シンクという少年 3
シンクが風呂場から出てくると、辺りには美味しい香りが漂っていた。使用人に手を引かれ、シンクはある部屋へ通された。そこには、
「待っていたわよ!」
マリアが仁王立ちで出迎えてくれた。その背後には、水汲みの往復で大汗をかいたアイグルと、小さいコップにお茶を注いでいるキャナリがいた。そして、マリアたちの後ろのテーブルの上には、
「わ…」
「たくさん作ったのよ」
シンクはテーブルに近づくと声を漏らした。テーブルの上には、たくさんの料理が用意されていた。湯気の立つスープ、ざっくりカットされた瑞々しい野菜、ふかふかに柔らかいパン。そして、それらの皿の前に、キャナリがお茶の入ったコップを置いた。
「たべていいのよ」
「!」
シンクは、マリアの言葉に反応した。その顔には、戸惑いの色が浮かんでいる。
「でも、ぼく」
「いいからいいから」
マリアは、シンクの背中を押して、椅子に座らせた。シンクの体はとても軽かった。
「このスープ、おいしくできたからのみなさい」
マリアは、シンクの目の前にスープの入った皿を差し出した。シンクは、それに口をつける。
「…!」
シンクは目を見開くと、そのスープをごくごく飲んだ。あっという間に飲み干すと、次はパンに手をつけた。シンクはパンを貪り野菜を掻き込み、時折茶を飲みつつ、確実に皿の上のものを片付けていく。その食べるスピードはとても速かった。
「おいしい?」
マリアはニヤニヤしながらシンクに話しかけた。シンクはパンを咥えたまま頭を上下に動かした。その際、彼の黒髪も揺れ、
「あれ?髪、そろえてもらったの?」
マリアは首を傾げた。シンクはパンを咀嚼しながら頷く。丁寧に洗われた黒髪は、出会った頃の汚れを一切感じさせなかった。
「きれいな髪ね!」
「……ありがとう」
マリアの笑顔に、シンクは顔を赤くした。シンクはマリアから目を背け、パンを両手で持ち、ちまちま食べた。
「? おなかいっぱいになった?」
マリアがきょとんとする後ろで、アイグルはやれやれと首を振った。
こうして、マリアとシンクは出会った。
「とまあ、こんな経緯でマリアはシンクを自分ちで保護したわけだ」
アイグルは、爆ぜる焚き火を前に、過去のことを語った。一旦話し終えて、目の前に座るマリアを見つめる。
「…その後、シンクはどうなったの?」
マリアは尋ねた。アイグルは瞳に炎を映し、
「その後、俺たちはシンクの話を聞くことになったんだ。そこで、衝撃的なことが分かった」
「衝撃的なこと?」
「……」
アイグルは目を彷徨わせてしばらく黙った。息を吸って、
「シンクは、奴隷貿易に巻き込まれた少年だったんだ」
「どれいぼうえきですって!?」
幼いマリアは、大声を上げてシンクの発した言葉を繰り返した。そして、
「どれいぼうえきってなに?」
隣に立つアイグルにクエスチョンマークを飛ばした。アイグルはガクッとなりかけた体をなんとか踏ん張り、
「おれも詳しくないけど…。奴隷ってのは、さらわれてむりやり働かされる人のことだって聞いた。奴隷貿易は、そんな『しもべ』を売り買いするしごとだ」
「それって、悪いことじゃない!」
マリアは唾を飛ばして怒鳴った。シンクは、
「ぼく、おかあさんと2人で住んでたんだ。でも、とつぜん『商人』がおうちに入ってきて、ぼくとおかあさんを……」
椅子に腰掛けるシンクは、静かに語りはじめた。シンクは当時のことを思い出し、顔を歪めている。
「…何日か前、おかあさんは『商人』のスキをついて、ぼくをにがしてくれたんだ。おかあさんが『商人』の気を引いているうちに、ぼくは、逃げた……」
シンクはそこまで言うと、両手で顔を覆った。マリアは、シンクの震える肩に気づき、彼の側まで近づく。マリアは頼りなく揺れる黒を見下ろした。しばらく見つめた後、孤独に泣く彼の頬にそっと触れた。シンクはピクッと体を震わせた。
「おかあさんといっしょがよかった…。でも、おかあさんは『シンクだけでも助かって』って言って…ぼくのために…ぼく…ぼく、もう、こわくて…」
「…もういいわ」
マリアはそう言うと、シンクを抱きしめた。シンクの震える体を包むように、優しく、暖かいからだで。
「えっ…」
「ふあ…」
アイグルとキャナリがその姿に動揺する。抱き締められたシンクもまた、固まって動けなかった。マリアは気にせず続けた。
「つらかったわね。でも、もうだいじょうぶ。わたしがいるから」
「え…」
シンクは不思議そうに首を傾げる。マリアは、
「おかあさんのかわりに、わたしがあなたのそばにいるから」
マリアはそう言うと、傷ついた男の子の頭を何度も何度も優しく撫でた。そして、
「だからいまは、おやすみ。……シンク」
それから、おなかいっぱいになったシンクが安心して眠った後。
マリアは、反対する人間を説得し続け。
アルムの国へシンクを受け入れた。




