1話
(本当に無駄……)
アリアはそう思う。王宮にて闇を照らす豪奢なシャンデリアの下、庶民の稼ぎ数年…いや数十年分をたった一晩だけに費やす阿呆な令息令嬢の塊を見てアリアはため息をついた。
(…あの人、お家が借金でもう回らなくなってるの気づいてないのかしら?また新しいドレスだわ)
アリアの目に留まったのは、派手な赤いドレスを着た令嬢。家が借金まみれなのに新調されたドレス。考え方を変えれば、その借金を返せる裕福な令息の目に留まる…そのための投資とも考えられるが、アリアからすればそれは投資ではない。投機、ギャンブルだ。
毎夜開かれる夜会。その夜会の開催の為に費やされる金額は莫大だ。もちろん、そうやって費やされるお金でもって経済を回すのだから、むやみやたらに嫌悪するものでもないが、だからといって限度がある。
アリアは雑貨店を数店舗経営する立派な経営者だ。令嬢であり、貴族位が無いにも関わらず、事業を手掛けている。一部には貴族向けの服飾品を扱う店も経営している。だからこそ、彼女らが着るドレスがどの程度の金額なのか、見ればおおよそ判断できる。…その一着を作るのに、どれだけの人手が、コストが、労力がかかっているのかも。それが、ほとんど今夜着て、あとはクローゼットの肥やしになることも。
ここに並ぶ大量の料理もそうだ。貴族用に用意されたこの食事は、残れば残飯として処理される。が、それらは一口口にされればいい方で、ほとんど手つかずで残る。カフェも経営しているアリアは、それらの原価も知っている。調理に掛かる手間も知っている。……だからこそ、夜会は無駄だと思っている。
そういうアリアも、夜会に出席する以上ドレスは着ている。が、彼女にとって夜会はただ義務感で…両親に懇願されて…出席しているにすぎない。だから、彼女の着ているドレスは既に何度か着ているドレスを、都度細部の手直しをして着ている。くびれのある女性が人気だからと流行りのコルセットも付けていない。あんな苦しいものを付けたら、何も喉を通らないではないか。
ゆえに、アリアは浮いていた。流行りのドレスでもなく、コルセットもしておらず、誰と会話するでもなく平然と食事をしている。夜会で提供される料理は、そのどれもが一級品だ。カフェも経営しているアリアは、なにか店でも提供できるものはないかと経営者目線で料理を口にしていく。多少なりとも料理の心得もあるアリアは、そうしてカフェのメニューを増やすこともある。
「……あら、これ美味しいわね」
テーブルにあった見慣れぬ果物。口にすると、たっぷりの果汁に、濃い甘みと酸味が一気に押し寄せてくる。これは人気が出そうだと経営者として判断する。そのままでも十分美味しいが、デザートとして加工するのも面白そうだ。
判断するやいなや、アリアは近くを通った侍従に声を掛け、果物の詳細を聞く。厨房に確認してきますと言い残した侍従を待ちつつ、二口目を頬張る。
そうして平然と料理を頬張るアリアは、決して目立たない容姿はしていない。長い金髪に碧眼、ぱっちりした瞳と血色の良い肌に整った容姿をしている。そのままでいれば人目を惹くのは間違いない。それを嫌う彼女はあえて分厚いレンズと極太フレームの伊達眼鏡を常に身に着けている。彼女の家も、伯爵位ながら事業に成功し裕福だ。にも関わらず令嬢らしい振る舞いをしない彼女に声を掛ける男は少ない。興味本位で声を掛けてくる男はいるが、そんな男に愛想よく返す気などアリアにはない。すげなくかわし、また一人に戻っていく。
戻ってきた侍従から果物の情報を仕入れ、市場で調べることを頭に記憶しておく。そうして、体裁を保つ程度には滞在した夜会から帰ろうとしたところ。
「アリア・フォンデーヌだね?」
いきなり名前を呼ばれ、だがその声色が明らかに友好的でないことに気付いた。
(誰かしら…?面倒そうね)
そう思いつつ、声のした方向に振り向けばそこにいたのはこの国の第二王子、カルロスだった。艶やかな黒髪がさらりと揺れる。赤みがかった瞳は目つきは穏やかだが、実態はそうでもなさそうだ。紺のスーツを身に纏い、落ち着いた感じは如何にも紳士的だ。…背後に令嬢たちを付き従えていなければ。
その令嬢たちはあからさまにアリアには非友好的な…むしろ敵意といっていいくらいのまなざしを向けている。しかしながら、アリアからすればそんな眼差しを向けられるいわれはない。当然、第二王子であるカルロスとはこれが初対面だ。彼に声を掛けられる理由もないはず。
この状況が明らかに面倒くささを通り越して厄介にまで発展していることを察したアリアは、頭を切り替えて早々にこの場を脱する算段を立て始めた。
「初めまして、カルロス殿下。殿下に名を覚えていただけるとは光栄でございます」
そう言い、淑女然として頭を下げる。令嬢らしい振る舞いをしないアリアだが、淑女教育を受けていないわけではない。普段は面倒だからそうしないだけ。
「ああ。でもすぐに忘れるだろうから気にしないでくれていいよ」
「…そうですか」
一瞬、カルロスの言葉の意味を理解できなかった。名前を呼んでおきながらすぐに忘れる?カルロスの真意が読み取れず、アリアは無難に返した。
「話があるんだ。休憩室に来てくれ」
そう言い、カルロスはアリアの返事も待たずに歩きだした。
「すぐに話を着けてくるから、待っててくれるかい?」
付き従えた令嬢たちには、甘いを通り越して甘ったるくて胸焼けしそうな笑みを向けて。そんな笑みを向けられた令嬢たちは顔をうっとりさせて「はい」と答えた。
カルロスがその令嬢たちに完全に背を向ける位置まで歩けば、そのうっとりした顔は途端に豹変し、アリアを睨みつけてくる。その表情の変わりように(良い役者になれそうね)と他人事のように思いつつ、カルロスの後を追った。
会場の喧騒が遠く、かすかに聞こえる程度に歩いたところでカルロスは休憩室に入った。部屋の前には侍女がいたが、カルロスによって下げられた。よほど、誰にも聞かれたくない話らしい。
いくら王子の呼び出し、城内の休憩室とはいえ男女だけになるのは憚られる。だが、アリアは自分がそういった対象になるとは露とも思っていない。自分が女としてどれだけ不人気かは知っているし、いくら『あの』カルロスといえども、自分に手を出してくるとは思えない。もっとも、それ以外にもアリアが自分の身に危険を感じていないのは他の理由もあるのだが。
「さて、座り給え」
先にソファーに座ったカルロスが、アリアにも座るよう促してくる。指示通り腰を下し、アリアはカルロスを見据える。
「単刀直入に言おう。僕との婚約を破棄してくれ」
「……………意味が分かりかねます。まず、誰と誰が婚約をしている、と?」
「君と、僕だ」
あまりにも前提条件を吹っ飛ばした内容に、さすがのアリアもついていけなかった。というか、いつアリアとカルロスが婚約したというのか。間違ってもアリアにカルロス…それもこの国の王子との婚約の事実は無い。そもそもこの夜会に出たのだって、両親がアリアに相手を見つけるようにと半ば強引に出席させられたからだ。その両親含めて知らず婚約していた…などということはあり得ない。
「ああ、婚約は明日、父上から発表される。君の家にも今頃連絡がいっているだろうね」
「……そうですか」
カルロスの父上ということは、この国の王…国王から発表されるということだ。
国王からの宣言による婚約。その婚約を、カルロスは破棄したいと言い出している。
「…………はぁ」
これは当人だけでどうにかできるものではない。国王から直々に発表されること。その意味を、目の前の男は認識していないのか…アリアはそう思ってしまった。一方であのカルロスならば、それもありうると思ってしまう。
「殿下から、婚約を破棄したいといえばよろしいのではありませんか?」
アリアの進言は当然の内容だ。所詮アリアは伯爵家の令嬢でしかなく、伯爵位を持っているわけではない。そんなただの小娘が、国王の決定に異を唱えるなど許されるわけがない。だが、少なくとも当人であり、第二王子でもあるカルロスならば話は多少変わるはずだ。そう思い尋ねたのだが、カルロスは途端に顔を歪ませた。
「言ったさ、何度もね。でも、『お前にはフォンテーヌ家のアリア嬢が相応しい』の一点張りさ。全く……誰が好きこのんでこんな地味な女を嫁に貰わなくちゃいけないんだ。罰ゲームもいいところだ」
「……………」
いろいろと突っ込みたかったアリアだが、ぐっとこらえた。ここでそれに突っ込んでも事態は打開しない。
「…だから、私から申し上げろ、と?」
「僕からは何を言っても聞く耳持たないからね。君にとっては僕と結婚できる大変名誉なことなんだろうけど、僕はあいにく望んじゃいない。残念だったね」
(大変名誉?頭が腐り始めてるようね)
力が入りかけた額を根性で解きほぐす。まだ、まだここで爆発するわけにはいかない。そう頭で念じ、伊達眼鏡を上げ直す。
「私からも結婚の意思はないと申し上げれば陛下は諦めるのですか?」
「そんなの知らないよ」
ぷちっ
何かがアリアの中で切れた。
『あの』カルロスの噂について、アリアもいくつか耳にしている。
曰く、放蕩軟弱軟派王子。王族としての執務を一切こなさず、城に来る令嬢たちと遊び惚ける毎日。遊ぶといっても、さすがに体の関係を持ったといううわさは聞かないが、一方でカルロス一人に令嬢複数というハーレムな光景が、度々目撃されている。そのため、未だに特定の相手がいないとも。
それらはあくまで噂。実物を目にするまでは噂に流されてはいけない。経営者としても安易に流されてはならないと自制するアリアにとって、噂は噂だと思っていた。
しかし今確信した。噂のいくつかは事実だと。今日も複数の令嬢を背後に従え、国王の言葉をただの戯言かなにかと勘違いし、簡単に撤回できると思っている。その幼稚さ無知さは、もはや犯罪だ。これが人の上に立つ王族なれば、なおさら重罪といってもいい。
まして、こんな男を伴侶に?王子という肩書が無くなれば何も残らなそうなこんな男が?
「わかりました」
アリアの返事にカルロスは喜色の笑みを浮かべた。その笑みすら、もうアリアの琴線に触れて苛立つ。
「よかった。これで君との婚約は…」
「あなたみたいな子供とは婚約したくありませんからね」
被せるように言い放ったアリアの言葉に、カルロスの表情が固まった。そのまま言葉を続ける。
「よもや、ここまで愚か者とは思いませんでした。陛下のお言葉をなんと心得ているのでしょう。そんな方と結婚しては私のこれからの人生が思いやられます。あなたとの結婚など、地獄に落とされたのと同意義ですわ」
「なっ…」
表情が驚愕に変わるカルロスに向けて、さらに言い放つ。
「婚約破棄、大いに結構、私も望むところです。この機を最後にして、二度とお目にかかれないことを切に願いますわ」
そう言ってアリアは腰を上げた。唖然としたままのカルロスを置いて、扉に手を掛ける。
「ま、待ちたまえ!」
ようやく意識が戻ったのは急いで立ち上がり、呼びかけてくる。が、完全にぷちっといってしまったアリアにその言葉は届かない。
「さようなら」
無情にも扉の締まる音が部屋に響いた。閉められた扉を前にカルロスの脚が止まった。彼にとってアリアの行動は予想の範疇外だった。女など、王族であるカルロスの前に誰しもがひれ伏し、自分を伴侶にと求めてくる。自分を拒絶する女などあり得ない。いたことが無い。それがカルロスの常識だった。
…その常識が、目の前で粉砕した。拒絶された。自分との婚約に喜ぶことも、破棄しろと言われて泣き崩れることもなかった。明確な、それも今まで感じたことが無い嫌悪感を伴い拒絶。そこに、追い打ちが掛かる。
「ひぃっ!?」
突然、扉から何かがぶつかったような轟音が響いた。扉が壊れるのでは、そう思ってしまうほどに。その音に怯んだ身体は動かない。その音の直後、扉の前を離れるヒールの音。
あの音は何だったのか、答えは出てこない。彼の身体が動いたのはヒールの音が聞こえなくなってからさらに数分。ゆっくりと扉を開け、外の様子をうかがう。そこには誰もおらず、わずかに会場の喧騒が聞こえてくるだけ。
廊下に出たカルロスは、後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと会場に向かった。…彼がそこで振り返らなかったのは、偶然か、はたまた無意識が拒否したのか。
閉められた扉には、何かがぶつかった凹みがあった。