第20話
20.
私はまた今日も通勤電車に揺られながら、会社に向かう。その日の午後、いつもと変りなく黙々と作業をする中に、総務課のドアをガチャッと開ける音がして、珍しい顔が現れた。
「お久し振りで~す。皆元気にしてる?」
浅見だ。一気に部屋の中が華やぐ。
「どうしたんですかぁ?」
「本社に用があってね」
「部長。もうこの後フリーですか?ご飯連れてって下さいよ~」
そうあっけらかんと発言するのは小林だ。課長には皆自分から誘ったりなど決してしないのに、あからさまだ。でも、明け透けに『ご飯連れてって下さい』と甘えられる屈託のなさは羨ましい。
「何?何か食いたいもん、あんだろう?」
小林がニヤッとする。
「新宿にある、海鮮のお店に行ってみたかったんですよねぇ~」
曖昧な説明が、友達と割り勘で行くような店でない事を窺わせた。
仕事を終えた総務課の社員3人と私を連れ、浅見は小林にリクエストされた店に入る。
「竹下さん、ごめんね。無理矢理誘っちゃって」
「いえ。便乗出来て光栄です」
小林の他に都合がついて一緒に行くと名乗りを上げた若い社員が3人決まったところで、浅見が『お目付け役に竹下さんも来てくれると助かるなぁ』と言われたのだ。
小林がリクエストしたこの店は、新宿の高層ビル街に建つホテルに入っている海鮮鉄板焼きのレストランだ。窓の外には新宿の夜景が広がっていて、特別な日のデートで使われる様な店だ。
「雑誌に載ってたんだけど、ちょっとお高くてね・・・。今日はラッキー」
小林が悪びれもせず、ピースをする。それを見て、浅見が言った。
「俺はめっしーか!」
はははと笑ったのは私と浅見だけだ。
「何ですか?“めっしー”って」
若者達は知らないらしい。キョトンとした顔をしている。
「ご飯食べる時に呼ばれる男の事、昔は“めっしー君”なんて呼んだんだよ。足代わりに車で呼びつけるのは“あっしー君”」
若者3人はきゃははははと笑っている。私だけだ。失礼にならないか気にしているのは。
「こういう所は、彼氏に連れてきてもらえばいいだろう?」
「いませ~ん」
「居ても、高くて言えませ~ん」
「亜弥さんはイケメン彼氏と、こういうとこ 来られていいですよね~」
「いや、こんな所そうそう来ないから」
「そっか。誕生日とかクリスマスとか・・・あとはプロポーズの時とかぁ!」
若者が勝手にきゃあ~と盛り上がる。それを見て、浅見が苦笑いを浮かべこちらを見た。
「良かったよ、竹下さんに来てもらって。一人対このお三方だったら、ヘトヘトだったと思うわ」
私は愛想笑いを浮かべて、料理が来る前にと席を立った。トイレへと逃げ込んで電話を取り出す。実は昨日の変な電話の終わり方を気にしてか、お隣さんが今日家に来る事になっていたのだ。会社を出る時に、慌ててお隣さんにメッセージを送ったけれど、返信が来ているか確認をしていなかった。私が、
『ごめん。急に会社の人達にご飯誘われて、お付き合いする事になりました。冷蔵庫に酢豚と春雨サラダが入ってるから、良かったら食べて下さい』
そう送ったのに対して、一言だけ
『了解』
と返事が来ていた。浅見が総務課に居た時には、二人で出掛けるのを嫌がっていたから、つい“会社の人達”とだけしか言わなかった自分が、今更後ろめたい気持ちになる。でも、自分から誘った訳でも二人で会っている訳でもないのだから、そんなに悪い事じゃない筈。そう自分に言い聞かせて、私は自分の後ろめたさに蓋をした。
食事を終えてレストランを出ると、皆会社では決して見せない様な良い顔をしている。
「ご馳走様でしたぁ!」
「あ~、部長に会えて良かったぁ!」
「俺に会えて、じゃないだろ?旨い飯食べられて、だろ?」
あははははと又3人は笑った。
「両方です、両方」
「まったく、お前らは・・・」
ホテルのロビーまで下りてきて、私が聞いた。
「部長は、今日大阪にお戻りになられるんですか?」
「そ。今夜新幹線で帰る。明日からまた普通に大阪で仕事だから」
「大変ですね。お忙しいのに、ありがとうございました」
「お前らも、そろそろ大人なんだから、こういう事言えないとな」
「え~、部長はお父さんみたいだから、なんか無礼講かなって」
「お父さんかぁ・・・」
ロビーを出る間際で、浅見が足を止めた。
「竹下さん、ちょっとだけいいかな?聞きたい事があるから」
「あ・・・はい?」
「部長駄目ですよ~、手出しちゃ。亜弥さん 若いイケメン彼氏いるんですからぁ」
「ドラマの見過ぎだろ。そんなんじゃないよ」
3人がホテルを出て行く後ろ姿に手を振って見送った後、浅見がロビーを指差した。
「ちょっと座ろっか?」
空いているソファに腰掛けるや否や、浅見が切り出す。
「その後総務課、どう?」
「お陰様で、平穏です。部長がいらした時と変わらずに、今も均衡が保たれてます」
「そっか。じゃ皆、気持ち良く働けてるんだね?」
「そうですね」
「課長は?元気ない?」
「・・・そう言われればそうですけど・・・仕事中は以前と同じ、変わらないと思います」
そう答えながら、私は隣の浅見の顔を見る。
「・・・何か?」
「いや。課長が働きにくくなってしまってたら申し訳ないなと思ってね。ほら、俺は短期間で居なくなっちゃうからいいけど、課長は今までそこで積み上げてきたものもあるしね」
その表情を見ながら、私は口を開く。
「部長のお仕事って、神経使うお仕事ですね」
はっはっはっと笑う浅見。
「分かってくれる?」
そう冗談を言ってみせる姿に、私の心がふっと緩む。
「部長って、営業部に配属になった事あります?」
「新入社員の時はやったよ、営業」
「やっぱり大変でした?ノルマとかプレッシャーとか」
「性格によるんじゃないかな?俺はいい加減だから そうでもなかったけどね」
「そうですか・・・」
「新入社員の頃に営業やると、自社製品に愛着が湧くんだよね。商品一つ これが出来るまでには、色んな人の苦労があるんだって思うと、営業に力も入るしね。やっぱり必要な事だったと今は思ってるよ」
私の様子を察して、浅見が足を組み替えた。
「彼氏?」
公私混同してプライベートな質問をしてしまった自分に首をすくめていると、浅見が腕時計を見た。
「1時間位平気だったら、上のラウンジで一杯飲んでいかない?東京見物、付き合って」
夜景の見える窓際の席に案内されて、私はグラスを傾ける。
「営業成績で収入が変わる場合、その毎月のプレッシャーって凄いものですよね?」
「実家に住んでれば、そんなに心配しないだろうけど、自活してれば それなりに深刻だよね」
「・・・・・・」
「彼は一人暮らし?」
「はい」
「結婚も意識してるんでしょ?」
「いやいや・・・そんな全然」
「そうなの?まだ若いから、結婚なんてピンとこないのかな」
「・・・・・・」
「竹下さんは?その彼と結婚したいの?」
「・・・いえ・・・そういうのは・・・」
「へぇ~」
そう言って、浅見はロックグラスのバーボンをチビっとやる。
「竹下さんには、稼ぎの不安定な彼氏は、頼りなく感じるのかな?」
「そんなんじゃありません」
「じゃ・・・竹下さんが買ったマンションで一緒に暮らしたら?」
「・・・・・・」
「俗に言う、結婚を前提にってやつ」
私は返事ができない。
「いいじゃない。家賃とか光熱費とか、二重に生活費出ないから。正直竹下さんだって、助かるでしょ?」
「まぁ・・・はい」
私の歯切れの悪さに、浅見が黙る。沈黙が続くと、やはり私は口を開く習性がある。
「例えばですけど・・・」
私はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「あくまで“例えば”ですけど・・・。営業だと収入が不安定だし、そういう場合、光熱費は向こうで食費は私、っていう風に分けるのは難しいですよね。だとすると、額を毎月収入に応じて変えるとか、思い切って毎月収入に関係なく 無理のない程度の一定額を生活費として入れてもらうとか・・・」
浅見がバーボンを一口飲むと、中の氷がカランと音を立てた。
「彼はその案、飲まないだろうなぁ・・・」
『そうですよね・・・』と言いかけた私を、浅見の視線が止めた。
「家の中で、経理部長やっちゃ駄目だよ」
「・・・どういう意味ですか?」
浅見はロックグラスを手に持って、氷を揺らした。
「合理的且つ無駄を省く経済政策なんか彼に提案してごらん。どんどん男は駄目になってくから。特に、これから伸びようとしてる若くて将来性のある彼氏なら尚更だ」
浅見は私の肩にポンと手を置いた。
「アホでダメな位の竹下さんが、彼を本物の男にするんじゃないかな?」
「ごめんね、遅くなって」
私は慌てて帰宅するなり、テレビを見ているお隣さんに謝る。
「珍しいね。会社の人と食事なんて」
「うん」
「楽しかった?」
「・・・まぁ」
「何食べたの?」
「・・・海鮮の鉄板焼きみたいな・・・」
「へぇ~。美味しかった?」
「・・・うん」
こんな歯切れの悪い相槌ばかりじゃ、そろそろ何か勘づかれてもおかしくないと思っていると、やはりお隣さんの顔が一瞬強張る。
「どこ?」
「新宿」
「・・・の?」
「え?」
「だから、新宿のどこ?」
「・・・西口の・・・ホテルに入ってるレストラン」
「へぇ~、豪勢だね」
「・・・向かいの席の小林さんって子がね、行ってみたかったんだって。それで皆でね」
私はその場から逃げる様に、キッチンに姿を消した。
「酢豚食べてくれた?」
「うん」
「本当は、帰ってからスープ作ろうと思ってたんだけど、ごめんね」
食べ終えた食器が、洗って伏せてある。それを片付けていると、お隣さんがキッチンに顔を出した。
「さっき色々聞いたの、嫌だった?」
「・・・・・・」
私の胸に再び罪悪感が充満する。
「喋りたくなさそうだったからさ」
「そんな事ないよ・・・」
そうは言ったものの、それ以上話す勇気は出ない。しかしキッチンの入り口に立ってこっちを見ている彼の圧に耐えられなくなって、私はその一歩を踏み出す。
「今日・・・部長が大阪から出ていらして、そしたら若い子達が『ご飯連れてって下さい』ってなって、そこに一緒に行く流れになったの。ただ、それだけ」
「あ~、やっぱり」
その言い方が耳に引っ掛かる。私がお隣さんの顔を見上げると、目を合わせずにスッとその場から立ち去っていった。私は、その背中に向かって言葉を投げる。
「やっぱりって、何?」
「やましい事がなかったら、最初っからそう言えば良くない?」
「・・・やましい事なんて、ない。自分から誘った訳じゃないし、他にも同じ課の社員3人一緒だったし、ご飯食べて帰ってきただけ・・・」
そこまで言って、言葉が詰まる。
「何?ホテルでご飯食べて・・・それで?」
挑発する様な言い方のお隣さんに、私は少し煽られた様にむきになって言った。
「その後の課の様子とか聞きたいからって、少しだけ二人で話したけど・・・別にやましい事なんかない。相談したい事もあったし、一時間位話しただけ」
「・・・相談?」
「・・・仕事の事で、ちょっと相談したい事があっただけ」
私はちょっとの嘘を混ぜた。
「へぇ~」
そんな皮肉っぽい相槌だけで、あとは何も言わないから、私の緊張は密かに高まる。
「やっぱ、その部長さんとやらは、頼りになるんだね」
私の口からは思わず溜め息が漏れてしまう。しかし、それでもお隣さんの攻撃は止まない。
「地位も金もあって、おまけに親身に相談にも乗ってくれて。ねだれば旨い飯にも連れてってくれる。そりゃあ、ホテルで二人っきりになる位警戒心がなくなる様な相手なんでしょうよ」
駄目だ。こんな挑発に乗っちゃ駄目だ。自分に必死に言い聞かす。きっと彼は今仕事でスランプに陥っているから、自信を無くしてるんだ。そこに部長の話をされたから きっと面白くないだけで、今のは彼の本音じゃない。だから・・・だから、今の言葉に惑わされちゃ駄目だ。・・・私は目をぎゅっと瞑って、心を塞いだ。嵐が過ぎ去るのを、亀の様に手足を縮めて待つのだ。
真っ暗な世界から音まで消えて無くなると、不安で目を開けたくなるものだ。恐る恐る目を開けると、私を待ち受けていたのは、まだ去っていない嵐の名残りだった。
「言い返しもしないって事は、大筋認めてるか、口論してエネルギー使うのに値しない程度の存在って事か、どっちかでしょ」
私は頬に一筋の温かいものを感じて、慌てて玄関に逃げる。ここに居ちゃ駄目だ。今は少しお互い冷静になる時間が必要だ。そう思った私は、何も持たずに靴を履く。しかし心では、どうか止めてと叫んでいる。
その時だ。後ろから足音が聞こえ、お隣さんは私の腕を掴んだ。
「出てくなら、僕の方でしょ。ここ、亜弥さん家なんだから」
言いながらあっという間に靴を履いて、私のぼーっとした頭に、玄関の戸がバタンと閉まる音だけが響く。一人取り残された私を、当然虚無感が襲う。・・・が、それと同時に“とうとうこの時が来てしまった”という変に冷静な自分もいたりする。彼と何とか上手くやっていきたくて色々試行錯誤しているのに、思った様には進まない。それが却ってあだとなってしまった今回の事・・・8年前とまるで一緒だ。
お隣さんが出て行ってから一時間近くが経とうとしていた。その時電話が鳴る。慌てて手に取ると、相手はお隣さんのお母さんからだ。こんな時にどんな風に出たらいいんだろう・・・。悩む私などお構いなしに、電話は私を執拗に呼び出していた。
「はい」
「ごめんね~、こんな遅くに。まだ起きちょった?」
「はい、大丈夫です」
「龍、今一緒?」
「いえ・・・」
「さっきから電話しちゅうんだけど、気が付かんのか出んき、亜弥芽さんにかけてしもうたが。ごめんね」
「今ちょっと出てて・・・」
言いながらテーブルの上に置いたままの、お隣さんの携帯が目に入る。
「電話、置いて行っちゃったみたいで・・・」
「どの位で帰ってくる?」
「・・・どうでしょう・・・」
「どこに行ったが?」
「・・・すみません。聞かなくて・・・」
「・・・ま、明日も仕事やき、今夜中には帰ってくるろう」
「すみません・・・」
「なんも。亜弥芽さんが謝る事ない。龍も大人なんだし、心配せんで寝てしまいなさい」
「・・・・・・」
「夫婦だって喧嘩くらいするものやき、小さい事気にせんのよ」
このタイミングでの優しい言葉は、私を丸裸にしそうだ。
「あの・・・」
「ん?」
「以前に『龍さんとは結婚考えてません』なんて言っておいて、まだこんな風にお付き合いしたりして・・・すみません。ずっと謝らなくちゃと思ってました」
「・・・まだ、あの時と同じ気持ち?」
「・・・『私なんかじゃ申し訳ない』なんて言っておきながら、本当は結婚出来たらいいなんて思っちゃったりして。本当・・・ごめんなさい」
「謝る事やない」
「・・・・・・」
沼の底に沈んでいきそうな私を、お母さんがふっとすくい上げた。
「今度お休みの時、一緒にいらっしゃい」
「・・・・・・」
「実はね、今日はその電話やったが」
「・・・ありがとうございます。でも・・・」
そう言いかけるが、お母さんは構わず続けた。
「婆ちゃんの卒寿のお祝いやき」
先日法事に一緒に行く事を拒んだ私が、彼の実家の集まりに行く資格なんかない。ある訳ない。
「戻ってきたら、龍さんに伝えておきます」
「亜弥芽さんもよ。一緒に」
「・・・・・・」
「お祝いは大勢いた方がいいき」
「龍さんが何て言うか・・・」
私はずるい。快諾できない理由を、彼のせいにしようとしている。
結局一晩帰って来なかった彼が 玄関の戸を開けたのは、薄っすら朝日が東の空に昇り始めた頃だった。戻ってくるかどうか分からないお隣さんの為に朝食の味噌汁を作っていると、ガチャッという音が私の耳に飛び込む。私がキッチンに居るのを知っていながら、顔も出さず、そのままリビングへ鞄と携帯を取りに行った様子に、私は一層溜め息が漏れる。もしかしたら私に顔を合わせずに仕事に出てしまう事も有り得る。だけど、昨夜のお母さんからの伝言も伝えなければいけない。もし彼が直接玄関へ行ってしまう様なら、その時電話を持って渡しに行こう。私はそう心に決めて、リビングに出て行った。
「おかえりなさい」
恐々そう言ってみると、かすかに返事が返ってくる。
「ただいま」
本当なら『どこに行ってたの?』とか『どこに泊まったの?』とか、『昨日はごめんね』とか、色々言いたい言葉は頭に浮かぶのに、何一つ口から出す勇気はない。何故なら、その一つ一つの答えに自分で勝手に相槌を打ってしまっているからだ。
『どこに行ってたの?』・・・『いちいち言う必要ある?』
『どこに泊まったの?』・・・『夫婦でもないのに、関係ないでしょ?』
『昨日はごめんね』・・・『何をどんな風に悪いって思ってるの?』
そして彼はきっと8年前の彼と同じ様に、こう言うんだろう。
『別れよう』
そう思ったら、お母さんからの伝言なんかすっかり頭から飛んでしまって、呆然と無意味に立ち尽くしてしまう。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
私は彼の背中にそう言う。
「充電しといてくれたんだ?ありがとう」
充電器を抜きながら、彼はぶっきらぼうにそう言った。
「お母さんから電話あったよ。携帯に出ないからって、私に掛かってきた。今日、時間あったらかけてみて」
「分かった」
そう一言だけ言って出て行こうとするお隣さんに、待ったを掛ける様に声を出す。
「朝ご飯・・・食べてく?」
お隣さんの足が止まる。・・・が、振り向かない背中に、私はその返事を待たずに自分で結末を決めた。
「・・・訳ないか」
ごまかし笑いもむなしい。しかし、お隣さんが振り返るから、私の引きつっていた頬もきゅっと引き締まる。
「・・・少しだけ・・・食べようかな」
耳を疑ってしまいたくなる私だ。テーブルに準備しながら、さすがに自分の分まで向かい側に置くのは躊躇われる。
無言で席に着き、無言で手を合わせ、無言で私の作った朝食を食べているお隣さんをそっと見ながら思う。この人は一晩、どんな事を考えていたのだろう。
「ごちそうさま。・・・ありがとう」
そして、玄関に向かう背中に思う。この人が、もう一度ここに来る事はあるのだろうか・・・?でもそれは聞けない。
「じゃ・・・」
いつもの様に『行ってきます』とは言わない。『いってらっしゃい』も帰ってくる人に言う言葉だ。だから当然私も、いつもの様に笑顔で手を振る事はできない。だからせめて、玄関を出て行く前に、一言だけ滑り込ませた。
「気を付けてね」
私も通勤電車に揺られながら、思い立ってお隣さんへメッセージを送る。
『昨日はごめんなさい。昨日の代わりに 今日夕飯準備して待ってるから、来てくれたら嬉しいです』
しかし、帰りまでそれに対しての返信は一切来なかった。
今朝も食べるか分からない朝食を作ったけれど、食べてくれた。だから私は今夜も、食べるかどうか分からない夕食を作る。しかも、お隣さんの好きなハンバーグだ。これなら、食べなかった時冷凍しておけばいい。そんな、最悪の事態に備えて自分を慰める言い訳も用意している。
6時半頃、玄関の扉がガチャッと開いて、お隣さんが帰宅する。
「おかえりなさい」
本当なら玄関に飛び出していって、『来てくれたんだね。ありがとう』と抱きつきたい位の気持ちだ。それなのに、そうは出来ない可愛くない私がいる。『メール送ったのに、なんで返信くれないの?不安だったんだよ』とか、可愛くすねてみればいいものを、私は口が裂けても言えない。きっとこんな時、“真央ちん”なら 女の子らしく可愛くすり寄っていける筈だ。お隣さんの胸に飛び込んで、それまで不安だった気持ちが解放されて涙が溢れたって気にしない。そんな潤んだ瞳のまま、上目遣いにお隣さんを見つめれば、きっとどちらからともなく『ごめんね』となって、仲直りになる。円満解決だ。しかし・・・私みたいな強情で可愛げのない女には、そういうシナリオは用意されていないのだ。だから・・・長引くし、こじれるのだ。
「ご飯・・・食べる?」
可愛く甘えたりすねたり出来ないのなら、せめて何もなかったみたいに出来ればいいものを、それも出来ない。何故なら・・・8年前別れた彼が言った最後の言葉をまだ消化できていないからだ。
『こんな状況で、どうしてそんなに普通に出来るの?』
ギクシャクしていて、確実に心がすれ違っていると分かっている関係なのに、私はあの時も笑顔を必死で作り、今までと何も変わらない生活を維持しようと 毎日同じ会話を繰り返していたのだ。言いたい事も言わず、聞きたい事も聞かずに、ただ余計な話ばかりして、どうでもいい時間を重ねようとしていた私に、とうとうある時 我慢の限界を迎えた彼が印籠を渡したのだ。
よく10年ひと昔と言うけれど、そんなに昔の出来事をいつまでも忘れずにいる私は、かなり執念深い。そして、また同じ事を繰り返している私は、本当に成長が無い。
「・・・ごめん」
たかがご飯を食べるかを聞いただけなのに、私が気まずさを全身から溢れさせるから、お隣さんだって同じ様な空気から抜け出せないでいる。ハッとして、今頃になって私は慌てて取り繕ったりする。
「あっ、いいの、いいの。食べなければ冷凍しとけばいいだけだから」
わざとらしい私は、自分をごまかす様に続けて喋る。
「食べてきたの?あっ・・・いいんだけどね。ごめん。なんか余計な事聞いちゃった。気にしないでね」
「・・・食べようかな・・・?」
思わずその言葉に驚いた私は、彼の顔を見上げた。
「いいんだよ、無理しなくて・・・」
「・・・食べてきてないから」
「・・・あ・・・そうなの?じゃ、今すぐ焼くね」
慌ててキッチンに向かう私の背中に、お隣さんが聞いた。
「亜弥さんは?・・・これから?」
「・・・うん。まだ・・・」
「じゃ・・・一緒に食べようか」
軽く返事をしておきながら、私は自分の感情が溢れるのを抑えるのに精一杯だ。ハンバーグを焼きながら、涙で潤んで視界不良だ。
テーブルに並べていると、ふと冷静なもう一人の私が囁く。『一緒に食べよう』は『食べながらこれからの事を話し合おう』って意味だったのかもしれない。これが最後の晩餐になるんだとしたら、浮かれて嬉し涙なんか流している場合ではない。
ネクタイを外しスーツの上着を脱いで、ワイシャツの上のボタンを外した見慣れた姿の彼を目の前に、私は心の隅っこで覚悟を準備する。どんな話をされても傷付かない準備だ。
『いただきます』と食べ始めて、最初は味噌汁をすする音や食器の音だけの所に、ようやくお隣さんが声を発する。
「・・・美味しい」
「・・・そう?良かった」
口角だけ上げて笑顔を作るが、すぐに真顔に戻ってしまう。色んな声が邪魔をして、一体どんな表情をしたらいいのか分からない。
「・・・ありがとう」
ご飯に対しての『ありがとう』なのか、『今までありがとう』なのか読めず、私の相槌も不自然になる。
しかし、目の前の彼から何か切り出す風もなく、私は無言の時間を埋める為に口を開く。
「お母さんに電話、した?」
「うん」
しかし、想像以上に早く その会話が短く終わる。お隣さんがその内容に触れてくる訳でもないから、私からそれを詮索するのも変だ。再び無言の時が流れるから、私はそっとお隣さんの様子を窺う。これからの事を話し合おうという感じではない。・・・が、彼は箸を置いた。
「亜弥さんの嫌いな男になってるって話、これからするから 覚悟して聞いてくれる?」
私は口に運んだおかずをろくに噛みもせずにごくんと飲み込んで、一旦箸を置いた。
「前に亜弥さん『お金を基準に生きるな』って言ったでしょ?でも今、そうなってる」
その話の始まりは、私が思っていた内容と少し違っていた。
「最近、契約全然取れなくて・・・実を言うと、給料すっごい減っちゃってて。基本給がぐっと減って プラス出来高制になった途端に成績が伸びなくなって。亜弥さんに金貯めてプロポーズするとか意気込んで言っちゃったけど・・・この調子だと、全然無理・・・。冬のボーナスも最低限だったし。最初は、こんなのすぐに挽回してやるって思ってたけど、なかなかそう上手くいかなくて・・・最近は、やっぱ営業に向いてねぇなって」
言って暫くしてから、お隣さんがこちらの表情を確認する様に見る。
「な~んて。可笑しいでしょ?結婚しないって言われてんのに」
だから、私は頭をペコッと下げた。
「ごめんね」
「なんで?亜弥さんが謝るの、おかしいでしょ。僕が言わなきゃいけない事でしょ」
私は首を横に振った。
「ねえ、龍君。もし私が25歳だったら、こんなに焦らないでしょ?」
「・・・違うよ。亜弥さんがいくつとかじゃなくて、自分が言った言葉守れないのが嫌なんだよ」
私はお隣さんの目をじっと見つめた。
「龍君は、お金で私を幸せにしてくれようと思ってるの?」
「そうじゃないけど、生活するのに やっぱお金は必要だから」
勢いでそう口走ってから、お隣さんがちょっと首を傾げてみせた。
「違うな・・・。亜弥さんに収入面で引けを取ってるのが、男として情けなくて嫌なんだな、きっと」
「・・・・・・」
深い溜め息を吐くお隣さんに、私はどう声を掛けていいか分からない。ぽつりぽつり浮かんでくる言葉はあるけれど、どれも正解ではない様な気がして、口から出せない。すると、お隣さんが ちらっと私を見て笑った。
「頼りなくてごめん。亜弥さんの会社の部長さんに嫉妬したのだって、結局敵わないって思ったからだし・・・ただの八つ当たりだね」
私は尚更黙って聞く事しかできない。
「経済力も地位も人徳も 男としての魅力も、自分に無いもの全部持ってる気がして。しかも、20年後自分がそうなれてる想像がまるで出来なくてさ。完全に負け犬の遠吠えだよ。格好悪いね・・・」
「龍君・・・全然負けてなんかいないよ」
お隣さんの耳に、それが届いているのかは分からない。彼はまた続けた。
「仕事が忙しいふりしてみたり、契約取れそうなんて嘘までついて、一体何やってんだろうって・・・。馬鹿でしょ?ちっちゃい男でしょ?嫌いになるかもね、僕の事」
そう言って力なく笑った。今こそ何か優しい言葉で励ましてあげたいのに、上手い言葉が見つからない。だからただじっと彼を見つめる事しかできないでいると、彼は皿に残った添え物のブロッコリーを一口に放り込んだ。それをお隣さんがゆっくり噛んでいる間に、私は口を開く。
「話してくれて、ありがとう」
ようやくそれを伝えると、そこで口が止まらず勝手に動いた。
「自分のやりたい事、私の為に諦めないで欲しい」
そう一言言い終えて、私はもう一度深く胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「自分の目標とか夢とか、まして仕事の事なら尚更。龍君、一度決めた目標を貫かない様な人じゃなかった・・・」
私の人生の中で、こんな直球な言葉使う事、滅多にない。だから口から出すのにも勇気が要った。だけど、ここは心を鬼にして、私はもうひと踏ん張り自分の尻を叩く。
「お金を・・・収入を、何か決める時の判断基準にして欲しくない。お金は生活に必要不可欠で大事だけど・・・お金に左右されちゃう様な人に魅力は感じないよ」
私が息継ぎする合間でさえ、お隣さんからの反応はない。私は祈る様な気持ちで、次の言葉を繋ぐ。
「自分の決めた道を貫いて欲しい。私は、そういう人を尊敬するし支えたい」
私は清水の舞台から飛び降りる様な気持ちで お隣さんの方を向いた。
「施工部に希望出して」
俯いていたお隣さんが、暫くしてふっと笑う。
「ありがとう。でも・・・」
お隣さんは大きく息を吸った。
「うちの会社の施工部は、配属最低三年間は給料がめちゃ低いって有名な話。そこから一人前に仕事出来る様になって段々・・・だって。ま、多分今はそれより低いから、偉そうな事言えないけど」
こんなにお隣さんが小さく見えた事はない。そんな風に思ったら、口から勝手に言葉が飛び出した。
「提案なんだけど・・・ここに来ない?」
それまでじっと俯いていたお隣さんが、ゆっくりと顔を上げた。
「生活費もお互いに浮くし・・・家賃分・・・少しは楽じゃない?」
私の頭の片隅で、妙子の忠告が思い出される。私だって、考えてない訳じゃない。別れる時のゴタゴタを。だけど・・・だけど、放っておけない。前みたいに夢を生き生きと語るお隣さんに戻って欲しい。
すると、暫く考えてからお隣さんが口を開いた。
「亜弥さんは自立した女性だから、そんな風に思えるんだね。今僕は・・・自分が情けなくて恥ずかしいよ」
「ううん、そんなんじゃない。私の理想を ただ押し付けてるだけ」
それを聞いて又、お隣さんが小さく笑った。
「亜弥さんは何枚も上手だね」
軽い冗談でも言っているかの様に笑ったお隣さんだったが、瞳の奥に影があったのが気に掛かる。
付き合い始めてから もう何ヶ月か経とうとしているのに、私の事を未だ『さん』付けで呼ぶ律儀な彼の事を“かわいい”なんて思っていたけれど、彼の本音がそこに隠れていた事に今更気が付く。こんなにずっと私に対しての引け目を感じながら付き合っていたなんて、それを思うと心が苦しくなる。
あの日から、私の彼への感情が少し変化している。いや、“あの日から”ではない。“あの日をきっかけに気が付いてしまった”のだ。




