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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
6/22

第6話

6.


 お隣さんと駅から一緒に帰ってきた次の日の夕方、再びお隣さんから連絡が入る。

『今日は職場の人達と飲みに行く事になって、駅に着くの10時過ぎてしまうと思います』

まさか、

『丁度良かったです。私も今日はそれ位になりそうだったので』

なんてケロッと嘘ついて一緒に帰ろうなんて、昨夜のあのベランダでの会話を聞いてしまったら、到底出来ない。

『ありがとうございます。気にしないで下さい』

私は馬鹿だ。つくづく馬鹿だと思う。叶わない恋を、まるで子供の頃みたいな純朴な恋だと美化して、自分を綺麗ごとで塗り固めていただけだ。これじゃまるで、あの男と考えている事は一緒だ。私は溜め息をついて、携帯を鞄にしまった。


「竹下さん、今日この後時間ある?」

「はい」

「ちょっと行きたい所があるんだけど、付き合ってもらえないかな?」

浅見部長の誘いで、今日は新宿にある寿司屋のカウンターに座る。

「最近元気ないけど、大丈夫?」

「・・・あ・・・そうですか?」

「夏バテかな?かなり疲れてる感じするよ」

結構人の事、見てない様で見てるんだなぁ・・・浅見部長。そんな驚きを胸に、私は少し戸惑いの表情になる。

「困ってる事でもあるの?」

「・・・・・・」

正直、迷う。ストーカーに付けられたあの晩の事を話そうかどうしようか。すると、それを察知して、浅見はパチンと指を鳴らした。

「分かった!恋煩いだ?」

「違います!もっと深刻というか・・・」

浅見の言葉を否定するだけのつもりが、つい口からポロッと言葉が零れ落ちた。そんな私の目を、浅見はじっと見つめた。私みたいに顔色を窺う人間は、こうして待たれていると つい沈黙に負けて話し始めてしまうものだ。

「お盆休みに入る前の会社帰りの事なんですけど・・・」


 一通り話を聞き終えた浅見が、記憶を辿る様に目をじっと瞑った。

「その日って、仕事帰りに俺が誘った日だよね?その帰りって事?」

「あ・・・そうだったかな・・・」

「責任感じるなぁ・・・」

そう言って、その日浅見は私と一緒の駅で降りた。

浅見に送られながら、マンションまでの道をゆっくり歩く。

「俺、今の所で仕事するの、1月までだから」

「え?!」

「まだ発表はしてないけどね。内密でよろしく」

私の困惑は隠せない。

「だって・・・まだいらしたばっかりですよね?」

「元々、半年で立て直せって話だったから」

私の耳に、その言葉が止まる。

「立て直す・・・?」

そういえば、浅見が配属されてきた理由が分からないままだった。浅見は少し考えてから、大事に言葉を選んだ。

「以前と比べて、総務課内が何か変わったって感じる?」

そりゃ、課長が静かになった事が一番の変化だ。でも、それを言っていいものかどうなのか、迷う。

「まぁ・・・はい。多少は・・・」

「へぇ~、多少か・・・。例えば?」

そう聞かれると・・・嘘をつく訳にもいかない。

「課長が・・・少しお元気がないかな・・・と」

浅見が頷きながら私を見て、最後ににこっと笑った。

「ま、そういう事だ」

分かった様な分からない様な感じだが、きっと部長が部下の私に言えるのはここまでなんだと割り切ると、そう追及したい気持ちもなくなる。

「部長、次はどちらに行かれるか決まられてるんですか?」

「いや、まだ全然。気にしてくれるの?」

「大変だなぁと思いまして」

「な~んだ」

浅見はあっけらかんと笑った。

「ところで、その変質者。いくつ位の男なの?」

「20代だと思います」

「へぇ~。年上の綺麗なお姉様に見とれて、変な気起こしちゃったのかねぇ」

「部長、それ嫌味ですか?」

浅見は目を丸く見開いて、私の方へ顔を向けた。

「なんで?」

「だって・・・綺麗なお姉様って柄じゃないですし」

「そう?竹下さんて、清楚で知的なお姉様って感じだよ」

「からかわないで下さい」

私はちょっと膨れっ面をしてみせた。

「からかってないよぉ。でも不謹慎だったね、深刻に困ってたのに」

意外に素直に頭を下げられて、私は拍子抜けしてしまう。浅見が辺りをキョロキョロ見回して呟いた。

「急にこの辺りから住宅街になるから、外灯も減って暗くなるね」

「そうなんです」

「警察には?言った?」

「まだ・・・。もう少し様子見てからと思って」

「そんな事言って、何かあってからじゃ遅いよ。ま、警察だって、どの程度取り合ってくれるか分かんないしね。あんまり酷い様なら、引っ越しも頭に入れとかないと」

引っ越し・・・。ここに住んで6年近く経つけれど、久し振りに味わう生活のハリや思わず鼻歌なんか零れてきそうな明るい気持ち。それらを全て捨てて、再び新しい場所に根を下ろす・・・それが、今の私にとっての引っ越しだ。右手に掴んだ小さな小さな幸せと左手に乗っかった暗く重たい恐怖。今の私は それらを天秤に掛けたら、どっちに傾くのだろう。

 浅見に送られてマンションの前まで来る。

「ありがとうございました」

私が頭を下げると、浅見が聞いた。

「この近くでタクシー捕まえられる所、ある?」

「タクシーですか?」

「もう駅まで戻るの面倒になっちゃったから、タクシーで帰ろうかと思ってね」

私は肩をすぼめて、もう一度頭を下げた。それを見て、浅見は笑いながら私の肩をポンポンと叩いた。

「そんな顔しないでよ。笑って『あざーっす』って言っときゃいいんだって」

私は苦笑いして首を少し傾げた。

「『あざーっす』はさすがに・・・」

「そっか」

そう言って、浅見ははははと笑った。だから私もつられて笑う。するとその時、私の脇を会釈をしながら通る人影に目が留まる。お隣さんだ・・・。

「あ・・・」

思わず私の顔から笑顔が消えて、口からはそう声が漏れる。

「どうも・・・」

お隣さんは目を合わさず、立ち止まりもせずに、まるで独り言の様に挨拶をしてエントランスへと消えていった。

「こういう一人暮らし用のマンションでも、住人同士 一応挨拶ってするんだね」

浅見のその声で、私はふと我に返る。

「今の方はお隣さんなんで」

「あ~、それで」

納得した浅見は、また話を戻した。

「で・・・タクシー」

「あっ・・・ここ真っ直ぐ行くと大通りに出るので、そこでつかまると思います」

浅見が軽く片手を挙げて帰って行った後の、私に残った何とも言えない空虚感に押し潰されそうになるのだった。


 次の日も、又その次の日の夕方も、お隣さんからの連絡はない。だから私からも、一緒に帰って下さいという連絡は入れづらい。そして今日も一人で心細く家までの夜道を慎重に歩く。この間浅見が、

『この辺りから住宅街だから、外灯も減って暗くなるね』

と言っていた場所から、私の緊張も加速する。慎重に歩いていると、急に電信柱の影から人影が動く。

「こんばんは」

思わず驚き過ぎて、体が硬直する。もちろん声なんか出る訳がない。

「あの・・・今度一度、デートしてもらえませんか?」

走って逃げようか・・・そんな事を頭では考えるが、体はとても動きそうにない。

「名前・・・教えて下さい」

自分の名前も名乗らずに、つけ回したり急に現れたりして こっちの名前を聞こうというのだから、本当にどうかしている。私は握りしめて歩いていた携帯を、震える手で辛うじて操作しようと必死になる。

「電話・・・待って下さい。本当、ちょっと話したいだけなんです」

私は渾身の力を振り絞って、首を横にふる。

「怖いから・・・本当にやめて下さい」

私の手は明らかに震えていて、到底まともに携帯を操作できる様には見えない。しかし私はぎゅっと電話を握りしめて、通報しなくちゃと気持ちばかりが逸る。しかし、いざとなるとそれが110番なのか119番なのか気が動転していて分からない。こんな状態で逃げたって、到底追いつかれてしまう速さでしか走れないだろう。まだまだ全身が震えているから、大きな声も出そうもない。私は心の中で、この間みたいにお隣さんが偶然通り掛かってくれる事を祈る。

助けて。

助けて。

助けて!

・・・しかしその私の心の叫びは、その辺の近くの道端に落ちて彼には届かない。きっとここを通り掛かる人達にいつしか踏んづけられて、アスファルトの上に積もる塵と同じ様に誰にも気づかれずに消えていくのだろう。

 私は少しでも人通りのある場所へ一刻も早く移動しなくてはと、足を滑らせながら元来た道へと後ずさりする。

「あの・・・あの・・・」

男も、こう言いながらじわりじわりと私に付いてくる。

「ちょっとだけ・・・どっかで一回だけ・・・」

もじもじしながらも、諦めずについてくる男の存在が恐怖で恐怖で、私の目からは思わず涙が零れ落ちた。こんな泣き方、初めてだ。自分でもびっくりしてしまう。普通涙って、気持ちがぐーっと込み上げてきて、感情と共に溢れ出してしまうものだと思っていたけれど、今のはまるで違う。気が付いたら目から勝手にポロポロと雫が零れていたのだ。それを見た男は、私の腕に手を伸ばした。

「あ~・・・ごめんなさい。泣かせるつもりなんかなくって」

そう言って男の手が私の腕に触れる一歩手前で、私はその手を振り払った。

「もう、いい加減にして下さい!」

「・・・・・・」

「何回言われても、無理です。ごめんなさい」

興奮していて、必死な私の声が大きく周りに響くと、丁度通り掛かった一人の人がじっと二人を眺めながら通り過ぎて行くのに気付き、男はその場から走り去っていった。通りすがりの その人は、後ろの私を度々振り返りながら遠ざかっていく。一体どう思っているのだろう。別れ話のもつれたカップルとか、そんな風に思っているのかもしれない。そんな勝手な想像をすると、私はもう悲しさが胸いっぱいに充満して、誰にも会わない場所に身を隠してしまいたくなるのだった。


 その晩遅く家に帰り着くが、さっき味わった恐怖がまだ私の体を硬直させている。あんなに慎重に目を光らせながら歩いていたのに、暗がりから突然にゅっと現れた衝撃と恐怖が、まだ生々しい。

引っ越そうかな・・・。そんな事が頭をよぎる。先日浅見部長に警察への届け出を聞かれたが、もう少し様子を見てからと言った私に、

『何かあってからじゃ遅いよ』

と忠告してくれた言葉を思い出す。もうこれは警察に言った方がいいレベルなんだろうか?


 『一緒に帰りましょう』とのお隣さんからの連絡は、もしかしたら もう来ないのかもしれない。そう半ば諦めている筈なのに、毎日夕方になると 私は馬鹿みたいに携帯を気にしたりする。だけど、やっぱり今日も連絡はない。

 仕事を定時で終えて、駅前でひたすらお隣さんの帰りを待つ。これだけ早くから待っていたら、きっと会えるに違いない。そう信じて待つ傍らで、例の男に見つかってしまわない様に、気も抜けない。電車の時間毎に押し寄せる人波を何回見送っただろうか。その間何度、諦めてもう一人で帰ろうかと思ったか知れない。さすがに足も疲れてきて、どっかで座って休みながら待とうかなと思った矢先、目の前を通り過ぎていくお隣さんがいる。

「あっ・・・」

そう発した声など、駅前の雑踏で彼まで届く訳はない。スタスタと歩くお隣さんを小走りで追いかけ、私は声を掛けた。

「こんばんは」

反応良く私を振り向き、お隣さんは 歩調にブレーキを掛けた。

「亜弥さんも今帰りですか?」

「あ・・・いえ・・・」

ずっと何時間も待っていたなんて、きっと薄気味悪いに決まっている。だから、私の口は急にまごついてしまう。だけど、それでも変な顔一つしないのが堀之内龍という男だ。

「もしかして、龍君帰ってくるかな・・・なんて思って」

少し驚いた顔になっている。どっちの意味だろう。引いた?それとも・・・?

「連絡くれたら良かったのに」

「あ・・・そうね。ごめんなさい」

「いや。それのが待たせないから・・・」

「私こそ、待ち合わせしてもらう程でもないかなって・・・」

龍が会話の頃合いを見て、再びゆっくり歩き始めた。

「何か・・・あの後、ありました?」

私はゆっくりと首を縦に振った。

「また出ました?そいつ」

「はい・・・」

「・・・大丈夫でした?」

「・・・まぁ・・・なんとか」

それを聞いて、お隣さんはもう一度私の方へ顔を向けた。

「そういう時は、遠慮なく連絡して下さいよ」

「・・・はぁ・・・」

決して『はい』と返事は出来ない。だからそれに限りなく似た音を発する『はぁ』等という曖昧な返事でごまかす。だから、暫く経ってから、私は思い切って言ってみる事にした。

「『遠慮なく』っていうのは・・・無理です。やっぱり遠慮しちゃいます」

再びお隣さんが私の方を向く。そして、言った。

「そりゃあ・・・そうですよね。僕だって遠慮しちゃうもんな」

前を向いて歩くお隣さんの革靴の足音を聞きながら、私はもう少し質問してみる。

「・・・どうしてですか?」

「そりゃあ 彼氏さんの立場で考えたら、あんまり出しゃばった事しない方がいいかなって」

「・・・・・・」

正直返す言葉はない。今更『彼氏はいません』と打ち明ける勇気もない。だからせめて、

「そんな事・・・全然気にしないで大丈夫です」

と言ってみる。すると、意外にもお隣さんは その話題を掘り下げた。

「やきもち焼かせないですか?男の・・・彼氏としてのプライドみたいなの、潰してもいけないし」

彼氏としてのプライド?私の表情から 少なからず何かを読み取って、お隣さんは説明を加えた。

「俺が守ってやるんだ・・・みたいな?」

そういう感覚、もうすっかり忘れてしまっていた。自分の事を誰よりも一番に心配してくれて、離れてる時も気に掛けてくれるパートナーという存在。そういう“男のプライド”“彼氏のプライド”に、もう一生包まれる日なんか来ないんだと思うと、不覚にも私の目から涙がじわっと湧き上がる。

「それとも亜弥さん、彼氏に気遣って、黙ってたりします?」

「・・・・・・」

「だとしたら、そういう・・・嘘つかせる様な事、良くないなって」

途中までは『気にしないで』と言おうと思っていた私も、ここまで言われたら、そうは返せない。だから、

「色々気を使わせてしまって、ごめんなさい」

そう言って、頭を下げる。

「いや、亜弥さんは『ごめんなさい』じゃないです。僕のした事で、亜弥さんの大切な物 壊したらいけないと思って」

若いのに、良く気遣いの出来る人だ。きっと私は彼のそういう所を好きになってしまったのだろうけど、でもやはり、所詮人の彼氏だ。20代半ば、爽やかで礼儀正しく、気配りの出来る好青年。裏表の無さそうな人柄で、その上スポーツマンでスタイルも良い、と来たら、引く手あまただ。モテるに決まってる。こんな冴えないアラフォーの私なんかが手の届く相手ではないのだ。

 こうしてどんどん沈んでいく心を隠し持って、私はマンションの玄関の前まで来て、お隣さんに改めて深くお辞儀をした。

「今日は・・・すみませんでした。でも・・・一緒に帰って頂いて、ありがとうございました」

「いえ・・・」

そう言うお隣さんの言葉が、尻切れトンボの様にすっと消えた。・・・私の瞳からじわっと湧き出た水分が目に留まったからだ。

「・・・大丈夫ですか?」

「ごめんなさい」

お隣さんが戸惑っている空気感が、こちらに伝わってくる。だから私は笑顔を作った。

「無事に帰って来られて、安心したのかもしれません・・・」

「・・・警察に届け出ます?もし一人なら・・・ご一緒しますよ」

私は首を横に振った。

「引っ越しも、考えてて」

「・・・引っ越し?」

そう質問してから、お隣さんは独り言の様な呟きを付け足した。

「あぁ・・・まぁ・・・そうか」

「色んな人達に迷惑掛けちゃってるから」

そう言った私の言葉を お隣さんは一旦そしゃくして、ゆっくりと首を傾げた。だから、私はもう少し説明を加える事にする。

「こうやって龍君にも気遣ってもらってるし、職場の上司にまで心配掛けて ここまで送って頂いた事もあるし。龍君には、警察に届け出ようか?とか、一緒に行きますよ、なんて言ってもらって。自分の事なのに、自分で何とかしなくちゃいけないのに・・・」

そこまで聞いて、お隣さんは言葉を被せた。

「そういうの、迷惑掛けてるって言いませんよ。当然の事でしょ。ご近所の知り合いが困ってたら、それぐらい普通の事でしょ」

・・・『ご近所の知り合い』・・・当たり前だけど、こういうフレーズ はっきり聞いちゃうと、やっぱへこむ。『これぐらい普通の事』・・・彼にとっては、特別な感情なんかなくたってする程度の親切ですよって事だ。

 家の玄関のドアが閉じた途端に、私は鞄をドスンと床に置いた。


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