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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
15/22

第15話

15.


 お隣さんと付き合う様になってから、嘘の様に毎日が楽しい。心が躍る感じを久し振りに味わっている。毎日やりとりするメッセージ。声が聞きたい時にかける電話。どうでもいい様な取り留めもない話を延々としてる時間、幸せを感じる。時々、なんで私は恋愛のスイッチを切ったりしたんだろうと疑問に思う位だ。

そして私が思っている程、40代直前という年齢は 世間では老けてはいないみたいだ。むしろ、今までのキャリアを礎に、将来をしっかり見据え、これからどう生きるかを選ぶ貴重な年代だと気付く。いや、お隣さんに刺激を受け、気が付かせてもらえたと言った方が正しい。それまでは年齢のせいにして諦めていた事や消極的になっていた自分を捨てたら、日に日に若返っていくみたいな気持ちになる。大袈裟かもしれないが、何でもやってやれない事はない、みたいなチャレンジ精神まで湧いてきているから不思議だ。

だからといって、私に仕事のキャリアや夢はない。あるとするならば、家庭を築きたいという事だけだ。お互いがお互いを必要として 支え合っている小さな小さな社会。そんな手の平に充分収まる様な幸せでいいから、大事に大事に育て、守りたい。

しかし、結婚の印籠を振りかざしながら付き合う様な事はしたくない。8年前と同じ失敗は繰り返したくないのだ。お隣さんに無言のプレッシャーをかけるのは可哀想だ。だからそれは表には絶対に表したりしない。何年か経って、いつの日かお隣さんが私にプロポーズをしてくる・・・なんて事があった時に、思いがけなく嬉しい!っていうリアクションを取れる自分でいたい。そこは何としても死守したいところだ。


 今日も仕事が終わって 部屋でくつろぎながら交わすお隣さんとの電話の時間だ。

「今度亜弥さんの手料理食べたい」

お隣さんは可愛い。付き合う様になって敬語は取れたが、呼び名は“亜弥さん”のままだ。

「いいよ。何食べたい?」

「きんぴらごぼう作って欲しい。あとは・・・味噌汁でしょ。んん・・・他は何でもいいや。亜弥さんの食べたい物作って」

お隣さんは甘え上手なのかもしれない。ついつい、やってあげたくなっちゃう気持ちにさせる。

「どっちの家で作る?龍君家、行こうか?」

「う~ん・・・。うちだと調理器具足りないかもよ。亜弥さん、自分家のが作りやすいでしょ?」

私の事をいつも考えてくれているんだなぁと感じる瞬間だ。当然の如く、私の気持ちもどんどん深くなる。

「あ、でも、買い物は一緒に行きたいなぁ」

「そうね。じゃ、そうしよう」

こうして、週末の楽しみがまた一つ増えた。


 昼間も、仕事の合間にお隣さんからメッセージが届く。

『今、外回り中。今日は風が強くて寒いから、図書館で温まりながら ちょっと休憩中』

一緒にいない時間も、お隣さんの様子が分かる様な文章に ほっこりする。

『寒い中、ご苦労様。大変だね。風邪ひかない様にね。頑張って』

すると一拍置いてすぐに、背中にメラメラと炎がたぎっている やる気満々のスタンプが送られてくる。思わず私はふっと小さく吹き出してしまうのだった。


「最近楽しそうだね。良い事でもあった?」

浅見にそう言われて、遅ればせながら頬を引き締める私だ。

「いえ、何も」

そうは言ってみたものの、意外と鋭い浅見の目を読んでみる。するとからかう様に笑った。

「またまたぁ~。隠さなくたっていいよ。幸せな事が一番だから」

「いえいえ、本当に別に何も」

「ふ~ん」

信じていない顔で、一旦浅見は追及をやめた。しかしすぐに、別の質問を投げてくる。

「仕事がスムーズに進んでるとか?」

「え?!」

きょとんとした私の表情を見て、再び浅見は笑った。

「仕事の事じゃないなら、ほら、やっぱりプライベートの充実感でしょ。いいよ、いいよ。何でも笑顔が零れるってのは良い事だ。部下が幸せそうだと、上司も嬉しいもんだから」


「何、何?肉食系平成ボーイは、いよいよ土曜日にお泊まりしちゃうわけだぁ」

この間から、紅愛が付けたニックネームだ。露骨過ぎてちょっと戸惑いがあるが、聞き慣れたらきっとなんて事はなくなるんだと思う。

「いや、待って。泊まるなんて約束してないから。ただご飯作ってって・・・」

「夕飯食べて、帰ると思う?肉食系の平成君だよ~?」

「だってまだ、ろくにデートとか出掛けたりしてないし・・・」

すると紅愛が電話の向こうで笑った。

「昭和初期の鋼鉄パンツ履いてんのもいいけど、相手の歳考えてごらん。その上肉食系に元アスリートときてる。あんまりもったいつけてると、せっかく掴んだ幸せも、どっかに逃げてっちゃうよ」

私が黙ってしまったから、紅愛が思い出した様に声を上げた。

「そういえばさぁ、元カノとのヨリ戻し疑惑、晴れたの?」

「ヨリ戻し疑惑・・・?」

「そうよぉ。前に電車で一緒にいるとこ、見掛けたって言ってたじゃない」

「あ~、あれは偶然一緒になっただけだって言ってた。ま、随分前だけど」

急に電話の向こうから声が聞こえなくなってしまったから、私の心にふと不安がよぎる。

「あのさぁ、前からちょっと引っ掛かってたんだけど・・・」

そう切り出した紅愛のトーンが、少し今までと違う。

「今回付き合う事になった時、はっきりと『付き合って下さい』とか そういうの無かったんだよね?」

「・・・うん」

「キスして、手繋いで、それってそういう事でしょって。ね?」

「・・・うん」

「それってさぁ、後で『俺達付き合ってるなんて言ってない』なんて言い出さないわよね?」

「え?!」

私の中で不安が風船の様に膨れ始める。

「“そういう事”だけじゃ、“セフレ”とか“都合のいい関係”とか、何とでも後から言えるじゃない?」

「・・・・・・」

私が言葉を失ったのは言うまでもない。

「だから、元カノの事といい、付き合ってるって事といい、一個ずつ確認した方がいいよ」

「確認・・・」

「あ~やん家じゃなくて、向こうの家でご飯作るって言ってみたら?」

「言ったけど・・・調理器具が足りないって言われた。それに、自分家のがやりやすいでしょって」

「さすが上手いね~」

上手い・・・。口が上手いって事?私の中の不安は、一体どこまで膨れ上がるんだろうという位膨張していっている。

「家に入れないのは、まず疑った方がいいね。元カノと切れてない事もあるし、覚悟しときなよ」


紅愛との電話で すっかり脅かされた私は、ここ最近の浮かれた自分を一切封印してお隣さんとの電話に挑む。

「今度の土曜なんだけど・・・やっぱり龍君家で作らない?」

「うち?!どうして?」

お隣さんの話す言葉の一つ一つに、疑わしきを探す。

「久し振りにお弁当屋さんにも顔出したいし・・・」

暫く考えた後で、お隣さんから声がする。

「大丈夫かなぁ?うちで作れるかなぁ・・・」

そんな弱気な声にも、私は負けない。

「大丈夫だよ。出来る物、作ればいいし」

「う~ん・・・じゃあ・・・ま、いいけど」

よしっ!私は心の中で小さくガッツポーズをする。ひとまず一個クリアだ。でもこれで終わりじゃない。

「あと・・・昼ご飯でもいい?」

「昼?」

「うん・・・昼」

「・・・いいけど・・・なんで?」

「その日、夜予定が入っちゃって・・・」

「・・・・・・」

お隣さんが黙ってしまう。私は慌てて訂正する。

「あっ!正確に言うと・・・先約が入ってたの忘れてて」

「じゃあ日曜でもいいよ」

「日曜日は友達が来る事になってるから・・・ごめんね」

こんな嘘、お隣同士じゃないから言える。

「亜弥さんも、色々と忙しいね」

お隣さんの小さな溜め息が聞こえた。


 土曜日が訪れて、数カ月ぶりの懐かしい街に降り立つ。お隣さんから逃げる様に引っ越して、それ以来寄り付きもしなかったこの街。今は懐かしさがあるだけで、嫌悪感は残っていない。今日お隣さんの家に行く事にしたけれど、なんかやっぱり落ち着かない。“真央ちん”の匂いを探しに行く様なものだ。今も尚続いている関係なのか、それとも過去のものなのか。こんな風にお隣さんを疑った気持ちのまま、今日一日しらっとした顔で過ごせる自信はない。そして、もしそれが過去の事だったとしても、あの可愛らしい彼女と過ごした部屋で、その残像の上に重ねられて食事を作るのだ。想像しただけでも溜め息が出る。

 駅で待ち合わせをすると、当時ストーカーから逃れる為に、仕事帰りに時間を合わせた事が思い出される。二人でスーパーで買い物をして、初めてお隣さんの部屋に入る。同じ間取りと分かっていながら、やはり住む人で全然違う部屋になる。この間まで可愛い彼女がいたんだから、その子との思い出の品は 今日だけは一応マナーとして片付けておいてくれるのかしら?それとも私が“都合のいい女”なら、そんな気遣いも必要とはされないのかもしれない。

 そんなドキドキも手伝って、少しばかり体に変な力が入っていたかもしれない。私はすぐに小さなキッチンに食材を並べて、準備万端だ。

「すぐ作る?」

手持無沙汰になるのが嫌で、私は首を縦に振った。

小さなまな板と包丁で ごぼうと人参を刻む姿を、お隣さんがじっと眺める。視線を感じながらも、私は黙々と作業を続けた。よくあるベタな展開ではあるけれど、料理をしてる彼女の後ろから抱きしめて、『邪魔しないで』なんてキャッキャ言いながらじゃれるシーン、見た事ある。そんな風に彼が近付いてくるのかな・・・とちょっと期待する自分が片隅にいる。

「へぇ~、上手いもんだね。あっという間に千切りだ」

そうだ。彼は料理をしている私に興味があるのではない。料理に興味があるんだ。

また暫く黙って眺めていると、再びお隣さんが口を開いた。

「この音、な~んか懐かしいなぁ。実家に居た時によく聞いてた音。落ち着くなぁ」

お母さんの台所での音・・・。そう、彼にとって私は、故郷を思い出させる人なのかもしれない。私がもっと 綺麗で華があれば別だろうけど、地味な雰囲気の私は、どこからどう見たってヘルパーさんだ。ま、親子って程じゃないのには救われるが。“お袋の味”ならぬ“お袋の音”だ。そんな結論に行き着くと、お隣さんが 間違っても私の背後から抱きしめてきたりしないのが分かる。少しとはいえ、期待した自分が恥ずかしい。勘違いも甚だしい。

妙に悲しい気持ちになってしまって、早く作って早く食べて、早く帰りたくなってしまう私だ。

 リクエストされたきんぴらごぼうと味噌汁の他に、チキン南蛮に小松菜の胡麻和えを付け足したメニューが出来上がる。

「豪華な昼飯」

お隣さんは嬉しそうにそう言った。

いただきますをして まず一番にリクエストしたきんぴらを口に放り込んだお隣さんは、大きめの声で言った。

「美味い」

前の彼もこうやって初めは『美味しい』と食べてくれていたんだっけ。そんな事を思い出す。目の前のお隣さんも、いつかは『美味しい』と言って笑わなくなり、その内こうして料理する私自身を“重たい”と感じてしまう日が来るのだろうか。そんな不安がよぎるから、せっかく『美味い』と褒めてくれても、心ここに在らずだ。

「同じ間取りでも、全然違って感じる?」

お隣さんが急にそんな事を言ったのは、私がさっきから部屋を見回しているからだ。

「・・・そうだね」

本当は“真央ちん”の匂いを嗅ぎまわっている私だ。そんな事をしている自分に、私自身耐えられなくなって、急いで目の前の食事を平らげた。

 黙々と食べて、ご馳走様をして、間髪入れずに後片付けを済ませた。手を拭いてエプロンを外した私を、お隣さんは少し寂しそうに眺めていた。

「もしかして・・・急いでる?」

「・・・どうして?」

「だって、ただ黙々と作業してる様に見えたから」

それでいいの。だって、私はヘルパーさんみたいなものだから。

「この後の予定もあるし・・・」

そう。ヘルパーさんは時間から時間まで決められた仕事をこなして、次に行くんだ。

「本当に、ご飯だけ作って帰っちゃうんだね?」

「・・・ごめんね」

「もっとゆっくり出来る日に作ってもらえば良かった」

私の中の罪悪感が満タンになるのを感じて、私は鞄を手に取った。

「じゃ・・・ね」

玄関で靴を履こうとしたところを、お隣さんが後ろから腕を掴んだ。

「待って!」

心臓がドキンと脈打って、全身に乙女に変身する血液が流れ始めるのを、私は必死で止めた。

「このまま帰っちゃうの・・・寂しいよ」

お隣さんが後ろからそっと抱きしめる。だけど私は心にくさびを打つ。付き合ってるって確認できるまで・・・真央ちんと別れたって確認できるまで、もう絶対キスもしないって。

「なんか・・・今日は亜弥さんが遠くに感じる」

耳元で聞くお隣さんの切ない声に、揺さぶられる私だ。

「僕・・・何か亜弥さんに不愉快な思い、させたかな?」

それには首を横に振る。抱きしめられてから、初めての反応だ。

「あっ、そうだ。今度デートしたい所考えといてよ」

腕を解いて、お隣さんが私の肩に手を乗せて向きを変えた。

「ねぇねぇ。今度スノーボード行かない?」

「スノーボード?」

私はお隣さんの顔を見上げる。

「うん。亜弥さんやった事ある?」

私は首を横に振った。スキーだって一回しかやった事がないんだからスノボーなんて、もっとない。さすが平成生まれだ。こんなところにもジェネレーションギャップが落ちている。

「大丈夫。教えてあげるよ。ね?今度行こう!」

去年の夏は真央ちんと海に旅行だった。今年の冬は私とスノボーか・・・。ま、季節が違う事に救われる。

「スノボーは・・・いいや」

二人の間が不穏な空気でいっぱいになる前に、私はペコっと頭を下げた。

「ごめんね」


 帰りの電車に揺られながら考える。まずは相手を知るという意味で、軽い気持ちの一歩を踏み出してみる様に紅愛に言われて今があるのだけれど、元カノ疑惑や付き合ってないんじゃないか疑惑にすっかり心を乗っ取られて 落ち込んでしまうんだから、私ったら相当本気モードにシフトしてしまっているみたいだ。車窓に映る自分をぼんやり見ていると、妙子が言っていた『エベレストに軽装備で登って遭難する』と言った言葉が蘇ってくる。もうその兆しは充分だ。今ならまだまだ下山可能なタイミングだろう。いや、むしろ、決断の時なのかもしれない。紅愛も『一週間無料お試し』と同じだって言っていた。お試し期間に駄目だと思えば返品可能だ。リスクは、送料自分持ちという事くらいだ。だからメリットの方が大きい。ちなみにメリットは・・・“これは違う”と分かった事だ。この人が運命の人じゃないって受け入れるしかないのだ。それが出来ないって事は、妙子が言っていた通り“夢見ていた”だけって事になる。それでも私、『短かったけど、良い夢見させてくれてありがとう』なんて余裕の笑顔で言えるんだろうか・・・?


「龍。来週そっち行くき、東京案内してね」

「母ちゃん一人で来るの?」

「そうちゃ」

「どうしたがぁ?急に」

「康髙おんちゃん、入院したんやって」

「入院?」

「肺炎だっ言うちょった・・・」


 急遽田舎からお隣さんの母親が上京する事になったと、電話越しにお隣さんが言った。。

「紹介したいんだけど、会ってもらえる?」

「お母さんに?」

「なかなか会う機会も無いと思うし」

私は正直、即答が出来ない。理由は二つだ。一つは、まだお互いの事を何も知らないのに、親に紹介だなんて・・・という驚きだ。だってついこの間、私は彼の気持ちを疑っていた様な段階なのに。そして二つ目は・・・自分はいいけれど、親の気持ちになって考えたら複雑だ。

「かえって、お母さんに心配掛けちゃうんじゃないかな?」

そうやんわり否定してみたものの、簡単にその関所が通過できる訳じゃない事くらい分かっている。

 だから当然、週末にお母さんと三人の食事がセッティングされたとしても、覚悟は出来ている・・・というべきか、想定内・・・と言うべきか。


 母の兄にあたる康高おじさんが入院しているという病院へ、お隣さんが母親と一緒に見舞いに行った帰りだ。東京見物に浅草やスカイツリー等見せて回り、その後夕飯を三人で食べようと予約された店へ、私は向かう。

「はじめまして」

お隣さんに紹介され、そう挨拶をして頭を下げるが、その直前に見た母親の顔が少し固まっていたのを、私は見逃してはいない。きっと『彼女を紹介する』とだけしか聞いていなかったのだろう。もっと若い同年代の女の子が現れると思っていたに違いない。そんなお母さんの期待をまんまと裏切って現れた、この私だ。肩身の狭い雰囲気を勝手に感じて、もう今から帰りたい。これから1時間やそこら、和気あいあいと和やかに打ち解ける想像が出来ない。

「伯父様の具合、どうだった?」

「思ったより元気だったよ。念の為の入院って事らしい」

私は思い切って母親に顔を向けた。

「ご心配ですね」

「ありがとう」

にっこり笑顔で頭を下げてくれるから、私の胸も少しほっとする。

「少しは東京見物できましたか?」

「皇居に行ってみたかったがやけど、今日は時間がのうて行かんじゃった」

「明日お忙しくなければ、お連れしたら?せっかくこちらに見えたんだし」

それに対して、お隣さんが私の顔を見た。

「明日は出掛ける約束してたでしょ?」

「そんなの又今度でいいから。明日はお母様ご案内したら?」

「じゃ、一緒に行こうよ。ね?お袋もいいでしょ?明日皇居、連れてってあげるよ」

母親がにっこりするのを見て、私の心拍数が少し落ち着くのが分かる。

それからひとしきり、今日観光した場所の感想をお母さんが喋り、それを二人が聞くという構図が出来上がった頃、大皿料理が目の前に並ぶ。熱々の湯気が立ち昇る料理達に、母親はその度に『あら~』とか『美味しそう!』を連発して、感激する姿が可愛らしくさえ見えた。時々、

「おとお元気?」

とか、家族の話題で交わす会話が早過ぎて意味が分からない時があるけれど、お隣さんの家族に見せる一面が垣間見られて、今日この食事の場に来て良かったと思えるのだった。『キスして手繋いで、“そういう事”でしょ?』と言った“そういう事”は、きっと恋人同士って事だ。この人なら、きっとそういう意味だ。裏はない。隠し事もきっと・・・ない。あったら、お母さんに紹介なんかする筈ないもの。

 食べながら お話するのにも忙しい母親が、急に真面目な顔で息子を見て言った。

「げに、どこで知り合ったが?」

お隣さんは 一度私の方を見てから答えた。

「部屋が隣じゃった」

「ほぉ~」

「いつからなが?」

「まだ、最近」

「ほぉ~」

すると母親は、今度は私の方へ視線を移動させた。

「うちの子のどこを気に入ってくれたんなが?」

こんな事目の前で聞かれると、ちょっと照れる。しかも相手は恋人のお母さんだ。答え方にも気を遣う。だからってモタモタしていると、この気持ちを疑われかねない。

「優しい所です。月並みですけど・・・」

「この子は昔っから、優しいのが取り柄やきね」

そこに、お隣さんが思い出した様に話題を提供する。

「彼女のお父さんが畑で野菜作ってて、お裾分け貰った事あるんだけど、それが凄く美味しくて・・・」

「亜弥芽さん、出身は?」

「千葉です。父は数年前から趣味で畑をやってまして、時々送ってきてくれるので」

「ほりゃあ、いいわね」

「丁度今朝も、干し芋送ってきてくれたところです。秋に摂れたさつま芋を自分で毎年干して作るんです。あっ、もし良かったら明日お持ちします」

「凄いね、お父さん。何でも自分で作っちゃうんだね」

会話も弾み、目の前の皿が綺麗になると、母が言った。

「デザート、食べたいのがあったら頼みい~や」

お隣さんが私に気を遣う。

「何か食べる?」

「私はもうお腹いっぱいだから・・・」

「マンゴープリン頼むから、少し食べない?」

「食べられるにかぁ~らん?遠慮しや~せき」

母の言葉が分からなくてキョトンとしている私を見て、お隣さんが笑いながら通訳をした。

「遠慮しないで食べなさいって」

すると、お隣さんの同時通訳が喋り終わるのを待って、再び母親が言った。

「あしは胡麻団子頼むき」

注文を終えると、母親はトイレへと席を立った。すかさずお隣さんは、私の顔を覗き込んだ。

「緊張してる?」

私は笑顔で返事に替える。

「私、高知の方言って初めて聞いたかも」

「土佐弁は、ちょっときつく聞こえるかな?」

私はゆっくりと首を横に振った。

「大丈夫。お母さんも優しいし、サバサバしてて気持ちがいい。いいお母さんだね」

「そんな風に言ってくれるの?ありがとう」

 お隣さんと母親がデザートを食べ終わるのを待って、私はトイレへと席を立つ。化粧室を出て、元居たテーブルの後ろにあるパーテーションの所まで戻ってくると、お隣さんの親子の会話が耳に飛び込んできた。

「亜弥芽さん、いくつ?」

「・・・年上」

「わかっちゅうわよ、ほがな事」

間髪入れずにツッコミが入る。

「結婚考えてるが?」

「真剣に付き合っちゅう」

私は思わず身を潜めて立ち止まった。パーテーションの向こうには私の背が隠れる位の高さの観葉植物が並んでいるから、向こうからは見えない。

「いい子やき・・・」

息子の言葉を母が途中で奪い取った。

「いい子やけど・・・結婚は認められん」

「どうして?」

「おんしゃぁ、長男ながよ」

「わかっちゅうよ」

「長男ちゅうこた、跡取りだ」

「分かっちゅうよ」

「あの歳で、子供産めるか?」

「なんちゃないわ」

「簡単に言うがやない」

まさか裏で私が聞いているとも知らず、正直な意見が飛び交う。

「跡取り産めんでたいそいのは、亜弥芽さんじゃき」

「・・・・・・」

「交際するがはいいけど、そればぁにしちょき」

それまで交互にしていた声だったが、お隣さんの声がしなくなって、私がそこで盗み聞きしていた事がバレてしまったのではと心配した頃、お隣さんの声が再び聞こえた。

「ほりゃあ、彼女に言いなやよ」

「言える訳ないろうが」

悲しい気持ちを飲み込み、私は席に戻る勢いをつける。

「ごめんなさい、お待たせしちゃって。混んでたもので・・・」

やはり、さっきまでみたいに母親の顔は正面から見られない。

 

 店を出て、別れの挨拶をする頃、お隣さんが言った。

「じゃ、明日どうしようか?」

「あ・・・もしかしたら明日、行かれないかもしれないの。だから・・・」

「なんで?急に」

「あ・・・友達が風邪引いちゃって、子供の世話しに来てくれないかって・・・」

とっさの思いつきの嘘にしては上出来だと自分を褒める。でも、お隣さんは納得してない顔をしている。そりゃ、その連絡はいつ来たの?とか、そういう細かい事を言い出したら 隙だらけの嘘だけど、恋人のお母さんとの約束もキャンセルせざるを得ない理由にしては、なかなか良い塩梅なんじゃないかと思っている。それに、勘の鋭い彼の事だから、気が付いてしまうかもしれないけれど、お隣さんが今私の方をじっと見ている視線には気が付かなかった事にして避けておこうと思う。

「では、私はここで」

店の前で私は駅とは反対方向を指差してお辞儀をした。

「え?駅まで行かないの?」

当然のお隣さんのツッコミだ。

「この近くにある大きな書店に寄りたくて。親子水入らずで、どうぞ」

最後まで笑顔は絶やさない。すると母親は息子に言った。

「あしは平気やき、亜弥芽さん送ってあげや~」

私は慌ててそれを否定した。

「そんな事仰らずに・・・。お気持ちだけ、頂きます」

私はお隣さんに目で訴えるが、彼も心配そうに私の顔を見ているだけでらちがあかない。だから私はもう一押しの言葉を捻り出した。

「もう夜道が危ない様な歳じゃないですから」

軽い冗談のつもりがブラックジョークとなってしまう。笑っているのは私だけだ。母親も愛想笑いで付き合うが、そんなのすぐに引っ込んでしまう。こうなったら、もう強行突破しかない。

「今日はありがとうございました。お目に掛かれて嬉しかったです」

「亜弥さん・・・」

名残り惜しむような表情のお隣さんを無視して、私は最後の強がりで笑顔を顔いっぱいに浮かべた。

「おやすみなさい」

深くお辞儀をして、この頭を上げた頃には二人して駅の方へ歩き出していて欲しい・・・そう願わずにはいられない程、今にも悲しみに翻弄されそうな私だった。


 私は用事の無い本屋に立ち寄る。嘘を本当にする為だ。店内をぐるぐる歩いてはいるけれど、目には何の景色も入っては来ない。偶然聞こえてしまったお隣さんと母親の会話が、さっきから何回も再生されている。懲りない位、リピートされている。下手したら、母親の台詞を空で言える様になっているかもしれない。確かにショックな会話を耳にしてしまったけれど、よく考えてみれば、当然の事だ。お母さんが口にしていた事は、私が元々感じていた事だ。だから、お隣さんとの関係に一歩踏み出せずにいたのだから。だから、誰も悪くないのだ。それにきっと、私がお母さんの立場になったって、同じ事を言うと思う。

・・・さて、これからどうしよう。お隣さんと結婚を考えずにこのまま付き合っていく・・・という選択肢もある。それともやはり、釣り合わない関係は、そこから何も生まれないのだから、すぐに解消すべき・・・とも思う。


次の日、急に予定が無くなった日曜に、急に予定が無くなった紅愛がマンションを訪れる。

「引っ越し、おめでとう!」

「ありがとう」

「はい。随分遅くなったけど、これ引っ越し祝い」

リボンがはみ出した紙袋を紅愛が差し出した。

「開けてみてよ」

ニヤニヤしている顔から、プレゼントの自信の度合いが伝わる。包みを開けると、中からはワインとペアのグラスが姿を現す。

「可愛い彼氏と一緒に飲んで」

「ありがと」

その言い方の異変に、紅愛が鋭い触覚を働かす。

「何かあった?」

「昨日、彼のお母さんが上京してきて・・・一緒に食事に行ってきた」

「へぇ~、もう そんなとこまで話が進んじゃってるわけ?ついこの間まで“セフレ”か“都合の良い女”かって疑ってたのに。意外にスピード婚、あるかもよ」

勝手に盛り上がる紅愛に、私は水を差す様に淡々と昨日の一部始終を説明した。そして、聞き終えた紅愛の反応が見ものだ・・・私がそう思っている事さえ、紅愛には読まれている。

「で?私に何て言ってもらいたい?」

私が当然答えられずにいると、紅愛が続けた。

「じゃ、あ~やはどう考えてるの?」

「う~ん・・・」

昨日帰りに延々と考えていた取り留めもない考えを、ぽろぽろと少しずつ零してみる。

 すると紅愛が暫く黙っていた口を開いた。

「今日ね、一個いいニュース持って来たの」

「いいニュース?」

「実はね・・・」

嬉しそうな紅愛が、もったいつけてじらすから、私はついいつの間にか前のめりになっている。

「赤ちゃん出来た!」

「えーーーーーっ!おめでとう!良かったじゃ~ん!」

思わず私は雄叫びを上げてしまう。だって、結婚して9年間、なかなか授からなかったのだから。

「ご主人もご両親も、皆喜んでるでしょう」

「まあね」

「いつ?予定日」

「夏。7月」

「いや~、楽しみだなぁ。生まれたら抱っこさせてね。あっ、オムツもやり方教えてくれたら取り替えるの位やるよ。少し大きくなったら預かったりしてあげる。そうだ。男の子?女の子?あっ、まだ分かんないか」

嬉しすぎて、口が弾丸の様に動いて止まらない。その様子に、紅愛が笑っている。

「気が早過ぎるよ~」

「そうかぁ・・・」

そうは言っても反省してる訳じゃない。だって嬉しすぎて、気持ちが勝手にはしゃぎ出して 私の頭の中の妄想が暴走して止まらないんだもの。すると、紅愛が真剣な眼差しで私をじっと見た。

「で、分かってる?」

「ん?何が?」

「そんなに喜んでくれるの嬉しいけど、今日、私の報告しに来た訳じゃないから」

「へ?どういう事?」

思わず、すっとんきょうな声が出てしまう。

「私がおめでたで、一緒に喜んでって意味で、今これ報告してるんじゃないって事」

「・・・え?何、何?どういう事?」

私は食い気味に紅愛の方へ身を乗り出す。

「まったく、鈍いですなぁ~。相変わらず」

「だって、分かる訳ないでしょう。ただ喜んじゃ駄目みたいに言われたって」

「そうは言ってないじゃない」

「そう聞こえるもん」

「だからぁ」

紅愛は目の前に座る私の両手を握って言った。

「あ~やが自信や希望持てる様に、私元気な赤ちゃん産むからね」

「・・・・・・」

「高齢出産だし、正直リスクもあるけど、私頑張るから」

急に私の心が重たい。昨日の今日だ。すると、私の反応が薄いから、紅愛が怖い顔をした。 

「勝手に諦めちゃダメだよ」

こんな空気では、これ以上駄々をこねるのも躊躇われる。

「そんな理由で早まった答え出したら、今度こそあ~や、完全に元栓からスイッチオフするよ。やり切って、お互いにこの人とは違うなって納得するところまで行ってからでも遅くないよ。だって、向こうはまだ若いんだから」

また紅愛に説得されつつある。私って、本当に単純だ。いや、もしかしたら誰かに もっともらしく自信たっぷりに背中を押してもらいたいだけなのかもしれない。ずるくて弱虫の私だ。多分今から駄目だった時の心配をして、その時に、皆の反対を押し切って自分の想いをただ貫き通して突き進んだんじゃないって言い訳を私自身にしたいだけなのかもしれない。一体私の価値観の基準は何なんだろう。

 その時インターホンが鳴る。

「誰だろう」

そう言いながら私は立ち上がってモニターの近くまで行くと、そこにはお隣さんが映っているではないか。

「え・・・」

戸惑っている私に、紅愛が聞いた。

「どうしたの?誰?」

「・・・なんで来たんだろう・・・?」

紅愛も立ち上がってモニターを覗き込む。紅愛にとっては初めて見る顔だが、私の様子と呟きから察して、ニヤニヤしながら私の肩に腕を回した。

「そりゃあ彼氏なんだから、来たって何らおかしくないでしょう」

「だって、お母さんと出掛けてる筈なのに・・・」

私がなかなか応答しないから、お隣さんはもう一度インターホンを押した。

「早く出てあげなさいよ」

「だって今日は、友達の子供預かってる事になってるんだもん」

諦めて帰ろうとするお隣さんの姿がモニターから消える前に、紅愛が応答ボタンを押した。

「はい」

慌てているのは私だけではない。帰りかけたお隣さんも、戻ってきてもう一度モニターの前に立った。

「亜弥さん?」

「今開けますね。どうぞ~」

下のエントランスのロックを解除するボタンを押すと、自動ドアが開いてお隣さんが入っていく様子が確認できる。ニヤッとした紅愛に私は強い口調で言った。

「どうするつもりなのよぉ!」

「どうもしないわよ。恋人がせっかく来てくれたから、どうぞって中に入れただけの事でしょ?」

私は呆れて、わざとらしく大きな溜め息を吐き出してみせた。

「私の話、聞いてた?無責任な事しないでよ。どんな言い訳するつもりなのよ」

「ガミガミ言わないでよ。今それ必死に考えてるんだからぁ!」

「私知らないからね。紅愛が責任取ってよ」

「よし。分かった。じゃ、正直に全部話してみよう」

「いやいやいや・・・それは出来ない。待って待って待って!」

「ま、じゃ私に任せて。その場の思いつきで何とか切り抜けてみるわ」

一番怖い答えだ。吉と出るか凶と出るか、正にギャンブルだ。

 そんなすったもんだをよそに、今度は玄関のチャイムが鳴る。私は紅愛と目を見合わせた。そして紅愛が言った。

「待ってて。まずは私が出てくる」

玄関のドアが開く音を、中から耳を澄まして聞く私だ。

「・・・あ・・れ?」

当然の如く、戸惑って表札を確認するお隣さんだ。

「堀之内龍君ですよね?私、亜弥芽の友達の宇田川紅愛といいます。はじめまして」

「あ、どうも。はじめまして。びっくりしたぁ。家間違えたかと思いました」

「ごめんなさいね。先に言えば良かったね」

「いえ。で・・・亜弥さん・・・留守ですか?」

「居るから。どうぞどうぞ。入って」

「お邪魔します」

紅愛がスリッパをパタンと床に置く音が聞こえたと思ったら、すぐに廊下の床とスリッパが擦れる音が近付いてくる。私はリビングの窓のカーテンに隠れんばかりに突っ立って、二人を迎えた。私は質問が来る前に、質問をした。

「どうしたの?お母さん、皇居にご案内するんじゃなかったの?」

「したよ。で、羽田まで送って、今帰ってきたところ」

明解な回答に、これ以上質問の余地がない。そうなると、当然お隣さんからの質問が来そうな気配だ。私は紅愛にヘルプの視線を送る。

「お母様、もう帰られたんだぁ?」

紅愛がお隣さんに質問している。きっといい言い訳が浮かぶまでの時間稼ぎだろう。

「はい。慌ただしく帰っていきました」

「お母様、まだお若いでしょう?お幾つ?」

「51かな?・・・だったと思います」

私の中で衝撃が走る。何故だろう。26歳のお隣さんよりも、お母さんの年齢の方が近い感じがしてしまう。

「じゃ、お元気で当たり前だわ。私達の親っていうと60代、下手したら70近い人もいるもんね」

何の話をしているんだ?と私は紅愛にもどかしい気持ちを抱いていると、それを察したのか、お隣さんが別の話題を持ち出した。

「お二人は、いつからのお友達ですか?」

「あ、そうそう。まだそれも話してなかったね。ごめんなさい。私とあ~やは会社の同期入社組」

お隣さんからの質問には、紅愛が全部答えてくれるから、私はさっきから突っ立ったまま、二人を傍観しているだけだ。だけどお隣さんは、紅愛の方も見ながら 時々私の方へも顔を向ける。

「あぁ、そうだったんですか。じゃ、今でも同じ職場で?」

「いやいや。私はとっくに辞めちゃって、今は別の仕事してます」

一体、いつまでこんな状態が続くんだろうと思っていると、きっとそう思っていたのは私だけではなかった様だ。その話題が終わると、お隣さんがキョロヨロして言った。

「今日って・・・お友達の子供さん預かるんじゃなかったの?」

来た!とうとう来た!私の心の中での叫びは、紅愛も同じだったと思う。

「そうなんだけど・・・」

ここまで喋ると、その後を紅愛が奪った。

「急遽あ~やもその予定が無くなって、私の方も旦那との予定が無くなって、だから引っ越し祝い持って行っていい?って半ば強引に押しかけてきた次第です」

「あ、そうだったんですね」

お隣さんがにっこり笑って受け応えている。完璧だ。これは紅愛に感謝しなくてはいけない。そう思っていると、紅愛が鞄を持ち上げた。

「って事で、私は帰ります」

「え?もう?」

私の縋る様な視線にお隣さんが気付きません様に・・・と祈りながら。

「だって、恋人が訪ねてきてるのに、いつまでも長居したら野暮でしょ」

否定したい気持ちはあるのに、それを言ってしまったら、お隣さんの手前気まずい。だから私が何も言えずにいると、お隣さんが頭を下げた。

「いや、今日は僕が急に来たので、これで帰ります。約束してた訳じゃないし」

私はほっと胸を撫で下ろしながら、このままの流れでいってくれと願う。

「せっかくだから、ゆっくり話もしたいだろうし。ね?」

そう言って私の顔を見るお隣さんだ。こういう場合、どんな返事がいいのだろう。

「・・・うん。ごめんね」

私がそう言い終えると、お隣さんは向きを変える一歩手前で 思い出した様に口を開いた。

「あっ、お袋が亜弥さんの事『いい人だね』って」

私は愛想笑いを返した。

「いいって。大丈夫。ありがとう」

目は見られない。軽く頭を下げた素振りで視線が直接ぶつかるのを避ける。すると、そこで急に紅愛が割って入る。

「おかしいでしょう。その言い方」

は?私は思わず紅愛の方へ顔を上げた。

「今の言い方。まるで彼が気遣って嘘でも言ってるみたいな」

それ突っ込むの、紅愛じゃないでしょ?私は心の中で叫ぶ。すると、お隣さんが言った。

「嘘じゃないですよ。本当に『いい人だね』って」

「分かってます。私はわかってるんだけどね、あ~やが信じてない事が問題なのよ」

一体何を言い出すんだ?と私は紅愛から目が離せない。

「何言うの?私だって信じてるし、有り難いと思ってる」

「本当?だったら、『いいって、大丈夫』って何?おかしくない?」

細かい所を突っ込まれ、もう隠れてしまいたい。しかもお隣さんに指摘されるならまだしも、味方だと思っていた紅愛にだ。一体紅愛は、ここを掘り下げてどうしようっていうんだろう?

「細かい事言わないでよ。たまたまそういう言葉が出ただけで、そんなに深い意味ないから」

「たまたまふっと出た言葉だから、本音が出るんじゃない」

まだ私を自由にしてくれない紅愛に疲れ始めると、お隣さんが助け舟を出す。

「僕は別に気にしてないから、大丈夫ですよ」

これで終息へ向かうと思いきや、まだまだ続きがあった。

「せっかくの機会だから、ちゃんと聞いておきたい事もあるの。ちょっと座ってもらえる?」

一体何が始まるんだろう。そして、何を考えているんだろう。全く分からない私は、棒立ちのまま二人を見守る。床に正座をしたお隣さんに、紅愛が言った。

「どんなつもりで、あ~やと付き合ってるのかなぁ?」

お隣さんが答えようとするから、私はそれを手前で止めようと息を吸った。しかしその間に、紅愛がまた割って入る。

「正直に答えてもらいたいの。別にとがめるとかそういう事じゃなくて。私やあ~やの歳になるとね、死ぬまでにあと何回恋愛できるかって考えると、そうそう多くないと思うのよ。分かるかなぁ。だからね、どういうつもりで付き合ってるのかをお互いはっきりさせておかないと、それが食い違ってた時に後々面倒な事になると思うわけ。いや、決して もう絶対結婚しなさいよって言ってるんじゃないの。何て言ったらいいのかなぁ。お互いの需要と供給が合致してるのかどうかを、一回確認しておきましょうよっていうか・・・」

弾丸の様に話す紅愛に少しクラクラしながら、私は当然お隣さんの顔を見る事はできない。でも、何か早く言わないと取り返しがつかない位重たい話になる。私は床に膝を付けて、紅愛と目線の高さを合わせた。

「あのさぁ、今その話いるかなぁ?」

「あ?私みたいな部外者がいるからって事?」

「そうは言ってないけど・・・」

「だって あ~や、自分で聞ける?こういう事」

「・・・・・・」

紅愛はずるい。私が聞けないのを分かってるのに、こんな質問をあえて声に出してする。だから私は半ばやけくそで言い返した。

「必要性を感じたら、その時に私だって聞くから」

「必要じゃないって、自分に言い聞かせ続けるくせに」

一体どこまで私を追い詰めたら気が済むんだろう。

私と紅愛のやり取りに、遠慮がちにお隣さんが言葉を挟む。

「あの~・・・」

私と紅愛の4つの瞳が、一気にお隣さんへ集中する。

「僕は亜弥さんに付き合って下さいって言った時から、ちゃんと将来を考えてます。逆にそこまで考えてなかったら、言えてないと思います」

また、私がそれに反応するよりも紅愛の方がワンテンポ早い。

「でもさ、それを親兄弟も賛成するとは限らないじゃない?いや、むしろ反対される可能性のが高いかもしれない。そうは思わない?」

「・・・・・・」

お隣さんの返事に一瞬隙が出来た怖さで、私はようやく口を開く。

「そこまで尋問する必要ある?今」

紅愛にしては珍しく、ちょっとだけ私の攻撃にひるんでいる。すると今度はお隣さんが勢いづいた。

「亜弥さんはどうなんですか?僕と真剣に将来の事考えてくれてます?」

「・・・・・・」

目を逸らした私に、紅愛がツッコミを入れる。

「そこは早く答えてあげなさいよ」

なんだか二対一の劣勢を感じながら、私は針のむしろにいる気分だ。

「そんなすぐに将来の事なんか考えられないよ。やっぱり一生の事だし、この後の人生設計とかそういうのも変わってくる訳だし」

「そういう事聞いてるんじゃないのよ!彼とどうしたいか、どうなりたいか、それを率直に聞きたいだけなの」

紅愛がそう言うと、お隣さんがそれを遮った。

「いえ、いいんです。亜弥さんの気持ち、わかります。こんな若造に人生託していいのかって思うの当然です。いや・・・託すなんて思ってないか。今後の人生のパートナーとして頼りないのか、それとも共に歩んでいけそうか、見極める時間が必要だと思います。だから、今はとにかく一緒に過ごしてもらうだけでいいんです。その中で、色んな角度から僕って人間を観察して評価してもらえればいいです」

「そこまで言ってくれるなら、私もう一回聞くけど、もし親に反対されても、それ説得して自分の意志を貫ける自信ある?」

「あります」

「どうして?」

「その場の好きって気持ちだけで選んだ人じゃないから」

紅愛とお隣さんの熱いやり取りから すっかりはじき出された私は、蚊帳の外で縮こまる虫みたいだ。

「じゃあ、最後にもう一個だけ」

そう言って紅愛が人差し指をピンと立てた。

「元カノとか、そういう身辺整理はちゃんと済んでる?」

紅愛の眼孔が鋭い。しかしお隣さんもそれに負けてはいない。

「もちろんです」

そのお隣さんの瞳をじーっと見つめた後、ようやく紅愛は表情をほぐした。

「ここまで正直に話してくれると思わなかった。あんた、いい子ね」

かなりお姉さん目線の上から物を言っている感が気になるが、仕方がない。何せ紅愛からしたら、13歳も年下の男の子なんだから。

「あ~やも分かった?余計な事色々考えないで、まっすぐ前だけを見て進めばいいって事」


 紅愛が帰った後の部屋に残った私に、お隣さんは何か言いたそうだ。

「亜弥さん・・・」

私は紅愛が飲み終わったコーヒーのカップを下げるふりをしながら、返事をする。お隣さんも、呼び掛けた割にすぐに何かを話し出す訳じゃない。だから私は、何も無かったかの様にスポンジに洗剤を付けて無言でカップを洗い始めた。遅れてキッチンに入ってきたお隣さんの気配を感じてはいるけれど、私は自分から何かを発信したりはしない。すると私の隣に立って、お隣さんが言った。

「拭くよ」

水切り籠の近くにある布巾をお隣さんが手に取るから、私はカップをすすぎながら少し慌てる。

「いい、いい。大丈夫。置いといて」

「いいよ。これ位」

私達は何故か無言で、お隣さんが拭いてくれたカップを食器棚に戻す。扉を閉める音と同時に、ふいにお隣さんが私の後ろから腕を回した。よくこういうの、イケメン俳優がヒロインの子にしているのをドラマのワンシーンで見掛ける。こんな時、ヒロインの可愛い女の子なら、どんな台詞を喋るんだろう。こんなシチュエーションが私にも現実に来ると分かっていたら、もっとそんなカットを真剣に見て覚えておいたのに。・・・私の頭の中を、そんな下らない事でいっぱいにしていると、髪の毛に軽くキスをしてお隣さんが言った。

「今日、来て良かったかなぁ」

「・・・・・・」

私が黙っているからお隣さんが囁く様に言った。

「ごめんね。亜弥さんにとっては迷惑だったよね」

私は慎重に首を横に振った。

「本当?」

「・・・・・・」

お隣さんはクスッと笑った。

「無理しなくていいよ」

私はもう一度頭を横に振った。

お隣さんがふと私の手を持ち上げて言った。

「このネイル、綺麗だよね。亜弥さんっぽい」

会社の子に割引券を貰って 一回だけのつもりで行ったネイルサロンに、最近また行っている。お隣さんと付き合う様になってからだ。せめてお隣さんに見合う様にと 必死で若作りをしている・・・と言ってしまえば身も蓋もないが、まぁ ぶっちゃけ、そういう事だ。でもそれを耳元でこんな風に褒められるなんて、油断したら骨抜きにされそうだ。私は気恥ずかしくなって手を縮めようとすると、お隣さんはその手にそっとキスをした。まるでドラマのワンシーンみたいな光景に似つかわしくない私は、堪らなくなって自分に回された腕を解いた。お隣さんの中から逃げ出した私を 無理に引き止める事はなかった。

「亜弥さん、これからちょっと出掛けない?」


 懐かしい街並みを見回しながら、二人は三ちゃん麺に向かう。

「ラーメンと餃子以外のメニュー、食べた事ある?」

私は首を横に振った。

「じゃ今日は、別の頼んでみようよ。最後に〆でいつものラーメン半分こしない?」

私はお隣さんの提案に乗っかってみる。

「亜弥さん、何食べたい?」

「龍君、食べたい物頼んで。私、何でもいいから」

「う~ん・・・。嫌いな物、ないの?」

「絶対に食べられない物はないかな。しいて言うなら、肉の脂身とか・・・?」

「じゃ、好きな食材は?」

「お野菜は何でも好き」

「野菜かぁ。お父さんのあの美味しい野菜食べて育ったら、好きになるよね」

「全然。父が畑やる様になったの、まだ10年位だし」

「10年もやってたら、かなり本格的なんじゃないの?」

お隣さんの様に26歳にとっての10年と、39歳の10年では、感じ方が大きく違うらしい。私にとったら10年前の29歳はつい最近の事だけど、お隣さんの10年前は まだ高校一年生だから仕方がない。

適当に注文し終えると、お隣さんが言った。

「そういえば昨日も中華だったよね。ごめんね」

「ううん」

「昨日さ、お袋が」

そこまで聞いて、私の脳裏には昨日三人で食事をした中華料理屋の光景が鮮明に思い出されて、ついテーブルの下に隠れている両手の拳に力が入ってしまう。

「帰り、亜弥さんに気遣わせちゃって申し訳なかったって。謝っておいてって言ってたよ」

「ううん。本当に本屋で探したい物あったし」

「正直、どうだった?お袋と会ってみて」

私は必死で頭の中の昨日の記憶に蓋をする。

「凄く明るくて・・・素敵なお母さんだなって思ったよ」

「嫌な思い、しなかった?」

「うん」

私は頑張って笑顔なんか振り撒いて見せる。するとお隣さんは、私の目をじっと見つめて言った。

「・・・やっていけそう?」

「・・・え?!」

「・・・もしさ・・・家族になった場合、やっていけそう?お袋と」

何を言い出すんだろう、この人。昨日お母さんに結婚をあんなにきっぱり反対されたばかりだというのに。

「・・・気が早いでしょ。そんな風に思ってお母さんと話してないし」

「・・・だよね。ごめん・・・」

そんな風に謝られると、こっちの胸が痛む。本当は、昨日のお母さんの反対意見を耳にしてしまうまでは、私だって将来そうなったらいいなぁなんて甘い事を考えていたんだから。

私は気まずい空気になる前に、別の話を引っ張り出す。

「さっき渡した干し芋、出来るだけ早めに送った方がいいと思う」

「あ、これね」

そう言ってお隣さんは隣の椅子に乗せた小さな紙袋をちょこっと持ち上げた。

「今夜の内に、宅急便で出しておくから」

「ごめんね、わざわざ」

「いや、喜ぶよ、きっと」

昨日母親に結婚を反対されたのに、どうしてこんなに自然に笑ったり話題に出せるのだろう。もしかしたら、紅愛に言った様に本当にお母さんを説得する自信があるとでも言うのだろうか。だとしても、私は無理だ。この歳で嫁に行った先の親兄弟に歓迎されないムードを気にせずにいられる程、心臓は強くない。若い頃の様に『私達が愛し合ってれば』なんていう勢いで乗り切るエネルギーもない。

 私がこんな事を考えていられるのは、今目の前の料理を夢中になって食べているからだ。無言でいられる代わりに、私の思考回路は無法地帯となり、好き勝手な事をぼやいてしまうのだ。

 〆のラーメンを交互に食べながら、また思う。箸はそれぞれの物だけど、同じレンゲでスープを飲んだり、同じ料理をつつきながら食べるなんて、生理的に嫌な相手とは絶対に出来ない業だ。そう思うと、また一つお隣さんとの距離が近付いた様に思う。それが果たして いいのか悪いのかは分からないけれど。


 三ちゃん麺を出ると、もう外は真っ暗だ。お隣さんがいつもの様に手を握る。駅の方に歩き出したお隣さんに、私は足を止めた。

「駅まで送ってくれなくて大丈夫。龍君、このまま帰って」

「まだ帰らないよ」

「・・・そうなの?」

「だって本当は今日一日デートする約束だったのに、まだ3時間位しか一緒に居ないでしょ」

本当はこんな 笑顔で手をぎゅっと握り返したい位嬉しい言葉にも、私は無邪気な反応一つ出来ない。可愛くない女だ。その上、自分のドキドキをごまかす為の言葉は喋る。

「で、どこ行くの?」

お隣さんは悪戯な笑顔を向けた。

「ちょっと歩くけど平気?」

行き先を告げないお隣さんについて歩きながら、懐かしい街並みを眺める。ここを出て まだたったの数カ月なのに、やはり住み慣れた街に帰ってきた感じがする。

「嬉しそうだね」

お隣さんが私の顔を眺めて言った。

「懐かしいなって・・・」

「そうだ。最近、自転車通勤始めたんだ」

「前から言ってたもんね。とうとう始めたんだ?」

「亜弥さん出てっちゃったから、駅まで一緒に歩く人いなくなっちゃったし」

「あれ~?前は、運動不足解消って言ってなかったっけ?」

お隣さんはあははははと声高らかに笑った。

「そうそう。それもある。あと、他にも理由があって始めたんだ」

「他にも?」

「・・・お金、貯めようと思って」

「あ、交通費節約ね」

軽く相槌を打ったが、思った以上に隣で真面目な顔をしている。

「亜弥さんの事 いくら『将来の事真面目に考えてます』なんて言っても、やっぱり経済的に頼りなければ相手にしてもらえないだろうし」

急にお隣さんは真面目なトーンで話し始めた。

「仕事はもちろん頑張るし、今は営業成績上げてボーナス増やす事も目指してる。毎月ちょっとずつだけど貯めていって、貯金が500万になったら、亜弥さんにきちんとプロポーズしたいと思ってるから」

「・・・・・・」

正直、昨日のお母さんの会話を聞いてしまって、迷いが沢山ある中でこんな事を言われたって、どう答えたらいいか さっぱり分からない。『ありがとう』でも、『待ってるね』でもない。『頑張ってね』は他人事みたいで尚更おかしい。

「500万なんて、亜弥さんにとったら大した額じゃないだろうし、もし結婚式とか新婚旅行とかしたら、あっという間に飛んでっちゃう様な額かもしれないけど、僕の本気を見てもらう為に 頑張るから、待っててね」

「・・・・・・」

お隣さんが一人で続けた。

「あ!そうだ。予定では、今年の亜弥さんの誕生日にプロポーズ出来る様に頑張るから」

今年の誕生日が来たら、私は丁度40になる。きっとそんな事お隣さんは知らないだろう。もし私の歳を知ったら、今年訪れる40歳と27歳のギャップに 尻尾を巻いて逃げ出したりしないだろうか。

お隣さんは私の顔を心配そうに眺めた。少し強張った表情をしていたんだろうか。お隣さんが優しい口調で言った。

「亜弥さんは今までと何も変わらないでいいからね。これは、自分の決意を今勝手に喋っただけ」

きっと本当なら、こんなに嬉しい決意表明はない筈なのに、何故か怖い。不安と恐怖しか感じない程、私の胸はザワザワする。

「あっ、そうだ。お花屋さんって、どっかあったかなぁ?」

私の方を見るも、答えの持ち合わせがない様子に、お隣さんは又前を見て歩き出した。

「歩いてれば、その内あるよね」

「・・・お花屋さん?」

「これからね、行こうと思ってるのが、僕の大学時代の先輩がショットバーを始めてね。今日オープンなの。だから、一緒に行きたいなと思って向かってるんだけど。開店祝いにお花持ってけばいいかぁ・・・って」

ニコニコ話すお隣さんの横で、私は足を止めた。

「待って。・・・龍君、一人で行って。ごめんね」

手を解くと、急にお隣さんの顔が悲しい色に染まる。

「・・・どうして?そんなに長居するつもりないよ。顔出して、一、二杯飲んで帰るし。ほら、招待状も貰ってるからさぁ」

お隣さんは鞄の中から葉書を出して見せた。

「うん。だから龍君は行っていいよ。私は・・・ちょっとそういうの苦手だから・・・。本当ごめんなさい」

お隣さんは頭を掻いた。

「彼女と顔見せに行くって言っちゃってあるんだ。お願い。ちょっとだけでいいから付き合ってくれない?」

立ち止まって両手を合わせて懇願する姿を、道行く人が物珍しそうに眺めて通り過ぎて行く。それが私には、とてつもなく居心地が悪い。

「やめて、そういうの。皆見てるし」

「じゃ、来てくれる?」

「だからぁ・・・」

まさか、『龍君の知り合いには誰も会いたくない』なんて言えないから、もっと別の行きたくない具体的且つ説得力のある理由を探し出す。

「こんな 家に居たまんまの格好だし」

「平気だよ」

そう来ると思った。でもここは“女心”を盾に言い続けてみよう。

「平気じゃない!だって・・・三ちゃん麺に行くのと訳が違うし。しかもオープンのお祝いに行くのに、こんなズボンじゃ申し訳ないもの」

よし、これでどうだ!私は心の中で叫ぶ。すると、お隣さんは私の格好を上から下まで眺めて暫く悩む。そうだ、そうだ。その調子だ。反論の余地はない筈だ。私からはきっと、このまま逃げ切りたいオーラが存分に放たれていたと思う。再び頭を掻きながら、お隣さんの小さい声が聞こえる。

「別にお洒落してかなくてもいいと思うんだけどな・・・。僕だってGパンだし」

「分かってないなぁ。龍君はそれでいいかもしれないけど・・・」

私はどうしてもこれで決着をつけたいのだが、お隣さんは急に指をパチンと鳴らして、明るい顔になる。

「よし!じゃ、これから亜弥さんの服買いに行こう!」

「え?!」

予想外の展開に、私の瞬発力が鈍い。

「そうだ!今日は僕にコーディネートさせてよ」

「ちょっ・・・待って。そんな、勿体ないよ。その店に行く為だけに、わざわざ服買うなんて」

「だって、服なら又着られるでしょ?うわぁ、楽しみだな。亜弥さんと買い物するの」

有無をも言わさず・・・とはこういう事なんだと思う。さっきよりも勇み足で歩き出したお隣さんに引っ張られる様について行きながら、もう一度私は粘ってみる。

「本当に、どうしても行かなくちゃダメなの?」

再び足をピタッと止めて、お隣さんは私に向かって又両手を合わせた。

「今夜は僕の顔を立てるつもりで。お願い!」

私が返事をするまで、懇願スタイルをやめないつもりらしい。再び道行く人達の視線を感じ始めて、私はとうとう根負けした。

「分かった。分かったから・・・もうそれ、やめて」


 お隣さんが見つけた街のブティックに入り、楽しそうに洋服を見て回る。反対に気乗りしない私は、どの服にも近付かず店内をウロウロして時間を潰す。

「ちょっと、来て来て。これなんかどう?」

手に持っているのはレーヨン生地のからし色のブラウスだ。袖口が、ひらひらしていて女性らしいシルエットだ。

「僕、亜弥さんの鎖骨好きなんだよね」

意外に色んな所を見ているんだなと思うと、ドキッとする。

「前にね、ブラウスの第一だか第二ボタンまで開けてた時、あぁ素敵だなって思ったの。そこから鎖骨とネックレスが揺れて見えてて。だから、こういうの絶対似合うと思う」

よくこうスラスラと誉め言葉を恥ずかしげもなく言えるものだ。しかも近くでは店員さんがニコニコしながらそれを聞いている。こんなこっ恥ずかしい事はない。

「あとね・・・僕、亜弥さんのスカート姿好きなんだよね」

こうやって聞いていると、意外に見た目の好みがあるものだ。あの可愛い元カノ“真央ちん”がはいていた様なミニスカートを出されたらどうしよう・・・それが馬鹿げた心配だったと、私はお隣さんが選んだ少し長めの丈の黒いスリット入りのスカートを見て反省する。生地はブラウスと似た柔らかい素材だ。後ろから、待ってましたとばかりに店員が声を掛ける。

「お召しになってみますか?」

「はい」

私よりも先にお隣さんが返事をする。気乗りしない私だが、もうこれを拒むという選択肢は今更ない。試着室でお隣さんの見立ての服を着てみる。自分では選ばない様な類のアイテムに、戸惑いしかない。

「どう?」

外からお隣さんが声を掛ける。楽しみにしているのが、声一つで分かるくらい弾んでいる。

「出てきて見せてよ」

そう簡単に言わないでと、私の心が叫んでいる。なかなか出て来ない私に、今度は店員の声がする。

「サイズご用意してありますので、必要でしたら仰って下さいね」

このまま又自前の服に着替えて出て行くという反則技を使う勇気は、私にはない。そうなるとやはり、この格好で一旦試着室から出るしかない。

渋々試着室から出ると、お隣さんの視線が熱い。

「おぉ!いいよ。凄く素敵。あれ?亜弥さん的には・・・駄目?好きじゃない?」

「こういうの、自分で選んで着た事ないから」

すると、後ろから、すかさず店員の援護射撃だ。

「とってもお似合いですよぉ」

こういう店の『とってもお似合い』はきっと商売道具の一つだから、そう簡単に信じたりしない。

「このスリット、意外に深いし・・・」

「そう?」

すると店員が説明を始める。

「深い様に思われるでしょうけど、こうやってこちらの生地が被さる様なデザインと縫製になってますので、歩いててそんなに露出はしないんですよ。かえって足が長く綺麗に見えるデザインで、とても好まれてますよ」

「・・・・・・」

「僕もいいと思うけどな・・・」

「この色の組み合わせも、大人の女性を上品でシックに演出してくれるんですよ」

私が黙っていると、二人が交互に勧めてくる。しかも『大人の女性』って言い方は良いけど、なんか引っ掛かる。

「こういったヒールを合わせて頂けたら、イメージがまとまるかと思いますので、ちょっと履いてみて下さい」

靴まで持ってきた店員に、笑顔で対応するのはお隣さんだけだ。これでこのヒールまで履いたら、完全に決まりだ。セットでのお買い上げ!って結末が見える私が渋っていると、まるで手を組んでるみたいに、お隣さんも乗り気だ。

「そうだよ。履いてみてよ」


 結局2対1でこちらは劣勢となり、お隣さんの選んだ服に全身包まれる。店員が値札を取って、もう一度試着室で着替えを終えて出てくると、お会計を済ませたお隣さんがご満悦の表情で待っていた。

 店を一歩出た途端、私は鞄から財布を取り出した。

「いくらだった?私ちゃんと払うから」

「やめてよ。僕が無理やり着替えさせたんだから、当然だよ」

「そういう訳にいかない。多分、そんな安いお店じゃなかったし」

「着てくれるだけでいいよ。プレゼント。・・・あっ、初めてかな。亜弥さんにプレゼントするの」

「・・・・・・」

納得しない私の顔を見て、お隣さんが足を止めた。

「たまには格好つけさせてよ」

私の胸が急にぎゅっと絞られたみたいに痛む。『たまには』って付けたお隣さんの気持ちを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「・・・ごめんなさい」

するとお隣さんが、またいつもの笑顔を私に向けた。

「なんで謝まるの?亜弥さん、そういうのも似合うよ。凄く素敵。なんか・・・色っぽい」

今まで生きてきた中で、男の人に『色っぽい』なんて形容詞つけられた事ない。変な汗が出そうだ。

「亜弥さんがこんなお洒落してると、こっちのGパンが申し訳なくなるな・・・」

「ほら・・・だから、やり過ぎでしょ?」

「いやいや。亜弥さんはいいよ。凄く似合ってるし、可愛いし」

「じゃ、龍君もどっかで買う?」

「いいよ、いいよ」

「今度は私がプレゼントするから」

「今日はいいや。でもその代り、今度一緒に洋服買いに行こうよ。で、僕に似合いそうなの選んで欲しい」

「わかった」

こうしてると普通のカップルの会話だ。昨日の憂鬱な気持ちなんか忘れてしまいそうだ。


 オープンしたばかりのバーに、お隣さんは花屋で作ってもらったブーケを片手に入る。私はその後に半分身を隠す様に続く。

「おぉ~!来てくれたんだぁ。ありがとう」

大学の先輩というその男性は、お隣さんの来店を偉く喜んでいる。小さな店内は満席で、椅子の無い立ち飲み用のテーブルも、相席状態だ。

「大繁盛で・・・。凄いっすね」

「そうなのよ。招待状出した人達、皆意外と義理堅くて来てくれてんのよ」

「人徳ってやつですね」

「いや~、皆心配してんじゃない?誰も来なかったら可哀想だから行ってやろうって」

その時、真ん中辺りで飲んでいた客が席を立った。

「そうそう。いっぱいになってきたから、安心したところで帰るわ」

二人分の席が空いて、私とお隣さんがその席に自動的に座る事となる。

「何飲む?」

先輩がお隣さんに聞いて、それを私にお隣さんが伝言ゲームの様に伝えた。

「お前も随分出世したなぁ」

「え?!」

笑いながら首を傾げるお隣さんの顔を、面白がる様に先輩が眺める。

「こんな素敵な彼女同伴する様になって」

するとお隣さんの背筋が心なしが伸びた様に見える。

「でしょう?」

「『でしょう?』って言うか?普通。もう少し謙遜しろよ」

「だって自慢したくて連れてきたんだから。いいでしょう?少し位」

二人は冗談交じりの会話を楽しんでいるが、私はさっきから本当に落ち着かない。こういうお酒の席での客商売の男の人の言う事は、信用しない事にしている私には、おべっかや社交辞令にしか聞こえない。それを真に受けて、嬉しそうに自慢気に話すお隣さんが恥ずかしいのだ。だが、こんな素直じゃない私の心を隠す様に、いつもの様に“当たり障りのない笑顔”を浮かべ隣でじっとしている。

注文したハイボール 三つのグラスの縁が合わさる。

「おめでとうございます」

お隣さんの声を追いかける様に、私も控えめにそう祝辞を述べる。

「どこで二人は知り合ったの?」

先輩がお決まりの質問をする。そりゃそうだ。こんな年齢差のある男女が知り合う場所なんて、会社とか限られた場所だ。そうそう無い。だから皆興味があるんだろう。そういえば昨日お母さんにも聞かれたんだった。

お隣さんの答えを聞いた先輩が、目を見開いて驚いている。

「お隣さん同士?!へぇ~。じゃ、いっその事 一緒に住んじゃえばいいのに」

「ははぁ。それが、もう隣じゃないんですよね」

「あれ?やっぱ一緒に?」

からかう様に笑った後で、お隣さんがそれを否定した。

「そんな簡単じゃないですよ。今僕、今年の秋のプロポーズに向けて一心不乱に邁進中ですから」

すると先輩が大きな口を開けて笑った。

「今年プロポーズしますって公言してるの、珍しいわ」

お隣さんは笑って、その言葉を受け流した。

「先輩は結婚、してましたっけ?」

先輩がにこにこしながら首を横に振っている。

「お前と違ってモテないからなぁ、俺は」

「何言ってんですかぁ」

「俺はこの店やる事に、ここ近年は全身全霊を費やしてきたから」

「へぇ、格好良いなぁ」

「お前、仕事はどうなの?前に、営業じゃなくて 取付とかの施工部門に行きたいって言ってたよな?」

「あぁ・・・」

急にお隣さんの言葉が鈍る。

「行けそう?」

「いや・・・。もう営業一筋頑張ろうかなって思ってます」

「そうなの?!」

先輩が驚いた顔をする。お隣さんが浮かべている笑顔が、何故か引っ掛かる。

「もう、いいの?」

「はい」

変わらずに笑顔のお隣さんだが、何故か能面の様に感じる。

「営業の魅力に魅せられた、とか?」

「ま、そんなところですよ」


 帰り道、お隣さんが駅まで歩きながら言う。

「ありがとう。付き合ってくれて。・・・疲れた?」

私は首を振ってから、お隣さんの顔を見て質問した。

「ねぇ。さっき言ってた仕事の事なんだけど、もう営業で頑張るって・・・どうして?」

「・・・どうしてって?だから、さっき言った通りだよ。営業も奥が深いし、ちょっとかじったぐらいじゃ、分からないなって。もっととことんやってみようって思ってるだけ」

何か納得できない物が引っ掛かる。

「工事の方は・・・いいの?」

その一瞬に見せた お隣さんの目の奥の寂しい影が私の胸をつつく。

「それはもっと歳取ってからでいいかなって思ってる」

「・・・・・・」

「ねぇ、それよりさ」

そう言って話題を変えたお隣さんの顔から、どうしても目が離せない。

「今日は、亜弥さん家まで送る」

「え?!いいよ~。龍君このまま帰った方が近いでしょ」

「送らせてよ、たまには」

また『たまには』だ。それを聞いた途端、私の言葉が喉でつかえる。

「まだバイバイしたくないから、一緒に居たい口実」

屈託なく笑うお隣さんが、言いながら握っている手に更に力を込めた。


 短いけれど電車に乗って、再び降り立った私の住む新しい街。マンションまでゆっくりと歩きながら、お隣さんが辺りを見回す。

「こっちでは変な奴いない?」

「うん」

「気を付けてよ。前みたいに もう同じ町じゃないからさ、毎日一緒に帰ったり出来ないし。守ってあげたくても、前みたいな訳にいかないから」

「うん。そうだね」

今度の住まいは駅から五分と近い。今までと比べて、駅からの道のりに物足りなさを感じながら歩く。マンションの前で二人は足を止めた。そしてお隣さんが、私をぎゅっと抱きしめた。さっき『まだバイバイしたくない』と言った気持ちが痛い程伝わってくる。そしてその後、お隣さんが私の唇を奪った。帰り際の挨拶代わりにしては情熱的なそのキスに身を委ねると、私の中で眠っていた細胞が急に揺さぶり起されていく感じを味わう。そうだ。きっと私は、今日一日でお隣さんにプロポーズ宣言をされたり、少しいつもと違う洋服をまとって『色っぽい』なんて言われてみたり、ショットバーでは『こんな素敵な彼女同伴する様になって出世した』なんて言われた言葉に、すっかり気を良くしてしまっているのだ。どれも真に受けていないつもりだったのに、私はいつの間にか どれもこれも馬鹿みたいに鵜呑みにして、すっかり舞い上がってしまっていたんだ。そう思った途端、それまで気持ちをぶつける様なキスをしていたお隣さんの体をそっと離した。しかしお隣さんは、私のおでこに頭をつけて言った。

「家、入れてよ」

私は必死で、さっきの頭の中の冷静な自分を取り戻す。

「今日は・・・ごめんね」

「・・・わかった」

ようやく離れたお隣さんが、笑顔で言った。

「今日は楽しかった。ありがとう」

駅に向かって小さくなっていくお隣さんの背中を眺めながら、私は自分に問う。こうしていつまでも勿体つけていたら、お隣さんみたいに若い子は すぐにどこかへ逃げて行ってしまうのだろうか。いや。それとも、今日みたいな流れに乗って、簡単に体を許してしまったら、ゲームの“ファーストステージクリア”みたいな達成感を味わって、私から離れていってしまうかもしれない。どっちも怖い。どっちも嫌だ。だから、丁度良い頃合いを誰か教えてもらいたい。


そういう時はやはり紅愛だ。

『エンジンふかすだけふかさせておいて、あとはお預けねって。あ~や、そんな事してると、やり場に困った性欲を持て余して、帰りに昔の彼女に会いに行ったりして持ってかれちゃうよ~』

こんな脅かしを受ける。脅かしと分かっているけれど、やはり不安になる。少しだけ家に上げなかった後悔もしたりする。お隣さんという人を信じてはいるけれど、20代の若い男の子の生態に詳しくはない。だから私は一時間程して、お隣さんへ電話を掛けてみるのだ。

呼び出すだけ呼び出して、一向に電話には出ないお隣さんだ。私の不安は疑惑へと移っていく。

『今日はありがとう。楽しかったよ。また来週ね』

そうメッセージを送ってみるが、なかなか既読にはならない。益々落ち着かなくなって、紅愛の言葉が、さっきよりも増して胸に深く突き刺さる。あの時はまだ、まさか~と思っていた気持ちも、あんなに呑気にお隣さんを買い被っていた自分がめでたいとさえ思う。

 暫くしてメッセージの受信音が私の耳に届く。慌ててそれをチェックすると、正に待ちに待ったお隣さんからのメッセージだった。

『こちらこそ。またね。おやすみ』

短い。素っ気ない。嬉しくてホッとした筈の気持ちが一瞬で消え、私の妄想が暴走し始める。この位の短いメッセージなら、例え誰かと共に過ごしていても、一瞬の隙に送れる。私は気が付くと、通話ボタンを押していた。・・・どうか出て、お願い。すると、私の必死の思いを裏切る様な、のんびりとしたお隣さんの声がする。

「どうしたの?」

「どうって・・・もう家?」

私の心臓がドキドキいってる。これは私がほんの一瞬でもお隣さんを疑った事を隠す為の緊張だろうか?それとも、どんな答えが返ってくるか分からないドキドキだろうか。

「そうだよ」

「何時頃・・・着いた?」

私はイヤらしい奴だ。まだ確認しようとしている。

「何時だったかな・・・。帰ってきて風呂入って今テレビつけたとこだから・・・1時間位前かな」

何でそんな事を聞くのか、お隣さんは質問しない。疑われているなんて、きっとこれっぽっちも思っていないのだろう。

「声聞きたくなっちゃったの?」

冗談っぽく笑いながら、こんな事を言ってきたりする。

「ううん。ごめんね」

「ううんって。違うんか~い!」

軽快なツッコミでお隣さんが自分で笑う。だから私も、さっきまでの罪滅ぼしを込めて笑う。

「ほんと、ごめんね」

「何で謝るの?寂しくなっちゃった?可愛いね、亜弥さん」

「違うの、違うの。ごめんね」

「またまたぁ~、照れてぇ。そういう亜弥さんも、大好きだよ」

私は、さっき一瞬でも疑った自分を心の底から反省するのだった。

「ねぇねぇ、4chつけてみて。めっちゃ面白いから」

私は言われるままにテレビをつける。電話越しに同じテレビを見て笑う。今夜も、そんな平和な一日が終わろうとしていた。


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