015 天秤の問いかけ
「だから、なんですか」
肩を震わせて泣きじゃくる聖女を見下ろし、アリソンは乾いた声で言った。
静かな裏庭の中、聖女が丹精込めて育てているのだろう花が風に揺れる音と、それに混じる嗚咽だけが響く。冷たい声を出した覚えはないが、アリソンの言葉に眼下の聖女は少しだけ震えて、それからそれを受け止めるようにぎゅっと手を握りしめる。そんな彼女を気遣わしげに見つめたルークが肩に手を添えようとして止め、代わりに震える彼女の手を自分の手で包み込むのを見下ろしながら、アリソンはため息をついた。
今の気持ちを一言で言い表すとしたら、「むかつく」だと思った。
聖女が「前の世界」とやらで色々と不幸だったこと。この世界に来てからも、勇者や大司教になす術なく利用されたり、振り回されたこと。それらは事実で、そして同情を覚えるべき事柄ではある。
だけど、そんなこととアリソンの両親や弟、さらにはイグニスが無惨な形で殺されたこととは関係がない。いくら聖女ニーナが哀れであろうと、彼女を許す気にはなれない。
しかし、それとは別に、もう一つ、アリソンの中で明らかになった事実がある。それは、自分の家族を見殺しにした聖女もまた、血の通ったひとり人間なのだという事実だ。
考えてみれば当たり前だ。けれど、彼女を殺そうとした時にルークの顔がよぎるまで、アリソンはその事実に気がつかなかった。自分が殺そうとしている人間にも、彼女を大事に思っている人間、彼女のためなら命を差し出せるような人間がいるということ。
そもそも、アリソンには人を殺すことへの想像力が欠如していた。家族とイグニスを殺した勇者が憎くないといえば大嘘だ。彼らが憎いし、彼らが死ぬことに異論はない。だが彼らを殺したところで家族が戻らないのならば、殺そうと意気込むこともできなかった。
そんなアリソンが剣を取ったのは、ただひとつ。
『──勇者たちの心臓と引き換えに、貴女の家族を生き返らせてあげますわ』
甘やかな誘惑のように染み込んだあの毒。イグニスの友人である魔人の女性、エリザベス。彼女がそう言ったから、アリソンはならば殺そうと決めたのだ。家族を取り戻すために無辜の人間を殺せと言われたなら躊躇もしたが、相手は家族の仇だ。その仇の心臓で家族が生き返る。なんてよく出来た話なのか。
人を躊躇なく殺せる勇者とその仲間だ。人を殺しておいて、何事もなかったかのように笑い合える人間たちなど、悪虐非道の、心など持たない、とてつもない邪悪であるはず。とてつもない邪悪の命で家族を取り戻せるなんて、願ってもないことだ。躊躇などいらない、単純明快な筋道だったはずなのに。
いまアリソンの目の前にいるのは、ただのひとりの人間だった。
とてつもない邪悪ではなく、されど完全無欠の善人でもなく。ただアリソンと同じように、泣いたり笑ったり、時には間違い、そして時には誰かを助けたいと願う血の通った生き物。
──だからこそ、むかついてしょうがない。
「だから、なんですか。そんなこと、私のお父さんやお母さんや弟、それにイグニスさんが死んだことと何の関係もないじゃないですか」
「ご、ごめんなさ⋯⋯」
「謝って欲しいわけじゃないです。それにあなた、私が一番むかついてることが何か分かってない」
「え⋯⋯?」
顔を上げた聖女と目が合う。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔。途方に暮れた子供のような。事実、子供なのかもしれない。彼女の言う「前の世界」での出来事はアリソンにとって要領を得ない部分も多かったが、子供がすくすく育つには適していない環境だったことは分かる。
「自分が悪い、だから死んでもいい、って。あなたがそう思ってることが一番むかつく。だってあなた、やっぱり許されるって思ってるんでしょう。ここで大人しく死んだら、私があなたのこと許すって」
「そ、それは⋯⋯あの、ち、違うんですか⋯⋯」
「違うに決まってるじゃないですか。死んだって許さないです。⋯⋯ラズさんもそうですよね?」
黙って成り行きを見てくれているラズに話を振ると、彼女は「当たり前でしょ」と間髪入れずに吐き捨てる。
「アンタ達を許すために殺してるんじゃないのよ。殺したいから殺してるのよ。許すなんて甘いこと、言うわけないでしょ」
「まあ、だよなぁ」
相槌を打ったルークに、全員の視線が刺さる。聖女ニーナの泣きそうな視線も、だ。彼はそれに対して悪びれることなく、へらりと笑う。
「いやまあ、アンタらの言い分は分かるんだよ。俺もほら、大司教の野郎が死んだらあいつにされたこと許せるかって言われたら、んなわけねーだろって思うし。⋯⋯けど」
「けど、あなたはそちら側につくのね?」
「まあな。ニーナは、いや、ヒナコってのが本当の名前なんだったか? とにかく、俺は誰がなんと言おうとコイツを死なせるわけにはいかないんでね」
睨み合うルークとラズ。一触即発の空気に、肌がピリピリする。どちらか一方が少しでも踏み出せば、直ちに戦闘が始まるだろう。
だがそれを割ったのは、他でもない聖女だった。
「やめて! わ、わたしは、許されないことをしたんだから、許されないのも当然なの。死んで償いますから、だから⋯⋯っ」
「だから、それがむかつくのっ!」
「は? ちょっとアリソン、何して⋯⋯!?」
ガツン、と大きな金属音を立てて剣を鞘に仕舞ったアリソンに、ラズが戸惑いの声をあげる。それには答えず、アリソンは拳を握り、聖女を睨みつける。
「馬鹿にしないでよ! 死んで償う? あなたが死んで、償いになるわけないでしょう! そんなことをしたって、イグニスさんは帰ってこないのに⋯⋯!」
「そ、そんな⋯⋯じ、じゃあわたし、どうしたら⋯⋯っ」
「そんなの自分で考えてくださいよ、なんで私があなたのために考えてあげなきゃいけないんですか! 大体あなた、自分が死んでどうなると思ってるんですか? あなたが死んだらルーク君は、守りたかった大事な人を救えなかったことを背負って生きていくんですよ? そういうことをちゃんと考えた上で、死んでもいいって言ってるんですか!?」
「る、ルークは、勘違いしてるんです。わたしが怪我を治したからって美化してるだけで、わたしが死んだら目が覚めるはずだから大丈夫です。わたし、ちゃんと死んで償いますから!」
「ハア!? アンタ、そんな風に思ってたのかよ!?」
そりゃねえよ、と騒ぐルークの声に被せるように、「だからむかつくんです!」とアリソンは声を張り上げる。
「死んだら許されるとか、死んだら償いになるなんて思って死なれたら、むかつくんです! 嫌です!」
「じ、じゃあ、どうしろって言うんですかぁ! か、勝手なことばっかり⋯⋯わたしだって、許されないことをしたってことぐらい、わかってるんです! だからもう死んでもいいって思ったのに、そんな風に死なれたらむかつくとか言われたって、死ぬ以外にわたしができることなんてもうないじゃないですか! 他に償う方法があるとでも言うんですか!」
泣きながら言い返してきた彼女に、アリソンは彼女を見下ろす。
そんなの知らない、と言いかけてふいにエリザベスの言葉が脳裏に蘇る。
『──勇者レインナートやその仲間たちのように、生まれつき多くの魔力を持つ人間を殺して、その魔力を使わない限りは──』
そうだ、彼女は一言たりとも、「勇者とその仲間を殺せ」とは言っていない。
ただ、「ちょうどよく条件を満たすのが勇者とその仲間だ」ということをアリソンに教え、復讐と家族の蘇生への道筋を教え示してくれたに過ぎないのだ。
それが分かった瞬間、ひとつの新たな道筋がはっきりとアリソンの脳内に浮かぶ。
わざわざしなくてもいい遠回り、どころかいらない回り道。けれどこの道を選べば、殺しやすい人間だけを殺して済む。
息を呑み、アリソンは「ありますよ」と言い放つ。
「あるに決まってます。生きて償えばいいんです」
目を見張ったのは、ニーナだけではない。ルークも、ラズもだ。特にラズから放たれた、冷たく突き刺さるような視線が痛い。
それにめげず、アリソンはニーナに淡々と告げる。
「あなたが私たちのためにできることはもう何もありません。何をされても、私たちはあなたを許さない」
「⋯⋯っ」
「でも、あなたがルークのために、そしてこの街、聖都マンディスのためにできることはまだある。あなたが冒した過ちはもう取り返しがつかないけど、これ以上同じ過ちを繰り返すことを止めることはできる」
そのために、と言って言葉を切り、一呼吸置いてからアリソンは言った。
「聖女ニーナ、いえ、聖女ヒナコ。私と取引をしましょう」
◇◆◇
戸惑った声で「と⋯⋯取引?」とおうむ返しにするニーナ、もといヒナコに、アリソンは頷く。
「ラズさん、言ってましたよね? 腕を生やせるようなおっかない治癒力を持つ人間が勇者についていたら、殺せるものも殺せない。だから聖女から殺そう、って」
「ええ、言ったわよ。それが何?」
「それってつまり、聖女を特別殺したいんじゃなくて、聖女が勇者についていなければそれでいいってことですよね?」
「⋯⋯何が言いたいの?」
「聖女ヒナコに、勇者レインナートを裏切ってもらうんです」
「は?」
「それと、大司教を殺しましょう」
「いやいやいや、なんでそうなる!? そもそも勇者を裏切れ、って⋯⋯まさかアンタら、勇者を殺す気なのか? そもそも、コイツが仇だから殺そうとしてたんじゃねーの? 意味わかんねえんだけど⋯⋯」
ヒナコとラズに変わって、混乱する声を上げたのはルークだ。
ぽかんと口を開けた彼と、何が言いたいのか分からないという顔をするラズたちに、アリソンは「あれ」と気の抜けた声を出す。
「えっと⋯⋯ごめんなさい、私あんまり上手く話せなくって」
いつも村のみんなを困らせては、ジョアンに通訳してもらっていたっけな、と遠い過去に思いを馳せるアリソンに、ラズが「いい加減にしなさいよ!」と怒気をあらわに胸倉を掴んでくる。その手が震えているのは、アリソンを揺さぶりたいのを我慢しているからだ。どれだけ怒っていても、アリソンがイグニスのために勇者に立ち塞がった事実が、怒りのままにアリソンをなじることを彼女に許さなかった。
「アンタがコイツを殺せないからって、勝手にコイツを生かす方向で話を進めないでよ。あたしはアンタと違って、コイツを許す気は⋯⋯!」
「えっ、それはもちろんですよ。私も許す気はないです。さっき言いませんでしたっけ?」
「でも殺す気はないんでしょ?」
「だって、死んだら許されるなんて思って、気持ちよく死なれたらむかつくじゃないですか。それこそ許せないですよ」
「アンタがむかつくかどうかなんてどうでもいいわよ! いい、コイツが生きてたらレインナートも殺せないかもしれないのよ? アンタ、それでいいとか言うんじゃないでしょうね? アンタが復讐を諦めるのはアンタの勝手だけど、あたしまで巻き込まないで──」
「諦めるわけないでしょうッ!?」
噛み付くように言ったアリソンに、成り行きを困惑した顔で見ていたヒナコがびくりと肩を揺らす。それとは対照的に、向き合ったラズには動揺の一つもない。
諦めるわけがない──家族を生き返らせることを。
だからこそ、この取引を持ち出したのだから。
「⋯⋯諦めてなんかないです。だから裏切ってもらうし、だから大司教を殺して、聖都で償ってもらうんです。あの花の下に眠る子供達に」
アリソンの言葉に、ルークが怪訝そうにヒナコを見やる。ラズのこちらを見返す瞳の中に疑問はないことから、彼女も知っていたことをアリソンは察する。
「ラズさんも、気づいてたんですね」
「⋯⋯あんなに分かりやすければ、誰でも気づくわよ」
俯いた聖女を一瞥した後、胸倉を掴んでいた手を放したラズの言葉に、「そうですね」と目を伏せる。
ヒナコが世話をしていたという花壇。その花壇に所々刺さった木の板には、ひとつひとつ丁寧に綺麗に名前が彫られていた。最初は植えた花の名前なのかと思ったが、目を凝らしてみれば、そうでないことはすぐに分かる。
ジョン、アレックス、ティミー、ノア、ルビー、オリビア、ルーカス、エマ、ネイソン。
彫られているのは全て、人の名前だ。
風に揺れる花たちは、その真下に埋められたものの正体を隠すように甘い香りを撒き散らす。
ここは墓場なのだ。人知れず、おそらくは大司教とやらの手にかかって死んだ子供達の。そして、墓を作るのなんて、他者を悼む心を持つ血の通った生き物だけに決まっている。
「この街で一番偉い人は、本当はヒナコ、あなたなんでしょう? なら、大司教を殺して、あなたの地位を取り戻すべきです。そうしたら、子供たちやルークのことを守れるし、スラムの生活だって改善できます。死んだ子供達に償うために、あなたにできることなんていくらでもあるんですよ。あなただって、そうしたいと、そうできたらいいと少なからず思ってるはずなのに、どうしてやろうとしないんですか?」
「そんなこと、わたしにできっこない! 一番偉いなんて名ばかりで、言われるままにハンコを押したり、バルコニーで手を振るだけのわたしに何が⋯⋯!」
「名ばかりでもなんでも、あなたにはその地位があるんでしょう? なら、その名ばかりの地位を利用すればいい。できないことは、できるように頑張ればいい。村が飢えそうな時に、自分には何もできないからと家に閉じこもる村長さんなんていないでしょう? 聖女という地位のあるあなたにしかできない事があるならやるべきです。それに、そもそもあなただって色々できるじゃないですか」
「色々⋯⋯?」
アリソンは思い出す。大聖堂で絵画の名前が分からず苦戦していた時、声をかけてきた遠慮がちなシスターのことを。まさに今、縮こまっている聖女があのシスターだなんて、あの時の自分に言ったら信じるだろうか。
「大聖堂の絵を案内してくれたでしょう。とても分かりやすくて、助かりました」
「そ、そんなの、誰でも⋯⋯」
「子供たちが近くに並んでいると、すぐに後ろにずれましたよね。そういうことをしない大人だっていたのに、あなたは一番前に陣取ろうとはしなかった」
「ふ、普通ですよ⋯⋯そんなの」
「それに、ルークの腕を治して、彼を逃したんでしょう? 何もできない人、何も変えたくない人、このままでいいと思って、大司教に心から従うような人はそんなことしないです」
アリソンの言葉に、ヒナコの目にはっと光が宿る。
弱々しい光だ。この後、罵声でも浴びせてやれば消え失せてしまうような。それを消さないように言葉を探して、アリソンは彼女の目を見つめる。
「⋯⋯アリソンの言う通りだぜ、ヒナコ」
アリソンが正しい言葉を見つけるよりも早く、口を開いたルークがそう言ってヒナコの手を取る。
「アンタってば、自信なさすぎだぜ。謙虚も過ぎると卑屈、って言うだろ?」
「ご、ごめんなさ⋯⋯」
「だからそういうところだって。あのなぁ、あの子供好きの変態クソジジイが作った箱庭で、俺に心を砕いてくれた人間はアンタだけだったんだぜ」
「⋯⋯」
「それに、キッドのことだってある。アイツから聞いたよ、迎えに来たシスターのお姉さんが逃がそうとしてくれたけど、その前にジジイに捕まったって」
「えっ、そうなんですか?」
「おう。さっき目を覚ましてな、自分を逃がそうとしたせいで、『シスターのお姉ちゃん』が殺されるんじゃないかって、心配してたぜ」
初耳の情報に思わず口を挟むと、ルークは明るく笑ってそう答える。
「なあ、アリソン。大司教を殺すって、本気か?」
「⋯⋯本気だよ。私は、大司教を殺して、ヒナコがちゃんと聖都で一番偉い人になればいいと思ってる。そうして、償いのために、聖都の在り方を変えてくれたらいいなって」
エリザベスは言った。生まれつき魔力の多い人間の心臓で、家族は生き返るのだと。
そして、聖都全体に自分の姪を聖女だと思い込ませるような魔術をかけられる大司教はその、「生まれつき多くの魔力を持つ人間」だ。
もしヒナコがこの取引を断るなら、その時は本当に──本当にルークには申し訳ないけれど、ヒナコの心臓でまかなうことになるだろう。だけどもし、彼女が取引を呑んだなら。勇者を裏切り、大司教を殺すことを選んでくれたら、その時は。
「甘いわね、あなた」
ヒナコの返答を待つアリソンに被せられたのは、ラズの冷や水のような声だった。
「やけに盛り上がってるところ悪いけど、あたしはアンタと違って慈善精神には溢れてないの。大司教が悪人だろうが、聖都がどうなろうが関係ない。それよりも聖女が生きていることの方が問題よ。聖女が生きている限り、レインナートを殺せない可能性はある。それを無視するわけにはいかない」
「そのために裏切ってもらうんですよ。裏切って、傷を治さないように──」
「裏切るって、具体的にどうやって? まさか契約書でも書かせるんじゃないでしょうね──『私は金輪際、勇者の傷を治しません』って? 馬鹿馬鹿しい」
「うっ⋯⋯」
「か、書きましゅ⋯⋯!」
言葉に詰まったアリソンを救ったのは、ヒナコのひっくり返ったような声だった。舌を噛んだのか、語尾がおかしくなったことに顔を赤くしながらも、視線を集めた彼女は光を宿した目で言う。
「か、書きます。ただの契約書じゃ安心できないなら、魔術契約を交わしますっ!」
「⋯⋯魔術契約?」
「アンタ、知らねーのか? ここ数年でよく出回ってるやつだよ、契約書に魔術をかけておくことで、契約の効果を高めるんだ。例えば、あー⋯⋯『俺は金輪際、アンタの奥さんに手は出しません。手を出したら足が折れます』って書いて、双方同意の上でサインすると、その文面に書いてあることが起きる⋯⋯つまり、奥さんに手を出したら足が折れるのさ」
「なんなの、その例え⋯⋯でも、原理は分かったわ。なるほどね、最近はそんな物まであるの」
納得したように呟くラズに、彼女にも知らないことがあるなんて珍しいなと思っていると、目が合った。相変わらず鋭い視線に、悪戯がバレた子供のようにたじろいでしまう。
「な、なんですか?」
「⋯⋯アンタ、魔術契約のこと知った上で、この提案をしたの?」
「え? ええっと、まあ、はい。そうですよ?」
本当はそんなものがあるなんて、たった今知ったのだが。肯定しておかないとまずい気がして、アリソンはコクコクとなるべく真面目そうな顔を作って頷く。
ラズは嘘に敏い。すぐにバレてしまうのでは──そう思っていたのが、思っていた追求の手がくることはなく、彼女はただ感情の見えない目で「そう」とだけ呟いた。
「つまり、殺さない上に贖罪の機会まで与えるつもりなのね」
「えっと⋯⋯この場合、そうなるんでしょうか?」
「あたしは反対よ。さっさと聖女を殺した方が早いし、契約なんて交わすよりも死人の方がよっぽど信頼できる。そもそも、あたし達に大司教を殺すメリットもないのに、そんなことまでしてあげる義理はあいにくないでしょ」
確かに、これはラズにだけメリットの薄い話だ。
ヒナコにとっては言うまでもなく、ルークにとっては、ヒナコが死なずに済んで、さらに子供達が大司教に二度と襲われることもなくなり、そしてアリソンにとっては、生まれつき多くの魔力を持つ大司教の心臓を手に入れられる。
けれど、愛する人イグニスが生き返るわけでもないラズにとっては、大司教の心臓なぞ無用のものだし、そんな遠回りをするよりもヒナコを殺した方が早いと考えるのも当然だろう。
「というかあなた、聖女を殺さなくて済む理由を探してるだけじゃないの? なんだかんだ言って、結局殺したくないだけでしょう。情でも移った、いえ、同情してるのかしら」
「そんなこと⋯⋯」
そんなことない、と果たして言い切れるのだろうか。
殺さずに済むのなら、他の悪人の心臓で代替できるのならそうしたいと思ってしまった時点で、言い訳ができないほどラズの言う通りである気がする。
「殺したくない、って思うのは人として当然の感情だけど。それでも、復讐を完遂するつもりなら、優先順位を間違えるんじゃないわよ」
ラズの言葉は、アリソンに矢のように突き刺さった。
優先順位──そんなもの、家族を生き返らせることが一番大事に決まっている。ならば、そのために最善な、最速の手を打つべきだ。だけど。
ヒナコと、そんな彼女を庇うルークを見ていると、自分がどうすべきなのか分からなくなってしまう。
哀れみだとか同情だとか、そんなもので消せる炎ではないのに。
「わからないんです⋯⋯」
逡巡の末、アリソンの口から出たのは、迷子の子供のような途方に暮れた声だった。
「彼女が大変だったんだろうなって思う気持ちはあって、多分、可哀想なのかなとも思って。でも、私の家族が殺された時に何もしてくれなかったこととか、そんなすごい力を持ってるんだから、もしあの時助けてくれてたら、もしかしたらみんな、イグニスさんだって生きてたかもって思う気持ちもあって。だから許せなくて、許したくない、それは確かな気持ちで⋯⋯でも、彼女も誰かの、ルーク君の大事な人なんだって、そう考えたらなんだか、」
「⋯⋯分からなくなった?」
「はい⋯⋯」
「⋯⋯そう。分かったわ、無理しないで」
まるで親鳥が雛鳥に対するような優しい目で、彼女はそう言う。
つられてアリソンが完全に気を抜いたその瞬間、ラズは剣を抜き、迷うことなく切先を聖女とルークに向けた。
「ッラズさん⋯⋯!?」
「あなたは何もしなくていいわ。イグニスもあなたの家族も、きっとあなたに復讐なんて血に塗れたこと、望んでなんかいないんだから」
突き放すような、あるいは諭すように言ってくるラズに絶句する。
イグニスが望まない。家族が望まない。そんなことを言ったら。
「そ、そんなこと言ったら、ラズさんだって同じじゃないですか! イグニスさんが、ラズさんに復讐しろって言うようには思えません! 少なくとも私に託された伝言は、そんなことじゃ⋯⋯」
「知ってるわよ、そんなこと」
ヒナコを後ろに庇ったルークと睨み合ったまま、ラズはアリソンを振り返ることなく答えた。まるで最初から決まりきっている事実を告げるような口調は、彼女が既に同じ問いを自分に幾度となく投げつけてきたことを思わせる。
「あたしは、イグニスのために復讐するんじゃない。あたし自身のためにするのよ」
ラズに横目で一瞥される。聖女に剣を向けて以来、初めて視線が合った。その目に迷いはない。
「あなたは? あなたは何のために復讐を志したの? 家族のため? それならあたしが言ってあげる。あなたの家族は、あなたを大事に思う家族はきっとあなたが人を殺すのを望まない。殺すのが怖いなら、殺せないなら、そのまま手を汚さずに生きて行っていい。誰も責めたりなんかしないわ」
それは違う、とアリソンは言いかけて口を閉ざす。アリソンは家族のために勇者を殺したいわけじゃない。家族を生き返らせるために殺したいのだ。
だけど、それをラズに伝えることはできない。エリザベスは言った、自分に死者復活の手段があることを3人以上に知られてはならないと。そしてアリソンはその3人目である、とも。ラズに伝えてしまえば、その瞬間にエリザベスは呪いで水となって消えてしまう。
言ってはならない、でも、それ以外にラズに言い返せる言葉が見つからない。
だってアリソンの知る家族やイグニスは、きっと彼女の言う通り、アリソンが人を殺めることを望まない。それぐらいなら生き返らなくたっていいとすら言われてしまいそうだ。
でもアリソンはそんなの嫌だった。手を汚してでも、家族を貫いた剣を取ってでも、取り戻したい時間がある。
それなのに、わずかでも聖女を殺したくないと思ってしまった。大司教の心臓で代用してしまおうと、そう思って、そう口にしてしまった自分がいる。
なんてひどい矛盾だろう。
動けないでいるアリソンをそれ以上構うことなく、ラズはルークに向き直ると、彼を冷ややかな眼差しで見下ろす。
「最後の忠告よ。そこを退きなさい」
対するルークも、一歩も引かず、動じることなく彼女を見上げて笑うが、その笑みが強がりであることは額に浮かんだ汗を見れば明らかだ。
「ハッ、それは聞けねえなぁ。アンタも分かってんだろ、俺はコイツを守りに来たんでね」
「そう。なら、アンタもここで死ぬことになるわね」
「そりゃ、悪くねえ死に方だ──なッ!」
刹那、ルークはヒナコを後方に突き飛ばし、懐に隠し持っていた短剣でラズの剣を弾く。そのまま数手を凌ぐが、彼は明らかに防戦一方だ。
庇う対象のいないラズと違い、聖女を庇っているのに加えて、短剣はルークの最も得意とする武器ではなかった。初めて会った時、高所から弓矢でゴロツキの胸を射抜いた彼の姿をアリソンは思い出す。ルークは弓使いだ。決してラズのように、近接戦に優れた剣士ではない。
このままでいいのか?
形はどうあれ、ヒナコが死にさえすればその心臓は手に入る。けれど、自分ができないからって、汚れ仕事だけ他人にやらせて、美味しいところだけもらうなんてそんなズルは、人としてどうなのか。そもそも、自分はヒナコに取引を持ちかけたのではなかったか。
迷っている間にも、状況は進んでいる。ラズに短剣を弾き飛ばされたルークが倒れ、その胸をラズの足が容赦無く踏みつける。息苦しさに喘ぐ彼と、顔を真っ青にし、声も出せないでいる聖女。
迷ったまま、決められないまま、それでもアリソンが一歩踏み出したその時。
「おやおや、今日は賑やかですねえ」
緊迫した場にそぐわない、穏やかな男性の声が響き渡った。
振り返る。
裏庭の入り口に、人の良さそうな顔をした初老の男性が立っていた。教会の礼服を身に纏っているところから、少なくとも神父であることが窺える。身につけた装飾品の数から、おそらくそれ以上の高位の職だと察せられたが。
いつの間に、いや、いつからそこにいたのだろう。全く気配に気づかなかった。動揺するアリソンはラズを見やる。彼女もポーカーフェイスを保ってはいるが、心なしか動揺しているように見える。
自分はともかく、彼女まで気配に気づかなかったのだとしたら、この男性は只者ではない。その事実に鳥肌が立つ。
「どうです、お茶でも──なんて、冗談はよしましょう。どうせあなた達は断るのでしょうしね」
温厚そうな男は、にこにこと微笑みながら告げる。だが、アリソンは愕然とする。
──隙がない。
男はただ、その場に立っているだけだ。それなのに、ほんの一分の隙もない。
「ハッ⋯⋯今日は厄日かよ。参ったな、二度とそのツラ拝みたくなかったってのによ」
ラズに踏みつけられたまま、ルークは男の名を呼ぶ。
「──久しぶりだな。イカれ外道の、タンブルウィード大司教サマ?」
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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