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村娘Aが勇者を殺すまで  作者: 藤森ルウ
第2章 聖都編
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009 下層での出会い



「⋯⋯どう。少しは落ち着いた?」


 こじんまりとした、個人の経営する小さいが小綺麗な宿屋の一室の中。

 ラズの問いかけに、アリソンはかろうじて首を縦に振った。真っ青だった顔には血色が戻り始めているが、それでも好調とは言い難い。

 ──無理もない、あんな形で故郷が焼かれたことを知ったのだから。

 アリソンをベッドに座らせた後、ラズは部屋をぐるりと一周し、その隣にそっと腰掛けた。宿屋の主人が気を利かせて淹れてくれたホットココアを、アリソンは一口飲んだきり両手で握るだけに留めている。好意はありがたいが、今はこれ以上、飲めそうになかった。


「ラズさん、あの──」

「無理に言わなくてもいいわ。落ち着くまでここにいるから、」

「いえ、そうじゃなくて。私、気づいたんですけど、やっぱり私たちが見たあの女の人は『聖女』じゃありません」

「⋯⋯どういうこと?」


 スッと声を鋭くしたラズに、アリソンは片手で頭を押さえながら口を開く。


「私、エリザベスさんに聖女や勇者たちの姿を見せてもらったことがあるんです。でも、その時に見た聖女と、私たちが今日見たあの女の人は、全然別の人なんです」

「じゃあ、本当の聖女はどんな姿だったの?」

「それが⋯⋯分からないんです。頭の中がぐちゃぐちゃで、思い出そうとすると霧がかかったようになって。でも、違うってことだけは分かるんです」

「⋯⋯そう」


 何かを考える素振りをしながら、ラズは立ち上がる。頭痛が少し落ち着いたアリソンは、頭から手を離し、少しぬるくなったココアに口をつけて一気に喉に流し込む。母の作ってくれたお菓子に似た、甘い味が喉に充満する。胸焼けしそうだ。


「ごめんなさい、こんな話。おかしいですよね、でも、本当なんです」

「ばっ、誰が信じないって言ったのよ! 分かってるわよ、アンタが嘘をついてないってことぐらい。ただ、だとすれば⋯⋯あたし達はもう、術中にいるのかもしれないわ」

「術中? 誰かに魔術を掛けられているってことですか⋯⋯!?」

「悔しいけど、そうね。多分、この聖都全体に魔術が掛けられているのよ。聖女の姿を、今日あたし達が見た女だと思い込ませる、目くらましのような、いえ、洗脳と言ってもいいような魔術が」

「そ、そんなこと⋯⋯できるんですか?」

「条件次第だけど、出来ないことではないわね。まあ、魔術に相当熟練していることは確かだけど」


 空のコップをサイドテーブルに置き、アリソンはラズを見上げる。部屋を行ったり来たりしている彼女は、真剣な様子で考え込んでいて、とてもじゃないが声をかけられる雰囲気ではない。


 しばらくの沈黙の後、堪えられなくなったアリソンが「あの」と声を発する。


「聖女の本当の姿が分からなくなる魔術が聖都全体に掛けられてるんだとしたら、じゃあどうして私は思い出せたんでしょう?」

「⋯⋯多分、式に付けた条件が悪かったんでしょうね」

「条件?」

「ええ、魔術は式を刻んで世界に干渉するものだってことは知ってるわよね? 例えば、そこの暖炉に火を起こしたいのなら、式の中で『暖炉の中』に『火を起こす』という条件づけをするんだけど⋯⋯魔術を掛けた人はこんな条件をつけたんじゃないかしら。『元の聖女を直に見たことのある人』は、『元の聖女の姿を忘れ、今いる聖女を本物だと思い込む』ってね」

「えっと⋯⋯暖炉は分かりますけど、どうしてこの場合も条件が必要になるんですか?」


 首を傾げたアリソンに、ラズは「非効率的だからよ」と答える。


「無条件に聖女の姿を忘れさせるような式を、個人じゃなくて聖都全体にかけるには膨大な魔力が必要になる。それに、元から聖女を見たことのない人間にはこの術は不要になるわ。不要な人間にまで魔力を割くぐらいなら、『元の聖女を直に見たことのある人』という条件をつけた方がいい。そうすればたとえ聖徒全体に魔術を張ったとしても、発動するのは一部の人間で済むから、そんなに魔力を消費せずにすむわ」


 そういうものなのか、と思いつつ、アリソンは頷く。


「でも、それがどうして私が覚えてることに繋がるんですか?」

「あなたが直に聖女を見たわけではないからよ。あなたはエリザベスの盗み見を通して聖女の姿を認識したわけでしょう。たとえ誰が聖女なのか分からなかったとしてもね。だからあなたは聖女を『見て』はいる。けれど『直に』ではない。だから術の効果が弱いのよ」

「な、なるほど⋯⋯? 半分しか当たっていないから、完全には掛からないってことですね?」

「そうよ。けれど、そのせいであなたは本当の聖女の姿を思い出すことまではできない、といったところなのかしらね」

「はあー⋯⋯」


 間の抜けた声をあげて、アリソンはパチパチと小さく拍手をする。


「な、何よ?」

「いえっ、その、すごいなぁって思って⋯⋯ラズさん格好良いです!」

「は、はあ?」


 たじろぐラズに、アリソンはひとしきり「すごいなぁ」と繰り返したのち、ふいに宙に浮かせた手をパタンと膝の上に落とす。


『邪教徒の村は、匿われてた魔人ともども、勇者様が丸ごと焼き払ってくれたからね』


 宿屋に来る前、露天商の老婆が言った言葉がリフレインする。


「私の帰るところ、本当になくなっちゃったんですねぇ」

「⋯⋯アリソン、」


 顔をくしゃりと歪めたアリソンに、ラズが気遣わしげな声をかけたその時。


 ──ぐきゅるる、と盛大に腹の虫の鳴き声が響き渡った。


「⋯⋯っ、し、下の階に食堂も併設されてたみたいだから、食べに行きましょうか」


 必死で笑いを堪えるラズに、アリソンは両手で顔を覆って「はい」と蚊の鳴くような声で答えた。



◇◆◇


 

 無事に腹の虫を満足させた二人は、一旦宿屋を出ることにした。

 昼過ぎの太陽が眩しく地面を照らし、遠くの方からは波の打ち寄せる音が聞こえ、風には少し潮の匂いが混じっている。慣れない匂いに、アリソンは鼻を鳴らす。


「それにしても、さっきはヒヤヒヤしたわ。まさかあなたが食前の祈りを知らなかっただなんて」

「す、すみません⋯⋯」

「いいわよ、あたしだって人目がなければやらないんだから人のこと言えないわ。ただ、ここは信仰深い聖都マンディスだから、今度からは見様見真似で良いから祈っときなさい」

「は、はい」


 実際、先ほどもラズの真似をしてなんとか乗り切ったのだ。次からもそうしよう、と心に決めてアリソンは頷く。


「さて、それじゃここからは別行動といきましょ。あたしは商店の方に用があるから、ついでに向こうで情報収集してくるわ。あなたは⋯⋯そうね、市場の方をお願いしていいかしら? 多分、あなたの暮らしてた村とは金銭感がだいぶ違うと思うけど、今のうちに慣れておいてちょうだい。合流は⋯⋯さっき12時の鐘が鳴ったところだから、2時ぐらいが良いかしらね。鐘が2回鳴ったら、宿屋の前で落ち合いましょ」

「わ、分かりました。鐘が2回鳴ったら、宿屋の前ですね」

「それとこれ、渡しておくわ」

「わっ。な、なんですか? これ」


 斜め掛けのカバンを手渡され、反射的に受け取ったアリソンは首を傾げる。想像より少しだけ重いそれには、何が詰まっているのか。アリソンの問いに、ラズは端的に「お金よ」と答える。


「ほら、出発前にエリザベスに貰ったでしょう。宿の中で半分に分けておいたから、これはあなたの分。気をつけて使いなさい」

「ええっ!? つ、使えませんよ、銀貨なんてっ」

「いいから! あたしだけに金銭管理なんて重たいものを持たせる気? あたしがいなくても買い物ぐらいできるでしょ、ほらちゃんと持って。それに、これから先も銀貨を見るたびにいちいち目を輝かされちゃ困るわ。今のうちに慣れておきなさい」

「そ、そんなこと言われても⋯⋯って、ちょっと、ラズさんっ!?」


 アリソンがわたわたしている間に、ラズはするするとカバンをかけさせてくる。あまりの手際の早さに、抵抗する暇もない。


「それじゃ、また後でね。お金、ぼんやりしてる内に盗まれないように気をつけなさいよ」

「ぬ、盗ませませんよっ、こんな大金!」


 心外だ、こんな大金をぬけぬけと盗まれるような人間だと思われるなんて。アリソンは憤慨していた。

 笑って、「それもそうね」と手を振って雑踏の中に消えるラズを見送った時も、まだ怒っていた。そんなに自分は信頼できないのかと、幼稚な苛立ちすら覚えたのだ。



 そのことを今、アリソンはとんでもなく恥じていた。



「待って⋯⋯! そのカバン、返してください! 大事なものなんです⋯⋯っ!!」


 枯れんばかりに声を張り上げ、アリソンは中間層から下層へと向かう寂れた下り坂を全力で走っていた。ラズから預かったカバンを奪った、みすぼらしい服の少年を追いかけて。


 

◇◆◇



 それは、ラズと分かれてから数分も経たないうちに起きた。

 魔界の祭りの時のように連なる露天商の品揃えは、店によってまちまちだ。干し肉や見たことのない果実、毛皮や、ナイフのような武器まで。物珍しく映るそれらを見て歩いていた時、ふいに後方から何かがぶつかってきた。

 振り返ると、みすぼらしい服を着た子供が尻餅をついていた。子供は弟とさほど変わらない年齢に見え、懐かしさと、どうしようもない苦味がアリソンの胸の内に広がる。


「いったた⋯⋯」

「ごめんなさい、大丈夫? 怪我はない?」


 湧き出す感傷をなんとか抑え、屈み込んだアリソンに子供は──少年はニヤリと笑って。


「バーカ! そんなトロトロしてんのが悪いんだからなっ!」

「⋯⋯えっ」


 ドン、と突き飛ばされるのも、転ばされた拍子にカバンの紐が断ち切られるのも、全ては一瞬の出来事だった。そして、地面に落ちたカバンを奪い取られるのも。


「嬢ちゃん、運が悪かったな。ありゃ、下層のスラムの悪ガキだ。鈍そうな巡礼者を狙って、金品をくすねてるんだよ」


 人だかりの中、そんな声が聞こえた。下層、スラム、と聞き慣れない言葉を問い返すべきだったかもしれない。だけど。


「ま、待って! それを返して⋯⋯っ!」


 埃を払う間もなく、立ち上がったアリソンは遠くなる少年の背中を追って走る。


「あーあ、追いつけやしないってのに」


 そんな呆れた声が後ろから聞こえていたが、それを無視して、アリソンは死ぬ気で走った。あのカバンの中には、銀貨が──アリソンとラズの全財産の半分が詰まっているのだ。

 盗まれないよう気をつけろと、ラズはちゃんと忠告してくれていたのに。そんなことにはならないと言ったのに、あんな簡単に奪われてしまうだなんて。


 少年は人通りの中を上手く掻い潜り、姿を消すつもりだったらしいが、アリソンのしぶとさと足の速さは予期していなかったらしい。人通りの少ない路地に出た時、少年は明らかに慢心し速度を落としていた。そのすぐ後ろに、アリソンが迫っていることにも気づかず。


「盗んだものを返してください!」

「う、うわっ。まさか、ここまで追いかけてきてたのかよ!?」


 舌打ちして、再びスピードをあげて走り出した少年をアリソンはすかさず追った。中間層から下層へと向かう、聖都のまともな住人なら誰も立ち入らない下り坂も、躊躇なく走り抜けていく。


「クッソ、しつけーよ! スラムまで追ってくるなんて⋯⋯!」


 段々と変わる周囲の景色に、アリソンも気づいていないではなかった。崖に沿って作られた美しい街並みは、もう見る影もない。下層に立ち入ったアリソンの周りに広がるのは、砂埃の舞う灰色の、風が吹けば倒れそうなボロ屋がポツポツと立ち並ぶスラムだ。

 行き倒れのように路上に倒れ伏した人間とそれにたかる虫、膝を抱えて座る子供、薄着の女たち。見たことのない景色に、けれど目を取られている隙も何かを思う暇もない。


 返して、とアリソンは、路上に響き渡るような大声でもう一度叫んだ。


「返してください! それは大事なものなんですっ!」

「そう言われて返すバカが、どこにいるんだよッ! くそ、ほんとしつけーねーちゃ⋯⋯」


 しつこい姉ちゃん、と少年が最後まで口にすることは叶わなかった。背後に迫るアリソンに気を取られていた子供は、正面に立ちはだかる二人組に気がつけず、そのままぶつかる。

 

「オイオイ、誰かと思いきや、ルークんとこの坊主じゃねえの」

「ヒヒッ、しかも良いモン持ってるじゃん。通行料としてもらいまーす」

「なっ⋯⋯か、返せよっ! それはオイラが獲ってきたんだっ!」


 立ち塞がったいかにも柄の悪そうな男たちは、片手で少年を捕らえると、少年が後生大事に抱えていたアリソンのカバンを取り上げる。カバンを上下に揺らし、ジャラジャラと音を立てて鳴る銀貨の音に、男は口笛を吹く。


「離せってばデカブツ! それはオイラのだよっ!」

「あ? ウッセーな、このガキ。オレたちが有効活用してやるってんだよ、グダグダすんな!」


 カバンの中身を吟味していた男が、もう一人の男に捕まり身動きの取れない少年を躊躇なく拳で殴った。ガツン、と鈍い音がして、少年の血が地面に飛び散る。横っ面を思いっきり殴られた子供が、口から血を吐き出す。

 それを目にした時、ふいにある声がアリソンの脳裏に蘇った。


『その時は、魔人に加担していた罪で君と君の可愛い弟を殺すだけだよ』


 明るく、どこまでも清廉な勇者の仮面を被った男の笑い声。


 ──落ち着け、とアリソンは自分に言い聞かせる。

 目の前にいる男はレインナートじゃない。ましてや男がその手に掴んでいる子供は弟のルノーではなく、カバンを盗んだ少年で。


 だけど、そんな理性は、男たちのふざけた言葉と下品で耳障りな笑い声によってかき消されていく。


「面倒くせーな、いっそコイツバラしちまうか?」

「ヒャヒャヒャ! いいじゃねえか、生きてるより価値があるぜ!」


 ドクン、と心臓が強く脈打つ。目の前の砂埃の舞うスラム街が遠のく。あの日の炎に包まれた木造の、生まれ育った家が戻ってくる。

 

「は、離せよぉ!」

「ヒャヒャヒャ!! 怖いならこのオレ様に無様に命乞いでもして泣き喚いて見せろよ、このゴミクズがァ!」


 レインナートが、ルノーを掴んでいる。

 ──違う、レインナートじゃない。見るからに柄の悪そうな、ゴロツキの二人組。ゴロツキが、ルノーを殴った。殴って、蹴って、痛めつけて、殺そうとしている。

 目の前の出来事を頭が理解した瞬間、アリソンの中の何かがぶち切れた。


「ルノーから⋯⋯その子から離れてッ!!」


 握った柄が熱い。まるで沸騰した湯に手を丸ごと突っ込んだような熱さに、アリソンは躊躇なく剣を抜き構えた。ゴッと唸るような音を立て巻き起こった炎が、アリソンの怒りを表明するようにその身を包み込む。



 そこからはあっという間だった。

 少年をいたぶることにすっかり夢中になっていた男たちが、突然の襲撃者──アリソンにまともに応戦できるはずもなく、彼らは三手も交わさぬうちに地面に沈んだ。

 男たちが地面に倒れ伏すのを見て剣をしまったアリソンは、魔界を出る前日の、ラズとの最後の訓練を思い出す。あの日、膝をついた彼女を見て、わざと負けたのではないかと思っていた。魔界を出る前だから、最後に花を持たせてくれたのではないのかと。

 だけど、どうやらそれは違ったらしい。3回に1回ラズに勝てたのは、本当にアリソンの実力だった。そして、彼女が「その辺の野盗相手になら負けない」とアリソンを評したことも。


 煤と切り傷に塗れた男たちの隣で腰を抜かしている少年に、アリソンは一歩近づき、手を差し伸べる。


「大丈夫? 助けるのが遅れてごめんね、ル──」

「くっ、来るなぁ!」


 バシッと振り払われた手を、呆然と見つめる。

 どうしたの、と問いかけようとして初めて、少年が己に怯えていることにアリソンは気がついた。


「お、お前、魔術師だったのかよ⋯⋯っく、くるな、金なら返すからっ!」

「ルノー? どうしてそんな⋯⋯」


 こちらを見つめる怯えた黒い瞳を見て、アリソンはようやく、彼が自分の弟ではないことに気がついた。

 少年は年齢こそルノーと同じぐらいに見えたが、それ以外は似ても似つかない。ルノーはアリソンや両親と同じ灰色の髪をしていたのに、少年の髪は瞳と同じ色をした癖っ毛だ。

 襲ってきたあの二人もまた、レインナートとは似ても似つかないただのゴロツキだったのと同じように、この子供はアリソンが何よりも助けたかった弟ではないし、ここは聖都マンディスの下層で、ドルフ村の我が家ではない。

 あの場所にはもう帰れはしない、永遠に。


 胸を締める言いようのない感情に顔を俯きかけた時、ふいに視界の端で何かが光る。ハッとしたアリソンが見たのは、倒れ伏した男の一人が、少年に向かってナイフを投げようとする姿だった。


「ッ危ない!」


 この子は愛する弟(ルノー)ではない。それでも、気が付けばアリソンの体は動いていて。

 迫り来る危険に気づかず、駆け寄るアリソンに「ひっ」と身を竦ませた子供の小さな痩せ細った体を、アリソンはぎゅっと抱き寄せる。

 自分を盾にする以外の方法が、咄嗟には思いつかなかった。ナイフなぞ、フランベルジュで弾いてしまえば良いのだということは、行動を起こした後から思い至った。


「え──」


 少年の驚いたような声が間近に聞こえる。そしてゴロツキの放った最後の抵抗はアリソンの背中めがけて飛び──途中で何かに弾かれて、軌道が逸れて地面に転がる。力なく落ちたナイフにゴロツキは顔を歪め、今度こそ意識を手放した。

 振り返ると、ナイフの側には矢が一本落ちている。軌道を逸らしたものの正体はこの矢だったようだ。

 誰かが助けてくれたのだということは分かる。でも一体誰が?


「あっ、ルーク兄ちゃん!」


 腕の中の少年が、屋根の上を指してパッと顔を明るくする。つられて見上げると、屋根の上には確かに人影がいた。

 いつの間に、と驚くアリソンの前で人影が地面に降り立つ。赤毛の長髪を一つにまとめた、アリソンより一つか二つぐらい年下なのであろう細身の少年。顔にはそばかすがあり、チャーミングな印象を受けるものの、真っ直ぐな黒い目からは狼のような気高い意志を感じられる。

 しかし、その気高さに目を見張ったのも一瞬のこと。視線があった瞬間、彼はヘラリと覇気のない笑みを浮かべた。


「ドーモ。うちの弟分が世話になったみたいで」

「弟⋯⋯えっと、この子のお兄さんですか?」

「血は繋がってないけどな。俺はルーク。ま、ここらのガキ共のまとめ役みたいなもんさ」


 手を差し出した彼と握手を交わしていると、付近の路上に座り込んでいた子供たちが、わらわらと集まってきた。子供たちは口々にルークの名を呼び、「お腹が空いた」と訴える。


「わーってるよ。今やるから、ちょっと待ってな。で、キッド、お前はまーた市場に盗みに行ったな? 盗んだもんは、ちゃんとお姉さんに返してやれよ。体張って助けようとしてくれたんだからな」

「うん。⋯⋯その、さっきはごめん、お姉ちゃん」


 カバンを拾い、埃を払ってから渡してくる黒髪の子供──キッドに、アリソンはカバンを受け取りながら「ううん」と首を振る。


「こっちこそ、弟と間違えちゃってごめんね。キッド君」

「弟? お姉ちゃん、弟いるの?」

「⋯⋯うん。キッド君と同じくらいの年なの」

「ふうん⋯⋯オイラ、その子に似てる?」

「うーん、あんまり似てないかなぁ⋯⋯弟は私と同じで、髪の毛が灰色だから」


 アリソンがキッドと言葉を交わしている間、後ろではルークが子供たちに食物を配っている。いつの間にか子供だけでなく、痩せ衰えた老人や女性も集まっていたが、ルークは何も言わず、彼らにも食物を渡していた。


「ルーク兄ちゃんは、オイラたちのリーダーなんだ。いつも色んなところから食事を持ってきてくれて、すごいんだぜ」

「そうなんだ。⋯⋯もしかして、キッド君が私のカバンを盗もうとしたのって⋯⋯」

「に、兄ちゃんには関係ないよ! オイラ、いつもルーク兄ちゃんに助けてもらってるから、恩返ししたくて⋯⋯!」


 声を荒げたキッドに、食べ物を渡し終えたルークはキッドの前まで歩いてくると、「ばーか」とその頭を軽く小突く。


「キッド、いつも言ってんだろ? 食いもんなら俺がどうにかするから、お前らは盗みに行くのやめろって。こないだ、捕まったガキがひでえ目にあったのを忘れたのか?」

「うぅ⋯⋯それはそうだけど、ルーク兄ちゃんにばっかりにやらせるのはイヤなんだもん⋯⋯」

「俺のは盗みじゃねえからいーの。変なこと気にすんなって。な?」

「⋯⋯うん」


 納得いかない様子ながらも、頷いたキッドの頭を「いい子だ」とルークは撫でる。


「で、悪いな。アンタは⋯⋯」

「アリソンです。ドル⋯⋯じゃなくて、えっと、遠いところから巡礼に来てて」

「ふうん、巡礼ねえ? んじゃ、弟分を助けてもらったお礼に、ひとつお節介。このスラムよりずーっと上の方にお住まいの、いわゆる聖女サマには会わない方がいいぜ」

「どうしてですか?」


 首を傾げたアリソンの耳に顔を寄せる、ルークは低い声で囁く。


「──会う価値もない、ニセモノだからさ」

「え⋯⋯」

「ま、信じるか信じないかはアンタ次第だけどな? そんじゃ、次からはボヤッと市場を歩かないようにな〜!」


 目を見開くアリソンに、パッと体を離したルークは緊張感のないヘラヘラした笑みを浮かべると、キッドの手を取り、曲がり角の向こうへと消えていく。


「ま、待って! どうして聖女が偽物だって知って⋯⋯!?」


 我に返ったアリソンは慌てて後を追おうと、角を曲がる。

 けれど二人の姿はもうどこにもなく、曲がり角の先には、ただ掃き溜めの路地がどこまでも続いているだけだった。





最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

もし面白かったら、ぜひ評価を頂けると嬉しいです。


次回更新日:1/17予定

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