後日談その二『アクシデント』
レイラが転けそうになったのを結絃が抱きとめる、っていうだけの話なので、とっても短いです。
◆喜多川レイラ視点◆
時に。
私たちの住む教会がある街は、真っ平らな平地に建てられている。
そのため、山の斜面に沿って建てられた街のような坂道はなく、また階段もない。街全体が非常に平坦な、平々凡々な街だと言える。
建物も平屋が多く、二階がある建物は知る限りではない。街にある時計塔や外壁の外を監視する櫓ならば建物自体が高いものの、そこへ私たちが出入りすることは皆無だ。
――つまりなにが言いたいかと言うと、この世界に来てからというもの、階段や大きな段差というものに縁がなかったのである。
私も、もちろん結絃くんも。
……とはいえ、一つきりなのだが例外はあった。
私たちが暮らす教会、その居住スペースの奥まったところに、階段が一つある。
それは居住スペースの二階へと通じており、今は誰も使っていないが、ともかくこの街では珍しい二階建てになっているのだ。
二階と言っても大して広くなく、家具などを全く置いていない部屋が二つある程度なのだが。
今回のお話は、その階段に纏わるお話。
――とある日に起きたアクシデント。私と結絃くんとの間に起きた、今一度結絃くんの〝それ〟を痛感させること。
その日はちょうど、私と結絃くんだけ暇な日で、どうせだから掃除でもしようという話になって――開かずの間になっている件の二階に、私と結絃くんが踏み込んだ時のことだ。
◇
掃除をする場所を決め、掃除道具を持ち込み、桶に水を汲んで持っていったりして――ドタバタと、使われていない二階の掃除は進んでいく。
埃まみれで蜘蛛の巣だらけ、長年使われていないだけあって難敵だった掃除は、大したハプニングもなく終わりを告げる。床などが傷んでいなかったのも大きいだろう。
「――こんなもんだな。おつかれ」
「うん、おつかれさま」
口元を覆っていた布を取りながら、結絃くんが部屋全体を見回して言う。
廊下に始まり階段を綺麗にして、一部屋二部屋と二人がかりで攻略した開かずの間お掃除ミッション。それはこれにて終了となった。
概ね、和気あいあいと掃除をすることができただろう。私も結絃くんも掃除に集中して、互いに接近することはあまりなかったのだし。
……蜘蛛やムカデに大きな蛾、黒いアイツ、果てはトカゲだかヤモリだかが出てきて、その度に私が悲鳴をあげて結絃くんに助けてもらうという騒動は起きたけれども。
いや本当に、結絃くんが虫が平気な人で助かった。
……そうじゃなくて。
つつがなく掃除は終わった。達成感がすごい。
汚れた雑巾を桶の中に入れ、掃除用具をまとめて部屋から出る。水の入った桶は重たいので、とりあえず今持っている道具を片付けてからにしよう。
「綺麗になると気持ちいいね。お掃除するの楽しかった」
「だな」
勝手に緩む口元はそのままに、私の後ろに結絃くんがついてくる形で階段に向かう。手には箒やハタキの掃除用具があった。
結絃くんとそんな風に、和気あいあいと話せているのが嬉しかったためか。それとも単に、達成感と疲労で気が緩んでいたか。
――階段に差し掛かったところで、私は階段の直前の床につま先を引っ掛けて前に転んだ。
「あ――」
片足が思うように前に出なかった――それを認識した次の瞬間には、もう手遅れだった。
足が出るものと思って移動させた重心は、そのまま私の身体を前に倒す。その先には階段があって、足を出すのは間に合わず手を突けるものはない。
それでもなんとか、手に持った掃除用具たちを手放して――
「――ッ、あぶない!」
結絃くんに後ろから手を掴まれ、ものすごい勢いで引っ張られた。
「やっ――!」
背後に引っ張られる腕。その勢いが強すぎて、肩に痛みが走る。しかしそのおかげで、前に倒れそうになった私は向きを反転させ、身体は背後へ向かった。
当然、倒れる身体を支えるのは間に合わない。私はそのまま背後に――結絃くんに向かって倒れ込んだ。
咄嗟に私を引っ張った結絃くんも体勢が不十分で、彼は私を受け止めきれずに尻もちをついた。ダイレクトにその衝撃が私にも伝わってきて、結絃くんと揃って痛みに呻く。
「いっ――つつ……」
結絃くんの声が頭上から降ってくる。今の私は結絃くんの胸に飛び込んだ形で、彼は私を胸に抱いている格好。
尻もちをつきながらも結絃くんは私を庇ってくれたので、当然体勢はそんな感じで――
「――だっ、大丈夫!? ごめん!」
――女性恐怖症の結絃くんにこれはまずすぎると、私は即座に彼から離れようとした。
彼に掴まれている手は使えない。開いている反対側の手を結絃くんの胸に突き、私は彼の腕の中からなんとか離れる。
が、それは失敗した。
――私の肩に回された結絃くんの腕が、ビクともしないのである。
「ひっ――ま、待て、落ち着けっ!」
私が身動きをとったことで、結絃くんの口から引きつったような息が漏れる。それは押し殺した悲鳴のようで――否。それは本当に悲鳴だっただろう。
「わ、私は大丈夫だからっ! 今は――!」
必死に、私は結絃くんから離れようと腕に力を込めた。私をこんなにも怖がっているくせになにを言うのかと、なによりも結絃くんを心配するが故に。
「だから、落ち着け……!」
――更に結絃くんの腕に力が入り、私の抵抗をまとめて押し潰した。
「ふぎゅ……!?」
私の鼻面は結絃くんの胸板に押し付けられ、私の顔が埋められる。そのせいで喋れなくなり、そしてよりパニックになった私に、こちらも切羽詰まってパニックになったような声色の結絃くんが言った。
「また落ちるだろ……! だから落ち着け!」
――私の背後、眼前の結絃くんの反対側。
つまり、私が結絃くんから距離をとるために、行こうとしていた方には。
――今しがた私が落下しかけた、階段がある。
「――! ……、……」
そうだった、と気がついて。私は、声を上げられないなりに驚いてから身体の動きを止める。
――この状況では、結絃くんの方が正しかった。結絃くんとの不意の急接近に平静を失い、離れなければとだけ考えて軽率な行動をとった私が悪いのだ。
「……落ち着いたか……」
抵抗をやめた私に、結絃くんもまた抵抗をやめる。具体的には、私を抱きしめていた腕から力を抜き、外して背後に突いた。
私はいそいそと結絃くんから離れて、もちろん階段に落ちるようなことはせず、しかして超特急で距離をとる。結絃くんとの間に設けた空間は、たぶん大人が一人寝ころべるくらいはあるだろう。
――そこで私は、土下座をした。
「ほん、っとうに、ごめんなさい――!」
「っ……」
結絃くんが息を呑むような声を出す。きっと彼は、ビクリと肩を跳ねさせたのだろう。
ギュッと目を瞑り、床に額を押し当てる私からは彼のことは伺えない。一呼吸分の時間をあけて、結絃くんは言った。
「……次から、気をつけてくれ。大怪我になるからな」
その結絃くんの声が、聞いたことがないほどにか細くて、元気がないものだったから。
先ほど結絃くんが漏らした悲鳴も脳裏に甦り、これまで結絃くんが見せてきた怯えの反応が連鎖的に脳内にフラッシュバックする。
――あぁ、結絃くんに怯えられた。
当たり前だ、仕方がない。結絃くんは女性恐怖症で、いくら彼が私を好きだと言ったって私は女。結絃くんからしてみれば、天敵にも等しい恐怖の対象だ。
結絃くんはさっき、それを曲げてでも私を助けてくれたのに。
……私、なんて酷い奴。
結絃くんに申し訳が立たないなんてものじゃない。土下座をしたって、まだ足りない。結絃くんにしてしまったことへの賠償は、私の身では不足極まる。
「…………」
結絃くんが立ち上がる音がした。私は顔を上げない。
結絃くんは散らばった掃除用具を拾いながら、変わらないか細い声で言った。
「……顔、上げてくれ」
「っ……」
そう言われてもまだ頭を下げ続けるのは、逆にいけない。今の結絃くんには私の声だけでも猛毒になるかもしれないからと、声を出すこともできない。
「…………」
――だから、私は顔を上げても、結絃くんを見ることはできなかった。
「……すまん、今は、無理だ」
「無理」。
言葉の少なすぎる言葉でも、その意味は痛いほどに伝わった。
――私と会うことを、今の結絃くんは耐えられない。
「っ……うん」
私は最後に、頷いて最低限の了解を表して。本当なら、「後片付けは私がやるから結絃くんは部屋で休んでて」とも言いたかったけれど、懸命に堪えて。
間違っても彼に手が届かないほどの距離をあけて、私は結絃くんの横を通り抜けて階段を降りる。
――それが、私と結弦くんの間に起きた、ともすれば関係に亀裂さえ入っただろう出来事。
その日の夕飯の時間になれば、すっかり結絃くんは元通りだったけれど。やっぱり私は、あの瞬間の結絃くんの悲鳴や、その後のか細い声が忘れられなくて、結絃くんに対してぎこちない対応をしてしまった。
――結絃くんは女性恐怖症。
結絃くんは私を好きだと言ってくれたけれど、女性恐怖症は変わらずそこにある。
私は、結絃くんから怖がられている。
依然として、私は天敵のまま。
……なのにどうして、結絃くんは私のことが好きだと言うんだろう。
君は、私が怖いんだよね? 心構えをしていないと、触れ合うだけでああなるほどに。「無理だ」と言う直接言うほど、内心を取り繕えなくなるくらいに。
……わかんないよ、結絃くん。君は私を怖がるのに、どうして私のことが好きなの?
――私は本当に、君のことを好きでいていいの?
本編が終わっているのに修羅場を作っていく……なんてめんどくさい男なんだコイツ。
と、作者にあるまじきことを考えてしまった私です。