表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
村娘Aが勇者を殺すまで  作者: 藤森ルウ
第2章 聖都編
18/69

幕間 ニイナヒナコの物語(後)



 勇者パーティへの参加を断るため、わたしがまずしたのは大司教様に取り入ることだった。

 召喚されたのが勇者の意見が通りやすい王都ではなく、教会の勢力が支配する聖都であったこと、そして大司教様がレインナート様のスポンサー的存在であったおかげで、わたしはすんなりと聖都に留まることを許されたのだ。

 聖都では、わたしは大変ありがたられた。こんなわたしなんかを。毎日よく分からない書類にハンコを押して、決まった時間にバルコニーから手を振って、他の人には治せないような怪我をした人を治すだけでいい。誰かの入浴の手伝いもしなくていいし、誰かの尻を拭かなくてもいい。怒鳴られることも泣かれることも我慢することもない、穏やかな毎日。

 そのうち、ハンコを押す必要すら無くなった。

 

「この聖都は、あなたの都ですよ」


 大司教様はそう言って笑う。ここで一番偉いのはあなたですよと。その辺の交番にいる人のいいおじさん、に威厳を足したような顔をした大司教様は、わたしの後見人になってくれた。もっと仕事を覚えて役に立ちたいと言うと、「難しいことは私がやりますから、あなたは何もしなくていいんですよ」と、困った顔で言われたのが少し寂しかったけれど、下手に勝手に動いて怒られるのも怖かったから、言われた通りにしていた。わたしには聖都の経営も何もできないから、ただバルコニーから手を振るのが主なお仕事なのだ。

 教会の人たちはみんな優しい。わたしと目が合うといつもニコニコ笑って、挨拶してくれる。突然この世界に来た右も左も分からないわたしを叱らないでくれる。必要としてくれる。


「聖女と言っても、所詮は何処の馬の骨ともしれない小娘だ」

「後ろ盾のない孤児と何ら変わらない」

「容易く言うことを聞かせられる、お飾りの人形」


 ──そんなことは分かっていた。

 例えそうだとしても、彼らはわたしを怒鳴ることも殴ることもなかったし、わたしに無関心な顔をすることもなかった。それに、毎日美味しいご飯とふかふかの布団がわたしのために用意されている。14年間生きてきた中で、こんな風にお世話をされる側に回ったことなんて一度もないのに、不満なんてあるわけがない。

 陰口なんて実害のないものは、聞かなかったふりをしておけばいい。むしろ、元の世界にいた時の生活と比べたら、楽なぐらいだ。


 それにしたってあんまりに毎日が暇なので、わたしは許可をもらって、裏庭の花壇の世話をし始めた。誰も世話をしていなくて、そのうちジャングルになってしまうのではないかと思ったのだ。

 雑草を抜いて、花の種を植えて。花を育てるのなんて初めてで、最初は芽の一つも出なくてがっかりしたけれど、根気よく繰り返し世話をしているうちに、たくさん植えた種のうちひとつが芽を出した。


「それ、何?」


 急に話しかけられて、びっくりして振り返る。後ろにいたのは、先日大司教様がスラムから引き取ったという、癒し手の少年だった。そばかすは別に珍しくないけれど、燃えるような赤い髪はこの世界でも目を惹く色だ。


「わ、分からない⋯⋯」

「は? アンタが育ててんじゃねーの?」

「も、もらった種だから⋯⋯花が咲くまで、何になるのか分からなくて」

「ふうん⋯⋯」


 わたしの隣にしゃがみ込んだ少年は、頬杖をついて花壇を見つめる。重力に従って落ちた袖の隙間から、火傷の跡が見えた。

 痛そうだなぁ。火傷って、なかなか治らないもんな。脳内に蘇りかけたあれやそれを放り出し、「それ治そうか?」とわたしは聞く。


「なにを?」

「えっと、その火傷。痛いよね?」

「あー⋯⋯いや、いい。これ、傷を治す練習だから」

「練習?」

「俺、癒し手だから」


 それは知ってるけど。癒し手って、そんな過激な練習をするものなの?

 躊躇なく自分の手を切り裂いたレインナート様のことを思い出す。あの時はびっくりしたけど、この世界ではそれが普通なのかもしれない。この世界に来てだいぶ経つというのに、この世界の常識というものがいまだによく分からないままだ。

 例えば今、つまらなそうに、けれどわたしの隣を離れる気配もない少年に何を言えばいいのかも分からない。退屈ならどこか別のところへ出かければいいのに。そう思って、そういえば、この子もまた陰口を叩かれていたことを思い出した。

 確か、「最近やって来た子供は大司教様に媚びている」と。そんな風に、ひそひそと言葉を交わす若い修道士を見たことがある。

 この世界でも、媚びているというのはあまりいい意味の言葉じゃない。媚びることの何がいけないのか知らないけれど。


「⋯⋯可哀想だね」

「は?」


 ぽつりと零した言葉に、子供が弾かれたように顔を上げる。顔を真っ赤にして、目を吊り上げてわたしを睨んでくる。


「何様だよ、アンタ」


 戸惑うわたしに、そう吐き捨てて子供は去っていく。

 どうしてあの子が怒ったのかは分からないけど、今追いかけて謝っても余計に怒らせるだけだということだけは分かる。だてに何年も家族の顔色を伺ってきたわけじゃないから。


 ──可哀想、って言われるの、そんなに嫌だったのかな。


 頬杖をついて、考える。

 自分で歩けなくて可哀想なお兄ちゃん。心の病気で、怒ったり泣いたりしてしまう可哀想なお母さん。お母さんとお兄ちゃんを見ていられなくて家に帰れない可哀想なお父さん。

 あの家で、きっとわたしだけが可哀想じゃなくて、だからわたしだけが色々我慢して、色々頑張らなくちゃいけなかった。


『君のお兄さんより、君はずっと可哀想だったんだよ』


 あの日、レインナート様がわたしを可哀想だと言ってくれたこと。

 それがあるから、例え彼がわたしをチャームで思うままに操ろうとしていた怖い人だと知ってもなお、心のどこかで憎めない。

 でも、あの赤い髪の少年は違うのだろう。わたしと違って、彼は「可哀想」になりたくなかったみたいだ。


「難しいなぁ⋯⋯」


 なんでわたし、何もかもが上手くいかないんだろう。

 ちょっぴり悲しくなって、その日は久しぶりに少しだけ泣いた。



◇◆◇ 



 そんな風に、溶け込めないながらも必死で生活しているうちに、聖都に来て半年が経っていた。


 相変わらず眠りが浅いわたしは、真夜中にひっそりと大聖堂の敷地内を散歩するのが習慣になっていた。人で賑わう穏やかな昼間もいいけれど、誰もいない夜中の教会もまたいいものだ。しんと静まり返った空気の中、お月見をしていたわたしはうっかり、大司教様の部屋の近くまで来ていた。

 いけない、この辺は夜に来たら駄目だと言われていたのに。

 駄目だと言われると気になってしまうのは、人間の本能なのか。だけどそんな勇気はないから踵を返そうとした時、ふいにバタンと大司教様の部屋のドアが開いて、麻袋に入った何かが外に放り出された。


「片付けておけ」

「はい」


 部屋の側に控えていた修道士が、手慣れたように放り出されたものを担ぎ上げる。見てはいけないものを見てしまった気がして、柱の影でわたしは息を潜める。

 修道士が麻袋を担いで向かった先は、ゴミ処理場の方向だ。ゴミ処理場といっても、元の世界のように焼却したりするわけではなく、本当にゴミが溜められているだけで、時々スラムの人たちがまだ使えるものがあるかどうか、ゴミを漁りに来ることもある──らしい。大聖堂から出たことのないわたしは見たことのない話だ。

 修道士が麻袋を、ゴミの山にぽいと投げ、来た道を戻っていく。つい気になって後をついて来てしまったけれど、気づかれていないようでホッとする。どうせここまで来てしまったのだし、と余計な好奇心からわたしはゴミの山に近づく。あまりの臭いに鼻をつまんで、麻袋を開ける。開けなければよかったのに。


「ひっ⋯⋯!?」


 こんなにも咄嗟に声を抑えられるなんて、産まれて初めて自分を褒めたくなった。


 ごろごろ、ごとん。

 麻袋から出て来たのは、血だらけの子供の死体だった。

 性別は分からない。裸の身体には血と鬱血痕と、鞭で叩かれたような跡がたくさんあった。顔は涙とか鼻水でひどいことになってる上に白目を剥いているのに、口は気持ち悪いほど吊り上がったまま硬直していて。

 口元を覆う両手がぶるぶる震える。喉にせり上がってくるものを抑えきれない。


「⋯⋯ッぅ、おえっ」


 人の顔を見て吐くなんて、礼儀のなってない子ね──

 そんな幻聴が、聞こえた気がした。



 大司教様は、夜な夜な部屋に子供を連れ込み、暴行しては殺している。

 分かってから見れば、確かに、大司教様の膝下の孤児院ではたびたび子供がいなくなっていた。それでもただの「行方不明」で誰も探そうとしないのを見るに、孤児院が大司教様の行いを容認しているのは明らかだ。

 それを知っても、わたしには何もできない。バルコニーで手を振り、たまに誰かの怪我を治すだけのお人形にそんなもの、期待しないで欲しい。誰かに助けて欲しいのはわたしだっておんなじなのに。

 お兄ちゃんやお母さんの機嫌を悪くしないようにビクビクしていた頃と同じように、大司教様の傍では息を潜めていれば、わたしまで殺されることはないことは分かっていた。だから今まで通り、いや、それ以上に大司教様の陰で大人しくしているようになった。そのことに、大司教様が満足気なことが手にとるように分かる自分が、日に日に嫌になっていく。


 それにしても、大司教様と親しいお客さんと時々食事をする以外、本当に大してすることがないので、わたしは以前にも増して裏庭にこもるようになった。裏でなんて言われてるかなんて、考えたくない。

 肥料がいいのか、あれから花はすくすく育ち、今では花壇いっぱいに花が咲き乱れていた。眼前で揺れる紫色の花に、少しは達成感を感じてもいいのだろうか。


「⋯⋯へえ、咲いたんだな」


 くぐもった少年の声に振り返る。声変わり中なのか、前に会った時と声が少し違う。

 あれからも廊下や、噴水のある中庭なんかで彼を見かけることはあったけれど、その度に目を逸らされるだけだった。それなのに、まさか話しかけてくるなんて。

 隣にしゃがみ込んだ彼は、頬に貼られた真新しいガーゼがある以外は以前とさほど変わらなく見える。もう怒ってないのかな。気になるけれど聞いたら怒られそうで、わたしは「うん」とだけ相槌を打った。


「ふうん。じゃあこっちは?」

「え、カンパニュラ⋯⋯かな」

「そっちの白いやつは?」

「それはラズベリーだよ」

「へえ、こんな花が咲くんだな」


 退屈そうだった前回と違って、興味のありそうな顔で彼は花びらに触れる。その指先にすら包帯が巻かれていた。


「おねーさん、聖女様なんだって? この前は悪かったな」


 へらりと笑みを浮かべた彼に、「あ、媚びてる」と一瞬で分かった。

 なんだ、そうか。だからわたしに話しかけて来たのか。何を期待していたんだろう。一気に落胆が胸に押し寄せる。こういう気持ちになるから、媚びることは悪いことだと言われるのかもしれない。


「わたし、お飾りだからそんなに気を使わなくていいよ」


 気が付けば、そんなことを口走っていた。


「わたしに何言っても、あなたが怒られるようなことにはならないよ」


 だから大丈夫だよ、なんて。何が大丈夫なんだ。彼の頬の、指先の、額の、目には見えない服の下にあるであろう傷が、そんな言葉で治るわけじゃあるまいし。

 だけど、なんとなく、彼にはヘラヘラ笑って欲しくなかった。わたしみたいにならないで欲しかった。

 それが、何もできないわたしの、せめてもの良心だったなんて言わない。どちらかと言えば、癇癪を起こしたお兄ちゃんの無茶振りに近い。ただのエゴだ。

 目を見開いた彼は、少し考える素振りをしたあと、ふっと目を伏せた。


「⋯⋯それ、自分で言う奴がいるか?」

「ご、ごめんなさい」

「いや、別に謝って欲しいわけじゃなくて⋯⋯おねーさん、名前は?」

「え?」

「聖女様にだって名前があるんだろ」


 歩み寄ろうとしてくれている、のだろうか。

 結局、年下にすら気を使われていることは変わらないような。まあでも、わたしなんかに年上らしいことなんて出来るわけがないのだから、それも仕方がない。


「⋯⋯新名。ニーナだよ。あなたは?」

「俺はルーク。よろしくな、ニーナ様」

「さ、さまはいらないよ! 落ち着かないよ!」

「ははっ、変なの」


 ようやく子供らしい笑みを浮かべた彼に、ここ1年で一番ホッとしたわたしは知らない。2階の窓から大司教様が、裏庭でおしゃべりするわたし達を、冷たい目で見下ろしていたことを。

 


◇◆◇ 



 あんなことがあってからも、わたしは懲りずに夜中の散歩を続けていた。散歩の最後には裏庭に行くことで、ついでに花の様子を見るのが日課になったのだ。

 そして、昼間は昼間で前よりも楽しい。ルークがよく裏庭に来てくれるからだ。彼は意外と花が好きみたいだった──主に食用だけれど。咲いたばかりのラズベリーの花を口に放り込もうとしているのを見た時は、開いた口が塞がらなかった。スラム出身なのは彼から聞いて知っていたけど、衣食住が保証されている今はそこまでがめついことをしなくてもいいんじゃないだろうか。


 そんなこんなで、ぬるま湯のような日々を送っていたから、少し安心しすぎていたのかもしれない。

 思えば、その日は珍しく裏庭にルークが来なかったし、廊下ですれ違った時に声をかけると、歯切れの悪い返事をしていた。有り体に言えば、わたしを避けていた。

 それなのに、わたしはその理由までは深く考えず、嫌われたんだと勝手に思い込んで、それ以上考えることを放棄した。


 そのツケが今、回ってきている。


 真夜中のゴミ処理場。麻袋から転がり出て来たのは、見慣れた赤い頭。だけど顔は誰だか分からないぐらい腫れていて、右肩から先はあるはずの右腕が無かった。


「やはり、あなたでしたか」


 背後から響く足音。人のいいおじさん、に威厳を足した顔の初老の男。大司教様。

 いつも浮かべられている笑顔がそこにあるだけなのに、シチュエーションが違うだけでこんなにも怖いものなんだな、なんて頭の片隅で思う。ニコニコしたまま近づいてくる大司教様の服は、血まみれだ。

 誰の血かなんて、それが分からないほど頭が空っぽなわけじゃない。だからこそ、わたしの両手は、両足は震える。


「おかしいと思っていたんですよね。ゴミ処理場から死体が消えるなんて。こんなに早く腐敗するはずがありませんし」

「だ、だいしきょ、大司教様、」

「あなたは賢い子だ。自分がしていいことと、してはいけないことの区別がよく分かっている。でも、今回は近づきすぎましたね」


 へたりとその場に崩れたわたしを、大司教様が見下ろす。月の光を背後から受けた大司教様の巨大な影がわたしを飲み込む。まるで怪物みたいに。


「私はね、自分のお気に入りには誰にも触れて欲しくないタチなんですよ。他人に気安く触れて欲しくないコレクション、誰しもあるものでしょう?」


 そんなもの分からない、と思いかけて、お兄ちゃんがわたしの下着を持っていた日のことをなぜか思い出す。

 ああいう気分のことを言ってるのかもしれない。それなら分かる。分かるものは怖くない。そのはずだけど、恐怖は一向に消えない。


「でも、あなたは触れてしまった」


 つい、と大司教様がわたしの背後のゴミの山を指さす。違う、指差しているのはルークのことだ。


「汚れてしまった物は、始末するしかありません。仕方がありませんね。丈夫で遊びやすかったのですが」


 そこまで言われて、ようやく理解した。

 大司教様は目撃者たるわたしを殺しに来たわけじゃない。彼は警告しているのだ。次もまた、自分のコレクションに、自分の所有物に近づくような真似をしたら殺すと。

 わたしが理解したことを、視線から読み取ったのだろう。一層笑みを深くした大司教様は、大きな手をわたしの頭に伸ばし、ぽんぽんと、残酷なまでに優しく撫でる。


「いい子ですね。賢い子は好きですよ、自分の命を大事にする子も。──これまで通り、『いい子』でいてくださいね」


 大人の言う「いい子」は、「言うことを聞く都合のいい子」だ。

 これまで通り、捨てる前のコレクション、つまり生きている子供には近づくなと。これはそういう意味だ。

 コツコツと去っていく大司教様の背中を、呆然と見送る。見送りかけて、我に返る。


「ッルーク⋯⋯!」


 彼の目はわたしを見つめ返さない。だけど分かる。()()()()()()()

 薄い胸が、微かに上下しているのをわたしは見逃さなかった。大司教様は見逃していたのか、あるいは、この傷、この出血量では死ぬに違いないと放置したのか。

 前の世界だったら、救急車が来るのを待っている間に死んだだろう。そういう傷だ。素人目に見ても、あと数分で彼は息絶える。大司教様の判断は間違っていない。

 だけど、わたしなら。

 聖女である、わたしの治癒力なら。


「お願い、治って⋯⋯! 治癒(ヒール)⋯⋯!」


 組んだ両手から白い光が放たれる。手を額につけて、わたしは祈った。全身の魔力が、一番出血の酷いルークの右肩に集中するのを感じる。

 わたしがしていることに、大司教様は気がつくだろう。真夜中にこんな治癒の光があったら、誰でも分かる。

 だけど、わたしは間違ってないはずだった。今にも死にそうな可哀想な人が目の前にいて、それを自分なら助けられると知っているのに助けない人はいない。

 お兄ちゃんが事故に遭ったのがわたしのせいだと言うのは嘘だった。だけど、ルークは違う。ルークが死にそうなのは、こんなにも可哀想な目に遭っているのはわたしのせいだ。わたしなんかと仲良くしているところを大司教様に見られたから、だから彼は。

 バーベナ、カンパニュラ、ラズベリー。お願い、ルークを助けて。わたしを助けて。


治癒(ヒール)治癒(ヒール)治癒(ヒール)⋯⋯!!」


 顔の腫れがひく。血の気が戻る。目に光が宿る。焦点が合う。そして。


「かはっ⋯⋯に、ぃな⋯⋯? おれ、なんで生きて⋯⋯」


 ──右腕が生える。



◇◆◇



 新しく右腕の生えたルークを見て、大司教様は怒るどころか喜んだ。これからは思う存分いたぶってもいいんだ笑うあの人に、背筋がゾッとしたことを今でも覚えている。

 このままじゃ、ルークが殺される。そう思ったわたしは、大司教様の目を盗んで、ルークに大聖堂の隠し通路の場所を教えた。

 灯台下暗し──まさか自分の執務室から逃げ出されるとは思わなかっただろう。大司教様はひどく怒って、狂ったようにわたしを鞭で叩いたけれど、怒りのままにわたしを殺すことはできなかった。

 わたしが密かに、レインナート様と連絡をとっていたからだ。


「やあ。迎えに来たよ、ニーナ」


 初めて会った時から変わらない、太陽のような笑顔。その手を取って、わたしは聖都を飛び出した。

 一度は怖いと思った人。けれど、聖都の権力を思いのままにする大司教様に対抗できる人なんて、わたしには勇者であるレインナート様以外どうしても思いつかなかった。

 それにレインナート様なら、魅了(チャーム)でわたしをどうにかしようとしたとしても、殺したりはしないはずだと思った。少なくとも、子供を痛めつけたり、殺したりして楽しむ大司教様よりは話の通じる人のはずだ。

 そう思っていたのに。


 

 久しぶりに訪れた聖都で、魔人討伐の成功を祝われるレインナート様たちを横目に、わたしは魔人と遭遇した時のことを思い出していた。

 魔人というのは人間を襲い、喰らう恐ろしい化け物だとばかり聞かされていたけれど、実際に目にした魔人は、人間とそう変わらない見た目の持ち主だった。

 それよりも、わたしが恐ろしいと思ったのは、魔人よりも勇者であるレインナート様の行動だ。

 彼は魔人を楽に死なせないためだと言って、わざと聖剣フォルティスではなく、普通の剣で、捕らえた魔人をいたぶった。魔人は誰もが再生能力を持っているらしく、レインナート様はそれを「おあつらえ向きだな」と笑う。嫌な予感がしたわたしと反対に、セネカさんはやたらと乗り気そうにしている。最初に会った時からセネカさんには理由は分からないけれど嫌われていて、わたしが何をしてもそれは変わることがなかったけれど、本当に気が合わないんだなぁ、とはっきり分かったのはこの時からだ。


 気まぐれにわたしを詰っては暴力を振るうセネカさんは、それ以上にひどいことをレインナート様と一緒に、魔人の体で試した。

 イグニスというらしいその魔人の腕が千切れては再生し、贓物を抉られては再生する。その様を高笑いしながら見物するような気になれないのは、わたしがこの世界の人間ではないからなのかな。この世界の人間なら、人間と似たような姿をしたこの魔人を化け物と呼んで唾を吐き、手足をもぐことが正しいと思えたのだろうか。


 ゆっくりと目を開く。ここはもうドルフ村という星の綺麗な田舎ではなく、半年間暮らしていた聖都の大広間だ。けれどわたしの目には焼き付いている。競うように魔人を痛めつける二人の姿と、肉片と血で埋め尽くされた部屋の中で灰色の髪をだらりと垂らした女の子を、ゴミみたいに地面に落としたレインナート様の姿が。

 魔人をわざといたぶって殺そうとするところも、魔人の味方をしたらしいというだけで人を躊躇なく殺すところも、わたしには英雄のすることではなく、狂人のすることとしか思えなかった。

 どうしてこの人なら話が通じると思えたんだろう。大司教様とレインナート様、どちらの方がより怖いかなんて、もう分からない。

 ただ一つわかるのは、大司教様が好んで殺すのは子供だけだけど、レインナート様は彼が殺すべきと判断さえしたら、誰でも殺してしまうということだけだ。


「久しぶりですね、ニーナ」

「⋯⋯大司教、さま」

「そんなに怯えないで下さい。仮にも勇者の仲間に、そう簡単に手出しはしませんよ」


 会場の隅で縮こまっていたわたしに、大司教様はゆったりとした笑みを浮かべる。いつだったかわたしはレインナート様のことをざらざらしている、と感じたけれど、大司教様は天井から押しつぶされるような威圧感を与えてくる人だ。じわじわと骨が軋むような感覚に、唇を噛む。


「ところでニーナ、聖都に戻ってくるつもりはありませんか?」

「え⋯⋯な、なにを言って⋯⋯」

「あなたの聖女の力があれば、私はそれだけ長くひとつの『おもちゃ』で遊べる。あなたも多くの子供が死ぬのを見ずに済む。聖女としての責務が嫌なら、ただのシスターとして教会に来ればいい。どうです、悪くないと思いますが」


 そんなわけない、とは言えなかった。

 大司教様は今も子供を気まぐれに殺しているのだろう。レインナート様のことは止められないけれど、大司教様の言う通り、わたしが子供たちの傷を治せば、彼ら彼女らが死ぬことはない。大司教様の殺戮は、止められるのだ。

 あの日、麻袋からルークが出て来た時のことを思い出す。彼は今どうしているだろう。彼を逃した時にほんの少し言葉を交わしたのが最後になってしまった。


「それに、あなたは勇者たちに馴染めていないようです。無理をしているのではないですか?」


 ──大司教様は、人の弱いところを見つけるのが上手い。

 せめてもの抵抗で「考えておきます」と答えたけれど、その時にはもう、わたしの答えは決まっていたように思う。わたしはレインナート様の狂気から逃げて、再び大司教様の手の中に戻った。

 聖女の座を大司教様の姪だという少女に取られ、ただのシスター・ナナとなったことはむしろわたしの肩を軽くした。

 昼間は新入りのシスターとして掃除や雑用の下働きをこなし、夜は子供の傷を治し、大司教様の顔色を伺って。叱責されることも多かったけれど、そんなことはお兄ちゃんやセネカさんからの扱いでとっくに慣れていた。怒られることも謝ることも、わたしにとっては日常でしかない。

 レインナート様か、大司教様か。いつも選択を誤っていたけれど、今度こそ正しい選択ができたはずだ。


 それが間違いだったと知るのは、数日後。

 灰色の髪の女の子が大聖堂に現れた時、わたしは自分が全部、最初から間違っていたのだと知った。

 レインナート様から逃げたくて聖都に残ったことも、大司教様に殺されたくなくて聖都から逃げたことも、それよりずっと前、この世界に来た時から、取り返しがつかないほど間違っていた。


 どうしてこうなったんだろう。裏庭に咲き誇る花たちを見ながら、わたしは思う。

 わたしはただ、わたしだって人並みに幸せになってみたかっただけなのに。幸せを知らないまま死にたくなかっただけなのに、どうして──



「わたしだって、幸せになりたかった! この世界でなら幸せになれるって、そう思っただけだったのに⋯⋯っ!」


 慣れ親しんだ甘い香りに満ちた裏庭に、わたしの情けない声がこだまする。

 ああ、言ってしまった。ずっと我慢できていたのに。だけど一度開いた口は止まらなくて、気づけばわたしは、この世界に来る前のことから、この世界に来た後のことまで洗いざらい吐き出した後だった。

 わたしを見下ろしている、灰色の髪の女の子が口を開く。

 その口から飛び出すのはきっと、糾弾の言葉だ。わたしのせいで大事な人たちを亡くした人間による、正当な断罪。お兄ちゃんやセネカさんと違って理不尽ではなく、正しい理由の上で振り下ろされる言葉は、きっと今度こそわたしを葬ってくれる。


 死ぬのは怖い。だけど、もういいと思った。罪を償う時が来たのだ。

 わたしはぎゅっと目を瞑り、彼女の言葉がわたしを貫く時を静かに待った。



最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

少し長くなりましたがニーナの過去回はこれで終わりです。次回からまた視点がアリソン側に戻るので、引き続きお付き合い頂けましたら幸いです。


次回更新日:4/11予定

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ