「ご、ごめんなさい⋯⋯」
じわじわと瞳に涙を溜め始めた少女を見て、舌打ちが出る。
これだから女は、とセネカは思う。泣けば許されると思って。ふざけんなよ。
「あ、あの、ゆ、勇者様にお伝えしたほうが、いいでしょうか⋯⋯?」
「あ? 何を?」
「あの、せ、セネカさんは見たものを⋯⋯」
「⋯⋯別にいいんじゃない?」
「えっ。あの、でも」
たじろぐニーナの鬱陶しさに、答えるのも嫌になる。
「例え虫けらの一匹や二匹増えたところで、問題ないでしょ。勇者様がやられるわけないんだし」
「で、でも、あの、もし関係ない人だったら⋯⋯」
「お前、無能のくせに何? 僕の実力を疑ってんの? 目くらましの魔術ぐらい、この家の住民以外に限定して張り巡らすのなんて簡単なんだけど? それが失敗してるって思ってんの?」
「そ、そういう意味じゃ⋯⋯」
「そういう意味じゃなかった何なわけ? 言ってみなよ、ほら。無能のくせに疑ってましたーって。ほらほらほら!」
「ご、ごめんなさ⋯⋯」
涙目で俯き、黙り込んだニーナを見て溜飲が下がったので、それ以上畳みかけるのはやめておく。無能とはいえ、ストレス解消用のサンドバッグとしての役目が彼女にはあるのだから、うっかり壊してしまったら困るのは自分だとセネカも分かっていた。
「はぁーあ。いつになったら終わるのかなぁ、このクソつまんねえ作戦は」
炎に包み込まれた家を見上げて、セネカは何度目になるかわからないため息をついた。
◇◆◇
「みんなっ、大丈⋯⋯」
息を席切って駆け上がった階段の上、半壊した扉を退かしたその向こう側を、言葉を言い終わる前に目にしてしまったせいで、アリソンはそれ以上何の声も紡げない。
まるで嵐に遭遇した後のような、家具の散乱した部屋。その中央奥の壁の前には見知らぬ橙色の髪の青年が立っていた。
青年は背中に身の丈ほどもある大きな剣を背負っており、籠手や肩当てなど、ジョアンによく似た防具を身につけているが、騎士というにはどこかカジュアルな装いに感じられる。どちらかといえば貴族の子息、あるいは旅の剣士といった風情だ。
彼は何を見ているのか、壁を注視したまま、こちらに振り返ろうとする気配すらない。部屋の光景に絶句するアリソンなど、まるで気にも留めていないようだ。
それにしても酷い臭いだなぁ、とアリソンは思った。
火事のせいなのか、部屋は今や肉が焦げたような臭いと、鉄臭い香りで充満している。この臭いって消せるのかな。頭の片隅をそんな思考がよぎった。
「お、おねえちゃん⋯⋯!」
「っルノー!? そこにいるの?」
弟の声を聞きつけたアリソンが一歩部屋に踏み入ると、青年はようやくアリソンの存在に気づいたとでも言うようにこちらを見やる。優しげな緑色の瞳に、炎が映り込んで不思議な光を描き出す。
「君、この子の姉?」
「えっ、あ、はい⋯⋯!」
「そうか。なら、早く行ってあげるんだね。随分と泣いていてね、思わずくびり殺してしまうところだったよ」
さらりと、まるで天気の話でもするかのように物騒な例えを用いた青年は、アリソンにルノーがよく見えるように道を開ける。
そのおかげで、アリソンにはルノーどころか、部屋の様子がもっとよく見えるようになった。
例えば、泣いているルノーの傍にはピクリともしない両親が重なって倒れていること。そして、壁には何か黒い影のようなものが張り付いていること。
「ひっく⋯⋯お、おとーさんとおかーさんが⋯⋯! イグニスおにいちゃんが⋯⋯っ!」
舌足らずながらも悲壮な様子で訴えてくるルノーにアリソンは、よろよろと生まれたての小鹿のような足取りで近づく。道を開けた青年は、特に咎めも止めもせずに成り行きを見ており、それがかえって不気味であった。
倒れて動かない両親の側で泣いている弟を抱きしめようと、手を伸ばす。その時、両親が二人とも血だらけなことに気がついた。また、母を庇うように倒れた父の片腕と片足が、部屋の隅まで転がされていることにも。
ああ、どうしよう。人は足が二本なくちゃ歩けないのに。腕だって、二本なければ大変だ。明日から父はどうやって薪を割ればいいんだろう。
目の前の出来事を飲み込めないでいるアリソンの額に、何かが零れ落ちる。指で拭うと、それは血だった。のろのろと顔を上げて、喉元まで出かかった悲鳴を飲み込む。
焦げた肉と、鉄の臭いの原因。
そして青年たちが道を開ける前、一体何を見ていたのか。それらを両目に捉え、瞬き、もう一度捉えて。自分が今見たものが現実であると分かった瞬間、アリソンは一度は飲み込んだ悲鳴を今度こそ上げた。
部屋の壁にはイグニスが、焼き爛れた両腕を広げて磔になっていた。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
もし面白かったら評価を頂けると嬉しいです。
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