第16話
16.
「そうそう。お袋がね、直接亜弥さんに電話するって。干し芋のお礼 言いたいからって」
「え?!」
「言葉が所々分かりにくい所もあるかもしれないけど、そういう時は聞き返せばいいから。もしかしたら、一方的に用件バーッと喋って切っちゃうかもしれないけど」
次の夜、携帯に着信がある。電話帳に登録されていない番号だ。しかも見慣れない市外局番。もしかして・・・そう思いながら、緊張気味に電話に出る。すると、こちらがまだ声を発する前から、フライング気味に元気な声が聞こえてくる。
「もしもし?亜弥芽さん?堀之内です。龍の母です」
お隣さんが昨夜言っていた通り、お母さんからの電話だ。
「干し芋、ありがとう。立派なお芋だこと。おとおが作られたが?」
「はい」
家の中なのに、私は座る事も出来ず、棒立ちのまま電話を握りしめて耳に当てている。
「畑じゃー、他にゃ何を作っていらっしゃるが?」
「季節によって色んな野菜を作ってる様です。夏だと茄子やトマトやミョウガ。秋だと里芋とか小松菜とか京菜とか」
「へぇ~、立派だこと」
「10年位前から趣味で始めたんですけど、どんどん畑のお仲間に影響されて、色んなお野菜に挑戦してるみたいです」
「お元気で何より」
「はい、お陰様で」
「おいくつで?」
私がその答えに躊躇ったのは言うまでもない。父の歳を言うという事は、私の歳を言ったも同然だ。でも答えない訳にはいかない相手だ。
「・・・66です」
深呼吸をこっそりしてから、答える私。
「亜弥芽さんは?今なんぼなが?」
結局これも聞かれるのかぁ~と、心の中でのけぞりながら叫ぶ。しかしもう、逃げも隠れも出来ないのだから、正直に打ち明けよう。そしてお母さんにきっぱり断られたら、それの方が潔く退けるかもしれない。そう腹を決めて、私はさっきと同じ様に深呼吸してから答えた。
「今年40になります」
39と言わなかったのは、私の覚悟の証だと思ってもらいたい。母親の前で、せこい手は使いたくない。それはお母さんにもお隣さんにも失礼になる事だから。
私の歳を聞いてから お母さんの声が暫く消えたから、私は先に言う事にした。
「すみません・・・」
自分の歳を言って謝ったのは初めてだ。まるで、この世に生を受けて これまで生きてきた自分を否定している様な気になる。今まで味わった事ない程の、とてつもない悲しさを味わう。
すると、電話の向こうから笑い声が聞こえてくる。
「謝るのは、おかしいにかぁ~らん」
最後の語尾の意味は分からなかったけれど、ニュアンスでは分かる。だから、それがお母さんの優しさだと感じる。
「いえ・・・すみません」
「亜弥芽さんは、龍と将来結婚を考えてるが?」
さすがにこれは答えられない。だけど、何某かの答えを提示しないとならない。
「まだ・・・。いえ・・・まだっていうか・・・」
そう前置きをして、私は目を閉じた。バンジージャンプで飛び降りる時の気分だ。
「考えてません」
そう言い切ってみせる。私なりの心意気だ。いや・・・そんな格好のいいものじゃない。お母さんを安心させたいという思いからだ。これがもしお隣さんの耳に入ったらどうしよう・・・そんな事を心配していたら、今この場で返事なんかできない。
「どうして?」
お母さんは意外な質問を返してよこすから、私は思わず目を見開いてしまう。
「子供がおるらぁ?」
「・・・えっ?!」
「子供。前のとととの間の連れ子がおるらぁ?」
所々聞き取れない言葉があるが、『子供』とか『連れ子』という単語で、全体の文を想像する。
「子供はいません。結婚した事もありません」
「ほんなら どうして、結婚しや~せんって決めてるが?」
そんな突っ込んだ質問に答えられる訳がない。結婚しないって決めかねている私に、これ以上何を答えろと言うんだ?
「龍さんはまだお若いし・・・ご長男ですし。私では申し訳ないです」
正直に話すと、お母さんからの質問が止まる。“わきまえた彼女”だと納得してもらえたんだろうか?
「うち、悪い事言うてしもうたわ。ごめんね」
それから母親は急に話題を干し芋に戻した。
「お芋、なんぼもつ?」
電話を終えると、涙がひとりでに頬を伝い落ちる。今日はもうお隣さんと話す元気は残っていない。
『今日は疲れたから、早く寝るね。お休みなさい』
そんなメッセージを一方的に送り付けて、私は布団を被った。
もうやめよう。もう本当に終わりにしないといけない。お母さんに言った事がその場しのぎの嘘になってしまう。大好きな彼の大切なお母さんだから、不誠実な裏切りだけはしたくない。結婚して欲しくない彼女ではあったかもしれないけれど、せめて『女を見る目もない息子』だとは呼ばれてほしくないから。
でも、果たしてそんな簡単にお隣さんが納得出来るのかが問題だ。いや、それは私に魅力があるからではない。あんなに『今年プロポーズする』なんて息巻いてしまった手前、そう簡単に引っ込みがつかないんじゃないか・・・という、彼を多少知る私の読みだ。だとしたら、どうしたら彼も納得して、お母さんに言った言葉も嘘にしないで済むのだろうか。
そんな私の気持ちなどお構いなしに、二人の時間は織り重なっていくものだ。ソファでテレビを見ながら、二人でコーヒーを飲んだりする何気ない時間でも、どこか私の頭の中には罪悪感が漂う様になった。
リモコンでチャンネルを変えながら、お隣さんが聞く。
「亜弥さん、いっつもどんなの見てるの?ドラマとか?バラエティ?」
「適当につけっ放しにして見てる」
「あっ!」
そう言って、お隣さんは私の方を指差した。
「そういう人ってねぇ・・・寂しがり屋なんだって」
「そうかなぁ・・・?」
寂しがり屋だなんて言って、可愛い!って思われる年齢はとっくに過ぎている事くらい自覚しているつもりだ。
「あっ!」
もう一回お隣さんが声を上げた。
「妹がね、兄ちゃんの彼女の写真送ってって言うから、一緒に撮ろう。ね?」
「・・・・・・」
「お袋がこの前来たでしょ?それで帰って『兄ちゃんの彼女に会ってきた』って話聞いたんだって。それで『どがな彼女か?』ちゅう話になって、妹が『兄ちゃんの東京の彼女見てみたい』ってうるさいから」
お母さんは一体、私の事をどんな風に説明したのだろう。私がそんな事を考えているとも知らずに、お隣さんは自撮りの準備万端だ。頬を近付けてスマホをかざす。
「ちょっ・・・ちょっと待って」
こんな証拠写真、後には無意味な物になるとも知らず、楽しそうにしているお隣さんに再び胸が痛む。
「ねぇ、どんな風に撮る?せっかくだから、僕が亜弥さんのほっぺにチュッてしてるのとか、どう?」
「やだやだ」
「じゃあ、亜弥さんが僕に?」
「やだやだ」
「でしょう?だからやっぱ・・・」
「妹さんに送ったら、ご家族皆に見られちゃうかもしれないでしょ?」
「う~ん・・・確かに、それはあるかもな・・・」
お母さんの目に触れるかもしれない写真に、そんな浮かれている顔は見せられない。
「やっぱ、やめよう!」
「どうして?妹には、他の人に見せちゃダメだよって言っとくから」
私は無理矢理お隣さんのスマホをテーブルに伏せて置いた。
「しかも『兄ちゃんの東京の彼女』なんて、初めての彼女でもあるまいし珍しくも何ともないでしょ」
「・・・・・・」
お隣さんの顔から一瞬で笑顔が消える。
「お袋が会ったのは初めてだから、きっとそういう意味で話題なんだと思うよ」
お母さんに紹介された彼女が、よりによって若くて可愛い彼女ではなくて、40近い私みたいな女だっていうのは、実に皮肉だ。お母さんの事も気の毒に思う。
「亜弥さんさぁ・・・」
お隣さんがテレビのリモコンを置いた。
「前の彼女の事・・・気に掛かる?」
「・・・どうして?」
「だって・・・会った事あるし」
私は手を顔の前で大きく振った。
「全然」
「全然?」
「うん。全然」
「本当に?全然?」
私は心の中でこっそり答える。『なんなら、私と別れた後、前の彼女とヨリを戻したっていいんだよ』って。そんな余計な事を思ったりしたがばっかりに、私の瞳には水分がじわっと染みてくる。それに気が付いたお隣さんが私をそっと抱き寄せた。
「ごめんね。でも今はもう亜弥さんしか好きじゃないし、これからもずっと亜弥さんだけ愛してくから」
こんな事を言わせておいて、少ししたらそれをスッパリ切り落とす自分の罪深さに悲しくなる。
「大丈夫、大丈夫、そういうの」
私は慌ててお隣さんから離れて立ち上がった。しかし、立ち上がったはいいが、手持無沙汰だ。その呆然とする私の指先をちょっと引っ張って、お隣さんは自分の横に再び私を座らせた。無言の空間を、つけっ放しのドラマの台詞が時々埋める。
「亜弥さんはどう?僕の事。好きだよね?」
そうか・・・。付き合うって、こういう事も言わなきゃならなかったんだな・・・。お隣さんの表情がかなり真剣だから、ごまかすなんて事もできない。
「うん」
そう言って目を逸らしてしまう私だ。心の中で『好きだけどごめんね』と言いながら。こんな時、じっと目を見つめて『愛してる』なんて言う図太さが私にあればいいのに・・・と少しだけ思う。すると、お隣さんが私の頬に手を伸ばした。
「亜弥さん・・・今日凄く寂しそうだよね。何か、あったの?」
人の目は怖い。どこまで見えてしまうんだろう。私はこれ以上丸裸にされまいと目を瞑って首を振った。
「ないない。何もない」
作り笑顔は慣れている。OL生活19年の間に唯一身につけた技術かもしれない。
「ゴールデンウィークでも、亜弥さんと一緒に田舎 帰りたいと思ってるんだ。親父にも兄妹にも紹介したいしさ」
「気が早いよ・・・」
お隣さんと目を合わせられない。でもそれを、お隣さんは 私が照れているせいだと勘違いしてくれているらしい。
「だってうちじゃ、龍が結婚しようと思ってる彼女を母ちゃんに紹介したって話題になってるらしいから。だったら皆にも会ってもらって、亜弥さんって人を分かってもらいたい」
どこまでこの人はまっすぐな人なんだろう・・・。そうなると、自分の醜さが際立つ。私は話題を切り替えた。
「今日は随分、先の話ばっかりだね」
お隣さんは、私をじっと見た後で ふっといつもの優しい笑顔を浮かべる。
「亜弥さんに、笑顔になってもらいたいから」
私が言葉に詰まったのは言うまでもない。しかし、そんな様子はおくびにも出せない。
「龍君、いい人だね」
「何~、その言い方ぁ」
明るくツッコむから、私も自分の心を隠す様に笑う。するとお隣さんが首を傾げる。
「何か・・・やだな」
「・・・いい人って?だって優しくていい人だなって」
まだお隣さんの首はひねられたままだ。
「今のは気にならないけど・・・さっきのはちょっと・・・」
「何?何か違う?」
「違うよ~」
お隣さんはぴったりの言葉を探している。
「ちょっと・・・他人ぽかった」
「・・・・・・」
「距離を感じたんだよなぁ・・・」
言い終わった後に視線をじっと合わせた。
「また急に居なくなったりしないよね?」
この人の勘の鋭さに、私は何も勘づかれずに今まで通り過ごせる自信を完全に失った。
「返事しないんだね」
ちょっと冗談ぽく笑うお隣さんの目の奥は真剣だ。私はそれが怖くて、思わず笑ってごまかした。
「一個質問していい?」
お隣さんはソファに片足を乗せて、真っ直ぐに私の方へ体を向けた。
「何?・・・怖いんだけど」
「亜弥さんって・・・いくつ?」
「・・・それ、聞く?」
「聞いたっていいでしょ?自分の彼女の歳、知らない方がおかしくない?」
「龍君より10個以上上だって・・・」
「以上って・・・?」
私は頭をひねる。
「今年の私の誕生日まで一緒にいたら、教えてあげる」
お隣さんがのけぞる。
「え~?!誕生日って秋でしょう?それまでお預け?」
又ある晩、私の家の静寂を破った一本の電話。お隣さんのお母さんからだ。『龍とはどうなってるの?』そんな事を聞かれてしまうのだろうか。そんな不安を胸に、私は電話に出る。
「亜弥芽さん?」
やはり今日もフライング気味の一言目だ。
「この間の干し芋、おとおもこじゃんと気に入って、上機嫌じゃった」
「そうですか。それは良かったです」
いつ『それはそうと、龍とはいつになったら別れるつもりなの?』と聞かれるんじゃないかと、ヒヤヒヤしながらの会話が続く。
「龍にも、野菜料理 食べさせてくれてるが?」
「え・・・?」
どういう意味だろう・・・。深読みし過ぎかもしれないと思いながら、答えに困る。
「あの子料理しやーせんから、ちゃんと野菜食べてるかね?」
「・・・どうでしょうか・・・」
「あれ?亜弥芽さん、料理は苦手?」
「いえ・・・作りますけど・・・」
「あの子ね、中華丼とかドリアとか、ご飯に何か掛かっちゅうの嫌いだわ」
私が相槌をする前に、お母さんの次の話が続く。
「あの子ね、ソース味が好きだわ。焼きそばでも焼うどんでも。目玉焼きにもよ」
そう長く一緒に居ないというのに、こんなに沢山のお隣さん情報必要なんだろうか。却って、別れた後の私を苦しめる記憶となる事間違いなしだ。ソースを見る度に思い出してしまうんだろう。
「亜弥芽さんは、高知に来た事ある?」
「いえ、ありません」
「じゃ、今度おいで」
「・・・・・・」
「そん時、こっちの料理教えてあげっから」
「・・・ありがとうございます」
そうは答えたが、頭の中は疑問符でいっぱい埋め尽くされている。
「亜弥芽さん、ゆず好き?」
「はい」
「うちのつぼで採れたの、今度送るから」
電話を終えた後暫く、私の混乱が鎮まるのに時間が掛かる。凄く友好的に話をして下さるお母さん。でも、初めて会った時には『結婚するのは駄目』って息子にはっきり言っていた。それなのに、どうして?ただ単に干し芋のお礼のつもりなのかもしれない。・・・でもそれなら『今度おいで』とか『料理教えてあげる』なんて言うだろうか?
「そりゃあ、離れて暮らす可愛い息子を大事にしてもらいたいからに決まってるじゃな~い!」
紅愛の即答だ。
「そうか・・・。そういうもんか」
「そうでしょ。それ以外何があるの?」
「だよね」
私ははははと笑って、ほんの少~しだけ自惚れそうになった自分をごまかした。
再び週末が訪れて、いつもの様にお隣さんとデートに行く・・・予定だった。
朝お隣さんが電話を掛けてきて、こう言った。
「お袋がゆず送ってきたんだけど、亜弥さんにもあげてって箱にいっぱい送ってきたんだ。重たいからさ、出掛ける前に一回それ持ってっていいかな?」
そんな訳で急遽9時半頃、お隣さんが訪れる。
「うわぁ~、凄い!こんなに沢山?」
箱を開けてびっくりだ。想像していた量と違う。
「庭で毎年採れるんだ。結構でっかい木でさ」
「へぇ~」
私は聞きながら、一つ手に取って香りを嗅いでみたりする。
「良い香り」
「こんなにいっぱいじゃ食べきれないだろうから、柚子湯にでもしなさい、だって」
「なるほど。そうだね」
「・・・今夜、柚子湯にする?」
「・・・うん・・・しようかな・・・せっかくだから」
「そうしよう」
ん?私の疑問が頭の中で渦巻く。『今夜柚子湯にしようか?そうしよう』なんて、まるで一緒に住んでる人の言う台詞だ。だから私はちょっと首を傾げた。
「・・・え?」
「ん?」
お隣さんは笑顔で、私の疑問詞に疑問詞で返事を返した。
「・・・え?そうしようって・・・?」
「柚子湯、いいねぇって事」
「・・・うん。そうだね」
私の疑問は晴れないまま、一旦それをしまう。しかし、やはり釈然としない。
「龍君は、おうちにちゃんと柚子、取ってあるの?」
「3個だけね、置いてきた」
「3個?」
「だって、そんなにいっぱいあっても食べないし。焼酎の水割りに柚子絞ったら美味しいだろうなって思って、その分だけ貰った」
「・・・柚子湯の分、取っておかなくていいの?こんなに沢山あるのに」
お隣さんは少年っぽい笑顔で私を見た。
「だって、今日柚子湯にするんでしょ?」
「え?!うちで入るの?」
やっぱりだ。やっぱり私の予感は的中だったのだ。
「ダメ?別に、一緒に入るとは言ってないよ」
「分かってるけど・・・」
「あっ、それとも一緒に入りたい?」
「何言ってるの?」
「だよね?まだちょっと恥ずかしいよね?」
きっと今後、私はどっかで柚子を見掛けた時に思い出すんだろう。お隣さんと冗談でもこんな会話をした事を。
その時、インターホンが鳴る。
「こんな早くに、誰だろう・・・」
そう言いながらモニターを覗くと、カメラを物珍しそうに二人で交互に覗き込んでいる両親の姿が映っている。
「お母さん・・・」
「えっ?」
「お父さんと・・・お母さんが来た」
「・・・来る予定だったの?」
私は頭を大きく横に振った。
「とにかく、出た方がいいよ」
お隣さんにそう促され、私はインターホンに応答する。
「どうしたの?急に」
「新しく買ったマンション見に行こうって言って。お休みの日の早い時間ならいるんじゃないかってね。良かったぁ。留守じゃなくて」
「・・・来るなら電話ちょうだいよ・・・」
「娘ん所に来んのに、わざわざ断り入れる必要ないでしょうが」
「・・・こっちだって、都合があるんだし」
すると、脇から父親が母に言った。
「こんなとこでベラベラ喋ってねえで、早く開けてもらえ」
「あはは。そうね。あ、今父ちゃんが言ったの聞こえた?」
「うん、聞こえてるよ」
「そっちからは全部見えてんの?」
「うん」
「こっちからは何にも顔が見えないから・・・あはははは」
「そりゃ、そうでしょ」
すると、父親がしびれを切らす。
「寒いから、早く開けてくれ」
「ごめん。今日は・・・私下に行くから。部屋は今度また見に来て。本当、ごめん!」
「なんでぇ?散らかってたって、親なんだから気にする事ないでしょうが」
母の言葉に続いて、眉間に段々皺の寄った父も言葉が荒くなってくる。
「せっかく来たんだから、ここまで来て追い帰す事ねぇだろ?」
キョロキョロしながら玄関に入った母が感心する。
「これで中古なの?立派だねぇ」
玄関のスニーカーに目を止める。少し 娘のにしては大きいとでも思っているのだろうか。
「誰かお客さん?」
私は、両親が廊下を歩き終える迄に間に合う様な早口で説明を始める。
「前に住んでた所のお隣の方が、田舎から送ってきたゆず、丁度届けて下さってて・・・」
「あらぁ、そう」
多分両親が思い描いていた“お隣の方”とは、女性だっただろう。リビングに入るなり、長身の男を見て、二人は言葉を失っている。
「初めまして。堀之内龍といいます。亜弥さんと・・・」
そう言いかけたところで、私はテーブルの上の柚子の箱を開いて見せた。
「こちら、ご実家が高知県だそうで」
「あら・・・そうでしたか・・・」
まだ戸惑いの表情が隠せない母だ。
「こんなに沢山?」
すると、お隣さんが説明する。
「庭で沢山採れるもので」
「そうですか・・・」
父が母の顔をチラッと見てから言った。
「わざわざ、これ持って来られたんですか?」
「あ・・・はい」
ギクシャクしたムードは依然として続いている。
「わざわざ?」
今度は父が私に尋ねる。
「そう。わざわざね・・・」
私はただ言葉を繰り返すしか出来ない。
「これだけの為に?」
父の質問と母の視線にせっつかれ、私は必死で言い訳を探す。
「この前、干し芋お裾分けしたの。そしたら、わざわざそのお礼って」
これにはお隣さんも便乗する。
「あ、お芋 美味しく頂きました。ご馳走様になりました」
その時だけは、父が一瞬笑みを浮かべた。
「田舎の父も母も喜んでました」
お隣さんのその一言で、両親が顔を見合わせた。
「ご両親も?!」
「はい。亜弥さんが分けて下さって」
「亜弥芽、ご両親ともお付き合いがあるの?」
私は慌てて、オーバーリアクションで精一杯の否定をする。
「違うの。この前丁度田舎から出ていらしてた時で・・・手作りのなんて珍しいかなと思って・・・」
「・・・そうね」
母は言いながら父の顔を見る。その隙に、私は話題を変えた。
「部屋見に来てくれたんだよね?こっちからどうぞ。見てって」
とにかくリビングを出て、寝室にしている部屋へと案内しようと、私は必死になる。
その時だった。後ろからお隣さんが少々大きめの声を出す。
「僕が、亜弥さんを母に紹介したくて会ってもらいました」
直立不動のお隣さんの方を振り返って、両親が顔を見合わせている。そして、どれ位の時間が過ぎたか分からない。私の方を見て、『一体どういう事?』って顔をしている。私からは思わず大きな溜め息が漏れる。私がなかなか説明せずにいると、お隣さんが腰を90度曲げてお辞儀をした。
「亜弥さんと、真剣にお付き合いさせて頂いてます」
廊下にいる私と、リビングにポツンと立って深く頭を下げたままのお隣さんを交互に見て、とりあえず・・・と言った感じで母が頭を下げた。
「そうでしたか・・・。いつも娘がお世話になってます」
そう言って、父の袖をチョンチョンと引っ張った。すると、それに促される様に父も頭を下げた。
「ありがとうございます」
それを廊下で聞きながら、心の中で密かに突っ込む。・・・ありがとうって・・・なんか変じゃない?でもきっと、それが親の本音なのかもしれない。結婚はもう出来ないと諦めていた娘を気に入ってくれた彼氏がいたら、そんな有り難い人、みすみす逃す訳にはいかないと思うのだろう。だからせめて、親としてお礼くらい言っておかないと・・・っていう心理だろうか。
「亜弥芽も、最初っからそう言えばいいのにねぇ」
まったくこの子ったら・・・って顔で、私とお隣さんを交互に見る。
「娘を宜しくお願いします」
父が気の早い挨拶をしている。今会ったばかりで、どんな人かも知らないのに、よくそんな挨拶できたものだ。・・・そうか。どんな人であろうと、一生一人でいるよりはましだと思ったのかもしれない。
母が再びリビングのお隣さんの近くに寄っていって、話し始めた。
「結婚の約束して一緒に住んでた恋人と別れちゃったショックで、もう懲りちゃってんのかしらって私達も諦めてたんだけど・・・まだあの子にもその気があるみたいで、安心しました」
そこまでで父が母の口を止めに入る。
「いらん事言うんじゃないよ」
廊下にいる私には、会話の内容までは聞こえない。唯一見えたのは、父に軽く一喝された母が、若い女の子みたいに舌をペロッと出してお茶目な表情を浮かべている事位だ。しかしそこに近付くのも躊躇われた私は、その場で両親が戻って来るのを待つ事にしたのだった。
両親が帰った後で、お隣さんが予想通りの台詞を言う。
「正直に言っちゃ、マズかった?」
今さら、それ確認しても遅いでしょ・・・って、本当は思っていたけれど、私の口は違う言葉を喋る。
「私こそ、なかなか本当の事言えなくてごめんね」
そして、言い訳をいつもの様に付け足す。
「娘がこの位の歳になると、親はすぐ、結婚するの?って期待しちゃうから、はっきり決まるまでは言うのも気が引けて・・・」
「そうだよね・・・」
お隣さんが私の目をじっと見ながら言った。
「若造だけど、亜弥さんの両親にも安心して任せてもらえる様な男になりたい」
一言一言が胸に刺さる。耐え難い痛みをぐっと堪える為に目を瞑ると、お隣さんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「僕の事、信じて。亜弥さんの事、もう一人にしないからね」
そう言って私を抱き寄せた。
多分、私とお隣さんの頭の中はまるで違う。だから、お隣さんの更なる優しさが余計に苦しい。私は窮屈な中で、辛うじて頭を横に振った。
「私、年齢で龍君の事縛りたくない」
「僕は縛られてなんかないよ」
どうしてこの人は、こんなに私の事を愛してくれるんだろう。今更だけど、改めて疑問に感じる。
「むしろ僕は、こうやって亜弥さんを縛っておきたいかも」
そう冗談を言って、私に回した腕に力を込めて笑った。
もちろん笑っているのはお隣さんだけだ。彼の笑い声が収まると、再び静かな部屋の中だ。
「あっ、もしかして・・・」
そう言って、お隣さんは私の頬を両手で挟んで自分の方へ少し上げた。
「今すぐにも結婚したい?」
私は羽交い絞めにされたまま、首を横に振った。しかし何て答えていいかは分からないから、口は閉ざしたままだ。少しすると、お隣さんがふっと真顔になって、頬から手を離した。
「亜弥さんの気持ちが付いて来てないの、知ってるよ。大丈夫。慌てなくていいからね。じっくり僕の事観察してよ。その上で一生のパートナーにしてもいいかなって思わせてみせるよ」
言い終わった後で、ちょっと悪戯っぽくどや顔をしてみせるお隣さんの気配り・・・正直、こういう所が好きだ。
その数日後、千葉の実家から宅配便が夜間に届く。その中のメモ書きには 母の字で、
『父ちゃんが、彼や彼のご両親にも食べてもらえって言うから送ります。皆さんによろしく』
いつも私に送ってくる量と、かなり違う。中身は畑で採れた大根で漬けたたくあんだ。
しかし、私は迷っている。お隣さんにこれを言おうかどうしようか。だから、ひとまず実家にお礼の電話を入れる。
「届いたよ、たくあん。ありがとうね、わざわざ」
「今年は大根の出来が良くってねぇ。いっぱい漬けたから、食べてもらって。えぇっと・・・龍さん・・・だっけ?」
「あ・・・うん」
「大事にするのよ」
「・・・・・・」
私は心の中でごめんねと謝る。その内『別れちゃった』と伝える事を想像すると、申し訳なさで心が苦しくなる。
「あのさ・・・」
「なに?」
「・・・結婚とか・・・期待しないでね」
「・・・どうして、そんな事言うの?」
「私・・・別に今度の人、そんなに肩入れしてる訳じゃないから。だから紹介する程じゃないかなと思ったんだけど、ああいう流れになっちゃって・・・。父ちゃんにも言っといてね。ごめんね」
暫く母の返事がないと思ったら、急に核心をついた事を言ってくる。
「また駄目になっちゃうんじゃないかって、心配なの?」
ちょっと油断してたから、返す言葉がまるで浮かばない。
「大丈夫よ。前の人と龍さんとはタイプが違うし、それに前の時駄目になった原因は全部自分にある、なんて思わない方がいいわよ。結婚なんてね、ご縁なのよ。縁がない人とは、何年付き合っても上手くいかないし、ご縁のある人とは、付き合いが浅くても結婚して上手くいっちゃうし、ね?」
私が相槌すら打たないから、母がまだ喋る。何故かというと、8年前の別れた当時、多分両親共、憔悴しきっていた私に気を遣って、その話題に触れてこようとはしなかったからだ。あの事に対しての親の思いを初めて耳にする。
「それにね、母ちゃんは良かったと思ってるんだよ。もし結婚してから駄目ってなってたら、離婚だなんだで、慰謝料がどうの、子供の親権はどっちが持って、養育費はどうするだの、もっと色々と大変だったんだから。そう考えたら、結婚する前で良かったんだって思わなくちゃ」
「・・・・・・」
「まずは、亜弥芽の事真剣に考えてくれてる人が現れたんだから、ちゃんと向き合ってごらん。逃げないでさ」
ちゃんと向き合ったよ。でも、その上で出した答えなんだよ・・・。私は心の中の声を、分厚い壁の中で呟いた。
「あのね・・・うちの実家から又送ってきて・・・」
「へぇ~。今度は何?」
嬉しそうな声で即座に反応してくれるだけで、少し救われる。
「家で漬けたたくあんなんだけど・・・」
「お父さん凄いね。たくあんまで作っちゃうの?」
こんな風に興味を持ってくれるなんて、本当に有り難い。
「今度お父さんの畑、見に行ってみたいなぁ」
ごめん、それは駄目だよ・・・と心の中で謝る私。実家にお隣さんを連れて行こうものなら、向こうで家族皆に知れ渡って、もう結婚間近、みたいな空気になる事位、簡単に想像がつく。だから私は それに返事をせずに、母からの伝言を伝える。
「龍君とかあちらのご両親にも食べてもらってって・・・なんだか父が張り切ってるらしくて」
「へぇ~、嬉しいなぁ」
「きっと、干し芋褒められて嬉しかっただけだよ」
「かわいいね、お父さん」
「で・・・どうしたらいい?」
「もちろん、頂くよ。だけど・・・実家にはさ、亜弥さんから直接送ってあげてもらえないかな?」
「・・・私から?」
「そう。そっちのがお袋喜ぶと思うからさ」
それは快諾・・・という訳にはいかない。やっぱり変な心配も先に立つ。私が実家の親まで総出で お隣さんの親に取り入ろうとしているみたいに思わないだろうか。だけど、嫌だとも言いにくい。
「あ、送料はちゃんと払うから」
「やだ、そんな事言ってるんじゃないよ。・・・大丈夫かな・・・?」
「絶対喜ぶから。ね?」
そこまで言われたら・・・断れない。正直 気持ちは乗らないけれど。しかしお隣さんはそんな私の心配をよそに、更に付け足した。
「僕に言われたからって、言っちゃだめだよ」
更に私の中のハードルが上がる。
「どうして?」
「絶対、そっちのが喜ぶから。ね?お願い」
言われた通り送った次の日、早速にお母さんからお礼の電話が掛かる。
「立派な沢庵、ありがとう」
「いえ・・・。いきなり送り付けて申し訳ありませんでした。両親が『良かったら召し上がって頂いて』って、沢山送ってきたもので・・・」
沢庵に添えた手紙に書いた内容とほぼ同じ事を喋る。
「楽しみだわぁ。ご両親に、直接お礼言いたいんやけど、電話・・・」
そこまでで次の言葉が想像出来たので、私はまるでクイズの早押しボタンを押すかの様に、私は一気に言葉を遮って奪い取る。
「伝えておきますので、お気遣いなく」
するとお母さんが改めて言った。
「それにしたち、亜弥芽さんからお野菜が届くらぁて、しょうまっこと嬉しかったが」
お母さんの喋る言葉が早口で、一語一句間違えずに聞き取れたかというと そうではないが、お隣さんの言う通り、かなり喜んでくれている様子に、正直ほっとしている私だ。
「あの子は案外漬物好きやき」
「・・・はい」
「あっ、そうそう。あの子 さつま芋のかき揚げが好きやき、作ってあげて」
変な感じだ。ついこの間、結婚を反対していた母親が、息子に手料理を食べさせる様お願いしている。でも私は自分に勘違いするなと言い聞かす。紅愛が言っていた通りだ。離れて暮らす息子可愛さ、だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「お袋、喜んでたでしょ?」
「うん。龍君は、さつま芋のかき揚げが好きだって教えて下さった」
お隣さんは目の前の料理を見て、笑った。
「あぁ、それで?」
「お袋の味には敵わないだろうけど・・・」
かき揚げを食べたお隣さんが、美味しいリアクションで私をホッとさせる。
「さつまいもと桜エビって合うんだね。初めて食べた」
「前に料理教室通ってた時にね・・・」
ついぽろっと言いかけて、私は口を結んだ。その続きに耳を傾けていたお隣さんが、急に消えた会話に首を傾げた。
「前に通ってた料理教室で・・・?どうしたの?」
「ううん」
「・・・ん?」
もぐもぐしながら、不思議そうに私をじっと見つめている。
「さつまいもと桜エビのかき揚げ、習ったってだけ」
「そうなんだぁ。亜弥さん、料理教室なんか通ってたんだね。だから料理上手なんだ」
それには苦い思い出しかないから、もうその話題は打ち切りにしたい。
「どの位通ってたの?一年?二年?」
「・・・半年で辞めちゃった」
「へぇ。どうして?」
言える訳ない。『同棲してた彼氏と別れたからです』なんて。
「仕事が忙しくて通えなくなっちゃって・・・」
このかき揚げを習って暫くした頃、早速それを家で作って帰りを待っていたけれど、その日結局彼は帰って来なかったのだ。そして残ったかき揚げを、私は次の日お弁当に入れて会社に持って行ったのを覚えている。
「実家で食べてたのはさつま芋と人参のかき揚げだったけど、これ、めちゃくちゃ美味しい。今年の秋は、お父さんのさつま芋でね。毎年、これ定番にしてよ」
きっとあの時当時の彼が食べていたら、きっと今日私はそれを作ってはいない。そう思うと、母も言った様に、この流れで良かったのかもしれないと、ほんの少しだけだけど思えてくる。
だけど、相変わらず返事に困る会話ばかりだ。その内別れると決めてる人に、これからの料理の定番をリクエストされても、何て答えたら良いか分からない。いや、誰だって分からない筈だ。
食後、二人で片づけを済ませてキッチンから出てくると、お隣さんが さっきまで食事をしていたテーブルの椅子を引いた。
「亜弥さん、座って」
急に嫌な予感が胸に去来して、私の体が凍り付く。
向かい側の椅子に座ったお隣さんが、突っ立ったままの私を見上げた。
「ちょっとだけ話、していい?」
嫌だけど、決して嫌とは言えない。そんな時、母の言葉が頭の隅で聞こえたりする。
『逃げないで向き合ってみなさい』
椅子に腰かけるのを見届けてから、一回お隣さんがにっこりと笑いかける。私の顔が相当強張っていたのかもしれない。それをほぐそうとしてくれた彼の優しさに、私は少しだけ警戒心を解く事にする。
「亜弥さんさ・・・先の話すると、絶対に返事してくれないの・・・僕の気のせいじゃないと思うんだよね」
私は、ついさっき解いたばかりの警戒心を、再び満身創痍身にまとう。お隣さんはじっと私の目を捉えて離さない。・・・が、視線に棘は一つもない。多分私を責めたり問い正すのが目的ではないのだろう。寂しいよ・・・という意思表示だろうか。
「それって、やっぱり過去の傷がまだ癒えてないって事?」
過去の傷・・・?お隣さんに過去の恋愛の話など一つもした事もないのに・・・と、私は疑問で頭がいっぱいになる。
「何・・・?どういう事?」
言いながら、かなり動揺しているのが自分でも分かる。
それに対して すぐには返答をしなかったお隣さんが、ゆっくりと私の表情を見ながら慎重に口を開く。
「前の人と・・・結婚を前提に一緒に住んでた人と、駄目になっちゃったって・・・」
私は自分に言い聞かせる。別に知られて困る事じゃない。隠す事でもない。だから、誰から聞いたの?とか、出所を探すのはナンセンスだ。
「・・・で?」
完全に強がってるのがバレバレの一言をチョイスしてしまった私に、後悔の念が押し寄せるのも時間の問題だ。
「まだ・・・怖い?僕と先の事真剣に考えるのも」
「・・・・・・」
さっきまでと少しお隣さんの表情が変わる。色に例えたら暖色系が混じった感じだ。だから私は得意の作り笑顔を浮かべた。
「いつの話してるの?もうとっくに済んだ話でしょ?」
「じゃ、どうして?」
「・・・どうしてって・・・」
「どうして、はぐらかすの?先の事」
「・・・はぐらかしてなんか、ない」
「亜弥さん・・・」
お隣さんはテーブルの上に手を伸ばした。私の手を待っているのだ。しかし私は、膝の上から動かす事が出来ない。
「僕にできる事、あるかな」
「・・・・・・」
健気なそんな言葉に胸が詰まる。
「どうしたら、亜弥さんと笑顔で将来の話出来るのかなぁ」
こんな事聞いてしまったら、必死に別れを考えている自分が鬼に思えてくる。
「・・・気のせいだよ」
声が震えていた様に思う。やっぱり私は詐欺師には向いていない。
「・・・そうかなぁ?」
お隣さんの視線が怖い。全部見透かされている様な気がして、長くは視線を合わせる事は出来ない。
暫くして、お隣さんがふっと笑った。
「そうかぁ。気のせいか。・・・ごめんね」
絶対に納得した訳じゃない事位、分かる。だってお隣さん、ふっと笑顔になる前にほんの一瞬溜め息を吐いたから。かなり緊迫した気持ちで向き合って座っていたんだ。私だって、それ位気が付ける。
お隣さんが椅子から立ち上がると、私の横で手を差し出した。
「向こうで一緒にテレビ見よ」
それから又数日して、宅配便が届く。お隣さんのお母さんからだ。箱を開けてみると、中からは高知県名産の酒盗が二瓶顔を出す。同封された手紙には、美味しく頂きました、という先日の沢庵のお礼と、千葉の実家の両親へこれを一つお裾分けしてお届けして、という内容が綴られていた。
言われたままに、私は早速実家宛に宅配便を送ると、次の日には届いたと母から電話が掛かってくる。
「酒盗なんて珍しいわよねぇ。あんた、酒盗って知ってた?鰹の内臓で作った塩辛なんだってねぇ。食べた事あった?あんな自家製沢庵送っただけなのに、こんな結構な物わざわざ送って頂いちゃって・・・なんだか申し訳ないねぇ。母ちゃん直接お礼言いたいから、電話番号教えてよ」
「え?直接?」
「うん。だって、こんなご丁寧に頂き物しちゃって、宜しく伝えといてって訳にいかないでしょう?」
母の気持ちも分からなくはない。しかし、直接話してどんな話題になるとも分からない。だから、怖いのだ。付き合うのはいいけど、結婚となると反対だときっぱり言い切っていたお隣さんのお母さんと、娘になんとか結婚してもらいたいと思っている母が、直接接触するのは危険だ。
「いいよ。急にお母ちゃんから電話行ったら、あちらも多分恐縮するし。私からちゃんとお礼言っとくから」
納得していない母を無理矢理ねじ伏せて、何とかその場を切り抜けたのだった。
すると今度は、千葉の実家から再び箱が届いて開けてみると、中には懐かしく不揃いな干し柿がゴロゴロと入っている。庭の柿の木で採れたものだ。そして中には『堀之内様』と書かれた封筒が入っている。きっと先日のお礼を母なりに直接お伝えする方法を考えたのだろう。この干し柿をあちらの実家に送る時に、この封筒も入れてくれという事だ。封筒の中身が若干気にはなるが、糊付けされていて開けられない。しかしきっとお礼と、言ったとしても庭の柿の説明ぐらいなものだろう。そう思って私は諦めると、再び送り状に最近書き慣れてしまったお隣さんの実家の住所を記入した。
「上手に出来てるね~、この干し柿」
週末お隣さんが家に来て、実家から送られて来た干し柿をかじってそう言った。
「親父柿大好きだから、きっと喜んでると思うよ」
「それなら、良かった」
そんな会話の最中に、私の電話に着信がある。・・・お隣さんのお母さんからだ。きっと又柿が届きましたっていう電話だろう。
「亜弥芽さ~ん。干し柿ありがとうね。うち、おとおが柿好きやきね」
お母さんも息子も同じ事を言う位だから、きっとお父さんの柿好きは有名なのだろう。
「庭で採れた柿なんて、珍しくも何ともないでしょうけど、去年は沢山実がなったそうで、悪くならない内に干し柿にして、皆さんに配って 食べるの手伝ってもらってるって母が言ってました」
「いやぁ、小ぶりやけど、甘うてね」
すると隣でお隣さんが『ちょっと替わって』と合図する。言われた通りに電話を渡すが、ちょっと落ち着かない。『結婚する気はありません』なんて断言しておきながら、いつまでこうしてお休みの日に会ってるの?って指摘されるのが怖い。
「この干し柿、甘いよね」
「あれ、おまん、そこにおったが?」
「おった、おった。今柿食べちゅうとこや」
「亜弥芽さんの親御さんさ、挨拶したいんやけど、どがなもんやお?」
「まっこと優しい人達じゃったがね」
「会うた事あるがか?」
「この間ね」
そんなやり取りを聞きながら、両親と会った時の話をしているのが何となく読み取れる。そうなると、尚更に私の心は落ち着かなくなる。彼のお母さんには『結婚の意志はない。私じゃ申し訳ない』なんて言っておきながら、こっそり自分の両親には紹介して、着々と自分のペースで進めているみたいに思われるんじゃないかっていう、私の勝手な妄想が ハラハラした気持ちに拍車を掛ける。
電話が戻ってきた時には、つい声が上ずってしまいそうな程の気まずさを抱えて喋る。
「龍は亜弥芽さんのご両親と会った事、あるみたいじゃね?」
私の口は焦りで早くなるが、同時に緊張で舌も回らない。
「いえ、それはですね。偶然というか・・・うちに両親が突然訪ねて来まして・・・」
言い訳を必死で説明する私の話なんか興味がない様子で、お母さんが口を挟んだ。
「龍もご挨拶してる事やし、あしも直接お礼言わせてくれんかしら?」
「え・・・」
「住所か電話番号か」
「いえ、本当にお気遣いなく。ただ庭になってた柿ですから」
そんな理由が通る筈がない。結局住所も電話番号も伝える事となり、困惑した私の表情を気に留めて、お隣さんが声を掛けた。
「田舎の人だからさ、貰いっ放しが気になるんだと思うよ。一言お礼言ったら気が済むと思うからさ」
しかし、そんな簡単に終わったりはしないのだった。
ある晩、実家の母から電話が掛かってくる。声はなんだかとても明るい。
「龍さんのお母さん、とっても良い方ねぇ」
「・・・うん」
「あの後早速に柿のお礼の電話下さって。そしたら今日また、あちらから立派な文旦送ってきて下さって、お礼の電話したりして。あはははは。楽しくお喋りしちゃったわ」
不愉快な会話にならなかった事だけが唯一の救いではあるが、母の様に あはははは・・・とはいかない。
「さっき、お父ちゃんと早速頂いたの。甘くてみずみずしくて、本当に美味しかった。裕子ちゃんとこにもお裾分けしたの。子供達、きっと皆好きだろうからね」
兄嫁との仲も健在だ。
「ねぇ。もうそんなに色々送って来ないでいいからね」
「あら、どうしてよぉ。龍さん、野菜あんまり食べない?」
「そうじゃない。キリがないから。それに・・・私の所に送ってきたら、彼も一緒に食べるだろう なんて、一緒に住んでる訳でもないんだから、決めつけないで」
珍しく私のまくし立てる様な口調に、母が少々驚いている。
「・・・どうしたの?・・・何か、あったの?あっ、それとも、私があちらのお母さんの気に障る様な事、何か言っちゃったのかなぁ?」
「何もない。・・・『気に障る様な事言っちゃったのかなぁ?』って私に聞かれてもね・・・。何か心当たりがあるの?」
「そんなのないわよ。始終楽しくお喋りしたんだから。子供の話で意気投合したりして」
「ねぇ、さっき『裕子ちゃんとこにもお裾分けした』って言ってたけど、まさか亜弥芽の彼のお母さんから・・・とか、言ってないでしょうねぇ」
「言ったわよ」
私の心配などよそに、あっけらかん、だ。
「だって、他にどう言うのよ」
確かに、そうだ。だけど・・・私の気持ちも分かって欲しい。
「言ったでしょ?この前家に来た時に。あんまりお兄ちゃんとことかに話さないでよねって」
「・・・そうだったっけ?」
私の肩が落ちる音が聞こえる位、まるで覚えてないといった声だ。
「でも、いいじゃない。明るい話題だし」
私は呆れて、大きな溜め息をわざと大きく吐き出した。
「だからぁ、時期ってもんがあるでしょ?物事を大っぴらにするには」
「大っぴらって、家族じゃない。別にご近所や親戚にベラベラ話してる訳じゃないわよ」
「そうだけど・・・嫌なの!『結婚するの?』とか『そろそろ?』とか、そういう事言われるの。明日別れちゃうかもしれないし、一ヶ月後駄目になってるかもしれないじゃない。その度に、色々言われたり思われたりしたくないの。私の気持ち・・・少しは分かってよ!」
少し激情し過ぎたと反省もしてるが、母親には分かっていてもらいたかったのだ。お隣さんと付き合うと決めた時も 付き合い始めてからも、葛藤の連続だ。“軽いお試し”のつもりでスタートした筈なのに、いつの間にか結婚という大きな壁に翻弄されている。迷ってきたけれど、やはり決め手はお隣さんのお母さんの一言だ。
『結婚は認められん』
これを聞いてから私が、どんな気持ちでどれだけ葛藤して、やっと出した答えに毎日毎日脅かされている事も知らず・・・だ。色んな気持ちのほんの端っこだけだけど、母にそれをぶつけたら 急に涙が込み上げてきてしまう。それを知ってか知らずか、母がゆっくりと話し始めた。
「いつ駄目になるかなんて心配しながら付き合ってたら、楽しくないでしょ」
楽しい・・・正直、自分が楽しいかどうかなんて価値観、とうの昔に置いてきてしまっている。
「そんな心配ばっかりしてると、上手くいくものも いかなくなっちゃうわよ」
上手くいくものも・・・?これは元々“上手くいくもの”じゃなかったんだから仕方がない。
「もっと自分に自信持って。今のそのままの亜弥芽を、龍さんは好きになってくれたんだから」
自信なんか持てる訳がない。百歩譲って、前の人と駄目になった原因が全部自分にあった訳じゃないと思えたとしても、歳は変わらない。年齢はどんなに頑張っても遡ってはくれないのだから。
「分かった様な事言わないでよ」
せっかく私を励ましてくれているのに こんな悪態をつくなんて、なんて私って自己中心的で思いやりの欠片もないんだろう・・・。『そうね、ありがとう』って言っておけばいいものを。
母との電話を切った後も、当然後味が悪い。ごめんね・・・。そう心の中で呟いて、私は布団を被った。