二話『その場所は』
◆倉科結絃視点◆
――目が覚めたら深い森の中で、移動したら少女の悲鳴が聞こえて、彼女を助けたけれど今度は自分が危険で、そこを更に助けられた。
そして、助けてくれた人は、
「っ、怪我をしてるのか。すぐに僕の仲間が来る。治療ができる奴なんだ、安心して。もう大丈夫だよ」
と、俺の方に駆け寄りながら剣を納め、そう声をかけてきた。
――深い青色の髪。青みがかった黒髪ではなく、本当に青色の髪だ。
中性的な男性で、顔立ちは日本人のものではないように見える。髪の色を染めた外国人と考えるのが妥当だが、そうすると日本語が流暢なのが不思議だ。
いや、今どき多言語を話せる人物など珍しくない。この人は髪を染めた外国人で、日本語の勉強をした人。……けれど。
――腰に帯びた剣は、なんだろう。
狼を切り裂いていたから、切れ味は生物を殺せるほどだ。それを振るう彼の仕草にも躊躇いがないし、手慣れてもいる。
日本なら銃刀法に違反している。外国の法は知らないが、大丈夫なのだろうか。……というか、現代でこんな片手直剣でしかも真剣など、時代錯誤ではなかろうか。普通は猟銃かなにかではないのか。
「――はっ、はっ、はっ……か、カミーユ、もう大丈夫、はっ、なのですか……っ?」
――その時、深い青色の髪の青年が来た方から、雑草をかき分けながら女性が現れた。
お世辞にも、森の中に適しているとは言えない格好……紺色の修道服を着た、やたらとスタイルのいい金髪の女性だ。
彼女の発した「カミーユ」とは、この青年の名前なのだろうか。あと、青年が言った「仲間」とは、この女性のことか。
「メガーヌ、すまない。急いでこの二人の治療をしてくれないか?」
「っ! はい、わかりました」
メガーヌと呼ばれた金髪の女性は、狼に襲われた俺と少女を見て顔色を変えた。
足を噛みつかれて地面に倒れる少女と、腕から夥しい血を流しながら尻もちをつく俺。傷は俺の方が酷く、そのため金髪の女性は俺の方に来たが。
――知らない女が近くに来たことで、鳥肌が立った。
「っ、お、俺より、そっちの人をお願いします」
「――――」
反射的に身を引きながら、金髪の女性に俺がそう言うと。彼女はなにかを察したように動きを止めて、青年に目配せをしてからもう一人の女性の治療に向かった。
――実を言うと俺は、女性恐怖症なのである。
医者にかかったことはないし、俺としては女嫌いや女性不信が高じた末の苦手意識みたいなものだが……とにかく、治療のためとはいえ、見知らぬ女が近くに来るのは嫌だった。
――死にかけたせいでささくれ立った心は、〝天敵〟の存在に耐えられない。だからせめて、心構えをする時間が欲しかった。
「……とりあえず、止血を急ごう」
青髪の青年が、俺の左側にしゃがみこんで自身の服を裂いた。即席の包帯が作られ、それで二の腕を固く縛られる。
縛られる痛みに耐えると、ひとまずの応急処置は終わる。
――治療、と言ってもなにをするのかと気になって、金髪の女性たちの方へ目を向けようとすると。
「自己紹介がまだだったね。僕はカミーユ・ブレス。〝光の御子〟、と名乗った方がわかりやすいかな?」
……などと、青髪の青年が名乗ってきた。
カミーユ、ブレス。あからさまに日本人のものではない名前だが、発音は日本語に聞こえる。ネイティブさなど全くない。
それに対しても疑問を感じたが、それよりも聞き捨てならないことがあった。
「は、はあ。俺は、倉科結絃、です……光の御子、ですか?」
いかにも称号かなにかのように言われた、「光の御子」という珍妙な名前。俺はそれを、反応に困りながら聞き返す。
「? 知らないのかい?」
青髪の青年――カミーユさんは、心底意外そうに目を丸くした。そんなに有名なことなのだろうかと、俺は不思議に思う。
「はい、知らないですけど……?」
「……君たちは、いったい――」
怪訝な顔をし、なにかを言いかけたカミーユさん。――彼の横顔を、突然光が照らした。
明らかに日光ではない、しかしてライトのようなものでもない、温かさを感じる不思議な光。
それは、俺とカミーユさんが向かい合っているところから見た横の方。俺が助けた少女を、金髪の女性が〝治療〟しているところから発せられていた。
そこに目を向けた俺は、この日一番の驚きを抱くことになる。
「な――!?」
――仰向けになり、上半身を起こした少女の右足に、光が集まっていた。
その光は、金髪の女性の手から発生している。
――〝奇跡〟。
その単語が、頭をよぎる。
「――彼女はメガーヌ・ドルジア、癒しの聖女と呼ばれている。メガーヌは神からの加護を授かっていてね。ああして、傷を癒す力を持っているんだ」
呆然とする俺に、カミーユさんが言う。俺の知る常識では、ありえないことを。
――神が、いかにも実在すると言わんばかり。しかも、手品でもなさそうなあの光。その光によって、少女の足の傷が治っていくのが遠目にもわかる。
そんな、理解不能な出来事。……それは、他にもあった。
なぜ、俺はこんな場所で突然目覚めたのか。なぜ、あんな巨大な狼がいたのか。なぜ、時代錯誤な片手剣を大真面目に使う青年がいるのか。
他にも、不思議に思うことならいくらでも。
――仕上げに、カミーユさんは言う。
「僕も、彼女のような超常の力を持っているんだ。わかりやすく示すことはできないけど……その証として、「光の御子」と呼ばれている。そんな、人とは違う力を持って、誰かのために戦う人のことを――」
――「〝救世主〟、と言うんだよ」。
治療を終えた金髪の女性、メガーヌさんが俺の方に歩いてくるのを見上げながら。俺はもう、呆けることしかできないくらい、常識を破壊されまくっていたのだった。
◇
――俺の傷も、綺麗さっぱりなくなった。
元通り左腕が動くようになり、無惨に穴の空いた服と血痕以外には痕跡も残されていない。それは白金髪の少女も同じらしく、彼女も立って歩けるようになっている。
要救助者の治療が終わって、改めて自己紹介をしてお互いに事情聴取を――というのは、歩きながら行われることになった。
「動けるなら、すぐここから離れよう。なに、腰を落ちつける場所に行きたいだけさ」……そう、妙に爽やかに言ったのはカミーユさんである。
この場に残るのはなにか不都合があるようだ。しかしそれを俺が推し量ることはできず、またそんな余裕もなかった。
なぜかと言うと、俺の女性恐怖症が発動しているから、なのだが。
「…………」
下手人は俺が助けた彼女。俺も知るとある共学の高校の制服を着た、白金髪の少女である。
……彼女はなぜか、俺にしがみついて来たのだ。
わからなくはない。着ている服からして、彼女は明らかに日本出身だ。日本人かは怪しい容姿だが、日本語を話してもいたし、持ち得る常識は俺と同じもののはず。
そんな彼女は、森の中で急に狼に殺されかけて、そこを助けたのは俺。見るからに日本人ではないカミーユさんやメガーヌさんより、そういった意味でも俺の方がとっつきやすかろう。
俺にしがみついてくる、つまり、すがりつく対象として同郷かつ恩人の俺を選ぶ、というのは、わからなくはない。
――が、治療が終わるなり真正面から抱きついてきて離れなくなり、歩き始めてからは過剰なほど俺の腕にしがみついているのは、さすがにどうなのか。
密着されると普通に歩きづらいし、役得だと思って女の肢体を味わう趣味は俺にはない。むしろ女は嫌いなのだ。嫌悪感すら覚える有様である。
言ってはなんだが、非常に迷惑だった。
「…………」
しかも、この少女は一言も喋らない。気を使ったカミーユさんたちが、少女に言葉をかけたりしないのも問題である。
……歩きながらでも、少女はガタガタと恐怖で震えているので、振りほどいたりもできないのが尚更厄介だった。
――それはともかく。
先頭を歩くカミーユさん、少女にしがみつかれた俺、俺の横、少女の側に並ぶメガーヌさん。その順番で歩きながら、俺たちは情報交換を行っていた。
喋ることの出来ない少女に変わり、俺が事情を話す。
目が覚めたらここにいたこと、直前の記憶がないこと、覚えている季節や時刻が現状と一致しないこと、この場所に心当たりがないこと……。
それを聞き、カミーユさんはやけにあっさりと結論を提示した。
「――君たちは異世界から来たんだね」
元から薄々考えていたりしたのだろうか。カミーユさんはあっさり、俺の事情説明によって確信を得たかのように、その言葉を言ったのだ。
「……は?」
もちろん俺は、素直に「そうだったんですね!」などとは言えない。
記憶が混乱している、と先ほど俺が言ったためか。カミーユさんは「わからないのも無理はない」と苦笑して、説明を続けた。
「異世界というのはつまり、異なる世界だ。貧富の差なんかを比喩表現として「別世界」と言うことはあるけど、それとは違う、本当に違う世界のことだよ」
あれやこれやと、異世界の概念について説明をしてくるカミーユさん。現代日本において、そんな「異世界」は珍しくない。
主にサブカルチャーの中で、だが、馴染みはあった。すんなりと飲み込めた俺を見て、カミーユさんは次の説明に移る。
「この世界はね、時折そういう存在が現れるんだ。僕は救世主として、世界を救う旅をしてるからね。時々、異世界から来た災厄と戦うこともある」
「君たちのように、友好的に話が出来る存在は初めてだな」とも言って、カミーユさんは肩越しに振り返った。
振り返った視線は、俺を通り過ぎ――周囲を一通り見渡して、再び前方に戻る。
「となると、君たちは行くあてもないだろう? ひとまず僕たちが借りている宿に来るといい。……あ、いや、メガーヌには伝手があるかな?」
「ええ、いくつか。教会でしたらあの街にもありますし、他にも心当たりはありますよ」
と、二人が相談を行う。
無職の上に住むところもない、正しく浮浪者……その現実がのしかかってきた気がして、少し憂鬱な気分になった。
……ここが異世界だと言うのなら、確かに行くあてはない。明日からの生活にも困るだろう。
しかも、今も俺の腕にしがみつく少女を放り出すこともできないし、たぶん彼女の面倒も見ることになる。メガーヌさんの伝手というのが、二人まとめて受け入れてくれるといいのだけれど。
――話しながら歩き続けて。道を歩いていたわけでもないだろうに、カミーユさんは迷わず森の外へ抜ける。
遠くには、街のようなものが見えた。
「――あそこが、今僕たちが拠点にしている街だ。とりあえず、あそこまで歩こう」
そうカミーユさんが言うと……ほんの少しだけ、俺の腕にしがみついている少女の手から、力が抜けた気がした。
◇
街に戻って、心当たりに話をしに行くと言って別行動になったメガーヌさん。残る俺たちは、カミーユさんの泊まる宿屋に連れてこられた。
――森の中を歩き回ったり、狼とすったもんだもやった俺たち。当然ながら服は泥だらけ。
嫌な顔をする宿屋の店主を、カミーユさんが宥めて。俺と少女は、彼の泊まる部屋に通される。
「……落ち着いたかな?」
開口一番、カミーユさんはそう言った。腰の剣帯を剣ごと外し、他にも防具を外しながらの問いかけである。彼の視線は、俺の腕にしがみつく少女に向けられていた。
カミーユさんの言葉通り、俺の腕を握りしめる彼女の手からは、随分力が抜けている。森の中から出て、いかにも安心できる建物の中に入ったからだろうか。
……だと言うのに、未だに俺から離れようとしないのは、それだけ先ほどの経験が恐ろしかったということか。
「……は、はい。ごめい、わく……おかけ、しました」
叫びすぎて掠れた声で、少女はポソポソとカミーユさんに言った。俺にも視線が飛んできているので、俺に対しても言っているつもりなのだろう。
狼に噛みつかれて殺されかけたことよりも、今現在お前がしがみついている現状の方が迷惑だが――などと俺は思ったが、口には出さない。
「気にしないで。人を助けるのが救世主だからね、君たちが助かったならそれでいいさ。ああ、よければその椅子を使ってくれ。……君の名前は?」
「……喜多川、レイラです」
楽な格好になって、部屋にある椅子に座るよう俺たちに勧めながら、カミーユさんは少女に名前を尋ねる。
――顔立ちは白人系で、肌も色素が薄く、髪だって綺麗なプラチナブロンド。日本人とは思えない外見だったが、少女――喜多川は、流暢な日本語で名乗った。
日本性ということは、ハーフだったりするのだろうか。同年代のようだし、敬語は使わなくてもいいと思われる。
喜多川が着ている制服には見覚えがあるため、つまり活動範囲も近しいということだが……こんなに目立つ女を忘れるとも思えない。知り合いではなさそうだ。
「えっと、君たちの名前は、姓を先に名乗るんだよね? じゃあ、レイラちゃんか」
――さすがイケメン。憔悴して余裕のない危険物相手に、初対面で初めから名前呼びとは、恐れ入る。そんな恐ろしいこと、俺にはできない。
と、変な風に感心しながら、椅子の方に喜多川を連れて行って。未だに俺の腕を拘束する彼女の手を、鳥肌を立てながらやんわり解こうと試みる。
「っ……」
ギュッ、と更に力を込められ、喜多川から遺憾の意を示されてしまった。まだ離れたくないようだ。
――すわ機嫌を損ねたか、という恐れと、天敵が離れまいとしている、という危機感で、思わず俺の肩が跳ねる。
「あ……ご、ごめんなさい……」
俺のそんな反応を見て、傷ついたような顔をして喜多川が勢いを失う。俺の腕にしがみついていた手もポロリと外れた。
「…………」
そのまま喜多川は椅子に座り、シュンと小さくなる。
好都合と言えば好都合な展開。俺は喜多川の傍から二歩三歩と後ずさって、ベッドに座るカミーユさんに目を向けた。
「……元の世界に帰る方法とか、あるんですか?」
――気になっていたことではあるが、それよりも喜多川へと話題が向かないようにその場しのぎがしたかった、という意図の方が大きい。
そんな話題選択で、カミーユさんへと俺は問いかける。カミーユさんは神妙な顔で俺の行動を眺めていたが、質問には即座に答えてくれた。
「わからない。世界を渡る方法は様々だからね。君たちがこの世界に来てしまった原因を調べないと、なんとも言えないよ。僕も、世界を渡る方法については知らないから……」
「……じゃあ」
「……うん。あまり期待しない方がいいだろうね」
その場しのぎ目的でも、気になっていたことが面白くない結論に終わって、思うところはあった。
ああ、帰れないのか――と。
郷愁と寂寥感は、一気に押し寄せてくる。
――歯を食いしばって、悲しみに暮れるのを後回しにした。
「そう、ですか……メガーヌさんの、心当たり、というのは?」
「――――」
取り乱してもおかしくない、と思っていたのか。話を続けようとした俺に、カミーユさんは目を丸くする。
すぐにその驚きを引っ込め、彼は真面目に答えてくれた。
「彼女は、元はとある教会で修道女を務めていたんだ。だから、各地の教会や修道院に、友人や知り合いが多くいる。中には孤児院を兼ねているところもあって、そういったところはいつも人手不足だからね」
「この街にもそんな、孤児院を兼ねた教会があったかな」とカミーユさんが付け足し、続ける。
「働き口が決まるまで、しばらくの間厄介になるだけでも構わないし、気に入ればそこで暮らしてもいい。神学を勉強すれば、教会で牧師になるのも可能だよ」
なるほど、と、俺は頷く。
孤児院、ということは小さい子供がいるはず。俺は子供は得意な方だし、同年代の女子を除けば人付き合いも苦ではない。期間は未定ながら、お世話になるのは悪くない選択肢だ。
「わかりました。よろしくお願いします」
「うん。僕とメガーヌはしばらくこの街にいる予定だから、困ったら声をかけてくれ。可能な限り、助けになるよ」
「なんたって救世主だからね」、なんて冗談っぽく、カミーユさんが微笑んだ。そのセリフに聞きたかったことをもう一つ思い出して、俺はカミーユさんに尋ねる。
「その、救世主? のことを、詳しく教えてもらってもいいですか?」
「ああ、君たちの世界にはないのか。救世主というのはね――」
――コンコンコン
と、部屋の扉がノックされる。カミーユさんが返事をすると、現れたのはメガーヌさん。
教会に話がついた。承諾してもらえたから、今から案内する――そう言う彼女によって、カミーユさんの部屋での談話は終わりを告げたのだった。
そこから教会へ向かう道すがら、言いかけていた救世主の説明について、カミーユさんから聞きながら……しがみつくことはしなくなったが、しかし俯いて終始喋らないまま、俺のことを見つめてくる喜多川のことを、少しだけ鬱陶しく思った。
◆喜多川レイラ視点◆
――目が覚めたら深い森の中で、そうかと思えば急に大きな狼に襲われて、あわや殺されるというところで、男の子――倉科くんに助けられた。
その倉科くんを、更に助けてくれた人に連れられて、森から出て街に到着する。
……どうにかなってしまいそうな程だった恐怖心が、和らいでいく。
その街で、メガーヌさんという人と別れ。私と倉科くんは、カミーユさんという人の泊まる宿屋に招かれた。
その頃になると、私の恐怖は随分マシなものになっていた。それを察して、カミーユさんが優しく話しかけてくる。
「……落ち着いたかな?」
腰の剣帯を剣ごと外し、他にも防具を外しながらの問いかけ。深い青色の髪をした、中性的な美人のカミーユさん。
……今更ながら、この人が男性なのか女性なのかがわからない。
剣を持っているのに妙に体格が華奢で、防具を外したことでそれは顕著になった。女性的な肉付きはないように見えるけど、かといって男らしい身体付きもしていない。
顔は正しく中性的で、いかにもな美人さん。昔の少女漫画に出てきそうなイケメンと言えばそうだし、綺麗な女性と言われればそうにも見える。
声も中性的なものだ。男性にしては高いし、女性にしては口調が男性的。かといってこんな声の男性がいないわけでもないし、口調だけで男性だと断ずるのは危ないような気もする。
――頭の片隅でカミーユさんの情報を整理しながら、なにを話せばいいのかを必死に考えて、私は懸命に口を動かした。
「……は、はい。ごめい、わく……おかけ、しました」
そう言いながら、私は至近距離にある倉科くんの顔を見上げる。
迷惑なら、この人にもかけた。むしろ私よりも酷い傷を負わせたのだから、カミーユさんよりも倉科くんに謝るべきである。
……だから、なんとか謝罪の言葉を紡ごうとしたのだ。
けれど、できなかった。
一瞬だけ交わった彼の視線が、雄弁に語ったから。
「――――」
――私への嫌悪感を瞳の奥に湛えて、本当にわかりやすく、倉科くんは私のことを迷惑がっている。
なにも言えなくなった私に、カミーユさんは微笑みながら言う。
「気にしないで。人を助けるのが救世主だからね、君たちが助かったならそれでいいさ。ああ、よければその椅子を使ってくれ。……君の名前は?」
「……喜多川、レイラです」
ほとんど、カミーユさんの言葉は耳に入らなかった。ただ、名前を聞かれたのだけはわかったから、それには答えたけれど。
――……心が、折れそうだった。
異世界だと、言われたのだ。ここは私の知る故郷じゃないし、外を歩けばあんな恐ろしい狼もいる。日本とは比べ物にならないほど、死が身近にある。
そんな状況で、倉科くんだけは私と同じだった。彼だけは、私の感情を理解できるはずだった。命を賭けて助けてくれて、こうしてしがみついていても振りほどかれなかった。
……でも、それは、私の勘違いなのだろうか。
倉科くんは、平然としている。カミーユさんと情報交換を行って、現状の把握に努めることができている。……私のことを、迷惑に思っている。
「えっと、君たちの名前は、姓を先に名乗るんだよね? じゃあ、レイラちゃんか」
カミーユさんの言葉に、私は反応できない。倉科くんは私を連れて椅子の近くに行くと、彼の服を掴む私の手を解こうと試みてきた。
「っ……」
離れたくないと思ってしまって、私は反射的に手に力を込めた。
――その動作に驚いたように、倉科くんの肩が跳ねる。
……それに既視感を覚えて、記憶が中途半端に呼び起こされて。
けれどそれ以上に、「彼に拒まれた」ということが、私の心に深くのしかかってきたから。
「あ……ご、ごめんなさい……」
消え入りそうな声で、これ以上彼に嫌われるわけにはいかないとだけ考えて、倉科くんから手を離す。落ち込みながら椅子に腰を下ろして、私は塞ぎ込んだ。
――倉科くんは、この世界で唯一の、私と同じ境遇の人。
私の苦悩も、私の辛さも、理解できるのは、この世界で倉科くんだけ。
……彼と、離れたくない。
離れるわけには、いかない。
「……元の世界に帰る方法とか、あるんですか?」
「わからない。世界を渡る方法は様々だからね。君たちがこの世界に来てしまった原因を調べないと、なんとも言えないよ。僕も方法については知らない」
「……じゃあ」
「……うん。あまり期待しない方がいいだろうね」
「そう、ですか……」
カミーユさんと倉科くんの会話は、私の耳には入ってこなかった。
――倉科くん。倉科、結絃くん。
……表情は取り繕えても、仕草や雰囲気を隠せなかった、女の子が苦手な人。
不意に女の子が近くに来たりすると肩を跳ねさせ、愛想笑いでごまかしながら、どんなに人懐っこい女の子であっても自分の近くには寄せなかった、ある種鉄壁の女嫌い。
――思い出した。見覚えがあって当然だ。倉科くんと私は小学校と中学校が同じで、クラスも何度か一緒になったことがある、同級生じゃないか。
「……メガーヌさんの、心当たり、というのは?」
「彼女は、元はとある教会で修道女を務めていたんだ。だから、各地の教会や修道院に、友人や知り合いが多くいる。中には孤児院を兼ねているところもあって、そういったところはいつも人手不足だからね。この街にもそんな、孤児院を兼ねた教会があったかな」
そうだ、倉科結絃くん。かっこよくて優しい、付き合いもよくて話し上手の、あの倉科くんだ。
成績もよくて運動神経も抜群で、同年代の女の子の中では人気だった。けれどびっくりするくらいの女嫌いでも有名で、「なにアイツ感じ悪い」なんて言われて、一周まわって評判の悪かった、あの。
私は校則の緩い高校へ進学したが、彼は女嫌いのせいか男子校を選んでいたはず。制服を見かけたことのあるくらい近所の高校だったとは、知らなかった。
「働き口が決まるまで、しばらくの間厄介になるだけでも構わないし、気に入ればそこで暮らしてもいい。神学を勉強すれば、教会で牧師や修道女になるのも可能だよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
「うん。僕とメガーヌはしばらくこの街にいる予定だから、困ったら声をかけてくれ。可能な限り、助けになるよ。なんたって救世主だからね」
私は記憶力はいい方で、昔の同級生ならばよく覚えている。倉科くんは、私のことを覚えていないのだろうか。
天然のプラチナブロンドで、成長してもそれが変わらず、ロシア人のお母さんに似て顔立ちも日本人には見えない。母娘揃って、昔から変に目立っていたのだけれど……。
……倉科くんも私のことを覚えていてくれれば、きっともっと、簡単に――
「その、救世主? のことを、詳しく教えてもらってもいいですか?」
「ああ、君たちの世界にはないのか。救世主というのはね――」
――コンコンコン
その時、部屋の扉がノックされた。カミーユさんが返事をすると、現れたのはメガーヌさん。
教会に話がついた。承諾してもらえたから、今から案内する――そう言う彼女によって、私たちは連れ出されることになる。
道中、俯きながらでも、倉科くんの背中を見つめる。
――倉科くんも私のことを覚えてくれていたら、話が早かった。
昔からの知り合いから頼られれば、無碍にはしづらいものだから。
そのアドバンテージが、今はどうしようもなく欲しかった。
――私と同じ、倉科くん。
彼が私から離れていかないようにするには、どうしたらいいだろう。
――どうしたら、倉科くんも私と同じように、私のことを想ってくれるようになるだろう。
……考えても、答えは出なかった。