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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
3/22

第3話

3.


 この間の様に、朝玄関を出ると お隣さんと一緒の事が時々ある。そんな時は自然と駅まで一緒に歩く。

「あ、この間のお弁当、めちゃくちゃ鯖美味かったです」

「あぁ、あれ。ごめんね。もっとフライとかボリュームのあるの薦めれば良かったなって、後悔してた」

「そんな事ないですよ。言ってた通り脂が乗ってて、本当に美味かったです。ハマりそうです」

あの時感じた後悔の鎖が、少し私を緩める。

「そんなに喜んでもらえたなら、良かったです」

少し会話が途切れると、自然とお隣さんが次の話題を提供してくる。

「竹下さんは・・・どんなお仕事ですか?」

「OLです、普通の」

「何系の会社ですか?」

「あぁ・・・普通の商社」

「バリバリ仕事してそうだなぁ・・・」

お隣さんはいつもの笑顔だ。でも私は現実の自分を必死で隠す様に笑った。

「そんな事ない。普通の中の普通。・・・そちらは?」

名前を覚えていないから、こういう時不便だ。今更聞くのも悪い気がして、ごまかす言い方しか出来ない。

「僕は営業です。水回りの設備会社です」

「営業・・・大変ですね」

「でも僕、人が好きなんで そんな苦じゃないんですよね」

『人が好き』・・・この人懐っこさは ここから来てたんだと、内心合点がいく。きっと誰にでもどんな場面でも、こうやって人とコミュニケーションを取りながら上手く生きていけるタイプの人なんだろう。

「でも、この時期暑い中 大変でしょう?」

「高知の人間は、暑さには慣れてますから」

「あ、そうか」

私が納得すると、お隣さんは付け足した。

「中学も高校もずっと陸上部だったから、暑さに免疫もついてるんで」

そう言って、又人懐っこい笑顔が弾けた。


 その晩、風呂に浸かりながら再び思い出す、留目とどめの言葉。

『ご機嫌取り』

あの日からこの言葉が頭を離れない。今日も帰りに課長がソワソワし始めたから、私はどうその場を切り抜けたらいいのか分からず、トイレに逃げたのだ。仕事が終わってまで、嫌いな上司と作り笑顔で飲んだり歌ったり・・・そんな無駄な時間を過ごさなくて良い様に、穏便に事が収まる様にあの手この手を考えていた今までの自分が、一体何をしていたんだろうという虚しさに繋がってしまっていた。後輩が少しでもストレスなく働ける様に と思っていた事が、かえって若者からは“ご機嫌取り”に見えていたなんて。

 のぼせそうな頭を冷やそうと、湯船から出てシャワーを勢いよく出した。気が済むまでシャワーを浴びて蛇口に手をやる。止めるが利かない。シャワーのお湯が止まらないのだ。弱くもならない。慌てて蛇口をあれこれ動かしてみるが、一向に止まりそうな気配はない。私は慌てて体を拭いて、風呂から上がる。とりあえずタオルを巻きつけて、水のトラブル時の連絡先を探す。管理会社自体は、当然こんな時間連絡は取れない。だから水のトラブル解決業者を調べるが、皆営業時間外だ。そこへ朝の会話が思い出される。

『水回りの設備会社です』

お隣さんだ。しかし営業職で技術屋さんではないから、どうだろう・・・。しかし、その間もシャワーからお湯は出っ放しな訳だから、そんな事も言っていられない。私は慌ててパジャマを着て、頭に蒔いたタオルを取った。ふと映った自分の姿。まさか・・・。まさか、こんな格好でお隣に会いに行くのか?私はパジャマからTシャツに着替えて、軽く化粧をした。お風呂上りだというのに・・・と、又引っ越しの挨拶に来た時みたいな矛盾してて無駄な労力を使う自分をディスる もう一人の自分を無視して、私は身支度を整えて玄関を飛び出した。


 シャワーの緊急事態に勢いよく飛び出して来たけれど、お隣りさんの家の玄関の前で 一旦深呼吸をする。表札を見上げる。堀之内。あ・・・確か堀之内と言っていた様な記憶が薄っすら蘇る。夜の11時前だ。もう寝ていたらどうしよう。いや・・・今日は金曜日だ。休みの前だから、まだ帰ってきていないかもしれない。それならそれで・・・もう諦めるしかないのだから、却って気が済む様な気もする。しかし・・・一番困るのは、彼女が来ていたりすると・・・何とも気まずいではないか。私の決心と勢いが鈍る。もう一度深呼吸をしてみたりする。無意味だと分かっていながら、気持ちを落ち着かせようと私も必死だ。やはり、やめよう。そして、家に帰って もう一回確かめてみよう。もしかしたら、時間が経って 何かがどうにかなって直っていたりするかもしれない。

 私はもう一度家に戻る。玄関からでも聞こえる程のシャワーの音だ。しかし、ダメ元で風呂場に行って 蛇口を動かす。やはり同じだ。ウンともスンとも利かない。さっきから出っ放しの水が明日まで続いたら、一体どれだけの水量になるのだろう。恐ろしくなって、もう一度決心を固めて玄関を出た。

 もう四の五の言っている場合ではない。今自分にできる事をやるまでだ。一切の迷いを捨ててインターホンに指を伸ばす。・・・と言いたいところだが、それがなかなか出来ない。眠たい目をこすりながら出て来たりしたら、一体何て説明したらいいんだろう。彼女とお揃いのパジャマかなんか着て、後ろから彼女に『何?こんな時間に』的な視線で睨まれたら、今後偶然会う度に気まずくなるではないか。そんな事を考えれば考える程、インターホンが遠くなる。深呼吸をしてみたり、手の平を開いたり閉じたりして準備運動をしてみる。

 その時、急に後ろから声がする。

「こんばんは。どうしたんですか?」

驚いて・・・いや、驚き過ぎて声が出ない。中に居ると思い込んでいたお隣さんが、今帰宅したところに出くわすなんて。出くわすだけじゃない。人の家の前で不審な動きをする私も一部始終見られていたのだから、もう目も当てられない。人は驚き過ぎると、固まって暫く思考も停止するらしい。頭が真っ白の私に、お隣さんがもう一つ質問する。

「僕に・・・用事でした?」

「あっ・・・」

そうだ。自分が何をしに来たのか、ようやく思い出す。

「シャワーが・・・急に止まらなくなっちゃって・・・」

「え?!」

「管理会社も、水のトラブル110番も営業時間外で・・・どうしたらいいか・・・」

すると、お隣さんの顔が急に真剣になる。

「まず・・・見せてもらっていいですか?」

「見て・・・もらえるんですか?」

「もちろん」

急いで玄関のドアを開けて、風呂場に案内する。お隣さんはリュックを背負ったままシャワーの蛇口を動かしてみる。

「あの・・・リュック、置きましょうか?」

「あ、すみません」

リュックを下ろすと、Yシャツの背中が汗で濡れているのが分かる。

「ごめんなさい。帰って来るなり、こんな事お願いして・・・」

「そんなの全然」

言いながら、お隣さんは靴下を脱いでズボンの裾を捲った。そして私を振り返った。

「マイナスドライバーとペンチ、あります?」

「ドライバーはあるけど・・・ペンチはどうかな・・・」

するとお隣さんが急に足を拭いて出てくる。

「工具、家に取りに行って来るんで、ちょっと待ってて下さい」


 それから20分位の作業をして、見事シャワーの水が止まった。お湯が延々と出っ放しの暑い風呂場での作業で汗だくになったお隣さんが、ハンカチで汗を拭きながらにっこり笑う。

「直りましたよ」

「ありがとうございました。本当にご迷惑お掛けしました」

タオルを渡し、腰を90度曲げてお礼をする。

「・・・凄いですね」

思わず私の口がそう呟いている。

「あ、汗?」

滝の様に流れる汗を慌ててタオルで拭う姿に、思わずクスッと笑ってしまう。

「そうじゃなくて・・・よく、直せましたね」

「あぁ・・・。一応水回りの会社なもんで」

「でも・・・営業でしょ?」

「もともと技術屋目指してるんで。新入社員は、まず皆営業に配属されるんですよね、うちの会社」

「今・・・何年目なんですか?」

「4年目です」

4年目という事は・・・浪人無しの計算でいくと26歳だ。・・・ま、確かに見た目通り・・・といった感じだ。

 靴下を履いて たくり上げたズボンの裾を元に戻すと、お隣さんは玄関に置いてあるリュックを背負った。

「お邪魔しました」

「あっ・・・ちょっと待ってて下さい」

私は冷蔵庫を開けて、急いで缶ビールを二つ掴んだ。

「これ・・・持って帰って飲んで下さい」

「いいですよ、こんな・・・」

それでも私は、無理矢理にビールをお隣さんに押し付けた。

「本当なら、修理代お支払いしないといけないんですけど・・・」

そう言われ、慌てたお隣さんが遠慮がちに一本手に取った。

「じゃ・・・一本だけ」

「そう言わず、2本ともどうぞ」

頑なに引っ込めないビールを少し笑いながら2本とも手に取ると、お隣さんは言った。

「じゃ、頂きます」

お辞儀をして玄関のドアを開けると、お隣さんは向きを変えてこっちを振り返った。

「色々お店教えて頂いたお礼です。頂き物ですけど、一本どうぞ」


 部屋に今まで通りの静寂と平穏が取り戻されると、ようやくホッと肩の力が抜ける。この家に越してきて以来初めて入った男の人だ。もちろん、業者の人達を除いてだ。あ・・・今日のは、業者の人みたいなものか・・・。私は少し安堵の溜め息を吐き出す。それにしても、最後の缶ビールには驚いた。あんな変化球見た事ない。かなりのテクニシャンでないと、あの技は思いつかない。会話の繋ぎ方も距離の取り方も上手い。その上、あんなコントロールの良い変化球まで自由自在に操れるんだから、きっとモテるだろう。ああいう人が『今まで女には不自由した事ないし、これからも不自由しないだろう』なんて、抜け抜けと言えちゃう人種なのかもしれない。すっと人の懐に入り込むのも上手い。

私は髪の毛を束ねて、洗面所でもう一度化粧を落とす。鏡に映った素の自分を見て、何だかさっきまでお隣さんの悪い妄想をしていた自分も洗い落とされた様な気持ちになっている。帰って来るなり いきなり私に頼まれて、嫌な顔一つせず 汗だくになって作業してくれたお隣さん。修理出来たのに、どや顔一つしなかった彼が、そう悪い人には思えない。ちょっとユーモアある帰り際のやり取りに度肝を抜かれた位で 悪い想像をする私の中に、人間の醜さを見つけてしまう。また一つ自分の嫌な所を見つけてしまった夜だ。


 さっきお隣さんに渡して 一本戻ってきたビールを冷蔵庫から出してベランダに出てみる。今日は夜空が綺麗だ。今の私は心が曇っているから、そんな夜空が無性に悲しい気持ちをあおる。ベランダに置いてある小さい椅子に腰かけて、私はプシュッとタブを開けた。ご機嫌取りの自分も、良い人さえも悪い人に見えてしまう疑り深い自分も、全て失くしてしまいたくて 大きくごくりとビールを喉に流し込む。

その時隣との仕切り板の向こう側でザザッとサンダルの擦れる音がする。そして程なくして、遠慮がちに仕切り板からコンコンと聞こえる。思わず私は手に持っていた缶をぎゅっと握りしめ身を縮めた。私が息も殺す程身を潜めていると、仕切り板の向こう側から微かに声が聞こえる。

「竹下さん?」

お隣さんの声だ。しかし私はまだ返事をしない。だって化粧も落として楽ちんな格好になり すっかり自分だけの空間と気を抜いていた時だ。いきなりよそ行きの自分にはなれない。

「堀之内です。・・・そこに居ます?」

そこまで聞かれたら、さすがに居留守は出来ない。

「はい・・・」

はははと明るい笑い声が聞こえる。

「今僕、さっき頂いたビール飲んでます」

私は手に握りしめた同じ缶ビールを眺める。

「美味しいです。ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ、先ほどはお世話になりました」

「もしかして・・・竹下さんもビール飲んでました?」

「・・・・・・」

「今、たまたまタブ開ける音聞こえたんで」

「はい・・・」

顔が見えないのに会話を続けているのが、なんともムズムズする。変な感じだ。板一枚隔てた向こうにはお隣さんがいる。

「今日、空綺麗ですね」

「はい」

「満月かな?空が明るいですね」

「・・・はい」

「・・・前に来ないでも見えてます?」

ドキッとする。そう言うって事は、お隣さんはきっとベランダにもたれ掛かっているのだろう。私は更に椅子を引っ込めて 隣から見えない位置に身を潜める。

「はい」

さっきから『はい』しか言ってない私なんかと きっと話が弾まなくて、缶の中のビールが終わったら、多分『じゃ・・・おやすみなさい』っておずおずと言われておしまいだ。そんなシナリオを想像してた私に、お隣さんが根気よく話し掛ける。

「この間の溜め息・・・もう止まりました?」

止まるどころか、深くなっている気がする。実際今日も、お風呂に入りながら『ご機嫌取り』と言われた傷を自分でほじくり返していた位なんだから。しかし、あの日の帰り道 溜め息を吐いた私を未だに覚えているなんて 驚きだ。その瞬間、何故か私の口が勝手に緩んで動き出した。

「会社で、上司の方から飲みに誘われたり、します?」

「はい、たまに」

「その時、どうしてます?」

「行ける時は行くし、先約がある時は断ります」

「それって、嫌いな上司の誘いでも 同じ様にします?」

「嫌いな上司か・・・。それなら、角が立たない理由つけて、断るかな」

「あからさまに嫌な顔したり、無視したり します?」

「僕はしないけど・・・そういう人も中にはいますよ」

「仕事終わった後まで 上司に付き合わされるの、正直どう思います?」

それまでテンポの良いキャッチボールになっていた会話のペースが、急にスローダウンする。お隣さんの声が急にしなくなったから、そこで私は初めて自分が弾丸の様に質問し続けていた事に気が付く。

「立て続けにごめんなさい」

「いえ、そうじゃなくて・・・」

そう言って、缶を床に置く音がする。もしかしたら飲み終わったのかもしれない。そんな事を思っていると、お隣さんの声が又聞こえてくる。

「職場じゃ聞けない話とか そういうの聞けたりするから、僕は楽しいと思ってます。その上司が魅力的な人なら尚の事、色々影響受けたいって思うし」

私はビールを一口飲んだ。

「堀之内さんは上司に恵まれたんですね・・・」

「いや・・・でも」

私は少しだけそよいだ風を心地よく感じながら、次の言葉を待ってみる。

「学生時代バイトしてた所の店長が ほんと自分の苦手なタイプで・・・で、きっと向こうもそう思ってたんじゃないかな?扱いづらい奴だって。だから飲み会があると、結構無理矢理飲まされたり いじられたりしてました」

「それでも、飲み会に参加してたんですか?」

「高知って酒飲みが多いから、飲みの誘い断るって文化がないんじゃないかなぁ。返杯返杯で、しょっちゅう潰されてました」

そう考えると、誘いを断れる自由がある事を幸せに思う。

「お陰で、東京出てきて その辺皆さっぱりしてるっていうか・・・自由なんで、凄く良い人達に思えちゃって。自分のペースで飲めるなんて、むこうじゃ有り得なかったですから」

「・・・そうなんだぁ」

ビルやマンションの隙間から覗かせる小さい空を見上げる。好きとか嫌いとか、面倒臭いとか有り難いとか、その感覚は人それぞれ違う。所詮その人の決めた基準値が物を言う。そしてその基準値も、年齢や経験によっても変わっていく。そんなあやふやな他人の“感覚”を基準に発せられた言葉など、大して気にしなくても良い様に思えてくる。

私は急に心が軽くなって、椅子から腰を上げた。

「凄く気持ちが楽になりました。どうもありがとう」


 次の日。土曜日で休みだから、いつもならベッドの中からテレビをつけっ放しにしてゴロゴロ過ごす。しかし今日の私は違う。朝から張り切って掃除機をかけ、床拭きや窓掃除なんかしてみる。普段なかなかしない 冷蔵庫の中も隅々まで拭いてみると、何だかとっても清々しい気分になってくる。こんなにフットワークが軽い時など滅多にないから、私は調子に乗って 残り野菜で煮物を作る。思わず鼻歌なんか出ちゃうから、自分でも驚きだ。料理は別に嫌いではないけれど、正直自分の為だけには そうそう作ったりしない。私は味にうるさい方でも食にこだわる方でもないから、お腹が減った時に何か食べられればいい。それでも前の彼氏と一緒に住んでいた頃は、その日彼が食べたいと言った物を仕事帰りに買い物をして、疲れてたって 頑張って台所に立って 甲斐甲斐しく調理したものだ。そしてそれは苦ではなかった。むしろ楽しくさえあった。それなのに・・・その頑張りが彼には重たかったのだ。

そんな記憶が心の隅にシミの様に残っていて、あれ以来料理をする気持ちにすら なれなくなっていたのだ。

思った以上に煮物が上手く出来上がると、焼き魚を添えて炊き立てのご飯と共に食べたくなってくる。私は財布を持って、強い日差しの中 日傘を差して外に飛び出した。


スーパーで鮮魚コーナーの前で足がゆっくりになる。どんな魚もあまり 一切れでは売っていない。少なくても2尾入りか二切れのパックだ。こういう時に一人の寂しさを感じる。7年前は分からなかった感覚だ。でも二切れなら、残りの一切れを冷凍しといてもいいし、お弁当に持って行ったっていい。だから、そんなに嘆く程の事でもない。私はここ6年間、スーパーでこう自分に言い続けてきた気がする。そして、こういう言い訳してる自分に嫌気がさす時は、決まって買い物はコンビニだ。コンビニは一人用のサイズの物が主流だ。何も引け目を感じなくていい。

私は鰆の西京漬けと鯵の干物を買って、満足して家への道を歩き始める。鰆は今晩焼いて食べる為。残りは冷凍して次回の為に取っておこう。そして鯵の干物は明日の朝。大根おろしを添えて頂こう。その為の大根もちゃんと買った。半分に切った物と迷ったが、大根は煮てもサラダにしても味噌汁にしても使えるから、一本丸ごと買ってしまった。今日の私は 料理にトラウマがあったとは思えない位前向きだから。

太陽がオレンジ色に西の空を染めていて、歩道には買い物袋を下げた私の影が長く伸びる。今私とすれ違う人は、きっと夫や家族の為の買い物をした主婦だと思うんだろうな・・・。そんな勝手な事を考えながら歩いていると、何だか自然とそんな自分になりきってしまって、幸せ色が胸に充満してくる。そして見える風景まで違ってくるから不思議だ。公園から聞こえる幼い子供達の楽しそうに弾む声。風に乗ってどこかから聞こえてくるピアノの音。干した布団を慌てて叩いて取り込むお母さん。路地で佇む猫があくびをしている。全てが微笑ましく映る。

「こんにちは」

呑気によそ見をしながら歩いていたから、前から歩いてきたお隣さんに私は気が付かなかったみたいだ。

「あ・・・こんにちは。昨日は、ありがとうございました」

慌てて現実の私に戻る。

「お買い物ですか?」

「あ・・・はい」

スーパーのビニール袋から飛び出した大根に、急に気恥ずかしさを覚える。しかしお隣さんは 私の顔を見ながら言った。

「何だか・・・凄く嬉しそうですね」

「え?!そうですか?」

私の顔が年甲斐もなくカーッと熱くなるのが分かる。

「恋人に料理でも作るんでしょう?」

「いやいやいやいや・・・」

私は何故か大根や干物の入った袋を後ろ手に持ち替えた。するとお隣さんが更にニコニコした。

「いいなぁ~。羨ましい」

完全に私が照れている様に勘違いされてしまったらしい。だからって今更『恋人なんて居ません』と暴露するのも変だ。私は話題を変えようと、お隣さんに質問した。

「お出掛けですか?」

「はい。駅前までちょっと・・・」

何とか窮地を脱した気持ちだ。私は再び家への道をのんびりと歩いた。


 月曜の朝、玄関を出ると またも偶然お隣さんとタイミングが合う。

「おはようございます」

相変わらず爽やかな笑顔を向けられて、つい私まで清々しくにっこりしてしまう。同じ様にゴミを捨て、駅までの道を一緒に歩く。

「そういえば、この間美味しく出来ました?」

「え?あ・・・はい。・・・って、自分で言うのもなんですけど」

あの日の私は久し振りにスイッチが入っていて、夕飯に鰆を焼いて、昼間作った煮物を頂いたのだ。そしてなめこおろしなんかまで作っちゃって、純和食の夕ご飯に一人で満足して、ご機嫌なまま休日を終えたのだ。

「何作ったんですか?」

まさか、そんなに その話題を掘り下げてくると思わないから、私は言葉を濁した。

「・・・和食です」

「へぇ~、いいなぁ。やっぱ和食、ホッとしますよね。家で食べるなら、やっぱ和食がいいですよ。気取らない普通の家庭料理が上手い女の人、羨ましいです」

「・・・羨ましい?・・・彼女、お料理苦手なんですか?」

「彼女?!彼女、今いないんですよ」

え・・・?!だって前にマンションの前でバッタリ会った・・・一緒に家から出てきて『これからご飯食べに行く』って・・・。私の顔が無言でそう物語っていたのだろう。お隣さんがハッとした顔をして、私に説明を始めた。

「この前一緒に居たのは、会社の同期。友達です」

「あ・・・そうなんだ。ごめんなさい、勝手に決めつけちゃって」

これだからおばさんは困るんだよな・・・って思われちゃったかな?本当自分でも嫌になる。家から若い男女が二人で出てきたら、兄弟かカップルだという先入観。私も古い人間になってしまってるのかな・・・。

すると、お隣さんは私に気を遣わせない様に 明るく言った。

「彼女ではないですけど・・・彼女になってくれたらいいなぁって思ってる人です」

朝から思いもよらぬカミングアウトを受け、私は鳩が豆鉄砲を食らった様な顔になる。

「だから、もし上手くいって付き合える様になったら、竹下さんところみたいに、家庭料理作ってもらいます」

何故か私の頬が引きつる。上手く笑えないけど、必死で明るい表情を作る。

「きっと大丈夫ですよ。男友達の家に一人で遊びに来るくらいだから、きっと彼女も好意を持ってるんじゃないですか?」

そんな風に言いながら、私の心の隅ではもっと黒い意地悪な気持ちが沸々湧いている。男の一人暮らしの家に、一人で平気で遊びに来られる女の神経が分からない。軽いというか・・・スキの多い女というか・・・。思わせぶりで、自分に自信のある女だ。

「この間は一人で来てたんじゃなくて・・・同期の仲間が何人か遊びに来てて、で 夜から用事のある奴らが先帰っちゃって二人になったんで・・・じゃ、外にご飯食べに行こうかって事だったんですよ」

彼の説明を聞きながら、私の頭の中を覗かれていた気分だ。私の偏見から好きな彼女を守っている様にも感じられる。

「だから、脈ありって訳でもないかな?」

そこまで聞いて、ようやく自分がお隣さんに言った言葉への彼なりの謙遜だと分かる。なのに私ときたら・・・あの時一緒に居た映像を思い出して、その彼女の若さと可愛らしさに対する、完全なるひがみだ。笑顔の裏で、お隣さんの好きだという彼女の事を軽蔑している私の方が、本当はよっぽど醜い女だ。


 会社に出勤した途端、いつも通りの変わらない日常が私をすっぽり包む。しかし今日は違っていた。

「竹下さん、指綺麗ですね」

コピーを取っていた私の手を、ふと見た若い後輩社員が言ったのだ。

「指もですけど・・・爪の形綺麗ですね」

「あ・・・ありがとう」

こんな事を言われた事が無いから、ちょっと変な感じだ。ちょっと構えてしまう自分がいる。

「なんで竹下さん、ネイルしないんですか?もったいない!綺麗な形してんのに」

「あ・・・ネイル?」

本当は女を卒業した私にとって お洒落は不必要な物だけれど、会社で“イタイお局様”と思われない程度に 一応洋服に気を遣っている。しかしその私にとって ネイルは、どう考えたって不必要で過度なアイテムだ。

「美憂ちゃんみたいに若い子なら可愛いけど、私みたいなおばさんが あんまりやり過ぎると恥ずかしいでしょ?」

「そんな事ないですよぉ~。ネイルしてない方が地味でおばさんっぽくなりますよ」

「・・・そう?」

「いいネイルサロン紹介しましょうか?」

「え・・・いいよぉ」

気乗りしない返事をする私に、岩本美憂はグイグイ押してくる。さすがだ。こういう時に空気を読まないのはプラスの効果もある。人の顔色を見過ぎない、自分の信じた道を突き進む強さを 彼女に感じる。

「ちょうどサービス券あったんで、どうぞ。是非行ってみて下さい」


 結局その日の帰り、新宿にあるというネイルサロンに予約を入れる事になり・・・私的には 少し何日か考えてからにしたかったのだが、若者はこう思ったら即実行だ。早い。そしてその数時間後には、私の爪は生まれ変わった様に女子の輝きを放っていた。正直、まだ自分の手だと思えない。馴染めない・・・というのが本音だ。でも、だからって気に入ってないか?と聞かれたら・・・そうでもない。いや・・・。まあまあ、これも有りかなぁという気になっている。電車の吊革につかまっても、生まれ変わった自分の爪が 少し気恥ずかしい。すると今まで気にもならなかった他人の爪が、目について仕方がない。乗客の7割方の女性は 何かしらのネイルをしている。へぇ~、皆結構指先まで気にするものなんだなぁ。20代だけではない。30代40代の女性達が綺麗にさり気なくお洒落をする場所の様だ。


ほんの少しだけ胸を張って電車を下りると、駅前のコンビニで立ち読みしているお隣さんがいる。前に私を見掛けたと声を掛けに入ってきたコンビニだ。今日はその逆だ。声を掛けるべきか、素通りするべきか・・・。正直迷う。今までの私なら絶対に素通りだ。わざわざ店に入ってまで声なんか掛けない。でも相手は、この前わざわざ声を掛けに来てくれたお隣さんだ。“自分がされて嫌な事は きっと人にはしないものだ”という方程式に当てはめると、お隣さんはこういう場合、声を掛けて欲しいタイプの人なんだ。きっと、

『こんばんは』

とか、

『お疲れ様』

とか、

『良く会いますね』

なんて声を掛けたら、にっこり嬉しそうに笑顔を返してくれるに違いない。コンビニの前で立ち止まっている私の背中を押す力が 自然と湧いてきて、左足を一歩踏み出した。

「こんばんは・・・」

お隣さんは雑誌から顔を上げ、私を見て・・・やっぱりにっこり笑った。

「あ、どうも」

予想はしていたけど、それ以上だ。そんなに嬉しそうなリアクションをされてしまうと、何だか・・・変な気持ちだ。

「この前と、逆ですね」

そう言って お隣さんは雑誌を戻す。

「もう夕飯食べました?」

「いえ・・・」

え?!・・・どういう意味?正直戸惑いながらの返事だ。

「良かったら、ラーメン食べに行きません?この間の・・・」

「・・・三ちゃん麺?」

「あっ、そう!それです!」

まるでクイズの答えが当たったみたいな言いっぷりだ。裏表がなくて、正直で・・・一緒に居て なんだかこっちまで楽しくなる。引っ越しの挨拶で会った時以来 何度も会っているけれど、最初から印象が変わらない。変わらず好印象だ。


 三ちゃん麺ののれんをくぐると、女将さんが笑顔で迎える。

「あら、おかえりなさい。お疲れ様」

私は変な誤解が生まれる前に、先手を打つ。

「こちら、お隣さん。今駅でバッタリ会って」

お水を出しながら、女将さんがお隣さんの顔をじっと見る。

「あら?前にうち、来てくれた事ありません?」

さすが客商売だ。ここの女将さんは、私が二回目に来た時も 同じ様に気付いてくれたのだ。

「引っ越してきたその日に。手伝ってくれた友達と 引っ越し蕎麦食べに行こうって、こちらに」

「引っ越し蕎麦ね~」

そう女将さんは繰り返して、わははと笑った。

 いつものカウンターではなく、今日はテーブル席だ。景色が全然違って見えるから、正直少し落ち着かない。ビールと餃子で最後にラーメンだ。

「やっぱ、旨いわ~」

嬉しそうに悶えるお隣さんを微笑ましい気持ちで眺めていると、急に向かい側で箸が止まる。

「そのネイル、可愛いですね」

突然指先に感じた視線から逃れる様に、私は手をグーにした。

「年甲斐もなく・・・恥ずかしいんだけど。後輩がネイルサロンのサービス券くれたもんだから・・・」

「へぇ~、素敵ですよ。凄く似合ってます」

「・・・そう?」

男の人に『素敵』なんて褒められたのは何年振りだろう。前の彼氏とは最後の方 倦怠期の様な雰囲気が漂っていたから、きっと10年弱ご無沙汰だ。だからこれをどう受け止めていいのかが分からない。その『素敵ですよ』も消化できていないのに、お隣さんはまた次の言葉を掛ける。

「『年甲斐もなく』なんて、おかしいですよ。失礼かもしれないけど、チャーミングな女性だと思ってますよ 僕、亜弥さんの事」


 『チャーミングな女性』・・・何気なくラーメン屋に誘って、食べながらネイルをサラッと褒めて、その上明らかに年上と分かる隣人にこう言える彼って 何なんだろう?そして最後には私の事を『亜弥さん』だなんて。彼は『年甲斐もなく なんておかしい』って言うけれど、男の人に急に名前で呼ばれて “年甲斐もなく”ドキッとしてしまったし、何せ年下の男の子に『チャーミング』なんて言われたのは、生まれて初めてだ。だからきっと、私の体の中の細胞が戸惑っているのだ。新しい細菌が体内に入り込んできて、それを良性か悪性か見定めるのに少し時間が掛かっている・・・といった感じだ。

 その晩私は 寝付けない頭と体を持て余し、何度も寝返りを打った。


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