八話『一つ目の終わり』
◆倉科結絃視点◆
……翌朝。
目覚めは、お世辞にも気分がいいものではなかった。
「…………」
昨夜はずっと、喜多川のことを考えてろくに眠ることができなかった。目を瞑ると喜多川のあの妖艶な顔が浮かんできて、またしても恐怖を覚えて落ち着かなくなるのである。
そのせいで目を瞑れなくなり、目を開けていようがそれは脳裏に浮かぶ。結局最後は、子供たちに付き合って遊んだ疲れが身体に現れ、電源が落ちるように眠りについた。
寝入りがそんな風に愉快なものではなかったのだ。目覚めも同様に気分は優れない。寝坊することはなかったけれども、それは熟睡できなかったということでもある。
「……いたい」
案の定凄まじい痛みを発する筋肉痛に顔を顰めながら、口でも文句を言ってみる。しかしそんなことで痛みが和らぐわけもなく、また脳裏の嫌な考えも消えてはくれない。
「…………」
喜多川は、どうするんだろうか。
どうあれ一緒に住む間柄な以上、どこかしらで顔を合わせることになる。直近では今朝の朝食の席だ。
あんなことがあった後である。喜多川のことだから、気まずさになにも言えなくなるのではないだろうか。
……歩み寄るべきなのは、俺の方だ。
俺が思っていることを、きちんと全部。俺から、喜多川に伝えるべきだ。
「…………」
寝間着から牧師服への着替えが終わる。覚悟を決めて、俺は部屋の外へ踏み出した。
朝食の時にみんなの前でする話ではないから、どこかの折にタイミングを見計らって二人きりにでもなろう。無理でも最悪、昨夜の喜多川のように部屋に訪ねればいい。
――しかし、喜多川が部屋から出てくることはなかった。
◇
喜多川が部屋から出てこないのはなぜか、と心配する子供たちに、心当たりしかない俺が説明を行う。
と言っても、口八丁でごまかす、というのが正しいのだが……俺はこういうごまかしが下手なのだろうか。なぜか子供たちにすぐにバレ、朝食を喜多川へ届けるという名目で彼女の下まで送り込まれてしまった。
「……はぁ」
漏れ出たため息は呆れのため息である。「まったくあいつらは……」と、諦め半分で肩から力が抜けた。
そのまま、お盆に乗せられた喜多川の分の朝食を手に、廊下を歩いて彼女の部屋へ。
「――ユズルさん」
その途中に、声をかけられた。
一瞬、誰から声をかけられたのかわからなかった。声の主の方に向き直って、ようやくその人物の声を思い出す。
「カティアさん?」
そう、声をかけてきたのはカティアさん。俺たちが来るまでこの教会を一人で切り盛りしていたすごい人で、俺たちに神学を教えてくれた恩師兼、住むところと働き口をくれた大恩人だ。
――その、はずなのに。
彼女の姿を真正面から見てみて、俺は変な感覚を強く覚えた。
――曰く、〝誰だこれ〟、と。
薄く微笑むカティアさん。手にはなにも持たず、お馴染みの修道服を着ながら廊下に立つ彼女……見慣れているはずなのに、依然として違和感が拭えない。
俺の知っているカティアさんと、目の前に立つコレは、なにかが決定的に違うと――どうしても、そう思えてならない。
……そう俺が思ったのを、見透かしたのか。
カティアさん――と、俺が思っていた何者かは、口元に浮かべた笑みを深くした。
口角を吊り上げて歯を覗かせる、唇の赤色が毒々しく鮮やかな、闇を孕んだ笑顔。
――それは正しく、悪魔の微笑みだった。
「ゆうべのレイラさんの相談、どうでしたか?」
悪魔の微笑みのまま、何者かは口を開く。その声が誰のものなのかも、俺にはもうわからない。
「驚きましたか? 悲しかったですか? それとも……あぁ、吐きそうな顔をされていましたねぇ?」
何者かの発する言葉には、気味の悪さしか感じない。
なぜこいつが昨夜のことを知っているのか、なぜその時の俺の顔を引き合いに出せたのか、そんな疑問にも意味を感じない。
ただただ、気持ち悪い。
「……お前は、なんだ」
声を絞り出すようにして、俺は何者かに問いかけた。思ったよりも低い声が出て、それは無意識に込められた敵意と警戒のせいなのだと、遅れて気がつく。
――何者かは、より一層面白そうに顔を歪ませ、醜い笑い声を響かせた。
「くヒッ、ヒヒ、ヒヒヒヒッ――」
身体をくの字に折り、腹を抱えた大爆笑。それを気味の悪い微笑みのまま行うのだから、それがよくないものであるのは明白だった。
無意識の敵意と警戒、それらが怒りに変換され、俺が声を荒らげかけた瞬間。
「っ、お前は……!」
「――私は、悪魔王」
何者かは、静かに響く声で言った。
「ジゲンの悪魔王です、哀れな人間よ。端末でのご挨拶となり、誠に申し訳ありません。私がご招待しました異世界での生活、お楽しみいただけていますか? ……クッ、クヒヒッ、ヒヒヒッ!」
そうして、気取った風にペコリと一礼までしてみせて、何者かは耐えきれなくなったように再び笑い始めた。
――その言葉の中に、聞き捨てならないものがあった。
「……お前が、招待した?」
「ヒヒッ、ヒ――! ええ! ええ、そうですとも! チキュウ、ニホンと言いましたか? 他ならぬこの私が、そこから皆さんをお呼びしたんです!」
――「だけどどうも、人間じゃないみたいなんだよ」。
カミーユさんから告げられた言葉が蘇る。悪魔王、と名乗るのは、そのまま〝人間ではない〟という意味らしい。
「端末、だと……?」
「はい、端末! 私の加護を得た人間は私の意のままに操れるのです。もちろん自意識など必要ありませんから、そのような無駄なものは排除していますがね! 〝コレ〟はその一つにございます!」
――「カティアさん」と今まで呼んでいた存在は、遠に喪われていること。
そのカティアさんが、喜多川に相談を促して。
昨夜、喜多川が俺の下へ来た。
それを、悪魔を名乗るこいつが、上機嫌に聞いてくるのだから――
「……じゃあ、ゆうべの喜多川は」
「お見事です! そう、その通りですとも! ――この私が、少しばかりあの女に手を加えたのです。ヒヒッ、ご心配なく、端末にはしておりません。少しばかり、所謂〝心の闇〟を煽ってあげただけですよ」
……こいつが、扇動したのか。
そしてここへは、今まで自分が成し遂げてきたことを引っ提げて、その成果を俺に自慢しに来たのか。
成果を見せびらかすことで、俺が見せる反応を味わい踏みにじるために、ここへ来たのか。
ああ、それなら。
「――お前が、元凶か」
無意識の敵意と警戒、それが変換された怒り――全てが限界を超えて、かえって頭が真っ白になった。
――その果てに、自分が今どうすべきかを考える。
「ええ、ご名答! お察しの通り、私が全ての首謀者! 元凶にございます! クヒッ、ご堪能、いただけましたか? ヒヒヒヒッ!」
こいつはコレを端末と言った。ならば本体が別にいると推測できるし、カティアさんの肉体を操っているのなら俺が殴りかかっても意味はない。というか、仮にも悪魔を名乗る存在に、俺が太刀打ちできる保証はない。
俺がこいつに、直接できることはない。
――では、他の手を借りればいい。
「……そうか。堪能したよ、充分楽しんだ。異世界生活ののっけから狼襲撃イベントなんて、粋なこともしてくれたんだからな」
「……はい?」
勝手に、俺の口はアレの言葉に返答を返していく。限界を飛び越えた怒りによってそれがなされているからか、妙に口が回っているような気がする。
――さて、その〝他の手〟とは、なんのことだろう?
「ここでの生活も楽しいさ。子供に囲まれるのも悪くないものだぞ、お前も試してみたらどうだ?」
「……あなた」
――決まっている。この悪魔とかいう輩を〝対処すべき問題〟として見据える、とびっきりの勇者だ。
「ああでも、その前にお前に会いたがってる人がいるんだ。知ってたか?」
「……なにを」
――それに、わかりやすい点が一つある。
喜多川のことは、あんなに恐ろしく見えたのだが。
目の前のコレは、大して怖くない。
――その理由はきっと、頼もしい味方がいてくれるから。
迫り来る危機が取るに足らないものだからこそ、危機感が仕事をしていないのである。
「――そこまでだ」
凛と澄み渡る、フラッシュライトを連想するようなハッキリとした声が、静かに響いて。
「ほら、この人のことだよ。カミーユ・ブレスさん――お前の敵だ」
その声を発しながらやってきた人物に、俺は道を譲る。
「ッ!? き、さま……!?」
顔を醜く歪めて、悪魔王は彼を睨みつけた。
叩きつけられる人外の殺気と敵意。それを柳に風と受け流し、彼――光の御子と呼ばれる救世主は、世界の敵を微笑みで睥睨する。
「――やあ。早速で悪いんだけど、君がこの世界にいるのはよくないんだ。ちょっとばかし、斬らせてもらえるかな?」
◇
「ちょっと胸騒ぎがしてね。ここに来て大正解だ。じゃあ僕はあいつにトドメを刺してくるから、ユズルくんはいつも通りにしてて大丈夫だよ。……あっ、レイラちゃんにもよろしくね」――と、都合よくこの場に現れたことをそれだけで流し、カミーユさんは逃げた悪魔王を追っていった。
その場に残されたのは、悪魔王との戦いでは役に立たない俺。それから手元に、喜多川へ届ける予定の朝食が一食分。
――世界の救世主、光の御子。
筋金入りの勇者にして、人を遍く救う者。
……森の中の俺たちを都合よく助けられたことといい、カミーユさんにはご都合主義補正がついているらしい。
さすがは勇者、と言ったところか。世界全てが味方をしてくれる、言わば世界の主人公である。
カティアさんの遺体もついでに引き受けてくれて、彼女の身体から引き払った悪魔王の本体の場所を直感で割り出し、カミーユさんは今頃黒幕との最終決戦だろう。
――俺は少しだけ、その場に立ち尽くしていた。
「…………」
いろいろなことがありすぎて、それらを一度に処理しきることができないのだ。許容量の限界なんてとっくに超えていて、次の行動を決めるところにまで思考が行き着かない。
それでも、立ち尽くしていた時間は十数秒だ。手の中の一人分の食事を思い出し、喜多川のことを思い浮かべる。
……まずは、喜多川にこれを届ける。必要なら、その場でいろいろと話をする。
もし応えてもらえなければ、この朝食だけでも押し付けて撤退する。その場合は、時間をあけて再挑戦だ。
……ああそうだ、カミーユさんが急に来たのだし、子供たちも彼に気づいているだろう。何事かと騒ぐ子供たちへと、事情の説明もやらなくては。
――それに、カティアさんの死も。
「――よし」
喜多川も、カティアさんもいない。俺だけで子供たちの相手をしなくてはならず、それは過去最高の難易度が予想される。
ならば、立ち尽くしているばかりでは終われない。なにより俺が、しっかりしなくては。
――廊下を歩く。すぐに喜多川の部屋の前に辿り着いた。
コンコンコン
「…………」
ノックをしても、反応はない。本格的に閉じこもる気らしい。
コンコンコン――
「喜多川、俺だ。朝ご飯、持ってきたぞ」
もう一度ノックをして、今度は呼びかけもセットで行う。
依然、反応はない。
……無理やり押し入ってやろうか、という乱暴なことも思い浮かんだが、恐らく鍵を閉めているだろうし、扉を蹴破るのはさすがにダメだ。
「……ご飯、ここに置いとくからな。お腹空いたら食べるんだぞ」
これは出直した方がよさそうだ――そう判断して、俺は最後にそう呼びかけてから、お盆に乗せられた朝食を扉の脇に置いた。
――後ろ髪を引かれる思いで、俺はその場を後にした。
ちなみに、某悪魔さんと勇者の最終決戦の模様は、本編の主題に全く関係がないのでばっさりカットとなります。
悪魔さんの最期はどうなったのか、気になる方は作品冒頭の人物紹介、そこにある悪魔王の項目をご覧下さい。その項目の最後の方にサラッと書いてあります。