第4話
4.
お休みの日の午前中、実家から荷物が届く。開けると中からは、父が畑で作ったナスやトマトやミョウガが入っている。形はスーパーで売っているみたいに格好は良くないけれど、箱を開けた途端に広がる土や青臭い香りから、父の嬉しそうに手入れする姿が目に浮かんで、一瞬でもほっこりした気持ちになる。
「お野菜ありがとう」
父に電話をすると、嬉しそうな声が返ってくる。
「今年はなすがちょっと小せぇけど、味は美味いから」
「腰、平気?」
「まぁ、もう職業病だわ。働けるだけ有り難てぇと思ってるよ。お前も体には気を付けて頑張んだぞ」
私の心がほんの少し元気になった気がする。
形の良さそうなのを幾つか紙袋に入れて、私は玄関でもう一度考える。
『実家の父が作った野菜です。良かったら召し上がって下さい』
『沢山送ってきて・・・お裾分けです』
色んな台詞が、頭の中で勝手にシミュレーションを繰り広げる。もう一度紙袋の中身を確認する。トマトはそのまま食べられるけれど、なすは自炊しない人には必要ないか?ミョウガも好き嫌いがあるし、薬味的な扱いだから 尚の事喜ばれる可能性よりも 貰って困る可能性の方が高い様に感じる。私はキッチンに紙袋を残して、部屋に戻った。
昼を過ぎた頃、もう一度紙袋を眺める。玄関を出ればすぐの距離の筈が、やけに遠く感じる。すると玄関の外から 少し賑やかな声が聞こえる。誰か数人 玄関の前を通った様だ。その声と足音は 隣の玄関の前で止まる。静かになるまで玄関でじっと身を潜めてから、私はその野菜の入った紙袋を 再びキッチンに戻した。
なんだか少し拍子抜けした私がベッドにごろんと横になると、隣の部屋から楽しそうな笑い声が微かに聞こえてくる。私は慌てて、テレビのリモコンでスイッチを入れた。チャンネルを次々変えてみるが、どの番組もしっくりこない。私は思い切って起き上がり、財布だけ持って玄関を出た。
借りてきたDVD三枚を立て続けに見終わった頃、外はもう真っ暗だ。夕飯も食べずに見続けていたけれど、お菓子とコーヒーを気ままに口に運びながら観ていたから、そう空腹感はない。恐る恐るテレビを消すが、意外にも隣の部屋での賑やかさはない。少しホッとしたのも束の間、ベランダに干していた洗濯物を慌てて取り込もうと窓を開けると、お隣さんの方から小さな声がする。
「意外にここから月が見えたりするんだよね~」
「本当、ここ良い部屋だよね~。な~んか、ついつい落ち着いちゃう」
女の子の声がする。部屋から音がしないと思ったら、ベランダに出てたんだ・・・。そんな事を思いながら、私の耳が勝手に聞き耳を立てる。
「真央ちんさ・・・」
お隣さんが多分その横にいると思われる“真央ちん”と呼ばれる女の子に好意を持っている事くらい、声の感じで伝わる。私と話している時とは、何か違う周波数を感知する。
「分かってるとは思うんだけど・・・好きです。付き合って下さい」
まさか人の告白の瞬間を盗み聞きしてしまうなんて・・・。私は罪悪感を胸いっぱいに抱えて、固まる。洗濯物を取り込む事も、部屋に戻る事も出来ない。一歩でも動いたら、この前みたいに私の気配に気が付かれて二人の邪魔をしてしまうかもしれないから。でもここに居たら、その答えを聞く羽目になってしまう。出来れば避けたいところだが、一歩も動けない現状を考えると、見届ける事になりそうだと また諦めた頃、いじらしい程可愛らしく小さな彼女の声がする。
「うん」
「本当?いいの?」
「私も、たっつぁんの事好き」
「よっしゃ~!」
お隣さんがあの弾ける様な笑顔でガッツポーズでもしているのが目に浮かぶ。またその隣から明るい笑い声が聞こえてくる。
「ねぇ、今度さ、海行こうよ」
「いいよ。どこの海?」
「湘南か九十九里か・・・本当は伊豆とかの方まで行けたらいいけど・・・」
「伊豆、いいね」
「でも日帰りだと・・・無理かな。車借りて朝早く出れば・・・行けない事もないか・・・」
「私はどっちでもいいよ。せっかく伊豆まで行くんなら泊まりでゆっくり行きたい気もするし」
「マジで?!じゃ、そうしよう。決まり!」
付き合うって決まったと同時に旅行の約束まで出来るって、やっぱり若さだろうか。私の中の感覚にはない。いや、でもお互いずっとずっと好きだった人なんだったら、それも有りか。私がぼんやりそんな事を考えていると、気が付けば隣は静かだ。もう部屋に戻ったのかな?と思っていると、隣からザザッと少し床と靴の擦れる音がする。まだ仕切り板の向こうに、二人はいたのだ。付き合う事に決まったカップルが、海への旅行の約束までして盛り上がって・・・沈黙があるという事は・・・そういう事だ。そしてその後で囁く様なお隣さんの声が聞こえてくる。
「大好き」
「私も」
その途端、それまでじっとしていた私の体が勝手に動いて、窓をガラガラッとわざと音を立てて動かした。そしてせっせと洗濯物を取り込んで、私は部屋へと逃げ込む様に入ると窓を閉めてカーテンを引いた。
月曜の朝、私が玄関を出ると、またタイミングを合わせたかの様にお隣さんもゴミ袋を持って出てくる。
「おはようございます」
いつもの爽やかな笑顔が、今日は何故か私の心を苦しくする。同じ様にゴミ置き場にゴミを捨てて、駅への道を歩調を合わせて歩く。いつも以上にお隣さんの足取りが軽やかに感じるのは気のせいだろうか。
「お盆休み、何か予定立ててますか?」
お隣さんが嬉しそうに そう質問する。楽しみな夏の予定が急に出来たんだから、そりゃあ お休みが待ち遠しいに違いない。
「いえ・・・特には」
普通はここで『そちらは?』とか聞くんだろうけど、気が進まない。だって知っているから。だから私は別の質問でごまかす。
「高知のご実家、帰られるんですか?」
「あ~、今んとこ予定してません。飛行機、高い時期なんで」
「ですよね~」
「亜弥さんは?ご実家どちらですか?」
「千葉です。いつでも帰れるから、私は」
「千葉かぁ。海の方ですか?」
昨日彼女とベランダで夏の予定を立てている会話が思い出されてしまう。
「違います。佐倉市って・・・分かります?成田空港の少し手前っていうか・・・」
思わず『九十九里浜の方じゃありませんよ』なんて余計な事を言いそうになる。だからその口を塞ぐように、別の質問を当てがった。
「お盆の週ですか?お休み」
「はい。ガッツリ9日間です!」
「嬉しそうですね」
あまりに嬉しそうにそう答えるから、私も思わずそう相槌を打ってしまう。
「はい。楽しみです」
当然の如く、こういう流れになる。その笑顔が無邪気過ぎて、私の心は反比例して重たくなる。
「そんなに嬉しそうに見えます?」
「はい。かなり」
『いやぁ~、参ったなぁ』と聞こえてきそうな顔で照れるから、私はすぐに会話の方向を変換した。
「そりゃ9日間の連休なんて、滅多にないですもんね。それに比べて私は5日間で、その内お墓参りだの 学生時代の友達で会うだの、ちょこちょこっとした予定が飛び石で入ってるから、なかなかまとまった予定入れられなくて・・・」
思いつきでそこまで喋って、しまった!と気付く。『まとまった予定』なんていうフレーズを使ったら、会話の方向を変えた努力が水の泡になる。でも今更口から出てしまった言葉を引っ込める事は出来ない。しかし、そんな心配とは違う方向に、お隣さんはその会話を拾った。
「お墓参りかぁ。・・・あれ?お盆って、ご先祖様はお墓に居ないんじゃなかったでしたっけ?」
「お盆の入りと明けです、行くのは。あとはお家に帰ってきてるって言いますよね」
「暫く行ってないなぁ、婆ちゃんの墓参り。仏壇に手合わせて、それで毎回良い様な気になってました」
話が違う方向へ逸れてくれて、正直ほっとしている私だ。
改札を入って 私は新宿方面に向かって一人になると、さっきホッとした自分に少々首を傾げる。土曜の夜、偶然とはいえ 他人の告白の瞬間を盗み聞きしてしまった私は、やはり悪趣味だ。もちろん意図的ではないけれど、お隣さんと話していても 何となく罪悪感が拭い去れない。だから、きっとその話題に触れて欲しくなかったのだろう。何も知らないフリを上手に演じきれるか分からなかったから。
「お盆休み、帰ってくる?」
母からの電話だ。こっちは一日仕事して帰ってきて、疲れてボケーッとテレビを見ている時に、母の弾むような声が少しかったるく感じる親不孝な私だ。
「こっちは皆14日に集まろうって事になったんだけど、来られる?」
『こっち』・・・母の言う『こっち』は自分達夫婦と兄家族5人の事を指している。毎回この言葉を聞く度に、疎外感を感じる。でも友達には、
『お母さんとお嫁さんが上手くやってくれてるだけでも有り難いじゃない。ここでいざこざがあると、必ず母親は娘に拠り所を求めてくるからさ。親の期待とか やりたがり口出したがりなとことか、そういう面倒な事全部お嫁さんが引き受けてくれて、助かってるじゃない』
なんて言われる。分かってる。だから感謝もしてるけど、ちょっとヘソを曲げたい我儘な自分が時々頭をもたげてくるだけだ。それに母の言う『こっち』に、きっと深い意味なんかない。『こっちに住んでる家族』って意味だ。それ位は分かってる。でも・・・。
「14日かぁ・・・。行けそうだったら 連絡する」
甥っ子や姪っ子達は可愛い。会えば懐いてきてくれる。家族が集まれば、やはりその中でアイドルは子供達だ。無邪気に遊びまわる姿を見ながら、終始子供達の話題でもちきりとなる。それが決して嫌な訳ではないけれど、もう一生自分の子供を産む事も育てる事もないんだろうなぁと思うと、無性に切ない気持ちになってしまうのだ。皆でワイワイやっている時は平気なのに、帰り一人になった途端に襲われる空虚感が半端ない。それが正直しんどいのだ。
「そういえば、この間送った野菜、食べた?」
「うん、ありがとう」
「美味しかったでしょう?トマトは何にもつけない方が味が良くわかるし、ナスは味噌汁でも味噌炒めでもいいし、ミョウガはそうめんの薬味にでもするといいから」
「うん、そうだね」
一体いくつの娘に説明しているつもりなんだろう?もう40近い 一人暮らししてる娘に、いちいちナスやミョウガの食べ方を説明するか?
「ナスとみょうがで煮浸しみたいにしても美味しいよ。ちょっと鷹の爪入れてね」
「わかったよ」
「あっ、この間ね、裕子ちゃんがナスの素揚げしたのに中華ドレッシングかけたの持って来てくれたの。それも簡単で美味しいから、やってみたら?」
「はい、はい。やってみるよ」
母との会話の中にお嫁さんの“裕子ちゃん”が登場しない時はない。それだけ普段密な付き合いをしてくれているのだろう。感謝だ。お兄ちゃんの話題は殆ど出てきた試しがないのに、お嫁さんと孫達の話になると止まらなくなる。だから私は、いつも適当な頃合いを見て電話を切るのだ。
冷蔵庫の野菜室を開ける。この間お隣さんにお裾分けしようとした紙袋が、そのまま入っている。私はそれを手に取って、玄関を出た。
堀之内と書かれた表札を見ながら、二回チャイムを鳴らす。しかし居ない。私は紙袋を持って家へと引き返した。まだ8時だ。月末近くなって、営業の仕事も追い込みなのかもしれない。私は玄関に紙袋を置いて、次の機会を待つ事にした。
テレビを見てるとあっという間に時間が過ぎる。特別見たい番組じゃなくたって、いくらでもBGM的な扱いで 邪魔せず存在する。気付けば9時半を回っているから、私はもう一度お隣さんを訪ねる事にした。
まだ帰宅していないお隣さんから戻ると、私はテレビを消してみる。し~んと静まり返っていて、何の音もしない。時々コトコトッと音がするが、それは上の階からの床の物音だ。お隣さんに野菜を届けるのは明日にしようと、私はお風呂のスイッチを入れた。
次の日も又その次の日も、私はお隣さんを訪ねる。しかし毎日9時を回っても物音がしない。私がベッドに入る12時頃にようやく物音が聞こえてくる。あ~、そうか。彼女は会社の同期だと言っていたっけ。毎日仕事の後にデートして 帰宅するんだ。あの晩のベランダでのやり取りを思い出すと、二人共前からお互いを思い合っていた様だから、きっと思いが通じた嬉しさで、急激に距離が縮まっているのだろう。毎日会社で顔を合わせ、仕事の後のデートの約束を胸に一日楽しく仕事をこなして、終わった後二人で食事や楽しい会話をしながら愛おしい時間を過ごす。お互いに、まだもうちょっと一緒にいたいなって気持ちを感じ取って、きっと毎日遅くなってしまうんだろう。朝もめっきり会わなくなってしまったのは、夜遅くて朝起きられないのか・・・それとも、早くに駅で待ち合わせなんかして、どっかでモーニングを一緒に食べたりしてるのかもしれない。懐かしい様な20代の頃の恋愛。ただのお隣さんの筈なのに、そんな他人の 部屋に居ない時の想像まで勝手に膨らませて、私ったら悪趣味なアラフォーだ。
今日も日差しが強い。朝から容赦なく照り付ける太陽から逃れる様に、足早に駅までの道を急ぐ。
「亜弥さん、歩くの意外と早いですね」
後ろからそう声を掛けられ、振り返るとお隣さんが笑っている。
「おはようございます」
「急いでました?」
「いえ・・・つい暑いから、早く日陰に辿り着きたくて」
そのバカみたいな理由に、彼はいつもの無邪気な笑顔をいっぱいに広げて笑った。
「結構早くから見つけてたんですけど、ヒールなのに意外と早くて・・・最後本気出して歩いちゃいました」
私に追いつく為に・・・?朝からそこまでする?素朴な疑問を脇に置いて、私は別の言葉で間を繋ぐ。
「久し振りですね、朝会うの」
「最近、一本遅い電車にしたんで」
なるほど。納得だ。思わず無意識の内に、私の頷きが大きくなって口から要らぬ言葉が零れた。
「帰りも遅いみたいで・・・」
お隣さんが少しぽか~んとした表情になって初めて、私は自分の失態に気付く。
「あ・・・いえ・・・別に変な意味じゃ・・・」
こういう時 慌てるから、却って可笑しな誤解を生むのに、なんでしどろもどろになってしまうんだろう。さっきから、ちょっと気持ち悪がられている気がする。
「なんで知ってるかって言うと・・・ちょっと、何度か尋ねた時にお留守だったもので・・・」
「え?!うちに?何か・・・用事でした?」
「あ、そんな大した事じゃないんですけど・・・」
「また、シャワー壊れちゃったとか?」
「いえいえ。あれ以来、順調です、お陰様で」
野菜の事なんか話すつもりじゃなかったのに、もう言わないでは引っ込みがつかない状況になってしまっている。
「実家から野菜、送ってきまして・・・。あ、父が趣味でちっちゃな畑やってまして・・・ほんの味見程度ですけど、貰って頂こうかなと・・・」
急にまた顔が明るくなる。
「じゃ、今日帰ったら頂きに行きます」
「あ・・・もう、日が経っちゃってしなびちゃったので、すみません。またの機会に」
「あ・・・残念。すみませんでした。せっかく届けて頂いたのに」
「いえ・・・」
「ちなみに、何の野菜だったんですか?」
「トマトとナスとミョウガです。・・・自炊して食べます?野菜とか」
「あんまやらないけど・・・どれも好きです。トマトはそのまんま食べられるし、茄子の味噌汁とか好きです。あ、夏野菜のカレーに乗ってる揚げ茄子、好きです。ま・・・自分じゃ作らないですけど・・・。でも頂けば・・・喜んで食べます」
「自分で作って?」
「・・・いや・・・作ってもらって・・・かな?」
照れているお隣さんの顔を見る事も出来ず、私が言葉を詰まらせていると、彼は言った。
「この前話した好きな子と・・・付き合う事になりまして・・・」
来た!とうとう来てしまった、この瞬間が。私が恐れていた自然に驚くと言うリアクションが出来るかが問題だ。
「へぇ~、それは良かった」
わざとらしい。なんでこんなに下手くそなんだと思う位の棒読みだ。共に喜んでいる感じが全く伝わらない。
「なんか・・・すみません。朝からのろけ話みたいで」
私の不自然なリアクションなんかに気が付かない位、彼は今浮かれているみたいだ。照れた様にそう謝るお隣さんが、心なしか遠く感じた。
「さっき、朝の電車一本遅らせてるって言ったじゃないですか?最近、朝ちょっと早く起きて、ジョギング始めたんです」
「ジョギング?」
「体動かしたくて。でもジム通うとお金掛かっちゃうし」
「昔、陸上部だったって言ってましたもんね」
彼女と海に行く時までに体を仕上げるつもりなんだろうか。
「その内自転車買って、会社まで自転車通勤にしようかな・・・とか考えてます」
自転車通勤・・・。そうなったら、たまの朝のこの時間も無くなるという事だ。
仕事を終えて、いつもの駅からの帰り道、何となく重たい体を家まで運ぶ。偶然帰りに見掛けて 一緒にお弁当を買って帰った日。三ちゃん麺に食べに行った日。あの日は初めて体験したネイルを、サラリと褒めてくれた。急に止まらなくなったシャワーを、帰宅早々汗だくで直してくれた日。お礼のビールを偶然同じタイミングでベランダに出て、飲みながら話した日。この7年間、いつも同じ温度とリズムとサイクルで、一定の無菌室の様な暮らしをしてきたけれど、ここにきて急に偏西風みたいなのが吹いたから、眠っていた色々な物が引っ掻き回されて つい踊らされてしまった自分がいる。早く今までの様な落ち着きを取り戻さなくては。その為にはまず、じっと静かに動かない事だ。泥水も時間が経てば、また濁りが沈んで上澄みが現れる。そうすれば私はまた、その上澄みで暮らせるのだ。
「あ~やにとっての、その 底に沈んでる泥って元彼?」
同期入社の宇田川紅愛。9年前に寿退社してからも、ずっと何だかんだ繋がっている。営業2課の3歳年上のイケメンと結婚して、当時は社内の話題だった。9年経つ今、子供には恵まれないが、それなりに幸せそうだ。結婚して数年目までは妊活に力を入れていて、その時ヨガに目覚め、今はヨガのインストラクターにまでなってしまった人だ。
「別に引きずってるつもり、全然ないんだけど」
「もしかして、結婚話が駄目になった理由を勝手にあれこれほじくって、その後悔を消化できないまま そ~っとしてある、みたいな?」
まるで自分の頭の中をウソ発見器でもつけて見透かされている様だ。
「何かある度に、あ~あの時もこう言っちゃったな・・・とか、あの時ああしちゃったからフラれたのかな・・・とか?」
「誰にでも、そういうのあるでしょ?少し位」
私の口が尖がっているのが分かる。
「まぁ少し位ならね・・・」
ムキになった私を意味深にニヤッと見つめながら紅愛が言うから、私はこれ以上墓穴を掘らない様に口を結んだ。
「その泥を吐き出す作業しちゃった方が良くない?」
そんな簡単に出来るなら、とっくにやってるっつうの!と言いたい気持ちをぐっと抑える。
「それとも、それも思い出の一つとして 大事にとっておきたいわけ?」
「なわけっ・・・!」
チクチク痛い所を突いてくる感じ・・・煩わしいと思う反面、率直にこういう事を言ってくれる存在が 正直貴重だとも感じている。もしかしたら私は、紅愛にこう言って欲しくて、会う約束をしたのかもしれない。
「泥を吐き出すって・・・どうすればいいのよ?誰かに洗いざらい話す、とか?」
「そんな事したって、一時的なもんでしょ」
確かに。じゃ、どんな手があるというのか?
「その後悔とか傷とかを、一つ一つ塗り替えてくしかないよね・・・」
「一つ一つ?・・・塗り替えるって?」
抽象的過ぎて、具体策がピンとこない。紅愛はアイスコーヒーを一口飲んで、ニコッとした。
「恋して・・・昔の失敗の記憶を成功体験に塗り替えていくの」
恋・・・恋か・・・。紅愛の言葉を聞く前に 少しその答えに期待した自分が馬鹿げていたと知る。
「恋なんか、もう一生しないの」
「そうやって、自分に嘘つきながら これからも生きてくの?」
「嘘なんかついてないし!これ、本音だから」
またムキになってしまった。ムキになる様な事でもないのに・・・。紅愛が暫く目を合わさない。ちょっと棘のある言い方を反省していると、急に紅愛が顔を上げた。
「あ~やはもう、人生守りに入ってんだ?」
「・・・・・・」
「誰を守ってるの?」
「・・・・・・」
どうせ自分を守ってるなんて事、見透かされているに決まってる。
「一回切りの人生じゃない。どうせなら、自分以外の誰かを本気で愛して本気で守れる人になろうよ」
既婚者の余裕に聞こえる。綺麗事に聞こえる。どっかのドラマや映画のセリフみたいだ。私は感情のまま、吐き捨てる様に言った。
「青春映画の見過ぎじゃない?いつから熱血教師みたいな事言う様になった?」
「これ、私が言ってるんじゃないんだけど」
ん?紅愛の次の説明を待つ。だって、意味が分からないから。すると紅愛は、少し笑いながら私の目をじっと見た。
「あ~やが私に言った言葉ですけど?忘れた?」
「私が?!」
まさか。思わずそう言いそうになる。
「28か9くらいの時。私が前の彼氏と別れて、ちょっとやさぐれてた時。あ~やが私に掛けた言葉。忘れちゃった?」
そこまで具体的に言われちゃうと、もう反論の余地もない。ただ過去の自分がいかに“分かってなかったか”を思い知るだけだ。
「じゃ、10年経った今、それ取り消させてもらうわ。若気の至りだと思って、勘弁してくんない?」
「別に間違った事言ってないと思うよ、今だって」
「いやいやいや・・・」
「誰かを本気で守るって、家族でもいい訳だし」
家族か・・・。両親に守られてきた感謝はあるけれど、これからは親を守っていくっていう決意みたいなものはない。多分それは、お兄ちゃん夫婦の役目だと思ってるから。いや・・・違う。両親が、お兄ちゃん夫婦にその役を求めてると言った方が正しいかもしれない。お兄ちゃん、兄嫁さん、甥っ子や姪っ子。もしあの家族に何かあっても、きっと私の出番はない。きっと誰かが誰かの代わりをしながら、助け合って、守り合って暮らしていくのだと思う。
「私が守らなきゃ困る人なんて、いないもん」
「だから、そう思える人と出会える事を願って生きていけばいいんじゃない?」
結局そういう話に落ちが付くんだ。私が溜め息を吐くのを予測した様に、紅愛が口を開く。
「別に男じゃなくたっていいんだし」
そして付け足す。
「親でもいいし、会社の部下や後輩でもいい。自分以外の誰かの為に頑張れる人は強い。逆に・・・」
私はその接続詞にちょっと身構える。
「いつも誰かに守られるだけで、自分しか守るものが無い人って・・・やっぱいくつになっても幼稚だよ」
紅愛が言った『幼稚』という言葉が、元彼と別れた時と同じ位の落ち込みをもたらす。会社で課長と後輩達の間にいかにもな不協和音が起こらない様に 必死にご機嫌取りをしている自分は、誰かを守っているんじゃない。空気が悪くなるのが怖いだけだ。臆病な自分を守っているのだ。だから、そんな幼稚な私を、後輩達は頼りなく思うのだろう。
『はっきり言っちゃいません?皆迷惑してますって』
なんて、言われてしまう様だ。
気が付いてみると、最近 終業時間間際の課長の飲みの誘いがない。めっきり聞かなくなった。同時に、課長の元気も半減した様に感じる。皆黙々と仕事をして、自分達のペースで仕事を終えた順に退社していく。しかし決して全体の雰囲気が悪い訳ではない。仲の良い人達で時々気さくに笑い声なんかも発生したりして、ある意味 以前よりも皆リラックスして働きやすそうだ。
8月に入り、1日朝出勤してみると、一つデスクが増えている。
「おはようございます。今日からこちらの課に暫くお世話になります浅見と申します」
本社から一時的に配属になる巡視部長というやつだ。うちの会社では時々ある。人が足りない時や、大きなプロジェクトを抱えてる時、又は問題ありと上層部に映った時に、本社からテコ入れの為の人材が送り込まれるのだ。
なんとなくいつもと違う緊張感が漂う中で一日が過ぎて行く。私は、今日の仕事が一区切りついて そろそろ退社時間が近い事にホッとした頃、浅見が私のデスクに仕事を一つ持って近付いた。
「竹下さん。悪いんだけど、これ 至急で頼めるかな?」
「はい」
「もし、この後予定があるなら無理しないでいいけど」
「いえ、大丈夫です」
手に貰った書類を、順番にパソコンに打ち込む。夢中でパソコンに釘付けになっていたから、ちょっと一呼吸入れようと首を回して顔を上げると、もう皆殆どの社員が退社して居なくなっていた。辛うじて課長がまだ残っていたが、丁度鞄を持って席を立ちあがったところだ。
「先・・・失礼させてもらって、宜しいでしょうか?」
浅見の顔色を窺う様に課長がそう聞くと、浅見はさわやかな笑顔を向けた。
「こっちももうすぐ終わりますから、どうぞ気になさらずに。お疲れ様でした」
課長が出て行った後のドアがバタンと閉まる音がすると、浅見が立ち上がった。
「ごめんね、最後に面倒な仕事頼んじゃって」
「いえ。もうすぐ終わりますので。すみません」
私の手は、更にスピードを上げる。
「竹下さん。珈琲飲む?それともお茶派?」
お茶のセットの所で 慣れない手つきでカップを準備する浅見を見て、私は思わず慌てて椅子から腰を上げた。
「すみません、気が付かず。今、お淹れします」
「いいって。飲みたい人が飲みたい物を淹れる。それ、定着させましょうよ」
上司がお茶を自分で淹れてる姿は、実に落ち着かない。若者の世代には分からない感覚だろうけど。・・・ここにもジェネレーションギャップがあった。浅見をボケっと眺めながらそんな事を思っていると、鋭いツッコミで私は我に返る。
「ほら。手、止めないで」
カチャカチャカチャカチャキーボードを叩く音が再びBGMになった頃、浅見は私のデスクの隅っこにコーヒーを置いた。
「お疲れ様。ありがとう」
それだけ言うと、自分のデスクに戻ってパソコンとにらめっこの浅見だ。
「お待たせしました。出来ました」
浅見のパソコンに打ち込んだデータを転送する。そしてさっき受け取った書類の端を揃えて、私は浅見のデスクに持っていく。
「他に、何かありますか?」
「今日はもう充分。ご苦労さん」
私は一礼してデスクに戻る。パソコンを閉じてデスク周りを片付けて腰を伸ばすと、不意打ちで私のお腹がグーッと音を立てた。まさか何メートルかの距離、聞こえてはいまい・・・そう信じた希望は、次の浅見の言葉で呆気なく砕け散った。
「良かったら、飯一緒に行かない?」
このタイミングで急に食事の誘いという事は・・・そう思うと、今のが聞こえてしまった可能性に、心もそぞろになる。
「ホッとしたら、腹減っちゃって」
やはり、怪しい。聞こえたに違いない。
「新宿に美味しいステーキの店があるんだけど、どう?もちろん、無理にとは言わないけど」
「いえ。いや・・・はい」
「・・・え?!どっち?」
無理ではないです、の『いえ』と、お供しますの『はい』が混ざってしまって、混乱した返事となってしまう。
「是非・・・」
浅見が案内してくれたのは、新宿にあるステーキハウスだった。カウンターに座ると、目の前の鉄板で焼いてくれる高級店だ。いけないと分かっていながら、つい課長と比べてしまう。お手頃という美味しい赤ワインとコース料理なんか注文してくれて。正直、若い子達も こういうお誘いだったら、嫌がらず来るのかなぁ・・・なんて考えたてみたりする。
赤ワインのグラスで乾杯を済ませた後、浅見は言った。
「いっつもこんな店でご馳走する訳じゃないからね。今日は、急に仕事を頼んでやってもらったお礼と、これから暫くの間よろしくの意味を込めて、だから」
「ありがとうございます。仕事頼まれて、良かったです。得しちゃいました」
私が笑いながら言うと、その場の空気が 急に砕けた様に感じる。
「今度から仕事頼む度に『何のご飯付いてきます?』って聞かないでよ」
浅見もそう言って笑った。
「上司に こうやってたまに付き合う事、ある?」
「・・・まぁ・・・はい。たまに・・・」
そこまで言って 私は思い立って、伝えておこうと浅見の方へ少し体を向けた。
「でも・・・若い社員の子達は、こういうの一切行きません」
「へぇ~」
「勤務時間外まで なんで上司に付き合って、窮屈な時間過ごさなきゃならないんだ?って」
浅見ははっはっはっと笑った。
「竹下さんも、そう思ってる?」
「いえ・・・私は。社会人になった時から、こういうもんだって思ってきましたから。今の若い世代とは、感覚が違います」
「じゃ、若者の・・・その気持ち、理解できない?」
「そんな事ないです。大いに分かる気もします。でも・・・そこまではっきりとした態度も取れないのが、私の世代ですかね・・・」
「竹下さんも、苦労するねぇ」
そう言った後、浅見はワイングラスを静かに置きながら言った。
「竹下さんみたいな役の人、貴重だよねぇ」
「・・・え?」
「職場の温度を常に一定に保つ役っていうの?上司も立てながら、後輩達にも気持ち良く働いてもらえる職場作りって、そうなかなか簡単じゃないよ」
「私はそんな・・・。ただ私は、ギスギスした雰囲気の中で過ごすのが苦手なもので・・・」
そう言いながら、やはりどこかで私の心が軽くなっているのを感じる。単純だ。私は結局いつも誰かに褒められたいだけなのかもしれない。
「竹下さんって、兄弟の真ん中?」
「いえ。兄が一人います」
前菜をそろそろ食べ終わる頃合いを察して、サラダとスープが運ばれてくる。浅見がサラダに手をつけるのを待ってから、私もフォークを手に取った。
「平和主義者で・・・頼りないですよね」
「過激派より、全然いいでしょ!」
まさか こんな返しが来ると思っていないから、私は思わず変に納得してしまう。そして、気持ちが緩んだついでに、私の口が動き出す。
「部長。私からも質問していいですか?」
「何?」
私はフォークを置いた。
「うちの課にいらしたの・・・どうしてですか?」
浅見はゆっくりワインを一口飲んでから言った。
「気になる?」
「はい。システム変更とか 大きな仕事抱えてる訳でもないし、人が急に減った訳でもない。だとしたら・・・」
そこまで聞いて浅見が語尾を遮った。
「竹下さん。この会社何年目?」
正直戸惑う質問だ。大学卒業して、新卒採用してもらって以来ずっとだから、勤続年数イコール年齢を言う様なものだ。
「・・・もう10年以上になります」
私は小さな見栄を張る。しかし浅見は、そんな小さな事 少しも気に留めていない。
「ずっと総務?」
「・・・はい」
何を聞きたいんだろう・・・?私のいぶかしい返事に、そんな気持ちを読み取られたのかもしれない。浅見が再びサラダを口に運びながら言った。
「今まで、結構人 入れ替わった?」
私は入社してからの15年以上の記憶を辿る。
「まぁ・・・それなりに。でも私、他がどの程度なのか知らないので、何とも・・・」
「ははははは。そりゃ、そうか」
まるで浅見のその言葉を合図に、ステーキが焼き上がる。
「まぁ、食べよう」
新宿駅まで戻って来ると、浅見が言った。
「今日は一人飯にならずに済んだよ。ありがとう」
一人飯?結婚してないのだろうか?いや、それとも単身赴任してきたのかもしれない。
「部長、何線ですか?」
「小田急線」
思いがけなく同じ電車だ。今後は、帰りや朝出勤する時に偶然一緒になる可能性があるという事だ。私は緊張の糸をほぐすのを、もうひと踏ん張り後に伸ばす。
結局部長よりも私の方が先に降りたから、改札を出る頃になって ようやくホッと一息つく。でも課長に付き合わされた時みたいな、嫌な疲労感ではない。
「亜弥さん」
振り返ると、駅の方から少し大股で歩いて来るお隣さんがいる。
「あ・・・お疲れ様」
「今日は遅いですね」
「・・・そちらも」
私がそう言うと、お隣さんは嬉しそうに 且つ照れた笑顔をいっぱいに弾けさせた。
「彼女とご飯食べてきました」
彼の笑顔が眩しすぎて、私は思わず目を背けてしまう。
「亜弥さんも食事してきたんですか?それとも・・・残業?」
「あ・・・私も食事済ませてきました」
「やっぱり。何食べて来たんですか?」
「・・・ステーキを・・・」
「へぇ~、いいなぁ。美味しかったですか?」
「はい。普段食べない様な良いお肉だったんで・・・」
「羨ましいなぁ、高級ステーキなんて。なんか、大人のデートって感じですね」
「え?!・・・いや・・・そんな・・・」
いつの間にかお隣さんの中で、私はデートの帰りという事になってしまっている事実に戸惑いしかない。しかし即座に、
『デートなんかじゃないですよ』
と言えない自分は、一体何なんだろう。私はそんな疑問を一旦脇に置いて、話を逸らす様にお隣さんに質問した。
「堀之内さんは・・・」
そこまで聞いて、お隣さんはすぐにツッコミを入れる。
「リュウでいいですよ」
「・・・・・・」
そりゃ、そうだ。なんて返事したらいいのだ。私の鳩が豆鉄砲を食らった様な顔を見て、お隣さんは説明を足した。
「名前、リュウって言うんで。堀之内って長いし、言いにくいし」
「・・・リュウ・・・さん?」
呼称が難しい。だからってまさか本当に“リュウ”なんて呼び捨てにするには抵抗がある。
「さんって柄じゃなくないですか?僕」
「お友達とか・・・知り合いの方達には、何て呼ばれてます?」
自分を彼の交友関係の括りに分類すると、きっと“知り合い”だろう。だから、それを参考に決めたいと思う。
「皆“たっつぁん”って呼んでます」
「たっつぁん・・・?」
彼の名前を上から考えてみる。しかし・・・どこから来たニックネームか想像がつかないでいると、お隣さんは慣れた調子で説明した。
「リュウの字、龍って書くんです。それで“たつ”から“たっつぁん”になりました。だから良く“堀之内たつ”だと勘違いされます」
「でしょうね・・・」
思わず小さく吹き出してしまう様な、ほのぼのエピソードだ。
「リュウでもたっつぁんでも、好きな方でどうぞ」
私は迷った挙句、片方を選んだ。
「リュウ・・・君」
「OKです」
可愛い満面の笑顔が、二人の間の柵を又一つ壊していく。
「で・・・何でしたっけ?何か、言いかけてましたよね?さっき」
「え~っと・・・」
「美味しいステーキ屋に格好良くエスコート出来る男に、僕もなりたいです」
「あ!」
そこで私は思い出した。
「リュウ君は、何を食べて来たんですか?」
「僕ですか?僕らは・・・リーズナブルにローストビーフ丼が食べられるお店があるって聞いて、そこ行ってきました」
“僕ら”・・・今ここに居ない彼女の存在をも一緒に数える彼の心の中を見た気がした。
「美味しかったですか?」
「はい。彼女が牛肉好きなんですよ。もしかして亜弥さんもですか?」
「いや・・・私は何でも・・・別に・・・」
そんなに即否定する必要もないのに、なぜ私はこんな言い方をしてしまったんだろう。しらけて終わりそうな会話を、彼がキャッチする。
「今日はお互いビーフ繋がりでしたね?」
紛らわしい程嬉しそうに笑顔を向けたお隣さんに、やっぱり同じ様な笑顔を返す事は出来ない。
「あ、そうだ亜弥さん。東京ドームシティって行った事あります?」
私は首を左右に振った。すると早速に残念そうな顔になる。
「そうかぁ。彼女と今度行ってみようか?って話してるんですけど・・・実際どうなのかなって。他の遊園地の方がいいのか、それとも結構一日楽しめるのか・・・もし知ってたら教えてもらおうかなと思って」
まさか私が7年間デートというものをしていないなんて思ってないから、悪びれもなく聞いてくる。
「ごめんなさい。お役に立てなくて」
この話題は、正直もうこれ位で終わりにしたいなぁ・・・なんて私の心を朝笑うかの様に、更なる質問が続く。
「夏休み、海に旅行行くんですよ」
「はい」
「あれ?言いましたっけ?」
「え?!」
そうだ。ベランダで偶然お隣さんの会話を聞いてしまっただけなのだ。私は慌てて首を振りながら、ごまかす言葉を探す。『どこに行くんですか?』なんて白々しく聞いたら、会話が広がってしまって 聞きたくない事まで聞く羽目になりそうだ。だからと言って、嬉しそうに旅行に行く話をするお隣さんに興味がない素振りもできない。
「夏休み、9連休って言ってましたもんね」
「そうなんですよぉ。彼女も同じ会社で同じ休みだから、予定合わせやすくて」
そうだ。確か、恋愛で一番楽しい時期って、今のお隣さんの様に 付き合いたての頃だった様に思う。何でも新鮮で、どんな事してても何話してても楽しくて、全てがキラキラして見えていた気がする。そう考えると、お隣さんの表情にも納得だ。目前に控える夏休みに胸を躍らせるお隣さんの眩しい笑顔を間近にすると、くすんだ自分が際立つ様な気がして落ち着かない。
部屋に戻ってくると、意味もなく無性に悲しい気持ちが押し寄せてきて、私はベッドに倒れ込んだ。