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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
19/22

第19話

19.


「このマンションって・・・賃貸じゃ・・・ないよね?」

お隣さんが急にそんな事を聞いてくる。

「あ・・・うん」

なんか、こういう話、正直気まずい。

「都内にマンション買っちゃうなんて、やっぱ凄いね、亜弥さん」

「全然。家賃払い続ける位なら買った方がいいよって知り合いに言われて・・・。勿体ないよって・・・」

「それにしたって、頭金払って、銀行で住宅ローン借りて・・・凄いよ」

お隣さんの表情が、ちょっと気に掛かる。

「同じ会社に長い事勤めてるから・・・。ただそれだけ」

ちょっと影を感じたのは、何故だろう。独身女が自分で自分の一生の住処を確保する様な生き方に、ちょっと引いてしまったんだろうか・・・。それとも、誰かと結婚して家族を作っていく事を想定していない私に、がっかりしたんだろうか・・・。

「例えばだけどさ・・・住宅ローン僕も一緒に払いながら、一緒に住むっていうのは、どう?」


「そう言われたんだけど・・・」

珍しく妙子からの電話で、私はお隣さんから言われた言葉をそのままそっくり伝えてみる。

「もちろんね、断ったよ。前の失敗もあるし、そう簡単に同棲なんてするつもりないし」

「あ~や、それヤバくない?」

「何が?」

「気を付けた方がいいよ、その彼」

以前から一回り以上年下の彼との交際に否定的な妙子に、順調にいってるよという報告のつもりでした話だったが、意外な反応に私は正直面食らう。

「え・・・どうして?」

「だって万が一だよ、彼に払ってもらったとしてね。問題は別れるってなった時よ。幾ら払ったからその分返せとか、向こうがゲスい弁護士みたいなの付けてきたら、そのマンションの権利取られたっておかしくないのよ」

私が『まさか、そんな大袈裟な・・・』と言おうとすると、そんなの読まれてるみたいに妙子が私の言葉を弾け飛ばした。

「またまたぁって、真に受けてないでしょ?私の話」

図星だ。更に妙子は畳み掛ける様に続けた。

「結構世間じゃ、ある話だよ。だから、あんまり簡単に人信じない方がいいよ。特にお金が絡んだ時程ね。だってせっかく働いてコツコツ貯めてきたお金で買ったのに、損して泣くのあ~やだからね」

「ありがと」

私は一回受け止める事にして・・・いや、受け止めたフリをして、明るい声で続けた。

「ま、だけど、一緒にとか住まないし」


「今日も、月末処理が溜まってて、多分遅くなると思う」

「もしかしたらこっちも、お客さんとのアポ取れたら遅くなるかもしれない」

「じゃ、夕飯別々だね」

私が渡した鍵を使って、最近ではお隣さんが週末に泊まりに来るようになっている。だから金曜になると、先にお隣さんが家に居たりする。多分一、二回週末共に過ごした時間がお互いとても居心地が良くて、もっと一緒に居たい・・・という思いの延長だと思う。それが定着しつつある。私に戸惑いが無かったかと問われれば、当然答えはノーだ。しかし少しずつ増えていく彼の私物に、喜びを感じてしまっていたのも事実だ。以前に『結婚できない』って言った私の言葉を、今彼はどう考えているのだろうと時々不思議になる。けれど、彼はいまどきの若者だ。こんな事、きっと大した事なんて思っていないんだと思う。好きな者同士が一緒にいる。その時間が増えただけの事だ。そう思っているに違いない。


 その晩8時半頃帰宅すると、ソファでうたた寝しているお隣さんの前では、テレビが一人で賑やかな音を立てている。

「ただいま。ベッド行って寝たら?」

寝ぼけ眼でお隣さんが体を起こした。

「あ、おかえり」

「ごめんね、遅くなって。ご飯食べた?」

「あ・・・お客さんとアポ取れて、そのまま飲みに行きましょうって言われて一杯だけ付き合ってきた」

「そうだったんだ。頑張ってるね」

「亜弥さんは?ご飯これから?」

「うん。お弁当買ってきた」

お隣さんが伸びをするのを見て、私は鞄をその場に置いてキッチンへ向かった。

「お風呂これからでしょ?今沸かすから」

「いいや。シャワーで」

立ち上がって風呂場に向かうお隣さんの背中に何か少し引っ掛かるものを感じながら、私は買ってきたお弁当を温める。お店でチンする時間も惜しんで帰ってきたけれど、お隣さんはテレビを見ながら寝てしまっていて、起きてもすぐにシャワーを浴びに部屋を出て行ってしまうんだったら、一分や二分惜しんで帰ってきた自分を少し馬鹿らしく思う。

お弁当を食べている間に、お隣さんがシャワーを終えて出てくるが、ひょいっと顔だけ覗かせて言った。

「先に横になるわ。ごめん」

私の返事なんか聞かず、お隣さんは廊下に姿を消した。私の口から小さな溜め息が漏れるが、それは疲れて帰ってきて 空腹にとりあえず食べ物を詰め込んでホッとした溜め息だと、自分に言い聞かせる。私はもう一度自分に鞭を打って、空になったお弁当のパックを袋に入れて縛る。キッチンでゴミ箱を開けると、そこには朝無かったファーストフード店のコーヒーのカップが捨てられていた。私は燃えるごみの方も蓋を開けてみると、やはりそこにも、朝は無かったファーストフード店の紙袋が小さく丸められて捨てられていた。さっきのお隣さんの様子が胸に引っ掛かり、ザワザワする。だけど、嘘をつく理由も浮かばない。だからきっと、一杯飲みに付き合ったけれど、小腹が空いていたから、帰りに買って帰ってきたのだろう・・・そういう推理で私は自分を納得させた。


 鞄を持って寝室に入ると、まだ電気が煌々とついている。ベッドの上で携帯片手にゲームをしているお隣さんに、私は声を掛けた。

「・・・もう寝てるのかと思った」

「あぁ・・・寝ようかと思ったんだけど、ちょっと気分転換にゲームしてたら目が醒めちゃって・・・」

「そうなんだ・・・」

何だかやっぱり、しっくりこない。

「シャワー浴びてくるね」

私がお風呂から上がって再び寝室に入ると、さっきと全く同じ体勢でゲームをしている。私はいつもよりも早い時間だけれども、ベッドに横になる事にする。

「今日の夜、飲みに誘われたお客さんって・・・」

「男だよ。50代の」

「あ、いやいや、そういう意味じゃなくて・・・」

私は誤解を解く為に、慌てて質問の続きを付け足す。

「顧客の方?それとも、これからの方?」

「あ・・・今通ってる会社の社長さん。でも感触は良いから、もうすぐ契約取れると思う」

「そうなんだ・・・。頑張ってるね」

そんな風に話すお隣さんから、一つも喜びを感じられない。こうして話す間も、ゲームから目を離す事も、手を止める事もない。

「ずっとゲームしてて、目疲れない?」

そこで初めてお隣さんが、携帯を無造作に置いて言った。

「もう寝る?」

「うん。早いけど・・・ちょっと疲れたから」

「じゃ、電気消すよ」

その後、いつものルーティーンでするおやすみのキスをした。

ん?私の胸に再び引っ掛かる何か・・・。そうだ。お客さんと一杯付き合って飲んできたって言っていたけれど、アルコールの匂いが一切しない。私はベッドに横になりながら、真っ暗な部屋の中で考える。何で彼はあんな話をしたんだろう?本当は飲みに行っていないのに、飲みに行ったと言うメリットって何?それとも本当に誘われて行ったけれど、お酒を飲まなかったという事?・・・いや、彼の言う通り現在営業中のお客さんなら、飲みに行こうと誘われて、お酒を一滴も飲まない事なんて考えにくい。自転車なら飲酒運転になるからと断る理由もあろうが、今日は朝雨が降っていたから電車通勤だったらしい。だからお酒を断る理由はない筈なのに・・・。だとしたら もう、その話自体作られた物かもしれない。誘われてもいないし、飲みにも行ってない。ハンバーガーを買って帰ってきて、味気ない食事を済ませて、大して面白くもないテレビを見ながらうたた寝してしまった・・・んだとしたら。

「龍君・・・」

暗い部屋の中、すぐ傍らに寝ている彼に私はそっと声を掛けた。

「何?」

まだ起きていたお隣さんから、すぐに返事が返ってくる。

「今日、元気ないけど・・・何かあった?」

「別に。何もないよ」

「・・・・・・」

これで納得したふりをして、引き下がるかどうか迷う。しかし私は、ほんの少しの勇気で、さっきよりも元気な声を出した。

「そうだ!この間友達からお土産でもらったラーメンあるけど、食べる?」

「・・・今から?」

「・・・この前『美味しかったでしょ?』って聞かれて『まだ食べてない』って言ったら怒られちゃったから。早く食べて感想言わなきゃって思い出して・・・」

暫く考えている間が流れる。

「今日はいいや。ごめん」

このまま背中を向けてしまうんじゃないかと思う位、温度の感じない会話や言葉・・・凄く思い出す。8年前の事を。私は、またこうやって駄目になっていくのかな・・・と現実の逆らえない波を感じて、真っ暗で静かな部屋の中で不安がどんどんと膨れ上がっていくのだった。


 なかなか寝付けなかった私は、夜中に起き出して次の日の夕飯の支度をする。8年前の様に もう頑張らないって決めていたのに、あんな寂しい背中を見たら、じっとなんかしていられずに、私は何かに突き動かされているかの様に冷蔵庫から色んな食材を引っ張り出しては次々品数を増やしていった。気が済むまで ただ黙々と料理をして、気が付いた時には4時を回っていた。


 朝いつもより早く起き出して、再びキッチンに立つ。こんな事いくらやっても自己満足でしかなくて、かえって相手の重荷になるって分かっているのに、不安を払拭する他の方法を私は知らない。

「どうしたの?こんな早くから」

アラームの鳴る前に起き出してきたお隣さんは、眠たそうにそう言った。

「おはよう」

私はにっこり笑顔で挨拶だけすると、他の余計な事は何も喋らない事にした。


 今日は月末の土曜出勤の日だ。朝食を食べながら、私は言った。

「龍君、今日は?」

「別に、何も。亜弥さんは?帰り、遅い?」

「なるべく早く帰ってくる。だから、一緒に夕飯食べよう」

言ってから、また弱気な自分が頭をもたげる。

「あっ、でももしお客さんとのアポが入ったりしたら、全然気にしないで」

営業の彼は、土日でもたまにお客さんからのアポが入ったりする。だから私は、事前に先回りして気を遣う。

「わかった。そうなったら、連絡するよ」


「おはようございます。あれ?今日は随分早いですね」

一番乗りして始業前から仕事をしている私を、出勤してきた小林が驚いた顔で見つける。

「あんまり残業続きで、今日は少し早く帰りたいから」

「へぇ~。デートですか?」

「ううん、そんなんじゃないの。ただご飯一緒に食べるだけ」


 夕方近くなって、私の電話にメッセージが届く。

『アポ取れたから、仕事行ってます』

『良かったね。頑張って』

『亜弥さん、何時になりそう?』

『時間気にせず仕事してきて。私は6時位には帰れると思うけど』

『こっちも、そんなに遅くならないと思う』

『駅で待ち合わせしない?』なんて送ってみようと思ったけれど、仕事を慌てさせたらいけないと思い、思い留まるのだった。


『もうすぐ駅に着くけど、もし龍君が同じ位になるんだったら、駅から一緒に帰らない?』

そう送ってみる。しかしすぐに返信は来ない。もしかしたら仕事が延びているのかもしれないと、私は駅での待ち合わせを諦めた。 

駅で電車を降りて思う。サラダに掛けるドレッシング、今日はちょっと贅沢をしてみようと思い立った私は、家とは反対側の出口を下りて、いつもは行かない少々高級食材を扱うスーパーに向かう。施工部に異動出来ないまま営業部で頑張る彼に 少しでも元気になってもらいたくて、彼の喜びそうな味を選ぶ。

買い物を済ませて店を出た頃、お隣さんから返信が入る。

『アポ取れてたお客さんと長引いて、家に着くの7時位になりそう』

今日も休日返上してまで頑張っている彼を微笑ましく思いながら、私は携帯をしまって、再び歩き始めた。いつもは来ない駅の反対側。バスのロータリーには帰宅を急ぐ人達が、足早に行き交う。その“動”の中に一点“静”の人影に目が留まる。そこにいる筈のないお隣さんが、噴水の周りに置かれたベンチにじっと座っているではないか。見てはいけない物を見てしまった様な、そんな思いにがんじがらめにされながら、私は足を止め、その後ろ姿を暫く眺める。一体何をしているんだろう・・・。仕事で遅くなったっていうのは嘘だったの?ひょっとして・・・家に帰りたくないの?私と一緒にいるのに疲れてしまって、家に居るよりも、こうして一人で外のベンチで時間を潰している方が心地が良いんだろうか。


「ただいま」

私が帰宅してから、おおよそ1時間位してお隣さんが戻る。

「おかえりなさい。お疲れ様」

「ごめんね、遅くなって」

私はにっこり笑顔を必死で自分に押し当てた。

「お腹空いてる?」

「うん。待たせちゃったから、亜弥さんもお腹減ったでしょ?」

こういう気遣いに疲れてしまったんだろうか・・・。私はお隣さんの顔を見ながら、そんな事を考える。

「今日は、凄い品数だね。どうしたの?」

おかずの並んだテーブルの上を見て、お隣さんは言った。

「冷蔵庫の掃除。余り物で色々作ってたら、こんなになっちゃった」

本当はさっき駅前で見た光景の真相が凄く気になっているのに、笑顔を浮かべて、この場の空気を壊さない様に 本音をひた隠しにしている自分って一体何なんだろう。

今日の私は『美味しい?』とか『今日仕事どうだった?』という会話を生み出す事は出来ない。いや・・・出来ないのではない。しないのだ。

お隣さんは、いつもと変わらずに美味しそうに食事を頬張っている。この人のこれも、彼の本音ではなくて私への気遣いなんだろうか・・・?そんな余計な事を考えている私に、お隣さんが言った。

「今日・・・元気ないね」

ドキッとした。まさか私がお隣さんに思っていた事を自分が言われるなんて。

「何かあった?」

それはこっちの台詞だ。私は目の前のおかずがまだ沢山残っているのを見て、首を横に振った。

「ううん、別に。龍君は?」

「こっちも別に」

そう言ってはははと笑うお隣さんに合わせる様に、私も笑顔をあてがう。

会話の少ない食卓に、お隣さんが話題を提供する。

「ゴールデンウィーク、何か予定考えてる?」

お隣さんにそう聞かれ、私は顔を上げずに答えた。

「実家に少し帰ろうかなって思ってる」

「・・・珍しいね」

ちゃんと覚えているんだ。去年私が、『自分の家の方が気楽だし、実家には面倒だから泊まらない』と言った言葉を。

「龍君、たまにはお友達と出掛けたかったらいいよ、気にしないで予定入れて」

お隣さんは、私をじーっと見つめてから言った。

「一緒には出掛けないって事?」

その声が少しいつもと違って聞こえたから、私は慌てて言い訳をした。

「ううん。そうじゃなくて・・・私に遠慮して予定組まないでいいよって意味」

「ふ~ん・・・」

お隣さんがそう言った後、少しさっきより低い声が響く。

「今年は別にどこも行かないでのんびりしようかな」

去年はお隣さん、どんな風に過ごしたんだろう。夏には“真央ちん”と旅行だったし、夏の定番デートの花火大会も、去年の彼女と経験済みだ。だからと言って、8年振りの恋愛をしている私にアイデアが豊富にある訳がない。

 その時、私の携帯に電話が掛かる。母親からだ。

「元気にしてる?」

「うん」

「あのね、爺ちゃんの13回忌を5月にって思ってたんだけど、お兄ちゃんが4月から2カ月くらいベトナム出張になっちゃたんだって。で、遅くなるより早めてやろうかって話になってるんだけど・・・」

「いつ?」

「お寺さんに予定聞いたらね、3月はお彼岸の時期で忙しいからって事で、急なんだけど、たまたま来週の日曜の朝一番が空いてるんだって。だから、亜弥芽の予定が大丈夫だったら、もうそこで決めちゃおうと思ってるんだけど」

「分かった。空けとく」

「でね・・・」

母が一呼吸置くから、私も内心身構える。

「龍さんにも来て頂いたらって・・・父ちゃんが」

「え~?!いいよ・・・」

「どうしてぇ。家族に紹介するいい機会だし」

私は席を立って、その場を離れた。

「だからそれは、その時期が来たらちゃんと紹介するから。それに、知らない人の法事なんかに来たって、彼だって退屈なだけでしょ」

「そりゃ爺ちゃんの事は知らないかもしれないけど・・・家族同然に付き合っていこうっていう父ちゃんの思いなんだよ」

「そうかもしれないけど・・・」

「あとね、日曜は朝が早いから土曜から泊まりで来たら?って。そしたら土曜日に、龍さんを畑に案内したいらしいのよ」

父や母から、私に久々に訪れたチャンスに期待と気遣いをしているのが窺い知れる。だからあんまり無下に断る事もしにくい。

「・・・まぁ・・・じゃ、予定聞いておく。もし行けそうなら又連絡するけど・・・」

「今、龍さんいる?」

「・・・いるけど・・・」

言いながら嫌な予感が走る。

「ちょっと替わってって、父ちゃんが」

「え?!」

私が戸惑っている間に、向こうの受話器からはすぐに父親の声が聞こえてくる。

「もしもし?亜弥芽の父です」

「あ、待って。まだ私だけど・・・」

「なんだ。早く替わってくれよ」

「・・・何話すの?」

「大した事じゃない。畑の野菜の事だ」

私がもたもたしていると、父親が言った。

「龍さんが替わりたくないって言ってるのか?」

「違う、違う!そんな事言ってない」

「じゃ、もたもたしてねぇで早く替わってくれ」

私はお隣さんの前に再び戻ると、電話を渋々差し出した。

「父から・・・」

「僕に?」

「替わってって・・・。大した話じゃないみたいなんだけど・・・」

電話を受け取ったお隣さんに、私は言葉を滑り込ませる。

「適当に話合わせて切ってくれていいから」

電話を耳に当てたお隣さんの顔が、一気に緊張の面持ちに変わる。

「お電話替わりました。ご無沙汰しております」

「いや~、急にごめんね。今亜弥にも話したんだけど、来週の土日何か予定ある?」

「いえ、特には何も」

「あ~、そりゃあ良かった。だったら泊まりで家においでよ。畑をね、見てもらいたくって」

「はい。ありがとうございます」


 電話を終えたお隣さんの表情を窺いながら、私は聞いた。

「何だって?」

「来週の土日で泊まりに来ないかって」

「あ・・・」

やっぱり・・・。私に言ったところで多分消極的な答えしか返ってこない事など、親だからお見通しなんだろう。

「畑見せて下さるって」

きっとそんなの口実だ。獲物をおびき出す餌みたいな物だ。

「無理しないでいいからね」

「・・・・・・」

済んだ食器を重ねながら私が椅子から立ち上がると、お隣さんは言った。

「心配なんだよ・・・きっと」

その言葉に、私の手が止まる。

「そんなの気にしないで。きっとどこの親だって子供の事心配するでしょ?それと一緒だから」

「亜弥さんは・・・一緒には行きたくない?」

うかつだった。すぐに返事が出来なくて、つい言葉が詰まってしまった。すると、お隣さんがもう一つ質問する。

「前の彼氏とは、一緒に実家に帰ったりした?」

どういう意味でこんな事聞くんだろう?私が戸惑っているのは、一目瞭然だったと思う。それでもお隣さんが私の返事を待っている。

「・・・その辺は、きっちり線を引く人だったから・・・行った事はない」

その返事を、お隣さんがどう聞いたかは分からない。

「ふ~ん・・・」

「日曜の事も聞いた?」

「何?」

それは言わなかったんだ・・・。父が上手い事言ってお隣さんをおびき出して、この際家族に紹介しようとしているのが分かる。

「お爺ちゃんの13回忌の法事なの。だから、お兄ちゃん達家族もその日は集まるし・・・」

多分彼を連れて土曜から泊まりで行くとなれば、土曜の夜はきっと実家に皆が集まって一緒にご飯を食べるに決まっている。だから、法事以前に彼の存在を家族中に知られる事になる。私はそれだけ伝えると、食器を下げにキッチンに姿を消した。もう一度テーブルの上を片付けに現れた私に、お隣さんが言った。

「いつ結婚しますって言えないなら、行かない方がいいって事か」

現在、私に嘘までついてるお隣さんと今後どうしたらいいんだろうと悩んでるのに、正直結婚なんて夢の又夢だ。

「大丈夫。後でそれっぽく上手く断りの電話入れとくから」

こういう事を軽くさらっと言っているみたいにする為に、私は無意識に作り笑顔をする癖がある。今もその癖で、その場の空気を乗り切って、私はキッチンに消えた。

久し振りに一緒に食事をしようと張り切ったけれど、果たして意味があったのだろうか。帰りに見た、駅前の噴水のベンチに力なく腰掛けたお隣さんの寂し気な背中が、どうしても瞼の裏に焼き付いて離れない。

そこに手伝いに現れたお隣さんの顔を見る事は出来ない。

「お風呂すぐ入るなら、スイッチ入れるけど・・・?」

「いや、まだいいよ」

「・・・疲れてるみたいだったから・・・」

「そう?全然疲れてないよ。今日は電車だったし」

「あ、そうだね」

無意味にはははと笑ってみたりする自分が、滑稽でならない。

 後片付けを済ませ、風呂のスイッチを押して、私はソファに腰を下ろしたお隣さんに声を掛けた。

「ちょっと、駅の向こうのドラッグストアに行ってくるね」

お隣さんは時計を見た。

「今から?」

「そう。今日ポイント3倍の日だから、まとめ買いしようと思ってたの忘れてて」

「そうなんだ。・・・荷物多そうなら一緒に行こうか?」

「ううん。薬とか、そんな小さい物ばっかりだから」

「気を付けてね」

「あっ、お風呂も沸かしてあるし・・・気にしないで寝てていいから」

すると、お隣さんの表情が少し変わる。

「そんなに遅くなるの?」

「あ、ううん。そういう事じゃないんだけど・・・もし色々見てて遅くなったら、って話」

「・・・心配だから、帰ってくるまで起きてるよ」

「あ・・・じゃ、帰る時ラインするから」

私と一緒で息が詰まるなら、一人にしてあげよう。そんな思いで、用事もないのに外に出る。私は駅前のさっきお隣さんが座っていた噴水のベンチに腰掛ける。お隣さんは一体どんな気持ちでここに座って時間を潰していたんだろう。平凡で地味で面白みのない私との生活は 思った以上に退屈で、飽きてしまったのかもしれない。しかし週末泊まりに来るのが いつしか暗黙のルールみたいになってしまって、時間的な拘束が精神的な拘束となって彼を苦しめているとしたら、早く解放してあげたい。もし彼がこんな単調な私との暮らしに飽き飽きして 好きな人でも出来たとしても、きっと優しい人だから、彼は私がこの歳でまた一人になってしまうのを危惧して『別れたい』なんて言えないだろう。

そういえば、ここ最近おやすみなさいのキスはするけれど、それ以外のスキンシップはない。妙子が前にご主人と夫婦生活が何年も無かったって言ってたけれど、結局後で分かったら、ご主人には他に相手がいたのだ。そう考えると私も、お隣さんから『好きな人が出来た。ここ出て行くね』と切り出される日も、そう遠くないのかもしれない。だとしたら、やっぱり来週の法事は一人で行こう。


 家に帰ると、お隣さんが開口一番こう言った。

「遅かったね」

「ごめんね。つい色々見ちゃって・・・」

にっこり笑顔だが、目は当然合わせられない。私は腕立て伏せをするお隣さんの近くに寄った。

「あのさ・・・」

腕立て伏せの状態で、お隣さんはじっと私を見つめた。

「提案なんだけど・・・」

お隣さんは体勢を起こして、その場に座った。

「毎週、うちに来なくてもいいよ。龍君だって自分の予定入れたいだろうし・・・別々の週末も・・・あっていいと思う」

お隣さんは暫くじっとして、ふと目を逸らした。

「・・・亜弥さんがそうしたいなら、それでいいよ」

そう言って、再び腕立て伏せを再開した。


 ベッドに入ってから思い出される『そうしたいなら、それでいいよ』

興味がないんだ。私とどんな風に過ごすかなんて、多分どうでもいいのだ。そういえば週末に泊まりに来るようになってから、家で過ごす事が増えて、以前みたいなデートらしいデートをしなくなった気がする。寒い気持ちになっていると、寝室にお隣さんが入ってくる。

「来週、行こうと思う」

「・・・え?」

「亜弥さんの実家。法事」

「いいよ、ほんと無理しないで」

「・・・・・・」

「どうしたの?急に」

「・・・亜弥さんの元彼が行かなかったんなら、自分は行こうかなって」

「何、それ・・・」

私はチラッとお隣さんの顔を見る。しかしそこからは何の感情も感じられない。無表情で能面みたいなその顔を見た途端、私の脳裏には急に8年前の記憶が蘇ってきて、胸がぎゅうっと苦しくなる。それはもう最後の方の表情に似ていて、終わりが近付いている事を私に確信させた。しかし、それなのに何故実家に行く等と言うのだろう?

「今回は、やめとこうよ」

私は思い切ってそう言った。

「どうして?」

「どうして?!じゃ、龍君はどうして行こうと思ったの?」

「だから、亜弥さんの元彼が・・・」

私はお隣さんの言葉を途中で遮った。

「それだけ?それだけの理由?おかしくない?」

今度はそれを聞いて、お隣さんが鼻で笑った。

「おかしいだろうね、亜弥さんにしたら。下らない理由」

そう言いながらベッドに入り背中を向けた。

「わかった。いいよ。行くのやめよう。悪いけど、電話で謝っといて」

その日私達は、おやすみのキスをしないで眠りについた。


 仕事帰りに歩きながら紅愛に電話を掛ける。

「つわりとかある?」

「いや~、ぜ~んぜん。あ~やも早く子供作って同級生にしようよ。今なら、間に合うんじゃない?」

私がそれに対して即座に明るい反応をしなかったから、紅愛は早速にその異変に気が付いた。

「あれれ?暫く聞いてない間に、雲行き怪しい感じになっちゃってる?」

幸せ感いっぱいの紅愛に水を差す様で気が引けたが、私は近況を報告してみる事にする。

「早くない?倦怠期」

「倦怠期なのか、何なのか・・・」

「じゃ、ちょっといつもと違う下着とかパジャマとか着てみたりしてさぁ、若者の心を刺激してみる?」

「・・・私に、そういうの求めてないでしょ。かえって気持ち悪いよ」

「そう?そうかなぁ・・・。じゃ あ~やは、どんな打開策を考えてんのよ」

「毎週うちに来なくてもいいよって・・・」

「それ・・・駄目になってくパターンじゃない?むこうの反応は?」

「私がそうしたいなら、それでいいって。多分、興味ないんだよ・・・」

少し考えてから、ちょっと苛立った様子で紅愛が言葉を吐き出した。

「前に私と会った時と全然違うじゃない!あん時は、あ~やと結婚真剣に考えてます!みたいに言っといてさぁ」

「彼が悪いんじゃないよ。私、随分前から結婚できないって言ってあるし。それに私、つまらない人間だからさ、多分ちょっと一緒に生活してみたら退屈だなって感じちゃったんだと思う。よそ行きの私じゃない部分、いっぱい見る訳だし」

「一緒に暮らすって、お互いそんな所見せ合って、受け入れ合ってやってくに決まってんじゃない!平成生まれの若造君は、そんな事も分かんないで結婚結婚言ってたわけ?ままごとみたいな生活思い描いて?」

「きっと そう深くは考えてなかったんだよ。好きだし、一緒にいたいねって位の感覚だったんじゃないかなぁ」

「あ~やの親には、どう説明するつもりなのよ?!」

この前お隣さんが言った言葉『いつ結婚しますって言えないなら、行かない方がいいって事か』を思い出して、私ははははと笑ってごまかした。

「一発逆転狙おうよ!」

紅愛が必死に私の重たい腰を上げようとしているのが分かる。

「私さ、前の時に頑張って頑張って失敗したから、今回は頑張らないって決めてるの。だから、無理に引き止めようとか、もう一回こっち向いてもらおうとか、しないの」

「じゃ何?あ~やは、彼が自分の所から去ってくのを待つだけって事?それでいいの?」

「・・・仕方ないよ、そうなったらそうなったで」

電話の向こうで、紅愛が小さくついた溜め息が聞こえる。

「そういう冷めた感じ、絶対伝わっちゃってると思う。勘違いされるよ。もう自分に興味ないんだなって」

私の胸にその言葉がグサッと刺さる。

「いいじゃない、頑張って駄目になったって。何格好つけてんのよ。あ~やが言う様に、これが本当に結婚の最後のチャンスだって言うんなら、なりふり構わずがむしゃらにもがけばいいじゃない!冷静なフリを装って 涼しい顔して、後で一生後悔するより よっぽど意味があるんじゃないの?」

もちろん、私に反論の余地はこれっぽっちもない。紅愛の言う事が100%正しい。正論だ。今何か一言言い訳でもしようものなら、分厚い盾にはじかれて、もっともな言葉で畳み掛けられるに決まっている。

「でさぁ」

紅愛がさっきよりほんのちょっとだけ優しい声に変わる。

「私に電話してきたって事は、あ~やだって何とかしてここを打破したいって思ってるって事でしょう?」

こういう所まで見透かされている。さっきクールなふりをした分 ちょっと気まずいが、やっぱり私の事を分かってくれている事に心救われる方が、気持ちの多くの比重を占めている。

「こうなった原因って、そもそも何なの?」

「それが分かってたら苦労しないわよ」

「そうね、確かに。いつから、今みたいな感じなの?」

「ここ1カ月位前かな・・・」

「あ~やから見て・・・他に女が出来たと思う?」

一瞬胸がぎゅっとなる。

「・・・わからない」

「帰りが遅くなってるとか・・・携帯を鞄から出してその辺に置かなくなったとか・・・。お金の使い方が増えたとか・・・?」

「お金は全く分からないな・・・」

「全く?!あ・・・まぁそうかぁ。結婚してる訳でもないしね。ねぇねぇ、彼って給料いくら位貰ってるか知ってる?」

「知る訳ないじゃない!」

「そっか・・・。だよね。じゃあ その使い道、ちゃんと把握してる?」

「前は・・・結婚までに貯めるって言ってたけど・・・。私が結婚って縛りをなくしたから、どうしてるんだか・・・。合鍵渡して 週末うちに泊まりに来る様になってから、外に出掛けなくなったから、出費は減ったんじゃないかな」

「じゃ、結構貯めてるのかも」

私は首をひねる。

「いや~、私にお金掛けるの馬鹿馬鹿しくなったのかもよ」

自虐的な発言をして、自分で笑ってみせる。すると、すかさず紅愛の声が飛ぶ。

「釣った魚に餌やらないタイプ?!」

「彼が悪いんじゃないよ。私に魅力があれば こんな事になってない訳だし・・・」

紅愛が今度は少し黙る。

「今どれ位貯まったか聞いた事ある?」

「・・・ううん」

「お金の事、結構知っといた方がいいよ」

紅愛はそう言うが、現実問題聞きにくいのも正直なところだ。


 今晩は珍しくお隣さんの家に夕飯を作りに行く約束をしていた。この間、

『毎週うちに来なくてもいいよ』

なんて言ってしまったからだろうか?お隣さんが、

『見せたい物があるんだ。たまにはうちに遊びに来てよ』

なんて言うから、ちょっと自分でも予想していない位嬉しくなってしまって、すぐに予定を組んでしまったという経緯だ。よく考えたら、お隣さんの部屋は“真央ちん”との思い出があるから遠ざけていた場所なのに、私ったら すっかりそんな事忘れて、ノコノコ向かっている。

もうすぐ家に着く頃、念の為お隣さんにメッセージを送る。

『もうすぐ龍君のお家に着きます。今日は何時頃帰って来られるのかな?』

『今日?!』

私の足が一瞬止まる。そして私は再び歩き出しながらメッセージを打つ。

『今日、龍君家にご飯作りに行く約束してたよね?』

『ごめん!今日営業部の先輩から急に誘われて、これから飲みに行かなきゃならなくなった。本当にごめんね』

買い物袋が急に重たく感じる。私はこんなに嬉しくていそいそと買い物なんかしていたのに、彼は今日の約束を忘れていたなんて。私は立ち止まって返信する。

『もう買い物しちゃったから、冷蔵庫に入れて帰るね』

鍵はこの間、もしお隣さんより私の方が早かった時の為にと渡してくれていたから。

『本当にごめんなさい。泊まってってくれても全然いいけど、遅くなるかもしれないから。また連絡します。ごめんなさい』

 鍵を開けて部屋に入ると、前にご飯を作りに来た時と違う様に感じる。今日はお隣さんが一緒じゃないからだろうか。何となく落ち着かないまま買い物した材料を冷蔵庫にしまうと、さぁどうしようと床に腰を下ろす。部屋を見回してみたりする。ここで“真央ちん”と過ごした事を思うと、やっぱりここに居ちゃいけない気がしてくる。そんな私の目に飛び込んできた雑誌やティッシュの箱やグラスと一緒に テーブルの上に雑然と置かれたままになった通帳。先日の紅愛の言葉がもう一度蘇ってくる。

『お金の事、結構知っといた方が良いよ』

私はその囁きに背中を押される様に、雑誌の下から半分顔を覗かせている預金通帳にそっと手を伸ばす。超えてはいけない一線がある様に感じる。・・・やっぱりやめよう。無断で人の通帳を見るなんて、泥棒と一緒だ。私は、私らしくない行動を取った自分を戒めて、その場から離れた。そう。知りたいなら、本人に直接聞くべきだ。居ない間にこっそり盗み見るなんて、信頼関係で成り立っているこの関係を、根底から揺るがす様なものだ。


 その晩 彼が帰宅したのは12時を回っていた。11時過ぎて、

『今ようやく帰りの電車に乗りました。もう帰っちゃったよね?』

とメッセージが来たが、正直彼からの連絡を待っている間に、ついこんな時間になってしまったのだ。もう帰ろうか、いや そろそろ連絡が来るかもしれない・・・そんな私のいつもの優柔不断のぐずぐずの葛藤を繰り返している内に、結局こんな時間まで居座ってしまっていた。飲んで帰ってきた彼がお茶漬けでも食べられる様にお米を炊いてみたり、明日でも食べられる様に、今日の予定してたメニューを作ってみたり、残りの野菜で浅漬けを急遽作ってみたりしてるうちに、だ。

『ごめんなさい。まだ居ます』

と返事をしてみると、すぐにお隣さんからも返ってくる。

『待っててくれたの?本当にごめんなさい。明日も仕事だから、もう帰るよね?』

彼は私に帰って欲しいのだろうか?彼にとっては予期していない私の訪問。もしかしたら先輩と飲みに行ったというのも、とっさについた嘘かもしれない。他の女の人と出掛けていたんだとしたら、帰ってきて色々作った冷蔵庫の中身を見たら、きっと胸を痛めるに違いない。彼を追い詰める様なものだ。そんな事を考えていたら、返事が返せないのは当然だ。お隣さんが続けてメッセージを送ってくる。

『もしまだ部屋にいるなら、寝ててくれて構わないから』

というメッセージが送信されてきたけれど、そうは言われても寝てしまう気にはなれないものだ。正直、このベッドを使うのは気が引ける。

ガチャッという玄関のドアが開く音がしてお隣さんが帰ってくると、起きていた私の顔を見て、少し目を伏せた。

「今日は、本当にごめんなさい!」

「ううん・・・」

私はいつもの得意の作り笑顔だ。

「部屋も散らかしたまんまで・・・」

言いながらお隣さんは、テーブルの上を片付ける。雑誌の陰に隠れた通帳を見つけて、慌ててスーツの内ポケットにしまっている。

「・・・楽しかった?」

私はそう聞いてみる。

「楽しくはないよ・・・まぁ、先輩とだから・・・」

「そっか。お腹は?お茶漬けとか・・・何か食べる?」

「いいや、ごめん」

私はいつも気になる。彼の語尾に付ける『ごめん』。それを聞く度にいつも胸がチクッと痛む。だから私は首を横に振って笑顔で続けた。

「勝手におかず作っちゃったの。だから、良かったら明日でも食べて。悪くなっちゃったら捨ててね。ご飯も炊いちゃったから、もし明日食べないなら今冷凍しとくけど・・・」

「亜弥さん、明日また来られる?一緒に食べない?今日作ってくれたの」

「ごめん。明日は駄目なんだ」

何のスケジュールもないのに、気が付いたら私はそんな言葉を吐いている。

「じゃ、明日の朝一緒に食べようよ」

私は鞄に手を掛けた。

「今日は帰る。泊まる予定にしてなかったから」

「そうだよね・・・」

玄関で靴を履く私の後ろで、お隣さんがもう一度謝った。

「今日は、本当にごめんなさい。今度必ず・・・」

そこまで聞いて、私は笑顔で振り返る。

「気にしてないから、全然大丈夫。また、今度ね」


タクシーの拾える大通りまで歩きながら、ふと自分が馬鹿らしく思えてくる。一人で勝手に嬉しくなって、すっぽかされて、挙句の果てに終電逃してタクシーで家に帰るなんて。その上せっかく彼が、

『そこまで送るよ』

と言ってくれたのに、笑顔で断ったりしてる。タクシーの中で思いだす彼が帰ってきた時の表情。私から一瞬目を逸らしたのは、今日の時間が、私に言えないやましい事だったからかもしれない、と勘ぐったりするいやらしい私だ。

 

 それからだ。私の中の何かブレーキになっていた物が外れて、衝動に突き動かされる様な感情に自分が負けた瞬間が訪れる。

あのすっぽかされた日から二日後、彼が私のマンションを訪れる。

「この間は本当にごめんね。あの日作ってってくれたご飯、昨日食べたよ。凄く美味しかった。ありがとうね」

罪滅ぼしのつもりなのだろうか。昨夜メッセージでも同じ内容を送ってきておきながら、今日訪ねてきて同じ事を言って頭を下げている。だけど何故か私の心は満たされない。約束を忘れられていた事を謝って欲しいんじゃない。作ったご飯のお礼を言われたいんじゃない。美味しかったっていう笑顔を見たいんでもない。私は・・・私は・・・『見せたい物がある』と言った言葉を、お隣さん自身が忘れてしまっている事が寂しいのだ。彼が言ったあの時、一体何を見せたいと思ってくれたんだろう。それなのに、あの日帰ってきても何も言わなかった彼。昨日も今日もだ。多分、自分の言ったあんな些細な言葉忘れてしまっているんだ。彼にとったら忘れてしまう程どうでもいい事に、私は勝手に嬉しくなったり、ウキウキ買い物してみたり。遠ざけていたお隣さんの部屋に行ってしまったり。39にもなって、幼稚な自分に溜め息が出そうになる。

「ごめん。今日カップラーメンで済まそうと思って・・・夕飯作ってないの」

「いいよ。急に来たんだし」

「龍君、ご飯は?まだでしょ?」

「まだだけど・・・何か買ってくるよ」

いつもの私なら、きっとこういう時、

『あり合わせでいいなら、適当に作るけど』

って言ってると思う。だけど、今日の私の口は動かない。

鞄を置いて財布だけポケットにしまうと、お隣さんは夕飯を買いに出て行った。

 そのすぐ後だ。お隣さんの鞄から携帯のメッセージの受信音が聞こえる。持って出るのを忘れたんだ。今までは、うちに来るとすぐにテーブルの上とかに無造作に置いていた電話が、今日は鞄の中だ。その後3回立て続けに受信音が鳴るから、私の胸騒ぎが大きくなって、とうとう私はリビングのドアを閉めて彼の鞄に手を掛けた。中から取り出した携帯電話の画面を、私は恐る恐る明るくする。液晶にはロック画面が表示される。・・・もちろん、解除キーの見当はつかない。私が少し冷静に戻った瞬間だ。やっぱりこんな事いけない。いくら気になるとはいえ、プライベートの侵害だ。万が一こんな事がバレたら、彼との信頼関係も崩れてしまう。いや、信頼関係だけじゃない。今の生活も全て無くなってしまう筈だ。私は自分の奇行を反省しながら、再び鞄の中に電話をしまおうとした時だった。もう一度メッセージを受信して、手元の画面にメッセージが表示される。

『ありがとう』

その送り主は“真央”。・・・“真央ちん”だ。

私は慌てて電話を鞄に戻した。

その時だ。リビングのドアが開いて、お隣さんが入ってくるなり挙動不審の私に不思議そうな眼差しを向けた。

「ただいま・・・」

「あ・・・おかえり。早かったね」

『早かったね』はおかしい。彼が行ったのは目の前のコンビニだ。どうかしてる。

「亜弥さんも何か食べるかな?と思って電話しようとしたら、携帯忘れちゃってて・・・」

「あ・・・そうだったんだ・・・・」

もう駄目だ。嘘の下手くそな私は、後ろめたい自分をごまかす事が出来なくて、お湯を沸かしにキッチンへと逃げる。しかし、いつお隣さんが来て『携帯見たでしょ?』と怒って問い詰めてくるかとハラハラしている。

「ねぇ」

来た!とうとう来た!お隣さんがキッチンに姿を見せた。怖くて顔を見られないから、私はやかんを火にかけながら相槌を返す。

「今度の土日の事だけどさ」

先日千葉の実家から連絡が来た、祖父の法事の事だ。いきなり怒られると思っていた私は、少しだけホッとする。

「僕、行かないって連絡してくれた?」

「うん」

「行かないで、大丈夫そう?」

「うん」

「で・・・亜弥さんは土曜から泊まりで帰る?」

「・・・どうして?」

何で今、急にそんな事聞くんだろう?私はいつの間にか、お隣さんの方を向いている。

「土曜日・・・友達に誘われて・・・」

友達・・・?私の脳裏には、さっきの“真央”の文字の残像が鮮明に蘇る。

「分かった。じゃ、私も泊まりで実家行ってくるから、龍君ものんびりして」

もしかしたら自分の恋人が元カノと会うかもしれない日に、家を一晩留守にするという決断が、正しかったのかどうかは分からない。だけど自分に、彼を引き止める魅力や自信はない。


 土曜の午前中、お隣さんが訪ねて来る。私に紙袋を持って。

「今日、行けなくてごめんなさいってお父さんとお母さんに謝っておいて。これ、大した物じゃないけど・・・持って行って」

手土産だ。

「わざわざ・・・ありがとう。なんだか、かえって気遣わせちゃって・・・ごめんね」

「僕こそ・・・ごめんね」

ん?何の『ごめんね』だろう。私の頭と言葉はちぐはぐだ。

「・・・お友達と・・・楽しんできてね」

「ありがとう」

いつもよりウキウキしている感じが、伝わる。だから私は心の隅っこの方で、物凄く不安になって、思わず聞いた。

「今日・・・遅くなる?」

「え?」

「あ、ううん。いいの、いいの。今日は自由で。気にせず楽しんできてね」

「・・・・・・」

「帰る時間とか、いいからね、連絡」

「・・・わかった」

自分の気持ちをごまかす為とはいえ、余計な事を言ってしまった。しかし後悔先に立たずだ。


 その晩、私は自分の言った言葉に首を絞められる。あんな事を言ってしまったから、当然彼から連絡は無い。だからといって、こちらからも連絡を入れ辛い。あんな風に言ってしまったけれど、あれを私の強がりだと察して、

『もう家に帰ってるから安心してね』

とか、

『一人で寂しいけど、そろそろ寝るね。おやすみ』

とか、そんな夢みたいな連絡が入る事を、心の片隅で1%でも期待している自分が馬鹿みたいだ。付き合いたての頃なら、きっとこんな展開になっていたかもしれないけれど、今じゃ・・・到底無理だ。


 兄家族も揃っての賑やかな夕食を済ませ、皆が帰って静かになった頃、母が私にそっと聞いてきた。

「龍さんとはどう?仲良くやってる?」

「うん・・・普通」

きっと母なら、こんなニュアンスで答えたら感じ取ってくれる筈だ。すると母が、ちょっと心配そうな顔を私に向けた。

「今日誘ったの・・・悪かったかねぇ?大丈夫だった?」

「あ・・・今日はね、仕事の予定が入っちゃって。ほら、営業でしょ?お休みの日も、たまにこういう事あるの。誘って頂いたのに、本当に申し訳ないって気にしてた」

「大変ねぇ、お休みの日まで」

「うん。でも、若いから」

私が冗談っぽくはははと笑うが、母は真顔のままだ。

「体力より精神的なストレスの方が大きいんじゃない?営業って神経使うから。元々彼、気遣いが出来るタイプの人だから、人一倍じゃないかな。たまには愚痴を言わせてあげるのも大事よ」

そうかぁ・・・。そういう悩みもあるのか・・・。それが原因で、ここ最近元気がないんだとしたら、私にもまだ望みがあるかもしれない。

「お給料って、歩合制?」

「・・・さぁ・・・どうかな?」

私が首を傾げると、母が早速何か言いそうだったから、私はその隙間を埋めた。

「完全歩合制って訳じゃないだろうし。それに、生活できないなんて事はないから・・・」

しかし、母の顔はまだ緩まない。

「亜弥芽が思ってる以上に、男の人は収入の引け目を感じるものだよ」


 母から持たされた彼への手土産と父からの野菜を届けに、私はそのままお隣さんのマンションに向かう。

『もし亜弥さんのが早かったら、この間の鍵で先入って待ってて』

帰りに急に『そっちに寄る』なんて言ったから、お隣さんの予定を狂わせてしまったかもしれない。・・・いや、もしかして昨日の晩から出掛けたまま帰ってないのかもしれない。そんな詮索に滅入る自分を必死で振り払いながら、恐る恐るインターホンを鳴らす。応答のないエントランスに鍵を差し込んで、使い慣れたエレベーターに乗る。家に入るのも、正直怖い。ドアを開けて、もしベッドが綺麗なまま、昨夜そこで寝た形跡がなかったらどうしよう・・・そんな心配を胸いっぱいに抱え、私の心臓はドキドキする。部屋に一歩足を踏み入れると、私の心配とは裏腹に生活感が残っていた。ベッドはちゃんと使った跡がある。しかし、少しホッとする私の頭に、再び悪魔の囁きが聞こえる。私はそっとお隣さんのベッドに近付いて、枕の辺りに証拠を探す。・・・・・・私、何やってるんだろう・・・。もし彼が私の元から去って行っても仕方ない、なんて口では言っておきながら、浮気を疑ってみたりする自分は矛盾している。

 その時だ。

「おかえり~」

玄関を開ける音と同時に、お隣さんの元気な声が弾ける。

「疲れたでしょ?」

昨日出掛ける前と彼のテンションが違い過ぎて、正直戸惑ってしまう。

「今日の夕飯・・・」

お隣さんは、少年っぽくにこっと笑った。

「作ってみた」

「え~?!」

「美味しいかは分かんないけどね」

昨日と打って変わって、あんなに元気で優しくなるなんて・・・何か後ろめたい事を隠す為だろうか・・・?彼の優しさの裏にある下心を疑う私は、本当に薄汚れていて醜い。

「これ、うちの両親から」

紙袋には、二人分の寿司と、父の畑で採れた野菜が入っている。

「お寿司があるなら、夕飯いらなかったね」

私は慌てて言った。

「私は龍君の作ってくれたの食べるよ」

お隣さんの作ったご飯に味噌汁、焼き鮭、冷や奴を食べながら、お隣さんが会話を作る。

「法事、無事済んだ?」

「うん」

「家族の他に親戚も来たの?」

「ううん。もう13回忌だし、お父さんの方の兄妹、皆遠くだから」

「何か・・・聞かれた?」

「ううん。別に何も。あっ!龍君は仕事が入っちゃったって言ってあるから、頭にだけ入れておいて」

食事時の気まずさも、いつもより和らいで感じる。だから私は、思い切って聞いてみる事にする。

「仕事・・・楽しい?」

こんな直球な聞き方しか出来ない自分の不器用さに、溜め息が出そうだ。一瞬お隣さんの箸が止まるが、再び動き出すまでに そう時間は掛からなかった。

「楽しいってより・・・大変な事の方が多いよ」

「そうか。そうだよね。営業って成績出さなきゃいけない・・・」

そこまでで、お隣さんが語尾に被せた。

「今週も遅くなるかも。アポ取れそうな会社何件かあって・・・」

そう聞いた私の頭は、反射的に 噴水の前のベンチで時間を潰す彼の後ろ姿を思い出す。と同時に、妙子の旦那が以前 出張と偽り、浮気相手と旅行に出掛けていた事実まで記憶の糸が引っ張り出される。しかし私はいつもの様に笑顔の仮面を被る。

「大変だね・・・」

母の『愚痴を言わせてあげるのも大事よ』という言葉に背中を押されてみる。

「ノルマが・・・あるの?」

「ノルマはないけど、自己目標っていうのが毎月あるから、それを達成してるかしてないかで、給料にも響く」

「お給料って・・・歩合制なの?」

紅愛が『お金の事って意外と大事だよ』と言ったが、聞けるのは多分これが限界だ。

「完全出来高制ではないけど、やっぱり影響は出るよ」

本当は『どんな風に?』って聞きたいけれど、これ以上は無理だ。私は再び“当たり障りのない笑顔”を当てがった。そして気まずくなる間を与えまいと、私は話題をすり替えた。

「昨日は?お友達と・・・楽しかった?」

「・・・うん」

「そう。良かったね。随分元気になってるもんね」

「・・・・・・」

それまで続いていた相槌が急に消えたから、私は 嫌味になってしまったかと心配していると、目の前のお隣さんが少し低い声を出した。

「昨日・・・会社の同期の仲間と出掛けたんだけど・・・」

“同期の仲間”でピンとくる。だから私は冷静を装う様に、テンポの良い相槌を打つ。そしてお隣さんは、言いにくそうに口を開いた。

「その中に、前の彼女もいた」

「・・・うん」

私は箸を止めずに返事する。

「昨日、出掛ける前に言おうかと思ったんだけど、かえって心配させるんじゃないかと思って・・・」

「うん、大丈夫」

「泊まりで行くのやめる、ってなってもいけないと思って」

はははと笑って余裕のふりをしてみせる。

「いけないっていうか、実家では娘が泊まりで来るの楽しみにしてるんだろうと思って」

昨日言わなかったのは 私の為だって言われてるみたいで、なんだかしっくりこない。

「ごめんね」

“前以て言わなくて”って言葉が前に付いているんだろうけど、今の私には屈折して聞こえてしまう。だけど私は・・・そうは言わない。

「気にしてないよ。大丈夫」

「・・・ごめん」

「何度も謝られた方が・・・変な感じ」


お隣さんの昨日の事実の告白から、私の中で妙な敗北感が充満している。やっぱり彼を元気に出来るのは“真央ちん”だけなのかもしれない。あんなに元気も覇気も無くなっていて、何をやっても楽しそうじゃなくて、でも淡々と暮らす彼に、私なりに出来る事をしてみたつもりだけど、何も変わらなかった。それなのに、一回、一晩一緒に過ごしただけで彼に笑顔が戻るなんて・・・その力は絶大だ。敵う訳ない。お隣さんの家にいる間中、笑顔で乗り切って、

『明日からまた一週間仕事だし、疲れてるから早めに帰るね』

と、もっともらしい理由を付けて、夕飯を食べ終えると早々に部屋を後にする弱虫の私だ。


 その晩、家に帰り着いた頃、お隣さんから着信がある。

「昨日、同期の仲間と一緒に出掛けたって言ったけど・・・」

そこまで聞いて、私の頭は勝手に次の言葉を想像して胸騒ぎを起こす。

「前の彼女と一緒だったって聞いても、亜弥さん 『気にしない』って言ったでしょ。それって・・・本当?」

想像してた内容と違っていたけれど、この質問をしてくるって事は、少なからず さっきの私の言葉に嘘を感じたからだろう。

「・・・本当だよ」

「・・・どうして?」

「え?!どうしてって?」

「なんで平気なの?ちっとも・・・何ともない?」

「・・・・・・」

「もう興味ないか。僕が誰と会おうと」

「待って・・・そういう意味じゃない。もうただの友達だって言うから・・・」

「信じてくれてるって事?」

「・・・うん。もちろん」

私はその突き刺さる様な緊張感に堪えかねて、いつもの悪い癖が疼き出す。ヘラヘラ笑って、私は自分をごまかした。

「急に変な事言うんだもん。笑っちゃうよ」

「どうして、これが変な事なの?」

「だって・・・」

「僕には、どうして笑えるのか理解できないよ」

さっき食卓で強がって嘘をついた事も、正面から向き合う事を恐れて笑ってごまかした事も、全てその場しのぎの薄っぺらい自分を見透かされている様な気がする。

「そうだね。ごめんなさい」

ほとほと、こんな自分が嫌になる。だけど、こう思ったのだって今が初めてじゃない。私は何回も自分を大嫌いになって、でも何も変われなくて、それで忘れた頃に再び自分に愛想を尽かす・・・それの繰り返しの39年間だ。

「龍君にとって同期の仲間って、何でも話せる人達?」

「そうだね」

「弱音も吐ける仲間?」

「・・・うん」

「いいね。そういうの・・・」

自分が卑屈に映らない内に、私は次の言葉を続けた。

「私がただの“お隣さん”だったら、もっと弱音も吐けてた?」

「・・・そんな風に考えるんだね」

この電話始まって3回目の悲しい風が通り抜ける。

「後悔してるの?僕と付き合った事」

私が首を横に振る一歩手前で、お隣さんが先手を打つ。

「言う訳ないか」

もうどう修正したらいいか分からないところまで来てしまった気がする。それもこれも全部、私が本当の気持ちを見せないからだ。肝心なところでいつも笑ってごまかして、悲しい時も寂しい時も不安な時も、平気そうな顔を装う。心配な事をそのまま口に出して確認すればいいのに、私は“いい子”を演じてしまう。だから、お隣さんも“いい子”でいなきゃいけないと思うのだろう。いつの間にか私達は仮面夫婦ならぬ仮面カップルだ。こうなってまで一緒に居る意味って、一体何なんだろう。


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