マリアのわがまま
ストゥマを出て、マリアたちは大陸の最南端にあるリゾート地に向かって進んでいた。
「フートゥの国って、ここから遠いのよね」
先頭を歩くアイグルの背中に、質問を投げかけた。アイグルは振り返り、マリアと目を合わせた。
「ああ。そうだな」
「到着するまでずっと野宿になるのかしら?」
「まさか。中継地点の何箇所かに小さい国がある。そこに立ち寄りつつ、フートゥに向かおう」
アイグルは周囲を見渡しながら、マリアの質問に答える。遠くのほうに視線をやって、何か怪しいものはないかとあちこち見張っている。ストゥマを出てからずっと、アイグルはそうやって周囲に目をやっていた。
「兄さん、気を張りすぎでは?」
兄の様子を見とがめ、キャナリはとうとう声をかける。キャナリの横に並ぶシンクも、アイグルを心配そうに見つめていた。
「アーにい」
「…おかしいんだよ」
アイグルは、遠くを確認しがら低い声を地面に落とす。空は青く晴れ渡っているが、彼の表情は曇っている。マリアはこわごわとアイグルに近づき、彼の考えを伺う。
「何が?」
アイグルはマリアを見ず、かわりにふっと短く息を漏らした。緊張の糸を少しでも解くように。
「奴隷商人のことさ。…奴隷商隊は、数年前に解体されたと聞いたんだ。ここ数年は活動の噂も聞いていない」
「それって…」
マリアは目を見開き言葉を失う。思いもしなかった情報に、シンクは唾を飲んだ。恐る恐る、アイグルに確認する。
「でも、レビにいは奴隷商人を見かけたって…」
「ああ。だからおかしいんだ」
黙って話を聞いていたキャナリは、
「…解体された違法組織が動き始めているというわけですか。それは…」
自慢の武器に手を伸ばし、薄い眉を寄せた。きゅっと唇を結び、体を固くする。そして兄と同じように周囲に目を配る。兄妹は足を動かし、マリアとシンクを囲うように移動する。あまりに真剣なその姿に、マリアは手のひらをぎゅっと握り、兄妹と周り景色とに目をやる。シンクはマリアの服の袖を摘み、唾を飲んだ。
「……」
「……」
誰も何も言葉を発さずに、周囲に沈黙が訪れる。爽やかな風が吹き、4人の髪を揺らす。風は、シンクの長いポニーテールをふわっと浮かせ、それでアイグルの鼻をさわさわとくすぐらせた。
「へくしょい!!」
「ッ!?」
シンクの髪にくすぐられ、耐えきれずアイグルはくしゃみをした。くしゃみの声は思ったより大きく、皆の体が驚きで跳ね上がる。
「もう、急に何やってるのアイグル!驚いたじゃないのぉ!」
「愚兄?」
マリアはバクバク高鳴る心臓を抑えながら、アイグルに文句を言った。キャナリもまたアイグルをじっと見つめる。アイグルは心外だと言わんばかりに両手を振って弁明する。
「違う、わざとじゃない。シン坊の髪が、」
「僕もわざとじゃないよー!風が吹いて、それで!」
気づけば静かだった空間は騒がしくなっていた。予想外のタイミングで来たくしゃみのせいで、場の緊張感は一気に削がれた。
「…警戒しすぎたわね。もうちょっとリラックスしましょう?」
マリアは苦笑いした。息を整え、いつもの口調で3人に話しかける。アイグルは戸惑い、
「でもマリア」
「わかってる。なるべく周りに注意して、気をつけて行きましょう。いつも通りに。…奴隷商人のことや例の人たちのことがあって、怪しくて不安だけど…こんなに気を張っていたら、楽しい旅にならないわ。せっかくリゾート地に向かうのだからもっと楽しい気持ちで行きましょう?」
マリアは努めて明るい口ぶりで、笑みを浮かべてみせた。アイグルたちはその笑みを見やり、閉口した。
周囲を気にして緊張する状態が続けば、やがて精神的にも肉体的にも疲労が積み重なってくるだろう。それは、この旅が苦しいものになってしまうことを指している。
マリアは、王としての見聞を広めるため、そして己の記憶を取り戻すきっかけを探すために旅に出ている。
厳しい修行のためだとか、鍛錬のためなどが目的の過酷な旅ではない。各国を見て回り、知識と経験を得ることが目的の旅だ。
この旅に、苦しみや悲しさはまったく必要のないものだ。
だから、不安や苦しみのような負の感情はなるべく遠ざけたい。それがマリアの切実な願いだった。
「警戒しないと言っているわけじゃないの。ただ、みんなと楽しく、いろいろなところを見て回りたいの」
マリアは胸元に両手を当て、3人の顔を順に見渡した。皆、顔を伏せ考え事をしているようだった。
「どう、かしら…」
反応がない。マリアは不安になり、ためらいがちに3人の顔を覗いた。
「…そうだな」
マリアの想いは、正しく仲間に伝わったらしい。アイグルは困ったような表情を浮かべながらも、マリアの意見に同意するように優しい眼差しで見つめていた。
「マリアの言いたいこと、わかったよ。俺たちは苦しむために旅をしているわけじゃない。そこを忘れたらいけないよな」
「アイグル…」
マリアはアイグルを見つめる。アイグルの隣に立つキャナリはというと、複雑そうな面持ちで、しかし、納得したように顎をひいていた。
「私も、マリア様のお気持ち伝わりました。過剰に緊張していては苦痛です。もう少し肩の力を抜いていきましょうか…。もちろん、警戒は忘れませんが」
少女は槍にそっと手を触れながらも、先ほどより幾分か落ち着いた様子で喋る。
「シンクは、どう思いますか」
そして、傍らにいるシンクに話を振った。シンクはゴクリと喉を鳴らしていた。マリアはシンクの答えを待った。
「この先には怖い…怖い人がいて、危ない目に合うかもしれない」
「シンク…」
シンクの声はわずかに震えていた。怖くて震えているのだ。マリアはそんなシンクの様子に、無理なことを言ってしまったかと思い後悔した。
しかし、
「でも、僕は今マリアたちと一緒にいるから、できるだけ楽しく…笑って過ごしたい」
シンクはマリアをまっすぐ見つめていた。前を向いたシンクは、口角を上げて微笑んでいた。
「…シンク」
マリアは、シンクがマリアの想いを理解したことを理解した。シンクは怖がる気持ちを抑え、マリアの想いを尊重したのだ。
アイグルは親鳥が雛を見つめるような眼差しをマリアに注ぐ。キャナリの微笑は、マリアに向いている。シンクはきゅっと拳を握りつつも、しっかりと頷いてみせた。
彼らの優しい思いやりは、マリアを勇気づけてくれた。
「みんな、ありがとう。周りが気になる時は教えて。みんなで協力して、安全に旅をしていきましょう」
「ああ」
「はい」
「うん!」
3人は王の言葉に、力強く首を縦に振った。
列になって道を進んでいく。先頭を行くのは、アイグル。アイグルの後ろにはマリアとシンク、一番後方にはキャナリが控え、4人は目的の場所に向かう。
時折周囲を見渡しながら、飛び出してくる魔物と戦いながら。マリアらの進みは止まらない。それはこの旅が始まってから変わらない、普段と変わらない光景。
何も無かったマリアの心を安らげる、日常の世界。
「シンク、私のわがままに付き合ってくれてありがとう」
マリアは、自分の隣を歩くシンクに声をかけた。
「わがまま?」
シンクはぽかんとマリアを見つめる。マリアの言っていることに、思い当たる節がない。彼の大きな瞳はそう語っていた。いつもながらシンクの表情は非常にわかりやすい。マリアは、
「私、楽しく冒険したいって言ったでしょう?無茶なことを言ってごめんなさい」
「そんなの、無茶なことなんて思わないよ!」
「でもシンクは、」
シンクは力強く否定した。それでもなお気にかかるマリアに、シンクは首を振る。
「マリアが、みんなのことを思って言ったこと、僕には分かるから…。気にしないで!」
「シンク…」
そう言ったシンクは、顔を洗った後のようなさっぱりとした表情を浮かべていた。その姿に、マリアはまた余計なことを言ってしまったと後悔した。
そもそも、言う必要なんてなかったから。
シンクはマリアの想いに寄り添っているのだ。マリアが不安に思わなくとも、シンクは既に分かっていた。それなのに再び彼の決心を確認するなど、まるで彼のことを信じていないみたいだ。
マリアは、シンクの気持ちに感謝した。
それにしても。シンクはマリアが思っていた以上に意思が強いらしい。軟弱で子供っぽくてナヨナヨしたところはあるけれど。シンクは、己の信じたものに真っ直ぐでいられる、素直な少年なのだろう。
マリアはシンクにちょいちょい、と小さく手招きした。なになに?と近づくシンクの耳元に、
「明日はいつもより丁寧にアランジしてあげる」
にっこりと笑顔を浮かべ、耳打ちをした。それを聞いたシンクの顔はみるみるうちに顔をほころばせた。
「ええ!?ほんと?わーい!やったー!」
子どもがそうするように、シンクは両手を天に伸ばして喜ぶ。普段のそれと変わらない姿に、マリアの口角は自然と上を向く。
天に輝く太陽も、心なしか嬉しそうに、シンクの笑顔を照らしていた。




