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村娘Aが勇者を殺すまで  作者: 藤森ルウ
第2章 聖都編
17/76

幕間 ニイナヒナコの物語(前)



「やあ、初めまして。君が聖女?」


 さっきまで目の前にあった横断歩道が消えて、気づけば漫画や小説の中に出てくる王子様みたいに綺麗な顔をした男の人が、わたしの手を取って微笑んでいた。

 オレンジ色の髪、緑色の優しげな目。握られた手に、自分の全てを預けてしまいたくなるような甘い誘惑。赤く染まった顔を隠したいのに、ひと時たりともこの人から目を逸らしたくない。瞬きさえも惜しいと思ってしまう。


「俺は、勇者レインナート・ローウェン。君の名前は?」


 つらつらと並べられた横文字は日本語のように聞こえるけれど、彼が喋っているのはきっと日本語じゃない。

 足元で淡く光を放つ魔法陣は、この世界がわたしが今まで14年間生きてきた世界ではないことの証明だった。


「わ、わたしは、にい⋯⋯」


 名前を言おうとした瞬間、頭に浮かんだのはCDショップのポスターのこと。わたしと同じ苗字なのに、全然違う人生、全然違う呼ばれ方をされていたキラキラ輝く笑顔の女の子。

 わたしもあんな風になりたい──そう思うと同時に、わたしは彼女の愛称を口にしていた。


「にいな⋯⋯ニーナ、です」


 新名日奈子は死んで、ここから新しい人生が始まる。

 自由と希望に満ち溢れていたこの頃のわたしはまだ知らない。この後に待ち受けている全ての過ち、悪夢のような罪と罰を。



◇◆◇



 世界は不公平で、不平等で、だから「可哀想」な人には、優しくしなくちゃいけない。

 物心ついた時から、それがこの世界のルールだと分かっていた。


「新名さん、これからみんなでカラオケ行くんだけど、良かったら来る?」

「ご、ごめんなさい。わたし、お兄ちゃんのお世話をしなくちゃいけないから⋯⋯」

「ふーん⋯⋯大変そうだね。それじゃ、また明日」

「ま、また明日⋯⋯」


 下駄箱で鉢合わせたクラスメートたちが、興味を失くして去っていく。通学鞄につけられた思い思いのストラップが可愛い。

 それとは対照的に、何もつけられていない鞄を持ってわたしは帰路を急ぐ。どうせ学校から数分なのだけど。


『家から近い方が便利でしょ。お兄ちゃんに何かあった時、あんたがいなきゃ困るんだから』


 そう言って中学校を決めたのは、お母さんだ。

 本当は小学校の頃の友達、佳奈ちゃんたちと同じ中学校に行きたかったけど、仕方がない。だって、お母さんの言っていることは正しい。お兄ちゃんは「可哀想」だから。友達と同じ中学校に行けないことがなんだ。そのぐらい、わたしが我慢すればいい。


「ただいま⋯⋯」

「遅えよ!」

「きゃっ⋯⋯ご、ごめんね、お兄ちゃん」


 投げつけられた辞書が肩に当たって痛い。だけど、ここで責めてはいけないのだ。お兄ちゃんは「可哀想」だから。


「ほら、さっさとメシ作れよ。あ、その前にトイレ行くの手伝えよな」

「う、うん⋯⋯待っててね、鞄置いたらすぐに、」

「鞄なんか後でいいだろ! 僕よりも大事な用事なのかよ!?」


 お兄ちゃんの怒鳴り声に、2階からお母さんが降りてくる。ああしまった、間違えた。顔を青ざめるわたしと、得意げに笑ったお兄ちゃんを見て、お母さんは「どうしたの?」と聞く。

 わたしが答えるよりも早く、お兄ちゃんは言う。


「コイツ、僕のトイレを手伝うのを嫌がったんだ!」

「まあ! 日奈子、あんたそんなこと言ったの!?」

「ち、ちが⋯⋯っ嫌がったんじゃなくて、鞄を先に置きたくて、」

「口答えしてんじゃないわよ!」


 バシン、と乾いた音と一緒に、失敗した写真みたいに視界がぶれる。


「いつも言ってるでしょ!? どうしてあんたって子は分からないの! お兄ちゃんは自分で歩けなくて『可哀想』なんだから、あんたが手伝ってあげないとダメでしょう!? あんたは自分で歩けるんだから! だいたいお兄ちゃんがこんな体になったのもあんたが原因なんだから!」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「全く、今ドラマがいいところだったのに⋯⋯次またこんなことで邪魔したら、こんなんじゃ済まないんだから!」


 最後にもう一度、わたしの頭をガツンと殴って、お母さんは2階に戻る。


「ほら、さっさと手伝えよ」

「うん⋯⋯」


 お兄ちゃんが車椅子でトイレに入って行くのを、わたしは慌てて後を追う。


 それは、わたしがうんと小さかった頃に起きた事故が原因だったらしい。車道に飛び出したわたしを追って事故に遭ったお兄ちゃんは、下半身を思うように動かす力を失ってしまった。お母さんはお兄ちゃんと小さかったわたしのお世話で「心の病気」になって、お父さんはそんなお母さんを見るのが辛くて家に寄り付かなくなって。

 だから、わたしが頑張らないといけない。

 学校から帰ったら、すぐにヘルパーさんと交代してお兄ちゃんのお世話をする。トイレやお風呂の介助、それから食事の準備。お兄ちゃんが寝た後は、自分で動けないお兄ちゃんに寝返りをうつさせるお手伝いもする。ずっと同じ体勢で寝ていると床ずれが起きてしまうからだ。

 放課後は寄り道もできないし、休日はヘルパーさんもいないからお兄ちゃんにつきっきりになる。そのせいもあってか、自然とクラスで深い付き合いの友達はいない。でもそんなことで悲しんでられない。お兄ちゃんはもっと大変なんだから。


 ベッドでお兄ちゃんを動かした後、お兄ちゃんのお古のケータイのタイマーをセットする。あんまりに古くてとうとう動画サイトが見れなくなったけど、それでもメモしたりタイマーしたり、基本的な検索はできるから問題ない。

 ベッド脇に座り込んで、わたしは今日の晩御飯の献立をメモする。うっかり同じものを作って怒られないようにするためだ。

 今日は、肉じゃがと卵焼きに、ほうれん草のおひたしだった。だけど、お母さんの好きな卵焼きを少し失敗して、怒られた。今日は甘い卵焼きの気分だったのに、私がいつもの塩の卵焼きを作ったせいだ。どうしてこんなことも分からないんだろう?

 1日の出来事を思い返すこの瞬間は、いつも落ち込んでしまう。でも、この後にはわたしの1日の楽しみがある。


「あ⋯⋯更新されてる!」


 お兄ちゃんを起こしてしまわないよう、小声でつぶやく。でも本当は飛び上がりたいほど嬉しい。

 わたしは最近、夜中にこっそりと、とある小説の投稿サイトを見るのを楽しみにしている。きっかけは隣の席の男子たちがそのサイトについて話しているのを聞いたからだけど、今では多分、わたしの方が彼らよりもこのサイトに詳しい。

 わたしが一番好きなのは、異世界ファンタジー小説だ。剣とか魔法とかで活躍するお話から、まったりしたスローライフまで色々なジャンルがあるけれど、その中でも特に、現代から異世界に転移したり、転生するお話が好きだった。現実では冴えない高校生だった主人公が、異世界でものすごい能力を手にして、色んな人から頼りにされる話なんて特に感情移入してしまう。この間なんて、とうとう夢の中で異世界に転生してしまった。


「いいなぁ⋯⋯」


 更新された最新話を読み終わり、わたしは余韻に浸って目を閉じる。

 お兄ちゃんに寝返りをうたせないといけないから、わたしの眠りはいつも浅い。いつかとんでもなく深く眠ることができたら、きっと良い夢をずっと見たままでいられるのに。怒られるのが怖い臆病なわたしは、いつだってタイマーが鳴るよりも早く、目を覚ましてしまうのだ。

 

 

◇◆◇

 


 綻びは案外、そう遠くないうちにやってきた。


「進路? 進学なんてしないに決まってるでしょ、お兄ちゃんがいるのにあんたどこに行く気なのよ」


 お母さんのその一言で、わたしの将来は決まった。

 お父さんも「母さんとお兄ちゃんを頼むぞ」と言ったし、お兄ちゃんも「当然だろ」と言った。わたしもそう思った。だって、わたし以外にお兄ちゃんのお世話をしたり、家のことができる人なんて、この家にはいないんだから。


 ──それなのに。


「私も、せめて高校には行くべきだと言ったんですよお。でもぉ、この子がどうしてもお兄ちゃんの面倒を見たいって言うのでえ」

「そうなんですか、本人がそう言ってるなら残念ですけど仕方ないですね。兄思いなんだなあ、新名は」

「そんなことないですよぉ。この子って本当に要領が悪くてぇ⋯⋯」


 三者面談の日。

 久しぶりに部屋を出てきたお母さんは、見たこともないすごく綺麗なお洋服を着て、すごく綺麗な飾りをジャラジャラつけて、先生に向かってそう言った。

 わたしは私服なんて、寝る時に着るTシャツと長ズボンぐらいしか持っていないのに、なんてうっかり浮かんだ不満を頭から追い出しているうちに、お母さんと先生はすっかり意気投合してしまっている。


「あんたの担任の先生って、結構イケメンじゃない。クラスでも人気なんじゃないの? もしかしてあんたの初恋って先生だったりする?」

「お、お母さん、さっきの、どういうこと⋯⋯?」

「どういうことって?」

「だ、だって、お母さん高校に行くべきなんて一言も⋯⋯」


 帰り道、珍しく上機嫌なお母さんに思わず正直に言ってしまったのが悪かった。瞬間、サッと顔から笑顔が消えたお母さんは、わたしの耳を引っ張ると人気のない路地に滑り込む。


「あんたって子は!! お母さんに恥をかかせる気なの!? この恩知らず!」

「ち、ちがっ⋯⋯だ、だって、進学なんてしないに決まってるってお母さん、」

「あんたのせいで、お母さんがどれだけ大変だったか分かるの!? それを、それを⋯⋯この恩知らず! 恩知らず! あんたなんて産まなきゃよかった!!」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい⋯⋯っ」


 お母さんは泣いていた。きっとわたしのせいだ。産まなきゃよかったなんて、お母さんだって本気で言ってるわけじゃないのは、わたしを掴む手が震えていたから分かる。

 わたしが言わせてしまったんだ、こんなひどい、悲しいことを。


「ごめんね、日奈子。お母さん、わざとじゃないの。心の病気だから、仕方がないの。分かってくれるわよね?」

「うん⋯⋯ごめんなさい、お母さん」


 落ち着いたお母さんが謝りながら、また目尻に涙をためる。

 お母さんも「可哀想」な人だ。だから優しくしなくちゃ。お母さんを慰めながら、わたしはズキズキ痛む耳や頬のことはできるだけ考えないようにした。



 家に着き、いつものようにヘルパーさんと交代してお兄ちゃんのお世話をしようと部屋のドアを開けると、お兄ちゃんがわたしの下着を持っていた。

 わたしが呆然としていると、部屋に入ってきたわたしに気づいたお兄ちゃんがニヤニヤ笑う。


「お兄ちゃん⋯⋯? なに、してるの⋯⋯?」

「いやぁ、お前がこんな色気付いた下着つけてると思わなくてさあ。貧乳のくせに、こんなのつける必要ないだろ? 明日からノーブラで行けよ」


 ──中学生にもなって、ノーブラで学校に行く子なんていないよ。

 そう、笑って答えなきゃいけない。頭では分かっていたのに、気づけばわたしはお兄ちゃんを平手打ちして、下着を奪い返していた。


「何すんだよッ!」

「お、お兄ちゃんこそ、なんで、なんでわたしの下着勝手に触るの⋯⋯っ!? やめてよっ」

「お前っ⋯⋯なんだよその口の利き方はっ! 誰のせいでこんな体になったと思ってんだよ!」

「何してるんだ、お前たち。近所迷惑だぞ」


 お兄ちゃんと言い争っていると、珍しく家にいたお父さんがドアから顔を覗かせる。


「お、お父さん、お兄ちゃんがわたしの下着を⋯⋯」


 状況を説明しかけたわたしと、わたしの手に握られた下着を交互に見やったお父さんは、深くため息をついた。


「そんなことで騒ぐんじゃない。下着ぐらい別にいいだろう、減るもんじゃない」

「でも⋯⋯っ」

「お父さんは疲れてるんだ。何かあるならお母さんに言いなさい」


 ──お母さんに言ったら、お母さんを疲れさせるなって言うくせに。そもそもお父さんがそんな風に何でもかんでもお母さん任せにしてたから、お母さんは心の病気になっちゃったんじゃないの?

 そんな不満が頭を過るけれど、お父さんが本当にすごく疲れた顔をしていたから、わたしは口をつぐんだ。隣で勝ち誇ったように笑うお兄ちゃんと話をしたくなくて、また出かける様子のお父さんを見送るのを口実に部屋を出る。


「お父さん、わたしが鍵を閉めるよ」

「ん? ああ⋯⋯助かるよ」


 そう言って少し笑ったお父さんは、スマホの画面を見つめている。

 スマホの画面には、胸の大きい女の人が映っていた。

 

 

◇◆◇ 



「『CD好評発売中! みんな買ってね♡』だって。チョー可愛くね?」

「それな〜。さっすがニーナちゃんだよな」


 すれ違った男の人たちの会話に、思わず振り返りそうになる。CDショップから出てきたらしい二人は、大学生ぐらいだろうか。お兄ちゃんと同じぐらいの年齢の人だけど、お兄ちゃんよりずっと垢抜けていておしゃれに見える。

 CDショップを見ると、ガラスの扉の前にポスターが貼ってある。キラキラした笑顔の可愛いアイドル。そういえば駅前の大きな広告でも見たことがある気がする。手でハートマークを作る彼女の写真の下に、名前らしき4文字がある。


「この子も、新名っていうんだ⋯⋯」


 自分と同じ名字に、思わずどきりとする。だけど同じなのは名字と性別だけだ。わたしはこんなに可愛くもなければ、歌って踊ることもできない。


 ──そっか。だから「ニーナちゃん」なんだ。


 ぼうっとポスターを眺めていると、ふいにガラスに映り込んだ自分の顔を見てしまう。赤く腫れた、みっともないほっぺた。

 ああ、これじゃまるでガラスに映った自分を見てる人みたいだ。恥ずかしさに慌ててその場を離れて、駅への道を急ぐ。


 お兄ちゃんを引っ叩いたことを、お母さんに告げ口されたせいで、あの後すごく叱られて、泣かれてしまった。どうしてあんたはお兄ちゃんに優しくできないの、どうして、どうして──わたしを叩く手が最後には殆ど力をなくして、迷子の子供みたいにわんわん泣き出したお母さんを思い出すと、胸がキュッと苦しくなる。

 本当に、お父さんとお母さんの言う通りだ。勝手に下着を持ち出されたことぐらい、笑って受け流してしまえば良かったのに。そうすれば、お母さんを悲しませることも、罰として何駅も離れたこの町にしか売ってないお兄ちゃんの好物を買いにくる必要だってなかったのに。買った時よりも重く感じるレジ袋を引っ提げて、わたしはとぼとぼと道を歩く。

 

「だって、どうしても嫌だったんだもん⋯⋯」


 ぽつりと声にすると、涙が滲んでしまいそうになる。乱暴に袖で拭って、上を向く。落ちるな。零れるな。お兄ちゃんに歩けなくなるような怪我をさせたわたしに、泣く資格なんかないんだから。下着を触られたことぐらいなんだ。電車で痴漢にあった時の方が、ずっと怖かったじゃないか。


「あら、日奈子ちゃん?」

「え⋯⋯あ。美紀子おばさん⋯⋯? お、お久しぶりです」

「あらあら、ずいぶん大きくなって。そうよね、もう中学生だものね」


 声をかけてきたのは、お父さんの妹の美紀子おばさんだった。小さい頃はお父さんと手を繋いで歩くぐらい、とっても仲が良い兄妹だったと聞いたことがある。

 確か遠くの県に嫁いだはずじゃ──そう思ったのを見透かしたのか、おばさんは「最近離婚して、今は近くで暮らしてるの」と笑った。


「り、離婚!? 大丈夫ですか⋯⋯?」

「あらやだ、やっぱり親子なのねえ。反応がお父さんそっくり! 大丈夫よ、元々おばさんの方が稼ぎが多かったんだから。娘も一緒に暮らしててね、むしろ前より伸び伸びしてるぐらい。日奈子ちゃんは? 元気にしてる?」

「あ、は、はい。おかげさまで⋯⋯」

「相変わらず礼儀正しい子ねーうちの娘なんて、もう反抗期で生意気ばっかり言うのよ。その割に、どうしても行きたい高校があるからって、まだ1年生なのに自分から勉強頑張ってて⋯⋯日奈子ちゃんはもう行きたい高校とかあるの?」

「あの、高校はその⋯⋯」


 高校は行かない、って言わないと。ああでも、どう言えば良いんだろう。正直に、お兄ちゃんのお世話をするからって言ってもいいのかな。それとも、先生の前でお母さんが言ったみたいに、嘘をつかなきゃいけないのかな。

 どうすればいいか分からず、それ以上何も言えないでいると、おばさんは「あらやだ!」とふいに高い声を出す。


「立ち話しちゃってごめんなさいね! だめねえ、歳をとると話が長くなっちゃって。どう、ここで会ったのも何かの縁だし、良かったらお茶でもしない? おばさん、良いカフェを知ってるの。モンブランが特に美味しいの、おばさんが奢ってあげる」

「え、えっと⋯⋯でも⋯⋯」


 早く帰らないと怒られるし、それに、もしわたしがいない間にお兄ちゃんがトイレに行きたくなったら大変だし、早く帰らないと。

 だけど、もしかしてこれも言ったら駄目なのかな。後で怒られないかな。そればかり気になって、言いたいことが言葉にならずおろおろしていると、手に握ったレジ袋が風でカサカサ鳴った。それを見たおばさんは「あら」と目をパチパチさせる。


「あらあら、ごめんなさいね。お使いの最中だったのね」

「あ、は、はい。これ、お兄ちゃんの好きなお菓子で、ここのスーパーにしか売ってなくて」


 ホッとしてつい饒舌になったわたしは、余計なことまでペラペラ喋ってしまう。おばさんの顔が曇ったのに気づいて口を閉じたって、口から出た言葉をなかったことにはできないのに。


「すごいわね、日奈子ちゃん⋯⋯遊びたい盛りなのに、それを我慢してこんな遠くまで買いに来るなんて。お兄ちゃんのことが大好きなのね」

「⋯⋯そんなことないです。お兄ちゃんが怪我をしたのはわたしのせいなんだから、わたしがお世話するのは当然だから⋯⋯」

「え、それは違うでしょ?」

「⋯⋯へ?」


 固まったわたしに、おばさんは手を頬に当てて困惑したように首を傾げる。


「だって、あなたのお兄ちゃんが怪我をしたのは、小さかったあなたをわざと怖がらせて追いかけ回してるうちに、気づかないで車道に駆け出したせいでしょう? おばさんその場にいたからよく覚えてるわ。お義姉さんの手前、あまり強くは注意できなかったけど⋯⋯」


 ──ぱきん、と、氷が割れたみたいな音を立てて、立っている地面が崩れたような気がした。


「お兄ちゃんは、わたしを助けるために車道に飛び出したんじゃなかったんですか⋯⋯?」

「ええ? 誰に聞いたのか知らないけど、全然違うわよ。日奈子ちゃん、もしかしてあなたずっとそう思ってたの? 可哀想に⋯⋯あなたのせいじゃないのよ」


 おばさんの声がだんだん遠くなる。

 僕はお前を助けるために車道に飛び出して怪我をしたんだってお兄ちゃん、いつも言ってたのに。お父さんとお母さんも、一度だってそれを否定したことはなかったのに。

 わたしのせいだっていうのは、嘘だったの? 嘘なら、どうして誰も今まで言ってくれなかったの?

 目眩がしたみたいに、世界がぐるぐるする。何を信じれば良いのか分からない。


 気が付けばわたしは美紀子おばさんと別れて、一人で家の最寄駅に立っていた。

 あの後、どうやっておばさんと別れたんだろう。失礼なことをしてなければ良いんだけど。

 横断歩道を渡ろうとした瞬間に信号が赤になって、立ち竦む。仕事帰りのサラリーマンや、学校帰り、塾帰りの生徒で道がごった返している。この時間帯はちょっと苦手だ。ざわざわする周りの声がうるさくて、気を逸らそうとわたしはおばさんの言ったことを思い返す。

 そもそも、よくよく考えてみれば、美紀子おばさんの言うことが本当だという確証があるわけじゃない。お兄ちゃんの言ってることが本当で、おばさんがわたしに嘘をついた可能性だってある。

 例え、おばさんの言ってることが本当で、お兄ちゃんが嘘をついてたとしても、わたしが頑張らなきゃいけないことに変わりはない。心の病気のお母さんと、仕事が忙しいお父さんじゃ、お兄ちゃんのお世話なんかできない。わたしが頑張らなくちゃ。わたしは足がちゃんと動かせて、この足でどこへでも行けるんだから、だから⋯⋯


 ──だけど、頑張らなくちゃって、いつまで?

 わたしは本当に、この二本の足でどこへでも行けるの?


「えー何それ超やばーい!」

「ねえ、それ一口ちょうだいー」

「てかさぁ、明日の一限って体育じゃん。だるくない?」


 思い思いに喋っているのは、高校生の集団らしい。自分もいつかあんな風におしゃれしたり、友達と出かけたりするのかな、なんて思っていた小学校の頃の自分が馬鹿みたいに思えてくる。この先も、わたしがそんな風にできることはない。お兄ちゃんが歩けるようにならない限り。お母さんが元気にならない限り。お父さんが家のことに関心を持たない限り。

 わたしが中学を卒業したら、ヘルパー代を節約できるとお母さんは喜んでいた。わたしが学校に行かなくなれば、わたしが一日中お兄ちゃんのお世話をできるからだ。

 トイレとかお風呂の介助、床ずれ防止に体勢を変えさせるだけじゃない。みんなの食事、洗濯、掃除も、平日から休日まで、365日わたしがやることになる。

 お兄ちゃんはわたしと6歳差で、今は20歳だ。平均寿命は男の人は80歳ぐらいだったはずだから、あと60年はお世話が続く。

 それだけじゃない。お父さんやお母さんが歳をとれば、お父さんとお母さんの介護だって必要になる。

 お兄ちゃんが介護をできるはずないから、それをするのはわたしに決まってる。これから先、60年ぐらい、ずっとずっと、同じ毎日を繰り返して。


 さっきから騒いでいる高校生の集団を見やる。数学の授業がどうとか、クラスの誰々くんがかっこいいとか、誰々ちゃんが芸能人に似ているとか。数秒ごとに入れ替わる話題をきゃあきゃあ楽しむ彼女たちを、近くのサラリーマンはうるさそうに見ているけど、わたしは彼女たちが羨ましかった。


 どうして、わたしはあんな風になれないんだろう。

 どうして、わたしは高校に行きたいかどうかすら選ぶ権利がないんだろう。

 どうして、わたしは将来何をして生きたいかも自分で決められないんだろう。


 どうして、わたしはこれから続く60年間、ずっと誰かのトイレやお風呂の世話をして生きていかなくちゃいけないんだろう。


 カサカサとレジ袋の鳴る音がする。うるさいなぁ、って思った次の瞬間にはそれは地面に落ちていた。どうしてだろう、体がすごく軽い。

 どこへも行けないわたしの足は赤いランプの下、歩道に踏み出していた。吹き抜けていく風が気持ちい。誰かの悲鳴とブレーキ音が、笑い声みたいに耳をつんざく。


 トラックかな、と思った。

 だけど違った。わたしを轢き殺すのは、お父さんが部屋に置いてる雑誌に載っていた車だ。すごく早く走れて、ゼロがいっぱいの、お金持ちの人の車。真っ赤なスポーツカー。

 なんだ、残念だなぁ、ってわたしは笑った。


 トラックだったら、わたしも異世界に生まれ変われたかもしれないのに。


 

◇◆◇ 



 そして、冒頭に至る。

 わたしの手を取った王子様──ではなく、勇者レインナート様は、わたしが「聖女」としてこの世界に召喚されたこと、そしてわたしを勇者パーティに迎えたいと言った。


「この世界は今、魔人の脅威に晒されているんだ。俺は、次元の割れ目を通じて各地に侵入してくる彼らを殺すために旅をしている。君の聖女としての、強力な癒し手の力を俺に貸して欲しいんだ」


 レインナート様の言葉は、小説の中に出てくるみたいに美しくて、夢みたいだった。

 ゆっくり話ができるようにと、召喚の儀式が行われた広間から静かな小部屋の中に連れて来られてしばらく経つけれど、彼がわたしの手を離す気配はない。恥ずかしさに身じろぎするわたしを、緑の目は見逃さない。


「恥ずかしがらないで、ニーナ。俺の目を見て。君の力が必要なんだよ」

「わ、わたしなんかが、本当に聖女なんですか? 何かの間違いだったりしないですか?」

「本当さ。疑うのなら試してみようか、ほら」


 言うが早く、彼は胸元から短剣を取り出すと、躊躇なく自分の左手を切り裂いた。


「ひっ⋯⋯!?」

「ほら、治してごらん。君にはできるはずだよ。それとも、まだ傷の深さが足りないかな?」


 短剣についた血をぺろりと舐めとったレインナート様は、その短剣でわたしの手首を撫でる。怖くて手を引こうとしたけれど、びくともしない。わたしを掴む彼の手に力がこもっている様子なんてないのに。

 どうしよう、このままだとこの人、本当にもう一度自分の手を切ってしまうんじゃないだろうか。

 目があった彼は相変わらず優しそうな目をしている。ついさっき自分の手首を切り裂いたと思えないほど、慈愛に満ちた目。そんな目で見つめられたことがなくて、戸惑ってしまう。痛くないわけがないのに、どうしてそんな目ができるの?

 血がドクドクと流れ出て、わたしたちが並んで座っているソファを汚していく。血ほど落としにくい汚れはないのに。それにこのままじゃ、レインナート様が死んでしまうかもしれない。

 やり方なんてわからないまま、わたしは血の流れる手首に向けてがむしゃらに念じる。早く治って、血を止めて、と。

 するとふいに穏やかな光がわたしを包み、眩しさに目を閉じた隙に、部屋の中を満たしていた血の匂いが消えていく。再び目を開くと、レインナート様の手に、切り裂かれた跡なんて何もなかった。


「すごい⋯⋯」

「ほら、言っただろう? 君は聖女なんだよ、ニーナ。俺と同じように、女神の寵愛を受けた選ばれた者なんだ」


 あまりに信じられない光景に、目の前の人がわたしの手を切りつけた事実が頭から抜け落ちた。すごい、と感嘆を呟くと、彼は微笑ましいものを見るように目を細めて笑う。


「君はもっと自分に自信を持っていいんだよ。どうしてそんなに卑屈になるんだい?」


 彼の緑の目がわたしを真っ直ぐに射抜く。

 今まで知らなかった、全てを許してくれるようなその目の優しさに、わたしは気づけば全てを打ち明けていた。

 お父さんが家にあまり帰ってこないこと、お母さんが心の病気で怒ったり泣いたりすること、死ぬまでお兄ちゃんのお世話に明け暮れる人生になるはずだったこと、お兄ちゃんはわたしのせいで怪我をしたと嘘をついていたこと、わたしも他の人みたいにオシャレしたり、勉強したり、将来のことについて考えてみたかったこと。

 今まで誰にも話したことのない、話すことのできなかったものが一斉に堰を切ったように溢れ出す。そのせいで、脈絡がない部分も、わかりづらいところもあったと思う。それでもレインナート様は嫌な顔一つせずに最後まで聞いて、そしてわたしを優しく抱きしめてくれた。


「君のお兄さんより、君はずっと可哀想だったんだよ。全部押し付けられて、辛かったね」

「そ、そんなこと⋯⋯」

「認めていいんだ。彼らを恨んでもいいんだ。大丈夫、俺には分かってる。俺は許すよ、君の全てを」


 まるで神様みたいなことを言う彼に背中をさすられ、わたしはお母さんみたいに泣きじゃくった。散々縋りついたせいで、彼の高そうな洋服にはたくさんシワがついたし、14歳にもなって、こんな大泣きする人を慰めるのは大変だっただろうに、彼はずっと優しくて、優しくて。

 泣き疲れて眠ってしまったことに気づいたのは、目を覚ましたからだ。少し暗くなった部屋の中、わたしはずっとレインナート様に抱き抱えられていたらしい。

 恥ずかしい、早く起きたことを伝えて謝らなくちゃ。

 だけどほんの少しだけ、このままでいたくもある。

 わたしの眠りは浅い。だから本当はこんな風に微睡むなんてことはないのに、まだ目を覚ましたばかりだからと言い訳ばかり並べ寝たふりをしていると、ふいに優しい彼は、それはそれは静かに呟いた。


「聖女には、魅了(チャーム)が思ったほど効かないんだな」


 残念だ、と薄く笑う彼の声はひどく平坦で、ざらざらした感じがする。

 今、彼はチャームと言った。

 夜毎に読んでいた大好きだった小説を思い出す。普段は温厚な主人公が、珍しく怒りをあらわにするシーン。敵である美しいサキュバスが、人間を惑わしては奴隷にして使い捨てていたから。

 確か、あのサキュバスが使っていたのもチャームという魔法だった。


 わたしは思い出す。初めて目を合わせた時から、どうしてかレインナート様からは目を離せなかったこと。緑の目に優しく見つめられると、自分の全てを委ねてしまいたくなったこと。

 もしかして、それらは全て彼の言う「チャーム」だったの?

 思ったほど効かないと言ったけれど、彼はわたしを魅了して、どうしようと思っていたの?


 狭い小部屋の中、抱き抱えられたわたし。窓はなく、扉の向こうに誰かいる気配もない。つまりは密室だ。

 何が起きても、誰も知らない。完全犯罪。証拠なんて何一つ残らない。

 そのことに、今まで気づかなかったことが怖い。


「あ、あの、わたし、もしかして眠ってました⋯⋯?」

「ああ、起きたのかい? 大丈夫、気にしてないよ」


 にこりと微笑む彼の目を見ないようにしながら、そっと掴んでいた裾を離す。

 ここは小説の中の世界ではなく、わたしは幸せを約束されたヒロインじゃない。そんなことに、浮足立っていた頭がようやく追いついた。

 この人から離れなければ──それだけを考えて、わたしは彼の目を見ないようにして、恥ずかしそうに笑ってみせた。



最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

今回は前後編に分けて同時投稿しているので、良かったら後編も読んでもらえると嬉しいです。

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