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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
21/22

第21話

21.


初雪の日に始まったお隣さんと私の関係も、もうすぐ半年を迎える。どことなく春を感じ始めていたあの穏やかな気温が懐かしくさえ感じる位、この頃は日差しがめっきり肌に痛い。お隣さんと出会った季節に、また戻ってきた。私は今日も、一年前と同じ様に、日陰を求めて駅まで足早に歩く。

結局私はゴールデンウィークに、お隣さんの田舎 高知県への里帰りについては行かなかった。曾祖母の卒寿のお祝いだからと、彼のお母さんもお隣さんも盛んに誘ってくれたけれど、私は下手な嘘を精一杯ついて拒んだのだった。

そして私は、今日も変わらずにお隣さんを待つ。彼の喜んでくれそうな食事を作って。

「ただいま」

お隣さんがワイシャツを脱ぎながらキッチンに顔を出す。

「ねぇねぇ、前に買って来てくれたボディシートの予備、どこにしまったっけ?今日で使い終わっちゃって」

「後で出しておくね」

あの日以来、お隣さんは営業成績が伸び悩んでいる時も 見栄を張らなくなった。3月は 自己目標を達成したとホッとした顔をしていたし、ここに越してきて家賃や生活費に追われない分、家に居てもどこか余裕がある様に見えた。しかしやはり、今年度も施工部への異動は叶わなかった。そして今月もまた成績が芳しくない様だ。

「契約してもらえそうな所、どこも今月駄目になっちゃってさ」

食卓を挟みながら、お隣さんが話す。

「夏に向けて、支出控えがあるみたいだね。まぁ、今月は駄目だったけど、秋口になったら又検討するって言ってくれてる所もあるから、そこに期待してんだけどね」

こういう話、私はいつも『うん、うん』と黙って聞く。そしてたまに一言励ます言葉を挟む様にしている。

「どこも8月は売り上げ悪いもん。今後の契約に繋がればいいね。まだがっかりする事ないじゃない」

「そうなんだけどさ・・・。成績が次のボーナスに反映されるから・・・。夏も最低額だったし」

そう言ってから、お隣さんは私の顔を窺う。

「ごめん。又お金基準になってるね」

少し自信なさげに俯く彼に、私は慌てて首を横に振った。

「ううん。そりゃあボーナス、楽しみだもんね。私なんかいっつも大して変わり映えしないけど、友達のご主人もやっぱり営業だから、成績によってボーナスが大きく違うって聞いた事ある。良かった時は思わず嬉しくって二人でヨーロッパ旅行行ったって喜んでたもん」

「ヨーロッパ旅行か・・・。うちの会社はそこまでは出ないだろうけど・・・」

「あ、うんうん。それかなり昔の話。もっと景気が良かった頃の」

 夕飯の洗い物をしているところへ、お隣さんが食べ終わった弁当箱を出す。

「ありがとう。美味しかった」

最近、彼はお弁当を持って行っている。

『亜弥さんの料理、昼も食べられて嬉しい』

なんて言ってはくれるけれど、きっと一番の理由は節約なんだと思う。

黙々と食器を洗っている私の横で お隣さんがじっと立っているから、私は彼の顔を見上げた。

「どうしたの?」

すると、少しだけ言いにくそうにお隣さんが口を開いた。

「あのね・・・お袋から電話あってさ・・・」

正直私の心臓はドキッとしたのに、それを悟られまいと必死で変わらずに手を動かす。

「ゴールデンウィーク 来られなかったから、お盆には一緒に帰って来いって」

「・・・・・・」

私は黙って鍋を洗い続けながら、頭では自動的に断り文句を探している。

「お盆の頃の航空券なんて、今から取れるの?」

「そう思って、今日帰りに金券ショップ見てきた。少しでも安い方がいいし」

「・・・うん」

「いい・・・よね?」

「・・・日にち、確認するから・・・もうちょっと待ってもらえる?」

「うん。もちろん」

そう言った後も、なかなかその場から立ち去ろうとしないから、私は一つ高いトーンで明るく言った。

「千葉の実家に帰る予定もあるから・・・その兼ね合いで」

「・・・うん。そうだね」


「あ~やも、年下彼氏のお守りに疲れたって事か?」

電話の相手は佐久間妙子だ。夫の浮気騒動以来、妙子も近所の調剤薬局にパートに出る様になった。それが理由かは分からないが、最近は少し体重が落ちたらしい。掛けてきた電話の声が明るいから、夫婦も何とか上手くいっているのだろうと推測される。それに自分の話題はさほどせずに、私の事を聞いてくるって事が、それを物語っている。彼女は昔から、何かあったら黙っている事が出来ない性格だからだ。

「女だって働いてるのにさ、毎日毎日ご飯作って掃除して洗濯して。その上、ゆとり世代の彼氏の仕事の話聞いて、励ましたり慰めたり。もはや彼女じゃなくて母親みたいだもんね」

「別に嫌な訳じゃないんだよ」

「本当は面倒臭くなってきちゃってんじゃないの?」

面倒臭く・・・?私は自問自答する。・・・決して面倒臭くなってきている訳じゃない。じゃあ、何なんだろう・・・・?この感じ。

「本当はさぁ、包容力のある男に甘えたいんじゃないの?よしよしってされたいって言うかぁ・・・私も女だったんだって思い出させてくれる様な相手」

「・・・・・・」

そうなのかなぁ・・・。本音では、私そんな風に思っているのかな・・・?

すると、電話の向こうの妙子が少し声を強める。

「『ママ、ママ』ってさ。私はあんたのママじゃないっつうの!」

そして妙子の口調が元に戻る。

「でもさ、これが現実かもよ。旦那も子供みたいなもんだからね。男が頼りがいがあって、どんな時も包み込んでくれる なんて、幻想だよね。付き合ってる時だけ。ま、“あばたもえくぼ”っつうの?」

「・・・・・・」

「きっとこの先どんな男と付き合ったって、似た様なもんよ。一緒に住んじゃえば結婚してんのと同じ。それまで着飾ってた物なんかあっという間に剥がれちゃうんだから」

「・・・そうかなぁ・・・」

「そうだよ。だから あ~やも、この辺で手打っといた方がいいよ。老後の事考えてごらん。介護とか孤独死とか。とりあえず相手がそれだけ若きゃ、取り残される事は まず無いじゃない」

妙子の話を聞いていると、もっともだと納得する節も当然あるが、何か虚しく感じてしまう。結婚って、そんな惰性とか妥協とか、自分にとってどれだけ得かを計算して するものなのだろうか?デメリットより一つでもメリットが多かったら、それは結婚する価値ありって事になるの?

「DVとかさ、浮気性とかさ、そういうのじゃないんだから、もう充分優良物件でしょう」

「・・・・・・」

「いやいや、優良物件なんてもんじゃないかもよ。私達みたいな40の女を、これからっていう将来性のある男が求めてんのよ。逃す手はないわよ。もしかしたら宝くじに当たるより確率低いかも」

確かにそういう見方も一理あると納得できる。出来るが・・・何故か胸がすっきりしない。

「美味い飯食わせて、身の回りの世話焼いて、今のうちから上手いこと手名付けておきなさいよ。投資みたいなもんでさ。きっと後になって大きく返ってくるわよ」

「投資・・・」

「そうよ。今は多少養うのにお金掛かるかもしれないけど、子供に比べたら安いもんよ。少なくても働いて稼いできてくれんだから」

私がなかなか妙子の納得する返事をしないから、電話の向こうではとうとう溜め息が漏れる。

「40にもなる女が、何いつまでも夢見てんのよ。白馬に乗った王子様がガラスの靴でも持って 赤い糸で結ばれてるこの世でたった一人の運命の人を探して、自分の前に現れるとでも思ってるの?イギリスのロイヤルファミリーでもないんだから、夢みたいな日常なんて どこ探したってないんだよ。まったく あ~やは乙女なんだからぁ」

「別にそういう訳じゃないけど・・・」

「じゃ、何だっていうの?」

「妙子の言う事は良く分かるけど・・・。昔みたいに、この人と結婚するのかなって思っても、何だかときめかないっていうか・・・ドキドキしないっていうか・・・。だからって彼の事嫌いになった訳じゃないし、むしろ大切だとは思ってるんだけど、異性に対する愛情じゃなくなってる様な・・・」

その時、リビングのドアがガチャッと開く。

「あ、ごめん。もう切るね。電話ありがと。じゃ、またね」

電話を慌てておしまいにすると、私は少し後ろめたい気持ちを隠してソファから立ち上がる。

「おかえりなさい。ご飯食べるでしょ?」

キッチンに逃げこむ様に姿を消した私の後から、お隣さんがゆっくり現れる。

「電話、友達?」

「あ、うん。妙子。大学ん時の」

「・・・良かったの?あんな一方的に切っちゃって」

ついうっかり妙子との話に夢中になり過ぎて、お隣さんが玄関を開けた音に気が付かなかった。自分が喋っていた内容が聞かれたんじゃないかと内心ハラハラが止まらない。

 夕飯を挟みながら、お隣さんが言った。

「前に行った世田谷の渓谷、また行かない?」

目の前で私は、やはり驚いた顔をしてしまう。

「去年、初デートで行ったの覚えてる?あそこなら、きっと涼しいし。あっ、確か公園もあったし、今度はお弁当持って行こうよ」

お隣さんの顔をじっと見つめてから、言った。

「いいね。そうしようか」


 約一年前に初めて二人でデートした場所に、再び訪れる。渓谷というだけあり、やはり非日常感が溢れる。密かな都心のスピリチュアルスポットだ。一年前と同じ様に川に沿って進み、所々に流れる小さな滝に心癒される。充満するマイナスイオンの効果だろうか?それとも、非日常が私達二人を現実から引き離してくれるからだろうか。前に立ち寄ったお茶屋さんの前で足を止める。

「ここで前に、亜弥さんの頼んだあんみつ見て、どうしても食べたくなっちゃって追加注文したんだよね」

お隣さんが懐かしエピソードを持ち出すから、私もつられてほっこりした気持ちになる。でも・・・一年前と同じときめきは、ない。だけど、そんなの当たり前だ。笑顔の下で、私は自分に言い聞かす。

「せっかくの亜弥さんのお弁当食べられなくなっちゃうから、今日は寄らない」

「平気?後で後悔しない?」

「う~ん・・・」

悩んでいるお隣さんの顔を眺めながら、妙子の言葉を思い出す。

『旦那も子供みたいなもの』

・・・子供・・・?いや、もしかしたら“子供”というより“弟”に近いのかもしれない。そんな事が頭をよぎる。実際には弟がいないから、正直どんな感じなのか分からないけれど、『まったくこの子ったら可愛いんだから』っていう感じ、歳の離れた弟・・・なのかもしれない。私のお隣さんへの気持ち、いつからそんな風になってしまったんだろう・・・。


 不動尊への長い階段を見上げてから、お隣さんは繋いだ私の手を軽く引っ張った。

「こっちは後で行こ」

「え?」

「先に上の広場でお弁当食べよ」

今日は見事な快晴だ。日除けが無いと少しきつい。だから私達は、芝生の広場の隣にある書院のベンチに腰を落ち着けた。こじんまりとしたお弁当を広げ、私は 目の前の青々としたもみじの葉を見上げた。紅葉の季節には、きっと絵葉書みたいな景色が広がるのかな・・・。そんな想像をしていると、お隣さんは卵焼きを箸でつまみ上げて口に放り込み、にっこり笑った。

「これ、亜弥さんの甘い卵焼き、大好き」

私は単純だ。こんな些細な一言に幸せを感じる。きっと恋愛と結婚の違いはこういう所にあるのかもしれない。わっと驚くサプライズや燃え上がる様な熱い恋心は刺激的で見栄えもいい。だけど多分結婚生活の中の幸せって、その対極にある様な気がする。こんな風に一緒に笑顔でご飯を食べられる事だったり、美味しいねって頷き合える事。今日は良いお天気だねってにっこり微笑み合ったり、寒いから気を付けてねって労り合う事、そういう極々些細な幸せの粒を大事に大事に 手の平から零れ落ちない様に守っていく事なのかもしれない。ハラハラドキドキする様な恋愛感情から、補い合い、受け入れ合い、認め合い、許し合っていく穏やかな愛情に変化していく事こそが、他人が家族になっていく事なのかもしれないな・・・。元気なお日様に背中を温められながら、私は少しポジティブな自分に傾いていく。

 お隣さんの方が先に食べ終わると、箸を片付けながら言った。

「この間お袋に電話したら、こっぴどく怒られた」

「え・・・?」

私の中に、一瞬にして緊張が走る。お盆には一緒に帰って来いと言われていた事を、私がうやむやにしたせいだろうか。

「・・・お母さん、何て?」

「もたもたしてないで、早く結婚しろってさ」

「・・・ごめんね」

私は肩をすぼめる。最初 結婚に反対だった彼のお母さんが、今となっては背中を押してくれている事自体、私の胸は張り裂ける様に痛い。

「式なんか後でだっていいんだから、籍だけでも早く入れなさいって」

私は俯いたまま、ぼそぼそっと相槌を返す。

「私からお母さんに・・・」

そう言い終わらないうちに、お隣さんが喋る。

「一緒に生活してるんだから、いつまでも中途半端な事するなって」

仰る通り・・・。きっと私に息子が居ても同じ事を言っていると思う。だけど、結婚を渋っているのは私だ。目の前でお母さんに怒られているみたいな気分だ。そして、お隣さんの話は続いた。

「今年の頭に、千葉のお父さんに呼ばれた時もさ、本当はその辺の事言う為に『来い』って言ったんじゃなかったのかなぁ」

「いやいやいや・・・!」

私は慌てて手を左右に振って、大げさすぎる位にその言葉を否定した。

「うちの親はそんな事全然気にしてないから。仲良くやってるのかって、それ位しか聞いて来なかったし」

「そりゃ娘にはそうだろうよ。でもきっと僕には『どう考えてんだ?』って言いたいと思うよ」

私は彼が息継ぎをした一瞬の隙間に割り込んで、更に否定する。

「ないない。本当、うちの親は私が結婚するとかどうとか、もう期待もしてない分、当人同士が良ければそれでいいって思ってるの。だから、そんな事気にしないで」

「・・・・・・」

「龍君もさぁ、施工部への異動が叶ってはいないんだし、まだまだ仕事に集中したいでしょ?」

私がお弁当を食べ終わるのを待って、お隣さんがポツリと言った。

「やっぱ、それって違うよな・・・」

「ん?」

お隣さんの言った『それ』が一体何を差している言葉なのか、答えに行き当らない私は、ただじっと彼の横顔を見つめる事しか出来なかった。


不動尊の階段を昇り切り、展望台で一息つく。さっきお弁当を広げながら見上げた青いもみじよりも、数段写真映えしそうな景色だ。きっとこここそ、秋晴れの日には 真紅に色づいたもみじを、思わずカメラに収めておきたくなる、そんな絶景だ。どうせなら、今ではなく秋に来たかったな・・・そんな声が心の隙間から漏れる。今じゃなくて・・・。

そこを訪れている人達が皆思い思いの写真を撮るために夢中になっているのを遠巻きに見ながら、お隣さんが言う。

「ご夫婦が多いね・・・」

そう言われて 今一度見渡すと、6、70代の夫婦が多い事に気が付く。少し人気のない離れた場所に移動しながら、お隣さんが口を開く。

「きっと皆 結婚して3、40年何も無かった訳じゃない筈なのに、今こうして他愛もない会話をしながら一緒に出掛けられるっていいよね。多分ここは大して遠出じゃないけど、もしかしたら幸せって、そういう事を言うのかもしれないなぁ・・・」

奇しくも同じ事を感じていた私は、心が少しずつ重なっていく様な感覚を味わう。そして、うんうんと頷きながら隣を歩いた。

「仕事でバリバリ実績残して、貯金も貯めて・・・。もしかしたら そうやって、これで亜弥さんの事幸せに出来るって自信が欲しかったのかもしれないなぁ。言い換えたら、自己満足にしか過ぎなかったのかもしれないね。いい時なんて一瞬だから『人生の中での最高の時を結婚という節目にしたら、あとは落ちるだけだ』ってお袋に喝入れられたけど、なんだかここ来て、結婚って自分が思ってたのと少し違うんだなって分かった様な気がしてきた」

イチョウの木の下で立ち止まったお隣さんの横に並んで、ゆっくりと相槌を打ちながら聞く。

「ここ最近、実はずっと迷ってた事がある」

そう切り出した後に、お隣さんは少し足元の砂をズズッと擦ってみせた。

「とうとう来年、施工部に移れるかもしれないって話・・・」

「良かったじゃない!・・・どうして迷うの?」

「・・・基本給が低くなるし・・・それに、営業みたいに歩合も乗っからないから」

私が息を吸うと、一足先に お隣さんが先手を打ってくる。

「きっと亜弥さんは『自分のやりたい事やりなよ』って言ってくれるだろうけど・・・簡単じゃないよ」

私が黙っていると、お隣さんは自然と続きを話し始めた。

「それなりの給料もらって、亜弥さんに結婚してもいいかなって認めてもらいたい気持ちも正直ある。だけど そんなちっぽけな自己満足は別にして、実際結婚した場合にさ、今の生活がずっと続くとは限らないでしょ?例えば、子供が出来たら、亜弥さんの収入に頼る訳にはいかないんだし。だからって、今亜弥さんに仕事辞められたら困るくせに・・・格好ばっかつけたいんだ、きっと」

隣を歩くお隣さんが、一度深く息を肺一杯に吸い込んだのがわかる。

「亜弥さんを・・・これから出来る家族を、自分一人の力で養っていけるのかって、ずっと自問自答してる」

こんなに真剣に将来の事を考えてくれている彼に、私は“昔の様にときめかない”だの“ドキドキしない”だの幼稚な事を考えていた事を、本当に申し訳なく思うのだった。

「そんな風に思ってくれてるなんて・・・ありがとう」

私は頭を下げた。顔を上げたらお隣さんと目が合ったから、私はにっこり微笑んでみる。・・・何か分からないけれど、自分の中に違和感がないと言ったら嘘になる。だけど・・・きっとこういうシチュエーションに慣れていないだけだと、自分を納得させる事にする。すると彼の瞳の奥が、みるみる悲し気な色に染まり始める。

「無理しないで」

私の頬の筋肉が一気に引きつったのが分かる。なんでお隣さん、そんな事言うんだろう・・・?まるで私の中の気持ちが筒抜けに見えているみたいな目をしている。お隣さんが絡めた私の手をそっと持ち上げて、言った。

「一年前より、いや・・・半年前より夢中にさせられなくてごめん」

「龍君・・・」

そう名前だけ私の口から零れ落ちたけれど、それに続く言葉はない。すると思い立ったように、急にお隣さんは不動尊の本堂の前に歩いて行った。

「ここで縁結びのご利益頂いたんだよなぁ・・・」

そう感慨深げに見上げるお隣さんが、その後そっと目を閉じて手を合わせた。私もそれに合わせる様に合掌すると、隣からボソボソッと声が漏れ聞こえてくる。

「もし施工部へ転属になって 給料だけで足りなくなったら、土日バイトします。それから・・・」

私がお隣さんの方へ顔を向けるが、彼は真剣な表情で手を合わせたまま目をぎゅっと閉じている。私は再び目を瞑って手を合わせる。すると再び、隣から彼の決意が聞こえてくる。

「亜弥さん家から、出て行きます」

それが聞こえた途端、私は隣の顔を見上げてじっと様子を窺う。すると、彼も顔を上げてこちらに向きを変えた。

「一回、亜弥さん家、出てくよ」

「・・・・・・」

この感じ、懐かしい。そう。急に耳の奥の線がプツンって切れたみたいに、何の音も聞こえなくなる。そして それまで肌で感じ取っていた風の感触とか自然の香りとか、そういった物を感じる線が一瞬にして停電したみたいになる。それなのに、頭の奥の方では『亜弥さん家、出てくよ』が馬鹿みたいにリピートされ続けている。

「このままは、良くないと思う」

本堂の前で深く一礼して その場から離れていく彼の後ろ姿に、私は少し遅れて気が付く。慌てて後を追うと、お隣さんが足を止めた。

「近い内に、部屋探すから」

懐かしい、この感じ。まるで8年前にタイムスリップでもしたみたいだ。熱の時にあの時の夢を見たみたいに、私はゆっくり目の前に立つ彼の顔を確認する。8年前の彼ではない。お隣さんだ。だから・・・夢でもなければ、タイムスリップしてきた訳でもない。私ったらどうかしている。こんな時に“タイムスリップ”なんておとぎ話みたいな事を真面目に考えているんだから。自分に呆れてふっと笑いが零れる。すると、お隣さんが不思議そうに私の顔をじっと見つめた。

「・・・おかしい?」

「あっ・・・ううん。ごめんなさい。別の事考えてて・・・」

お隣さんは私から視線を外して、ポケットに手を突っ込んだ。

「今この状況で、別の事考えられるんだ・・・」

仰る通り・・・何も言い返せない。私が俯くと、少し慌ててお隣さんが言った。

「ううん。責めてるんじゃないよ」

「・・・・・・」

彼は優しい。こんな状況でも、私を傷付けない為の言葉を差し出してくれる。

すると少しして、お隣さんが頬を緩めた。

「ごめん。亜弥さんに甘え過ぎたね」


 あの後、茶店に寄ろうか?と言われたけれど、正直どんな顔をして甘味を味わえばいいのか分からなかったから、お腹がいっぱいと理由をつけて断ってしまった。こういう時、普段通りに振る舞えばいいのか、それとも落ち込んだ自分を見せていいのか、私は今年40にもなるというのに そんな事さえ分からない。


 夕飯をいつもみたいに変わらずに食べて・・・いや、いつもみたいに変わらず・・・ではない。変わらずに向かい合わせで食べたけれど、いつもより会話は無かった。そして、時々お隣さんが私の様子を窺っているのにも気が付いていた。だけど、それに対してどう反応したらいいかが分からないから、私は見て見ぬふりをした。

 すると とうとうお隣さんが、後片付けのキッチンにやってきて、私の隣で口を開いた。

「勝手に決めて、ごめんね」

私は首を横に振った。気が付いたら笑顔なんか浮かべている。私は慌てて意味のない笑顔を引っ込めた。

「この・・・近くがいいかな、とは思うんだけど・・・」

「・・・近く?」

思わず私の手が止まる。

「近くじゃない方がいい?」

「いや・・・近く・・・」

意味するところが分からないから、ただ同じ単語を繰り返す私。近くって?近くじゃ、偶然バッタリ会っちゃうじゃない。私の頭の中が混線状態の間、出しっ放しになった水道を、お隣さんが止めた。

「亜弥さん、どういう事か分かってる・・・よね?」

反射的に何回も頷いてお隣さんの顔を見上げたが、私はちょっと首を傾げた。

「付き合い始めの頃に戻ろうと思って」

多分私の顔が理解していないと物語っていたんだろう。

「一旦ここは出るけど、別れるつもりはないよ」

「・・・そうなの?」

「やっぱり。なんか勘違いしてると思った」

「だって、ここ出てくって」

「そうだよ。だけど、『一回』って付けたよね?」

「・・・・・・」

「一旦出て、普通のカップルみたく外でデートして、時々泊まりに来たりして、そうやって亜弥さん・・・いや、僕らが新鮮な気持ちになれたらいいなって」

『僕ら』って言い直したけど、多分それは優しさだ。言い換えたら“建前”だ。私の最近の心の中を見透かされていたんだ。いや・・・待って。私は先日の妙子との電話を思い出す。彼がリビングのドアを入ってくるまで気が付かず、もしかしたら私がうっかり零した本音を聞いてしまったのかもしれない。

「ごめん・・・」

もう、こう言うしかない。

「いや、僕も責任あるし」

水道の蛇口をもう一回開くと、お隣さんが水の音に負けない声で言った。

「それにさ、一緒に住んでなければ『お盆には来い』とか、『結婚早くしろ』とか、多少言われずに済むでしょ」

ハハッと笑った様にも聞こえたが、水の音でか 私の心が閉じているからか、良くは聞き取れなかった。

「また部屋借りるなんて、余計な出費だよね。ごめんなさい」


 早速次の日、ベッドに入る頃になって、お隣さんが切り出した。

「隣のアパートの2階、空いてるみたい」

「・・・そうなんだ」

私の反応が良くなかったからか、お隣さんは少し様子を見ているみたいだ。

「近過ぎると、デートで会った時の新鮮さがなくなるか」

「・・・・・・」

「実は何軒か見てみたい物件があるんだけど、亜弥さんも一緒に行く?」

正直答えに迷う。二人のこれからの為に仕切り直して始める彼の新生活の拠点を、私も一緒に見に行きたいと言えば、きっと彼は喜ぶのだろう。そんな事が頭をかすめる。でもすぐに、それが母性愛の類だと知る。大学生になる息子が 初めて一人暮らしする部屋を見に行く母親みたいな気持ちに、私はなってしまっている。だから、だから・・・一緒に行かないと言おう。そう決心して口を開きかけた時、お隣さんが先に結論を出した。

「こんな事も甘えちゃいけないね」

お隣さんが肩まで布団に潜り込むと、言った。

「だから・・・明日、帰り少し遅くなるね」


 今年の2月、私が風邪で寝込んだ時をきっかけに 合鍵を渡して、それからたった半年しか経っていないのに、真逆の季節になったからだろうか・・・何だかとっても昔の事の様に感じてしまう。そんな感傷的な気持ちで 玄関の鍵を開けようとした時、携帯が鳴った。

「亜弥芽さん?」

彼のお母さんからだ。今年のゴールデンウィークの帰省について行くのも断って、お盆の帰省も断ろうとしている私は、正直気まずさで胸がいっぱいだ。だけど、“取らない”というのは私の中の良心が許さない。

「突然で悪いんじゃけど、金曜、昼休みに会えるかい?」

「金曜日・・・?はい・・・大丈夫です」

「お昼ご飯、一緒に食べよう」

「・・・こちらに、いらっしゃるんですか?」

お母さんは はっはっはっと笑った。

「龍には内緒ちゃ」

「内緒・・・」

益々警戒心が膨らんでいく。

「いつ、いらっしゃるんですか?」

「木曜」

「どちらにお泊まりになられるんですか?・・・うち・・・いらっしゃいますか?」

又はっはっはっと笑い声が響く。

「内緒だっ言うたろう?」

「あっ・・・そうでした・・・」

「せっかくだからどっかホテルにでも泊まって、東京見物しよう思っちゅう」

電話を終えて思う。あんなに明るくお昼の約束をしたけれど、ただ私と昼ご飯を食べる為だけに わざわざ高知から出てくる訳なんかない。しかもお盆の帰省を待たずして出向いてくるなんて、よほどの気持ちがないと こうはならない筈だ。その上、息子には内緒だっていうんだから、余計に意味深だ。

『一体息子と結婚する気あるの?』

とか、

『自分の歳、幾つか分かってるの?』

なんて怒られるんだろうか?もし本当に結婚するつもりなら、子供が産める内に早く結婚しなさいって言いたいんだろう。親なら当然の事だ。だとしたら、私は何て返事をすればいいんだろう。


「私は子供産む機械じゃありません!って言ったら?」

紅愛があっさりそう言う。

「言える訳ないでしょう?あちらだって息子一人、内孫が生まれるかどうか、深刻だと思うよ」

「そんなのあっちの都合でしょ?あ~やと龍君の幸せとは、又別物じゃない」

「そうはいかないよ・・・。紅愛だって、子供生まれて、ご主人のご両親喜んでたでしょう?」

「そりゃあ喜んでくれてるわよ。でもね、なかなか授からなかったから、最初の頃私もストレスでお義母さんに『子供子供って、子供産まなかったら私は駄目な嫁なんですか?』って啖呵切った事あったわよ」

その強さ、どこから来るんだろう・・・。イコール自信、なのかな?

「それから 弟や妹の所に孫が生まれても、私の事フォローしてくれる様になった。やっぱお互いに思ってる事は言い合わないといけないんだと思った。そうしないと一向に上っ面だけで分かり合えないもん」

紅愛の話は続く。

「お互い同じ女同士。しかも何十年前は、嫁に来た身で同じ立場だったんだから、共感できる事や参考に出来る話も聞けるんだよねぇ。あっ!でもこれ、あ~やが龍君と結婚するなら、の話だけど」

そうなのだ。私はまだ、それ以前の問題の前で立ち往生中だ。

「歳の差カップルって、皆こんな感情になるのかな・・・」

「う~ん・・・」

紅愛から何かヒントが出てくるのを、電話をぎゅっと握りしめて待つ私だ。

「小学校の時の同窓会でさ、30年ぶりに会った男の子が・・・あっ!男の子って言っても、もういいおじさんだけどね。その田村君ってのが、20近く若い嫁貰ったって、皆の良い餌食になってた。ゴシップ好きの人達に好き勝手言われてたけど、少なからず あ~やの言う様に 保護者的な気持ちになるのは否めないみたいだね」

私の心は1ミリも動かない。

「愛情なんてさ、百人いれば百通りの形があるんだし」

分かってる。だから、私の心はまだどちらにも傾かない。

「むか~しの時代考えてごらんよ。会った事もない相手の所に、親の声一つで嫁に行かなきゃいけない人だっていたんだよ。それ考えたら、今のあ~やの悩みなんて、贅沢なもんよ」

「そうだよね。じゃあ・・・って、私がなると思う?」

私の耳に紅愛の大きな笑い声が聞こえてくる。

「その言い方聞いてると、私に説得してもらうの待ってるの?」

ドキッとして、心がぐらっと動く。やはり鋭い。相変わらず、自分でも気が付いていない私の気持ちが見えているみたいだ。すると突然、紅愛が大きな声を出す。

「甘ったれな~い!」

こうして喝を入れられて、私の背筋は一瞬にしてしゃんとする。

「あ~やも龍君も、案外似た者同士かもしれないよ」

「え・・・?それって・・・いいの?悪いの?」

「あのねぇ・・・」

紅愛の口調が、急に子供に諭すみたいに変わる。

「良い悪い、正解不正解、そんな話してるんじゃないの。自分がどんな人生を歩んでいきたいか?なんだよ」

どんな人生・・・?そうだ。私は彼に『思う様に生きて』なんて まるで立派な生き方をしてきた人みたいに偉そうに忠告しておきながら、自分では自分の事をまるで分かっちゃいないんだ。


 木曜から私は何だか落ち着かない。もうお母さん、東京に着いたかな・・・とか、お隣さんに明日、『お昼何食べた?』なんて聞かれたらどうしよう・・・とか、そんな心配が次から次から溢れてきて、何をしても目の前の物が見えていないみたいに現実を生きている実感がない。お昼を食べながら一体何を聞かれるんだろう・・・とか、私は自分の気持ちを上手く説明できるだろうか・・・とか。就職試験の面接前夜みたいな気分だ。

夕飯を食べながら、お隣さんが言った。

「明日、仕事の後でまた部屋見てくるから、少し遅くなるよ」

「うん。わかった」

『明日』とお隣さんが切り出しただけで、私の心臓がどきんと飛び跳ねてひっくり返りそうになっているんだから、ほんと私はノミの心臓だ。

「お袋には、部屋出てく事まだ言わないでよ」

「え?!な・・・なんで?急に」

私の声がひっくり返っている。

「ちゃんと、決まってから順に話そうと思ってるから」

「あ・・・うん。そうだね」

必死に内心自分のノミみたいな心臓を摩りながら、苦手な仮面を被る。

「・・・なんで・・・私に・・・?」

確認してみる。お隣さんは知っているんだろうか?私が明日お母さんと約束しているのを。するとお隣さんは、携帯をいじりながら言った。

「お袋と直接話す事、あるでしょ?」

「・・・・・・」

多分私が相槌を忘れていたのは、実際に時間にしてそう長くはなかったと思う。しかし、何分も金縛りが続いた様な地獄の瞬間だった。・・・もしかして お隣さんがお母さんに、私と会う事を頼んだのかもしれない。

「前にも、直接亜弥さんに電話してきた事あったし」

私は能面みたいに固まったまま、辛うじて相槌だけ打った。

「あ・・・そうだね」


 次の日の昼休み、駅前での待ち合わせに、お母さんが笑顔いっぱいに現れる。

「忙しいとこ呼び出して、ごめんね」

挨拶を返す間も与えす、母親は辺りをキョロキョロ見回して言った。

「移動販売車のお弁当屋さん、いっぱいあるがよね~」

駅前にはキッチンカーが何台も停まっていて、昼時は近くのサラリーマンやOL達がランチを買いに集まってくる。

「遊園地みたいじゃき」

子供みたいに興味のある方へ、どんどんと足を向かわせた。私はそれの後に黙って続く。

「うち、これ食べてみたい」

指を差したのは、ベトナム料理のキッチンカーだ。ご飯の上にお肉やパクチーが乗っている写真を食い入るように見ている。

 注文すると外国人の店主が、ご飯に具材を盛りながら聞いた。

「パクチーだいじょぶ?」

「お~イエ~ス!」

ノリの良い返事を返す母。すると、店主も顔が一段明るくなる。

「パクチー美味しい。いっぱい乗せる?」

「お~、いっぱいいっぱい。いっぱいイエ~ス!」

私は少し心配になって、お母さんに確認する。

「パクチー、お好きなんですか?」

「パクチー?何それ?」

やっぱりだ。やっぱり分かっていなかったんだ。店主がパクチーを大盛りにするのを、私は慌てて止めた。

「上に乗ってる緑のがパクチーです。香草なんですけど・・・」

覗き込んで、母が言った。

「あ~、三つ葉みたいやね。うち、三つ葉は好きちゃ」

すかさず『好き』という単語を聞きつけて、店主が今にもまた 大盛りにしようとしている。だから私は慌てて説明を加えた。

「結構好き嫌いの多い香草です。日本にはあまり馴染みのない味というか・・・」

「そうなが?」

「パクチー無くても、充分美味しいとは思いますけど・・・」

母は私の顔と店主の顔と写真を交互に見比べて迷う。

「やめとく?」

店主がようやくパクチーを挟んだトングを置いた。

「亜弥さんは好き?その・・・パク・・・なんとかっていうの」

「まぁ・・・はい。食べられますけど・・・」

「じゃ、食べてみるき」

「あ・・・大丈夫ですか?」

やはり念を押してしまう。すると、お母さんはまるで少女の様な満面の笑みを浮かべる。こういう感じ、凄くお隣さんと似ている。

「せっかく東京に来たんやき、何でも挑戦だわ」

パクチーを通常盛りで注文すると、店主が嬉しそうにこちらを見た。

「お母さん、いいね~。パクチー美味しいよ」

「お~、センキューセンキュー!」

近くに並べられたテーブルに座ると、母が笑いながら私に言った。

「うち、はちきんやろう?」

はちきん・・・前にお姉さんの事を、お隣さんがそう形容していたのを思い出す。確か“男勝り”的な意味だったような・・・。

「あ、“はちきん”って分かるがか?」

「あ・・・はい。前に龍さんが・・・」

「うちの事、言うとったがか?」

「いえ・・・お姉様の事を・・・」

それを聞いて、母親は大きな口を空いっぱいに向けて開け、あははははと笑った。

「あの子は間違いのう“はちきん”じゃ」

パクチーの乗ったアジアンライスを、スプーンいっぱいに口に運んだ。

「・・・どうですか?」

良く噛んで、良く味わっている母の眉間に皺が寄る事を恐れながら、私はその感想を待った。すると母の第一声がこうだ。

「面白い味や・・・」

微妙な顔つきと母の言い方に 私が言葉を探していると、お母さんはまた満面の笑顔で言った。

「さすが東京や。世界の味がする」

つい一緒になって笑ってしまう。お母さんの明るさや茶目っ気に、こちらまでいつの間にか緊張がほぐれている。

「もし苦手でしたら、私パクチーだけ頂きますよ」

「ええよ、ええよ。ベトナム気分味わうき」

そう言っていた母も、やはり少ししてちらっと私の方を窺った。

「亜弥さん・・・」

きた!とうとう本題に触れてくる時がやってきたと身構えて、私は慌てて口の中身を飲み込んだ。そして母が言いにくそうに小声で言った。

「やっぱり・・・これ食べてくれん?」

「え?!」

「この・・・パク・・・」

パクチーの乗った部分を私に見せながら、バツが悪そうに言う。

「はい。もちろんいいですよ」

「ごめんね・・・。やっぱりうちの舌は田舎もんやな」

「そんな事ないです。パクチーは好き嫌いありますから」

そう言う私の顔をじっと見て、母親は心配そうな顔になる。

「亜弥さんは・・・優しい人やね」

その言い方が意味深で、すぐに相槌を打てない。

「こういう所に、龍は甘えちゅーんやろうか」

「・・・・・・」

私は黙ったまま首を横に振った。すると並んで座る母が手に持っていたパックを膝の上に置いた。

「謝らんといけん、思うちょった」

謝る・・・?私の鼓動はどんどんと容赦なく脈打って、悪い想像が溢れて渦を巻く。

「付き合うのは好き同士やきええけど、結婚は反対やって・・・」

思わず『知ってます』と言いそうになる。

「もし子供が出来ざったら、亜弥さんが辛いき・・・そんな事思うちょった」

早く何か言わなくちゃ・・・気持ちばかりが逸る。何か相槌を打たないと、ショックを受けていると思わせてしまう。しかし私のこの口は、気の利いた動きをしないでいるから、お母さんの背中がどんどんかがんで小さくなっていく様に感じる。

「今は子供欲しい人ばかりやないものね」

「いえ・・・」

私は、変なところで中途半端な返事ばかりしてしまう。昔からそうだ。面倒な事になりがちだ。

「亜弥さんは子供、欲しい?」

「・・・・・・」

言えない。『凄く欲しいです』『憧れます』なんて。『ママ』なんて呼ばれて、小さな手にぎゅっと握られれてみたい、なんて口が裂けても言えない。

「それとも・・・仕事、ずっと続けたい?」

首が勝手に横に振れそうになるのを、私は必死で食い止めた。今ここで否定したら、家庭的な事を望んでいる事がバレてしまうから。だから私は湿度の高い空気を、めいっぱい胸に吸い込んだ。

「今の仕事、定年まで続けるつもりでいます」

「・・・・・・」

黙ったままの母親の視線が痛い。だから私はつい、得意のごまかしの言葉を探してしまう。

「亜弥さん・・・無理せんでええき」

「いえ・・・無理なんかしてません。本当にそう思ってます」

そうだ。これは本当だ。マンションを買うと決めた時、そう、契約書に印鑑を押す時、私は覚悟したんだ。この先20年、自分で働いて自分でローンを返していく。そして自分の城をこの手で手に入れるんだって。

しかし母親は、ゆっくり顔を横に振った。

「うちと初めて会うた日・・・覚えちゅう?」

「はい」

「あの日・・・うちが酷い事言うたのを、聞いてしもうたんやろう?」

「・・・え・・・?」

「亜弥さんがトイレに行っちゅう間よ」

「・・・・・・」

「うち、酷い親や・・・ごめんね」

油断したら、涙が出そうだ。涙腺に繋がる神経の糸が、あと一本だけ切れずに辛うじて残っている様な状態だ。気が付いたら私は、首を必死に左右に振っている。

「聞いてません、何も。だから、そんな風に謝らないで下さい」

「亜弥さんが家庭的な子やって、あの子から聞いて知っちゅう」

私は必死にそれを否定しようと、ありったけの力で首を振り続けた。

「ええんじゃよ。もう ええんじゃよ」

そう言いながら、母親は私の手をぎゅっと上から握った。

「子供なんて所詮、授かりものや。年齢だけの問題やない。それに・・・」

母の手が離れる。

「あの子に問題がある場合だってある」

「・・・・・・」

「子供が結婚の全てやない」

母親はにっこり微笑んでこちらを見ている。だから私は、一つだけ質問する事にした。

「でも・・・龍さん、ご長男です」

母は少しだけ考えて、その後いつもの様にはっはっはっと笑った。

「あんた、意外と古いわね」

「え・・・」

母は私の瞳をじ~っと見つめてから、言った。

「そん時はそん時や」

私が返事をしないから、母はもう一度私の手に被せ、手の甲をポンと叩いた。

「子供の事はもうええ。変な遠慮さして悪かった思っちゅう」

母親の切実な視線が痛くて、私は俯いて首を振った。

「で、その次の心配事は、やっぱりあの子の収入か?」

「私じゃなくて・・・龍さんの方が気にしてます」

「そりゃあ、そうろう」

「でも私は・・・」

「ほんで亜弥さん家、転がり込んだんやき」

「いえ・・・それは私が・・・」

「亜弥さんには、げに感謝しちゅうき」

そう言ってにっこり微笑むと、再びご飯を口に運んだ。

「やれるだけやって いかんったら、戻ってくればええんやき」

戻る?・・・そうかぁ。そういう選択肢もお隣さんにはあるんだという事を、私はこの時初めて知る。

「おとおも会社の後継ぎ出来て、喜ぶわ」

会社の後継ぎ・・・?

「お父様って・・・」

母親はひょっこり顔を上げて、またあっはっはと笑った。

「“お父様”なんて柄やない。おとおで充分や」

私は遠慮がちな声で、さっきの続きを喋る。

「何のお仕事されてるんですか?」

「設備工事の小さな会社、やっちゅう」

「それで龍さんも・・・?」

「そうかもしれんね」

いずれは独立したいって言ってたのは、お父さんの会社の後を継ぎたいって事だったのかもしれない。という事は・・・つまり・・・。

「従業員の方、沢山いらっしゃるんですか?」

「わしら夫婦の他に2人だけやき、小さなもんや」

小さいと言えども、二人の従業員を抱えた会社。跡継ぎがいなくて潰す事なんて出来ない。だからきっとお隣さんも、いずれは・・・って考えてるに違いない。

 食べ終わった頃合いを見て、母が時計を見て少し慌てた。

「あらあら、あっちょいう間にこんな時間や」

そして母は、最後にもう一度私の手を握った。

「連休、遊びにおいで。皆、歓迎やき」

母の温かいその眼差しに見つめられ、私は耐えられなくなる。

「ごめんなさい。私達・・・ 多分・・・もうすぐお別れする事になると思います」

当然母の顔が固まる。あの元気でざっくばらんにお喋りする母が 言葉を失っているから、予想以上の“予期せぬ衝撃”を与えてしまった事を自覚する。

「・・・そうなが?」

「・・・すみません」

「すみませんなんて、うちに謝るのはおかしい」

「・・・・・・」

「そんな事になっちょったなんてな・・・」

そう言って、母親は私からそっと手を離し、少ししてにっこり微笑んでみせた。

「ごめんな。何にも知らんで一方的にベラベラ・・・。勘弁してね」

私は黙って頭だけ下げた。すると母親が言った。

「亜弥さんが納得して出した答えなら、うちがどうこう言う事やないき」

私は、今度はもっと深く頭を下げた。


 駅で見送った母親の背中が、焼き付いて離れない。もうきっと会う事もないと思うと、無性に悲しくなる。そんな残像で胸を重たくしながら、夕飯の支度に手を動かしているところへ、お隣さんが帰ってくる。

「今日見てきた部屋、凄く良かった。明日でも もう一回一緒に見に行ってくれないかなぁ」

私は包丁を置いて、火を止めた。

「龍君・・・」

きっと私が全身から醸し出す雰囲気に異変を感じたに違いない。お隣さんの顔から、すっと笑顔が引っ込んだ。

「私・・・やっぱり龍君とは ずっと一緒には居られないと思う。だから、龍君がここを出て行く時に・・・私達、最後にしない?」

意外にも、かなり暫くの間 お隣さんの反応はない。きっと顔の表情を見れば、色んな思いも読み取れるかもしれないけれど、まっすぐに目を見られる程の潔さは私にはない。覚悟は出来ているのに、度胸がないのだ。緊迫したムードが漂っているから、再び手を動かすのも勇気が要る。するとお隣さんの悲しい声が、その張り詰めた空気を破った。

「もう僕の事、嫌い?」

目の前の人が傷ついていくのを平気で見ていられる自分になったら、どれだけ楽だろう。私は首を横に振る代わりに口を開いた。

「龍君には、本当感謝してる。楽しかったし・・・」

するとお隣さんは小さく溜め息をつく。

「亜弥さんは残酷だね・・・」

彼の言葉が私の心臓の真ん中に一突きする。

「『ありがとう、さようなら』って言われて、こっちも『こちらこそ』って言えば、綺麗に別れられるの?世の中の大人達は、皆こうやって綺麗に別れて、又次に行くの?」

気が付いた時には、私の頭は横に振られていた。

「はっきり言ってくれた方がいいよ。頼りなくてついて行けない、とか。あんたには愛想が尽きたとか」

「そんなんじゃ・・・」

「いいよ。気遣いなんか要らないよ。何が駄目で何が足りないのかはっきり言ってくれないと・・・子供だから分かんないんだよ」

少々感情的になるお隣さんを見ながら、感じる。私は、こうやって目の前の人を傷付けて・・・いや、目の前の人だけじゃない。その家族も皆傷付けてしまうなら、初めから付き合ったりなんかしなければ良かった。『まずは軽いお試し』の気持ちで・・・なんて、やっぱり間違ってたんだ。

 その晩、お隣さんは鞄に簡単な物を詰めて出て行った。引っ越し先が決まるまで 暫くの間どこかに泊まると言う。

「引っ越しもあるし、余計なお金使わないで。私、一緒に居たくない訳じゃないよ」

しかしお隣さんは、こんな言葉を残して出て行った。

「それ位の金は持ってるよ。結婚しないんだから、もう貯金も必要ないし」


 急に殺風景になった部屋に一人、ぼーっと時間を持て余していると、ラインの着信音が私を現実に呼び戻す。お隣さんからかな・・・?そんな期待と少し怯える気持ちで携帯を見ると、相手は会社の後輩 石川真凛からだった。何故か浅見の連絡先が送られてきている。どういう意味だろう・・・。何かあったのかな・・・?そんな色んな可能性が想像を膨らませる。すると又着信音が弾ける。

『ごめんなさ~い!間違えました!!』

なんだ・・・。やっぱりね・・・。そんな風に納得するも、送られてきた浅見の連絡先を開いてみる。トップ画やアイコンに浅見らしさが現れていて、それが無性に懐かしく私の心を揺さぶってくる。タイムラインにあげた内容を読んでみると、急に涙が溢れてくる。別段変わった話題でもないのに、何故だろう。半年間同じ部署で働いた記憶の欠片が ランダムに浮かび上がって、私の心を僅かに温めた。課長からの飲みの誘いを逃れる為の手立てを講じながら働いた何年間が、浅見が来た事で一瞬にして救われたのだ。苦労が報われた、とでも言うのだろうか。そんな気持ちだった事を思い出す。

『ご無沙汰してます。竹下です』

そう勝手に指が打ち込む。しかし送信ボタンには触れる事が出来ない。私ったら貞操観念までおかしくなってしまったのだろうか。自分が別れを切り出しておいて、彼氏が不機嫌になって出て行ってしまったから・・・なんて、あまりに安っぽすぎる。そう自分を戒めて、私は携帯を伏せた。

 しかし、どうしても携帯が気になる私は、思い切って送信ボタンに触れてみる。あっという間に相手に届いてしまうから、私の心が追いつくのに必死だ。だけどこんな時間だ。もう休んでしまっていて、きっと気が付くのは明日の朝だ。その時には私も、今よりはほんの少しだけ元気になっていて、きっと血迷ったメッセージを送らないで済む筈だ。

そう思ったのも束の間、あっという間に私の送ったメッセージが既読になり、短いメッセージが返ってくる。

『総務の竹下さん?』

『はい。突然にすみません』

『どうした?』

そんな質問に私の指が鈍る。迷った挙句になんとか返事をする。

『石川さんから、間違って私の所に部長の連絡先が届きました』

『あ~、なるほど』

それで全部納得がいった様だ。だから私はこう打ち込む。

『どなたかと連絡取るおつもりだったんですか?』

そこまで打って指が止まる。やめよう。こんな言い方。まるで何か詮索しようとしているみたいで、いやらしい。今の文章を全部消して、私が頭をひねっていると、浅見から先に着信がある。

『皆、元気?』

『はい』

『竹下さんも?』

・・・それには返事が出来ない。見えないんだから 幾らでも嘘は言えるのに、何故か私は本当の事を言おうか迷っている。だからといって、急に身の上話なんかされたら、困るのは浅見の方だ。

『あまり元気ではありません』

そう打って、また考える。・・・やっぱりやめよう。久し振りに、しかもこんな夜遅くに突然連絡してよこした私に気持ち良く付き合ってくれているのだ。だから私は文章を打ち直す。

『お陰様で。部長もお元気ですか?』

すると浅見からこんな内容が届く。

『明日から、こっちは“花と緑と光の祭典”っていうイベントがあって、その準備で今日も遅くまで仕事してたよ』

『大変ですね。お疲れのところ、すみませんでした』

『うちの会社、結構力入れててね、今回。竹下さん、遊びに来たら?』

え?・・・え?!


 明朝早くの新幹線に、気が付くと私は衝動的に乗ってしまっている。昨夜遅く急に決まった予定に、どこか心が明るい。・・・きっと、お隣さんの出て行った部屋に、週末の二日間一人でいつも通り過ごせる自信がなかったからだ。タイミング良く埋まったスケジュールに、ホイホイと私は吸い寄せられていく。


 『イベント会場に着いたら連絡ちょうだい。案内するよ』という浅見の言葉を頼りに、私の足は会場へ向かう。入場にも長蛇の列を成している。私は最後尾に並びながら浅見に連絡を取る。

『今入り口の列に並んでます。かなり列も長いので、もう暫く掛かりそうです。入場できたら、またご連絡します』

すると、すぐに返信が来る。

『関係者用のパスがあるから、並ばずにインフォメーションのゲートまで来て』

指示通りに入場口の一番端にある案内窓口に向かうと、そこには浅見の姿があって、私を見つけるとにっこり笑って手を挙げた。

「遠くからわざわざ、ありがとう。昨日の今日で、竹下さん意外と行動力あるね」

小走りで近付くと、浅見の第一声に 何故かとても嬉しくなる。

「一人?」

「え?・・・あ・・・はい」

一体どういう意味だろう?一人じゃ、いけなかったんだろうか・・・?きっと又私の顔に そんな声が現れていたんだろう。浅見がニコニコしながら言った。

「週末だし、恋人と一緒に来るかと思ってた」

「・・・いえ・・・すみません」

現実逃避でここまで来てしまったのに、急に“恋人”と言われ、心がどんよりと曇天と化す。

「冗談、冗談。総務課の他の連中も来そうな事言ってたから、一緒かなと思ってね」

「あ・・・そうだったんですか・・・」

皆も来るんだ・・・。だとしたら、一人で来た私が 変に誤解されそうで怖い。

「まず、はい、これパス」

そう言いながら浅見は、私の首にパスを掛けた。急に他人に頭の近くに手を差し出されたら、間違ってドキッとしてしまう。もちろん浅見にそんな計算はまるでない。だから私が戸惑っている事すら気が付かずに、もう体の向きを会場内へ向けているのだから。

「新幹線混んでた?」

そんな会話をしていると、懐かしい感じよりも、昨日まで一緒に仕事をしていた錯覚を起こしてしまう位自然だ。

「今日は?日帰り?それとも一泊してくの?」

「どこかに泊まろうかなと・・・」

「じゃ、夕飯でも一緒に食おうよ。皆も来るかもしれないし」

皆が来たら・・・という意味だろうか?

「あれ?何か予定あった?」

私の相槌が気乗りしない風に見えたのかもしれない。私は慌ててそれを否定した。

「まずメイン会場の目玉に行く前に、ここから案内しようかな」

浅見はそう言って、アクアドームという水にまつわるアトラクション会場に私を案内した。


 指定された串揚げ屋で、私は浅見の到着を待つ。昨夜、思いがけなく浅見の連絡先が手に入り、軽い気持ちで連絡を取ってから まだ24時間経っていないのが嘘の様だ。朝早くに東京駅から新幹線に乗って大阪の浅見に会いに来てしまうなんて。二人で会う事を避けてきて、浅見の転勤後も連絡を取らない事を必死に守ってきた自分が、今思うと馬鹿みたいに思う。と同時に、お隣さんとの関係が微妙な今、これも裏切りになってしまうんだろうかと気兼ねする律儀な自分もいる。昨夜別れを切り出して、そしたらお隣さんが出て行った。別れが前倒しになったという事だ。という事は・・・もう、二人の関係は終わったという事になるのだろうか・・・?なるのだろう・・・。きっと・・・そうだ。今日だってお隣さんから連絡はない。あの家に戻っていない証拠だ。私が留守にしているのを知らないのだ。だから もう気兼ねは必要ない・・・私がそう自分に言い聞かせているところへ浅見が現れ、後ろから私の肩をポンと叩いた。

「悪かったね。待たせちゃって」

「いえ。部長こそお忙しのに」

言いながら浅見を見上げると、隣に見た事ない男が一人立っている。

「あ、紹介するね。今一緒に仕事してる佐々木君。今日のアクアドームの責任者」

人見知りの私は慌てて席から立ち上がって深くお辞儀をした。

「こちらはね、東京に赴任してた時の総務課の竹下さん。僕の補佐役を務めてくれてた優秀な社員の方ですよ」

なんで突然この人が一緒に来る事になったんだろう、等という疑問を持つ余裕は私にはなかった。必死にこの状況に馴染もうと、そして浅見の顔を潰してはいけないと自分を保つのに必死だ。

「アクアドーム、竹下さん凄く高評価だったから。ね?」

私は『はい』と返事をする前に、佐々木の目つきが変わる。

「ありがとうございました」

「その辺の具体的な感想を直に聞きたいって。だからこれは直接話してもらった方がいいなって思って、連れて来ちゃった」

それから二度付け禁止のどろソースを付けては串揚げを楽しみ、アクアドームに賭けた熱い思いを佐々木が喋り、それを嬉しそうに聞く浅見を見ながら、私は相槌を打ち続けて2時間が過ぎる。佐々木がトイレへと席を離れると、浅見が笑顔で私の肩をポンポンと叩いた。

「緊張してるね。ごめんね、急に」

「いえ・・・大丈夫です」

そう言った私の顔をじっと見つめて、浅見はまたふっと表情を崩した。

「明日の予定は?」

「・・・明日・・・ですか?いえ・・・別に・・・何も」

「せっかくだから大阪案内してあげたいけど、仕事だからなぁ・・・」

「いえ、分かってます。お気持ちだけで充分です。ありがとうございます」

その時テーブルの上に伏せていた浅見の携帯が震える。

「ちょっと失礼」

その間、私も携帯をチェックする。やはり、お隣さんからの連絡はない。もう本当に終わりなんだと実感する。人って、結婚まで考えていたって やっぱり気持ちが途切れたら早い。その瞬間、プツッと糸が切れた様に終わりを迎える。8年前も今回も同じだ。でもそのどちらも、私が原因を作っているんだ。

そんな風に携帯を見ている間に、佐々木が戻ってくる。

「東京から、明日また3人ほど来ますよ」

浅見が佐々木に言った後、私の方へ顔を向けた。

「石川と小林と高橋、明日来るって」

「あ、そうですか」

顔が何故か引きつる私だ。

「竹下さん、明日も来る?」

「・・・・・・」

私が答えに迷っていると、その場の空気を浅見が全てすくい上げた。

「な訳ないか」

すると佐々木が言った。

「今日、スクリーンのショーはご覧になりました?」

私が浅見の顔を見ると、すぐに浅見がそれに答えた。

「丁度時間が上手く合わなくて・・・ね?」

「あれ、絶対見る価値ありですよ。最新の技術を駆使して、まるで宇宙から地球を見てるみたいな映像が360度のスクリーンで見られるんですよ。VR装着してもろうて観るアトラクションなんで、かなり人気が高いから並ぶかもしれへんけど。あれ見いひんかったら、せっかく来たのにもったいないですわ」

佐々木の熱のある説明を聞いていると、段々興味が湧いてくる。

「そこまで言われたら、観ないで帰れないですね」

浅見も佐々木もはははと笑うから、私の心もほんの少し紛れる。

「どうせ暇ですから、何時間並んでも観て帰ります」

私がそう言うと、浅見が再び携帯を見ながら考える。

「東京から来るその三人が12時頃着くらしいから・・・そこから合流して一緒に行こうか?」

「いえ。私一人で大丈夫です。部長はどうぞ、お仕事と明日来る人達に専念して下さい」

すると佐々木が口を開く。

「僕が案内出来たらいいねんけど、あまり場所を離れられないもんで・・・」

私は二人の顔を見て、大きく手を振った。

「大丈夫ですって、私一人でも。一人には・・・慣れてますから」

一瞬静寂が流れた気がしたから、私は慌ててごまかす様に笑った。そして変な空気になるのを恐れて、私は時計を見る。

「こんな時間までお付き合い頂いて、ありがとうございました。皆さん明日もあるのに、すみませんでした」

「じゃ、お開きとしますか」

浅見がそう言ったから、三人は席を立ちあがった。


「竹下さん、泊まる所取れた?」

店を出たところで浅見が聞いてくる。

「はい。この近くのホテル、予約出来ました」

浅見はにっこり笑顔を返事の代わりにした。

 帰り道、一人になった私の胸には 無性に悲しさが押し寄せる。昨晩出て行ったお隣さんから何の連絡も来ず、だからと言って浅見のあの優しさに慰めてもらおうと思っていた不埒な自分がほとほと嫌になる。私は一体何を期待していたんだろう。金曜日のお隣さんのお母さんとの話や それに伴って出した自分の答え、それらを並べ立てて聞いてもらい、いつもの浅見の包容力にすっぽりと包まれて『よしよし』と頭を撫でてもらいたかったんだろうか?・・・馬鹿だ。私は本当に大馬鹿だ。


 日曜の朝、ホテルの部屋で 気乗りしないまま身支度を整えていると、携帯が鳴る。私は再び心臓が縮まる思いで その主を確認する。しかし相手は、お隣さんではなく浅見だった。

「おはよう。昨日はどうもね」

私も急によそ行きの声に変わる。

「今日は、何時に帰っちゃうの?」

「え・・・特には何も・・・」

「朝飯、食った?」

「いえ・・・まだ」

「良かった。そっち行くからさ、飯付き合ってよ」


 私の宿泊したホテルのレストランで、モーニングビュッフェを食べようと言う。浅見が嬉しそうに、サラダやベーコンやスクランブルエッグを取りに行っている間、私はコーヒーだけを持って席に座る。正直、食欲はない。きっと浅見に誘われなければ、朝食など食べなかっただろう。しかしそれとは対照的に、浅見は次々と皿に盛ったおかずをテーブルいっぱいに運んで来る。それを眺めながら、私は浅見に質問した。

「部長って、おいくつですか?」

「なんで?」

「朝からしっかり召し上がるんだなぁと思って。いつも、こうですか?」

浅見がはははと笑った。

「今日一日しっかり働く為に、ガソリン入れないと」

「朝は、洋食派なんですね?」

「いや」

「え、だって・・・」

私がテーブルの皿達を指差す。

「この後、味噌汁とか鮭とかお新香、取りに行くんだよ」

「え?まだ召し上がるんですか?」

「そうだよ。色々食べたいからビュッフェにしたんだし」

すると、今度は浅見が私のコーヒーを指差した。

「まさか・・・それで終わりにするつもりじゃないよね?」

「・・・あまり食欲ないので・・・」

「駄目だよぉ、ちゃんと朝は食わないと。元気がない時ほど、しっかり食べる!分かった?」

思わずその言い方に私がぷっと吹き出す。

「なんだか・・・お父さんみたいです、部長」

「お父さん?!勘弁してよぉ~、たかだか一回り位しか違わないのに、『お父さん』はないでしょう」

『たかだか一回り位しか』そう言える浅見が羨ましい。私はずっとお隣さんに“一回りも違う”事を気にしてきたんだから。

「はい。これ、竹下さんの分だからね」

そう言って浅見は、フルーツの盛り合わされた皿をこちらに差し出した。

「残さず食べてよ。俺は果物は苦手だから」

本当は苦手なんかでない事位知っている。以前まだ東京に赴任してきたばかりの頃、食事に誘われ、コースの最後に出てきたデザートの果物を見ながら話した事がある。

『部長は嫌いな物とかあるんですか?』

『いや。野菜も果物も何でも食うよ。味にもうるさくないしね』

そう言っていた事がある。こういうさり気ない優しさが、今は胸に沁みる。

黙々と目の前のフルーツを口に運ぶのを見届けながら、浅見が聞いてくる。

「何かあった?」

「・・・え?」

「昨日はゆっくり話聞けなくて、ごめんね」

「・・・・・・」

思わず固まってしまう。

「彼氏と、何かあった?」

「・・・・・・」

「竹下さん、ダメウーマンだね」

「・・・どうしてですか?」

「だって結婚に失敗した人間に、恋愛相談しちゃ駄目でしょ。話聞くだけなら役不足ではないと思うけど、ただの聞き役なら、きっと回りのお友達だっているでしょ?」

言われてみれば、その通りだ。私は何を求めて、大阪まで浅見に会いに来てしまったんだろう。

「・・・そうですよね・・・」

すると今度は浅見が、茶目っ気たっぷりに私を睨む。

「随分だねぇ、竹下さん。普通こういう時、『部長は人生経験豊富だし』とか何とかそれっぽい事言って、持ち上げるもんでしょう?」

その言い方に笑いが込み上げてきて、私はくすくす肩を震わせた。その笑いを止められずにいると、いつの間にか涙がポロポロポロポロ零れてきて、私は慌ててハンカチで目頭を押さえた。その間、浅見はただ黙って待っていてくれる、このゆとりが私には正直心地良い。『どうしたの?急に』とか『辛かったんだね』とか、更には『泣きたいだけ泣けばいいよ』なんて事をベラベラ喋らない感じ。多分、こういう空気に包まれる感じ、浅見でないと味わえない。

暫くして涙が止まると、私は浅見に頭を下げた。

「すみません。お恥ずかしい所、お見せしました」

トマトジュースを一口飲んで、浅見はテーブルに肘をついた。

「ホテルのレストランで、朝から女性が涙を流すなんて、俺相当悪い男みたいでかっこいいよね?」

その言い方も、ちょっと嬉しそうに言ったりするから、私の胸も軽くなる。

「部長にも恥かかせちゃって・・・すみません」

一応、謝る。すると浅見は、言った。

「恥なんか掻いてないよ。朝食食べながら女性が『部長・・・』って言いながら涙流して、目の前の男がゆっくりコーヒーを飲む・・・なんて、かなりスキャンダラスで、いいよ」

この状況、楽しんでいる様にも見える。だから私は言った。

「コーヒーならかっこいいですけど、部長トマトジュースですから」

浅見はジュースのグラスを掲げて、はははと軽快に笑った。

「で?何があった?」

急に浅見が聞いてくるから、私は心の準備が追いつかず 思わず言い返してしまう。

「真面目に聞いて下さらないから、話すのやめます」

「そうなんだよなぁ。それ、俺の損な所。元嫁にも昔、怒られた事がある。『真面目な話してるのに!』って」

そんな打ち明け話に及んでしまうから、私はちょっと慌てる。

「いえ、冗談です。真面目に聞いてくれないなんて、全然思ってませんから」

すると浅見が、じっと私の顔を見てからくすくす笑い始めた。

「そういう所、いいよね?」

「はい?」

「だから、そういう所、いいよ、竹下さん」

「・・・からかってます?」

私は猜疑心の塊みたいな目つきになる。すると浅見はゆっくりと背もたれに寄り掛かった。

「半年って、凄いね」

私がピンと来てない顔を察して、浅見が補足する。

「たかが半年一緒に仕事しただけなのに、こんなに部下に心を開いてもらえるなんて。上司冥利に尽きるなぁと思ってさ」

「それは・・・浅見部長だからだと思います」

少しして、浅見は後頭部に手をやった。

「いやぁ~、こんなの今日の連中に聞かれたら、また誤解されちゃうよ、竹下さん」

誤解・・・。そう。以前その身の潔白を必死になって説いた事があった。私の部長への信頼は、異性としてのものじゃなくて、人間的なものだって。でも今はどうだろう・・・?いや、もしかしたらあの時から、本当はほんの少し異性としての魅力や憧れめいた気持ちが芽生えていたのかもしれない。

私は、質問をしてみる事にした。

「以前、大阪に行く事が決まった時、『家庭を作って家庭が壊れた場所でもう一度一からやり直す』って仰ってましたよね?・・・その後、どうですか?」

「俺の場合の“やり直す”っていうのは、元嫁ともう一回再婚するって事じゃない。仕事人としても一社会人としても両方成長しながら、両方大事にしながら、初心に戻って頑張るって事」

私はその答えを聞いてどうしたかったんだろう。今更自分に問う。『元嫁ともう一度やり直す事になったよ』とでも聞いて、自分の気持ちがどうなるか試したかったのかもしれない。

「お子さん達とは会えてるんですか?」

浅見はにっこり微笑んだ。

「それはね。もうあっちも大人だし、幸い嫌われてもいないみたいだから。そこは元かみさんに感謝してるよ」

私の心に波は立たない。

「奥様とは、連絡取ったり・・・なさるんですか?」

「次男の大学の学費とか家のローン払ったりしてるから、それを振り込んだとか、固定資産税の通知が来てるとか、そんなやり取りはね」

「やっぱり・・・寂しいですか?」

「元々居た人が居なくなるのは、ね。最初っから一人なら、さほどじゃないのかもしれないけど」

私が次の言葉を探している間に、浅見は続きを話し始めた。

「だから最近は、一人の時間を充実させようと、色々新しい事やってみてるよ」

一人の時間を持て余さずに過ごす術を、私は今後使いこなせるのだろうか?いや、もしその答えがNOだとしても、暇つぶしの為にパートナーを選ぶわけじゃない。

「やっぱり・・・一生一人でいる覚悟って・・・必要ですよね?」

本当はマンションを購入すると決めた時、契約書に判を突いた時、その覚悟をした筈だったのに、今またふりだしに戻ってしまった様な気持ちだ。

すると浅見が膝に掛けていたナフキンをテーブルに置いた。

「コーヒー貰ってくるよ。竹下さんも、もう一杯いる?」

「あ!お持ちします。・・・っていうか部長、鮭とかお味噌汁とか、よろしいんですか?」

浅見は腕時計を見る。

「食べてると遅刻しそうだ」


その後コーヒーを一杯ずつ頂いて、私は頭を何回も下げてレストランを後にする。

「今日和食食べ損なった埋め合わせ、今度必ずしてよ」

そう言って、浅見はホテルの前のタクシー乗り場に向かう。送り際に浅見は、またいつもの笑顔を私へ向けた。

「じゃ、また後程」


 大阪から部屋に戻ってきたのは、もう日曜の夜だった。しかし、私が昨日の早朝家を出た時と何も変わっていない。お隣さんはやはり一回もここには帰って来なかったんだと思うと、金曜の夜に出て行った時が二人の最後だったんだと、確信に変わり始める。

 月曜の夜、少し残業しての帰り道、夕食の支度の必要のない私は、ふらっと定食屋に立ち寄る。初めてくぐるのれんだ。定食屋の代名詞になりそうな雰囲気のその店で鮭と肉じゃががセットになった定食を頼む。5分程でトレイに乗ったおかずが目の前に運ばれてくると、私は思わずそれをパシャリとシャッターに納めた。

『昨日は朝の貴重なお時間にありがとうございました。あの日楽しみにしておられた鮭やお味噌汁やお新香、これはほんのお詫びの気持ちです』

そう浅見に送った後に、続けて自分の目の前の定食の写真を送る。

なかなか既読にならないまま、それを食べ終わる頃、浅見から返事が来る。

『美味そうだね。竹下さんの手作り?』

『いえ。近所の初めて入った定食屋さんの、今日の私の夕飯です』

そんな冗談みたいな文章を思い切って送ってみる。浅見なら、こんな軽いジョークを笑って流してくれるだろうという期待を込めて。しかし既読だけが付いて、すぐの返信はない。

イベント開催中の忙しい期間に、こんな下らない私とのお遊びに付き合っている暇はきっとないのだ。

『お忙しい時に下らないメール、失礼致しました。お体に気を付けて、お仕事頑張って下さい』

私はそう送って、店を出た。


 玄関に入ると、一足男物の靴が脱いである。お隣さんだ。即座に心臓が縮こまるのが分かる。寝室で荷物をまとめるお隣さんに掛ける声の正解が分からない私だ。

「おかえりなさい」

恐る恐るそう声を掛けてみる。するとお隣さんはこちらを見ずに言った。

「部屋決まったから。明日、午前中に荷物出すから」

思わず『ごめんなさい』と言いそうになって、一歩手前で止める。

「うん・・・」

荷作りするお隣さんをじっと見つめる。その視線を感じてか、お隣さんが手を動かしながら言った。

「あと少しでまとまるから、もうちょっとだけ時間、下さい」

この言い方・・・今日も荷物が片付いたら出て行くんだ。語尾に付いた他人行儀な言葉と、その意味している所が耳の奥に残って私を揺さぶりにくる。

 それから暫くして、寝室から出てきたお隣さんが、私の目の前に合鍵を置いた。

「これ・・・明日の朝もう一回だけ使ったら、出る時ポストに入れておけばいいかな?」

「うん、そうだね」

「じゃ・・・もう一日だけ、お借りします」

ぺこりと頭を下げたお隣さんに、さっきと同じ距離を感じる。だから私も同じ様に頭を下げた。

「連絡先は・・・どうする?消した方が良ければ消すけど」

「・・・龍君に任せる。私はどっちでも・・・。別に・・・」

「じゃ、明日ここ出た後に消すね。だから亜弥さんも・・・」

「あ・・・うん」

私はお隣さんが言葉で言わない内に慌てて返事をした。

お隣さんがリビングを出る直前で、一旦立ち止まった。

「土日、居なかったよね?」

「・・・・・・」

「どこ行ってたの?」

「・・・大阪に・・・」

「大阪?」

もう終わる。もう終わるんだから、いい子ぶって嘘をつくのはやめよう。私は酸素を胸いっぱいに吸い込んだ。

「うちの会社の大阪支社がイベントやってて、それ見に行ってきたの」

「・・・誰かと一緒に?」

「ううん。土曜から行ったのは私だけ。会社の子達は日曜だけ来て、帰りは一緒に帰ってきたけど」

「・・・そういう事かぁ・・・」

「うん」

「大阪って、部長さんが赴任して行った先だよね?」

「・・・そうだけど」

そう言ってお隣さんはポケットから小さな紙を取り出した。

「二人でホテルでモーニング食べたんだ?」

それは昨日、レストランの会計時に受け取ったレシートだ。チェックアウトの時の精算と一緒にしたのを思い出す。

「・・・・・・」

「・・・食べたんだ?」

「・・・食べた・・・」

お隣さんはそのレストランでのレシートを一気にぐしゃっと握りつぶした。

「随分だね・・・」

「・・・・・・」

強張った私の表情とは対照的に、お隣さんがふっと笑う。

「鈍感で、ごめんね」

お隣さんが出て行った後に残った私の頭の中は、色んな言葉がせわしなく行ったり来たりしている。完全に誤解を生んでしまったけれど、言い訳は出来なかった。だって、実際に浅見と二人でホテルに泊まった訳ではないけれど、私が浅見に慰めてもらいに行った事に間違いはない。そして、浅見の言動にふと心が緩んだのも事実だ。これが裏切りではないのなら、一体何と説明したらいいのだろう。“浮気”という類の中でも、限りなくしてはいけない行為だった様に思う。しかもさっき、定食屋で少しウキウキしながら浅見に写メなんか付けてメッセージを送った自分は、どこからどう見たって完全に黒だ。

 そんな 自分を必死で冷静に分析しているところへ、メッセージが届いたと携帯が知らせる。浅見からだ。

『今のイベントが終わったら、一回本社に行く予定にしてるから、その時は又総務に顔出すね』

確かイベントは8月の第二週で終わりだ。それまでの僅かな期間、浅見と再び会えるのを励みにしては駄目だ。私はそう自分を戒めて、携帯を伏せた。



いよいよ次回、最終話です

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