第2話
2.
「ふ~ん・・・」
大学時代の友人 佐久間妙子が、私の顔を見てニヤニヤこう答えた。今日私は妙子の家に遊びに来ている。小さい子供達を連れて外でゆっくり話せる場所はそうそうない。
私は先週末に隣に越してきた堀之内龍という男の話をしたのだ。いや、正確には、引っ越しの挨拶に来た時のドタバタを笑い話として したのだ。大学時代から天真爛漫で飾りっ気のない妙子の反応が、私の想像と少し違っていた。私と同じ様に大口を開けて 手を叩いて、
『ウケるぅ~』
って返ってくると思っていたからだ。だから私には少し物足りない。
「何よ、その微妙なリアクション」
「そう?そんな微妙?」
「超微妙でしょ。だってウケない?私のバカみたいな焦り」
また妙子は同じ様にふふふと笑って、ニヤリとした。
「あ、妙子には分かんないんだね。お休みの日に寝起きで人が来て慌てるなんて事、もうないだろうしね」
DVDを観ていた筈の子供達が、今度は走り回っている。その様子を見ながら私は聞いた。
「いくつになったんだっけ?」
「雄大が今年6歳で、さくらが3歳」
「もう雄君6歳かぁ・・・」
私がまだ前の彼氏と付き合っていた頃、同じ様に結婚秒読みだった妙子とよく、
『子供も同級生にしたいね』
と笑いながら話していた遠い記憶が蘇る。あれから妙子は順調に運命に導かれ、結婚して子供を授かった。そんな事を思いながら この家と子供達のいる景色を眺めると、不思議な気持ちになる。
「お昼、食べてくでしょ?」
妙子が何枚か出前のメニューを差し出している。きっと又私が遠い目をしたのを察したからだろう。
「私、ピザ食べたいなぁ~」
注文し終えて、私の気持ちは子供みたいに少しわくわくしている。
「ピザってさ、なかなか普段頼まないからね」
「うちも」
妙子も同調する。
「え?子供いても?」
「クーポンとか割引とか無いと、結局高くつくし。人が集まったりした時だけ。うちの子達は、特別な日の食べ物だと思ってる」
そう言って、妙子は大口を開けて笑った。
「あ~やなら、M1枚で頼みやすいんじゃないの?」
「一人だと多すぎるし、色んな味食べられないじゃない?」
「あぁ~、そうか!そうだね」
初めて知った。ピザは家族持ちなら いつでも頼みやすいものと決めつけていた。私の頼みにくい理由とはまるで違うけれど、また違う“頼みにくい理由”があるという事を。
「さっきさぁ、お隣さんが急に訪ねてきて、慌てて身支度整えてって話。あ~やは自分で『もう女やめてる』って思ってるかもしれないけど、まだまだ充分女だよ」
「・・・・・・」
返す言葉につまずく。でも、なんとか喉から言葉を絞り出した。
「だから、矛盾してて無意味な事してるって話よ」
「なんで矛盾?矛盾もしてないし、無意味でもないから。自分で無理矢理そう言い聞かせてるだけでしょ?」
「無理矢理じゃない。私もう何年も前に女のスイッチ切ったって言ったでしょ?恋愛とか結婚とか、そういったジャンルから引退したって」
「女のスイッチ切った人は、こんな服着て来ないし、化粧だってしない。第一ネックレスなんか 以ての外だしね」
「化粧くらいはするでしょ?すっぴんで電車乗れるほど勇気ないわ」
「女やめたって言うのはね、私みたいな事言うの」
そう言って、妙子は手を広げて自分を見せた。
「化粧もしない、服も適当。気にする事といえば、洗濯されてればいいやって程度。ファッションとかメイクとか、まじどうでも良くなっちゃって・・・。旦那も、私が何着ようが どんな髪型してようが 全く興味ないし」
「そんな事ないよ。きっと意外に見てるんじゃない?」
「ないない」
笑って妙子がそれを完全否定する。
「子供が生まれてからは、『ママ』としか呼ばれなくなっちゃったし」
「子供育てる同志みたいな感じなのかな・・・?パートナーの形って色々だし。それも素敵だよ」
「ぜ~んぜん」
お茶うけに出してあるクッキーをくわえながら、妙子が言った。
「さくらが生まれてから、夫婦生活も丸っきり無いしね」
「・・・大丈夫なの?それって」
妙子が手についたクッキーの粉をパラパラと払いながら言った。
「私も太っちゃったしね・・・」
確かに妙子は学生時代から比べて かなり太ったのは、私が見ても良く分かる。10kg近くは増えてる様に思う。
「ま、向こうだってお腹も出てるし、髪だって最近怪しくなってきてんだから」
「そうなんだ・・・」
結婚当初の妙子の夫は、細身のスーツをビシッと決めて、少し洒落た眼鏡なんかを掛けていて、いかにも当時流行りのIT系企業にお勤めしてますって感じの人だった。だから今妙子からそう聞いても、正直ピンとは来ない。部屋を見回しても家族で撮った写真はない。
「結婚って・・・そういう事なんだよね・・・」
思わず私の口から、そう漏れる。
「え?」
「だから、一緒に歳を取っていくっていうか・・・。花に例えたら、プリザーブドフラワーじゃないって事。咲いた花が散って実がなって・・・熟して。それを楽しんだら、一旦枯れ木に見えるけど幹は太く伸びてて。またその種が別の所から芽吹いてきて・・・」
「格好良く例えてくれるじゃない」
むふふふと笑う妙子だ。
「結婚して良かったと思う?」
「う~ん・・・」
妙子は腕組みをして首を傾げる。
「子供達を産んだ事は良かったと思ってる」
「旦那さんとは?」
「一人じゃ、子供生まれないしね。そういう意味じゃ、良かったんじゃない?」
へぇ~、そういう感じかぁ。夫婦って、そういう感じになってくんだ・・・。私の思っていた結婚生活とはだいぶ現実は違う様だ。もちろん妙子が世の中の全ての平均だとは思わないけれど、きっと こういう夫婦、少なくないんだと思う。
「あれれ?結婚へのあこがれ、削ぐような事言っちゃった?」
私は慌てて否定した。
「まさか!元々憧れとか持ってないし」
妙子は私の顔をじっと見ているから、もう一言付け足した。
「・・・っていうか、そういうのと無縁の世界で生きてるから」
「そうとは思えないけど・・・?」
またニヤッとする妙子だ。
「私がこういう服着たりネックレスしたりするのは、女をやめてないからじゃない。会社で『ああいう歳の取り方したくないわぁ』って思われたくないだけ」
まだ妙子が納得しない顔をして、こちらを見ている。
「独身、彼氏なし。身だしなみまで落ちぶれたら、完全にイタイ奴になっちゃうでしょ?若い子の目って、結構厳しいからね」
「格好いい先輩を演じてる訳だ?」
「格好良くはなくてもいいけど、陰口言われる様になっちゃうと、一生働いてくのに、居づらくなっちゃうってだけ」
言いながら、自分が情けない。いつも私は人の目を気にしながら生きている。どう見られてるか、どう思われてるか、そんな事が私の生活の基準になってると思うと、本当に情けない。どう思われたっていい。私は私の生き方をするんだ・・・って自信を持つには、一体どうしたらいいんだろう・・・。
夕方マンションに戻って来る。オートロックの玄関に鍵を差し込もうとしたところで、ドアが開いて 中からお隣さんが出てくる。隣には可愛らしい彼女を連れて。
「あ、こんにちは」
爽やかに挨拶され、ちょっと戸惑う。タイミング良く開いたドアの中へすっと入った私を、お隣さんが振り返った。
「あの・・・この辺で美味しいお店、知りませんか?」
昼間お家デートをして、これから夕飯を食べに行こうという事か。若者がデートに相応しいと思う様な店を、私が知っている訳がない。暫く考えている私に、お隣さんが 更に絞り込みを掛けた。
「お酒なんかも飲めたらいいなぁって・・・」
私の頭がフル回転をしているのが分かる。
「ワインなら、西口の郵便局の前のイタリアンがお薦めです。居酒屋系なら・・・この前の三ちゃん麺の向かいの通りを真っ直ぐ行った左側に“三陸水産”っていう お刺身の凄く美味しいお店なんか、どうでしょう?」
「ありがとうございます!」
爽やかで屈託のない笑顔を残して、二人は歩いて行った。
部屋に戻って、私はふうっと大きな溜め息を吐く。またやってしまった。お隣さんに美味しいお店を聞かれ、良い人を演じる為に必死で頭を回転させた私。ん?でも、これって普通の事か?近所の人に ほんの少し親切にしただけだ。別に何もおかしくはない。若い男の子というだけで、意識し過ぎだ。第一、今日見た様に、彼には彼女がいたではないか。何を格好つけようとしているのだ。私はベッドに体を横たえ、テレビのリモコンのスイッチを押した。
次の朝、玄関を出て鍵をかけていると、隣のドアがガチャッと開く。
「あ・・・おはようございます」
お隣さんは私の手に持ったゴミ袋を見て慌てる。
「あ~、今日可燃ゴミの日でしたよね?」
「はい・・・」
「あ~、やべぇ。忘れた」
お隣さんは再びドアを乱暴に開けて、中へと姿を消した。
駅に着く直前で、荒い息遣いの人が私の隣で足並みを揃えた。驚いて顔を見上げると、そこにはお隣さんが歩いていた。
「あ・・・どうも」
「ゴミ、出してきました」
「・・・早いですね」
「足には自信があるので」
そう言って、又人懐っこい笑顔を私に向ける。
「お仕事、どちらまで行かれてるんですか?」
「信濃町です」
「じゃあ、新宿からJR?」
「・・・そちらは・・・?」
「下北です。反対方面ですね・・・残念」
改札を入って別々のホームに降りてから、私は首を傾げる。『残念』・・・?何が残念なのだ?同じ方面だったらもう少し一緒に居られたのに・・・という、良く好きな人とか恋人同士が思う、そういうのではないとしたら・・・。きっと深い意味なんか無いんだ。ただ口から社交辞令的に零れただけ。私はそう結論付けて、いつもの満員電車に乗り込んだ。
今日も終業近くなって、いつもの豊田課長の攻撃を難なくかわせるかの時間帯が近付いてくる。
「今日も良く仕事したなぁ~」
これ見よがしの大きな声だ。若者達は当然見向きもしない。耳栓でもしているんじゃないかと思う程の無反応だ。ここまで徹底していると、かえって尊敬してしまう。人の目ばかり気にしている私には、きっと一生出来ない事だから。
「今日みたいな日は、ビアガーデンなんか大盛況だろうなぁ」
もちろん誰も相手をしないから、返事をするのは私の役目だ。
「そうですね」
私は嫌な予感を察して、先手を打つ。
「今日友達と この後飲みに行く約束してるんですけど、ビアガーデンは混んでそうで やめた方がいいですかねぇ」
「な~んだ、竹下 先約有りかぁ」
ホッと胸を撫で下ろしていると、ターゲットが他の若手社員に向く。
「大野、どうよ。たまには一杯」
名指しで聞かれて 返事をどうするのか、私の方がドキドキしてしまう。
「すみません」
やはりパソコンから目を逸らさず、一言。一撃だ。
「じゃ・・・高橋なんかどう?ご馳走しちゃうよ」
「先約があるんで」
呆気ない程に、ことごとく空振りだ。まぁ想像した通りだが。すると課長が順番にターゲットを絞り込んでくる空気を察して、ポツリポツリと社員が席を立ち始める。私は思わず課長に笑顔を向けて言った。
「月曜から飛ばしちゃうと、一週間持たないですよ、課長」
豊田課長は口をへの字に曲げて、渋々諦めて椅子に座った。
定時まで仕事をして、信濃町の駅までひたすら無心で歩く。すると、後ろから聞き慣れた声がする。
「亜弥さん」
振り返るとそこには、さっきまで同じ総務課で仕事をしていた高橋恭平と石川真凛がいる。
「あ、お疲れ様」
「今日、ありがとうございました」
「え?」
「課長」
「あぁ・・・」
「亜弥さんがあそこで終わりにしてくれて、本当に助かりました」
石川の表情から、凄い人助けをした様な気になる。
「いつもいつも、本当に課長しつこいから・・・」
可愛い顔した石川が苦虫を潰した様な顔をしている。
「仕事の後の酒の事しか頭にないのかって言いたいぐらいですよ」
高橋が歯に衣着せぬ言いっぷりだ。
「まぁね・・・」
「飲みたいなら、一人で行けって話ですよ」
二人共、かなりあれがストレスの様だ。
「そうだよね。そう思っちゃうよね・・・」
「亜弥さんは、そう思わないんですか?」
「まぁ・・・私が若い頃は、上司から飲みに誘われたら その相手するのも仕事の内みたいな時代だったからね・・・」
「なんで勤務時間外まで縛られなくちゃいけないんすか?」
「ほんと!好きでもない相手と、行きたくもない居酒屋だのカラオケだの行って・・・マジ地獄ですよね。時間の無駄」
「まぁね・・・」
「万が一、残業手当出ても行かないっす」
かなりの嫌われようだ。知ってはいたが、直接言葉で聞くと、少し課長が不憫にさえ思えてくる。
「亜弥さん、本当はどう思ってるんですか?課長の飲みの誘い」
「俺らと同じ様に、マジウザいって思ってます?」
「う~ん・・・」
「え?もしかして、たまに付き合って行くの、それなりに楽しんでるって事ですか?!」
「いや~、まさかぁ!」
私は大きく手を左右に振って完全否定した。
「でしょう?なら、はっきり言っちゃいません?そういうの皆迷惑ですって」
「いやぁ~、仕事を皆が気持ちよくする為にも、上司には機嫌よく居てもらう方が建設的な考え方じゃない?それの方が仕事も円滑、生産性も上がるしね。ま、課長の扱い方は、課の中で今の所一番慣れてるのが私だろうから、皆とのクッション役になれたらなって思ってるんだ」
「・・・課長のご機嫌取りまで、部下の仕事なんですか?」
重たい心を抱えて、電車を下りる。『課長のご機嫌取り』と言われた言葉が胸に深く刺さって痛い。今泣ける曲でも聞いたら、涙が溢れて止まらなくなりそうな程だ。自分を全部否定された様な気持ちだ。きっと高橋はそんなつもりで口走ってはいないのだろうが、その言葉が私の急所を射抜いたのだ。そのまま真っ直ぐ帰る気にもなれない。だからと言ってどこかに寄って誰かに会ったり話したりする気分でもない。私は駅前のコンビニに寄ってお弁当を眺める。どれも食欲をそそらない。食欲自体が無いのかもしれない。こんな時は気分転換に雑誌を立ち読みしてみるか・・・。雑誌のコーナーでファッション誌や料理の本をペラペラッとめくってみるが、目には何も入って来ない。溜め息と同時に そんな自分を諦めて 雑誌を棚に戻すと、隣から明るい声が呼び掛ける。
「お疲れ様です」
お隣さんだ。よりによって、今の私と正反対の笑顔を顔中に浮かべている。
「今、帰りですか?」
「あ・・・はい」
「僕もです。前通りかかったら、見掛けたので・・・」
普通、近所で隣人を見掛けたって、わざわざ近寄って声なんか掛けるか?私の中に素朴な疑問が湧いてくる。随分人懐っこい人だ。末っ子気質か?それとも田舎育ちでご近所さんともいっぱい交流のある中に育った人なのだろうか?一瞬にして私の頭の中は、彼の当てずっぽうな分析で一杯になる。
「疲れてます?」
「え?!」
「朝と顔が・・・」
私は慌てて顔を隠す様に、少し俯いた。
「そりゃ、一日働いてきたから・・・多少は」
言いながら、今日帰りに化粧直しをしないで出てきた事を思い出す。友達と約束があるなんて嘘をついた手前、早く会社を出なくちゃと慌てていたのだ。だからきっと化粧崩れした顔が、余計に疲れを感じさせるんだと思うと、コンビニみたいに明るい場所から、早く外の暗がりに出たいと思う衝動に駆られる。
「じゃ・・・私、帰るので・・・」
「あ、僕も帰ります。見掛けて立ち寄っただけなんで」
何故か一緒に帰る事になったこの現実を、まずはいつもの様に受け入れる事にする。すると、まずはお隣さんが話し掛けてくる。
「この町に住んで、何年ですか?」
「・・・6年です」
「へぇ~。住みやすいって事ですよね?」
「ここに来る前は、どちらに?」
「三鷹です。大学卒業して こっちに就職決まって、三鷹に先輩が居たんでそこに一緒に住ませてもらってました」
「こっちに就職って・・・元々はどこのご出身なんですか?」
「四国の高知です」
「へぇ~。四万十川の?」
お隣さんは、また急に人懐っこい笑顔を弾けさせる。
「そうです、そうです。カツオのたたきで有名な」
「そうね、それもありましたね」
つい私まで笑顔になっている。
「先輩の所出るきっかけって・・・何かあったんですか?」
「先輩が結婚を前提に同棲始めるから、お前出てけって」
そう言いながら、お隣さんははははと笑った。
「あぁ・・・なるほど」
こんな普通に相槌を打っているが、私の7年前の話をされている様で、胸がチクッと痛む。
「あ、そうだ。お礼言い忘れてました」
再び話始めたお隣さんの顔を見上げる。
「昨日教えて頂いたイタリアンのお店、あの後行ってみました」
昨日マンションの玄関でバッタリ会った時の話だ。
「窯焼きのピザが凄く美味しくて。ありがとうございました」
「彼女のお口にも合ったかしら?」
「生パスタがめっちゃモチモチで美味しかったって、喜んでました」
「それなら、良かった」
「今度は、もう一軒の刺身の美味しい居酒屋に行ってみようと思います」
「是非是非。あ、四国の人だから、美味しいお魚食べ慣れてて舌が肥えてるかな?」
ニコニコ笑って首を振っているだけで、嫌味がない。何故だろう。若さだろうか?
「また他に良いお店あったら、教えて下さい」
何となく話に区切りがついてしまって、話題が途切れる。何となく気まずく思っているのかどうかを確かめる為に、私はそっとお隣さんの顔を見上げた。しかし私の心配とはよそに、彼はニコニコしていて リラックスすらしている様に見える。そんな私の耳の奥で、さっきまでのあの重たい言葉が再び息を吹き返す。
『ご機嫌取り・・・』
今また私は、お隣さんのご機嫌を取ろうとしたのだろうか?顔色を見て、空気を読んで・・・波風を立てない様に 当たり障りのない話をする。そしてもう一つ、自分と過ごした時間が心地良かったと思ってもらえる様にご機嫌を取るのだ。そんな自分に深い溜め息をつくと、お隣さんがこちらを見た。
「・・・何か、ありました?」
「・・・え?」
「いや・・・今大きい溜め息ついた様に感じたんで・・・」
「あ・・・ごめんなさい」
すると、お隣さんは急に立ち止まって私の方へ向きを変えた。
「僕が、無理やり一緒に帰る方向に・・・。すみませんでした」
腰を90度曲げて謝られると、私まで気まずい。
「いやいや、そういうんじゃないです。ちょっと会社でキツイ事言われて・・・」
急に隣の顔が、心配の色に変わる。
「あぁ、やっぱり。駅前のコンビニで見掛けた時、何か違うな・・・って思ってました」
「そんなに顔に出てました?」
「はい」
そう答えて、お隣さんはにこっと笑った。
「ごめんなさい。気遣わせちゃって」
「いえ」
それだけ言った後で、お隣さんが急に立ち止まる。
「ここのお弁当って、美味しいですか?」
気が付けばお弁当屋さんの前だ。ここは夫婦でやっているお弁当屋さんで、どれも懐かしい味がする。この6年ですっかり顔見知りになってしまったから、時々奥さんの方がインスタントの味噌汁を付けてくれたりする様になった。
「お袋の味っぽくて、私は好きですよ」
「へぇ~。買ってみようかな・・・。僕まだ夕飯決めてなかったんで」
そうだ。私だって、夕飯はまだだ。
「あ、もし竹下さんお急ぎなら、どうぞ先行って下さい。僕、買って帰るんで」
急に『竹下さん』なんて名前で呼ばれてドキッとする。でも、ドキッの意味が違う。私はお隣さんの名前も覚えていないのに、彼はもう私の名前を覚えているのだ。若いのにご近所に挨拶に回って、お隣の名前まで覚えている。なんだか、私よりちゃんとしてる気がする・・・。
「じゃあ・・・私も」
さっきと違って、少しは夕飯を食べてみようかな?という気になってきた。
「お薦めは、どれですか?」
そんなやり取りをしているところへ、奥さんが店先に姿を見せる。
「いらっしゃい、亜弥ちゃん。お疲れ様」
「こんばんは」
私は奥さんにそう挨拶をしてから、メニューを見ながらお隣さんに言った。
「やっぱりお薦めは日替わり弁当かな・・・。今日の日替わり、何が入ってますか?」
「ごめ~ん。日替わり、今日もう終わっちゃった」
「お肉系なら、生姜焼きか唐揚げで・・・、お魚だったら断然サバ塩がお薦めです。ここの鯖、すっごく脂乗ってて美味しいんです」
「じゃ、そのサバ塩弁当にします」
「あ、じゃぁ私も。話してたら食べたくなっちゃった」
いつの間にか笑顔でお隣さんと話している私だ。
「日替わり無かったお詫びに、味噌汁二つ付けとくね」
今日はインスタントじゃない。カップに入った味噌汁が付いてきた。得した気持ちで、段々に笑顔が増えていくのが分かる。
「袋、一緒?」
奥さんがビニール袋を広げながら聞いた。
「いえ、別々で」
ちょっと慌ててる自分が滑稽だ。しかも言い訳じみた事を口走る。
「お隣に越してこられた方です」
「あら~、そうだったの。じゃ、これからもごひいきに」
そう言って、笑顔の奥さんが 何か思いついた顔で下から出したタッパーを開ける。
「ぬか漬け、お店に出そうかと思ってて。試しにちょっと食べてみて」
楊枝に一切れ刺さった胡瓜が差し出される。
「お兄さんも食べられる?ぬか漬け」
「母が漬けてたので、好きで良く食べてました」
「あら~。じゃあ、このオクラ 食べてみて」
私とお隣さんは試食を口に入れ、顔を見合わせた。
「どう?」
「美味しいです」
「うん。オクラ最高」
「あら、嬉しい。じゃ、これも少し持ってって」
それぞれの袋にぬか漬けの入った小さなパックも加わる。
「お近づきの印。亜弥ちゃんは、宣伝してくれたお礼」
袋いっぱいの夕飯をぶら下げて、再び家への道を歩く。
「今日は竹下さんのお陰で、いっぱいサービスしてもらっちゃった」
「いいえ。私の方こそ、一緒に居たお陰で得しちゃいました。ありがとうございました」
嬉しそうに笑いながら、お隣さんが私に質問した。
「さっきのお母さん、『亜弥ちゃん』って呼んでましたけど・・・」
「あ、私 亜弥芽っていう名前なので・・・それで」
「名前で呼ばれるって、随分親しいんですか?」
私は6年前のエピソードを思い出す。
「ここに越してきて間もない頃、お弁当買いに行ったんです。そしたら『娘に似てるわ。名前なんていうの?』って聞かれて、それ以来、買っても買わなくても、会うといっつも『おかえり』とか『お疲れ様』って声掛けてくれるんです」
「第二のお母さんみたいだ。いいですね」
「ここに越してきた頃は・・・少し寂しかったから、救われました」
「ここに来る前は、どこに住んでたんですか?遠くとか?」
お隣さんの質問に呼び起された7年前の記憶が、頭の隅に顔を出す。
「あ・・・いえ。そんな大した意味はないんですけど」
部屋に戻って、さっき買ったばかりのお弁当を開ける。ご飯が温かくて、蓋の裏に水滴が付いている。おまけで貰った味噌汁をすすると、ほんの少し前の傷付いていた気持ちが中和される様だ。その時隣から ゴトンという物音がする。今日はBGM代わりのテレビをつけていないから、お隣さんの些細な生活音が聞こえたのだ。同じお店で買った同じお弁当と味噌汁と漬物を、今隣の部屋で食べていると思うと、少し不思議な感覚だ。そして鯖を一口食べて思う。私には充分美味しいけれど、若い子には少し地味なおかずだっただろうか。もっとフライとかカロリーの高そうな物がいっぱい入ったお弁当を薦めれば良かったかもしれない。脇に添えられたひじきの煮物を食べて、更に後悔が募っていく。つい自分の好きな物を言ってしまうなんて、本当に馬鹿だ。隣の部屋で今これを食べながら、“婆臭い弁当”と思われていたらどうしよう・・・そんな気持ちになる。
『袋、一緒?』
お弁当屋さんの奥さんがそう聞いたけど、一体どう見えたのだろう。恋人?いや、まさか そんな筈はない。弟?後輩?私は頭をブルブルッと振るった。いやいや、きっとそんな深い意味はないのだ。単純に 一緒に買いに来たから、一緒に持って帰るのか?と確認しただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。きっとそうだ。私は鯖とご飯を思いっきり頬張った。