26話
目が覚めた時、ルドはまだ共にベッドにいた。とうに日が昇り、王として執務を始める時間はすぎているはず。それなのにまだそこにいることに、つい苛立ちを覚える。
「…何故、まだいるんですか」
「おはよう」
「…おはようございます」
私の問いを無視して挨拶をしてくる。それにすらまた苛立ちを募らせてしまう。
「もう執務の時間では?」
「今日は時間をずらしてある」
用意周到なことで。一方の私からすれば、いつまでもルドと同じベッドにいる理由は無い。身体を起こし、ベッドから這い出よう…として、腕を掴まれた。
「放してください」
「どこにいく?」
「湯あみをします」
昨日は行為を終えてそのまま寝入ってしまったから、身体のあちこちが気になってしまう。だから早く身体を洗いたい。それなのに、ルドは手を放さない。
「まだ私と一緒に寝ろ」
「嫌です」
「…そんなに私と離れたいか?」
「っ……」
問いに押し黙った私の反応に、ルドはそっと目を伏せた。でも手は放さない。そんなルドの反応にも、私の心は冷たいまま。
(このまま……終わりかしら)
手は掴まれていても、心はどんどん離れていく。ルドが見ているのは、自分じゃない自分。いっそ別の誰かならもっと割り切れたかもしれないのに、その相手はもうこの世におらず、それでいて私にもっとも近くにいる。
奇妙な関係。一言ではっきりと言い表せない状況に、もやもやと苛立ちが募る。いつまでも掴まれたままの腕が痛い。いい加減放させようとその手を抓ろうとしたら、抓ろうとした手まで掴まれてしまった。そして、その手ごと引っ張られ、抱きすくめられる。
…衣服をまとわない、素肌同士が触れ合う。ルドの、高い体温が伝わる。鍛え上げられた硬い胸板に私の胸が押しつぶされた。肺が圧迫され、息苦しさを覚える。
「どうして…伝わらない…」
ルドの悲痛にも感じられるつぶやきは、私の心には何も響かなかった。伝わるも何も、ルドの言葉は『グリエ』にしか向いていない。私…シセリアには向いてすらいない。それをまだ分からないことに、ついに爆発した。
「ふん!」
「ぐっ!?」
抱きしめられて腕が使えない私の、唯一の抵抗。
渾身の……頭突き。
これにはさすがのルドも力を緩め、解放される。けど、解放された私の手が最初にすることは、同じく頭突きで痛めた私自身の頭をさすることだった。
「おま…え、は……」
ルドも同じく頭を手で押さえている。身体は鍛えても頭は鍛えていないようで、この勝負なら私に分がある。…私も十分痛いけど。
「私は……『グリエ』じゃない!!」
ただそれだけを叫び、私は痛む頭を抑えながら浴室に飛び込んだ。
王の使う浴室ということもあって、ここは常に湯が張られている。身体を洗うのもそこそこに、私は湯船に飛び込んだ。少しぬるめの湯がとても心地いい。
「はぁ……」
知らず、息が漏れる。身体は落ち着いた。けど、心は落ち着かない。直前の、捨て台詞のようになってしまった叫び。
『グリエ』じゃない。
そんなの今更だ。どんなに私に『グリエ』の記憶や人格があろうと、私はもうシセリアなんだ。
…その完全な違いを、ルドに愛されていたと知ることではっきりしたのは皮肉としかいいようがない。ルドが『グリエ』を愛していたのなら、シセリアも愛していることになる……そんな勘違いを、一時でもしていた自分が恥ずかしい。
『グリエ』は別人。シセリアとは別人。だから、ルドが愛しているのは私じゃなくて、『グリエ』。私は……愛されていない。
ルドは、私を…『私たち』と見ている。シセリア=『グリエ』と。そうわざと振舞ったこともある。勘違いさせてしまったのは、私にも原因がある。
…ただの自業自得、なのかもしれない。『グリエ』の知識を都合よく利用した罰なのかもしれない。
浴室から出ると部屋にルドの姿は無く、侍女たちが待機していた。『執務に向かう』という伝言を私に伝えて。
どうしようもなくむしゃくしゃした。ひどく気分も悪い。こんなときはひと暴れするに限る。
私は動きやすいように騎士服に着替え、騎士団の訓練所に向かった。
「次!」
一人、騎士が地面に倒れ伏したと同時に私は叫んだ。
「なんかずいぶんと荒れてないか?」
「陛下と…うまくいかなかったんじゃないか?」
騎士たちのそんなひそひそ声も気に入らない。とにかく気分が悪い。
「い、行きます!」
次の騎士の一人が前に立つ。確か、最近入隊したばかりの新人。やたら体格が良くて身体能力は高いが、剣の扱いは壊滅的に下手だ。
「でやあああぁぁぁ!!」
技も何も無く、ただ無造作に突っ込んでくる。軽く剣をいなし、胴へと一撃を加える。それをこなそうとした瞬間、ひどい吐き気に襲われた。
「っ!?」
その吐き気は、身体の動きをすべて止め、挙句意識すら止めていた。
「あ」
気づいたときには遅い。新人の振りかぶった剣は既に目前まで迫っている。かわすのもいなすこともできる距離じゃない。そして、体格だけはいいこの新人の一撃は、並の騎士ですら受け止めきれないほどに重い。私に防ぎきれるものじゃない。
「がっ!」
かろうじて剣を間に割り込ませることができたけれど、その重い衝撃は私の全身を貫いた。その衝撃は体重の軽い女の身体で受け止めきれるものではなく、軽々と吹き飛ばされ、地面を派手に転がった。
「……ぅ……ぁ……」
全身がバラバラになったと思うほどの衝撃。加えて強烈な吐き気に、指一本まともに動かせない。
騎士団も、私が吹き飛んで転がり、起き上がらないという異常な光景に完全に静まり返っていた。
その静かさの中で、徐々に落ちてゆく私の意識と、それとは逆に騒ぎ出す騎士団。
「シセリア!」
誰かが私の名を叫んだ気がしたが、その瞬間完全に私の意識は落ちた。
「いいですね、絶対に安静です」
「……はい」
医師の診断のもと、私はベッドで絶対安静を言いつけられた。そして、その診断結果に心はどうしようもなく沈んでいた。
「安定するまでは剣を握るなんて絶対にしてはいけません。国中が望んだ世継ぎの誕生なのですから」
「……はい」
そう……私は妊娠していた。悪阻がきていた。だからこその不調だった。
そして、誰の子なのかはいわずもがな……ルドの子。つまり、国中が望んだ世継ぎをこの身に宿した。
幸いにして剣を受けた衝撃は大事には至らなかった。傷は合っても骨折は無い。あの状況でも受け身はとっていたようだ。
それなのに……私の心は暗い。
「今は悪阻でつらいでしょうが、直に収まります。それまでは、安静に」
医師は私の落ち込みを悪阻のせいだと思っているようだが、違う。
子供が出来てしまった。
その事実が、どうしようもなく心を堕としていく。
待望の世継ぎ。その報に城中が歓喜に湧いた。あちこちで喜びや祝福の言葉が巻き起こる。この機に正式に結婚式をあげるべきだと急ぐ声もある。
国の重鎮たちが、こぞって部屋に押しかけようとした。全て断った。誰にも会いたくなかった。
ルドが見舞いにこようとした。当然…拒絶した。ルドは……今一番会いたくない。
そのことが、今度は要らぬ波紋を呼び起こした。
王妃が宿したのは陛下の子供ではない。陛下の子ではないとわかっているから、王妃はいたたまれず、陛下との面会を拒絶しているのではないか。
そんなことはない。ルド以外にこの体を許したことなんかない。そう否定すればいいのに……それすらする気にならない。
悪阻と、心の沈みが、食べ物を一切拒否した。このままでは母体が危ないと離乳食のような食事が提供されるようになった。それを無理に喉に流し込んでいく。
当然、その状況はルドの耳にも入った。拒絶を無視し、ルドが部屋に入り込んできたのは、それからすぐだった。
「シセリア!」
「陛下、お静かに!」
いきり立って入ってきたルドを、長年の侍女長が窘めた。それも意に介さず、ルドはずんずんと歩みを進め、ベッドにいる私の元までやってきた。
ルドの顔を見たくなくて、私は窓へと顔を向けた。すると、ルドは回り込んで窓側へとやってくる。……布団を引き寄せ、頭までもぐりこんだ。
「……なぜ……」
ルドの悲痛な声が響く。でも、それが私の心に響くことはない。
私自身、私のことがもうわからなくなっていた。意固地ではない。ただ、どうしようもなく辛い。悪阻だけじゃない。むしろそちらは徐々に収まりつつある。でも、そうじゃない何かが、どんどん心を堕としていく。
布団を掴む私の手にそっと誰かの手が添えられる。それがルドの手なのはすぐにわかった。いつ以来だろう、その手に触れられたのは。
…その日の夜は、眠れない夜だった。悪阻は収まりつつあるので、立って歩くこともできた。ベッドから抜け出し、窓際へ向かう。既に時は深夜で、声はどこからも聞こえない。
今夜は満月だった。煌々とした月明かりが部屋を照らしている。月を眺めながら、ぼんやりと思考に耽る。
(『グリエ』なら……よかったのに……)
そんなことを思った。『グリエ』なら、陛下の寵愛を受けることができた。『グリエ』のままなら……そこで、ようやく心が堕ちている理由がわかった。
(そっか……『シセリア』は誰にも求められてないんだ……)
ルドは、『グリエ』を望んだ。
王宮は、王妃を望んだ。
国民は、世継ぎを望んだ。世継ぎを産める存在を望んだ。
『シセリア』は求められていない。
『シセリア』である必要はない。
『シセリア』じゃなくてもいい。
『グリエ』が望まれても、『シセリア』は喜ばない。
だから……だから、辛い。
「…起きていて、大丈夫なのか?」
頭のすぐ上から降りてきた声に、身体がびくりと震える。反射的に振り返れると、すぐそこにルドが立っていた。扉を開けた音も、何もかも聞こえていなかった。
驚いたままの私に、見下ろすルドの目は……どこか悲しみをたたえつつも、それでも気遣う様子を見せた。
「…はい」
問いに答えると同時に顔を伏せる。
「そうか……」
それきり、ルドも言葉を紡がなかった。
「……」
「……」
沈黙が二人を支配する。ルドが離れる様子はなく、私もどうしたらいいのかわからなかった。
「…どうして、こんな時間に…」
もう時刻は深夜。誰もが寝入るこの時間。来て欲しかった…わけではない。ただどうしてこんな時間に来たのか、それだけが知りたかった。
「二人きりに…なりたかった。二人だけで話がしたかった」
その言葉に、覇気は無かった。まるで、見捨てられたかのような…子供のように。そこで、ようやく今の自分…これまでの自分の態度が、どれだけルドを追い詰めていたかを知った。
私が、『シセリア』を求められていないことに絶望したのと同様、私もまたルドを求めることはしなかった。求めているのに求められていない…そんな、状況だった。
「…座って、ください」
そっとベッドに腰をおろし、顔を上げてルドの顔を見つめて微笑み、隣を軽く叩く。それにルドは驚いた顔をしながらも、私の隣に腰を下した。
「………」
「………」
再び沈黙が広がる。けれど、今度それを打ち破ったのはルドの方だった。
「街で…初めて会ったのを覚えているか?」
「…覚えています」
あれは私に合う剣を買いに行った日のことだ。覚えている。やたらと面白がられて、散々な目に合わせられた日だ。
「面白いやつだと思った。私を王だと気づいても恐れを抱かず、それどころかあからさまに『面倒』だと顔に書いているやつは、な」
「………」
顔に出てたとは失敗。
「…どうしてあの時、お前に興味を引かれたのかは分からなかった。令嬢のくせに剣の腕が立つ…その程度の認識だったのにな。それでいて私を恐れない。…お前が、『グリエ』だったのなら、納得がいく」
「………」
『グリエ』の名に、胸の奥がずんと重くなった。いやだ、もうその名は聞きたくない。
「だが、お前が『グリエ』だとは思えなかった」
「……えっ?」
けれど、何故かルドからは私と『グリエ』を否定する言葉が出た。
「あいつは……私を茶化すようなことはしない。見た目は小柄で女のようなのに…真面目一辺倒で感情を表に出さず、けっして冗談を言わないくそ真面目なやつだった。国に、私に忠誠を誓い、規律を重んじ、それが私相手でも変わらない。他者を軽んじることはしない…それがあいつだ」
「………」
「だが…お前は違う。感情を素直に表に出し、『じゃあね』などと気安い言葉を掛けてくる。不愉快なことをされれば、真っ向からぶつけてくる。そんなお前を見て、どうしてあいつと思える?」
これは何?。けなされているのか、褒められているのか、ただ違いを言っているだけなのか、判断に悩む。
「普通の令嬢とは違う、ずっと自由奔放な姿。規則にないから騎士に女の身でなりたいなど…あいつなら絶対に言わない」
…確かに、『グリエ』は規則を重んじる。ゆえに、そんな規則の抜け穴を利用することはしなかった。
「あいつは、まだ王子だったとはいえ私相手に臆さず意見をぶつけてくる。だから、そんな対等さが必要だと思った。だが、シセリア…お前は違う」
ここで、ルドがまっすぐ私を見る。
「シセリア…お前はあいつとは違う。あいつよりもずっと私にぶつかってきてくれる。真っ向から、感情をぶつけてくれる。誰よりも…私を見てくれる。だから…お前がいいんだ」
「……ル、ド……」
「やっと名を呼んでくれたな」
あ、と気づいたときには遅く、私の身体はルドの腕の中に抱きすくめられていた。そこから抜け出そうという気持ちは無い。ただ、久しぶりに感じるルドの腕の中の温もりに、ひどく安心感を抱いてた。
「…でも、あの時…」
私が『グリエ』だと告白した時。あの時のルドは私を『グリエ』としてしか見ていなかった。だからこそ、私は『グリエ』としか見られていないと思っていたのに…
「あの時?」
「私が……『グリエ』と告げた時…」
「あれ、か……」
途端に、ルドの声が悔しそうな響きを帯びている。
「お前があいつの生まれ変わりだと分かったとき……あの時はひどく混乱した。あいつが生きていただとひどく喜ぶ自分がいた。だけど……一方で『違う!』と叫ぶ自分もいた」
「えっ?」
「もしあいつだったのなら…あんな状況になれば、怯えることなどあり得ない。素直に組み伏せられるなどあり得ない。簡単に返され、無表情に、冷徹に仕置してくれただろうな」
「………」
「頭に投げ込まれた情報はあいつだと囁く一方、眼に映る姿は『違う』と否定する。ひどく混乱し……そこでは、喜ぶ自分が勝った」
それで勝った結果があれだというのか。
「だが、お前が逃げた後、ようやく頭が冷えた。…結構痛かったぞ」
「私も痛かったのでお相子です」
「そうか……。それで、確かにお前はあいつの記憶を持っている。だが…別人だと」
ルドの言葉にようやく気付く。ルドは私を『グリエ』として接していなかったことに。『グリエ』として接したのは初めてルドを受け入れた夜の、あの一言…『再会』だけ。
それ以外で、ルドは私を『グリエ』扱いしていない。いつも、どこでも…私をシセリアという一人の女性として見ていた。……見過ぎて獣のようになっていたのは許しがたいけど。
「『私はあいつじゃない』と言われたときは何事かと思ったぞ。始めから…こちらはお前しか見ていなかったというのに、な」
なんだろう…だんだん恥ずかしくなってきた。私が勝手に『グリエ』に見られていると思っていたら…私が『グリエ』越しにばかり見ていたことに。
「お前はシセリアだ。『あいつ』とは違う」
気づけば、ルドは『グリエ』の名を呼んでいなかった。『あいつ』としか呼んでいない。
「…あいつは死んだ。もうこの世にはいない。ここにいるのはシセリアというの名の一人の女性で……私が愛する女性だ」
その言葉が、何か私から解き放った…ような気がした。ずっと背負い続けていた何かが……ようやく解放されて消えたような気がする。
「お前に会えて…ようやく私はあいつに囚われていたことに気付いた。シセリアという女性が、私の扉を開けてくれたんだ」
「……私も、です」
ルドと同じく……私も『グリエ』に囚われていた。『グリエ』の記憶と人格が……シセリアという存在をむしばんでいた。私はシセリア、『グリエ』じゃない。そう思えば思うほどに、『グリエ』の存在感が増し、私とルドの間に壁のようになっていた。
今はもう…その壁は無い。
「ルド……」
「どうした…シセリア?」
私の名を呼ぶルドの声が、どうしようもなく優しい。そう感じるのはきっと気のせいじゃない。
「好き……」
「ああ、私もだ。……いや、違うな」
「えっ…?」
「愛しているぞ、シセリア」
「………バカ」
一瞬落とされて、すぐさま持ち上げられる。そんな風に遊ばれたことがどうしようもなく悔しくて…嬉しかった。




