010 安息と思索と、
聖都マンディスの中層区を、潮風が吹き抜けていく。崖に沿って作られた、清らかで壮麗な街並み。
けれど、それが一部の限られた区域だけのものだと知ってしまったアリソンは、初めてこの街並みを目にした時のようには、素直に綺麗だと思うことができない。
ラズとの待ち合わせ時間を告げる2時の鐘が鳴るのを聞きながら、アリソンは宿の前に立ち、市場で聞いた話を思い返していた。
スラムで出会った二人、ルークとキッドを見失った後、アリソンは元の予定通り情報収集をするため、来た道を引き返して市場へと戻った。そこで知ったのは、聖都マンディスの「裏の顔」とでも言うべきものだ。
聖都は上層、中層、下層の3つの区域に分かれており、上層は聖職者や貴族が暮らす区域で、中層は巡礼者や旅人、一般市民の暮らす区域、そして下層のスラムは、貧民が捨て置かれている区域だった。
普段、中層以上で暮らしている人々は、決して下層に踏み込まない。なぜなら、下層は貧しい人々の暮らす「穢れた」、あるいは「罪深い」場所だからだ。
そう教えてくれたのは、市場で出会った人の良い店主たちである。アリソンが盗まれたカバンを取り返しに下層まで追いかけたことを知ると大笑いし、その度胸にとちょっとしたものオマケしてくれた彼らに、アリソンはなんとも言えない気持ちで曖昧に苦笑するしか無かった。
貧乏なことが穢れた、罪深いことだと言うのなら、銀貨を数えるぐらいしか見たことのない自分も、本来はあちら側の住人なのだろう。
「待たせて悪かったわね、アリソン」
「あ、大丈夫ですよ。今来たところなので」
何やら買い物袋を手にして走ってきたラズに、アリソンは思考を一旦放棄する。
やって来たラズと宿の中に戻ろうとしていると、ちょうど彼女がやって来た方の路地がなんだか騒がしいことに気が付く。
「あの、何かあったんですか?」
「ああ⋯⋯殺人事件みたいよ」
「さ、殺人事件!?」
「なんでも家の中で、白い薔薇の上で家主が殺されてたとか。殺された人の友達が容疑者として引っ捕らえられていくのを見かけたわ。自分は犯人じゃない、って言ってたけど、どうかしらね」
「そんな⋯⋯友達同士なのに犯人だと疑われるなんて、可哀想ですね⋯⋯」
「⋯⋯ま、無罪ならそのうち牢屋から出してもらえるでしょ。それより、早く中に入ってお互いの収穫を交換しましょ」
「あ、はい。そうですね」
ラズと宿屋に入りながら、アリソンは一度だけ後ろを振り返る。
ざわめく群衆の中、「俺はやってない」と騒ぐ男の声が一瞬聞こえたような気がした。
◇◆◇
「⋯⋯驚いたわ。聖女が偽物だって知ってる人間が他にもいたなんて、結構良い収穫じゃない」
「でもごめんなさい、見失っちゃって⋯⋯」
アリソンの話を聞き終えたラズは、そう言って微笑む。
対するアリソンは、テーブルを挟んで真向かいに座る彼女の顔を見れず、俯いて失態を詫びる。二人を見失ったことに気落ちするアリソンに、ラズは「仕方ないわよ」と口を開く。
「スラムは彼の庭なんでしょうし、地の利に長けてる方が有利なのは当たり前だわ。名前は分かってるんだから、また聞き込みでもすればいい話よ」
気を遣ってくれたのだろう彼女の言葉に、アリソンは顔を上げる。
そうだ。落ち込むよりも、自分にできることを考えなくては。
「じゃ、あたしの方だけど⋯⋯まず、さっき見かけた巡礼者の遺体については教会に報告してきたわ。で、ついでに教会に来てた人たちに話を聞いたら、『聖女様』は、最近巡礼者と会うのをやめたらしいわ。勇者一行に加わる前は、決まった日に決まった人数だけお目通りが叶ってたのに、ってみんな残念そうだった」
「へえー⋯⋯どうして急に会うのをやめちゃったんでしょう?」
「決まってるじゃない。ねえ、聖女はなんで聖女なんて持て囃されるようになったと思う?」
「え? えっと、確かすごい治癒術が使えるって⋯⋯あ! もしかして⋯⋯」
「合点がいったかしら? そう、聖女は奇跡のような治癒術の使い手よ。だけど今は偽物に取って代わっている。偽物には治癒術が使えない──あるいは使えるけれど、本物のような強力なものではない。だから隠蔽のため、巡礼者に会うことをやめたんでしょうね。だって、治してくれって言われたら困るもの」
なるほどなぁ、とアリソンは頷く。
「うーん、でもじゃあ、聖女に会うのは難しいってことですよね?」
「ええ、正々堂々会うのは難しそうね」
「⋯⋯それって、正々堂々じゃなければ大丈夫って意味ですか?」
「あら、分かってるじゃない。聖女は最上区の大聖堂で日々祈りを捧げ、夜もそこに併設されてる部屋で暮らしているらしいわ。なんとか忍び込めれば、会うのも不可能じゃないわ。ま、衛兵もどうにかしなくちゃいけないし、考えなしには実行できないけどね」
「うーん、そうですか⋯⋯」
「なに、納得いかないことでもあるの?」
考え込んだアリソンに、ラズは買い物袋を広げながら問いかける。
そういえば彼女は何を買ったのだろう。ちらりと伺うように視線を向けると、「興味がある?」とラズは悪戯っぽい笑みを浮かべて、袋の中身をテーブルに並べていく。
羊皮紙、羽ペン、インク壺。
ジョアンの家でしか見たことのなかった物に、アリソンは「わあ」と感嘆の息をつく。
「すごい、どこでこんなものを手に入れてきたんですか?」
「どこって、その辺の商店で普通に買えるものばかりよ。店によって値段や品揃え、品質に差はあるけどね。あんまり高級品ってわけでもないけど、そこは勘弁してちょうだい」
「わー⋯⋯触ってみてもいいですか?」
「いいわよ。というか、これあなたに教えるために買ってきたものだもの」
「⋯⋯えっ」
早速手を伸ばして、羊皮紙の手触りを確かめていたアリソンはラズの言葉に固まる。
「教える、って⋯⋯何を?」
「⋯⋯文字の読み書き以外に何があるのよ」
「えっ」
「そんなに驚くこと? 覚えておいた方が何かと便利でしょ。⋯⋯嫌ならいいけど」
「い、嫌じゃないですけど⋯⋯でも」
「そう。なら、早速始めましょ」
カタンと席を立ったラズは、つかつかと座ったままのアリソンの背後に回る。彼女の次の行動が分からずに狼狽えていると、背後からするりと手を取られ、羽ペンを握らされる。
「いい? まず、ペンの握り方はこうよ。インクは⋯⋯このぐらい付ければ大丈夫」
「は、はひ⋯⋯」
「何どもってるのよ、おかしな子ね」
くすくすと背後でラズが笑うが、アリソンはそれどころではない。
密着しているせいで、ラズの体温や花のような甘い香りがいつもより近くに感じられて、なんだか緊張してしまう。挨拶にハグを交わすのとはまた違う距離感、密着の仕方に、自然と体が固くなる。
いくら同性でも、これは近すぎるのではないか──アリソンがそう思ったが、ラズはなんら気にしていないらしく、どころか緊張している様子のアリソンを面白がっている様子だ。楽しげに羊皮紙を広げた彼女を、アリソンは少し恨めしく見上げる。
「それじゃ、まずは自分の名前の書き方から覚えましょう。A、l、i、s、o、n⋯⋯アリソン。これがあなたの名前よ」
ラズに手を握られ、アリソンは人生で初めて自分の名前を書いた。よく分からない記号の羅列にしか見えないが、自分の名前なのだと思うと、なんだか親近感が湧いてくる。
「これをお手本に、何度か自分で書いてみて。⋯⋯そう、その調子よ」
手を離され、自分でペンを握ってみると、想像以上に書きにくいことが分かった。四苦八苦しながらアリソンが書いた文字は、ラズに手を動かされていた時とは比べ物にならないほどガタガタで、ミミズのように羊皮紙の上を這っている。
けれど、ラズはそれをからかうことなく、その調子だとアリソンを励ます。文字を書くことに集中すると、あれほど気になっていた距離の近さも気にならなくなる。
何度か同じ動きを繰り返すうちに、手も慣れたのか、10回目ぐらいには、ミミズの大分落ち着いた「Alison」が完成した。
「上手じゃない、やっぱり集中すると飲み込みが早くなるのね」
「えへへ⋯⋯そうですか?」
「ええ。それじゃ次は身の回りの物の名前を覚えていきましょ。何か書いてみたいものはある?」
ラズの問いに、少し考えてから、アリソンは答える。
「じゃあ、ラズさんの名前の書き方が知りたいです」
「あたしの?」
「はい。⋯⋯えっと、だめですか?」
「別に、そういうわけじゃないけど⋯⋯分かったわ、ペンを貸して」
アリソンからペンを受け取ったラズは、空いているところにAを書き──「間違えたわ」と呟いてぐりぐりと塗りつぶした。
「ラズさんでも間違えるなんてこと、あるんですね」
「あたしを何だと思ってるのよ。アンタの名前を見過ぎたせいね、全然違うこと書いちゃったわ」
言い訳をまくし立てるように一気にそう言いながら、ラズは新しく文字を書き直す。黒く塗りつぶされたAの隣に、「Lazu」の4文字が綺麗に並ぶ。
「一番最初の文字は、大きく書くんですか?」
「ええ、名前や文章の最初の文字は大文字というの。この、『Alison』の『l』と『Lazu』の『L』は同じ文字なのよ」
「ぜ、全然違うのに?」
「全然違うのによ。ちなみに『A』と『a』も同じ文字ね」
ひとつひとつ指差して教えるラズに、アリソンは「ええっ」と驚く。その様子に、ラズがくすくす笑う。
「さ、それじゃ次はテーブルを書いてみましょ。また同じ文字が出てくるから、よく見てね」
そう言いながら再び体を密着させ、ペンを握らせたアリソンの手を取ったラズに、アリソンは「はひっ」とどもる。
「だからなんでそんなに固くなるのよ、もう」
「ら、ラズさんがくっつくからですよ!」
おかしくてたまらない、と言いたげなラズの口調に、アリソンは少しむすっとして答える。そんな様子も面白いのか、ラズは体を離してくれなかったが。
そうして、互いの名前から始まった読み書きの練習が、周囲の物──テーブルや椅子、暖炉、剣など──に移り変わってしばらくした頃。
カリカリとペンを走らせる音だけが響く部屋の中、文字で埋め尽くされた羊皮紙を前に、アリソンはふと、口を開く。
「どうしてラズさんは、そんなに親切にしてくれるんですか?」
それは、アリソンが密かに疑問に思っていたことだった。
最初こそ自分の状況を受け入れることで精一杯だったが、思えばラズはアリソンに親切すぎる。
イグニスという共通の知り合いはあれど、魔界で出会うまで面識もなく、今は勇者を殺すという目的のもとで一緒に行動しているとはいえ、ここまでする理由があるだろうか。
アリソンの問いに、ラズは虚をつかれた後、ふっと儚げな笑みを浮かべた。
「だって、あなたはイグニスを助けてくれた恩人だから」
「⋯⋯え? えっと、逆じゃないですか?」
イグニスが自分の魔人としての炎を司る力をアリソンに渡し、魔界の門を開いたから、アリソンは燃え盛る家の中で死ぬことなく、今こうしてラズと向き合っているはずだ。
だから、恩人というのならば、イグニスこそがアリソンの恩人であるはずなのに──首を傾げたアリソンに、ラズは「合ってるわよ」と視線を落として答える。
「あたしは死んだ人の残留思念を見れるって言ったでしょ。だから、イグニスが死ぬ寸前にどんな目にあって、どんな走馬灯を見たのかまで、その全てを知ってる。レインナート達に騙し討ちされて、村の近くまで逃げてきた彼をアンタが助けて介抱したことも、あの日、アンタが死にかけのイグニスの前に立ち塞がって、レインナートと対峙したことも。全部、痛いほど知ってる」
「対峙って言うほどじゃないですよ、何もできなかったし⋯⋯」
「でも、アンタはイグニスを庇ったわ。最初に彼を介抱した時は魔人だって知らなかったからかもしれないけれど、勇者を前にして、彼が魔人だって知ってなお、アンタはイグニスの前に立った。イグニスを守ろうとした」
テーブルの上に置かれたラズの拳が、微かに震えている。アリソンがあの日のことを思い出すと痛いように、彼女にとっても、それは痛ましい記憶に違いない。
愛しい人が死ぬ寸前、見聞きした光景を追体験する。どんな思いでその全てを受け止めたのか、アリソンには推し測ることしかできない。
「だから、あたしはその恩に報いたい。⋯⋯それに、イグニスが最期にあなたを救おうと、守ろうとしたのなら、その遺志はあたしが引き継ぐ。あなたを1日でも多く生かすことが、彼への手向けだわ」
ラズの言葉は、一点の曇りもなくストンと胸に落ちた。
ラズはアリソンを守ることで、イグニスの願いを叶えようとしている。そしてそれは、アリソンも同じで。
「私も、ラズさんのことを守りたいです。だって私も、頼まれちゃってますから」
「え?」
「ラズさんのことを頼むって、大切な人なんだって、イグニスさんから言われてますから。⋯⋯これも、知ってるかもしれませんけど」
苦笑したアリソンにとっては意外なことに、ラズは蒼い瞳を目一杯開くと首を横に振り、
「⋯⋯そんなの、知らなかったわ」
と、蚊の鳴くような声で言った。
◇◆◇
新しいことを学ぶのは、存外楽しいことだ。
ああだこうだと、身の回りの物の名前で羊皮紙が数枚埋まる頃には、窓の外は日が落ちはじめていた。重々しい教会の鐘が5回鳴り、17時を告げる。
「あらやだ、もうこんな時間? 夕食を食べながら、これからどうするか話し合いましょ」
「そうですね、お腹いっぱいにしましょう」
トントン、と軽く羊皮紙を揃えて置いて、二人は部屋の外へ出る。
食堂に着くと、宿屋で働く人たちが優しく声をかけてくれる。それに答えたり注文をしたりしているうちに、外はすっかり暗くなってしまう。宿泊客以外にも、仕事終わりに食事を食べに来る客もいて、静かだった食堂が賑わっていく。やってきた暖かなシチューを前に、アリソンはラズの真似をして祈りを捧げてから、スプーンを手に取る。
「悪くないわね、このシチュー。程よくスパイスが効いてて、体が温まるわ」
「本当ですね。何だかほかほかしてきます」
野菜や魚介類がゴロゴロ転がるシチューをスプーンでかき分けながら、アリソンは頷く。やはり魔界で味わったラズの作った料理同様、村で食べていた料理と似たような味がして美味しい。
その旨を伝えると、何故かラズは複雑そうに苦笑いをする。
「あなた、何食べてもそう言うわよね」
「そうでしたっけ?」
「エリザベスの作ったお菓子までそう評してたわよ。あなたのお母さまはよっぽど料理が上手だったのね」
「うーん、そういえばお父さんの胃袋を掴んだって言ってたような⋯⋯」
いかつい熊のような顔をした父が、母の料理を食べると頬を綻ばせる。子供の頃から、その瞬間を母とこっそり分かち合うのが好きだった。
暖かな思い出を語るアリソンに、ラズは「そう」と短く言葉を切る。たった二文字、考えようによっては無愛想だが、彼女の声色がそうでないことを示す。その気遣いに甘えて、つい喋りすぎたことにアリソンが気がついたのは、自分の皿には半分以上残っているシチューが、ラズの皿からはごっそり消えていた頃だった。
「ご、ごめんなさい! 村長さんみたいな長話しちゃって⋯⋯!」
「別にいいわよ、人の話聞くのは嫌いじゃないもの」
「で、でも、私ばっかり⋯⋯ラズさんはそういうお話、ないんですか? 思い出の料理、とか⋯⋯」
「⋯⋯どうかしらね?」
はぐらかし、ミステリアスに笑うラズはとてもアリソンと同年代には見えない。年はそう離れていないはずなのだが。
「それより、あたしは今夜の予定について話し合いたいわね」
「今夜? これから出かけるんですか?」
「ええ、そのつもり。昼間と夜間で、街は大きく姿を変えるものよ。それに、色々偵察してみたいところもあるし──」
「おっと、お嬢ちゃんたち。残念ながらそれは諦めてくれ」
会話に割って入ったのは、仕事終わりの衛兵のようだった。額の小さな傷をあえて見せるように、短く切られた前髪が特徴的だ。それと、不審者ではない、と訴えかけるように、にっこり笑いかけてくるところが、昼間出会ったルークに少し似ている。
「⋯⋯あら、それはどうして?」
鎖帷子を鳴らしながら隣に腰を下ろした男を、ラズはたっぷり1秒間、警戒するように見つめてから口を開く。憮然とした顔つきは、心なしかいつも以上に不機嫌そうに見える。
もしかしてラズは、知らない人に隣から割って入られるのが苦手なのだろうか。
「夜間禁止令が出たんだ。知らない、ってことはお嬢ちゃんたち、今日ここに来たばっかりってとこか?」
「そうだけど⋯⋯夜間禁止令って?」
「その名の通り、夜に出歩くことを禁止してんのさ。タンブルウィード大司教様の直々のお達しときちゃ、怖くて誰も逆らえない。おかげで酒場にも行けないから、ここで食事しに来てるんだ」
「タンブルウィード大司教様、って誰ですか?」
ガツガツと骨つき肉を食べ始めた男に問うと、男は「聖都で一番偉い人さ」と答える。
「表向きは聖女様が一番偉いんだけどな。実際のところ、俺たちに指示を出したり教会の運営をしたりだとか、そういう実権を握ってるのは大司教様なのさ」
「へえー⋯⋯そうなんですね」
「そうそう、聖女と言えば昼間バルコニーに出てたらしいけど、お嬢ちゃんたちは見たかい? 可愛らしい方だよなぁ、何と言ってもあの桃色の髪と、着痩せしてるけど実はグラマーなところがたまんないぜ。それに⋯⋯」
「はいはい、それよりなんで夜中に出歩いたら駄目なんてことになったの?」
「つれねえなぁ⋯⋯理由なんて知るかよ、って言いたいところだけど、まあ最近何かとスラムの連中が物騒だからだな。暗闇に紛れて、財産だの命だのを奪われてる奴がいるのさ。ほら、昼間も殺人事件があっただろ? ああいうことに巻き込まれないために、夜はお家で大人しくしてましょう、ってこと。勝手に出歩くと軽くて牢屋行き、悪ければ首が飛ぶからな、くれぐれも出歩くんじゃないぞ」
「ふうん⋯⋯ご忠告痛み入るわ。それじゃ、相方も食べ終わったみたいだから、あたし達はもう行くわね」
アリソンの皿が空になったタイミングを見計らって、ラズが立ち上がる。アリソンの分のトレーまで手に持ち、返却するためカウンターの方へ行く彼女を追って、アリソンも慌てて席を立つ。
「忙しないなぁ」
「すみません、衛兵さん。いい夜を」
「おう、お嬢ちゃんもな」
ビールを手にして苦笑する衛兵に声をかけて、アリソンはラズの元へ小走りで向かう。アリソンが追いつくのを待って、彼女は部屋に戻るため階段の方へと向かう。
「夜に出歩けないの、ちょっと残念でしたね」
「そうね、表立って歩けないのは困るわね」
「⋯⋯あの、ラズさん。まさかとは思うんですけど⋯⋯」
意味ありげなラズの言葉に、冷や汗がたらりと背中を伝う。一段上にいる彼女を見上げるが、その唇は沈黙を保っている。しかし、長い睫毛に縁取られた美しい蒼は、沈黙とはすなわち肯定であると言葉よりも雄弁に伝えていた。
「ラズさん⋯⋯っ!」
「だって、怪しいじゃない? 夜間に出歩くのをこうも大々的に禁じるなんて、絶対に裏があるわよ。言うこと聞いて大人しくしてたら、一生何が起きてるか分からない」
「そんなこと言ったって⋯⋯っ」
他の宿泊客に聞かれないよう、小声で囁き合いながら二人は部屋のドアを開ける。パタンと扉が閉じ、階下の賑わいが遠くなって始めて、アリソンは息をつく。
対するラズは、息をつく必要もないぐらいに冷静だった。いつもと同じで何も変わらない。彼女にとって、この程度のルールを破る冒険はなんてことないのかもしれないが、アリソンはどうしても彼女を止めたかった。今しがた閉じたばかりの扉の前に立ったまま、声を荒げる。
「い、いくらなんでも、これはだめです! 見つかったら首が飛ぶかもしれないって⋯⋯!」
「そう。なら、あなたはここに残ればいいわ。そもそもあたしは、あなたを危険に巻き込むつもりは最初から──」
「嫌です!」
キッとラズを見据えると、そこまで反対されると思っていなかったのか、彼女は僅かにたじろぐ。だが、それも一瞬のことに過ぎず、対峙した彼女はすぐさま苛立ちを滲ませて睨み返してくる。
「退きなさい、アリソン」
「嫌だって言ってるでしょう!」
「アリソン!」
「じゃあ、イグニスさんにどう言えば良いって言うんですか! ラズさんをみすみす危険に向かわせたなんて、私にどう言えって言うんですか⋯⋯!」
「⋯⋯何でもかんでも、イグニスの名前を出せばいいと思わないで」
「ラズさんに何かあったら私だって嫌です! ラズさんまでいなくなったら、私⋯⋯っ!」
イグニスの名を出され、静かな声に怒りを滲ませたラズは、直後アリソンが口にした怯えた声に気を取り直してため息をつく。
びくりと肩を震わせたアリソンは、けれど譲らない。
だって、嫌なのだ。もしもラズが衛兵に引っ捕らえたらと、その細い首が落とされてしまったらと思うと、ゾッとする。
「⋯⋯アリソン」
「嫌です」
「まだ何も言ってないじゃないの⋯⋯まったくもう」
ラズの顔を見れずに俯いたまま首を振ると、仕方ないな、と言いたげな甘さを含んだ呆れが降ってくる。
「何か誤解してるみたいだけど、あたしはなにも今すぐ無策で出かけて、みすみす捕まりに行くような真似をしようって思ってるわけじゃないの。そもそも今夜出かけるなんて一言も言ってないわ」
「えっ。でも⋯⋯」
「あのねえ、あたしがそんな無鉄砲な真似するように見える? 今夜は誓って何もしないわよ。本格的な『夜のお出かけ』は、早くても明日からのお楽しみにするつもりよ。だって、こんなところで死ねないでしょ。アンタもあたしも」
なんだ、そうだったのか。
ラズが今すぐにでも夜の街に飛び出していくのだとばかり思っていたアリソンは、安堵からへなへなと地面に座り込む。
よかった、と口の中で小さく呟いたアリソンに、ラズが「早とちりしすぎなのよ」と苦言を呈しながら手を差し伸べる。その手を取りながら、アリソンは「だって」と呟く。
「ラズさん、いつもどっか行っちゃいそうだから」
「そう?」
「そうですよ。いつも、何もかも嫌になったみたいな顔をしてるから、朝起きたらこの人はもういないんじゃないかって、もしかしたらどこかで死んでるんじゃないかって、時々思ってました」
だから魔界にいた頃、食事の時間や訓練の時間に姿を現す彼女を見るたび、アリソンは密かに安堵していたのだ。この人はまだここにいる、この人はまだ自分を置いて行っていない、と。それはさながら、縋った藁がまだ千切れていないことを確かめるように。
「⋯⋯安心しなさい。今のあなたを置いてくほど、あたしは薄情じゃないから」
ラズは意味ありげに笑ってそう言うと、「それにしても寒いわね」と身震いする。
「あ、そういえば暖炉の火が消えてますね。火を起こせそうなものを借りてきましょうか?」
「それには及ばないわ。──ほら」
「え? あ⋯⋯暖炉に火が! すごいすごい、もしかしてこれが魔術なんですか?」
ラズが手のひらを暖炉に向け、何事かを呟いたかと思うと、ゴウッと唸るような音を立てて、暖炉の中に火がつく。
驚き、興味津々に暖炉を覗き込んだアリソンに、ラズはどこか決まり悪げに「まあね」と答える。
「この程度の魔術でそこまで喜ばれると思わなかったわ。もしかしてあなた、魔術を見るのは初めて?」
「はい。どんなものなのか聞いたことぐらいはあるんですけど、見たことはなくて」
「ふうん⋯⋯なら、せっかくいくつか文字を覚えたんだから、ついでに簡単な式も教えてあげるわ」
「式、ですか⋯⋯」
徐々に暖かな空気が広がり始めた部屋の中、椅子を引いたラズに促され、アリソンは昼間のように彼女の正面に座った。
魔術を教えることに乗り気そうなラズとは対照的に、アリソンの表情には好奇心よりも不安が優っている。
「式って確か、魔術を起こすために必要なものなんですよね? 難しそうですけど⋯⋯私でもできるでしょうか?」
「もちろんよ。そもそも魔術っていうのは、治癒術と違って誰でも訓練次第でいくらでも扱えるようになるものだわ。尤も、生まれつきの魔力量や、相性の良し悪しといった要素はあるけれど、まあ暖炉に火を起こすぐらいは誰でもできるから大丈夫。それに、夜は長いんだから問題ないわ。夜が明けるまでにはできるようになるわよ」
「夜が明けるまでって⋯⋯ひ、一晩中やるんですか⋯⋯!?」
「そうよ。どうせ外の様子も見ようと思ってたし、勉強もできて一石二鳥ね。それじゃ、はい、ペンを握って」
灯りを灯したランプをテーブルにコトリと置き、にっこり笑ったラズはアリソンにペンを握るよう促す。
途方もなく長い夜になる予感に、アリソンは苦笑いを浮かべることしかできなかった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
箸休め的な回になりましたが、引き続きお付き合い頂けたら幸いです。
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