第9話
9.
9月に入っているというのに、昼間はまだ 夏を名残惜しんで 蝉が最後の力を振り絞る。しかし一方で、トンボが飛んでいるのを見掛けたりする様にもなった。夏の疲れが出る頃だからかな・・・。毎日体が重たい。この前、私がいつ頃引っ越すのかを気にしているお隣さんに気付いてしまったから、それが引き金となって 慌てて分譲マンションの契約を進め始めたけれど、やはり毎日夜になると、迷いと不安が鉛色の渦となって私の中を占領する。お隣さんは、引っ越す前に会って話したいって言ってたけど、本契約が済んで引っ越しの日にちが決まってからでないと、会いづらい。だから未だに朝も時間を慎重にずらして避けている。元々早めに出勤していた私が、電車を二本早めると、当然会社に出社するのは 課でほぼ一番だ。そして次に来るのは大抵課長、そして若者がその後にちらほら続く。浅見部長はいつもその若者達の波に紛れて出勤してくる。
しかし今日は違っていた。いつも通り私が一番乗りで出勤した後、姿を現したのは浅見だった。
「おはようございます。今日はお早いですね」
意味深に笑うと、浅見はデスクにバッグを置いてからコーヒーを入れに動く。両手にカップを持って私の方へ近付くと、片方を置いてから自分の分に口をつけてすすった。
「いやいや・・・女性は逞しいわ」
いきなり浅見がそう言うから、私はその意味するところを考える。私が気の利いた相槌を返さなかったからだろうか。浅見が愛想笑いを浮かべた。
「ごめん、ごめん、朝から」
そう言って私の席から立ち去ろうとしたから、慌てて言葉を繋いだ。
「何か・・・あったんですか?」
振り返った浅見は、暫く黙ったままだったから、私もそれ以上ほじくったりはしない事にした。
すると浅見が、またふっと笑顔を向けた。
「いつもの会社に来たら、いつも通りに竹下さんが出社してて ふと安心して余計な事こぼしちゃったみたいだ。朝から悪かったね」
「いえ・・・私は別に・・・」
また良くある相槌を返す私だ。
「ついでに淹れたから、良かったら飲んでよ」
そう言い残して、浅見は自分のデスクへと去って行った。
その日仕事を終えた後、私は最後の社員が退室するのを待って 浅見のデスクに近寄った。
「部長。この後、ご予定ありますか?」
いつもの様に浅見の案内で、新宿にある寿司屋ののれんをくぐる。席に空きがあるか 浅見が電話を一本入れただけで、個室に案内される。元々東京の出身ではない浅見が、こんな常連の様な扱いを受ける事に対して不思議がる私を見透かして、おしぼりで手を拭きながら説明した。
「ここの大将、大学の同期。俺もそうそう来る訳じゃないんだけど、空いてると個室取っといてくれるんだよね」
なるほど、納得だ。しかも何故か浅見の説明が言い訳がましく聞こえないから不思議だ。
「好きな物、頼んで」
そう言ってメニューを開くが、浅見は私の顔を見て笑った。
「そう言われても、遠慮しちゃうよね」
私の愛想笑いを確認すると、浅見がメニューをペラペラッとめくった。
「じゃ、コースにしようか?」
「コース?!」
寿司屋でコースを注文した事なんかない私は、思わず聞き返してしまう。
「そうそう。楓コースとか、桜コースとか・・・幾つかあるから」
私が返事を迷っていると、浅見が次の案を出してくる。
「それとも、大将にお任せで出してもらう?」
「お任せ・・・?!」
「もちろん、お好みで注文もできるし」
「部長に、お任せします」
注文を終えた浅見が、私の顔を見て言った。
「竹下さんから誘ってくれるなんて、珍しいよね。何か話、あった?」
私は背筋を少し伸ばした。
「私・・・マンションの購入を考えてるんですけど・・・。っていうか、もう銀行のローンの審査も通って、後は契約するだけなんですけど・・・この期に及んで 本当にいいのかなって・・・」
すると、浅見は即座に笑顔で返事を返した。
「賃貸で家賃払ってたら勿体ないよ。転勤とかも無いんだし、気に入った物件があったら買っちゃった方がいいと思うよ」
「・・・まぁ、そうですよね・・・。そうなんですけど・・・」
「何に迷ってるの?・・・あぁ、やっぱり額が大きいからね。今後大きなローン抱えてくのは、ちょっと覚悟というか勇気がいるよね」
「・・・はい」
「でもさ、やる理由があると 仕事にも張り合いが出るよ。・・・って、これは男の場合かな。男は結婚したり子供が生まれると、その家族を守る為に仕事頑張んなきゃって思うもんだけど・・・。ま、離婚はその逆で、何の為にこれから頑張ろうかなって、糸の切れた凧みたいなふわふわっとどっか飛んでっちゃいそうな気持ちにもなる」
そう言って、浅見は苦笑いを浮かべた。
「それ、今の俺」
「・・・・・・」
部下として、どんな相槌を返したらいいか分からない。結婚すらした事もないのに、その先の別居や離婚という荒波を経験した上司に、部下の私が返せる相槌の正解は何なんだろう。結局その答えが見つからないから、沈黙を打ち消す様に浅見が笑いながら言った。
「変な話して、ごめん。今日は竹下さんの話だったね」
笑顔の奥に寂しそうな表情が見える。
「部長も買う時、やっぱり勇気いりました?」
浅見は少し首を傾げて遠くを見つめた。
「俺、竹下さんみたいにきっと真面目じゃないんだね。家族の笑顔が増えるとだけ信じて、その為なら俺に任せとけ!みたいな若さというか勢いというか、そんな感じで契約した記憶があるなぁ。まさかその20年後に、ローンだけ残って全部嫁さんに持ってかれるなんて、想像もしてなかったなぁ」
「・・・そうなんですか」
辛うじて そう相槌を返すと、浅見が言葉を付け足した。
「『持ってかれた』って表現には語弊があったね。親権とか養育費とか そんなんでゴタゴタもめたくなかったから、格好つけて『家族の為に買った家だから、どうぞそのまま住んでくれ』ってあげちゃった」
「・・・・・・」
「嫁さんも・・・いや、元嫁さんもちゃっかりしてるね。『じゃ、遠慮なく』だって。ま、そりゃそうか。子供達も育ててかなきゃならないし、別れて他人になる旦那に遠慮する馬鹿いないか」
ローンだけ残って、家は相手の物になっちゃって、子供達も どうやら奥さんの方につく事になったみたいだ。養育費とかでゴタゴタしたくないって、一体離婚の理由は何だったのだろう。離婚で浅見から全ての物が剥ぎ取られていくみたいに思える。・・・って事は、やはり原因は浅見の方にあるのだろうか?
「結婚って・・・大変なんですね。そういうの聞くと、一人の気楽さが幸せに感じてきます」
すると途端に浅見が頭を抱えた。
「あ~、ごめん。結婚前の女性に、夢壊すような話しちゃいけなかったね」
結婚前の女性?!そんな風に思ってもらえるなんて、変な感じだ。私の事を“結婚できなかった女性”とか“行き遅れた女”みたいに世間では思われていると思っていたから、ちょっと気遣いのある扱いを受けると、すぐに心が反応する単純な私だ。
「そういえば、竹下さんは結婚願望は無い派の人?」
「無い派・・・ではないですけど・・・」
「なかなか彼がプロポーズしてくれない、とか?」
「いえいえ」
見栄を張ると、お隣さんの時みたいに 後でバレた時が恥ずかしいから、きちんと否定する。
「今、付き合ってる人、いないの?」
「・・・いませんよぉ。居たら、マンション買おうなんて考えません」
「そっか」
浅見が笑ってくれたから、少し気持ちが軽くなる。
「・・・あ~なるほど。そういう迷いか・・・」
浅見が、じっと私の顔を見た後でこう言うから、私は少し身構えた。
「買っちゃった後で、良い人との縁があって結婚の話になった時に、どうするんだって話か。それ考えると、買わずに このまま賃貸に住み続けた方が面倒な事なくていいって考えも分かるしね」
私の顔から、苦笑いしか出ない。私の心の中の全てを一瞬にして読まれているから。だから私はいつもの癖で、丸裸にされた心にごまかしの言葉を被せた。
「別にそういう縁を期待してるって訳じゃないんですけどね」
少し何も会話の無い時間が通り過ぎてから、浅見が顔を上げた。
「今度買うマンション、間取りは?」
「・・・1LDKですけど・・・」
それを聞いてから、また暫く浅見が黙る。何を考えているんだろう。間を持たせる如く、私は目の前にある料理にそっと箸を伸ばす。すると、また急に浅見が私の目をじっと見て言った。
「そこに、俺と一緒に住まない?」
『え?!』と言ったつもりだったが、驚きすぎて声が出ない。口だけがポカンと開いた状態だ。それを見て、浅見が目の前で首をうなだれた。
「不謹慎だね、俺。ごめんなさい」
「・・・いえ・・・」
これだけは辛うじて声が出た。
「上司が女性の部下にセクハラとかパワハラとか、今度はそういうので訴えられちゃうね、俺」
「いえ、そんな事しません、私」
必死で首を横に振る私だ。だって実際、そんなに深い意味はない筈なのに、ちょっとドキドキして 微かに嬉しかったりする私が存在したんだから。でも私も馬鹿だ。これじゃ、痴漢に遭っても“私を女として見てくれてる”って喜んでいる様なものだ。同棲して結婚秒読みと思っていた彼氏にフラれ、7年振りに好きになった人にもフラれて寂しくなった私は、ちょっとどうかしてしまっているんだと思う。
「そのマンション、竹下さんが結婚する事になって出る事になったらさ、俺借りて住むよ。家賃収入でローン返せばいいじゃない。だから、その時の心配なんかしないで、気に入った物件なら思い切って買うのも悪くないと思うよ」
何だろう、この安心感。聞いていると、自然と背中を押してくれる。無理矢理じゃない。押しつけがましくない優しさ。前の奥さんは、この人のどこをそんなに嫌になったんだろう。
「部長も・・・離婚には納得してるんですか?」
浅見は再び苦笑いを浮かべる。
「納得か・・・。納得してるか?って聞かれると・・・う~ん、難しいよね」
向こうが一方的にって事は・・・やっぱりこっちに原因があるって事なんだろう。そう思っている私の顔を見て、浅見はくすくすと笑いだした。
「一方的に女房に愛想尽かされて、この人一体何やらかしたんだろうって思ってる?」
「え?!・・・いえ・・・そんな・・・」
私って意外に分かりやすいタイプだったのかもしれない。こんなに そのまんま自分の考えてる事を言い当てられた事は初めてだ。そんな私の顔を暫く眺めてから、浅見は声を上げて笑った。
「竹下さんって、本当に素直で嘘のつけない人だね」
まるで褒めてるみたいに聞こえるが、全く違う。浅見が笑ってくれている事に救われるが、これを真顔で言われてたら、きっとかなり深い自己嫌悪の谷にのまれていってる事間違いなしだ。単純で分かりやすい性格だから、お隣さんを避けている事だってきっと とっくにバレているし、私があの晩の行動を後悔している事だって、お隣さんには伝わってしまっているんだろう。そんな事をふと時間の隙間に考えてしまったら、急に悲しくなって心がずんと沈んでしまうのだった。
「何かしたってより、何もしなかった罪のが重いのかな・・・」
浅見のその言葉に、私は現実に戻される。
「・・・・・・」
浅見の言ったその言葉の意味を 頭の中でもう一回反芻していると、ほら、やっぱり、意味が分かっていないのに気付いて、浅見がその説明を始めた。
「子供が生まれる時も、まだ小さくて子育ての手が欲しい時も、仕事だ、単身赴任だって外を飛び回ってて、子供の入学式や卒業式、運動会とかな~んにも見てない父親なんだ。女房からしたら、産ませっぱなしで無責任な男に見えるんだろうね。ふと気が付いて、慌てて女房の誕生日や結婚記念日に何か考えたって、遅いってさ。『金だけ入れてりゃ男の責任果たしてる、みたいな顔しないで』って怒られたよ」
会社では見た事のない肩を落とした浅見の表情に、私は気の利いた言葉 一つも出てきやしない。
「会社での評価と 家庭での評価、どっちも得るのは難しいね」
苦笑いに哀愁が漂ってしまっているから、『奥様、寂しかったんですね』っていう私の本音に喉の奥でブレーキが掛かる。言わなくて良かったんだと思う。だってきっとそんな事、とっくに気が付いてる筈だから。だから私は一つだけ、聞いてみる事にした。
「部長は、まだ奥様の事 愛していらっしゃいますか?」
暫く黙っていると、急に浅見は笑い始めた。
「こんな事、会社の部下に聞かれると思わなかったよ」
「あ・・・すみません」
一応謝ったけど、やっぱりそこが気になる。すると浅見は、伏目勝ちに呟いた。
「申し訳なかったな・・・とは思うよ」
「・・・・・・」
私の胸は少し寂しい色に覆われる。期待していた答えじゃなかったからではない。所詮夫婦って他人なんだなって感じたからだ。やっぱり私は 年甲斐もなく、結婚というものに夢を抱き過ぎているのかもしれない。
浅見はとつとつと続けた。
「親権も家も今後の金の事も、そういう事で揉めたくなかったから、全部向こうの言い成りだよ。情けないもんよ。そしたら家も子供も全部持ってかれて、残ったのはローンと寂しい中年の男一人だ」
開き直った素振りをして笑いながら、両手を広げて見せた。もしかしてこの人は、私と同じ 平和主義者なのかもしれない・・・そんな事を思う。最後別れ際にゴタゴタしたくない気持ち、凄く良く分かる。だから最後に精一杯見栄を張って良い人を演じ切るんだ。私がそうだったから。こうなったのは全部自分のせいだって謝って、笑顔で『幸せになってね』なんて言ったんだっけ。そして最後に『今までありがとう』なんてしおらしくお礼なんか言ってみせたりして。終わり良ければ全て良し・・・という言葉だってある。二人の積み重ねた時間が、相手の中で悪い思い出として残らない為に必死だったんだ。
浅見という目の前の上司に、私は勝手に自分を重ねた。冗談めかして笑う浅見につられて笑わない私に、浅見が表情を合わせた。
「凄く感謝してるよ、女房には。家の事を心配しないで済んだから、俺は仕事で好き勝手やれたんだろうし」
浅見が振り返って何か言えば言う程、何故かとても悲しい気持ちになる。
「俺には良い女房だったけど、むこうには駄目な亭主、駄目な父親だったんだろうね」
まるで7年前の自分の事を言われてるみたいで、私は思わず席を立った。
『ちょっと電話が・・・』
なんていう言い訳をして席を立った私だったが、店の外で何も聞こえない電話を耳に当てながら、空を見上げた。都会のど真ん中で見上げる夜空は、何だか薄暗い部屋の天井を見上げているみたいだ。月も星も見えない。そして街のネオンが明るくて、これが宇宙に繋がっているなんて 到底思えない。ビルの隙間から覗く夜空に息苦しさを覚えて、私は電話を耳から離した。
「変な話しちゃって、ごめんね。今日は竹下さんの相談に乗るんだったのに」
店を出て、駅までの道を歩きながら浅見が言う。
「いえ。背中押してもらえて、これで契約進められそうです」
「良かった」
にっこり笑う浅見だったが、今日はその笑顔の奥に悲しい色が見える。いや。見える様な気がしてしまうだけだ。
「1月までなんですよね?部長 こちらにいらっしゃるの」
頷く浅見の横顔に、続けた。
「寂しくなります・・・」
浅見は 意外にも笑顔を漏らさずに前だけを見たまま言った。
「竹下さんから見て、俺が来る前と今とで、部署内の雰囲気 変わった?」
業務的に大きな改革は無かったけれど、言われてみると、課長と若い社員の子達の間に入って使っていた神経を ここ最近使わずに済んでいる。特に終業近くなった時の課長の雰囲気をいち早く察知して、険悪なムードになる芽を摘むのが、もっぱらの私の役目だった様に思う。しかし浅見が配属になってからは、課長も大人しくなって、若者達から発せられる変なオーラも最近はない。
「皆、仕事に集中出来てるといいますか・・・」
私はオブラートに包んだ表現をする。すると、その一言を聞いただけで、浅見の顔に笑顔が広がった。
「とりあえずは、役目を果たしたかな」
役目・・・。結局浅見は会社からどんな役割を担って、半年間配属になっていたのだろう。
「ずっと・・・居て頂きたいです」
3か月前の私は、後輩達に頼りなく思われていて、『課長のご機嫌取り』と言われた事もあったっけ。
「大丈夫だよ、竹下さんなら」
浅見は一旦立ち止まって、私の肩に手を乗せてそう言った。
次の日、朝の電車に乗り込むと浅見と偶然一緒になる。こんな事今までで初めてだ。
「今日も早いですね、部長」
「昨日早く行ったら、いいもんだなぁって。皆が出勤してくる顔を一人一人見るのも大事だなって思ってね」
そう話す浅見の顔がにこやかだ。
総務課まで共に足を進めながら、心なしか浅見との距離が近くなっている気がする。でもそれは決して変な意味ではなくて、信頼できる上司との間に感じる そんな親近感だ。だからつい嬉しくて、あまり会社で表情を崩さない私も、頬が緩んでいるのが分かる。
「おはよう」
そう元気に入っていく浅見に続いて、私もいつも通りの挨拶をして部屋に入る。
「おはようございます」
中には一人既に出勤している社員がいる。それを見た浅見が声を上げた。
「一番乗りかと思ったのに・・・。早いね、小林さん」
「昨日会社に携帯忘れてっちゃって。それで今朝、早く出勤しました」
「そうなんだ。誰もまだ居ないだろうねって 今話しながら来たところだったんだ。ね?」
「あ・・・はい」
私が慌てて返事をするのに被さる様に、小林がペコッと頭を下げた。
「すみません・・・なんだか・・・」
・・・すみません?!私の耳に何故か引っ掛かったその言葉。変にソワソワする気持ちを押し殺して、私がデスクのパソコンを開いて準備を始めた頃、浅見の声が再び聞こえる。
「小林さんもコーヒー飲む?」
「あ、買ってきたのあるんで、大丈夫です」
そう言われ、にっこり笑顔を返す浅見の両手はコーヒーで塞がっている。そして私のデスクに近付いて、一つを置いた。
「ここ、置いとくよ」
「あ・・・すみません」
とっさに小林の顔を見てしまう私だ。見てはいけない物を見てしまった様に、小林はすぐに私から視線を逸らした。
「竹下さんと部長って、特別な関係ですか?」
昼休み、外に出る為 偶然一緒にエレベーター待ちをしていた小林が、突然そんな事を聞いてくる。
「え?!」
すぐに否定すれば良かったものを、私ったら こういう時に鈍臭くて困る。言われて一番最初に出た言葉がこれでは、誤解を招きかねない。いや、誤解してくれと言っている様なものだ。
「凄く親し気ですよね~」
「そんな事ないよ・・・」
「昨日も仕事の後、一緒でしたよね?」
「あ、それは ちょっと相談したい事があったから・・・」
私の言葉なんか最後まで聞かずに、小林は少し含み笑いを浮かべながら続けた。
「今朝も早くから一緒の出勤でしたもんね」
「いや、それは たまたま電車で一緒になって・・・」
必死になっている私を面白がる様に、小林がじっと見つめていると、それに仕切りを入れる様にエレベーターの到着の合図音が鳴って ドアが開いた。昼時とあって、上の階から乗ってきた社員達が数名既に乗っている所へ入る直前に、小林は言った。
「凄くお似合いですよ」
1階に着くまでの間、落ち着かない私をよそに、賑やかな会話が後ろで飛び交う。ドアが開いて小林が外に歩き出すのを追いかける様に、私はさっきの続きを話し始める。
「誤解なの。別に変な関係じゃないから」
すると、慌てる私とは裏腹に 小林の相槌は余裕たっぷりだ。
「部長って、独身ですか?それとも既婚者?」
「・・・さぁ・・・そういうプライベートな事は・・・よく・・・」
ありきたりでわざとらしい私の下手な小芝居がバレているのだろうか。首を傾げて見せる私に、小林は見向きもしないで言った。
「でも・・・ま、どっちでもいいんじゃないですか?大人同士の事だし。最低限のルールわきまえてれば」
「いやいや、そういう事じゃないでしょう」
思わず口調が強くなってしまう。
「あ、竹下さんは、そういうの気にするタイプですか・・・」
「気にするとかしないとか、そういう事じゃないでしょう。不倫なんて絶対に許されない事なんだから」
私が珍しく声を荒立てているのに、小林は呑気に財布にぶら下げたストラップをブンブン回して歩いたりしている。
「ま・・・そうかもしれないですけど、やってる人はそっこら中にうじゃうじゃ居ますけどね」
そうなんだ・・・そんなに世間にはある話なんだ・・・。ショックだけど、確かに ついこの間も、大学時代の友人の妙子の所だって、ご主人の浮気騒動で実家に帰ったまんまだ。
「私、部長に聞いてあげましょうか?」
ようやく こっちに向いた小林の目は、やけにキラキラとしている。私は瞬時に手を横に振ってそれを断った。
「いや、その必要ないから。本当、そんなんじゃ全然ないから」
暫く小林が静かになったから、ようやく分かってもらえたんだと 私は一旦肩の力を抜いた。すると、再び小林が口を開いた。
「竹下さん、結婚しないんですか?」
うわぁ~、来た~直球!こういう事、アラフォーの女性先輩社員に面と向かって聞くかな?普通。まるでオブラート無しな感じ、若さゆえだ。
「別にそういう訳じゃないけど・・・」
「今、彼氏いるんですか?」
凄い。逆に尊敬する。こんな事次々とズケズケと聞ける心臓の強さとKYな感じ、少し爪の垢を煎じて飲ませてもらいたいものだ。
「・・・・・・」
答えられないのは、ただ単に私の見栄だ。それ以外の何物でもない。でも小林は、何を思ったのか 意味深にニヤッと笑った。
「・・・ですよね~」
何だろう。『ですよね』って。一体どういう解釈をしたのか、口に出して言ってもらいたい。こんな冴えない40近くの女に彼氏、いる訳ないですよね~って事か?それとも、こんな事聞くなよって言いたいんですよね~って事?
「時間、あとちょっとしかないですもんね」
小林が言う。一体どういう意味だ?私の年齢も限界に来てますよって事?それとも・・・それとも・・・?
私が困惑気味な表情をしていたんだと思う。小林が明るく言い放った。
「大人な関係だとしても、私応援しますよ」
え?!どういう事?色々確認したい気持ちの私を取り残して、小林は点滅している信号を指差して走り出した。
「私、あっちに買いに行くんで。じゃ、又後程」
消化不良の私を置き去りにして、小林はスタスタッと横断歩道を渡って行った。
午後の仕事が始まっても、何だか働きづらい。さっきの小林の 誤解されたままの名残りが、どうも胸に引っ掛かって落ち着かないのだ。しかしそういう時に限って、浅見が私に話し掛けて来たりする。
「竹下さん。庶務課の平野課長の所に、これ届けてくれないかな」
もちろん言われた様にすぐ動くけれど、小林の視線を感じる。いや、気のせいかもしれないけれど、私と部長のやり取りに注目している視線が もう少し増えている気がする。庶務課へ向かう私は、つい溜め息が漏れてしまう。そうだ。今日は5時になったら、すぐに退社する様にしよう。そして、久し振りに あのお弁当屋さんで鯖塩焼き弁当を買って帰ろう。
いつもの駅で電車を下りると、ようやくホッとする。引っ越してしまったら、もうここの駅は使わなくなってしまうけれど、やっぱり6年住んだこの町が、今は私のほっとする場所になっている。ストーカーの存在に一時はその生活も危うくなったけれど、お隣さんが又私の平穏な生活を取り戻してくれた。あれ以来、あの男はすっかり姿を消して、私にも再び 部屋の電気をつけて生活する日々が戻った。外に洗濯物も干せる様になった。
駅の外に出ると、今日はまだ時間が早いから 薄明るい辺りに 少し得をした気分になる。ふっと横切っていく風も湿度が低い。夏が終わって確実に秋が近付いているのを感じる。こんな情緒を感じたりすると、夕焼けなんかがつい見たくなるけれど、それは贅沢な願いだって分かっている。建物の隙間から見える小さな空の端に夕焼けの名残りを見つけて、私の心はほっこりする。あのオレンジ色に染まった空は、いつ見ても優しい気持ちになる。例え嫌な事や心配事があっても、一瞬で帳消しになる位 効果は絶大だ。今日の会社での出来事もリセットされつつあるのだった。やっぱりお日様の力って偉大だな・・・そんな事を考えていると、穏やかで優しい気持ちが 胸いっぱいに充満してくる。
その時だった。
「亜弥さん」
オレンジ色の空の片隅に気を取られ、油断してぼーっと空なんか見上げて歩いていた事を 今更後悔したって遅い。反射的に立ち止まって恐る恐る視線を現実に戻すと、そこにはお隣さんの姿があった。
「あ・・・」
まるで かくれんぼで見付かってしまった気分だ。でも良く見ると、お隣さんも勇気を出して声を掛けた緊張が顔に現れている。前はもっと人懐っこい笑顔で声を掛けてくれていたのに、全部私のせいだ。
「早いですね」
それでも以前と変わらずに会話を繋ごうとしてくれているのが伝わる。
「・・・はい」
それなのに私ったら、気まずさが前面に出てしまって、ごまかす事すら出来ていない。
「あのっ!私・・・」
とりあえず目の前に見えるコンビニを指差して、私がこの場から逃げる口実を口走ろうとすると、お隣さんがタッチの差で言葉を滑り込ませた。
「知ってました?あのお弁当屋さん、新メニュー出たんですよ」
そう言えば暫くあの店に行ってなかったから、最新事情は知らない。私はさっきまで言おうとしていた逃げる口実を一旦引っ込めて、その会話の相槌を返す。
「一週間に1、2回買うんですよ、僕。あの店本当に気に入っちゃって」
そう言ってこちらに見せた笑顔は、昔と1ミリも変わっていない。少しホッとした様な、しかしその反面切ない悲しい気持ちも隅っこの方で疼く。
「今日もそこで弁当買おうかなって思って」
私もだ。私も今日は会社にいる時から あそこの鯖塩焼き弁当を買おうって決めてたんだ。
「あぁ・・・」
つい『私も』って言いそうになって、慌てて止める。
「亜弥さんは、今日の夕飯 もう何にするか決めてました?」
「・・・いえ・・・まだ」
「じゃあ、一緒にお弁当屋さん 寄ってきませんか?」
さっきまでここから逃げる口実まで考えてた位なんだから、今からそれを言おうと思えば幾らだって言えた筈だ。でも私は、何時間も前から考えていた今日の夕飯に食べるお弁当を手放せず、お隣さんの誘いに頷いてしまうのだった。
弁当屋での新メニューを眺めて、私は迷う。
「もし決まってるなら、先 どうぞ」
一旦お隣さんに順番を譲ってから、もう一回悩む。元々優柔不断な私なんだから、昼間から決めてたお弁当と 急に勧められた新作と迷って当然だ。しかしその間に、お隣さんはあっさありと注文を済ませた。
「今日は僕は、昼間っから 鯖塩焼き弁当って決めてたんで」
へぇ~。この人は一旦決めた事を貫き通せる人なんだ・・・。お弁当に悩む頭の片隅で、そんな事を思う。でもすぐにそれを打ち消す。だって今更 お隣さんの良い所を幾ら見つけたって、フラれた私に可能性はない。
「じゃ、せっかくだから新しいのにしようかな」
そうだ。私もこれからマンションも買って引っ越して、新しい生活をスタートさせるんだから、お弁当も食べた事ない物にしてみよう。それにお隣さんと同じお弁当を選ぶなんて、未練がましい自分を断ち切れないみたいで嫌だから。
出来たお弁当を受け取りながら、お店の奥さんが言った。
「亜弥ちゃん、久し振りね。元気にしてた?こちらのお兄さんは、良く顔出して下さるけど」
無難に挨拶をしてから、私は思い立って付け足した。
「あ、そうだ。私、近い内に引っ越しちゃうんです。だからもう来られなくなっちゃうかも・・・です」
奥さんの驚いた顔と同時に、お隣さんも私への視線が動かない。
「遠くに行っちゃうの?」
「う~ん・・・こことは路線が違うかな」
どことは言わない。曖昧にごまかすと、奥さんはまたにっこり元気に笑った。
「そう。元気で頑張ってね。じゃ、餞別のつもりで、今日は豚汁つけちゃう!」
店を出てマンションに向かって歩き出すと、引っ越しの事を聞かれそうで怖いから、私は先に喋る事にした。
「堀之内さんと一緒だと、いつもおまけして貰えちゃう。福の神ですね」
“龍君”とは、あの日以来もう呼べない。その事に気が付いても欲しくない。だから私は言った後に沈黙が訪れない様に、必死に笑ってみたりする。
「いえ、僕の方こそ 亜弥さんに便乗して豚汁のおまけ 頂いちゃったんですから。亜弥さんこそ、福の神ですよ」
堀之内龍という人は きっとお世辞は言わない人だ。福の神と例えてくれるって事は、あの日あんな間違いを犯してしまったけれど、多分私の事を軽蔑したり煙たく思ってはいないんだと思う。少し、ほんの少しだけホッとした私は、さっきまで強張っていた肩の力をふっと抜いた。
それを感じてか、お隣さんがお弁当の袋を眺めながら言った。
「どっかでこれ、一緒に食べませんか?」
思わず足が止まってしまう。するとお隣さんが私の方へ体を向けた。
「風も気持ちいいし、外で一緒に食べましょうよ」
「・・・・・・」
まさかこんな風に言われると思っていないから、私は断る口実がすぐに出て来ない。
「どうせお互い、家に帰って一人で食べる訳だし」
そうなんだけど・・・早く家に帰らなきゃならない理由を 私の脳みそは必死で探している。
「秋になって、外が気持ちが良い季節になったから。僕、近くでいい場所知ってるから、そこ行きましょう」
駄目だ。早く何か言わないと、絶対お隣さんのペースに乗せられてしまう。
「あの・・・私、今日そんなに時間なくて・・・」
「すぐ近くなんで」
「いや・・・そうかもしれないけど・・・時間が・・・」
「お弁当食べるだけですから。家で食べても外で食べても時間はさほど変わらないでしょ?」
ごもっともだ。説得力のない言い訳に もうそれを覆す力はない。それでも私が首を縦に振らないから、とうとうお隣さんが切り札を出した。
「僕の一人飯に付き合って下さい」
頭を下げられてしまったら、もうこれ以上断るのは無理だ。私は重たい首を一回縦に頷かせた。
お隣さんの“いい場所”に向かって歩く途中、会話はない。私がさっき渋々の返事をしたせいで、気まずい雰囲気が漂ってしまっているのだ。
「すみません・・・無理矢理 付き合わせちゃって」
私は最低だ。お隣さんは何も悪くないのに、頭を下げさせた上に謝らせてしまった。
「亜弥さんが僕の事 避けてるの分かってるんですけど、お引越しされる前に、どうしてもちゃんと話しておきたくて」
やっぱりこうなっちゃうよね・・・そんな言葉が私の頭の中でぐるぐる回る。
「せっかく仲良くなったのに、気まずいまんまで終わるの どうしても嫌だったから」
『気まずいまんまで終わる』と言ったお隣さんの言葉が、私の胸にグサッと刺さる。
近くだと言ってた通り、本当に数分で ベンチが並ぶ広場に着く。そして照明が明るいから、夜の公園の様な暗さもない。
「ここです。来た事ありました?」
私はキョロキョロしならが言った。
「前の道は通った事あったけど、こんな風にベンチがあるなんて気が付かなかったです」
一つベンチを選んで座ると、お弁当を袋から取り出す前に お隣さんは私の方に体を向けて背筋を伸ばした。
「亜弥さん。この間家まで送らせてもらった日の事、凄く反省してます」
私は心の中で重たい溜め息を吐く。この後に続くのはきっと、
『ごめんなさい』
と謝られて、
『忘れて下さい』
ってお願いされて、そして多分最後には、
『この事は誰にも言わないでもらえますか?』
って釘を刺されるんだろう。でも大丈夫。私だってもう40近い いい歳した大人だ。生まれて初めてのキスって訳じゃないし、彼女から奪い取ってやろうとか、そんな重たい意気込みもない。あの日はお酒も飲んでいたし、ストーカーの恐怖から解放されて ついホッとしてしまった、いわば出来心というか 流れというか、事故みたいなものだ。それに欧米ではキスなんて挨拶代わりにするじゃないか。そんな かしこまって話されたら、こっちが困る。
「やめて下さい。そんな大袈裟な・・・」
軽く笑ってあしらう様に言った私を お隣さんはじっと見てから、再び口を開いた。
「僕の事、軽蔑しましたよね?」
思わず驚いて膝に乗せていたお弁当の袋を落としそうになる。私が避けていたのは、軽率なお隣さんを軽蔑したんだと思われていたなんて。
「いやいや・・・軽蔑なんてしてません」
頭を下げている様な、俯いている様なお隣さんに、私は話を続けた。
「全然気にしてませんから。っていうか、私の方こそ申し訳なかったって思ってます。お酒も結構飲んじゃってたし、ストーカーも捕まえて頂いて、無事に家に帰って来られて つい気が緩んじゃったっていうか・・・」
そう言う私の後から、お隣さんが少し大きめの声を出した。
「僕は違います。酒飲んでたからとか・・・勢いとか・・・そんなんじゃありません」
「・・・・・・」
ん?なんだか、私が思っているのと違う話になってきている。勢いとか流れじゃないと言うなら、一体何だったんだろう。私の頭の中は疑問符でいっぱいになる。私は当然言葉に詰まってしまっていたが、お隣さんも又口を開かないから、何となく息を吸うのも躊躇われる空気が充満する。時々私の膝の上のお弁当のビニール袋がカサカサッと音を立てる位しか、沈黙を破るものはない。視線を感じるけれど、顔を上げてお隣さんと目を合わせる事は出来ない。私は思い切ってお弁当の入った袋をガサッと大袈裟に広げた。
「せっかく温かいお弁当なんだし、冷めちゃう前に食べましょう」
私は豚汁の入った容器の蓋を開けると、湯気がぱぁっと立ち昇った。
「ん~、いい匂い」
必要以上にお喋りになっている自分に気付いているが、この空気に耐えられないから、仕方がない。フウフウしながら豚汁に口を付けた。
「熱っ!」
慎重に飲んだつもりが舌先を火傷してしまった。そんな私を見て、お隣さんが聞いた。
「猫舌ですか?」
「ま、多少そうかもしれないです」
お隣さんも豚汁を ゆっくり一口飲んだ。
「本当だ。かなり熱々ですね」
私は豚汁を置いて、初めて食べるお弁当を眺めた。お隣さんは隣で弁当の蓋を開けながら言った。
「僕は今日ずっとこれ食べたくて、仕事終わるの楽しみにしてたんです」
『私もです』という言葉を飲み込んで、私は別の質問をした。
「よく行かれるみたいで」
お隣さんは 思い出した様に『あっ』と声を上げた。
「亜弥さん、あそこのお惣菜、食べた事あります?」
私は首を傾げた。するとお隣さんが明るい声を出した。
「お惣菜も美味しいんですよ、あそこ」
そんなどうでもいい様な会話が続くが、それに正直救われる。
「って言ったって、亜弥さん引っ越しちゃうなら、そんな情報もあんま関係ないですかね」
どんな返事をしていいのか分からないから、つい黙々と箸を口へ運ぶ。
「どちらに・・・引っ越されるんですか?」
「・・・・・・」
私がすぐに言わないから、お隣さんが質問を変えた。
「もう引っ越しの日程決まってるんですか?」
「来月の連休辺り・・・」
それなら答えられる。だから私は、場所を言わなかった分 言葉を付け足した。
「色々、本当お世話になりました」
私が頭を下げると、お隣さんも慌ててお辞儀を返した。当然の如く、その場は再びしんみりとした空気が漂う。しかしそれを破ったのはお隣さんだ。
「ストーカー もう居なくなったのに、引っ越し・・・するんですね」
「・・・はい」
「もしかして・・・僕のせいですか?」
私は慌ててそれを否定する。
「まさか!違います。私がいけないんです」
慌てすぎて、余計な言葉が出てしまった。『良い物件があったんで、マンション買う事にしたんです』とか、『もうそろそろ引っ越そうと思ってたんで』とか、そういう理由を言えば良かったのに、私はこういう所に隙がある。『私がいけないんです』なんて、まるでこの間の事がきっかけだって、バラしてる様なものだ。もう口から出てしまった言葉を引っ込める事もごまかす事も出来ず、私は又黙々とお弁当に逃げた。
暫くお互いに黙ったまま、お弁当を食べる時間が流れる。豚汁を最後まで飲み切ると、お隣さんが口を開いた。
「僕・・・まだ『亜弥さん』って呼んでもいいですか?」
何で急にそんな事聞くの?私の顔にそんな心の声が現れてしまったみたいだ。お隣さんの方へ顔を向けた私に、少し元気のない声がし始める。
「僕の事、名前で呼ばなくなりましたよね?」
気が付いてたんだぁ・・・。私はがっくりと肩を落とす。そりゃそうだ。これだけ気遣いの出来る人だ。こちらの態度の変化に気が付かない筈がない。
「前みたいな距離感が迷惑になるなら、僕も竹下さんってお呼びした方がいいですよね?」
久し振りに聞く『竹下さん』という響きに、凄く悲しい色で胸がいっぱいになっていく。
「全然。気にせず今まで通り、どうぞ どうぞ」
少し考えてから、お隣さんの質問が来る。
「じゃ、亜弥さんはどうして僕の事、名前で呼ぶのやめたんですか?」
当然の疑問だ。しかし私はどう説明したらいいか分からない。
「別に・・・深い意味はないです」
「じゃあ、又今までみたいに名前で呼んで下さいって言ったら、呼んでもらえますか?」
「・・・そんなに呼び名、大事ですか?」
恋人でもあるまいし、そこ こだわらなくてもいいんじゃない?
「きっと亜弥さん、僕と距離置こうとしてますよね?それって、やっぱりあの日が原因ですよね・・・。嫌われちゃったとしたら仕方ないけど、ちゃんと謝りたいっていうか・・・出来心みたいな そんないい加減なつもりじゃないっていう事を言いたくて・・・」
あぁ・・・またこの話になっちゃった。私はお隣さんの言葉を最後の方でちょん切った。
「それ、さっきも聞きました。もう充分分かりましたから、謝るとか そんな事言わないで下さい」
「充分分かったって・・・分かってないです・・・よね?」
「分かりましたって。大丈夫です」
良く考えてみると、“大丈夫”って言葉って便利だ。断る時も受け入れる時も、この言葉は通用する。それに“大丈夫”って言われたら、それ以上突っ込めなくなるのが、この言葉の持つ威力だ。
それにしても『いい加減な気持ちじゃない』ってどういう事?・・・私の頭の中でその言葉が繰り返し繰り返し聞こえてくる。彼女がいるのに、しかもそれを私だって知ってるのに、どうして『いい加減な気持ちじゃない』なんて言えるんだろう。隣で空になった弁当を袋にしまうガサガサッという音を薄っすらとBGMに聞きながら、私は以前にコンビニで偶然お隣さんと会った時の事を思い出す。あの時は確か、お隣さんはデザートを選んでいたんだっけ。二種類迷っていて、両方買おうって言ったんだ。最終的には一つに絞ったけど、あの時私は、この人は迷ったら欲しい物いっぺんに手に入れようとする人なのかもしれない なんて思った事を、頭の片隅に思い出す。だけど、きっと彼が私に興味があるんじゃない。それまで隠していた私のお隣さんに対しての気持ちを あの時感じ取って、彼の動物的勘に“脈あり”って訴えかけてしまったのかもしれない。だとするなら・・・私はその気なんかありませんって態度で示したら、きっとお隣さんは変な気を起こさず 今まで通りの関係に戻れるのかもしれない。
私は大きく息を吸い込んで、気持ちに勢いをつける。このお弁当を食べ終わったら、はっきり言おう。『私、そんな気更々ありません』って。
私はカップの底に溜まった豚汁の具をさらう。これで終わりだ。これを片付けたら切り出そう。そんな事を考えて勢い付いたら、思わず汁が気管に入ってむせてしまう。
「大丈夫ですか?」
お隣さんはむせてせき込む私の背中を遠慮がちに摩った。
温かい・・・。変な所にちょっとばかり汁が入って苦しかったけれど、ふと気が付くと、背中に触れている彼の手の温もりが丁度心地いい温度だ。安心する様な、ほっと癒される様な、そんな心地良さだ。・・・そう。あの日と同じ 吸い込まれる様な温かさだ。さっきまで勢い付いていた私の心は、簡単に誘惑に惑わされてしまう。もしかして、今私が『好きです』なんて言ったら、二股だけど、二番目だけど、彼のちょっとだけ特別な存在になれるのかもしれない。それも・・・ありかな・・・。そんな関係長続きしないのは分かっているけれど、もう少しだけ、良い思い出なんかが作れるかもしれない。
私の思考はどんどんと甘い蜜の香りのする方へと吸い寄せられていく。
咳が鎮まると、自然とお隣さんの手が背中から離れる。急に秋の夜風が通り抜けて行った様な寂しさと物足りなさを感じて、私は衝動的に口を開いた。
「私って、本当駄目人間なんです」
何の脈絡もなく唐突に切り出した私に、お隣さんは釘付けだ。
「ないですか?自分の事、そう思う時」
「・・・あります」
「ありますよね?」
そう言って私がふっと笑うと、お隣さんが照れた様に笑った。
「自分の未熟さを痛感したり、薄っぺらい自分を見ちゃった時とか。マジで嫌になります」
お隣さんの挙げた例えの中には、女性問題は入っているんだろうか。私がぼーっと空を見上げると、お隣さんが言った。
「亜弥さんも、自分の事そんな風に思う時 あるんですね」
「ありますよ~。特に今」
「今?!」
「そう。今の私の頭の中、絶対に人に見せられません」
お隣さんはちょっと私の顔を見つめてから、又にこっと笑った。
「そう言われると、余計に見てみたくなりますね」
頭はスケルトンじゃないんだから、外から見える筈もないのに、私は頭の前で両手を振って彼の視線を遮った。すると、お隣さんもそれを面白がる様に質問してくる。
「僕と一緒にいる時に考えてるって事は・・・僕の事ですか?」
私はお隣さんの表情を確認してから言った。
「そうですよ」
「何だろう」
私はそれまで緩んでいた頬を引き締めた。
「自分の事 駄目人間って思う位ですから、良い事でない事は確かです」
「・・・ですよね」
いつもの優しい笑みに一瞬影が落ちる。だから私はそこまでで切り上げた。
「さっ!帰りますか」
そう言って立ち上がると、その後からお隣さんも腰を上げた。
「あ~、美味しかった。豚汁で火傷したのは想定外だったけど、お腹は凄くいっぱい」
軽く伸びをして下した腕を、お隣さんが急に掴んで言った。
「聞きたいです」
「え?!」
「亜弥さんが何考えてたか」
「だから、悪い事だって・・・」
「悪い事でもいいから、聞きたいです。ちゃんと・・・知りたいです」
掴まれた手首から、再びさっきと同じ体温がじわっと伝わってくる。駄目だ。この温もりが私の理性を狂わせるんだ。だから私はシリアスな空気を吹き飛ばす様に笑ってみせた。
「無理無理無理」
そう言いながら、私はお隣さんの手を解いた。しかし解いた筈の手を、もう一回お隣さんは掴んだ。
「もう よしましょう、その話は」
笑顔とは裏腹に私のきっぱりとした言いっぷりに、お隣さんは手を解いた。
マンションの前まで来て、お隣さんは足を止めた。
「もし今僕が亜弥さんに『付き合って下さい』って言ったら・・・不愉快な思い させてしまいますか?」
当然の事ながら、私は全身を硬直させた。お隣さんも じっと私への視線を外さないのが分かる。
「どういう意味ですか?」
もう一度お隣さんは、改めて私の方へ向いて小さくもう一歩距離を縮めた。
「・・・そのまんまの意味です」
「・・・からかってます?私の事」
お隣さんは少し慌てて首を横に振った。
「まさか!真面目に言ってます」
私の心臓が急に爆音を立て始め、頭の中では竜巻が起こっていた。私は何かから逃れる様に鞄から鍵を取り出して、マンションのエントランスのドアロックを解除した。
私が黙ったまま中へ入ると、お隣さんも同じ様に中へ入る。そのまま無言でエレベーターに乗り、部屋の前で鍵をドアノブに差し込んだところで、お隣さんの声が私にブレーキを掛けた。
「僕の事どう思ってるかだけ、聞かせてくれませんか?」
40近い女が 20代半ばの若い男に言い寄られて、浮かれてるとかテンパってるって思われたくない。そんな私の変なプライドが余計に思考回路を滅茶苦茶にする。
「ごめんなさい。今日は・・・もういいですか?」
「・・・・・・」
お隣さんが寂しそうな目をしている事なんか、私には見えない。今の私はこの場を切り抜ける事しか考えていないのだから。
「じゃ、今度の日曜日、どっか出掛けませんか?映画とか・・・」
何?これってデートの誘いだ。頭にカーッと血が上っていくのが、自分でも良く分かる。
「今日はお弁当を一緒に食べるだけだって・・・」
お隣さんの声が少し沈む。
「そうでしたね・・・。すみません」
その時、背後でエレベーターが開く音がして中から人が下りてくる。私にとっては願ってもない救世主だ。その住人が私達の脇を通り過ぎていくのを合図に、私は部屋の鍵をガチャッと開けた。
「じゃ、失礼します」
一方的に玄関の中に隠れてしまった私だけど、お隣さんの事を思うと今更ながらに申し訳ない気持ちが湧いてくる。
私はキッチンのゴミ箱に空になったお弁当のパックを捨て、少し冷静になって話をまとめてみる事にする。私はベッドに腰を下ろした。
まず・・・急にお隣さん、どうしちゃったんだろう。この間の事はいい加減な気持ちじゃないとか 付き合って下さいだとか、気持ちだけでも聞かせてなんて、絶対におかしい。もしかして、彼女と喧嘩でもしたんだろうか?・・・いや、そんな筈ない。だってついこの間、彼女と伊豆に旅行に行って楽しかったって報告してくれたばかりだ。それにまだ付き合って何ヶ月でもない。普通一番楽しい時期だもの。・・・って事はやっぱり、この間明け方帰ったのが彼女にバレて、別れる事になってしまった・・・とか?その原因である私は、歳は取ってるけど、この前彼氏もいないって言ってたから、40前の寂しくて不安な独り身の女だから、ちょっとその気がある素振りでもしたら 引っ掛かかってくるんじゃないかって思われたのかもしれない。
その時携帯が鞄の中で震えるのが分かる。取り出してみると、お隣さんからのメッセージだ。
『先程は突然にすみませんでした。戸惑わせてしまった事、申し訳なく思ってます。でもさっき言った事は嘘でもからかってるんでもありません。真面目な気持ちです。それだけは信じて下さい』
これを読むと、私の頭は更に混乱していく。そうか・・・。世間でよく二股なんて聞くけれど、多分一人一人にはそんな事おくびにも出さない筈だ。だから皆それがバレた時、怒ったり泣いたりするんだな。今日のお隣さんみたいな あんな告白をされて、まさか他に誰かいるなんて思いもしないもの。だからフラッときちゃうんだ。
で、私がどうするかだ。彼女がいると知りながらも、彼と特別な関係になれる事を選択するべきか。それとも、ここはきっぱり断るべきか。断る事は私の為でもあり、彼女の為でもある。はたまたお隣さんの為でもあるのだ。
私は携帯に再び手を伸ばし、お隣さんから来たメッセージに返信を打ち込んだ。
『ごめんなさい』
そこまで書いたが、その後の言葉が続かない。思い浮かばないのだ。私は様々な言い方を想定してみる。
『気持ちに応える事はできません』
いや~、偉そうだ。まるでお隣さんの告白を真に受けてるみたいに聞こえる。
『彼女のいる人とお付き合いを考える事はできません』
これも、何だか説教臭い。私は書いては消し、書いては消しを繰り返し、結局ごめんなさいの後の丁度いい言葉に行き当らない。溜め息を深くついて、私は携帯を置いた。
「いいじゃん!一回位デートして来なよ」
宇田川紅愛だ。きっと私が紅愛なら、そうするんだろうな と納得ができる。
「だって、彼女がいるんだよ。・・・良くない・・・でしょう?」
「こっちから誘ったんじゃないんでしょ?だったら、こっち悪くなくない?」
・・・そういうものか?!私の頭は少し困惑気味だ。
「映画とか食事って、友達とも行くじゃない。そういう感覚と思えば、罪悪感なくない?」
確かに、そう言われればそうだ。
「でもさ・・・告白・・・的な事、聞いちゃってる後だし・・・、単に友達っていう風に思えってのも今更・・・」
電話の向こうで、紅愛の溜め息が聞こえる。『下らない事でぐちぐち悩んでないで、何か行動起こしなさいよ!』って一喝されるのを覚悟して待っていると、意外にも紅愛の言葉は違っていた。
「じゃあさぁ、その男の本性を見る為に出掛けてきたら?」
「本性?!」
「公然と二股掛ける様なすかした野郎なのか、それとも彼女とは別れてあ~やと真剣に付き合いたいと思ってるのか。二人で一日過ごしてくれば、年上の女をからかってるだけなのか、そうでないのか位 分かるでしょ」
紅愛との電話を終え、私は思う。紅愛に相談したら こういう答えが返ってくる事位想像が出来た。それを分かっていて紅愛に電話をした自分は、誰かに背中を押して欲しかっただけなんだと。諦めなさいって本気で止めて欲しかったら、きっと他の友達に相談していた様に思う。私って、本当に駄目な奴だ・・・。
次の朝、エントランスへ下りてくると、お隣さんが立っている。
「あ・・・」
体は正直だ。思わず後ずさりしてしまう。
「おはようございます」
お隣さんからの挨拶にも ちょこっと会釈を返すだけなんて、私から警戒心丸出しオーラが出っ放しだ。
「駅まで一緒に行きませんか?」
「・・・・・・」
断る理由がない。歩き出して、私は先に口を開いた。
「昨日、返信しなくてごめんなさい」
「急にあんな事言って・・・困りますよね」
お隣さんはごまかす様にははっと小さく笑うが、朝から重苦しい空気だ。するとお隣さんが少し声のトーンを上げた。
「亜弥さん、東町に新しく出来た映画館、もう行きました?」
「いえ・・・」
「映画とか、あんまり観ないですか?」
「そんな事ないですよ。最近はDVD借りて家で観る方が手軽で・・・」
「分かります。僕も結構借りて観ます。亜弥さんは、どんなの好きなんですか?」
隙間を作らない様に話すお隣さんだ。
「どんなの・・・。ホラーとかアクションとかはあまり観ないです」
お隣さんがそれを聞いて笑った。
「ホラーとかアクションとかが好きって言われた方が、びっくりです」
そんな何気ない会話が、一瞬昔の感じを思い出させて、私の頬も緊張から解放されて つい緩んでしまう。
「洋画と邦画、どっちも観ますか?」
私が頷くと、すぐにお隣さんが言った。
「亜弥さんと一緒に観たい、お薦めの映画があるんです。一緒に行ってくれませんか?」
「・・・・・・」
すぐに『はい』って言ったら、誘ってくれるのを待っていたみたいだ。だから私はちょっと間を置いた。するとお隣さんが更に続けた。
「その新しく出来た映画館、シートが最高にいいらしいんです。友達が言ってました。だから、ね?行きましょうよ」
「・・・はい」
そう返事をした後で ちらっとお隣さんを見ると、嬉しそうに まるで子供の様に小さくガッツポーズなんかしている。
「ありがとうございます!楽しみにしてます」
あんな笑顔を見る限りでは、二股男には見えない。私をからかっているとも思えない。いや、でも待て。信用するのはまだ早い。大抵二股を掛ける様な男は、どっちにも“君だけだよ”と信じさせる役者だ。
二人は日曜日に約束をして、改札を入った。