第18話
18.
先日私が母にきつく当たってから、野菜も電話もピタッと来なくなった。変な結婚への期待を掛けられる事がなくて気持ちは楽だと思っている背中で、正直寂しい気持ちも否めない。
仕事も、浅見が居なくなって半年前と同じメンツとなったが、課長の執拗な飲みの誘いは一切ない。総務課内の雰囲気も良い状態が持続されている。まだ浅見の残り香があるのだろうか。時々目の前の小林が言う。
「部長、大阪でも頑張ってるみたいですよ」
なんでそんな事知っているのかと、仲間から当然の質問が飛ぶ。
「部長とライン交換したから。何か困ったら、すぐSOS出来る様にね」
私は、正直少し羨ましい。小林の言う通り、浅見の連絡先を知ってるというだけで、安定剤の効果がある様に思う。しかし、私は連絡先を聞かなかった。一番の理由は、やはりお隣さんへの遠慮だ。しかしそれだけではない。皆が一時は勘違いした様に、今後困って相談したり頼る相手が浅見であってはいけない様に思ったからだ。浅見は存在感があったから、2月に入って暫くは、やはり総務課の部屋の中に寂しさを感じていた。時々浅見が皆に掛けていた肩の力が抜ける様な話題や明るい笑い声が無性に恋しくなるけれど、そんな感傷的な気持ちと必死に決別して毎日をやり過ごしている。
「やっぱ、寂しいですよね~」
小林が何気なく言うが、それにうっかり乗る訳にはいかない。私自身に寂しくなんかないって暗示をかけているからだ。
結婚はしないってお隣さんに宣言してしまったけれど、彼は“今まで通り付き合う”事を選んだ。何か変わった事といえば・・・先の話をしなくなった事位だ。デートの約束はするけれど、今後の話とか、お金を貯める話とか、そういう類の事を一切口にしない。でも何だか毎日忙しそうだ。遅くまで外回りや、お客さんとの付き合いで飲んでくる事も増えた。この間は『先月の成績、営業部内でトップだった』とか、『大口の契約もらえた』なんて喜んでいた。
それに比べ、私の帰宅は早い。課長が誘って来る事もなくなったし、部長が『飯、付き合ってよ』という誘いもない。もちろん、若い後輩達を誘う事も誘われる事もない。今日も家に帰ってからの時間が長い。恋人からの連絡をただ待つだけの時間を持て余して、以前は料理教室に通ったりしたのだけど、まさか同じ事をする訳にはいかない。
恋人が出来たら、それしか楽しみがないなんて、8年前と何も変わっていない。私って本当につまらない人間だ。きっとこういう所が、元彼が私に飽きた理由の一つでもあるんだろう。だとしたら・・・お隣さんが私に飽きるのも、きっと時間の問題だ。砂時計が逆さまにひっくり返されて、もう砂は落ち始めているのだ。それが止まるのは、砂が全て無くなった時だ。一体残りの砂はどれ位あるんだろう・・・。
「仕事から帰ってきて亜弥さんの声聞くと、ほっとするよ。あ~、帰ってきたんだなって。いくら疲れてても、吹っ飛んじゃう」
こんな風に素直に自分の気持ちを言えたらどんなにいいだろう。でも、そう言ってもらえるのも、一体いつまでなんだろう・・・。嬉しさを体いっぱいに表現する訳でもない。本気で怒って喧嘩する訳でもない。楽しい話をする訳でも、一緒にいて新しい発見をしてもらえる程、魅力の多い人間でもない。一緒にいる私から喜怒哀楽を感じられないなんて、多分飽きてしまう日も近い筈だ。つまりは砂時計の残りの砂が少ないという事だ。私はまた、勝手に悲しい気持ちになるのだった。
紅愛はこんな慎重すぎる私に喝を入れる。
「私達、そんなのんびりしてる時間無いんだよ。相性がいいのか悪いのか、試せるものは片っ端から早く試してみなさいよ」
そして、
「時には焦らすのも恋愛には大事なスパイスだけど、あ~やの場合、うじうじうじうじあ~でもない こうでもないって、過去の失敗のせいにして若いイケメン彼氏生殺しにしてる様なもんだよ」
過激な言葉をあえて使うのは、私のお尻に火をつける為だ。
「終電が終わっちゃったり、柚子湯に浸かってったり、せっかくシチュエーションは揃ってんのに、よくもここまで鋼鉄パンツ守り続けられるわね。
ほんと、男心をけんもほろろに潰す名人だわ、あ~やは」
反論はない。ある訳ない。ごもっともだからだ。
「少しは傷付いた?」
紅愛が質問する。少しどころではない。大分傷付いている。そこに紅愛がとどめを刺す。
「これ位言わないと分かんないでしょ?彼氏がどんだけ傷付いてるか」
紅愛は言葉に出す。お隣さんは言葉に出さないだけで、きっと紅愛の指摘通り思っているに違いない。しかし心の隅では、私の葛藤も知らないくせにって口を尖らせている。
「決まってんじゃない!今日はずっと一緒に居たいって言えばいいだけじゃない。何?それも言えない位恋愛に奥手なの?」
「・・・・・・」
「前の時はどうだったのよ?『一緒に居たい』とか『寂しい』とか『会いたい』って言わなかったの?」
私は口を尖らせたまま言い返した。
「失敗した前例は参考にならないでしょ?」
「今は言ったか言ってないか聞いてるの」
私は渋々答える。
「・・・言ったわよ。だけど、それで失敗したんじゃない。窮屈だって。息苦しいって」
思った以上に声が荒くなる。
「へぇ~。言って失敗したから、今度は言わないんだ?でもね、言わないで失敗するって事も多いんだよ」
「・・・・・・」
「相手は同じ人じゃないんだよ。女だって私みたいなのもいれば、あ~やみたいなのもいる」
母も言っていた様に、タイプが違うって 頭では分かっているけど、それが自分のブレーキを外すきっかけにはならない。
だけど、意外に私だって、紅愛の言葉を従順に守ろうとする可愛いところもある。本当に小さい一歩だけど、私は一歩踏み出してみる事にする。
「最近、仕事忙しそうだけど・・・疲れてる?」
今日本当は釣り堀デートを予定してくれていたが、雨で取りやめにした。それで映画にしようか・・・なんて話も出たけれど、観たい映画がなくて、結局自宅でまったりしてしまっている。
「うん。帰ってきて亜弥さんの声聞いてシャワー浴びたら、もう即寝られる位疲れてる」
「自転車通勤だから、余計だよね」
「そうかな・・・」
お隣さんは笑ってごまかす。
「でもね、運動不足は確実に解消されてる。風呂にも入らずに横になったら寝ちゃってる事も度々だけど、体調は前より良い様に思う」
「一日営業で疲れた足で更に自転車漕いで帰ってくるんだもんね。足が張ったり・・・しない?」
「足?うん、そうだね。本当は風呂にゆっくり浸かって筋肉ほぐせばいいんだろうけどね」
はははと笑うお隣さんの隣で、私は緊張しながら息を吸い込んだ。
「・・・マッサージ・・・しよっか?」
「え?!」
お隣さんがこっちを向く。その後お隣さんが何も言わないから、どう思ったのか分からない。だから、私の胸が急にざわつき始めて口が動く。
「マッサージって言っても、別にそんな大した事できる訳じゃないんだけど・・・。あ、でも下手にマッサージなんかしない方がいいか。所詮素人だし」
ベラベラ喋る私の顔を見て、お隣さんが首を振った。
「マッサージしてくれるの?」
「だから・・・そんな大した事出来ないんだけど・・・。ただちょっと叩いたりするだけ・・・」
そこまで言っている途中で、お隣さんが言葉を被せた。
「してして。マッサージして」
床に座っていたお隣さんが、足を伸ばしてねだる様な顔で私を見た。私は思わず安堵と嬉しさから笑顔が零れる。こんなに喜んでくれるなんて、思っていなかったから。正直、マッサージは前の彼と一緒に暮らし始めた最初の頃 毎晩の様にしていたのだ。そして唯一これだけは、最後まで不満を言われなかった記憶がある。当然最後の方はマッサージをする事もない程の距離感になってしまったけれど、マッサージをしてた頃はとても喜んでくれていたから、今回もマッサージなら・・・という気持ちになったのも正直なところだ。
「どこで・・・しよう」
私は馬鹿だ。考え無しだ。ソファに寝転ぶには当然小さい。しかし床はフローリングで硬い。だからって、ベッド・・・って訳にはいかない。自分から誘ってるみたいで恥ずかしい。じっと考えている私を見て、お隣さんがニコニコする。
「どうしたらいい?座る?横になる?」
私は頭をフル回転させ、思いついたまま しまってあった綿毛布を持ってきて床に敷いた。そこにお隣さんがうつ伏せに寝転がると、急にドキドキする私をあえて面白がる様に、あっと声を上げた。
「何?」
「クッション、頭んとこ欲しい」
ソファからクッションを一つ持って来て抱えると、今度はお隣さんが足をジタバタさせた。
「楽しみ」
子供みたいに可愛いお隣さんのふくらはぎに手を当てると、やはり陸上競技の選手並みにごつい筋肉に急に男性を感じて、私は年甲斐もなく鼓動を早める。お隣さんは時々、
「もっと思いっきりやっていいよ」
と言ったり、
「いてててて・・・」
とか、
「うわっ、効くっ!」
とか声を出してリアクションする。だから私もつられて笑いながら、自然に緊張もほぐれる。
「上手だね、亜弥さん。どっかで習ったの?」
「全然。自己流だよ」
「う~ん・・・」
「え?何?」
「ううん。何でもない」
「何よ、急に」
私の手が止まった一瞬の隙に、お隣さんが仰向けに寝返って 私の顔をじっと見た。
「・・・何?」
じっと見つめたまま何も言わないお隣さんに私がそう聞くと、再びうつ伏せに寝返った。
「今までもこうやってマッサージしたのかなって・・・勝手に想像してやきもち焼いた。ごめん」
潔く謝るお隣さんに、私の方こそ胸が痛い。やっぱり足をマッサージしながら、前の人を思い出してほんの少しばかり比べていたのは確かだ。
「ねぇ、今度どっか足湯しに行こうよ」
言いながら、早くもお隣さんは足湯の場所を調べたりしている。
「今日釣り駄目になっちゃったけど、氷の上でワカサギ釣りっていうのもあるんだって。面白そうじゃない?」
「うん。寒そうだけど・・・」
「で、その後足湯っていうのはどう?良くない?」
嬉しそうな面持ちで、お隣さんは再び仰向けに寝返って、体を起こした。
「今度は僕がマッサージしてあげる」
「え?いいって」
「いいから」
「本当、いいってぇ」
冗談っぽく言ってくれるから、私が断っても妙な空気になったりはしない。すると、お隣さんが私の後ろから肩に手を乗せた。
「毎日パソコンばっか打ってると肩凝るでしょう?」
そう言って一回私の肩を揉んでみて、お隣さんが声を上げた。
「うわぁっ!硬っ!」
二、三回揉んでみては、また声を上げる。
「岩みたいだね。これで頭痛くなったりしない?」
「するけど・・・お風呂入って自分で揉んだりしてる」
「お風呂かぁ。そうだよ、温めた方がいいもんね。お風呂で揉んであげるよ」
「え?!」
サラッと凄い事を言うから、思わず聞き逃しそうになるが、間違って下手に返事でもしたら偉い事になる。すると、お隣さんも自分の言った言葉に気がついて笑った。
「それは駄目だわ。ただのエロになる」
わははははと笑い飛ばしてくれたお陰で救われる。こうやってじゃれている内に、もしかしたら自然とそういう雰囲気になって・・・なんて事を想像する。もしそうなったとしても・・・私は一回目を瞑って冷静になる。そして自分に問う。そして答えを出す。もしそうなったとしても・・・いい。思い出作りじゃない。別れたくなくなるとか・・・そんな事も考えない。ただ、お隣さんともっと近付きたい・・・そう素直に思っただけだ。
しかし、お隣さんが手を止めて聞いた。
「ねぇ、夕飯何食べる?」
「・・・え?」
「今日寒いからさぁ、お鍋しない?」
「うん、そうだね」
「じゃ、買い物行こっか」
私は一人で勝手に盛り上がっていた気持ちをこっそりとしまった。
その後、予定通りにお鍋をつつき、テレビを見ながらお喋りしたりして、10時頃お隣さんは帰っていった。健全な休日の終わりに、私は湯船に浸かりながら、いつもよりほぐれた肩に手を当てた。
今日は朝から喉が痛い。風邪をひく前兆だ。私はいつもより入念にうがいをして、出勤をした。しかし、昼を過ぎた頃からどうにも体がだるい。これは下手したら熱が出てしまうかもしれない・・・という不安が襲う。しかし、私の気持ちとは裏腹に、体調はどんどんと悪化の一途を辿っているのが分かる。定時まで何とか気合で乗り切ったはいいが、会社を出た途端にどっと疲れが押し寄せる。いや、疲れなのか熱によるだるさなのかは、もう定かではない。ようやく家に辿り着くと、私はそのままベッドへと倒れ込んだ。
いつもの様に朝のアラームが私を揺すり起こす。夜中に何度か熱にうなされる様に目を覚ましたが、起き上がる力はなく、昨日帰ってきたままの格好だ。昨日と違う事は、声が出ないという点だ。寒くて震える体を抱えて熱を測ると、38度を超える数字が私をがっかりさせる。仕事はもちろん行けない。私は昨日の鞄から電話を取り出す。昨夜お隣さんから何度か電話やメッセージが届いていた形跡を見て、私は咳をしながら慌てて返信する。
『昨日から風邪を引いてしまいました。今日は仕事を休みます。熱もあるので、明日会えるかわからなくなってしまいました。本当にごめんなさい』
これだけ送って、私は再び布団へと潜り込んだ。パジャマに着替えた方が体が楽なのは分かっている。でも寒気とだるさが、私にその決断を鈍らせる。そんな葛藤をしているところへ、お隣さんからすぐの返信だ。
『熱何度位あるの?風邪薬飲んだ?』
そうか、薬だ。私は這う様に部屋を出て、薬の引き出しを開ける。しかし薬が切れている。だからといって買いに行く元気など、到底ない。私は再びやどかりの様にベッドに戻ると、布団にくるまった。
その晩、インターホンの微かな音で目を覚ます。しかし、出る元気はない。窓の外が真っ暗で部屋の時計が見えない。一体何時なんだろう・・・。宅配便だとしたら、これは再配達を頼む事にして私はベッドの中で再び目を瞑った。喉は相変わらず痛い。声もかすれている。未だに寒気は続いている。水分を殆ど摂っていないから、汗をかいて熱が下がる・・・という方程式も成り立たない。明日は残念だけど、休日で良かったと多少胸がホッとする。
その時、枕元で電話が鳴る。見ると、それはお隣さんからだ。かすれた声に気後れしながら電話に出ると、お隣さんが言った。
「今マンションの下に来てるの。開けて」
「え?」
と返事をしたつもりだが、お隣さんには聞こえなかった様だ。相槌のない電話に、お隣さんがもう一度言った。
「薬とか食べ物とか買ってきたから、開けて」
私は思わず自分の格好を確認する。昨日仕事から帰ってきたままの洋服に、落ちかけの化粧。ボッサボサの髪。とてもとても見せられる状態ではない。私は出ない声を振り絞る。
「ごめん・・・、せっかく来てくれたのに・・・」
「いいから、早く開けて」
「・・・出られないよ・・・」
「なんで?歩けない?」
「そうじゃなくて・・・」
少し考えた後に、お隣さんが優しい声を出す。
「大丈夫だよ」
きっと私が招き入れられない理由を分かっているんだ。そう感じて、恥ずかしい様な気まずい様な気持ちで黙っていると、お隣さんがもう一つ質問してくる。
「薬飲んだ?」
「・・・丁度・・・無くて・・・」
「ほら、丁度良かった。風邪薬も解熱剤も買ってきたから。ね?」
「・・・・・・」
「水分も買ってきたよ。ちゃんと飲まないと、明日デート出来ないでしょ?」
「・・・・・・」
ここまで言われて、買って来てくれた物を持って追い帰す訳にいかない。だけど、なかなか決心のつかない私の背中を、お隣さんの一言が押した。
「たまには、頼ってよ」
部屋まで上がってくる迄の僅かな時間に、私は辛うじてマスクをはめる。顔を隠す為だ。玄関のドアを開けるなり、お隣さんは私を優しく抱きしめた。
「ごめんね、遅くなって」
お隣さんは両手に下げた買い物袋を見せた。
「はい。必要な物買ってきたよ。亜弥さんは寝てて。あとは僕がやるから」
部屋に入っていくお隣さんの後ろ姿をぼーっと見つめながら私が立ち尽くしていると、リビングから振り返った顔を覗かせて、再び戻ってきた。そして私の格好を見て、言った。
「もしかして、昨日帰ってきたまんま?」
「・・・・・・」
だらしない女だと思われただろうか・・・。そんな事を考えている私の肩に、お隣さんは優しく手を乗せた。
「着替えられない位辛かったんだね」
そう言って、私のおでこに手を当てた。
「まだ熱ありそうだね・・・」
お隣さんが閉められた寝室のドアの前で私に言った。
「亜弥さん、僕の事は気にしないで寝てて。今薬持ってってあげるから。・・・食欲は?何か食べられそう?」
私は黙って首を横に振った。
「わかった。じゃ、飲み物と薬、今持っていくから、着替えて寝てるんだよ」
私が二日ぶりにパジャマに着替えると、その解放感に全身がホッと息をついているのを感じる。すると、ドアの向こうでお隣さんの声が聞こえる。
「入っていい?」
私は慌ててマスクで鼻まで隠して、お隣さんを迎えた。
「はい。風邪薬。熱計って、高い様なら解熱剤も飲もう」
薬を飲むにはマスクを外さないといけない。だから、お隣さんが見ていては飲めないのだ。
「飲んどく。ありがとう」
お隣さんがさっと部屋を出て行くと、急に寂しさが襲ってくる。私は起き上がって鏡の中の自分を見つめる。顔を洗って来よう。すっぴんにはなってしまうけれど、マスクで半分顔を隠せば、落ちかけた化粧よりはマシかもしれない。
顔を洗うと、まるでお風呂に入った様な爽快感で顔が軽くなる。洗面所から出ると、何やらキッチンで音がする。
お隣さんはお粥のパックを両手に一つずつ持って私に見せた。
「どっちがいい?」
一つは白がゆ、一つは卵がゆだ。食欲のまだ無い私が迷っていると、お隣さんが言った。
「ごめんね。何かもっと気の利いたもん作れたらいいんだけど・・・」
そう言って、買ってきたスーパーの袋から小さな梅干しのパックを出して見せた。
「ほら。これお粥に乗せてあげるから」
寝室で横になりながら思う。この8年、風邪を引いたり寝込んだ日もあったけれど、いつも一人で何とかしてきた。正直、こんな温かい気持ちになったのは本当に久し振りだ。安心感というのか・・・子供の頃風邪で学校を休んだ時に、お母さんが自分だけの為に世話を焼いてくれた時に感じた、あの充実感に似ている気がする。その日は何でも我儘を聞いてくれて、とびきり優しい母を独り占めできる満足感。そして時々額に手を当ててくれる温もり。家族って・・・やっぱりいいな・・・。そんな事を思う。駄目だ。今は熱で弱っているから、ついそんな弱気な事を思うんだ。こんな幸せが一生続くなんて、そんな夢みたいな事思っちゃいけない。きっと私にも、身の丈に合った幸せがある筈だ。切なくなる胸を抑えながら、私は深呼吸で頭に冷静になれと酸素を送る。
温めたお粥に梅干しを一つ乗せて、お隣さんが寝室に運んで来る。
「ありがとう」
体を起こしてお礼を言うと、スプーンにすくったお粥をふうふうして、もう準備万端だ。
「はい。あ~んして」
マスクを取るのを待っている。だけど、こんな至近距離ですっぴんを公開する訳にはいかない。だから私は両手を出した。
「大丈夫。自分で食べられるから」
器に伸ばした手から、お隣さんはお粥をわざと遠ざけた。
「だ~め。食べさせてあげる」
「・・・・・・」
「はい。あ~んして」
私は首を横に振った。
「後で食べるから、そこに置いといて」
「一口だけ、食べてみてよ」
私は心の中で『ごめんなさい』と叫びながら、もう一度首を横に振った。
すると、お隣さんは茶碗をお盆に置いた。
「じゃ、食べられそうになったら、食べてみてね」
そう言って、お隣さんはにっこり笑顔を残して部屋を出て行った。罪悪感でいっぱいになった胸を押し殺す様にして、私はお粥を一口口に運ぶ。何十時間ぶりの食事が食道を通って胃に染み渡る。それと同時に、何故か涙腺が急に緩んで、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。お隣さんの優しさに溢れた一つ一つに、どう応えていいか分からない。
暫くして、食べ終わった食器を下げに部屋から出て行くと、お隣さんがソファからすっと立ち上がった。
「何だぁ。置いといてくれたら、後で取りに行ったのに」
空の茶碗を見て、にっこり微笑んだ。
「食べられたんだ。良かった」
そして私に聞いた。
「美味しかった?」
私が頷くな否や、お隣さんはクスッと笑った。
「自分で作った訳じゃないけど・・・」
お盆を受け取ると、流しに下げながらお隣さんは言った。
「洗っとくから、気にしないで休んでていいよ」
「洗い物なんか、明日私がやるからいいよ」
「それじゃ、僕来た意味ないでしょう」
言いながら笑って、お隣さんはスポンジに洗剤を付けた。それを私が見ていると、お隣さんは振り返って笑った。
「僕がいると落ち着かない?」
私は慌てて首を振る。すすぎ終わった手を拭いて、お隣さんは嬉しそうに冷蔵庫を開けた。
「プリンもゼリーも缶詰のフルーツも買ってきた。冷やしてるから、食べたくなったら言ってよ」
「・・・ありがとう」
そしてお隣さんは大きな声を出した。
「あっ!忘れてた!」
キッチンを出て、買い物袋からガサガサ箱を取り出した。
「冷却シート。効き目があるかは分かんないけど、とりあえず貼っといてみてよ」
言いながら半ば強引におでこにペタッと貼り付けた。なるべく顔を隠す為に前髪も横の髪も顔に掛けていたのに、それをお隣さんはいとも簡単に持ち上げて、おでこに一枚ペタッと貼り付けた。
「冷たっ!」
目を閉じて俯く私のリアクションに、お隣さんはケラケラと笑った。そして私の首を両方の手の平で覆った。至近距離でドキドキする私をよそに、お隣さんが考える。
「まだ結構熱いなぁ。熱計った?」
私が首を振ると、お隣さんがそんな私をぎゅっと抱きしめた。
「僕にうつしちゃえばいいのに」
その台詞を聞いて、私はそっとお隣さんから体を離した。
「ダメダメ。うつっちゃ・・・」
離れようとする私を、お隣さんはもう一度腕の中に引き寄せた。
「これ位じゃうつらないよ。風邪は飛沫感染なんだから」
そして、続けて言った。
「ほら、寝ておいで」
私がベッドに横になるのを見届けると、お隣さんが枕元にある体温計を取り出した。私が熱を測る間、お隣さんは傍らにしゃがんで部屋を見回した。
「寝室、初めて入ったね」
ベッド以外殆ど何もない部屋の中を見て、お隣さんがくすっと笑った。
「亜弥さんらしい部屋」
「そう?」
「余計な物が一切ない」
私の頭の中は常に余計な事ばかりが雑然と散らかっているのに、何故だろう。部屋にはごちゃごちゃ物を置くのが嫌いだ。きっと私は、無駄な考えで溢れている自分の頭の中をどこかで軽蔑しているのだと思う。
その辺りでピピピッと計測終了の合図音が鳴る。
「見せてみて」
お隣さんがそう言って体温計を見る。
「7度8分かぁ・・・。解熱剤飲む?」
薬一つ飲むにしても、コップに水を入れてきては部屋まで運んでくれる。こんなお姫様みたいな事、子供の頃以来だ。
飲み終えた私から空になったコップを受け取ると、立ち上がるお隣さんに私が聞いた。
「龍君・・・退屈でしょ?」
「平気だよ。向こうでテレビ見てるし」
「疲れてるのに・・・ごめんね」
かすれた声を聞き取りながら、お隣さんは私に相槌を返す。
「きっと薬が効いてきて、すぐ楽になるからね」
私の頭にポンポンと手を置いて、部屋を出て行こうとするお隣さんの背中に私は言葉を投げた。
「明日、出掛けられないかも。ごめんね」
お隣さんはにっこり笑顔で振り返った。
「そんな事気にしないで、今はゆっくり休むんだよ」
再び部屋に一人になると、再度訪れる寒い空気。まるで潮が引いていくみたいだ。それなのに、さっきも
『ここに居て』
と言えない私だ。駄目な自分と熱のある体を持て余して、私はいつもの様に布団に深く埋まった。
「俺、ここ出てくわ」
「・・・・・・」
「亜弥が引っ越し先見付かるまで、ここに居ていいから」
私が仕事から帰ってくると、もうそこには私の荷物しかなくなっていて、取り残された感が私を取り巻いてがんじがらめにした。その一週間後、彼に送ったメールだ。
『今日、部屋出ました。鍵はポストに入れてあります』
『了解しました』
携帯の液晶画面に映し出される、この事務的なやり取り。
生々しい声と喪失感と、これからどうしようという得体の知れない大きな不安が押し寄せて潰されそうになった時、私はふと目を覚ます。
・・・嫌な夢を見ていた様だ。体いっぱいに汗をかいている。8年前の現実の映像と感情がそのまま目の前に現れた恐怖に、私は暫く呆然とする。
今、私はどこに居るんだろう・・・。今、私は何をしているんだろう・・・。
ゆっくりと現実に戻ってきた自分を把握すると、私はベッドから這い出した。
この家から、もうお隣さんも居なくなっているのかもしれない。そんな気持ちを抱えて、恐る恐る寝室を出る。何となくテレビの音がするけれど、人が動いている気配はまるでない。明かりのついたリビングにそーっと入ると、テレビがついたままになっていて、そこのソファですやすやと寝息を立てて横になっているお隣さんの姿があった。テーブルの上には昨日私が干しっ放しにしていた洗濯物のタオルが畳まれてある。
嫌な過去を思い出すような夢を見た後で、私がほっこりした気持ちになったのは言うまでもない。
私は毛布を一枚持って来ると、二人掛けのソファに小さくなって長身を押し込めているお隣さんにそっと掛けた。そしてテレビのスイッチを切った。
そんなお隣さんの姿を見ながらふと考える。この人の優しさは、一体いつまで続くんだろう。前の彼も始めは優しくて、私の作った物は何でも美味しい美味しいと食べてくれたし、優しい言葉も掛けてくれていた。それなのに、一緒に暮らして何年も経つうちに、段々とそういった言葉や笑顔が減ってきて、私と彼の愛情の天秤のバランスが崩れていったのだ。
だから当然、この恋も同じ結末を迎えるんじゃないかと臆病になってしまうのだ。だけど、先の心配をしながらビクビク相手を疑って過ごしていたら、もっと早くに私の前から消えて居なくなってしまう様にも思う。やっと目の前に訪れた私の春も、夏が来る前に秋が来て冬を迎え・・・再び冬眠の生活に逆戻りだ。
『いつ駄目になるかなんて心配しながら付き合ってたら、楽しくないでしょ』
『そんな心配ばっかりしてると、上手くいくものも いかなくなっちゃうわよ』
妙に的確に言い得ている母の言葉を頭の中で反芻する。私はソファの脇に腰を下ろして、お隣さんに少し寄り掛かった。毛布の上からでも感じる温もりに、私は勇気を出して心の鎖を一つ外してみる事にした。
ふと目が覚めると、まだ外は真っ暗で部屋の中は煌々と電気がついている。さっきここでお隣さんに寄り掛かって眠ってから、小一時間経っていた様だ。
お隣さんも眩しそうに目を開ける。そして傍にいた私を見て、ちょっと驚いた顔をしている。
「どうした?」
お隣さんが体勢を起こす。
「毛布、掛けてくれたんだ?ありがとう。どうりで温かかったよ」
それはきっと毛布の温かさだけではないけれど、私はそれを言わない。
「熱どう?」
言いながら、お隣さんが私のおでこに手の平を当てた。
「あれ?もしかして、下がった?」
「少し楽になった」
「良かったぁ」
「計ってみようかな・・・」
そう言って私が立ち上がると、お隣さんがその手を引っ張って止めて、そっと私を抱き寄せた。
「亜弥さんが風邪で寝込んでくれたお陰で、今日も一緒に過ごせたね」
「うん・・・」
お隣さんはそっと私の前髪を上げて 冷却シートを剥がすと、そこに唇を軽く当てた。おでこを見られるのは、実は水着になる位恥ずかしい。人にはなかなか理解してはもらえないが、小学生の頃に前髪をピンで留めていた時以来、おでこを人に見せた事はない。そんな事お隣さんは知らずに、いとも簡単に前髪を上げたりするけれど、私の羞恥心が全開になる場所だ。その上すっぴんなんだから、思わず俯き気味になって目をぎゅっと瞑ってしまうの位許してもらいたい。すると、さっきおでこに触れた唇がすっと離れて、お隣さんがマスクをずらそうとしたから、私は慌てて元の位置に戻す。
「ダメダメ。うつしちゃうから」
そんなの言い訳だ。本音はすっぴんを全部見せられる自信がないだけだ。するとお隣さんは、そのマスクの上からそっとキスをした。再び腕の中に包まれると、私の鼓動が異様にドキドキしている事位、きっと伝わってしまっているだろう。
「このまま・・・」
お隣さんがそう言いかけたから、私は心の中で勝手にその後に付け足して答える。
『ずっと一緒に居ようね』
しかし、私の耳に聞こえてきた言葉は違っていた。
「熱、下がるといいね」
「・・・うん」
「喉は?まだ痛い?」
私は首を横に振る。
「あっ!そうだ」
思い出した様にお隣さんがそう言って、体を離した。
「プリンかゼリー食べる?」
「まだ油断しないで、寝てた方がいいよ」
「うん・・・」
本当は寝室に行くのに気が引けているのだ。さっき昔を完全に思い出させる様な夢を見てしまったから。また目を瞑って眠ったら、あの夢の続きが待っている様な気がしてならない。私がまだ突っ立ったままで寝室に引っ込もうとしないから、お隣さんが提案する。
「もう少し、一緒に起きてる?」
本当は『うん』と言って頷きたかったけれど、私の目にお隣さんの充血した瞳が飛び込んできたから、縦に振ろうとした首を急遽横に変えた。
「おやすみ・・・」
少しして、寝室のドアがトントンとノックされる。
「もう、寝ちゃった?」
ドアの向こうからお隣さんの声がする。私は体を起こして返事をした。
「ううん」
「入ってもいい?」
「うん」
お隣さんがそ~っとドアを開けて、顔を覗かせた。
「寝られそう?」
「・・・昨日から沢山寝すぎちゃったから」
ベッドの端に座って、お隣さんがにっこり微笑んだ。
「さっき、何か言いたそうな顔してたから、亜弥さん」
やはり全て見抜かれている。だから、こっちも言い出しやすい。
「明日・・・どうする?」
「明日ね・・・」
その後に言葉が続かないから、私は少し期待値を無意識に下げる。
「帰っちゃう・・・よね?」
お隣さんはにっこり微笑んで、私の肩に手を乗せた。
「明日の体調見て、その時考えよう」
私の少しがっかりした気持ちが見えているんだろうか。お隣さんは話題を変えた。
「自分の生まれた時のエピソードとか、聞いてる?」
「自然分娩だったらしいんだけど、生まれてすぐに泣かなくて、助産師さんがおしりをぺんぺん叩いて、ようやくヒーヒー頼りなく泣いたんだって」
「控えめな所、変わってないね」
「そうかなぁ・・・」
私は少し昔の記憶を思い出しながら話した。
「そういえばね、良く子供の頃、『あんたはお尻に火が付かないと動かない子ね』って怒られてた。夏休みの宿題も、やらなきゃならない事も。いっつもエンジンが掛かるのが人より遅いの。で、最後にバタバタして『だから言ったでしょ!』って又怒られるの」
懐かしい思い出話を笑いながらすると、お隣さんもにこやかに言った。
「そうなんだぁ。じゃぁ、亜弥さんとはゆっくりゆっくりだね」
「龍君は?生まれた時のエピソード」
お隣さんはそれを聞いて、まだ何も話す前から 何かを思い出した様に笑い始めた。
「・・・どうしたの?」
「だって、亜弥さんと真逆だから」
「真逆?」
「予定日より早く生まれてきたのもそうだし、生まれた時からデカくて、母乳飲む量も多くて、みるみる大きくなったって。寝返りもハイハイも歩き始めるのも親がびっくりする位早かったらしい。ま、姉貴がいたから、それにくっついて行きたくて早く成長したんだろうって親には言われてたけど」
「へぇ~、凄いね」
「もし僕と亜弥さんに子供が出来たら、どっちに似るんだろうね。やっぱ両方の間取って、丁度良くなるのかなぁ?」
急にドキッとする事を言う。普通の話みたいに挟んでくるデリケートな話題。私もそれをさらっと受け流せばいいものを、それが出来ないのが玉に傷だ。軽くこういう話題も笑い話の一つとして出来ればいいのに・・・。
「結婚しないって言われてんのに、こんな話すんなよって?」
私は取り繕う様に、慌てて頭を左右に振った。
「話の・・・話だしね」
「話の・・・話だね」
お隣さんは私の言葉を繰り返した。ついこの間私は、目の前のお隣さんに『将来は考えられない』なんて言ったのに、その人がこうして、風邪で寝込んだ私を介抱してくれている。私って本当に酷い人間だ。
「何考えてるの?」
私が遠い目をしているのに気が付いたお隣さんが、優しくそう声を掛ける。
「心配しないで。結婚しないっていう亜弥さんの気持ち、わかってるから」
そして、ベッドから立ち上がりながら私の頭に手をそっと乗せた。
「疲れたでしょう?僕、向こう行くから、ゆっくり休んで」
私の頭から離れていくその手に私が手を伸ばすと、ぎりぎりお隣さんの中指の先に間に合う。
「行かないで」
中指だけつまんだその手のまま、私はもう一言勇気を出した。
「ここに・・・いて。・・・お願い」
窓の外から薄っすら光が差している。目を覚ました時には、まだ繋がれた手とベッドに突っ伏したお隣さんの横顔が見える。私はお隣さんがまだ寝ているのを確認すると、繋がれた彼の手の甲に マスクをずらして、そっとキスをした。その手に私は頬を近付けて、現実を実感する。お隣さんと手を繋いで眠った今夜は、嫌な過去の夢の続きを見ずに済んだ。結婚って、こうして慰め合い労り合って暮らす事なんだろうと思う。楽しい事や嬉しい事は倍になって、悲しみは半分になるって言うけれど、そんな風に思える相手なんて、そうそう出会える訳じゃない。それなのに、その相手も結婚という生活も、全て諦めてしまっていいのだろうか。結婚って多分足し算じゃない。一組の男女が結婚して、そこに例え子供が生まれなかったとしても、きっと掛け算の様に、生活そのものが豊かになるものなんだろう。妙子の所みたいに、そりゃ色々あるかもしれないけど、お互いの思いやりや努力できっと何度だってやり直せるものなのかもしれない。
目の前に眠るお隣さんの顔を愛おしく感じながら、ふと気付く。私は一回もまだ『愛してる』って伝えていない。今日は、それを伝えたい・・・そんな気持ちが体の底の方から湧いてくる。
「愛してる・・・」
小声で呟いて、予行演習してみる。すると、お隣さんの瞼がぴくぴくっと動いて、目を覚ました。
「おはよう」
軽く伸びをすると、お隣さんは私の顔をじっと見た。
「どう?具合」
「うん。だいぶ良さそう」
お隣さんが両手を私の首に回す。
「下がったかな。食欲は?少し出てきた?お粥温めてあげようか」
無理に自分の体を奮い立たせようとするお隣さんに、私は言った。
「大丈夫。もう自分で出来る」
「声、だいぶ出る様になったね」
嬉しそうに笑うお隣さんに、私の心が豊かになる。こんな目の前の相手のたった一回の微笑みで、私の心はふわっと軽くなる。こんな一瞬一瞬を積み重ねて、この人と一ヶ月後も一年後も三年後も五年後も一緒に居たい。だけど・・・。私の中の消極的な自分が顔を出す前に、私はベッドから出て洗面所へと行った。
歯磨きをして顔を洗う。この爽快感、凄く久し振りの様な感じがする。タオルで顔を拭いて目の前の鏡を見ると、そこにはお隣さんが立っていた。
「いい?歯磨きして」
私はタオルで顔を半分以上隠して、頷いた。片手で顔のタオルを押さえながら、片方の手で上の棚からタオルを取り出す。
「これ、使って」
「え?」
口をタオルで覆っているから、聞こえにくかったのだと思う。お隣さんが私の方へ耳を近付ける。
「タオル・・・良かったら使って」
「え?」
少し大きめの声で言ったのに、また聞こえなかったらしい。私は少しタオルを口から離して、その隙間から声を出した。
「これ、良かったら・・・」
そこまで聞いて、お隣さんは歯磨きをしながら泡いっぱいの口を開けて笑っている。
「ガードが堅いね」
「・・・え?」
「え?って聞こえないフリしたら、タオル取るかなって」
私はタオルで顔全体を隠して、ケラケラ笑うお隣さんの背中をペシッと一回叩いた。
「もう!」
今は冗談みたいに笑っているけれど、私はいつか全てを見せられる日が来るんだろうか。すっぴんもおでこも、機能性重視の下着をつけている自分も。一日中ゴロゴロしてテレビをつけたり消したりしながらダラダラ過ごす自分も、そんな全てを見せられる日が いつか訪れるんだろうか。
顔を洗い終わったお隣さんが、タオルで拭きながら私に言った。
「ごめんね。もうどくから」
歯ブラシを持って洗面所を出て行こうとするお隣さんに、私は言った。
「置いてって・・・いいよ」
「え?」
またタオルで顔を覆っているから聞こえにくいと言いたいのか?私はお隣さんをじっと見る。
「いやいや。今度はほんと。何て言ったの?」
「歯ブラシ・・・置いていっていいよって・・・」
昨日買って来てくれたお粥を温め、お隣さん用には目玉焼きとトーストとコーヒーを出す。
「ごめんね。ご飯炊いてなくって」
向かい合って朝食を食べるなんて、変な感じだ。するとお隣さんが口を開く。
「さっきの・・・どういう意味?」
「・・・さっき?」
「歯ブラシ置いていっていいよって・・・」
「あ・・・」
言葉でもう一回説明するのは照れ臭い。だから私は自分を甘やかす。
「そのまんまの意味」
目も合わせずに言うと、また今回もお隣さんが言葉を繋いだ。
「また泊まりに来てもいいよって事?」
「・・・・・・」
何故私はすぐに笑顔で『うん』って可愛らしく言えないんだろう。嫌になる・・・。
「それとも、すぐしまわないで、今だけ置いておけって事?」
私はそれには首を横に振る。しかもお粥を口に運びながらだ。一回もお隣さんと目は合わせない。ぶっきらぼうで可愛げのない女だ。しかもそれが“綺麗なお姉さん”なら高嶺の華っぽくて様になるけれど、私じゃ駄目だ。ただの太々しいアラフォー女だ。そんな自分に反省して、ほんの少しだけ勇気を出す。
「言い忘れてたけど・・・昨日、一緒に寝てくれて・・・ありがと」
言ってからちょっと恥ずかしくなる。“一緒に寝てくれて”という表現は正しいのだろうか?だから私の口が慌てる。
「一緒に寝てくれてっていうか・・・」
言い換えようとするけれど、一体何て表現したらいいのだろう。
「手・・・繋いでてくれて・・・」
お隣さんはにっこり笑顔を向けた。
「亜弥さんの寝顔見れて・・・幸せだった」
こんな事、相手を目の前にしてよく言えたものだ。やっぱり私とお隣さんは正反対だ。
「マスクそっとずらして、ね」
まさか!油断していた!私は慌てて顔を上げた。お隣さんはコーヒーを一旦テーブルに置いた。
「う~そ。やっと顔上げてくれた」
にっこり微笑んでいるお隣さんに、私はいつも手の平で転がされている感がある。
「もう!弄ばないでよ」
「人聞きの悪い事言わないでよ~。弄んでる様に思う?こんなに真剣に亜弥さんの事好きなのに」
「そういう意味じゃないよ・・・」
真っ正面からこんな愛の告白をされたら、また俯いてしまうではないか・・・。
「亜弥さんて可愛いから、ついからかいたくなっちゃう。ごめんね」
謝る時も潔い。やっぱり私とは似ても似つかない生き物だ。
「これ食べ終わったら、帰ろっかな」
「え・・・?」
「昨日自転車でそのまま来ちゃったし、風呂も入って着替えたいし」
当然の理由だ。それを引き止めるから、相手が窮屈に思うのだ。
「うん・・・」
だけど、その後にお隣さんが“何時にどこ”って言わないから、私の胸は急に不安に乗っ取られそうになる。
「今日・・・もう会えない?」
お隣さんがじ~っと私の目を見つめて言った。
「亜弥さんはどうしたい?」
「え?」
「ねぇ?どうしたい?」
「・・・・・・」
「病み上がりだし一日ゆっくり休んでる?」
「・・・・・・」
せっかく熱も下がったのに、別々に過ごすのは悲しすぎる。でも私は『一緒にいたい』このたった一言が言えない。すると、しびれを切らしたのか、お隣さんの少しだけ強い口調が飛び出した。
「たまには甘えてよ。あれしたい、これ食べたい。それ欲しい。何にも無いわけじゃないでしょ?」
「・・・・・・」
「何の為の僕なのかな?たまに暇つぶし程度に会って、負担にならない程度に一緒にいて」
「・・・・・・」
お隣さんがはぁと溜め息を吐きながら背もたれに寄り掛かった。
「僕って、本当優しくないね。病み上がりの彼女に詰め寄る事じゃないね」
お隣さんはお皿にカップを乗せて、片付ける準備を始めた。私の中でカウントダウンが始まって、誰かがお尻に火をつける。
「・・・やだ」
私はごくごく小さな声で呟く。
「え?」
「やだ。帰っちゃうの、嫌。一緒にいたい」
言い終えてゆっくりと上目遣いに顔を上げると、お隣さんは前髪をくしゃくしゃっとした。困っている様にも見えるその態度に、私は言った言葉に後悔すると共に、それを引っ込めるかどうか本気で迷う。すると、お隣さんが首を横に振って 私の迷いに待ったをかける。
「言った事、後悔しないで」
そして、その後ふふふっと自分の言った事に笑うお隣さんだ。
「言わせたみたいになっちゃったけど」
だから私は急いで首を振って否定する。
「出掛けられそう?」
「うん」
「本当?」
「うん」
「普通のご飯、食べられる?」
「・・・うん、多分」
「多分かぁ・・・」
「大丈夫」
「ぶり返させたくないからなぁ・・・」
「平気」
「少し寒いかもよ」
「いっぱい着てく」
お隣さんはクスッと笑った。
「じゃあ・・・もしぶり返して又仕事休んじゃったら?」
「ぶり返さないし、休まない」
「だから、もし」
「・・・う~ん」
私も頭をひねる。そして完全なる思いつきで口走る。
「また龍君に来てもらう」
「仕事の後で?」
「そのまま泊まりで看病して」
あははははとお隣さんが笑う。
「そんな風に言われちゃったら、ぶり返して仕事休んで欲しくなっちゃうじゃない」
「もし・・・だからね」
私もはははと笑った。するとお隣さんがテーブルに肘をついて身を乗り出した。
「風邪引いてなかったら、泊まりに来ちゃダメ?」
「・・・・・・」
ここは今までの様にテンポ良く・・・とはいかない。
「歯ブラシもあるしさ」
私はお隣さんの空になった皿と自分の空いた茶碗を重ねながら言った。
「今度は着替えも持って来てね」
「いいの?!」
飛びつく様なその声に、私は照れ臭くて席を立った。
「気が変わらなければ・・・ね」
食器をキッチンに下げると、お隣さんも隣に立って袖を捲った。
「洗うよ」
「ありがとう」
いつもと逆で、私が布巾を持って待つ。お隣さんが心なしかウキウキしている様に感じる。
「こうやってる内に、一緒に住んじゃったりして」
お隣さんは私の方をチラッと見て、ニヤッと笑った。
お隣さんがシャワーを浴びている間、再び一人になった部屋を見回す。窓際でカーテン越しに陽を浴びる小さな植物達。そんな光景を見ている隙間から、私の過去の記憶が横やりを入れてくる。8年前、部屋を出る時に置いていった思い出の数々。二人で映った写真、出掛けた先で買ったお土産の置物。当時は沢山部屋に飾ってあったけれど、私が部屋を出る時に置いていったのだ。二人の思い出だから自分一人で持って出てしまうのも違うと思ったから。そしたら、後から送られてきた彼からのメールに、私は愕然とさせられたんだ。
『残ってる物は、全て処分してしまっていいですか?』
まるで、その思い出なんか知らない引っ越し屋か片付け業者みたいな言い方だ。
『写真とか小物類は、私が全部持って行ってしまったらいけないかなと思って、置いておきました。要らないなら、取りに行きましょうか』
ゴミにされてしまうのがいたたまれなくて、私はそう送ったんだ。すると、彼はさっぱりしたものだ。
『思い出は残ってると 次に行く時の足かせになるので、こちらで処分しておきます』
私の心までごっそりゴミ箱に捨てられた様な思いだった。思い出の品なんか無くたって、彼との5年間の記憶が私にとっては充分足かせになったけれど、彼はどうだったんだろう。物が残っていなかったから、あっさりと次の相手に進めたのだろうか?
出会った頃は本当に優しくて、それは私が今まで出会った事ない位優しくて、その上理性的で尊敬していた彼だったけれど、あの時私は思った。人って、こんなに変わってしまうものなんだな・・・。出会った当時は、その5年後にまさか同じ人があんな事を言う人になってしまうなんて、まるで想像も出来なかった。そう思うと、今優しくて素敵に見えるお隣さんも、いつか私に嫌気がさして、まさかと思う様な事を言う人になってしまうのかもしれない。その恐怖が常に、どうしても頭から離れないのだ。だけど、一体どれだけ付き合えば、私が安心する日が来るんだろう。・・・いや、きっと、そんなの来ない。私はこうやって一生目の前の相手を疑り続けて歳を取っていく。・・・そんな事も分かっている。お花も、水をあげてお日様に当ててあげて、必要な時は肥料もあげると、必ずそれに応えてくれる。だからそれと同じ様に、私は彼に考え付く限りの自分に出来る事を精一杯したつもりだったけれど、恋愛はそう一筋縄でいくものではないらしい。植物と違うのは・・・感情という気持ちが存在するという点だ。いつからその気持ちがすれ違ってしまったのか、当時の私は全く気が付かずに、ありがた迷惑な愛情を押し付けてきたのだ。人の顔色を見て、空気を読むのが割合得意だった筈なのに、彼の気持ちがそこまで冷めてしまうまで気が付かないなんて、私は一体、一緒に住んでいながら彼の何を見ていたんだろう。
その時、お隣さんが風呂場から戻って来る。私はとりとめもない考えを一旦止めた。
「寂しくなってる?」
「え?」
「寂しそうな顔してたから」
いっぺんに私の不安が吹き飛ぶ一言だ。
「病み上がりなんだから、あんまり無理して色々家の事なんかやっちゃ駄目だよ。」
「龍君こそ、もし疲れてる様なら 帰ってもいいよ」
そう言った途端、部屋の空気が一変したのが分かる。
「それで寂しくないの?」
「・・・・・・」
私は自信がないから、すぐにこうして遠慮がちな代替え案を考えてしまうのだ。すると、お隣さんが言った。
「亜弥さんは優しいけど、こういうの 凄く、寂しい気持ちになる。一秒でも長く一緒に居たいって思ってるのに、同じ思いじゃないんだなって思い知らされる・・・みたいな」
「・・・・・・」
「いつもの僕だったら『そんな寂しい事言わないでよぉ~』って笑って跳ね返すんだけど、亜弥さん病み上がりだからね。本当は少し辛いの我慢してるのかなって。だから『じゃぁ、そうしようか』って言いそうになってる」
「・・・・・・」
「僕は全然疲れてもいない。だけど、亜弥さんが無理してるなら、今日はもうやめよう。どっちでもいいよ。亜弥さん、決めて」
私の『良かれ』は、大抵相手の『良かれ』になっていない。せっかく『無理しないでね』って掛けてくれた言葉も台無しだ。そうだった。こうやって私は、男の人の気持ちを潰していくんだ。自分が変わらなければ、何人相手を変え、何回恋愛をしたって、きっと結末は同じだ。私はある決意の表れを、鞄に忍ばせた。
コートを羽織って、私は二日ぶりの太陽を全身に浴びる。お日様の力は凄い。背中からじわじわと温められて、まるで自分が変われそうな気持ちになってくる。お腹の底から力がみなぎってくる感じだ。
駅前のカフェに入る。
「ねぇねぇ。ワッフルとパンケーキ、どっち食べたい?」
さっきあんなに気まずい空気にさせてしまったのに、もう こうして引きずらないでいてくれる彼に、いつも助けられている。思わず私がくすっと笑うと、お隣さんがちょっとすねた顔をする。
「どうせ、女子みたいって思ったんでしょ」
「違う違う。ごめん、ごめん」
否定しているのに、どうしても笑ってしまう私を見て、お隣さんもつられて笑った。
「それとも抹茶ラテとかにする?あ・・・それとも季節的にいちごのケーキとか?」
注文した品を待つ間、お隣さんがまじまじと私の顔を眺めて言った。
「良かったぁ、元気になって」
「龍君のお陰だね。ありがとう」
今までの私なら、お礼は言っても『あなたのお陰』なんて恥ずかしくて言わなかったと思う。だけど今日の私は、顔を上げてそう言える力がある。いや。何かの力によって、そう言わされている様な気もする。それ程自然と口からすっと出た言葉に、お隣さんもにっこりだ。
「ワカサギ釣りと足湯は、また今度予定組み直そう。体調が万全になってからね」
そして注文したワッフルを満足気に食べながら、お隣さんが私に質問した。
「亜弥さんはさぁ・・・僕がどんな事したら嫌?」
急な質問に、私は首を傾げてお隣さんを見る。
「例えば・・・着てた物脱ぎっぱなしにするとか・・・」
「あ~、そういう事?」
「靴下裏返しのまんま洗濯機に入れる、とか」
私は、お隣さんのその言い方が可愛らしくて、思わず笑ってしまう。そして首を横に振った。だって、前の彼と一緒に住んでいた時、彼は今言った様な事全てする様な人だったけど、私はまるで嫌ではなかったのだから。良く結婚してる友達が、夫への不満のランキング上位に食い込むような内容らしいが、私は一つも苦にはならない。
「じゃ・・・食べた食器を下げない」
私は変わらずに首を左右に振る。
「家事を一つも手伝わない」
ノーだ。自分でも不思議だが、それがストレスにはならないのだ。むしろ、自分が必要とされている様な気がして、嬉しい位だ。以前にまだ元恋人と同棲してた頃、友達に言われた事がある。
『男も育てないとね。甘やかしたら、一生そのままだからね』
その時は、そういうものなんだ・・・なんて呑気に聞いていたのを思い出す。そして、更に友達は言ったのだ。
『子供にも同じ事したら、過保護だからね。子供も旦那もしつけるのが女の仕事』
子供にも同じ事したら・・・と言われ、初めてドキッとした位だ。
『亜弥は過保護な親になりそうだなぁ・・・』
呆れた様にそう呟いた友達だったが、私が人の親になれる可能性も、そう高くない歳まで独身できてしまった。
「ねぇ、どうしたの?急に」
「嫌われたくないから、今の内にリサーチ」
そう言って、お隣さんは茶目っ気たっぷりに笑った。
「私、そういう事、何とも思わないの。家事を手伝ってくれなくても、全然嫌じゃない」
言ってから、ちょっと慌てる。こんな風に言い切ったら、前の彼氏と暮らした生活をイメージさせてしまうかもしれない と思ったからだ。しかし、お隣さんの反応は、そこで立ち止まる事なく、質問が更に続いた。
「じゃ・・・束縛?」
私は首を振る。むしろ、されたい方だ。・・・とは言えないが。
「じゃ・・・ご飯食べるって言っときながら、やっぱ今日はいらないってやつ」
これは少し考えてから、否定する。少しがっかりはするけれど、嫌という程ではない。
「あっ!わかった!お金の使い方とか価値観が違うっていうのは?」
「う~ん・・・まぁ、そこは似てるに越した事はないけど」
私がカフェラテを飲み終わるのを待って、お隣さんが優しい笑顔を向けた。
「今日のお出掛けは、これでおしまい。さぁ、帰ろっか」
急に、私の胸に木枯らしが吹き抜けた感じだ。
「・・・あっ!待って。ちょっと渡したい物が・・・」
バッグの中からそれを取り出すまでの間、私は『落ち着け落ち着け』と自分に言い聞かせる。私は小さな封筒を出し、それをお隣さんの前に差し出した。
「えっと・・・龍君が来たい時、家に来てもらって・・・いいから」
早速にそれを開けて、出てきた鍵を見て、お隣さんは私の表情を確かめる。
「亜弥さん家の?」
私が頷くと、お隣さんの顔にぱぁっと花が咲いた様な笑みが広がる。そこで私は、すぐに断りを挟む。
「でもね、別に深い意味はないから」
言ってすぐに後悔する。こういう断りを言う方が、深い意味がありそうに聞こえてしまうものだ。平成生まれの若者は、きっと合鍵を受け取ったって、昭和生まれの私程、重たい意味には解釈しないだろう。にっこり微笑んで、『良かったら持っててね』位にしておけば良かった・・・。でもお隣さんは、そんな事気にしている様子もなく、にこっと笑った。
「ありがとう」
店を出て、駅に向かう筈のお隣さんの足の向きが違う。
「うち・・・帰るんだよ・・・ね?」
「うん」
にっこり笑って頷くお隣さん。
「駅・・・」
戸惑っているのは私だけの様だ。お隣さんは、余裕の笑顔だ。
「うち・・・こっちでしょ?」
「うち?」
私は自分を指差す。
「そう。うち」
お隣さんはさっき私から受け取った合鍵を出して、決めポーズをしてみせた。
日曜の夜、お隣さんの帰った後、私は疲れた体を自宅のベッドに横たえて、金曜の夜からの二泊三日の喜びの余韻に浸る。お隣さんの優しい笑顔や私を見つめる視線。8年振りの生肌の感触。蘇ってきたお隣さんの声が耳の奥で再生されながら、私ははっとする。お隣さんが何気なく聞いてきた『どんな事したら嫌?』という質問は、生活の中での事ばかりだ。それを私は結婚しないと言いながら、お隣さんとの生活をちゃっかり想像しながら答えてしまっていた矛盾。私は馬鹿だ。あの時は舞い上がって、雰囲気に呑まれて つい彼との甘い結婚生活を思い描いて答えてしまうなんて。私の腹の底に眠る・・・いや眠ってなんかいない。無理矢理奥底に押し込められている私の本音が、ぼろっと溢れて姿を現してしまった瞬間だった。あの答えを聞いて、お隣さんはどう思ったのだろう?私の本音に気が付いてしまっただろうか・・・?いや、待って。もしかして私の本音を探るべくして、あんな質問を投げてよこしたんだろうか?だとしたら、まんまと引っ掛かってしまった私だ。脇が甘いと言うべきか、隙があると言うべきか・・・。本当はお隣さんとずっと一緒に居たくて、出来る事なら結婚したいっていう本心を、もしかしたら彼は私以上に分かっているのかもしれない。私は自分の本当の気持ちにも鈍感で、歳ばかり重ねてしまった イタイ39歳だ・・・。
次の日、お隣さんが出勤するなり、週末に貰った合鍵を 同僚に自慢げに見せる。すると、その同僚がにやりとして言った。
「やっぱ女はいくつになっても、弱ってる時に優しくしてくれると簡単に落ちるもんなんだな。そのまんま上手い事居座って、衣食住に苦労しない生活を手に入れるのもアリかもよ」
すると、その隣のデスクでニヤニヤしながら別の同僚が口を挟む。
「それ、完全ヒモやん」
「たっつぁんみたいに そこそこ容姿に恵まれた奴の特権だな。いいんじゃね?営業成績出さなきゃってプレッシャーから解放されて」
「羨ましいわ。その鍵が宝くじの当たり券に見えてきたわ」
わははははと声を高くして笑った。