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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
5/22

第5話

5.


 いよいよ明日からお盆休みの連休が始まる。こういう日は決まって課長が飲みの誘いを掛けてくる・・・今までは。しかし今日は大人しい。本社から浅見部長が配属になってから、借りてきた猫の様にめっきり静かだ。いつもの金曜に比べて、後輩達もどことなく浮足立っている様に感じる。終業の時刻を回ると、いつも以上に皆 時間を守って席を立つ。課長もだ。

「お疲れ様~」

ゆる~い挨拶を残して課長が退社していく後ろ姿に、何か哀愁めいたものを感じてしまって、私が釘付けになっているのを浅見部長が気付く。

「皆早いね~」

「そうですね」

「竹下さんも早く帰ったら?せっかくの連休、少しでも長くなるように」

私は浅見にお礼を言ってから、またパソコンのキーボードに手を乗せた。

「連休明けに 仕事持ち越す訳にいかないんで、やっちゃいます。あと少しなんで」

にっこり笑った浅見の顔を確認すると、私の手はキーボードの上で忙しく動き始めた。一気に仕事を片付けて、気が付くと 皆が帰ってから30分が経っていた。背もたれに寄り掛かって 思いっきり背中を伸ばすと、浅見と目が合う。部長がまだいるという事すら、忘れていたのだ。

「終わった?」

「はい。部長、まだいらしたんですね」

私は伸ばしていた両手を、少し遠慮気味に縮めた。

「竹下さん。この後、予定ある?」

「いえ・・・」

「飯、付き合ってくれない?」


 浅見に連れられて訪れたのは、創業以来守り続けてきたタレを継ぎ足しながら使っているという鰻屋だ。

「仕事めいっぱい頑張ってくれた慰労会。鰻食って、精つけて、また休み明けから頑張れる様に」

特上のうな重と肝吸いを頂きながら、再び私の疑問が頭をかすめる。

「連休、どこか行かれるんですか?」

こんな質問をしたら、少しは部長の私生活が見えるかと思ったけれど、浅見の答えに私は肩透かしを食らった。

「のんびり過ごすよ」

私が愛想笑いを浮かべたのに気付いただろうか。今度は浅見が同じ質問をしてくる。

「竹下さんは?」

「実家で兄家族とか集まるから来いって。お墓参りもあるし・・・行ってきます」

「実家、遠いの?」

「いえ。千葉です。日帰りです」

そう言って私が笑うと、浅見は更に質問を続けた。

「せっかく行くのに泊まってこないの?ゆっくりしてけって言われない?」

「あっちは、兄家族がすぐ近くに住んでるから寂しくないんですよ。私も自分の部屋に帰ってきた方が気が楽だし、荷物も少なくていいし」

「確かにそれはあるよな。一人暮らしに慣れちゃうと、この気ままさが一番の極楽だもんなぁ」

一人暮らしに慣れちゃう・・・?私の鼻が思わずぴくっと反応する。

「部長・・・お一人暮らしなんですか?」

「そうだよ。こっちに配属になって、ワンルームみたいな部屋借りてる」

あ~、納得だ。単身赴任というやつか。何だか少しずつ浅見の私生活が見えてきて、ホッとしている自分がいる。

「だけどご不自由じゃないですか?急に一人暮らしで、身の回りの事ご自分でやらなくちゃならないなんて」

「急に一人暮らしって訳でもないから、慣れたもんだよ」

ん?それまで順調に働いていた私の思考回路が、一旦止まる。

「大阪でも一人暮らししてたからね」

益々ん?だ。きっと私が混乱した表情を露わにしていたのだろう。見かねた浅見が、その顔を楽しんでいる様にクスッと笑った。

「女房とは別居中。これで納得した?」

「あ・・・すみません。そんな事聞くつもりじゃ・・・失礼しました」

箸を置いて頭を下げる私に、浅見は更に笑った。

「これ言うと、印象悪くなるからなぁ。言いたくなかったんだよなぁ」

「大丈夫です。私、別に・・・そういうプライベートな事と仕事は全く・・・」

慌てた分だけ、言葉が上手くまとまらない。すると、気まずくて目を逸らした私の顔を、浅見が覗き込んだ。

「本当?なんで別居してるんだろう?とか、思わない?」

私は急いで首を横に振ると、浅見は又くすくす笑った。

「珍しいよ、竹下さんみたいな人。大抵の女性は“この人、何悪さしたんだろう?”って思うみたいだよ」

「そんな・・・」

平和主義の私が、こういう場面で極端な反応をする訳がない。でも、だからといって『そんな』の後の言葉も浮かんでは来ない。どれも私の本音ではないからだ。もちろん、浅見のプライベートに全く興味が無い訳ではない。結婚してるのか?それとも独身なのか?バツイチなのか?気になっていたのは確かだ。そして真実を教えてもらって、全く偏見を持たないかと聞かれれば・・・嘘になる。『そんな事聞いたって、仕事に何ら差し障りありません』・・・なんて、やっぱり建前のポーズだけだ。私はいつもそうだ。本音を言わない。言い換えれば、自分を隠しているのだ。相手に見せたイメージを壊さない様に、必死に自分を守るのだ。これは一体いつの頃からの癖なんだろう。


 浅見と別れ、電車を下りて改札を出る。駅前のコンビニに立ち寄ってみる。何か買いたい物がある訳ではない。以前にお隣さんの姿を偶然に見掛けた事があるから。ふら~っと立ち寄って、中を一周してみる。今日はお隣さんはいないみたいだ。自動ドアを出ると同時に深い溜め息が漏れた。・・・どうして?どうして私は、こんなにがっかりするの?期待した通りにならなかったから?私は馬鹿みたいな自分を必死で否定しながら、足早に家への道を歩いた。お弁当屋さんの前も、三ちゃん麺の前も、通りすがりに一応中を覗いてみるが、もちろんお隣さんの姿はない。こんなに気になる自分に戸惑いながら、そしてそれを必死に否定しながら、マンションに辿り着く。鞄から鍵を取り出そうと一旦足を止めた所で、誰かが私を呼び止めた。

「あの・・・っ!」

私は思わず身を縮めた。だって・・・私を呼び止めたその男の人は、その声と同時に私の腕を掴んできたからだ。初めて見る顔に困惑と恐怖を胸いっぱいに抱え、私は掴まれた腕をそっと自分の方へ引いた。私が彼の方へ振り返った事で満足したその彼は、私を掴んでいたその手を解いて、じっと私の目を見ながら言った。

「さっきコンビニで見掛けて・・・好きになりました」

駅前のコンビニから、ずっとこの人に夜道をつけられていた事を思うと、途端に恐怖が全身を駆け巡って逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。しかし今もうマンションの前まで来てしまって、家までバレてしまったから、今までの穏やかだった生活まで脅かされてしまう。逃げ場も無くて、どう断ったらいいのか分からない私は、恐怖で金縛りにでもあったみたいに動けない。

「付き合ってもらえませんか?」

正気じゃない。絶対に普通じゃない。だってさっき初めてコンビニで見掛けただけの人を そんな一瞬で好きになるなんておかしいし。ましてや付き合って下さいだなんて。私が『はい』と答えるとでも思っているとしたら、かなり常軌を逸しているとしか思えない。

「ごめんなさい」

私は震える声でそう答えるが、その男はまだ引き下がらない。

「付き合ってる人、いるんですか?」

「・・・・・・」

こういう時はいると答えた方がいいのか、いないと答えた方がいいのか分からない。答えに困っていると、男が更に質問を続けた。

「好きな人いるんですか?」

「・・・警察・・・呼びますよ」

私はもうどうしていいのかが分からなくて鞄から携帯を取り出すと、その男は少し慌てた様子になる。

「いや、待って。僕、そんな怪しい者じゃありません」

充分“怪しい者”だ。しかも自分でそれを分かっていないのだから、尚の事怪しいに決まっている。私は震える手で携帯を目の前に持って来ると、その男は私の手と携帯をぎゅっと握った。

「待って下さい。電話はしないで下さい」

そう話す男の手を跳ねのける力が出ない。怖くて怖くて声すら出ないのだから。

「・・・離して下さい!」

ようやくそれだけ言うと、男は手を離した。

「じゃ・・・友達になって下さい」

しつこさと恐怖の限界が私に訪れると、急に爆発した様な声が一気に口から弾け出た。

「いい加減にして下さい!警察呼びますよ!」

そこを丁度通りがかった人がこちらを見たから、その視線を気にして、男はその場から走って逃げて行った。私は震える全身を必死で抑え、男が見えなくなるのを確認した後、深呼吸をしてマンションに入っていった。玄関に入ると、安堵から涙が溢れて溢れて止まらない。私は震える体を両手で縛り付けながら、真っ暗な玄関にへたり込んだ。


 その日から部屋の明かりをつけるのも、干した洗濯物を取り込むのもビクビクする様になってしまった。警察に届け出ようか。長い事一人暮らしをしてきたけれど、こんな経験初めてだ。しかもお盆休みに入ってしまったから、一日中家に居なくてはならないのだ。一人で悠々自適に暮らせる城だった筈が、今となってはそれさえも脅かされてしまっている。実家に帰る予定を早めようか 本気で迷っている事自体、私にとって相当の一大事だ。

 今日も一日中テレビをつけて過ごす。音が途切れるのが怖い。夜中も電気とテレビをつけっ放しにして眠る。家を出る時は、昼間でも引いたままのカーテンの隙間から、あの晩の男がいないかを確認してから外に出る。常に誰かに後をつけられていないか気にしながら出歩くのも、神経がすり減っていくのを痛感する。こんな時 バッタリとお隣さんにでも会えたら、今の状況を話して・・・そしたら何か改善策を一緒に考えてくれるかもしれない。そんな風に思い立つと、私は意を決して隣のインターホンを押した。

ピンポーン・・・

もう一度鳴らしてみる。

ピンポーン・・・

家の中に人の居る気配はしない。そうだ。彼女と旅行に行くと言っていたんだっけ。もう出発してしまったんだ。一日中家に居てもテレビをつけっ放しにしていたから、お隣さんがいつから居なかったのかは分からない。いつ、帰ってくるんだろう・・・。私は心細い気持ちを抱えたまま、再び家に戻った。


 14日、千葉の実家に顔を出して、甥っ子や姪っ子達とも遊んで、夕飯の片付けを済ませた頃、母が聞いてきた。

「会社、いつから?」

「17」

『じゃ、今日は泊まっていったら?』そう言われるかと思っていた私は肩透かしを食らう。

「こんなに連休があったって、うちに顔出す位で どうせ大した用事もないんでしょ?」

「・・・そんな事ないって。友達との約束だってあるし」

「へぇ~。お盆に独身のあんたに都合合わせてくれる友達って事は、同じ独身族?」

「違うよ。結婚してるけど、ご主人がサービス業で、お盆は忙しいからお休みじゃないんだって」

そう説明しながら、母の言葉が何故か引っ掛かる。そこへ父がひょいっと顔を出す。

「風呂湧いたみたいだから、入っていいか?」

それを聞いた途端、母が裕子に言った。

「子供達、お風呂入れてっちゃえば?帰ったら寝かせるだけでいいんだから」

それを聞いて、父も賛同する。

「俺、一緒に入れてやろうか?」

その答えを聞く前に、父は孫達の所へ姿を消した。そして少しして、子供達の高揚した声とパタパタパタと走ってくる足音が近づく。

「じいじとお風呂入る~」

「すみません、お義父さん、いつも」

そんなやり取りを微笑ましく眺める私だ。いや・・・“微笑ましく眺めているフリをする”私だ。

「さ、じゃあ、私はそろそろ帰ろっかな」

「気を付けてね」

意外にあっさりだ。


 今回は結局一回も引き止めたり、泊まっていったら?等と聞かれる事はなかった。とうとう 先日の夜の男の事も話せずじまいだった。今日は『たまには泊まって行ったら?』と聞かれたら、それに応じようかな・・・なんて考えていたけれど、そんな流れには一つもならなかったのだから滑稽だ。実家とは、帰ってくるとホッとする場所・・・の筈が、私にとっては もうそうではない様だ。生まれ育った家というだけで、思い出と現実しかない場所だ。もうそれを自覚しなくちゃならない時が来たようだ。私は都内へ向かう電車の中で、再びあの恐怖の街へ帰る覚悟を始めた。


 マンションの前で辺りを念入りに見回す。この間の男はいない。そして上を見上げて、お隣さんの部屋の明かりを確認する。・・・真っ暗だ。まだ旅行から戻っていないのか。一体何泊の旅行に行ったのだろう。

 部屋に入っても、すぐには部屋の電気をつけない。ここ最近の習慣だ。でも留守にしていた部屋に入るのも怖いから、常に小さい懐中電灯を持ち歩いている。それで部屋中を照らして確認して回る。布団やリモコンの位置、タオルの状態が朝と同じかどうか、細かい所まで確認をする。それからでないと、安心できないのだ。

 なんだか気疲れした体をベッドへ横たえ、いつもの様にテレビのスイッチを入れる。バラエティー番組から聞こえてくる抜ける様な笑い声が耳を素通りしていく。チャンネルを変えて流れてくるのは、シリアス物の映画だ。今はそういう緊張感はごめんだ。私は連休前に借りておいたDVDを一枚選んで、プレーヤーに挿入する。するとそこで、インターホンが鳴った。とっさにテレビの音を消して、思わず身を縮めた。物音を立てない様に そうっとモニターを確認すると、そこにはお隣さんの顔が映っていた。ようやく息をして、私は玄関の戸を開けた。

「遅くにすみません」

目の前には、日焼けした笑顔のお隣さんがいる。

「大した物じゃないんですけど・・・ちょっとお土産を・・・」

「え・・・わざわざ私に・・・?」

「本当、そんな大した物じゃないんですけど・・・美味しかったんで」

ホテルの名前が入ったお土産袋を差し出しながら笑うお隣さんに、少し胸がきゅっとなる。でもその反面、久し振りのその慣れ親しんだ笑顔にほっとしている自分もいる。思わずここ最近緊張していた糸が緩んで 感情が溢れてしまいそうになるのを、私は寸前でごまかした。

「あっ!私も。今日実家に帰ってて、また野菜貰って来たので・・・。ちょっと待ってて下さい」

冷蔵庫から さっき貰って来たばかりの野菜を取り出して、紙袋に入れた。

「素人の趣味で作ってる野菜ですから 格好は良くないし、そんな珍しい物でもないですけど・・・良かったら」

お隣さんは、すぐさま紙袋の中を覗いた。

「うわぁ、野菜のいい匂いがする」

「嫌いな物・・・ないですか?」

「はい」

たかが野菜なのに、こんなに嬉しそうにしてもらえると、こちらまで幸せな気持ちになる。ここ最近 ストレスに潰されそうになっていたから、この位のささやかな幸せ、きっと罰は当たらないよね・・・そう自分に言い聞かせながら、私はゆっくりとこの瞬間を味わう事にする。

「実家に、泊まっては来なかったんですか?」

「ここの方が気楽でいいから」

「確かに」

お隣さんは顔をくしゃっとさせて笑った。

「むこう・・・お天気良かったですか?」

「はい・・・って、どこ行くって、言ってましたっけ」

しまった。又やってしまった。ベランダの偶然の盗み聞きを、二人で交わした会話だと記憶が錯覚している。

「いえ。でもここに伊豆って書いてあるから・・・」

私はお土産の袋を指差した。

「あ~、本当だ」

はっはっはっと明るく笑うその表情一つ取ったって、その旅行がこれ以上ない位楽しかったって事、聞かなくたって分かる。ほんの少~しだけ、お隣さんを別世界の人に感じてしまった瞬間でもある。

「わざわざ、ありがとうございました。じゃ・・・」

自分から切り上げて玄関の戸を閉めた途端、それまで浮かべていた笑顔は嘘の様に引っ込んでいった。


 次の朝、お隣さんに頂いたお土産の海苔の佃煮を食べる。一人でテレビをつけながら、チンした冷凍ご飯の上にそれを乗せる。味は確かに美味しいけれど・・・これをお隣さんは、好きな人と笑いながら 幸せいっぱいの気持ちで食べたんだろうなぁと思うと、ちょっと複雑だ。私は一口食べて、瓶の蓋を締めた。


 その日の夕方、トイレの電球が切れてしまったから、私はストックを確認する。しかし予備に買っておいた電球が無くなってしまっていたので、私は仕方なく買いに出ようと、カーテンの隙間から外を覗く。するとマンションの前には、先日の男が立って待っているではないか。私は恐怖心から慌ててカーテンを閉めて、再び身を潜めた。

 その一時間後も、またその一時間後も、カーテンの隙間から恐る恐る覗いてみるが、まだその男は立っていた。部屋はバレていないらしい。こっちを見上げて目が合わないのが、僅かな救いでもある。しかし、マンションを出て行って、再びあの男に会う勇気はない。私は意を決して、お隣さんのチャイムを鳴らした。

ピンポーン・・・

思いつきと勢いで押してしまったけれど、出てきたら何と説明しよう。私の頭の中は、滅多に働かないネジまでフル稼働している有様だ。

『電球、買って来てもらえませんか?』

『どうして?』

・・・となるのが、普通である。そう聞かれたら、答えるべきか・・・。人に物をお願いするなら、正直に状況を説明するべきだと思う・・・が、この状況をどう説明したらいいんだろう。そんな事で悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる程、お隣さんの家からは何の反応もない。留守の様だ。そんな時、私の頭に一つのアイデアが浮かぶ。

『もし電球の替えが有れば、一つ買わせてもらいたいんですけど』

これで、どうだ!私の心に勢いがつくと、もう一回だけ、インターホンを押す力が湧いてくる。

ピンポーン・・・

しかし、やはり同じだ。留守の様だ。

 私はがっくりと肩を落として家に戻る。結局その日その男は、夜の11時頃迄 マンションの前でずっと待ち伏せをしていた。


 朝目を覚ますと、つけっ放しにしていたテレビは、もうすっかり朝の情報番組へと変わっている。朝日の明るさで要らなくなった部屋の電気を消す。夜中何度も目を覚ましたから、何となく寝た気がしない。カーテンの隙間から外を覗くと、もうそこには 昨日の男の姿はなくなっていた。今日はお盆休み最後の日だ。しかしまるで会社に行くような格好に着替えると、私はマンションを恐る恐る出た。

 急ぎ足で、いつも行かないコンビニに駆け込んで電球を買う。そして又辺りを見回して部屋に戻った。ほんの10分程の外出なのに、どっと疲れが押し寄せる。待ち伏せされていた時の為にカムフラージュで着ていった洋服をすぐさま脱ぎ捨てて、私は再び楽ちんな部屋着へと袖を通した。


 悪夢の様な連休が明けた日、私は少しだけ残業をして まっすぐいつもの街に帰ってくる。この間の様に家から自由に外出できない事も想定して、出たついでに買い物をしておかないといけない。食料は保存の利く物でないと困る。カップ麺や冷凍食品、インスタント食品を大量に買い込んで、私は再び家へ急ぐ。時々周りをキョロキョロしながら、うっすら暗くなりかけた道を一目散に歩く。マンションの入り口付近が見えてくると、私は慎重にスピードを緩める。どこかにあの男が潜んでいやしないかと、私の視力を最大限に駆使して探す。怪しい人影がいない事に少しホッとした時、すぐ後ろから男の人の声がした。

「こんばんは」

私は心臓が止まるかと思う程驚いて、振り返ると同時によろめいて、道の脇にへばりつく様に腰を落とした。

「あ・・・ごめんなさい。そんなに驚かせちゃいました?」

上から私を覗き込んでいるのは、あの晩の男ではなく、お隣さんだった。

「いえ・・・」

そう答えるも、腰が抜けて立ち上がれない。

「大丈夫ですか?」

当然道端には、スーパーの袋からさっき買い込んだ食料達が転がり出ている。インスタント食品だのカップ麺だのばかり散らばった恥ずかしさに、私は必死で袋にかき集めた。責任を感じたお隣さんも 一緒になって拾ってくれるが、もう私はこの場から消えて無くなりたい気持ちでいっぱいになる。

「怪我とか・・・してませんか?」

「本当、全然大丈夫ですから、気にせず先にどうぞ」

「別に急いでないから、大丈夫です」

「・・・・・・」

ちょっと後ろから声を掛けられただけで あんな驚き方をして腰抜かして、挙句には買い込んだ食料品をばら撒いた無様な自分を、ここからどう立て直していいのかが分からない。私がいつもと違って無言で手だけを動かしているから、お隣さんは少し声のトーンを下げた。

「何か・・・ありました?」

「いえ・・・別に」

「・・・もし、買った物 傷とかついてたら、僕弁償するんで・・・」

「本当、大丈夫です。大した物買ってる訳じゃないし」

袋にもう一度収めたにも拘らず、立ち上がらない私を気にして、お隣さんの眉が少し寄る。

「・・・立てます?」

「はい」

そう答えたものの、自分の足に力が入るか不安だ。私はお隣さんに気付かれない程の小さな深呼吸をして、ゆっくりと立ち上がった。

「どっか、痛い所ありませんか?」

「はい」

「荷物、僕持ちますよ。重たそうだから」

「そんな、年寄扱いしないで下さい」

私の口からそんなとげとげしい言葉が飛び出す。

「ごめんなさい。そういう意味じゃなかったんですけど・・・」

私は酷い。お隣さんは何も悪くないのに、無様な自分を見られた恥ずかしさから、優しくしてくれる彼に八つ当たりしてしまうなんて。・・・最低だ。このまま別れたら、今後も気まずいままで付き合い辛くなってしまう。私は思い切って頭を下げた。

「ごめんなさい!心配して下さってるのに。ちょっと気持ちが動転してて・・・」

再び歩き始めた私に歩調を合わせて、お隣さんもゆっくり歩く。しかしそのお隣さんの顔が、まだいつもみたいな笑顔には戻らない。だから私は、ご機嫌を取る様に話し掛けた。

「連休、満喫してますか?」

「はい」

少し、お隣さんに笑顔が差す。

「旅行、楽しかったですか?」

お隣さんが更に笑顔になった。やはり大好きな彼女の力は絶大だ。私にとっては自虐的な話題だけれど、これで彼に笑顔が戻るなら構わない。そんな気持ちで、私はその話題に触れた。

「結構日焼け、しましたよね?」

あははははとお隣さんは笑った。ようやく私の胸がホッとした。

 

 部屋に入って、私は姿見の前で腰を見る。さっき転んだ時に、打った跡がないかを確認する為だ。実は足を動かす度に痛む。ただの尻もちならいいけれど、腰を回してみたり、足の付け根をぐるぐる回してみたりする。やはり痛い。でも、どこが原因かは分からない。気休め程度に、腰の辺りに今晩お風呂上りに湿布薬を貼る羽目になりそうだ。

 さっき買ってきた大量の保存食の中から、今日はカップ焼きそばを選ぶ。少しだけやかんにお湯を入れて、湧くのをじっと見つめる。その時、インターホンが鳴った。

「堀之内です」

さっき会ったばかりで何だろう?・・・そんな複雑な感情を抱えて、私は玄関に顔を出した。

「さっきは・・・本当にすみませんでした。考えてみたら、前触れもなく急に暗がりで後ろから男の声がしたら、驚いて当然ですよね」

「いえ・・・私もぼんやりしてたから・・・。驚き過ぎですよね」

「転んだ時・・・どっか打ったりしてないですか?」

私は痛みをはぐらかす様に笑った。

「大丈夫です。かえってご心配お掛けしちゃって・・・」

お隣さんはつられて笑いはしなかった。

「さっき・・・歩き方が少し・・・気になったので」

見ていない様で 意外に見てるんだ、この人。

「もし病院とか掛かるんだったら、治療費お支払いしますので」

「そんな、大袈裟な!ただ尻もちついただけです」

その時、火にかけていたやかんがピーっと音を立ててお湯が沸いた事を知らせる。

「あ・・・火使ってたので、ごめんなさい。わざわざ ありがとうございました」

半ば強引に話を打ち切って、玄関を締めた。心配してわざわざもう一度訪ねてきてくれたのに・・・。私は嫌な自分を噛んで飲み込んで忘れてしまえる様に、焼きそばを口いっぱいに頬張った。


 仕事から帰ると、今日はお隣が賑やかだ。テレビも何もつけないでいると、時々笑い声が聞こえてくる。お友達が集まっているみたいだ。ここ一週間程、私は息が詰まる様な暮らしをしてる一方で、お隣さんはお盆休みを満喫している。彼女と旅行に行ったり、お友達と集まって過ごしたり。・・・私は慌ててテレビをつけた。馬鹿みたいだ。人と比べたって仕方のない事なのに。


 月曜日の朝 玄関を出ると、お隣さんとバッタリタイミングが合う。

「あ・・・おはようございます」

いつもの様にゴミを出して 同じ駅の方向に歩くから、当然同じ歩調になる。何となく気まずさを残した空気が薄っすら漂っているから、私はお隣さんに話し掛けた。

「今日からですね、また 仕事」

「そうですよぉ。休みボケした頭を覚ます為に、今日は一本早いので行こうと思って」

思ったよりも明るい会話が返ってきて、ほんの僅かに私の胸のつかえが下りる。

「朝のジョギング、続いてますか?」

「もちろん。・・・あ、一緒に走ります?気持ちがいいですよ」

「え?!いや・・・まさか、まさか」

私が慌ててそれを断ると、お隣さんは顔を空に向けて笑った。この笑い声、何だか凄く久し振りに感じる。するとお隣さんが思いがけない事を言った。

「亜弥さんの笑顔、久し振りに見た気がします」

それはきっとあなたが笑ってくれたから・・・って、まさか言えないけど・・・。だけど、つくづく思う。この人がこういう事をサラッと言えるのは、きっと変な計算とか下心が無いからなんだろう。ネイルを褒められた時のくすぐったい気持ちをふっと思い出してしまった私は、急にカッと顔が熱くなるのを感じて額の汗を拭いてごまかした。

「自転車通勤、本気で考えてるんですよねぇ・・・」

お隣さんのその言葉で、さっきまで明るかった心に影が落ちる。

「色んな事へのやる気がみなぎってるのが、伝わってきます」

「そうですか?」

そんな風に言いながらも、やっぱり嬉しそうだ。

「これも、恋の力ですかね?」

私の質問が良くなかったのかもしれないけれど、お隣さんがさっきよりも更に嬉しそうに照れ笑いをするから、眩しくて目を逸らしたくなる。一人暮らしを始めて、好きだった子と付き合える事になって、楽しい連休を満喫して・・・。朝ジョギングを始めてみたり、自転車通勤を始めようと思えたり・・・好きな人の力って凄い。色んな事にチャレンジするエネルギーをくれる。いや・・・自分の将来がどんな色にでも染められる様な力が湧いてくるんだ、きっと。遠い昔に封印した筈の気持ちに、ふと懐かしさを覚えた瞬間、お隣さんの声が耳に滑り込んでくる。

「そういえば、この間頂いた野菜、すっごく美味しかったです。ご馳走様でした」

それを聞いて、私も思い出す。

「あっ、私の方こそ、お土産美味しく頂きました。お礼が遅くなっちゃって・・・」

「食べてくれました?」

「はい。頂いた次の日の朝ご飯に」

「美味しかったでしょう?」

「はい」

「そうなんですよぉ。こっちで普通にスーパーで売ってるヤツと何か違ってて。あ、泊まったホテルの朝ご飯で食べたんですけどね。あまりに美味しいから、お土産で売ってないのか聞いたんです。そしたら、ありますよって」

その時 お隣さんがどんな笑顔をしたか、想像がつく。ついでに、彼女と『美味しいね』って見つめ合って、これ以上ない位幸せな時間を過ごしたんだって事、目に浮かぶようだ。

「本当・・・美味しかったです」

声が無理してるって、どうか気付かれません様に・・・。そんな事で私が頭をいっぱいにしている間も、お隣さんの明るい声は続く。

「頂いた野菜、全部美味しく頂きました。揚げ茄子ともろキュウと、ミョウガは天ぷらにして食べました」

そのメニューを聞いて、また私の声が上ずってしまいそうになる。

「彼女に手料理、作ってもらったんですか?」

「友達が家に遊びに来て。そん中に料理上手な奴がいて、作ってくれました。皆で酒のあてに美味しく頂きました」

「そう言って頂くと、父も喜ぶと思います」

「正直、ミョウガなんて自分じゃ買わないですから」

「そうですよね」

「実家に居た頃以来かな?まともに食べたの」

思わず私が笑ってしまったから、お隣さんも口元を緩めた。

その後、電車に揺られながら思う。こんなに穏やかな気持ちで乗る通勤電車は、久し振りだ。もしかしたら、私にも平穏な日常が戻ってきたのかもしれない。・・・そんな期待を抱いた朝だった。


少しだけ緊張から解放された足取りで、会社帰りの私は家に向かう。あんなに怯えて過ごしたけれど、あの男が家の前に現れたのは、一週間の内に一回だったから、そうそう毎日の様にビクビクする必要ないんじゃない?私はそう自分に言い聞かせる内に 段々そんな気持ちになってきて、背筋を伸ばして顔を上げた。

すると、マンションの前にひっそりと佇む一人の男の影。まるで影を消す様に立っている。私の体は一気に全身に電気が走ったみたいに硬直して、無理矢理自分の体の向きを180度変えた。もつれそうになる足を必死で動かして、駅前まで逃げてくる。姿に気付かれて追われていない事にホッと胸を撫で下ろして、とりあえずコンビニに避難する。でも間違っても今日は、外から見える雑誌コーナーには近寄らない。私は、奥の 人目につかなさそうな場所でウロウロ客のふりをする。一体いつまでここでウロウロしていればいいんだろう。今日私は、家に帰る事が出来るんだろうか?そんな不安を抱えて、気が遠くなる自分との戦いだ。冷凍食品のケースの前やパンの陳列棚の前で何度も何度も意味の無い往復を繰り返す。

「亜弥さん。また、会いましたね」

顔を上げると、お隣さんの優しい笑顔が、不安な私をほんの一瞬だけ癒す。

「あ・・・おかえりなさい」

「夕飯、買いに寄りました。亜弥さんもですか?」

「いえ・・・私は・・・」

そう否定しておきながら、何の代わりの言葉もない。うやむやになったその答えを諦めて、お隣さんは手に持ったお弁当を見ながら笑った。

「今日は何か甘い物も買おうかなって迷ってたんですけど、お薦めとかありますか?」

私の置かれてる切迫した状況とは対照的に、呑気な悩みだ。私が首を傾げると、お隣さんは言った。

「亜弥さん、甘い物あんまり食べませんか?」

「食べますけど・・・」

「今日は洋菓子の気分なんですよね~」

この呑気さが羨ましい。

「結構、期間限定とかってうたい文句に弱いんだよなぁ」

「それは分かる気、します」

「でしょう?その線で行くと・・・このゼリーが今は買いかな?とも思うんだけど、今日はもっとクリーム系の甘いのが食べたい気もするし」

スイーツ選びは女子を選ぶ基準に似てるって、どっかで聞いた事がある。この人、どっちを選ぶんだろう・・・。

「両方買えばいいのか!」

そう言って笑うお隣さんに、思わず私の口が滑る。

「両方?!」

「あ、駄目ですか?」

「いえ、別にダメって訳じゃ・・・」

「甘いの食べたら、さっぱり系も食べたくなる様な気がするし」

ますます屈折して聞こえてくる。

 レジから戻ってきたお隣さんが袋からエクレアを取り出して見せた。

「結局、これにしました。期間限定のゼリーは、また今度の機会にでも」

最後の最後で、一つに絞るんだぁ・・・そんな風に私は彼を見上げていると、不思議そうな顔で私を見つめ返した。

「亜弥さん・・・帰りますか?」

「あっ・・・私まだ・・・。どうぞお先に」

「え?!待ってますよ。せっかくだから、一緒に・・・」

「いえいえ。気にせずどうぞ」

やけに先に帰らせようとする私に、お隣さんハッとした顔つきになる。

「誰かと待ち合わせですか?」

「いえ・・・そんなんじゃないです、全然」

「じゃ・・・」

一体ここで何してるんだ?って言いたいんでしょ?お隣さんの声が聞こえる様だ。

「まだ・・・帰らないんで、本当私の事気にしないで先行って下さい」

暫く考えてから、お隣さんは口を開いた。

「一緒だと、迷惑ですか?」

一番失礼な勘違いをさせてしまう。これが一番、私には悲しい。だから私の心が、そんな悲しさに背中を押された。

「あの・・・ちょっと聞いてもらっても・・・いいですか?」


 店を出て、閉店したパン屋の前に置かれたベンチに腰かけて、私は先日のストーカーの一件を話した。

「さっき家の前に又いて・・・。だからここまで逃げてきたんです」

「追いかけてきました?」

「いえ・・・多分、気付かれずに済んだと思います」

それを聞いて、暫くしてお隣さんはすくっと立ち上がった。

「僕、はっきり言ってやりますよ、そいつに」

「迷惑じゃ・・・」

お隣さんは、私の言葉なんか聞かずに続けた。

「相手の出方次第では、警察に届け出ましょう。僕、一緒に行くんで」

マンションに向かう道中で、私は半歩後ろを歩きながらボソッと声を掛けた。

「こんな事に巻き込んで・・・すみません」

「何言ってんですか!“こんな事”じゃないですよ。逆に、“こんな重大な事”なんで早く言ってくれなかったんですかぁ!何か起こってからじゃ遅いんですよ」

マンションが近付くにつれ、私の心臓が早くなるのが分かる。そして足どりも重たくなる。

 しかし、男の姿はなかった。マンションの前で立ち止まってキョロキョロするお隣さん。

「・・・います?」

「・・・いえ・・・」

辺りを見回しても、さっき見た男は居なくなっていた。

「でもさっきはここに居て・・・」

「ま、良かったですね、とりあえずは」

にっこり笑うお隣さんと共にエントランスを入る。玄関の前に来て、私はもう一度頭を下げた。

「お騒がせして・・・すみませんでした」

「また、いつでも言って下さい」


 部屋に入ってから何度か窓の外を覗いてみるが、あの男の影はない。帰りにマンションの前で見掛けた事すら、自分でも半分信じられなくなってきていた。私は宇田川紅愛に電話をかけた。

「怖っ!何それ」

開口一番、紅愛はそう叫んだ。

「変態、変態。そいつ」

紅愛は思った事を思ったままに口にする。

「でね、お隣さんにバッタリ駅前で会ったから、事情説明して一緒に帰ってもらったら・・・もう居なくてさ」

「何それ。とうとう幻覚見えちゃった?」

「いや・・・初めは多分本当にマンションの前に居たと思うんだけどね」

「少し待って、あ~やが帰って来ないから諦めたのかな」

『どうしたらいいのかなぁ』・・・と言いかけたところだった。

「でもさ・・・」

紅愛が変な事を言い出す。

「ストーカーが居て家に帰れませんって言って、行ったらいなくて。それって『私だってまだストーカーされる位女として魅力あるんですよ』アピールに聞こえないかなぁ」

「え?!」

「だって、本当にストーカーが居たかも分かんないんだし、お隣さんが目撃した訳でもないんだから、こっちの作り話と思われてもおかしくないじゃない?」

「作り話?!・・・そんな風に思う・・・?」

「丸ごと信じてくれる程 純粋な人ばっかりじゃないからねぇ。人によっちゃ、そういううがった見方される事もあるって事」

私の頭の中で、マンションに戻ってきた時のお隣さんの表情を思い出してみる。私の話を疑った顔には、どうしても思えない。

「お隣さん・・・そんな風には・・・」

「ま、あ~やがそう思うんならいいんじゃない?きっと、純粋で親切な好青年なんだろうし」

「何よ、その言い方」

「いやいや、止めませんよ~私は。せっかく冬眠から目覚めたあ~やに水差すような事したくないし」


 紅愛に言われた言葉が心に重い。

『私だってまだストーカーされる位女として魅力あるんですよアピールに聞こえないかなぁ』

私のした話を信じてもらえていなかったら・・・そんな風に思われてしまっているのだろうか。実際、待ち伏せしてると言った男はいなかった訳だし、紅愛の言った通り、そんな風に思われていたら恥ずかしい。

 次の朝、お隣さんが玄関から出てくるのを待つ。私も玄関の中で待っていて、お隣の音がしたら偶然を装って同時にドアを出よう・・・そんな事を考えていた。

ガチャ・・・

私は思い切ってドアを開けた。

「あ、おはようございます」

お隣さんはいつもの笑顔だ。

「昨日は、ありがとうございました」

「いえ、僕は何も」

「あの・・・」

「はい?」

朝の忙しい時間にもたもたしてるから、お隣さんが戸惑っているのが分かる。

「あ・・・歩きながらで・・・」

駅までの道をいつものペースで歩きながらも、お隣さんが私の様子を気に掛ける。

「あの後・・・何かありました?」

「いえ、そうじゃなくて・・・。昨日は一緒に帰って頂いた時はもう居ませんでしたけど、その前は本当に入り口に立ってて・・・」

「はい・・・」

「何ていうか・・・その・・・変な意味とか・・・そういうのではなくて・・・」

支離滅裂とは、きっとこういう事を言うのだろう。お隣さんはすっかりぽか~んとしてしまっている。そして私の意味の分からない言葉の羅列を聞き終えると、ゆっくりとした口調で言った。

「僕の事は気にしないで大丈夫なんで、また困ったらいつでも声掛けて下さい。女性の一人暮らしは、何かと不安な事多いでしょうし」

女性・・・私の事、一応女性と思ってくれてるんだな・・・。また勝手に心をほっこりさせる単純な私だ。しかし、それに輪をかける様に、お隣さんは私に言った。

「連絡先・・・教えてもらってもいいですか?」

え?!私の心臓が年甲斐もなく こんな事で高鳴っていく。

「はい・・・」

「帰り、もし同じ様な時間になる時は、駅からご一緒しますよ」


 思いがけない展開に、正直戸惑っている私自身がいる。これからは毎日でもお隣さんと連絡が取れる。そして上手くいけば、駅で待ち合わせして一緒に帰ってくる事ができるのだ。まるで高校生が学校帰り好きな人と一緒に帰るのにわくわくしているみたいだ。だけど、あらかじめ自分に言い聞かせておこう。もし万が一一緒に帰れる時がなくても、がっかりしないでおこうって。


 でも、そんな心配、必要なかったみたいだ。その日の夕方お隣さんからメッセージが届く。

『今日は8時頃駅に着きます。亜弥さんはどうですか?』

『私も丁度、その位になりそうです』

『じゃ、コンビニで待ち合わせにしましょう』


 仕事を定時で終えて、新宿の本屋で時間を潰す。8時まで、暫く時間がある。この感じ、なんだか凄く懐かしい。ただ駅で待ち合わせして一緒に帰るだけなのに、私ったら何をこんなに心躍らせているんだろう。紅愛が言ってたみたいに、私の話を疑って信じない様な人でもなかった上に、親身になって心配してくれて、帰り道一緒に帰りましょうなんて言ってくれる優しさを持ち合わせた人だ。私の心がどこまでも高く浮かれていくのが分かる。


 コンビニでお隣さんに会うなり、私は深く頭を下げた。

「わざわざ、すみません。でも・・・凄く心強いです」

お隣さんがにっこり微笑んでくれる・・・これだけで、幸せだ。

「今日は残業ですか?」

お隣さんからの質問に、私は一瞬胸の奥がチクッとする。

「いえ・・・今日はちょっと寄る所があって・・・。龍君は?残業?」

龍君という呼び名、口に出したのは これで二回目だ。慣れないからぎこちなく感じる。でもお隣さんは当たり前の様に話を続けた。

「営業だから、相手の時間に合わせて動く事が多いんで・・・どうしても」

「あ、じゃぁ、夕飯まだですか?」

 

 私達は三ちゃん麺に立ち寄って、ビールを飲む。いいんだろうか?この間までは怖くて怯えていた帰り道が、今はこんなに楽しい時間となっている。

「こういう事って、今までもありますか?」

「え?!」

私が同じマンションの人を 今までもこんなに風に誘って 親しくお付き合いしていると思われたんだろうか。だとしたら、早く誤解を解かなくちゃ・・・そんな焦りが私の中に生まれた頃、お隣さんの言葉は続いた。

「実際身近にいるんですね~、ストーカーって」

あ、あの男の事か・・・。私は少しホッとする。

「私も、こんな事初めてです。でも・・・こうして一緒に帰ってもらえるの・・・本当心強いです」

すると、お隣さんのにっこり笑った顔がたちまち真顔に戻る。

「毎日って訳にはいかないですけど」

「そりゃ、もう当然・・・」

少し浮かれていた自分を戒められた気分だ。どんよりしそうな空気にお隣さんが明るい話題を提供する。

「ここのラーメン、替え玉頼んだ事あります?」

「いえ・・・」

「意外に食べられちゃうんですよ、女性でも」

そうだ。初めてお隣さんをこの店で見掛けた時、確か女の子のお友達が『半分こ』って言ったのに、結局食べられちゃったって会話をしていたのを思い出す。あの時お隣さんが嬉しそうに呼んでいた名前と、先日ベランダで偶然聞いてしまった告白の時に呼んだ名前が同じだった様な・・・そんな記憶がぼんやり蘇る。

「僕の彼女も、初めは『半分ずつしよう』なんて言ってたのに、結局全部食べられたし」

「へぇ~」

私の笑顔が引きつっていないか自信がない。

「細麺だから、つい入っちゃうって」

お隣さんは彼女の話をしている時が、何より嬉しそうだ。私はお隣さんがこんな顔でこんな話をするのを聞く為に、ここに入ったんじゃない。私はほんのついさっきまで浮かれていた自分を後悔した。

「お父さん、趣味で畑されてるって。他にどんな野菜作ってるんですか?」

「大根とか小松菜とか。あっ、落花生も数年前から始めてます」

「落花生?やっぱ千葉ですねぇ」

「茹でて食べた事あります?」

「茹でるんですか?」

「はい。渋皮ごと食べられます」

「へぇ~、初めて聞きました」

「じゃ・・・時期になって送ってきたら・・・」

「楽しみにしてます」

お隣さんの笑顔を見ながら、私がビールを飲み終わった頃、テーブルにラーメンが届いた。


 店を出て、再びマンションへの道を歩き出す。お隣さんと一緒といえども、やはり家の周辺に近付いてくると警戒心がむき出しになる。

「誰も・・・いなさそうですね」

「・・・はい」

「僕、この周り少し見てきましょうか?」

「いえ・・・大丈夫です」

お隣さんは私をじっと見てから言った。

「亜弥さんは、先入ってて下さい。僕ちょっと見てから上がります」

エントランスを入ってエレベーターの前で、私はお隣さんが何事もなく戻って来るのを願って、暫し待つ。

「誰もいませんでした」

「ありがとうございました、わざわざ」

エレベーターに乗り込みながら、私の耳の奥で再び紅愛の言葉が聞こえる。

『私だってまだストーカーされる位女の魅力ありますよアピール』に思われたらどうしよう・・・。

「あの・・・」

「はい?」

「その・・・男の人、たしかスーツ着て・・・リュック背負ってました」

「サラリーマンですかね。いくつ位の男でした?」

「・・・20代・・・半ば位かな」

「僕と同じ位か・・・」

「おかしいですよね・・・」

そこでエレベーターが4階に着く。エレベーターから降りながら、お隣さんは私を振り返りながら聞いた。

「何がですか?」

「だって・・・20代の若い男の子が私みたいな・・・。どういう趣味してるんですかね?」

私は笑ってごまかすと、鞄から鍵を取り出して話を打ち切りにした。

「今日はお付き合い頂いて、本当にありがとうございました。安心して、家まで帰ってくる事ができました」

「また、時間が合えば、一緒に帰りましょう」


 お隣さんが最後に残した爽やかな笑顔のお陰で、今日は大分気持ちが軽い。久し振りに家の中でテレビをつけないでもいられる位、精神的に安定している。会社帰りに待ち合わせして、大した距離でもない家までの道、楽しくお喋りして、途中のラーメン屋さんでビール飲んで一緒に麺をすすって。私の自分勝手な妄想だけど、これだってデートだ。いや、もちろん向こうはそうは思っていないけれど、内容だけ見たら 立派なデートだ。時々お隣さんは嬉しそうに彼女の話を聞かせてくれたけれど、それを除けば充分な内容だ。かえって今の私の身の丈に合っているのかもしれない。正直 彼女には申し訳ないけれど、これ位は勘弁して多目に見てもらいたい。手の届かない人に恋をして、その人との僅かな接点だけで一日中幸せに過ごせる子供の頃みたいな淡い恋心に、きっと天罰は下らないと信じたい。自分のものにしたいとか、略奪愛とか、そういった欲は一切ないのだから、きっと・・・きっと もう少しの間だけでも私に夢を見させてくれるに違いない。

 お風呂上り、カーテンの隙間から外を覗く。今日もあの男はいない。私は窓をそっと開けてみる。すると夜風がすっと舞い込んで、湯上りの火照った体を心地良く通り過ぎていった。私は念の為部屋の電気を消して、その開け放った窓から入るサラッとした夜風を楽しむ事にした。窓に背を向け、床に腰を下ろした。濡れた髪が風になびく度に、シャンプーの香りに癒される。久し振りに味わう解放感だ。

その時、お隣の窓がガラガラッと開く音がした。

「来週?」

お隣さんの声が聞こえる。・・・誰かと話している。でも相手の声が聞こえないから、それが電話だとすぐ分かる。

「日曜日ね。いいよ、行こう。真央ちん、浴衣着て来てよ~」

楽しそうな話し声に、やはり私の心が瞬間的に閉じるのを感じる。

「花火大会に手繋いで浴衣デートするの、夢だった」

お隣さんのプライベートな一面が垣間見える。へぇ~、好きな人には こんな甘えた言い方するんだぁ。私は寄り掛かっていた窓を、そっと閉めた。


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