救いの手
大学からの帰途、街中のネオンライトがちらちら輝く路地を進んでいると、さっと何かが走り抜けて進行を遮った。思わず立ち止まると巨大な灰色の壁が目の前を通り過ぎ、右耳にクラクションが響きわたった。まるでスロー再生のビデオを見ているような感覚だった。はっと我に返ると、先ほどの大型ダンプは既に二十メートル先に進んでいて、信号に引っかかっているところだった。
あと一歩早く前へ出ていたら、と考えて、私は背筋が凍りつくような悪寒を覚えた。自分の進行スピードとダンプのスピードとが完全に調和していたら、私は見るも無残な姿で納得の行かない死を遂げていたに違いない。大型ダンプが目の前を通り過ぎる直前、何者かが閃光のようにして前を通りすぎたのを機に、そこから時間が止まったような気がした。時間が止められて、それから灰色の巨大な壁が見えたと思ったら、いつの間にか時間がもとに戻り、クラクションは消えていたのだった。今のはなんだったのだろう。ふと、街中にいる自分を思い、右、左と安全確認をした。すると、すぐ隣の電信柱の下のゴミ捨て場に、一匹の色のない猫が身を潜めているのに気づいた。不法投棄されたと見られるテレビの上で、猫は行き場もないように尻尾を体にまといつかせては、うずくまっていた。首はしっかりこちらに向けていたが、目を瞑っているのか、猫の顔はただ黒く見えるだけだった。
先程、足もとを遮ったのはこいつか、と思い、私はゆっくりとごみ捨て場に歩み寄った。下手に近寄れば猫は逃げてしまうだろう。そう思いながら、身を低くしつつ、音を立てずに、まずは電信柱の落とした影にまで近寄った。より近くに寄って見ると、猫は三毛猫であるらしく、毛にまだら模様があることが分かった。思った通り、目は閉じていた。もう一歩だけ近寄って、表情を見極めようとすると、猫は突然目をかっと見開いて、テレビの上から俊敏な身のこなしで地面に降りた。あまりの猫の素早さに私は思わず身を引いた。距離は少し広がったが、猫は逃げ去ることはせず、ただ後退する姿勢でこちらを睨みつけていた。先程とは違う奥深い瞳が光り、夜行性の猫、とはこのようなものを言うのだな、と思った。尻尾を逆立てたまま、猫はじっとこちらを見据えたまま、時間を麻痺させたように動かない。私もそれに呼応したように時間を止められたが、何故か前進しなければという思いに押され、前へ一歩踏み出した同時に、猫は静止していた前足を私と同じように前へと動かし、私の足の間へと入り込んできた。肌寒い季節であるから、血の気を感じると寄って来る習性でもあるのだろうかと私が戸惑っているうちに、猫はなお左足へと回りこみ、体をすり寄せ、暫く私の足の自由を奪った。これから帰宅するのにこの寒いゴミ捨て場でたたずんでいてはいくら分厚いコートを着ていても風邪を引いてしまうと思って足を大股に開いて逃れようとしたが、何度振りほどこうとしても振りほどけず、しかもようやく振りほどいたと思ったら、身の臭いをなすりつけた私のズボン目掛けて走り寄ってきたのだった。
マンションまで追ってきた猫を気味悪く思い、無視してドアを閉めようとすると、猫はテレビの上から下りたときと同じような俊敏さで玄関を通りぬけ、猫はまるでここが我が家だとでもいうような勢いで、ゴミ捨て場から戻ったばかりの汚い肉球のままフローリングをぺたぺた歩き始めた。一人暮らしに際して両親がペット持ち込み可のマンションの一室を借りてくれたことが、まさかこのような形で役に立つとは思いもしなかった。猫は、短い廊下を一通り歩き回ると、他の部屋には興味も示さないようで突き当りの場所で少し高いところにある花を飾るための出窓目掛けてぴょんと飛び上がり、そこに落ち着いた。唯一家の中で奥まっていて夜の間は明かりもまともに取ることができないその場所は、夜行性の猫にとっては、なるほど棲息するには最適な場所かも知れぬ、と納得した。猫は暖房が効いているのが気持ちいいと見えて、座り込んだまま尻尾を体の周りでぶらぶら動かしていた。うっすらでも明かりがある場所で見ると、猫の毛はよりはっきりと分かる三色にわかれており、どうして最初に発見したときに気づかなかったのかと思ったほどだった。近寄れば、毛の色だけでなく毛並みまでしっかり見えるが、それにしても毛には薄汚いゴミやらが絡まっていて、既にブラッシングのしようがないほど縮れていた。あのようにゴミの中にいれば考えられない話でもなく、また、都会の野良猫として一匹で過ごしてきた猫ならば、ただ「生きているだけ」で精一杯で、毛づくろいすらできなくなってしまうのだろう。猫はそう思う私の視線の先で、安心しきったのか、疲れたのか、鋭かった目を閉じてうずくまり、脇腹をゆっくり上下させながら寝息を立てているかのようだった。私は、暫くその姿を見て、猫とはこういう生き物なのだろうかと思い、やがて猫が本格的に寝入って目を全く開けなくなったのを見て、まだ夕食を食べていなかったことを思い出し、キッチンに向かった。
こうして、猫が自宅に住み着くようになってから、私の生活に若干起伏が生まれた。薄暗く、奥まった場所を好む猫のために、カーテンで光を遮って猫専用の部屋を作ったり、その一角に餌場も作った。真夜中であろうが、昼間であろうが、私が帰ってくるなり、猫はすぐに足に擦り寄ってくる。餌を用意すればむしゃむしゃ音を立てながら貪る。目的のない部屋の中で、日中猫は何をしていたのか。そんなことを考えながら、リビングで一緒に食事を取ることもあったのだった。時々は猫に意味もなく話しかけたり、首や頭を撫でてやったり、縮れた毛をシャンプーしてやったりと、ズボラであった私が、面倒なことを率先して行なうようにもなった。次第に、猫がいる生活が当たり前になりつつあったし、猫自身もどうやらそうした生活を気に入っていたようであったし、猫は都会の一人暮らしをする私にとって、唯一の話し相手になりつつあったのだった。