第7話
7.
今日は日曜日だ。しかも普通の日曜日ではない。お隣さんが彼女と花火大会に浴衣デートの日だ。皮肉にも偶然聞いてしまったから、忘れようったって忘れられない。きっと可愛い浴衣に身を包んだ彼女にデレデレしてしまうんだろうなぁ・・・なんて、考えたってどうしようもない事ばかり、頭に浮かんでしまう。私はカーテンの隙間から空を見上げる。雨が降って、花火大会が中止になっちゃえばいいのに・・・。そんな事がふと頭をよぎる自分が醜い。
ここ最近は洗濯物を暫く外に干していない。だから晴れだろうが雨だろうが関係ない。言い方を変えれば、今の私にはどこの場面を取っても、晴れているメリットは何もない。洗濯物を畳みながら、ふと思う。20代の頃は、デザイン重視の下着ばかりだったが、ここ最近は機能性重視だ。下着を買う時に、昔は見た目が可愛いとパッと手が伸びたものだ。しかし今では、機能の説明なんか良く読んだりしてる自分がいる。その上、少しくたびれた下着だって、誰に見られる訳でもない。それが意味をなさなくなるまで使い切る。物を大切にする様になったんだ、とか、倹約家として奥さんにしたらなかなか良い力を発揮するかもしれない とか、結婚相談所に登録するなら良いアピールポイントになったのかもしれない。
そんな何の役にも立たない事で頭の中をいっぱいにしているところへ、紅愛から電話が掛かる。
「その後どう?可愛い年下の好青年とは」
「どうって・・・別に何もないわよ。向こうには彼女がいるんだし、ただのお隣さんってだけだから」
「な~んだ、つまんないの~」
「私の事、主婦の暇つぶしのネタにしないでくんない?」
それを否定せず、紅愛はわはははと明るく笑い飛ばした。そしてすぐにストーカーの事を気に掛けた。
「あれから変態、また出てる?」
「うん・・・何回かね」
「やばいね・・・それ。本気かな、そいつ」
「警察に言った方がいいかなぁ・・・」
「そうだねぇ・・・」
そう言った後、紅愛は大きく息を吸った。
「だからって警察が何か積極的にしてくれるって訳じゃないだろうから、自分の身を守るのは結局自分って事になるのよね」
こういう恐怖に一人で立ち向かっていかなきゃならない事位、一生一人で生きてくと決めた時に、覚悟をしておくべきだったのかもしれない。
「引っ越しもさ・・・考えたりして・・・」
「あぁ、そうだよ。それが一番だよ。賃貸なんだし、すぐ引っ越しなよ」
やっぱりそう言うよね・・・。当然だ。常識的に考えたら、誰だってその答えに行き着く。紅愛がその後に言った。
「あ~やはさぁ、一生結婚しないんだったら、マンション買っちゃえば?働いてる内にローン返しておいて、定年後の住処だけでも確保しとかないと。年金だけで家賃も生活費もって厳しいでしょ?」
そう。本当はそういう現実的な事も後回しにしないで、考えないといけないのだ。今なら勤続年数も長いし、銀行に信用もある内に住宅ローンを組んでしまわないと、定年までに返済しきれない。でも・・・そんな大きな買い物をするって事は・・・本当に、もう本当に結婚という選択肢を自分の中から完全に抹消する事になる。そんな迷いを、やはり紅愛はお見通しだ。
「即答しないって事は、やっぱまだ少しは、もしかしたらってどこかで期待してるって事でしょ?」
「そうじゃないって。そういう事じゃなくて、家買うって大きな事じゃない。そりゃ服とか食べ物買うみたいにポイッとは決められないでしょ」
「そら、そうだよねぇ・・・」
「でしょう?」
「あっ、私の言った『そうだよね』は、簡単に決められないって方じゃなくて、まだ多少でも結婚の可能性を捨てきれないって事に対してだから」
私の口から言葉が引っ込んでしまった。紅愛の嗅覚は昔から鋭い。だから、下手な抵抗やごまかしは無駄なのだ。私の口がだんまりになると、当然の如く紅愛が話し始める。
「まぁマンション買うとなれば、物件探したり色々時間も掛かるだろうけど、ストーカーの方は切羽詰まってる訳だからさ、早く引っ越しなり警察なり動いた方がいいよ」
「・・・うん・・・そうだね」
「実際、ストーカー相談って、腐るほどあると思うんだよね・・・」
「そんなにあるかな?」
「家出人の捜索願ぐらい、届け出あると思うんだよね。だから、この程度で どれだけ取り合ってもらえるかは分からないけど、ま、行くだけは行って、現状だけは届け出出しといた方がいいよ。もしかして他にも似た様な被害届出てる可能性もあるんだから」
それを聞いた途端、私の背筋にヒヤッとしたものが走る。
「怖い事言わないでよ・・・」
「だって あ~や、これ位言わないと、動かないでしょ?」
「・・・・・・」
「お人好しっていうか、何ていうか・・・」
そうだ。紅愛の言う通りだ。臆病で決断力がなくて、その上現実逃避する癖がある。うやむやにして、自分に都合の良い言い訳を沢山見つけて、今起きている事と正面から向き合わないところがある。そんな事、改めて言われなくても分かっているのだ。
すると、反論も何もしない私に紅愛が言った。
「さては、引っ越し迷ってるんだ?そうだよねぇ。年下の可愛い好青年との束の間の幸せを味わう時間も無くなっちゃうんだもんねぇ・・・」
からかっている様な、面白がっている様な口調にも聞こえる。今は何かを喋れば、更に食いつかれる事間違いなしだ。だから私は、黙っておく。すると調子づいた紅愛の口は止まらない。
「ストーカーからの恐怖と、久し振りに味わう乙女心を天秤に掛けなくちゃならないなんて、あ~やも厳しい選択だよねぇ」
ここまで言われたら、さすがに私も反論する。
「・・・面白がってない?」
紅愛が即反論すると思っていたが、意外にもそうではなかった。
「面白いか・・・確かにね。もう金輪際 恋愛のスイッチ入れませんって言ってたあ~やが、まさか命懸けの恋のスイッチ入れちゃってるなんて、ある意味かなりドラマっぽい展開だもんね」
その晩電話を切った後に残った 何とも言えない気持ち。『命懸けの恋』なんて例えをされてしまったけれど、それに対しての反発でもなければ、からかわれた不快感でもない。昼でも夜でも関係なく一日中カーテンを閉めたまま、意味もなくテレビをつけっ放しの部屋を見回して、もう一人の自分が私に言っている。
馬鹿だな・・・私。
こんな窮屈な暮らし、引っ越してしまえば しないで済むのに、たま~に訪れるお隣さんとのキラキラした時間を天秤にかけて迷っている私。10代や20代前半の女子なら、そんな青春チックな悩みも 皆優しく聞いてくれるだろう。アラフォーの女の悩みにしちゃ、ちょっと幼稚過ぎる。紅愛の笑う通り、お隣さんとの関係は、命懸けで守り抜く程の価値はない。
「どうしちゃったんだろ、私」
私はそう独り言を呟いて、両手で頬をパンパンと叩いた。
目を覚ませ・・・私。
お隣さんが越してくる前の、冷静で常識的で年相応の判断が出来る自分に戻れ!
私は自分に喝を入れると、コップに乱暴に注いだお水を 一気に飲み干した。
花火大会の後、堀之内龍の家を訪れた彼女の真央が、夜風に当たろうとベランダに出ている。風呂から上がった龍に、部屋に入りながら真央が小声で言った。
「ねぇねぇ、あの人さっきからずっとああやって このマンション眺めてるんだけど・・・気持ち悪くない?」
言われて龍がそっと窓の外を覗く。そして首にかけていたタオルを無造作に置いた。
「ちょっと、待ってて」
ピンポーン・・・
ドアホンのモニターにお隣さんが映っている。私は玄関の戸を開けた。するとお隣さんは少し強張った顔つきで言った。
「今、外に一人の男が立ってます。家からそっと覗いて、この間言ってたのがそいつなのか、確認する事できますか?」
「・・・はい」
急に全身が強張るのを感じる。それを見て、お隣さんが気を遣った。
「無理しないでいいですよ。もし確認できるんなら・・・僕もちょっと考えがあったんで」
「・・・見てみます」
その場でお隣さんを待たせて、私は部屋に引っ込んだ。恐る恐る窓に近付くのを見て、お隣さんが玄関から声を発した。
「部屋の電気消してからの方がいいですよ」
お隣さんに言われた通り 明かりを消して、カーテンの隙間から外を覗くと、さっきまで居なかった例の男が、また立っているではないか。しかも今日はベランダをずっと見上げている。どこの部屋とは分かってはいないのだろう。視線は定まってはいなかったから。私はぞっとした背筋を必死にごまかしながら、玄関に戻った。
「・・・いました」
「やっぱり。分かりました。心配しないで大丈夫です。後は任せて下さい」
にっこり笑って下に降りて行くお隣さんの背中を見送ると、私は急に心臓の鼓動が早まってくる。
真っ暗な部屋の中から外を覗いていると、暫くしてお隣さんが その男の前で立ち止まった。私の緊張はピークに達していて、もしその男が刃物でも出してきたらどうしよう・・・と、震える手で携帯を握りしめた。
二人のやり取りを暫く見守っていると、男は随分と強い調子でキッと龍を睨みつけた。
「親父が警察官だか何だか知らねえけど、生意気なクソガキがっ!」
それを捨て台詞に男は立ち去って行った。
下から上がってくるお隣さんを、私は玄関の戸を開けて待ち伏せし、深くお辞儀をした。
「ありがとうございました」
「いや・・・あれで来なくなればいいですけど」
「お父さんが警察官って・・・」
「あぁ・・・あれは、ハッタリです」
そう言ってはははと笑った。
「もし又困った時は、遠慮なく いつでも言って下さい」
次の朝、私は又玄関で隣のタイミングを待つ。こんな風にお隣さんを待ち伏せる自分も、あの男と同じストーカーだ。そんな風に思った途端、ちょっと自分が怖くなる。だけど彼女もいる10近くも年下のお隣さんと接点を持とうと思ったら、正当な手段では無理だ。だからこんな姑息な真似をするんだと、自分を正当化してみせる。その時だ。
ガチャッ
隣の玄関が開いた音が聞こえた。私は勢いをつけてドアを開けた。私のシナリオでは、お隣さんの顔を見て、偶然一緒になったみたいな驚いた顔で
『あ、おはようございます』
って始まる予定だった。しかし・・・
「おはようございます」
挨拶をしてくれたお隣さんの横から、可愛らしい彼女がちょこんと顔を出していた。
「あ・・・おはようございます・・・」
私の必死の挨拶の傍らで、彼女がお隣さんの横で笑顔の会釈をした。
「昨日は・・・ありがとうございました」
「いえいえ。また、いつでも」
私はエレベーターに向かう二人の後ろで、独り言の様な芝居をする。
「あっ、忘れ物しちゃった・・・」
振り返るお隣さんに会釈をして、私は再び家に戻った。
まさか、お隣さん達と一緒に駅まで向かうのは、お互いに気を遣う。同じエレベーターに乗り合わせるのだって、息が詰まる。玄関のドアが閉まると、さっき待っていた時とは対照的に、どんよりとした重たい心が私をその場にへたり込ませた。
花火大会に浴衣デートして、そのまま一緒にお泊まりして、朝 仲良く出勤か・・・。そうだ。引っ越したら、今日みたいに 一週間の始まりの一発目から、気持ちがグレーになる様な場面に遭遇する悲劇はなくなるのだ。やっぱり引っ越そう。そうと決まれば、今日から早速物件探しを始めなくてはならない。・・・それまで迷っていた私の心が決まった 月曜の朝だった。
その日の夕方、久し振りにお隣さんから連絡が入る。
『今日もし一人だったら、駅で待ち合わせしますか?』
はい、お願いしますと即座に二つ返事してしまいそうな自分と、ブレーキを掛けるもう一人の自分がいる。こういう時、どっちの自分が勝つかというと・・・そりゃ決まっている。・・・昨日のお礼もちゃんと言えてないし・・・というていの良い理由でもう一人の自分を納得させる。
仕事帰りのお隣さんと駅で落ち合うと、愚かな私は 又心を弾ませたりしている。
「昨日は本当にありがとうございました。でもあんな事したら・・・龍君 却って逆恨みされて、危なくないですか?」
「大丈夫ですよ」
いつもの優しい笑顔が弾ける。
「昨日も、刃物とか出てきたらどうしようって、すっごいドキドキしながら電話握りしめてました」
「ごめんなさい。心配掛けちゃって」
普通私の方が謝らなくちゃいけないのに、こういう気遣いをして謝ったりするところ、お隣さんらしい。
「でも私、いざとなったら警察は110番なのか119番なのか分からなくなっちゃって・・・。情けないです、自分でも」
「そんなもんですよ、皆」
やっぱり優しい。この人なら、どんな自分でも受け入れてもらえる気がしてしまうんだな、きっと。こんな事に気が付いてしまうと、尚更 今朝の決心が鈍ってしまう。だから私は、自分が後に引けない様に、それを口に出してみる事にした。
「近い内に引っ越しする事にしました」
「・・・どこ 行っちゃうんですか?」
「まだ決まってません。でも、早急に探して、あそこ出て行きます」
「・・・寂しくなりますね」
そんな悲しい顔、してくれるんだ・・・。社交辞令だって分かってるけど・・・やっぱり そう言われたら嬉しい。でも・・・今は却って後ろ髪を引かれるだけだから、そんな優しさも厄介だ。
マンションの玄関の前まで来て、お隣さんは言った。
「これから出来るだけ毎日・・・あ、亜弥さんが一人の日は、僕駅からご一緒します。良ければ、朝も一緒に・・・」
鞄の中で鍵を探していた手が止まった事は言うまでもない。そして、最近忘れかけていた冷静な自分を 心の中で呼び覚ます。
「無理しないで下さい」
そうは言ったものの、お隣さんの顔をまともには見られない。何でだろう・・・。そうだ。そこに得も言われぬ悲しい空気が流れたからだ。だから私は慌てて言葉を付け足した。
「お気持ちは、凄く嬉しいですけど・・・」
なんで『ありがとうございます。お願いします』って言わなかったのか。彼女への義理立て以外の何物でもない。せめてもの私なりの気遣いだ。だって今までいっぱい こっそり二人の時間を楽しませてもらったから。
お風呂上りに缶ビールを一口飲むと、今日も無事に過ぎて行った事にホッと心が息をつく。そして携帯片手に物件探しだ。幾つかの部屋を候補に絞り込んでみる。明日早速内見希望してみよう・・・そんな風に思って一息ついた私の目の端に飛び込んできた 隅っこの“分譲マンション”という文字。私は恐る恐るその文字に触れてみる。途端に開かれる分譲マンションの条件入力画面。地域や広さ、予算を恐々入力して検索ボタンに触れてみる。すると私の気持ちが整うまで待たずに、画面には条件に合った物件が幾つも表示されてくる。新築や中古物件など様々織り交ぜて、まるで画面から、
『こちらなんか、いかがですか?』
と聞こえてきそうだ。もちろん こんな保証人が付く様な高額の買い物、した事ない。本当に自分の終の棲家となる場所だと考えると、何とはなしに自分の人生がもう終盤に差し掛かっている様にさえ感じてしまう。紅愛が言った様に、定年後の私の住処を計画的に準備しておかないといけないのだ。“一生一人で生きていく”という事の現実を生々しく感じて、私はそこから目を背ける様に携帯を伏せた。
次の朝マンションのエントランスに降りてくると、お隣さんが立っている。
「おはようございます。良かったら一緒に駅まで」
ここまでされて断る理由はない。
「今日の帰り・・・」
お隣さんがそう切り出したから、私は慌てて被せる様に言葉を吐き出す。
「今日仕事の後に、幾つか物件見てこようと思ってるので・・・」
誘われてから断るのは悪い。だから誘われる前に こちらから今日の予定を言うのだ。私の話を聞いて、お隣さんはゆっくりと口を開いた。
「・・・彼氏さんと一緒にですか?それとも一人で?」
「・・・一人で幾つか見てくる予定です」
お隣さんは疑問に思わないのだろうか?そこそこいい歳した女が、いや、いい歳というより、世間で言う結婚適齢期をとっくに過ぎた女がストーカー被害に遭って引っ越そうと思っているのに、結婚の話にならないって どういう関係なんだろうって不思議じゃないのかな・・・?相手が離婚経験者で慎重になっているとか・・・不倫で 相手が奥さんとの離婚が成立しないとか・・・。
私がそんな事を考えている間に、二人の間には無言の時間が流れていたのかもしれない。お互いの靴の音が交互に耳に届く。
「今日も暑くなりそうですね」
急にお隣さんがそう言うから、私はお隣の顔を見た後で、同じ様に空を見上げてみる。そこには雲の淵がくっきりと浮き立つ夏の空が広がっていた。
「本当ですね」
こんな穏やかな朝、嘘みたいだ。最近いつもこの町を歩く時は神経を尖らせていて、空なんか見上げたのは久し振りだ。そして好きな人とこうして一緒に歩いて、どうでもいいような会話をする幸せ。・・・あぁ駄目だ。こんな時間とお別れする覚悟が鈍ってしまうではないか。私が隣で密かに自分と葛藤しているのも知らず、お隣さんは穏やかな会話をまだ続ける。
「前に教えてもらった居酒屋、まだ行けてないんですよね」
「三陸水産?」
そうだ、そんな事もあった。あの時、彼女と出てきた所にばったり出くわしたんだった。そう考えてみると、お隣さんが『真央ちん』と甘えた様に呼ぶあの彼女と 私が顔を合わせている回数は意外に多い。彼女は私の事をどう思っているのだろう。あの位の若い女の子から見たら、大して仕事も出来そうに見えない私みたいなアラフォーの一人暮らし、痛々しく思われているに違いない。・・・そんな風に思うと、急にお隣さんの隣を歩いてる自分が申し訳なく思えてならない。
「今夜、一緒に行きません?引っ越しちゃう前に連れてって下さいよ」
私の考えていた事と、お隣さんの考えていた事のギャップがあり過ぎて、私は思わず口を半開きのまま顔を見上げてしまった。
「え・・・だから今日は・・・」
「はい。僕も今日定時では上がれないので、多分丁度いい時間になると思います」
そう言って、お隣さんは私へ笑顔を向けた。
「部屋の下見、終わったら連絡下さい」
改札の別れ際にそう言い残して、お隣さんは右手を上げて下りのホームへと姿を消した。
今夜のお隣さんの誘いを受けるべきか断るべきか、正直一日中迷っていた私だ。仕事なんか半分上の空みたいなものだ。昼休み、まだ周りの皆が戻って来る前に、浅見が私のデスクにゆっくりと近付いて言った。
「大丈夫?」
「はい」
とっさにそう返事はしたものの、何の事を言っているのだろう。私が顔を上げて浅見の顔を見ると、心配気な表情がそこにはあった。
「何かあった?今日、上の空だよ」
「・・・すみません」
「例の・・・事?」
“例の事”とはきっと、ストーカーの事だろう。
「いえ・・・。それも・・・もうすぐ解決すると思います」
浅見の表情は、私の次の説明を待っている。
「引っ越す事にしたんで。今、物件探し中です」
「そう。良い所決まるといいね」
「はい」
それで終わったかと思いきや、浅見はまた私のデスクから離れない。
「じゃ、上の空の原因は、別件でしたか・・・」
独り言みたいな、質問みたいな曖昧な言い方だったから、私も答えるか迷う。
「・・・午後はしっかり頑張ります」
そう言って頭を下げ、この話題にピリオドを打った。
不動産屋と駅前で別れ、私は携帯を取り出した。やはりまだ迷っている。
『今、終わりました』
そこまで打ち込んで、手が止まる。この後どう続けよう・・・。『でも今日は』と打つか、『そちらはまだ仕事中ですか?』と素直に送るべきか。引っ越してしまったら、一緒に食事をする機会など もうないのだ。そう考えると、最後にもう一回位お酒を飲んだって罰は当たらないだろう。そんな考えが、私の背中を押す。さっきの続きを打ち込みながら歩いていると、前から歩いて来た人を避け切れずぶつかってしまう。
「ごめんなさい!」
すれ違ったその相手の人は、チッと大きく舌打ちをして歩いていってしまった。ツイてない・・・。私はそんな事を思いながら、しょぼくれた自分で さっき落としそうになってぎゅっと握った携帯をもう一度見た。
『今、終わりました。龍君の都合はどうですか?もし時間が合えば、朝話してた居酒屋に行きませんか?』
そう打ち込んだ文章が、全て削除されている。さっきぶつかった衝撃で、きっと指が触れてしまったのだろう。迷って迷って、考え抜いて書いた文章だったのに・・・。私は携帯を鞄にしまった。
帰りの電車に揺られながら思う。やっぱり彼女のいる人と、二人で出掛けてはいけないって事だ。最後の一回だから、なんて自分に都合のいい言い訳をした事が情けない。彼女の立場になれば、これ以上 余計なちょっかい出さないでもらいたいって思ってるに違いない。私の胸がきゅうっと少し縮まるのが分かる。でもそんなの、欲張りな私の薄汚れたわがままだ。だから気に留めなくていいのだ。私は自分の心を振り切る様に、電車を下りて一目散に改札を出る。駅から出てきた所で、ふと横から男の人が私の行く手を遮った。
「こんばんは」
地面を見つめて歩いていた私が、男の人の声とスニーカーに立ち止まって顔を上げると、そこには例の男が立っていた。
「この前、弟だっていう男に、もう君に付きまとうなって言われたんだけど、あれって、本当に弟?」
「・・・・・・」
質問に対して嘘の返事が出来ないんじゃない。驚きと恐怖で、またいつもの様に体が硬直して口が利けないのだ。
「あそこに住んでるんだよね?あの男と一緒に住んでるの?それともたまたま来てた友達とか?」
「・・・・・・」
凄い勢いでまくし立てるから、私も震えが止まらない。
「結婚してて子供もいるって言ってたけど、嘘だよね?あそこに一人暮らししてる独身のお姉さんだよね?」
この前お隣さんが脅かした内容が嘘だって、見破られている。そう思った途端、怖くて怖くて、ついに私は悲鳴を上げようと、喉を解放しようと必死になる。でも、いざとなると どうやったら大声を出せるのか分からない。だから私は力を振り絞って首を横に振った。もうそれで精一杯だ。
「お父さんが警察官だって、それだってどうせ脅しでしょ?」
私は首がもうどうにかなってしまうかと思う位、ブンブンと乱暴に振るった。
「本当です。父も警官だし、この間のは・・・うちの弟です。私、結婚もしてるし子供だっているし・・・」
私の息は荒い。きっと鼻の穴だって開いていて、必死の凄く不細工な顔をしていたと思う。でも、多分それ位で丁度良いのだろう。
その時、私とその男の間に割って入った一人の男性。・・・それはお隣さんだった。
「またお前かよ」
まるで本当にスーパーマンが現れた様な心地だ。
「姉貴が嫌がってんの分かんねえの?ほら、そこの交番行くぞ」
“姉貴”というフレーズに小さな胸を痛めている私をよそに、お隣さんはその男の手首をひねり上げて、駅前の交番へ男を引きずる様に力いっぱい引っ張った。ひ弱そうな男だが、それにしても大の大人の男だ。そう簡単に引きずられたりはしない。するとお隣さんが大きな声を上げた。
「すみませ~ん。ストーカーをそこの交番に連れて行きたいので、ご協力お願いします」
たちまち その場にいた人達の目にさらされると、それまで息巻いていた男は顔を隠す様に下を向いて、腕を振りほどこうと暴れ出す。が、その騒ぎに交番からお巡りさんが駆け付け、無事御用となったのだった。
「今日は、本当にありがとうございました」
三陸水産のカウンター席に座り、私は改めてお隣さんにお礼を言った。
「これで、もう居なくなりますよ」
にっこり笑顔を向けてくれるお隣さんの瞳から視線を逸らす様に、私は顔を少し伏せた。実はまだ体の震えが止まっていない気がする。いつもの優しい笑顔に、こちらも笑顔を返せる程の気持ちには まだなれていない。
「新しい部屋、見てきました?」
「はい」
「・・・どうでした?良い所、見付かりました?」
「まぁ・・・可もなく不可もなくってとこですかね・・・。でも急いでるから、そんな贅沢言ってられないですけど」
お隣さんが枝豆の器を私の方に少し差し出しながら言った。
「・・・本当に引っ越しちゃいます?」
私の心をくすぐる言い方・・・確かこの前も『どこに行っちゃうんですか?』って言われた気がする。私が出て行く事を 名残惜しんでくれてる様な錯覚に陥る。きっと今の若い子は、そんなに深い意味もなく さらっと言えるんだろうから、私みたいなおばさんは勘違いをしやすい。私が自分の頭に酸素を送り込もうと 息を大きく吸い込むと、お隣さんがその間に滑り込んでくる。
「もうきっと来なくなりますよ。引っ越すの・・・もう少し様子見てみたらどうですか?」
何故私を引き止めるんだろう・・・?私の眉間に思わず皺が寄ったのかもしれない。お隣さんが、慌てて言った事を訂正する。
「ま、無責任な事言えないけど・・・。実際怖い思いしてるの亜弥さんだし・・・」
私はさっき吸い込んだ息を ようやく吐き出しながら、そこに気持ちを乗せた。
「確かに・・・このまま出て行くのは無責任だなって思います」
「・・・無責任?」
「龍君が逆恨みされて、何かあったらいけないから・・・」
運ばれてきた刺身の五点盛を二人の間に置いて、お隣さんは むらちょこに醤油を差して私の前に一皿置いた。
「亜弥さんは、本当に優しい人だなぁ」
思わず油断していて、心が飛び跳ねそうになる。だから私は必死で緩みそうになる表情を抑えた。
「なかなか出来ないですよ。自分が大変な時に他人の事まで思いやれる人って。僕、亜弥さんのそういう所・・・」
そう言って、ちょっと間が空くから、私の心臓がドキドキしてしまうではないか。期待しない様に必死でブレーキを掛けてるけれど、勝手な妄想が先走る。
「そういう所・・・尊敬してます」
嬉しい誉め言葉だ。その筈だ。それなのに私ったら、勝手に心が沈んでいくのが分かる。じゃ、何て言葉を期待していたというのだ?
『亜弥さんのそういう所、好きです』
とでも言ってもらえると思ったのだろうか、この私。もし万が一、お隣さんがそう言ったとしても、その“好き”は意味が違う。異性としてではない。人間としてだ。だって、そうでしょ?可愛い彼女がいながら、年上の隣人を人助けした後の居酒屋で口説くなんて・・・。もし本当にお隣さんがそんな事をしたら、かなりのしょうもない奴だ。だから良かったんだ。『好きです』なんかじゃなくて『尊敬してます』で。かえってお隣さんの誠実さが伝わる。私は自分で自分を納得させると、話題を変えた。
「ここのお刺身本当に美味しいから、どうぞどうぞ」
真ん中に置かれた刺身の皿を、少しお隣さんの方へずらした。鯛の刺身を一切れ つまんで口へ運ぶと、少ししてお隣さんはにっこり笑った。
「こっち出てきてから食べた刺身の中で、一番旨いっす」
「良かった」
お隣さんは、首を傾げて見せた。
「高知に居た時に食べた旨い刺身と同じか、それ以上に美味しいです、本当」
自分が美味しいと思って薦めた物を、同じ様に美味しいと言ってくれる相手がいるだけで幸せだ。そんな懐かしい感覚の中に彷徨いそうになる。だから私は緩んでいた口元を、再び引き締めた。すると、言いにくそうにお隣さんが口を開いた。
「亜弥さんに・・・聞いてみたい事があります」
何だ?改まって。真面目な顔をしているから、こっちまで緊張してくる。
「聞きにくい事だけど・・・いいですか?失礼になったら、すみません」
こんな前置きをするから、私はより一層顔が強張る。
「亜弥さんって・・・今お付き合いしてる彼氏さんと・・・結婚の予定ないんですか?」
いきなり来た。しかも直球だ。ど真ん中。豪速球だ。バットを振ったらきっと折れてたと思う。キャッチャーが受け止めるので精一杯だ。私が黙っていると、お隣さんは頭を下げた。
「すみません、いきなり失礼な事聞きました。ごめんなさい」
潔く頭を下げるから、なんだかこっちの方がバツが悪い。
「前にマンションの前で見掛けた彼氏さんと亜弥さん・・・大人のカップルって感じで・・・。亜弥さん、料理も上手そうだし、落ち着いてて家庭的だから、結婚とか やっぱり意識してるんだろうなって・・・」
一生懸命言葉を選んでいるのが分かる。それが気の毒で、私は思わずお隣さんの言葉を最後まで聞かず、言葉を被せた。
「あれ、上司です。彼氏じゃないです」
「え?あ・・・そうなんですか?」
「言ってませんでしたっけ?」
「いや・・・そうでしたか・・・。勝手に思い込んだんだと思います」
「ストーカーの話したら、心配して送って下さっただけです」
何故か急に変な空気が漂ったから、私は焦って つい最終手段に手を出してしまう。
「私・・・お付き合いしてる人・・・いません」
隣で一瞬手が止まったのが分かる。
「ごめんなさい。なんだか・・・いる前提で話が進んじゃって、言い出せなくて・・・。私も見栄っ張りですよね」
そう言って笑いにするしかない。だって こんな事打ち明けられた方だって、反応に困るだろうから。こっちが笑い話にしたら、向こうもきっと笑って流しやすい。
しかし、お隣さんは笑わなかった。私の予想では、お隣さんが明るく『そうなんですかぁ~?』って言って、笑い話になる筈だったのに、全く想像していなかった雰囲気が漂っていて、私も嫌な汗をかきそうだ。
「すぐにそう言えば良かったんですけどね・・・。なんか言い出せなかったっていうか・・・」
そう言って強引に笑ってみた。そこまですれば、お隣さんだって さすがに笑い話にしてくれるに違いない。
「・・・すみません、変な事聞いて」
お隣さんは、私の話を笑い飛ばしてはくれなかった。その代りに『すみません』という言葉が聞こえてきて、私は無性に悲しくなってしまった。
「日本酒、飲んでもいいですか?」
喉の奥に込み上げてきたものをぐっと飲み込んで そう断りを入れると、お隣さんの相槌も待たずに、私はカウンター席からすぐ目に入った銘柄を注文した。
「龍君も、飲みます?」
「はい」
「何でも飲めるんですか?」
「そう・・・ですね、一応」
私自身、少し・・・いや かなり、お喋りになってる気がする。可哀想に思われない為だろうか?それとも、恋人がいないと打ち明けた事で、気持ちが軽くなったのかもしれない。格好つける必要がなくなって、開き直ってる自分がいるのかもしれない。どちらにしても、いつの間にか 私の震えが止まっているのだから、良しとしておこう。
それから日本酒を3本空けた位だろうか、ちょっと私の舌がまどろっこしい。まさかこれ位でろれつが回らなくなったりはしない筈なのに、今日の私はいつもと違う。お隣さんがチラッと腕時計を見たのに気付いた私は、ガタンと椅子から立ち上がった。
「帰りましょう」
立ってみると、お酒が利いているのが分かる。でも私は必死で平気な顔をした。だって、酒癖の悪いアラフォー女だという印象を残して引っ越していくのは、やっぱり辛い。お酒をスマートに飲んで、家に帰るまでスマートに振る舞える大人の女を演じたい。そんな変な欲求が私の中に湧いて来たから、それを励みに帰り道を乗り切ろう・・・そう自分に言い聞かせてみる。
「大丈夫ですか?」
お隣さんが、こう聞いて来る。こんな質問をするって事は、私のだらしなく酔った姿に気が付いてるって事?それとも・・・さっきの恐怖で震えていた私を心配してくれているのだろうか?
「・・・どういう意味ですか?」
少し間があった様に思うが、お隣さんは急にいつもの優しい笑顔で言った。
「結構・・・日本酒が利いちゃって。亜弥さんは大丈夫かなって」
照れた様に笑った顔も可愛い。この笑顔には魔法をかける力があるらしい。つい胸の鎖を解いてしまう。
「実は私も、かなり・・・きてます」
お隣さんが声高らかに笑ってくれたから、私もつられて笑っている内に、勝手に気分が高揚してしまって、考えなしに口が動いた。
「ちょっとだけ・・・つかまらせてもらっても、いいですか?」
「あ、もちろん。どうぞどうぞ」
お隣さんはそう言って 肘を軽く曲げてくれたから、私は肘の辺りの腕にそっと手を掛けた。思っていた以上に筋肉質で硬いその感触に、私は変にドキドキしてしまって、急に声が引っ込んでしまう。すると、お隣さんがその空気を埋めた。
「どうぞ、なんて格好つけておいて、共倒れにならない様に気をつけましょう」
お隣さんの笑い声を追いかける様に、私も必死で笑う。
お隣さんの足取りが少しゆっくりになった様に感じたところで、質問が飛ぶ。
「なんで今日、連絡くれなかったんですか?」
きっと本当は、はじめからこれを聞きたかったんだろうと思う。だけど私は、その答えに迷う。その様子を察知して、再びお隣さんが笑いに変えた。
「僕に連絡してこないから、あんな怖い目に遭うんですよ」
笑いながら言うけど、妙に言い得ている。だけど迷っていた気持ちは話せない。
「龍君が現れた瞬間、本当のスーパーマンに見えました」
軽い調子に乗っかって、私もそう言ってみた。するとお隣さんは、胸を張ってポーズを取ってみせた。
「じゃ、暫くの間は、僕は亜弥さんの専属のスーパーマンって事で」
専属?!私は一瞬自分の耳を疑う。でもすぐにそれが、そんなに深い意味はないって事は分かる。だからこっちも、気軽にそれを喜べばいいんだ。
マンションのエントランスを入って上に上がる。玄関のドアの前に来て、それまで掴まっていた手を そっと離した。
「ありがとうございました」
正直、私の手が名残惜しがっているのが分かる。でも、そんな心の声に耳を傾けていたら、今の私は衝動的に何かしてしまいそうで怖い。
「じゃ、また明日。おやすみなさい」
お隣さんの笑顔が、私の後ろ髪を引っ張る。だから、あんまり見ないに限る。私は玄関のドアに向かって深呼吸をした。鍵を手に握ったまま、まだ鍵穴には差し込めない。家の中に入る時は、最高に緊張する。真っ暗な中にあの男がいたらどうしようって、ここ最近毎日味わってきた恐怖だ。目を瞑ったら、以前夜道で急に眼の前に現れた瞬間を今でも鮮明に思い出せる。そうなると、ダッシュで走った後みたいに 心臓の鼓動が早くなる。私は改めてもう一度深く息を吸って、自分の頭の中の怖い映像が打ち消されるのを待つ。大丈夫・・・大丈夫・・・。今日はもう駅前の交番で捕まえてもらったんだから、大丈夫。私は自分にそう言い聞かせて、ようやく鍵を入れる覚悟を決める。
「・・・大丈夫ですか?」
その様子をじっと眺めていたお隣さんが、そっと声を掛けた。
「あ・・・いっつも こうして、覚悟を決めてから入ってるんです」
「覚悟・・・?」
「やっぱり・・・怖いから。留守の間に部屋に入ってたらどうしようって・・・」
「・・・・・・」
お隣さんの声がしなくなってしまったから、私は慌てて言い訳をした。
「大丈夫ですよね。今日はもうお巡りさんに捕まえてもらったんだし」
必死で笑ってみせたりして、慌てて鍵を差し込もうとするが、なかなか上手く入らない。その様子をじっと眺めて、お隣さんはゆっくりこちらに近付いた。
「僕・・・先に入って見てきましょうか?」
玄関の扉を開けた所で、電気のスイッチに手を伸ばしたお隣さんに、私はそこに常備してある小さな懐中電灯を手渡した。
「すみません、これで・・・」
キョトンとしたお隣さんに、説明する。
「電気つけちゃうと、すぐに私の部屋だって分かっちゃうから・・・これで」
「亜弥さんは、ドアの鍵を閉めて ここで待ってて下さい」
言われた通りドアを閉めて そこでじっと待っている間に、お隣さんは部屋中を見て回る。その時思い出した、家を出る前の部屋の状態を。
「あっ!」
私はそう叫んで、慌てて靴を脱いで部屋に入る。驚いたのはお隣さんだ。懐中電灯の明かりで私を照らしながら、心配そうな顔でじっと見ている。
「ごめんなさい。洗濯物干してあって・・・」
部屋干ししている洗濯物を慌てて抱えて、私はベッドの布団の中に隠した。凄い勢いの私に、お隣さんは呆気に取られている。
「ごめんなさい。見ないで・・・」
「あ・・・大丈夫です。見てないです」
20代の頃みたいな可愛い下着なら、まだいい。機能性重視の、しかも新品じゃない下着、絶対に見られたくない。その一心で、私は体を張って下着を隠す様に、ベッドにダイブしている。私がじっとしていると、お隣さんは遠慮気味な声を発した。
「洗面所とかお風呂場とかも・・・見てきます?」
「あ・・・はい・・・お願いします」
真っ暗な中で、水回りの方から懐中電灯の小さな明かりが部屋に戻って来る。
「誰もいませんでしたよ」
「・・・ありがとうございました」
懐中電灯を私に渡した後も、お隣さんはその場から動かなかった。ドキドキしながらお隣さんの顔を見上げると、そこにあった影がゆっくりと近付いてきて、私をそっと包み込む様に抱きしめた。
「・・・あ・・・の・・・」
こういうシチュエーションにどう対応したらいいか分からず、私は野暮な事を聞きそうになる。『どうしたんですか?』なんて。するとお隣さんは、私をぎゅっとしたまま言った。
「毎日こんな思いしてたんですね・・・」
心臓がこれ以上ないって位爆音を上げている。でも、長い間密着していたら、こんなに私がドキドキしてしまっている事に気付かれてしまう。だからって、自分から離れる理由もない。私はほんの少しだけ、この心地良さに身を委ねてみる事にした。
時計の秒針の音が聞こえる。幸せな瞬間のカウントダウンに聞こえる。今だけだ。こんな至福の色に包まれていられるのは。シンデレラなんて例えが綺麗すぎるけど、12時の鐘が鳴り終わるのを待っている様な気分だ。だから私は、魔法が解けない内に最後の願いを口にした。
「もうちょっと・・・ここに居てもらえますか?」
お隣さんは黙ったまま、僅かにもう一度腕に力を入れ ぎゅっとした。
魔法はまだ解けてはいなかったんだ。私の心とお隣さんの心が通じ合った様な嬉しさに、心が躍り出すのが分かる。
ベッドを背もたれにして床に座る。お隣さんの肩にそっと寄り掛かると、それに応える様に 優しく肩を抱き寄せた。
12時の鐘はもう鳴り止んだのだろうか・・・?魔法が解けても、お隣さんはここでこうしてくれているって事なんだろうか?一体これが夢なのか現実なのか、区別がつかない私だ。日本酒が利いちゃって酔いが回ったまま家に着いて、安心して見ている夢の中なのかもしれない。私はそれを確かめる様に、顔をそっと上げてお隣さんの顔を見た。確かに堀之内龍だ。私の好きな龍君だ。カーテンから透けて入る外灯の明かりだけで見えるお隣さんの瞳と視線が合う。疑り深い私は、これが現実だっていう証拠を見つける為に、そっとお隣さんの頬に手を伸ばしてみる。右手に感じる頬の温もり。やっぱり夢じゃないんだ。そう私の中で答えが出たと同時に、お隣さんの顔が近付いて、気が付いたら唇を重ねていた。
もうその辺から覚えていない。いや、目を瞑ったから映像が途切れたんだ。そして私は、そのまま眠りにいざなわれていった。
ここ最近にない寝心地で、ふと目を覚ます。カーテンの外が薄っすら明るくなってきているのが分かる。昨夜あのまま眠ってしまった私に肩を貸したままのお隣さんの寝顔を見ながら、ゆっくりと態勢を立て直した。すると、同じ様に目を覚ますお隣さん。
「ごめんなさい。寝ちゃって・・・」
「いえ・・・僕も・・・」
時計は4時半を差している。
もう電気をつけたって平気だ。でも、急に明るくなったら気まずい。だから私はあえて電気をつけない。お隣さんは腕時計を見ると、私に聞いた。
「大丈夫ですか?」
何が?一体どういう意味だ?私は寝起きの頭を必死に叩き起こして、とりあえず『はい』と返事を返す。
「僕・・・一旦帰ります」
「あ・・・そうですね。ごめんなさい」
私は慌てて正座してお辞儀をした。
「長い時間付き合わせちゃって、すみませんでした」
玄関でお隣さんを見送ったけれど、まともに顔を見れなかった。昨夜の行動は、一体どういう意味だったんだろう。親切心の延長?それとも、酔った勢い?気持ちが通じ合った様に感じたあれは、私の勘違いに過ぎないのだろう。そりゃ、そうだ。彼女もいる そこそこ格好いい20代半ばの男の子が、冴えないアラフォーを好きになる理由なんかない。頭の中のお隣さんが 勝手に喋る。
『僕、そこまで女の人に困ってませんから』
そんな事をぼんやり考え、深い溜め息を吐き出しながら、私は服を着替えるのだった。
いつもの時間に玄関を出ると、隣でガチャガチャッと音がする。お隣さんだ。彼も今丁度鍵を閉めて出るところだった。
「あ・・・」
お隣さんの声が聞こえたと同時に、私はとっさにドアを閉めた。
・・・・・・出られない。今出たら、確実に駅まで一緒に歩く事になる。無理だ。合わせる顔がない。私は頭を抱えて、ドアに寄り掛かった。
そうだ、一本電車を遅らせよう。私は時計とにらめっこしながら、ぎりぎりまで玄関で待機する。
もう出ないと間に合わない・・・そんな時間を確認して、私は恐る恐る玄関のドアを開けた。もちろんいる訳はない。エレベーターで下りる間もドキドキする。昨日みたいにエントランスで待っているかもしれないから。
お隣さんの姿が無い事にホッとする自分を、馬鹿みたいに思う。あんなに偶然を装って朝のタイミングを合わせた時もあったのに、今は本当の偶然に怯えてしまうなんて。久々だ、こんな後悔。若い頃、ほんの僅か 数える位だけど、飲み過ぎて二日酔いで後悔する朝の感じ。この歳になって、未だにこんな幼稚な後悔を味わうとは思っていなかったから、無性に落ち込む。
電車に揺られながら、一つ一つ記憶が遡る。居酒屋に行ったのがそもそもの間違いだったのだろうか・・・?いや、違う。きっとあの震えたまま帰っていたら、私は家の中で自分を持て余していた筈だ。じゃ、どこから間違ってしまったのだろう。・・・そうだ。日本酒を飲んだ辺りだ。彼氏なんかいませんって正直に告白して、笑い話にしようとしたけどならなくて、間を埋める為に ちょっとやけになって頼んだお酒。あれを飲み過ぎたんだ。だから帰りにフラフラ千鳥足なんかになっちゃって、お隣さんの腕なんか借りたりして。いい歳して、自分の酒の量も分からないだらしない女だ。しまいには部屋に男の人を連れ込んで、寄り掛かって甘えた上にキスまでしちゃった年増の欲情した独りもんの女だ。最悪だ。あんな醜態をさらして、もう二度と会えない。そして、好きな人ともう会えない様な失敗をした自分を、私は許せる時が来るんだろうか・・・?
夕方定時近くなって、携帯に連絡が入る。まさかの・・・お隣さんからだ。見るのが怖いが、むこうから連絡をくれた事に、少しホッとしている自分もいる。
『体調は大丈夫ですか?今朝は駅までご一緒できず、ごめんなさい。今日の帰りは何時頃になりそうですか?』
私の頭は再びパニックを起こし始めている。昨日の今日で・・・どういうつもりなんだろう。昨日のキスは、別に取り立てて騒ぐ程の事じゃないって事?お互いにもう大人だし、初めてのキスでもない。しかもお酒も入ってて、あれっぽっちの事をガタガタ気にする方がおかしいって言われてる気がする。お隣さんにとったら、蚊に刺された程度の出来事なのかもしれない。『そんなに深い意味なんか無いですよ』と笑われそうだ。だからと言って、こっちまで平気な顔して会えるかと聞かれたら、それとこれとは別問題だ。だから私はこう返信する。
『ごめんなさい。今日は大丈夫です。気に掛けて頂き、ありがとうございます』
すると、すぐに又返事が来る。
『そうでしたか。わかりました。では又明日の朝』
・・・・・・『明日の朝も無理です』なんて、立て続けには断れない。だから私は、それには何も返さないままにする。そして明日の朝、少し早い電車に乗ろう。
次の朝、いつもより2本早い電車めがけて駅まで歩く。その時ふと、よぎる。『また明日の朝』と言われ何も返事をしなかったけれど、私が来るものと思って、お隣さんを待たせてしまったらどうしよう・・・。そんな不安が襲ってきて、私は慌てて携帯を出した。
『今日は少し早く出勤してます。ごめんなさい』
返事がない。大抵今までは、割合返信の反応は早い方なのに、今日は昼になっても ウンともスンとも来ない。また私の頭の中のお隣さんが勝手に喋り出す。
『別にわざわざ待ったりなんかしませんよ。恋人でもあるまいし』
私は朝のうぬぼれていた自分に赤面すると、顔を両手で覆った。
「どうした?頭でも痛いの?」
傍を通り掛かった浅見が立ち止まって、私の顔を覗き込んでいる。
「いえ、大丈夫です」
そう言っている私が大丈夫そうでない事位、きっとお見通しだろう。浅見が書類の束を渡しながら、こっちの顔色を見ている。
「これ、急ぎ目でよろしく」
渡された書類に付箋が付いていて、そこには『かなり煮詰まった雰囲気だね。悩み事なら聞くよ』と書かれていた。まさか、浅見部長に話せる訳がない。こちらの返事にも困っていると、携帯にメッセージが届く。お隣さんか?私は慌てて確認すると、それは彼ではなく大学時代の友人の佐久間妙子からだった。
『私、今実家に帰ってきてる』
これだけの一文に 何か凄い圧を感じて、私は少し妙子の続きを待ってみる。
『うちの旦那、浮気してた』
ドキッとする。しかしそんなこちらの受けた衝撃なんかお構いなしに、妙子のメッセージが次々と押し寄せる。
『まじ、最悪。一生許せる気、しないわ』
結婚式にまで出た友人夫婦の揉め事だからだろうか。妙にソワソワする。私は自分の心の中を探ってみる。
・・・・・・原因は、先日のお隣さんとのキスだ。妙子の言葉が、お隣さんの彼女からの言葉に聞こえる。その妙子のメッセージはまだ続く。
『出張って言ってたのに、女と旅行に行ってた』
私はそこまでじゃない・・・なんて、せこい言い訳をする自分がいる。
『しかも、その女と2年も前から浮気してたらしい』
私はあの時一回だけ・・・なんて、犯した罪をごまかそうとする自分に溜め息が出る。
『こっちが必死に子育てしてる間に、本当 最低な男!』
これはかなりの沸点に達している。妙子の気持ちを察すると、恐る恐る私は返信をした。
『話し合いはしたの?』
『話し合いも何も、むこうは開き直って全部認めたんだから!』
その修羅場を想像して、思わず深く重たい息が漏れる。
『ご主人、どうするって?これから』
『裏切った奴の意見なんか聞かないわよ。私が無理って思ったから、荷物まとめて出てきた』
返す言葉はない。気の立っている時に 何を言っても無駄だろうし、未婚者の私が何か言える訳ではない。だけど、ふと思う。ご主人はなんで浮気なんかしたんだろう。いや、2年って・・・結構本気なのかもしれない。出来心じゃないんだとしたら・・・?きっとご主人にはご主人の言い分がある筈だ。そういえば前に妙子、下の子が生まれてから夫婦生活がないって言ってたなぁ。それも、今回の事と関係があるんだろうか。私が色んな事を考えている内に、妙子からもう一つメッセージが届く。
『しかもその浮気女、20代の若い女だった。今若くたって、いずれ皆年取るんだっつーの!若いからってだけで、何がいいんだって言いたいよ!』
なんだか複雑だ。妙子の気持ちも分からなくない。でも、どっかで負け惜しみに聞こえてしまうのは何でだろう?本当にご主人は、若さだけに惹かれたんだろうか?確かにお隣さんの彼女と私を比べたら 華やかさとか肌のハリ艶感の差は歴然だけど、それは年齢の違いだけで、魅力って又別物の様な気がする。だって私がお隣さんを好きになったのは、若いからって理由じゃない。もっと中味の部分だ。だからって、今こんな事妙子に言ったら、火に油を注ぐ様なものだ。だから言えない。
すると妙子からは、怒りの湯気が立ち昇る様なメッセージが又届く。
『うちの旦那も旦那だけどさ、若い奴の分別の無さにも呆れるね。そんな女にフラフラする位だから、うちの旦那もしょうもない野郎って事だわ』
ねぇ、妙子。分別が無いのは、若さだけのせいじゃないよ。実際私だって、この歳になっても 分別のない行動を取ってしまったんだから。
私は心の中でそう呟いて、携帯をデスクに置こうとした時、妙子からもう一つ来る。
『あ~やも気を付けなよ。隣の若い男。若いのは後先考えなしで、その場の欲求だけで動く生き物だからね。騙されない様にしてよ』
私は携帯をデスクに伏せた。
夕方近くなった頃、お隣さんからのメッセージが届く。恐る恐る内容を確認してみる。
『今日の帰りは、どんな感じですか?』
心臓がぎゅっと縮まって、痛くなる。
『いつも気に掛けてくれて、ありがとうございます。でも、今日は残業になりそうなので、私の事は気にしないで下さい』
そう送って携帯を鞄にしまうと、私は昼間 浅見部長に頼まれて終わっていない書類の山に、再び手を伸ばした。
家に帰った後、暫くするとチャイムが鳴る。インターホンのモニターには、お隣さんが映っていた。わざわざ訪ねてくるなんて、何だろう・・・?そう思いながらも、出られない私だ。音を立てない様にじっと身を潜め、居留守を使う。
こんな事、一体いつまで続けるつもりだろう、私。お隣さんから逃げていたって、仕方がない。この間の自分のした事から逃げている私は、本当に無責任だ。あの日 駅前で助けてくれて、その後も不安な私に付き合ってくれた事に、ちゃんとお礼を言わなくちゃいけない。そして、その後の・・・私の失態を、心から詫びなければならない筈だ。きっとお隣さんだって、毎日彼女に後ろめたい気持ちで会っているに違いないんだから。
だけど、そうは言っても 会って話す勇気はない。だから文章で伝えよう。私は携帯を手に取ると、タイミングを合わせた様に、お隣さんからメッセージが届く。
『こんばんは。明日の朝、一緒に駅まで行けますか?』
こんなに無責任に逃げ続けている私を、まだ誘ってくれるんだ。不覚にも胸がキュンとなる私だ。だけど断らなくては駄目だ。私は心を無にして、携帯をぎゅっと握りしめた。
『先日は色々とお世話になりました。あの日駅前で助けて頂いたお陰で、あの人も来なくなりました。本当にありがとうございました。まだ全部安心した訳じゃないけれど、もう一人でも大丈夫だと思います。ご心配お掛けして、申し訳ありませんでした』
一旦これを送信してから、もう一度私は息を吸った。一番肝心な事を謝らなきゃならない。
『それから』
ここまで打って、指が止まる。あの日の話題を出すのが怖い。一体お隣さんはどんな風に思っているのだろう。もしかして、私みたいに こんなに気になんかしていないのかもしれない。だとしたら、あえて話題に出したら、蒸し返す様で気まずい。あれ以来会っていないから、お隣さんの様子が分からない。気にしているのか、そうでないのか・・・。
そこへお隣さんからの返信が届く。
『もしかして、僕の事 避けてます?』
やはりバレている。いや、そう思わせてしまった事が申し訳ない様な、恥ずかしい様な・・・。とにかく顔を合わせづらい事に変わりはない。
私はもう一回大きく深呼吸をして、意を決した。
『この間の事、ちゃんと謝らなくちゃと思ってました。あの日はお酒が入っていて つい寝てしまい、明け方まで付き合わせてしまった事、申し訳ありませんでした。それから』
ここまで打って、やはりキスした事を蒸し返すのが躊躇われる。私は自分に必死に言い聞かせて、絞り出す。
『色々と失態がありました事、お詫び致します。どうか忘れて頂けます様に、お願い致します』
あの時、カーテンから透ける薄っすらとした外灯の明るさと、お隣さんの温もりに包まれて重ねた唇の感触。本当だったら素敵な思い出の筈なのに、私はそれを『失態』と呼び、忘れて下さいとお願いしている悲しい現実に、思わず涙が零れそうになる。
送った後で 少しさっぱりした気持ちになる一方で、ソワソワする自分もいる。何のソワソワなんだろう・・・。もしかして、万が一だけど、お隣さんが私の悲しい二言を否定してくれたら・・・なんていう虫のいい考えが、心の隅に存在するのだ。分かってる。そんな筈ない。そんな奇跡みたいな展開、ある訳がない。また自惚れる自分の頬っぺたをペシッと叩いて目を覚ます。
それから少しして、携帯がメッセージを着信した。
『僕の方こそ、失礼しました。亜弥さんの言う通り、この間の事は抜きにして、今まで通りに接してもらえたら嬉しいです』
私の中のガラスの欠片がパリーンと割れた音が弾ける。終わった。これで本当に終わったんだ。私に久々に訪れた淡い恋が、幕を閉じた瞬間だった。