四話(完結)
翌朝、僕は世界の端に座り、向こう岸を眺めた。彼女の姿は見えないが、彼女の家の煙突から煙が上がっているのが見える。幼い頃、彼女の家で食べた朝ご飯を懐かしく思った。
「『必ず会いに行く』と書けなくなったのは、いつからだろう」
僕たちはもう大人と言ってもいい年齢になった。子供の頃、必ず再会するという強い気持ちを手紙に書くことで、お互いを支え合ってきた。だがそれが困難であることが分かると、僕はそれを書くことができなくなった。手紙は近況を報告するだけのものになり、僕たちの心の距離は広がっていった。
グリが僕の肩に止まった。
「テガミ、トドケル」
「そうだね。素直な気持ちを書こう」
僕は紙とペンを手に取った。
きっと僕の不安な気持ちが彼女を不安にし、お互いの距離をより広げる結果になったのだろう。今の僕がするべきことは、空を飛ぶ翼を作ることではなく、彼女を支えるための言葉を紡ぐことだろう。秘密にしていた計画を彼女へ話そう。夢のような話だけど、頑張っていると伝えることが小さな希望になるはずだ。
『久しぶりだね。実は君に秘密にしていたことがある。ずっと忙しかったのは仕事のせいじゃないんだ。僕は都の学校に通いながら、あるものを造っている。それは鳥のような翼を持つ空飛ぶ船だ。これが完成すれば世界を越えることができるけど、今の技術では造るのが難しい。先日できたばかりの試作船も、飛ぶことができずに壊れてしまった。でも僕は船を造ることをあきらめない』
ケガをしたことはふせておいた。これぐらいの秘密は許してくれるだろう。そして僕は幼い少年のころのように強い気持ちを手紙に込めた。
『いつか必ず君に会いに行く。だから僕を待っていてほしい』
手紙を書き終えると、世界の向こう岸に彼女が立っていることに気づいた。僕が大きく手を振ると、彼女が手を振り返した。僕がまた彼女の支えになれたら嬉しい。僕は手紙と想いをグリに託した。
「あれ?」
不思議なことに、グリは向こう岸ではなく僕の家の方向へ飛んでいった。
「おーい、どこ行くんだよ」
振り返ると一人の女性が立っていた。グリは女性の腕に止まる。
「手紙、届けてくれてありがとう。早速読ませてもらうわね」
彼女は慣れた手つきで手紙を開き、時間をかけて読む。僕は言葉を発することができず、その様子を呆然と眺めていた。
しばらくすると彼女は手紙を閉じた。
「あなたが忙しい理由はこういうことだったのね。まったく、私に秘密で頑張るなんて許せないわ」
「――なぜ、君がここにいるんだ」
世界の向こう岸にいる彼女が、僕の目の前に立っていた。
「世界を越えて来たのよ」
彼女は小さな笑みを浮かべた。
「私も秘密にしていたことがあるの。聞いてもらえるかしら?」
僕はうなずくしかなかった。
「数年前、私の世界である仮説が発表された。それは世界は平らではなく丸いというもの」
彼女は空に丸い円を手で描いた。
「私とあなたの世界がつながっているかもしれない、そう聞いて心がおどったわ。でもこの仮説を証明するには、世界をぐるりと歩いて一周するしかない。それに――」
彼女が描いた円を真ん中で切る。
「もし裂け目が世界の反対側まで続いていたら、一周してもあなたの世界へは辿り着けない。でも私はあなたに会うため賭けに出た。『ずっとあなたを待ってる』だけでは嫌だったの。だから手紙にその言葉を書かなくなった。私は仕事を止め、世界を旅する調査隊へ入った。何年もの間、あなたの姿を見ることも手紙を出すこともできなくなるのは、本当に辛かったけどね」
彼女は寂しそうな笑みを浮かべた。
「幸いなことに、裂け目は反対側まで続いていなかった。とても長い旅になったけど、あなたに会えたことで、世界が一つにつながっていることが確かめられた」
僕は世界が丸かったことよりも、彼女が目の前にいることに驚いていた。
「私と一緒に来た人たちは、都に行っているわ。今頃大騒ぎでしょうね」
「ちょっと待ってくれ! 旅に出ていたはずなのに、どうしてさっきまであそこに――」
僕が向こう岸を指さすと、そこにも彼女が立っていた。こちらに向かって元気よく手を振っている。
「まだ気づかないの? あれは私の妹。すいぶん大きくなったでしょう。私とよく似ているから、代わりを務めてもらったの」
「じゃあ僕宛の手紙は? 姉妹だからといって筆跡まで同じわけがない」
「何通も書き溜めておいたのよ。いつも似た内容で不安にさせたのなら謝るわ」
数年前、向こう岸の彼女を見た時の違和感。それは妹と入れ替わっていたからだったのだ。それに手紙の内容について、的外れな心配をしていたことを恥ずかしく思った。
「……なんで秘密にしてたんだよ」
「決まってるじゃない。あなたを驚かせたかったから」
彼女は悪戯な笑みを浮かべた。だが僕にはそれが嘘だと分かった。本当は心配かけたくなかったのだろう。
「世界を一周する、そんな方法があったなんて」
「私も空を飛ぶなんて思いつかなかった」
グリが彼女の腕から飛び立ち、僕の腕に止まる。僕はグリの背中を優しくなでた。
「君には会えたけど、僕は空飛ぶ船を造ることは止めない。帰りは僕が向こう岸まで送っていくよ」
「うん、期待してる」
「それに、空飛ぶ船があれば君の妹の夢も実現できる」
『大きくなったら、みんなで暮らそうね』
彼女はその言葉を思い出し、顔を赤く染めた。
「実はもう一つ秘密にしていたことがあるんだ」
幼い頃から僕と彼女は家族のように過ごしてきたが、気持ちを伝え合ったことは一度もなかった。どれだけ強い想いでも、言葉にしなければ世界を越えることはできない。
「――ずっと前から、君のことが好きなんだ」
彼女は幼い少女のように笑みを浮かべる。
「その秘密を打ち明けてくれるのを、ずっと待ってた」
目を閉じると、昨日まで僕と彼女の世界を隔てていた境界は消え去り、優しい音が世界に響いた。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。