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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
17/22

第17話

17.


 浅見が来てからの約半年、本当に総務課内の雰囲気が良い。週に五日一日8時間、同じ部屋の中で過ごすのだから、このムードが良いと悪いとでは、仕事を終えた時の疲労感が倍程も違う。それを考えると、浅見の居なくなった後が心配だ。

 その日は珍しく、定時を回っても キーボートを叩く音が鳴り止まない。

「ごめん。これももう一枚、修正いける?」

浅見から更なる仕事が降ってくる。

「はい。もちろんです」

「おお、頼もしいねぇ。いつも変わりなく引き受けてくれる安心感、感謝してるよ」

いつもよりも浅見のテンションが高い。きっと今日は月曜の上に月末の処理に追われて皆が疲れているからだ。残務量から見込んで、もう少し掛かると読んだ浅見の、ささやかなる心遣いだ。

 皆で手分けして終えた仕事の後は、自然と一体感が生まれる。こんな事、この会社の総務で仕事をしてきて、初めてだ。

「月曜から、皆ご苦労さん。腹減っただろうから、残れる人はピザとビール、少し腹に入れてってよ。急いでる人は、気にせず帰っていいからね」

若者達の反応が私には気になる。皆どうするんだろう。以前課長が誘った時みたいに、しら~っと帰っていくのだろうか。私がデスクの上を片付けながら辺りを見回していると、同じ様に様子を伺っている人物が一人いる。課長だ。課長も、皆の様子が気になるのだろうか。それとも、用事があるから先に帰りたいだけだろうか。

 宅配のピザ屋が良い香りと良く冷えたビールを届けに到着する。その途端、若者達がニコニコ顔で集まってくる。少しホッとする私だ。

「腹いっぱいになる程の量はないだろうけど、一人ビール一本とピザ、適当につまんで。日頃の感謝の気持ちだから」

「いただきま~す」

一番乗りは高橋恭平と若手の男性社員2名だ。

「明日もあるし、食べたらそれぞれパーッと帰っていいからね」

こういう声掛け一つ取っても、ねちっこくいつまでも連れ回す課長とは雲泥の差だ。

石川真凛や小林達女性社員も、嬉しそうにピザを口に運ぶ。

「会社でピザ食べると思わなかったぁ」

「ほんと。ある意味、変な感じ」

近くの社員同士でお喋りしていると、ビールを渡したりピザを勧めたり一番動いていた浅見が、急に1目盛り大きな声を発する。

「半年の辞令でこちらに来させてもらって、あっという間に過ぎていきました。今日まで気持ち良く仕事させてもらえた事、皆に感謝してます。残りあと僅かですが、宜しくお願いします」

「次、どちらに行かれるか、もう辞令は出てるんですか?」

そう聞くのは高橋恭平だ。

「うん、出てるよ。言えないけどね」

囲み取材みたいに、段々に皆口々に好き勝手な質問をする。それを笑ってかわしながら、浅見が面白がる。

「そんなに興味持ってくれて、嬉しいよ」

すると その言葉に、小林を始め若い女性社員がその言葉に食いついてくる。

「興味はすっごく持ってますよ、皆」

「へぇ~、そうなの?」

初耳といった顔で驚く浅見。

「部長は生活の匂いが一切しないから、結婚してるのかなぁ とか、子供さんはいらっしゃるのかなぁとか」

はははと笑って受け流す浅見の顔を見ていると、少し勝手に切なさが込み上げてくる私だ。

「今だからぶっちゃけますけど、最初亜弥さんと完全にデキてるって思ってましたもん、うちら」

「え~?!」

今まで見た事もない位顔を崩して驚く浅見に、皆更に親近感を覚える。

「最初って事は、もうその誤解は解けてるんだよね?」

「この前、亜弥さんから直接聞きました」

浅見の少し不安げな顔に、私は頷いてみせた。

「変な噂だけ置いてったら、竹下さんに迷惑掛けちゃうもんね。そこんとこ、ちゃんと解決済みなんだよね?」

小林はにっこり笑って答える。

「はい。亜弥さんの年下のイケメン彼氏の写真見せてもらって、疑惑は一気に吹っ飛びました」

「いやっ・・・そういう訳じゃ・・・」

思わぬところで暴露され、私の戸惑いなどお構いなしに盛り上がっていく。すっかり私のゴシップの話題になった辺りで、課長がかがみ気味に浅見に挨拶をしている。

「すみません。私はこれで・・・失礼します」

「あ、どうも。お疲れ様でした」

心なしか帰っていく背中が寂しそうだ。しかし、そんな事を考えているのは多分私だけだ。他の皆は好き勝手に話して盛り上がっている。そして石川真凛が浅見の近くに行った。

「部長。部長がここにいらしたのって、課長のお目付け役って事ですか?」

「お目付け役?」

「だって聞いてますよね?いままで本当酷かったんですからぁ。仕事の後飲みに行く事しか考えてないのかって位、夕方になるとソワソワして。次々声掛けて。いっつもその犠牲になってたのが亜弥さんですよ」

「なんで君達は行かなかったの?」

「だってぇ。仕事の後まで、どうして気遣ってお酒飲まなきゃいけないんですか?時間外手当も付かないし」

「そうだね」

笑いながら頷く浅見だ。

「じゃ、なんで竹下さんは課長に付き合ってたんだと思う?」

「え~?・・・いっつも最後の砦っぽく亜弥さんに声掛けるから、断りにくかったんじゃないですか?」

「違うと思うよ」

浅見の表情が急に真顔に切り替わる。

「若い君らみたいな世代と課長とを上手く繋いで、仕事も円滑に進む様にバランス取っててくれたんだと思うよ」

まさかの言葉に、思わずドキッとする。何だかとっても嬉しい。じんわり心が温められていくのを感じながら、同時に皆の反応も気に掛かる。しかし誰一人として、反論を持つ者はいなかった。

「こういう人が一人、居ると居ないじゃ、組織って大きく違うんだよね。目立たないけど、大きな存在だと思うよ」

思わず目頭に熱い物が込み上げてきて、気が付いたらツーッと涙が零れてしまっている。それに気付いた石川が大きな声を上げた。

「亜弥さ~ん、泣いちゃってるぅ~」

「いやいや・・・ごめんなさい。私なんて全然そんなんじゃないのに、こんなに誇大評価して頂いちゃって・・・申し訳ないです」

「長い事、一人で苦労してきたからね・・・」

浅見は、まるでお父さんみたいな視線で私を見ながらそう言った。こんな追い被せて褒められたり労わられたりしたら、涙が止まる訳がない。無理に止めると不細工になる顔を覆った私を、石川や小林が抱きしめていい子いい子してくれている。

「ごめんなさい。俺、上司のご機嫌取りなんて言っちゃって」

私は声の代わりに必死に頭を振るった。

「私こそ、ごめんなさい、亜弥さん。課長にビシッと言ってやって下さいよ!なんて勝手な事言っちゃって・・・」

その様子を見ながら、浅見が続けた。

「君ら、酷いね~。あと5年や10年しない内に、今度は自分達がその役になるんだよ。しっかり学んでおかないと。その時まで竹下さんが居てくれるとは限らないよ」

するとそれまで背中を摩っていた小林が、その手を止めて大きな声を出した。

「そっか!亜弥さん、年下彼氏と結婚しちゃうかもしれないし」

「え~、困るぅ~」

「『え~、困るぅ~』じゃないよ。きっといい奥さんになると思うよ」

変な方向に話題がそれていきかけて、私は声を上げて否定する。

「そんな、そんな。そんな事ないです」

「そんな事なくないよ。どんな仕事頼んでも、いつだって『大丈夫ですよ』って受けてくれるし、仕事はきちっとこなすしさ。きっと男が外で働いてる間、家庭の事任せておいても安心って思えるんじゃないかなぁ」

買い被り過ぎだ。だって、少なくとも一緒に住んでた前の彼氏には そうは見えなかったんだから。

すると岩本美優が声を発する。私にネイルサロンを紹介してくれた後輩だ。

「その考え方って、古くないですかぁ?」

「古い?」

「女は家庭を守るもの。男は外で稼いでくるものっていう構図。もうそんな時代じゃないですよ」

「じゃ、どんな時代?」

「男も女も平等。外で働くのも家事育児をするのも、それぞれ得意な人が得意な方をする。役割分担を決めて、対等に共同生活してく・・・みたいな?」

「じゃ、例え両方共、家事育児が苦手だったら?」

「育児が苦手なら、子供作んなきゃいいんだし、家事は生きてくのに最低限必要な事だから、平等に分担すればいいんじゃないですか?」

「育児は苦手でも、子供は欲しいって場合は?」

「それは自分勝手でしょ。料理出来ない人は食材家に買って帰らないのと一緒です。出来ない人は、出来てる物を買うんです。それが嫌なら、料理出来る様に努力するしかないですよね?」

浅見は手に持っていた缶ビールを飲み干して、両手を挙げた。

「あっぱれ!これ、女性の総合的な意見なんだろうね。反省します」

頭を下げる浅見を見て、高橋が声を出した。

「部長!言われっぱなしで悔しくないっすか?男として、もっとビシッと言ってやって下さいよ」

すると今度は浅見が大きく手を振ってそれを否定した。

「俺は失敗組だから、そこは偉そうに言えないよ」


 会社の帰り、私はいつもの様に電車に揺られながら色々考える。若い世代のお隣さんは、果たしてどんな結婚生活を思い描いているんだろう。男女平等派?それとも男は外で働き、女は家庭を守る派?

 駅を降りた頃、お隣さんから電話が掛かる。

「あれ?まだ外?」

「今日ね・・・嬉しい事があったの」

「何?珍しいね。亜弥さんがそんな事言うの」

会社での今日の出来事と同時に、思いがけなく掛けてもらった浅見からの労いの言葉を伝える。

「へぇ~、凄いね。良かったね」

「うん。私思わず嬉しくて涙が出ちゃって・・・後輩達がいい子いい子してくれたりして・・・ほんと嫌になっちゃう。年取ると涙腺が勝手に緩んじゃって・・・」

「・・・・・・」

「部長もね、こういう人が一人居るのと居ないのとでは大違いだよ、なんて。私、職場でこんな風に必要とされてるなんて感じた事なかったから、余計に嬉しくて」

「部長って・・・いくつ?」

「幾つかなぁ・・・。40代後半位かなぁ?」

「・・・男だよね?」

「うん。どうして?」

「・・・ちょっと・・・やきもち焼いた」

「え?どうして?」

「亜弥さんを泣かせる位喜ばせて、亜弥さんの心を一瞬で満たした人でしょ?社会的な地位もあるし、組織をまとめる力だってある。これで格好良かったら、マジで戦闘態勢になるかも」

「え~?!ただの上司だよ?」

「そうだけど・・・。あっ!もしかして、雪の日に一緒にいた人?」

「あ、そうそう。あの人」

「駄目だよ。ああいうの、危ないタイプだよ。亜弥さん、絶対に個人的に食事とか誘われても行っちゃダメだからね」

「全然危ないタイプじゃないからぁ。それに、今月いっぱいで、もう他に行っちゃうから」

「良かったぁ!ちょっとホッとした」

「うちの皆は、部長が居なくなっちゃうの、惜しんでる子達ばっかりだけどね」

「人望もあるのかぁ・・・。悔しいなぁ。もうちょっと待っててよ。僕もそういう風に昇り詰めていくから」

私の耳がその言葉をキャッチする。

「昇り詰めるとか・・・そんな事考えなくていいんじゃない?自分のやりたい仕事して、なりたい自分に近付いていけば」

「それは理想でしょ?現実とは違うよ」

私の胸に、この間知り合いのバーで聞いた時と同じ様な胸のざわつきを覚える。

「ねぇ、ちょっと待って。この間から気になってたんだけど・・・」

しかしお隣さんは、別の話題にすり替えた。

「ごめん!まとめなきゃならない資料があったんだ」

その後、私の中のモヤモヤを残したまま電話を終えた。


それからさほど経たない内の出来事だ。

お隣さんと重ねた唇を離すと、私は呟いた。

「前の彼女と、どう違う?」

お隣さんは私のおでこにもう一度キスをすると、にっこり笑って言った。

「真央ちんはもっと自分から気持ちをぶつけてきてくれたよ。キスでもベッドでも。亜弥さんは・・・奥ゆかしくてやまとなでしこって感じはするけど、やっぱ物足りないよ」

あははははと悪びれもせずに笑う声で目が覚める。・・・夢だ。変な夢を見たんだ。夢だと分かっているのに、気分が沈む。あまりに鮮明だったから。起き上がって準備をしながら、さっきの映像と台詞が何十回と再生される。きっと本当のお隣さんなら、私の前で元カノの事を『真央ちん』なんて呼ばない。必死に幾つも間違い探しをするけれど、それがその再生回数に歯止めをかけるブレーキにはならない。朝の通勤電車に揺られながら、性懲りもなく まだ考える。『前の彼女とどう違う?』なんて、よく私も聞けたものだ。きっと私がいっつも気にしている事だからだろう。頭の隅でいっつも、若くて可愛い元カノに引けを取っていないか気にしているからだ。でもよく考えたら可笑しい。若くて可愛い“真央ちん”に引けを取っているに決まっているのに、必死に同じ土俵に立とうとしている自分が滑稽でならない。それに、夢の中でのお隣さんの台詞は、私の頭の中の不安が作り上げた代物だ。


 会社に着くと、今朝の夢を忘れられそうな位現実感がある。特に、明日で浅見はここを去って行く。“浅見部長を送る会”というのを若い子達が計画してくれているのが今夜だ。

昼休み、廊下で小林が私に囁く。

「今日送別会のお店に行く前に、お花買いに行くの、一緒に手伝ってもらってもいいですか?」

「もちろん」

先日の残業の後のピザ以来、若い子達と浅見部長との距離が縮まったのが嬉しい。仕事自体も、お互いに声を掛け合って 和気あいあい感も増し、チームワークも上がった様に思う。しかし、果たして明後日以降、浅見が居なくなった後も この雰囲気が続くかが、今の私の最大の心配事だ。

「竹下さん、これ頼む」

浅見に言われ、仕事が回ってくる。この感じ、もう無いんだな・・・そう思うと、やはり正直寂しい。いつの時代もやっぱり“頼れる上司”“信頼できる上司”がいる職場に憧れるものだ。


 月末処理の仕事に追われたが、皆が協力して仕事をこなす。その甲斐あって、そう遅くならずに 予約していた店へと集まる。皆が揃って浅見部長を見送りたいという気持ちの現れだと思う。

半年前には信じられない位、若い社員達が楽しそうに過ごしている。そして私が課長の顔色を見てハラハラする位、皆浅見の転属を悲しんでいる。

 一軒目の時間いっぱいまで皆が残っている。先に帰る者は一人もいない。店を出ると、課長が浅見に頭を下げた。

「私はここで失礼します」

「遅くまでありがとうございました。気を付けて帰って。また明日もよろしくお願いします」

そう課長に挨拶した後で、浅見は皆の方に向いた。

「明日もお互い仕事だから、ここでお開きにしましょう。今日は本当にどうもありがとう」

そう挨拶をすると、どこからともなく若者の輪の中から声が上がる。

「部長、もう一軒行きましょうよ」

「そうだ、そうだ。二次会、行ける人で行こう行こう」

「明日もお互い仕事あるでしょ。今日はこれでおしまい」

浅見が仕切る。しかし構わず小林が私に質問する。

「亜弥さん、行けますよね?」

「え・・・?だって部長、これでお開きって・・・」

「そうですけど、いいからいいから。行けますよね?」

「・・・まぁ・・・でも・・・」

そう答えを聞いた途端、小林が手を挙げて部長に向かって少し大きな声で言った。

「亜弥さん、行けるそうです。ね?それなら部長行きますよね?」

「はぁ?!関係ないでしょ?」

私は無意味に慌てる。それを見て部長が笑った。

「竹下さん、こういう時に慌てるから、変に疑われちゃうんだよ~」

「ですよね~。すみません・・・」

私が肩をすぼめる。その肩を浅見がポンと叩いた。

「こういう不器用な感じが、愛されキャラなのかな?可愛いよね~」

このからかった様な言葉に、やはり若者が食いつく。

「やっぱ部長、惚れちゃいました?」

はっはっはっと大らかに笑っているだけの浅見だ。すると悪ノリした小林が言った。

「年下のイケメン彼氏と、年上のダンディ彼氏、どっちにします?亜弥さん」

「やめてよ~、変な冗談」

そんな会話が飛び交うのを見て、石川が部長に言った。

「ここでこうしてても時間が経っちゃうんで、行きましょうよ、もう一軒だけ。ね?部長」

おねだりする石川の言葉で、浅見が仕方なく重たい腰を上げた。

「じゃ、時間決めて二軒目行くか?10時!10時には解散。いいね?」


 そうして課長以外の全員が二軒目に流れる。そして部長の言った通り10時には解散して、それぞれの家路へと散っていく。

「もっと早く、こうやって部長と飲み行っとけば良かったぁ」

こんな声があちこちで聞こえた二次会を終え、駅まで歩く。意外に私と同じ方面なのは浅見だけだ。

「部長はお酒の飲み方が綺麗だから、きっと皆に好かれるんですね」

「そうかな?」

「そうですよ。やっぱり、そこ大事です」

「竹下さんも、崩れないよね?」

「お酒に飲まれて可愛い歳はとっくに過ぎてますから。それ位自覚してるつもりです」

「そっか。でも元々崩れないタイプでしょ?」

「崩れて可愛いのは、容姿端麗な美女ですよ。私が崩れたら醜いだけです。だから、昔っからその程度にしかお酒は飲まない事にしてます」

「へぇ~、自己管理に隙がありませんなぁ。隙を見せるのは彼氏の前でだけか。いいねぇ、大和撫子」

「・・・・・・」

私の返事が詰まったから、浅見はハッとした顔で私を見た。

「あ!これセクハラ発言だよね?ごめんごめん。せっかく今『綺麗に酒飲む』って褒められたばっかりなのに・・・」

「いえ・・・」

送別会の間忘れていたお隣さんの事。昨日から縛られていた問題だ。私はついつい口が緩む。

「彼氏の前でも、緩みません・・・」

「え?・・・そうなの?」

この話題を広げていいのか多少戸惑っている感はあるが、私の顔を見て、浅見は言った。

「そういうのが可愛いと勘違いして、しな垂れてくる女の子よりいいんじゃない?」

私は少し溜め息を吐きながら、思い切って聞いた。

「部長は・・・ご長男ですか?」

「俺?・・・そうだよ」

「男兄弟いないタイプの長男ですか?」

「いや。弟が一人いる。あとは姉貴がいるけど」

急に突飛な質問をした私を、浅見は不思議な顔で見た。

「どうしたの?急に」

「・・・・・・」

「彼氏、長男なの?」

「・・・はい」

「未だに、長男婿にもらうなっていう風潮あるの?」

「・・・そうじゃありません」

「・・・・・・」

じゃ、何?とでも思っているだろう。私はまた謎めいた単語だけを発する。

「いいですよね~、部長は。もうお子さんいらっしゃるから、変なプレッシャー掛けられる事もなくて」

「子供?血は繋がってるけど、籍からは抜けちゃってるからねぇ」

「あ・・・そうかぁ。そうなると、跡継ぎって訳にいかないのかぁ。そういう事もあるのかぁ・・・」

私がブツブツ言いながら歩くと、浅見が少し笑いながら聞いてくる。

「何?もう跡継ぎ産む心配?」

私は笑ってごまかした。

「いえいえ。すみません、変な事急に言って」

私は話題を変えるべく、声のトーンを少し変える。

「部長。次の配属先、どちらですか?」

「・・・大阪」

「え~?!大阪ですか?」

「そ」

「じゃ・・・もう会えないんですね・・・」

「家庭を築いて、家庭が壊れた場所にもう一度帰って来るよ」

何となく、漠然とだけれど、私の事を言われている様に感じる。

「怖くないですか?」

浅見は暫く考えていた後で、一言だけ言った。

「怖くない訳ないよ」

「部長でも・・・怖いんですね」

浅見が笑った。

「何?俺は何も怖い物のない人間だとでも思ってたの?」

「そうじゃないですけど・・・ちょっと安心しました」

「安心?」

「だって・・・部長でも怖いんだから、私が怖くても何もおかしくないなって」

部長は私の方を見ずに、ただ真っ直ぐ前だけを見て歩いている。

「年取る程勢いが衰えて、慎重になるものだよね。色んな事考えすぎたりして。だけどさ・・・」

丁度駅前に着いて、浅見は足を止めて私の方へ体を向けて肩にポンと手を乗せた。

「竹下さんはいいお嫁さんになるよ。自信持って」

私はただ茫然と浅見から目が離せなくなっている。そんな私をじーっと見て、浅見が笑いながら首を傾げた。

「でもなぁ~、寿退社は困るなぁ。今の総務課、竹下さんの存在大きいんだよなぁ。今辞められたらバランスが崩れる」

「そんな事ないですよ~」

そう謙遜してみるが、内心めちゃくちゃ嬉しい。思わずにやけてしまいそうな程だ。

「本当だよ。おべっかで言ってるんじゃないからね。会社辞める時は、後任育ててからにしてよ~」

「後任って程の役割でもないですけど・・・」

私は独り言の様にブツブツ言うと、浅見が口を尖らせた。

「竹下さんも意外と頑固だね」

「え?」

「人の言う事、意外と真に受けない」

真に受けない、と言われてしまうとそれ以上反論できない。確かに私は“おだてりゃ木に登る素直さや可愛げ”はない。浅見の言う“頑固”という二文字が、心にずっしり重たい。

「じゃ・・・真に受けて聞きます。その上で質問です」

「ははははは。何なりと」

「もし、万が一後任を育てるとしたら、誰が適任だと思われますか?」

浅見が腕組みをして頭をひねる。

「う~ん・・・。今はいないな」

「え~?!」

「・・・困る?」

“困る”という事は、私が辞める日が来る事が前提だ。

試すような顔で私の反応を悪戯っぽく眺めている浅見に、私は胸を張って言った。

「困りません。マンションも買っちゃったし、私、そう簡単に辞められませんから」

浅見は笑って私を指差した。

「やるね~。上手い!そうそう。こういう返しが出来る機転と繋ぎがある子、育てないと」

そう。私は辞めない。来月を待たずに別れるかもしれないのだから。だけど、『居なくなったら困る』と言ってもらえる職場があるだけで、今の私は充分幸せだ。

「部長、ありがとうございます。私・・・何だか元気になりました」

「・・・そう?なんだか分かんないけど・・・まぁ良かったよ」

少し歩いて、駅の改札まで来て、浅見が言った。

「産休や育休ぐらいは、迷わず取るんだよ」

「え?」

「後任が育ってなくてもさ」

私が後任がいない事を自分の言い訳にするのを見抜かれている様だ。

「明日、もう一日よろしくね」

浅見は爽やかな笑顔を残して、私達は別の方向へ帰っていった。


 電車に乗って一人になると、私は携帯を取り出す。電源が切れている。・・・そうだ。昨夜充電し忘れたんだ。会社を出る時は、残り10%位だったから切っておけば良かったんだけど、もしかしてお隣さんから連絡が来るかもしれない・・・なんて考えていた事を思い出す。一体私、どうするんだろう?はっきりさせないでいる内に、お隣さんはプロポーズなんて言い出すし、両方の母親同士やり取りまで始めてしまって、挙句の果てには『今度高知にいらっしゃい』なんて言わせてしまっている。そしてその度に私は、どちらともつかない社交辞令な笑顔でその場しのぎな態度をとるから、周りを惑わせてしまうんだ。きっと私はこうやっていっつも中途半端でずるい生き方をしてるから、いつまで経っても胸を張れないんだ。自信が無いのは容姿のせいじゃない。仕事のキャリアが無いからじゃない。私自身の生き方の問題だ。それが、眩しい位真っ直ぐで自分に正直なお隣さんと居ると、そんな醜さが際立って見える。言い換えれば、お隣さんのお陰で気が付いた本当の自分の姿だ。もう嘘はやめよう。そして私はお隣さんの家へ向かった。


 エントランスの下から、お隣さんの部屋を見上げる。電気はついていない。一度呼び出してみるが、やはり応答はない。暫くそこで待つ事にして、私は壁に寄り掛かった。

暫く待った頃、私は袖を少し捲って時間を確認する。・・・つもりだったが、腕時計を忘れた事を思い出す。今朝は変な夢で目が覚めたから、気が動転していて忘れてしまったのだ。それでも会社では不自由しなかったが、携帯の電源も落ちてしまった今、時間を確認する物が何一つ手元にない。二次会を解散して電車に乗った時刻から、時計の針を進めてみたりする。仕方ない。今日は終電が無くなったら、タクシーで帰ろう。そんな風に覚悟して、再び壁に寄り掛かる。果たして、お隣さんに自分の気持ちを上手く伝えられるのだろうか。いっその事大雨でも降ってきて、こんなごちゃごちゃ薄汚れた自分を洗い流してくれたらいいのに、と思う。

 充電の切れた電話を再びポケットにしまった時、目の前で一台の自転車が停まる。お隣さんだ。

「・・・おかえりなさい」

驚いているお隣さん。

「いつから、居たの?」

「ううん。ついさっき」

何かいつもと様子が違う。

「・・・入る?」

私は急いで首を振った。

「ううん。ちょっと話しに来ただけだから」

「話?」

今まで一生懸命電話やメッセージを送ってくれたお隣さんと、今目の前に立っているお隣さんでは、温度が違う。それを感じてしまうと、私の口も上手く回らない。

「龍君とお付き合いする様になって、色々考えてて・・・。やっぱり先の事考えられない」

「・・・どうして?同じ結果になりそうで怖いの?」

私はゆっくり首を振る。そして、心を決める。

「私・・・龍君とは結婚出来ない。ごめんなさい」

しかし意外にも、お隣さんの反論が飛んで来ない。

「・・・やっぱりね。そう思ってると思った」

必死で隠してきた筈の気持ちが、お隣さんには見えていたなんて・・・。私の胸の中は複雑に入り混じる。

「なんでそう思うか、当ててあげようか?」

お隣さんがじっと私の瞳を捉えるから、もう逃げ場はない。勘のいいお隣さんだ。嘘の上手くない私の考えてきた事なんて、きっととっくにバレていたに違いない。私はお隣さんの答えを予想して、自分の反応を今から準備する。お母さんとの会話を聞いてしまったと打ち明けるべきか。それとも、自分から身を引く覚悟を決めたのか。どちらにしても、私は『降参!』と両手を挙げる準備を整える。そして、お隣さんは言った。

「まだ、前の恋人の事、忘れられないんでしょ」

え?・・・え?!

思っていた場所にパンチが来ないから、私は一旦真っ白になった頭を、必死で動かし始めた。

「・・・違う」

何とか絞り出した言葉だが、弱々しい。だから、私はもうひと踏ん張り絞り出す。

「それは・・・違う」

同じ言葉を繰り返しただけだから、もちろん説得力はない。ただ否定しただけの私に、お隣さんは当然の質問を投げる。

「じゃ、どうして?」

そうなるに決まっている。当然の流れだ。もう嘘はつかないと決めた自分を貫く時が来たのだ。私は、これ以上入りきらないという程いっぱいの空気を肺に吸い込んだ。しかし、それを吐き出す前に、お隣さんの口から言葉が飛び出した。

「本当は、僕と居るより 年上の大人の男といる方がしっくりくるんでしょ?」

私は 気が付くと、もげるかと思う程首を左右に振っている。しかしお隣さんはやめない。

「何でも話を聞いてくれて、どんな悩みも解決してくれて、いつでもにっこり笑って余裕があって、それでいて包容力がある男と一緒にいる方が、居心地がいいでしょ?」

「・・・・・・」

「若造に邪魔されたくないから、携帯切ってまで二人の時間を大事にするんだ?」

未だ機嫌の悪い言い方に、私は尻込みする。

「・・・誰の事?」

「亜弥さんの方が、誰の事か良く知ってるんじゃない?」

「・・・部長の事?」

「二人で出掛けないでって言ったよね?」

「二人で出掛けてたんじゃない。今日は送別会で皆一緒で、たまたま駅まで二人になっただけ」

「亜弥さん、僕の前ではしない様な、無防備で安心した顔見せるんだね」

そんな事ない・・・。心の中で叫んでも、それは外界には響かない。

「だって・・・この半年、週に5日1日8時間同じ部屋で一緒に仕事してきたんだよ。多少は気心許したりって・・・あるでしょ?」

「じゃ、僕らも一緒に住んで毎日一緒に過ごしたら、亜弥さん、ああいう表情見せてくれるようになる?」

「・・・・・・」

すぐには返事はできない。だけど、私の口から思いもかけない言葉が溢れ出す。

「龍君だって、彼女と一緒にいる時、楽しそうに笑ったりしてたじゃない。それは気心知れた仲だからでしょ?彼女と並んでる感じとか、彼女の龍君を見る視線とか・・・凄く自然だったし・・・」

するとお隣さんが低い声で言った。

「彼女じゃないよ。“元彼女”」

「あっ・・・そうだけど・・・。それもアリあのかなって」

「何?アリって?」

「正直、やっぱりお似合いだって思ったし、彼女もきっと龍君の事信頼して安心できる相手なんだと思うし」

「だから、“元”ね」

「あ・・・ごめんなさい」

「で?何?僕には私じゃなくて元カノとの方が似合ってるって言いに来たの?」

少し機嫌の悪さが伝わる話し方で、私はちょっとビビッてしまう。だって気が付いたら、話そうと思っていた事とまるで違う事ばかり並べてしまっているんだから。

「・・・僕だって、今日亜弥さんと部長さん見て、そう思ったよ」

「・・・・・・」

確かに今日の私と浅見部長は、この前電車で見掛けた お隣さんと“真央ちん”の状況に似ているかもしれない。私がそんな事を考えている間、お隣さんの頭の中はどんな事で埋め尽くされていたんだろう。重たい空気が立ち込めて、どう決着をつけていいか分からないでいると、お隣さんが頭をぐしゃぐしゃっとして 言った。

「一緒に住もう。それでそのまま結婚しよう」

「・・・一緒には・・・住まない」

もう嫌だ。あんなに傷付く自分は一回でもう充分だ。

「ごめんね。私・・・龍君の結婚相手には向いてない」

お隣さんが肺を大きく膨らませたから、私は今度こそ発言権を得る為 言葉を見切り発車させた。

「私今年で40になるの。元気な子供産めるかどうか危うい年齢だと思うの。龍君の事好きだけど・・・結婚となると、やっぱり話は別・・・なんだよね」

良く言い切った・・・と自分でも思う。言う前は言葉にするのがとても怖かったけれど、口にしてみると、意外と清々する。体の中から溜まっていた毒素が抜けたみたいに軽い。もうここまで言ってしまうと、あれほど気にしていたお隣さんの顔色も、全くと言っていい程気にはならない。

すると、もう一度お隣さんはたっぷりの息を吸い込んだ。

「亜弥さん。一緒に住もう。それで子供が出来たら結婚しよ」

「いやいやいやいや・・・」

私は即座にそれを否定した。

「順序が違うでしょ?私、そういうの・・・駄目」

私は古いのかもしれない。今は子供が出来たのをきっかけに籍を入れるカップルは幾らでもいる。珍しくも何ともない時代になった。だけど・・・やっぱりジェネレーションギャップだろうか?私はその順序が違う事に、凄く抵抗がある。確かにお隣さんの言う通り、それが一番現実的に解決策に近いのかもしれないけれど・・・嫌だ。昭和生まれの私の常識が、平成生まれの彼の感覚を受け入れる事が出来ない。

「分かった」

お隣さんは、意外にもあっさりと引いていく。正直、もう少し粘って説得されて・・・なんていうシナリオを想像していたから、肩透かしにあった気分だ。分かってくれたという事は・・・別れるって・・・事?私の頭の中に?がうようよ彷徨っている。そんな間抜けな顔の私に、お隣さんは1mmも動揺しない。

「自転車、部屋に置きに行くけど、上がる?」

私は首を振った。

「ううん。帰る。明日もあるし」

私は腕時計を見ようと袖を捲って・・・思い出す。

「あっ・・・」

思わず、そう声が漏れる。

「どうしたの?」

「今、何時か分かる?携帯も充電切れちゃって、時計も忘れちゃったから・・・」

自分の腕時計を見て、お隣さんは言った。

「1時・・・」

「・・・・・・」

「終電終わっちゃったね」

じーっと私の目を見ているのが分かる。目を合わせなくても分かる。だから私は駅とは反対方面を指差して早口で言った。

「元々帰りはタクシーで帰ろうって思ってたから、平気」

「・・・車があれば送ってあげられるんだけど、ごめんね。自転車って訳にいかないし」

私は慌てて笑顔をあてがう。

「タクシーなら、コーヒー一杯くらい飲んでってよ。ずっと外に居て、冷えたでしょ?」

「・・・・・・」

ここまで言われて断る理由が見つからない。だけど、今上がったら もっと帰りにくくなる様な気がする。

「そんなに悩む?」

きっとお隣さんは、軽い気持ちで誘ってるだけだ。私が深読みし過ぎなんだと思う。だけど・・・簡単に『うん』と言えない。

「恋人の家に上がるのに、そんなに警戒する?」

「違う!そういう訳じゃない」

とっさに強い口調になったのは、やはり図星だったからだ。

「別れたいって言ってる彼女の事、無理矢理襲ったりしないよ」

深夜の僅かな外灯の明かりに照らされたお隣さんは、悲しい表情を浮かべていた。中ぶらりんな私の胸が痛む。お隣さんはもう一度自転車の鍵を解除した。

「タクシーまで送るよ」

大通りまで歩きながら、お隣さんが言った。

「さっきの答え、ちょっと保留でもいいかな」

私は黙って頷いた。

「あとは、僕がどうするか、決めちゃってもいいんだよね?」

「・・・うん」

私のその返事を聞いて、お隣さんはクスッと笑った。

「そういう所は、信頼してくれてるんだ?」

信頼・・・。信頼してない訳ではないけれど・・・違う。私はただ単に、何か大事な鍵を自分に託されるのが嫌なだけだ。自分に決定権を預けられる位なら、少々強引でも引っ張られる方がましだ。『龍君が強引だっだから』って、言い訳が立つ。

「それも・・・違うのか・・・」

寂しそうな瞳で私を見てから、お隣さんはタクシーに手を挙げた。

「じゃ、気を付けて帰ってね。おやすみ」


実は私には 一歩踏み出せない理由がある。それは・・・8年というブランクが空き過ぎている事だ。恋人と愛を確かめ合うという事自体、もうすっかり深い深い記憶の底に置きざりになってしまっていて、いざ その時になって自分が上手く振る舞えるか自信が持てないのだ。しかもお隣さんよりも私は一回り以上年上だ。当然色んな経験値だって上だと思われているのに、それに見合ったリードが出来るとも思えない。きっとこんな事、紅愛に言ったら 即刻バッサリ切り刻まれて粉々になってしまう様な戸惑いだろうけど、今の私にとっては、意外と深刻なブレーキとなっている。あとついでにもう一つ明かしてしまうならば、こうしてお隣さんとの距離を縮めるのに時間を稼いで、彼の中から真央ちんの肌の感触が忘れられていくのを待っている・・・というのも本音だ。


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