第14話
14.
新年、仕事始めからまだ一週間程しか経っていない頃、日本中に大寒波が押し寄せる。三日位前からどこの天気予報でも『今日は夕方から大雪。深夜にかけて積もる』と盛んに口を揃えて注意喚起している。確かに今朝の気温は氷点下だ。都内に暮らして長いけれど、こんな寒さ、そうそうない。今日の私は、底の溝の深いブーツを履いて出勤する。
昼休みを迎える前に、小林が窓の外を指差した。
「あっ!降り出してます!」
皆が次々と窓際に集まって外を眺めた。予報よりも早くに降り出した雪に『初雪だ』とはしゃぐ若い女子社員。それに対して、
「帰りの電車、大丈夫かなぁ」
と心配する男性社員達。反応は様々だ。
昼を過ぎると外は一気に雪景色と化し、午後3時には退社を促す連絡が回ってくる。
「寄り道しないで帰るんだぞ」
平日に思いがけなく早く仕事が終わった若手の社員は、妙にウキウキしているのを見て、浅見がそう声を掛けた。
「だって初雪ですよ~。韓国では初雪の日に大切な人とデートするんですよ~」
「何で会社が強制退社掛けたか分かってないだろう?交通機関に影響が出始めたら帰宅困難者になっちゃうからだぞ」
「言うても、都内だし何とかなるっしょ?」
若者同士顔を合わせてあはははと笑っている。
「雪なめてると、えらい目に遭うぞ」
「は~い」
その横で高橋ら男性社員がボソッとぼやく。
「初雪デートとか、ここ韓国じゃね~し」
何だかんだ言いながら、総務課の若手社員はあっという間に退社していった。こういう時は、本当に早い。大方居なくなった部屋の中で、課長もそわそわ浅見の様子を窺う。
「私も自宅までバスの所があって気になりますので、これで・・・」
「あ、どうぞどうぞ。私ももう帰りますから」
浅見が返事を返す。そして私にも声を掛けた。
「竹下さんもそれ位にして、帰った方がいいよ。明日また皆でやればいいよ」
信濃町の駅ではもう既に人が溢れ始めていた。浅見となんとか新宿まで出て来るが、思った以上に駅が人の山でごった返していて、入場規制も掛かっている。
「凄いですね・・・」
「もしかすると、本当に家に帰れるの深夜になっちゃうかもよ」
「まぁ・・・帰れればいいです」
そんな話をしていても、やはり一人とは違って心強い。
私の乗る京王線がなかなか改札にも入れそうな雰囲気が無い事を察して、浅見が頭をひねる。
「小田急線で近い所まで行けそう?それともバスか・・・。ま、道路の方がかえって危険かな」
私は、浅見の提案に一旦乗っかってみる事にした。
駅構内はどこも人で溢れかえっていて、床も外から靴や傘に付いて持ち込まれた雪が解けてびしょびしょで滑りやすくなっている。バス発着所に向かう途中の小田急線改札の近くで、浅見が駅係員の方を指差した。
「ちょっと聞いてくるから、この辺で待ってて」
言われた場所にじっとしているのも、意外に難しい程混雑している。皆帰りたくてうずうずしている。さっきの京王線の混雑とさほど変わらない様子に、私は期待をするのをやめて 浅見が戻って来るのをじっと待った。あちこちから色んなアナウンスが飛び交い、電車を待つ人達の熱気と会話の数値が 一段と高い。その中で焦点が合った先には、数カ月前に会ったきりになっていたお隣さんが立っているではないか。凍り付く様に 何かで固められたみたいに身動きを失った私を、お隣さんもじっと見ていた。今更どんな顔して会えばいいんだろう。気が付いた時には、私はぺこっと頭だけ下げて目を逸らした。人の動きに阻まれて お隣さんの姿を見失うが、内心ほっとしている薄情な自分がいる。
「こんばんは」
人混みに紛れて見えなくなっていた筈のお隣さんが、今目の前で立っている。
「あ・・・こんばんは」
「小田急線ですか?」
そうだ。私は引っ越し先を伝えていなかったんだ。
「いえ・・・向こうも凄い人で改札入れそうもなかったんで・・・」
「・・・向こう?・・・JRですか?」
「いえ・・・京王線が・・・」
絶対『京王線の方に引っ越したんですね』って言われるのを予測して、私は一言も言わずに越していった事に話題がいくのに怯える様に、下を向いた。
しかしお隣さんの言葉は違っていた。
「京王線もいっぱいでしたかぁ。今日はどこもこんな感じですかね」
「・・・ですかね」
そこで話が途切れると、私はまた落ち着かない気持ちになる。
「新宿駅にいるなんて・・・外回りでしたか?」
「はい」
せっかく絞り出した会話も、呆気なく終わっていく。周りの慌ただしさと雑踏とアナウンスのお陰で、無音にならない事に多少救われる。
そこへ浅見が戻って来る。
「こっちも似た様なもんだな。あとはバスに流れてる人も多いみたいだね。ただ大分積もってきてるから、道路事情がどうなるか・・・」
そこまで言いかけて、浅見がお隣さんの存在に気付く。
「お知り合い?」
私にそう聞くから、慌てて口が上手く回らない。
「あ、はい・・・あの・・・」
すると浅見は、お隣さんの方へ顔を向けた。
「会社早くに出てきたってこれですからね。もう今日は諦めて新宿で泊る所探そうかな」
「え?部長、帰らないんですか?」
「ビジネスホテルでもサウナでも、今ならまだ どっか空いてるでしょ」
そう言って腕時計をチラッと見てから、再び私の方へ顔を向けた。
「竹下さんは?どうする?」
「え?!」
「バスも見に行ってみる?行くなら付き合うし・・・それとも・・・」
私が答えるより先に、お隣さんが口が開いた。
「僕が・・・」
「え・・・?いや、一人で全然大丈夫です。もうそれなりに いい大人ですから」
「まぁ、そう言わずにエスコートしてもらったら?」
浅見が笑顔を私に向けた。それでも私が『はい』と言わないから、浅見がお隣さんに会釈をした。
「じゃ、私はここで。竹下さんも気を付けて帰ってね。じゃ、お疲れさん」
ここに私を置いていかないで・・・そんな気持ちで浅見の後ろ姿を眺めていると、お隣さんが言った。
「じゃ、行ってみますか?バス停」
そう言って動き出そうとしているお隣さんに、私は言葉を絞り出した。
「ここで並んでた方がいいですよ、きっと。私も向こうに戻ってみますから」
お隣さんの目の奥に悲しい色が落ちた事くらい、空気に敏感な私が気が付かない筈がない。だけど、ここはそんな感情に蓋をする。
「部長さんにも頼まれたし、一緒に改札まで行きますよ」
人でごった返している駅構内を歩きながら、度々私とはぐれていないか気に掛けてくれているのが分かる。何だか久々に胸が苦しい。
「引っ越しの荷物とか、もう片付きました?」
「・・・はい」
「土地には・・・もう慣れました?」
「まぁ・・・はい」
「美味しいお弁当屋さんとか、ご飯屋さんとか、見付かりましたか?」
「・・・いえ・・・」
「へぇ~。じゃ、ほぼ自炊ですか?それともコンビニとか?」
なるべく明るく話してくれているのが分かる。だから私も 気まずさをぐっと堪えて必死で笑顔を作る。
その時向かい側から歩いてくる人ごみの中に、小林や石川真凛ら3人がいる。
「亜弥さ~ん」
「あれ?まだ新宿にいたの?」
「飲み行ってましたぁ」
石川がピースしてみせる。すると小林が言った。
「自分が彼氏とデートの約束できなかったからって、ついでに誘われたんですよ、うちら」
すると、石川がお隣さんをちらっと見上げて言った。
「亜弥さんは、彼氏とデート出来て良かったですね」
「いや、違うの。そういうんじゃなくて、バッタリ会って・・・」
「え~、バッタリなんて、余計ロマンチックじゃないですかぁ!初雪の日にぃ!いいなぁ、亜弥さん」
私がさっきからどれだけ気まずさを押し殺して過ごしていたかなんて、お構いなしだ。皆のニヤニヤが私とお隣さんへ注がれる。
「亜弥さん、彼氏さん紹介して下さいよ」
私はさっきよりも大きな声で言った。
「だから、そんなんじゃないから」
「だって、写真の、あの彼ですよね?」
「あ・・・いや・・・だから、その・・・」
こういうのをしどろもどろと言うのだろう。典型的な慌て方をする私の横で、お隣さんが口を開いた。
「亜弥さんの、会社の方達ですか?」
「あ・・・はい。同じ総務の子達です」
「どうも~」
「初めまして~」
後輩達はテンションの高い挨拶をした。その中からすかさず私に質問が飛ぶ。
「亜弥さん、お家どこですか?」
「あ・・・えっと・・・ここからは京王線で・・・」
「京王線で?」
「で・・・少し行った所」
私は曖昧にして、その話題をすぐに切り上げる言葉を探した。
「皆も早くしないと帰れなくなっちゃうよ。気を付けてね」
「は~い」
こちらの危機感は伝わっていないと感じる相槌が聞こえた後で、すぐさま石川が自分達の今来た方向を指差した。
「あ!そこ出た所の景色、めっちゃ綺麗だったんで、見てって下さい。せっかくの初雪デートにぴったりの雪景色でしたぁ」
嵐の様に去って行った後輩達に手を振った後、私はお隣さんに頭を下げた。
「すみません・・・皆勝手な事言って」
「いえ。僕は大丈夫ですよ」
京王線の改札に向かう途中、お隣さんが外を見ながら言った。
「それにしても、凄い雪ですね」
「そうですね」
「せっかくだから・・・さっき言ってた雪景色、ちょっとだけ見てみませんか?」
傘を差すと、そこに当たる雪がカサカサ音を立てる。人の流れの無い所でお隣さんが立ち止まるから、私は傘をずらして空を見上げた。頬に落ちてくる雪が冷たい。サザンテラスのイルミネーションと真っ白に染められた世界に、私は新宿に居る事すら忘れてしまいそうになる。
「見事ですね。いつもの新宿じゃないみたいだ」
「そうですね」
私は少し雰囲気に流されて、ロマンチックな気持ちになるのを必死で抑える。お隣さんは、ゆっくり私の方へ顔を向けた。
「またこうして亜弥さんと並んで歩けるなんて、思ってなかったです」
「すみません」
「いえ。僕の方こそ、謝りたいって思ってました」
私は思わずお隣さんの方を向いた。だって、謝るって、意味が分からなかったから。
「亜弥さんに気持ちを押し付けすぎて、断りづらくさせましたよね?」
「いえ・・・全然そんなんじゃないです。ただ私が・・・」
そこまで言って、言葉が詰まる。だって、どう説明したらいいか分からない。
「挨拶もなしに引っ越してしまった事、本当に失礼しました」
「いえ・・・」
お隣さんの瞳にまた影が落ちる。
「あんな不義理をしておいて、会わせる顔ないなって思ってました。だから連絡もしづらくて・・・」
お隣さんからはとうとう相槌も聞こえなくなってしまった。
京王線の改札に辿り着いて、遅延と入場規制の為 構内は人の山だ。
「ここで並んでみます。わざわざありがとうございました。・・・今から小田急線・・・乗れればいいですけど・・・大丈夫ですか?」
お隣さんは、ぱっと顔を上げた。
「僕の事は、隣人でしかなかったって事ですよね?」
唐突にさっきの話題に戻るから、私は返事をし損なう。
「だから、隣人でなくなった今、亜弥さんと僕は、何の関係もない人って事・・・ですかね?」
唐突だったから返事が出来なかったんじゃない。自分の気持ちを偽り続けているから、すぐに素直な言葉が隠れてしまうんだ。嘘を白状するのはそれなりの勇気がいる。だから、嘘に嘘の上塗りをする方が楽だ。
「去年は、凄く楽しい思い出、沢山頂きました」
私はいつもの様にそれっぽい笑顔でそう言うと、頭を下げた。そして『じゃ』と言おうとしたところで、お隣さんの言葉が私の胸を突き刺した。
「また年下の若造と恋愛ごっこ楽しもうって思ったら、連絡下さい」
全身が硬直して、脳みそまで凍結して、霜で頭が真っ白になった私の口からは、当然何も出て来ない。ただじっとお隣さんの顔を見つめるだけだ。そして私が言おうとしていた『じゃあ』をお隣さんが言うと、軽くお辞儀をして私の前から去って行った。
一体・・・どういう意味だろう。去年お隣さんが私に優しくしてくれてたのは、やっぱり私をからかってたって事?“恋愛ごっこ”?・・・あのお隣さんの口から あんな言葉を聞くなんて・・・。私の知ってるお隣さんは、そんな事を言う様な人じゃない。だけど・・・私、やっぱり男の人を見る目がないんだ。とっても優しい人だと思って付き合った前の彼だって、最後は本当に同じ人かと疑ってしまう程冷たい人になってしまったし、お隣さんだってそうだ。あんなに優しくて、むしろ私を傷付ける言葉から守ってくれる様な人だと思っていたのに・・・。そんな混乱した頭の中に、妙子が出てきて私を慰める。
『ほ~らね。やっぱ言ってた通り。若くてそこそこモテそうな男が、40近い女 相手にする訳ないって言ったでしょう?大怪我する前に離れといて正解だったんだよ』
時に人は、自分に都合良く残像を作り上げる。妙子がそんな事言ってるんじゃない。こう言ってくれそうな人を記憶から引っ張り出して、自分の思ってる事を頭の中で勝手に喋らせる。言い換えれば、妄想でしかない。確かに妙子はあまり賛成はしていなかったけれど・・・。その時私の頭の中で、遠い記憶が蘇る。“恋愛ごっこ”・・・どっかで聞いた響きだ。さっきお隣さんの口から聞いたのが初めてじゃない。じゃ、一体どこでだろう・・・?色んな記憶の糸がせわしなく動き回る。今この駅の様だ。
「すみません!」
後ろからドスンとぶつかってきた人が手に持っていた袋が床に落ちて、中からは割れてしまった小さなサボテンの鉢が少しの土と飛び出した。すぐに拾い上げなければ踏んづけられてしまいそうな人混みだから、私は思わずしゃがんでそれを拾った。
「あ、ありがとうございます」
20代のその女性は恐縮して頭を何度も下げている。
「割れちゃいましたね・・・」
それを見た瞬間、私は思い出す。引っ越す前にサボテンに水をあげながら妙子と電話で話していた時の記憶を。そしてその時私は言ったんだ。
『久し振りの恋愛ごっこを楽しんでみたってだけ』
私の中でさっきの何倍もの鉢の割れる様な音が鳴り響く。自分が言った言葉だったなんて。しかもそれをお隣さんが知っているという事は、あの時あの言葉を聞いてしまったという事だ。さっき私がお隣さんの口から聞いた衝撃より それ以上の侮辱で、私は彼を傷付けていたなんて・・・。
気が付いたら私は、人ごみを縫う様に走っている。さっき来た道を戻る様に。こんな風に時間も巻き戻せたらいいのに。そしたら私は、あの時に戻って・・・戻って、どうするんだろう?窓を閉める?それとも・・・妙子に勇気を出して正直に『彼の事を好きになりかけてる』と打ち明けるんだろうか。
小田急線の改札付近に辿り着くが、こんな混雑した中で、彼を見つけられる筈なんかない。でも、どうしても会って謝りたい。あれは本当の気持ちじゃなかったって。今更軽蔑された事を撤回してもらえるなんて思ってない。ただ、傷付けてしまった事を、心から謝りたいだけだ。
サラリーマンやOLで溢れかえる構内にお隣さんを探し出すなんて、きっと“ウォ―リーを探せ”よりも難しい。だけど私は一人一人の顔をしらみつぶしに確認していく。きっとまだ電車には乗れていないだろうから、この中に居る筈。居る筈だから・・・どうかさっきみたいな偶然で、出会わせてくれないだろうか。そう願う頭の片隅で、そんなに都合よくいかないともう一人の自分が囁いている。だってさっきの偶然には喜ばなかったくせに、今度は偶然会えないか・・・なんて、誰が聞いたって虫が良すぎる話だ。それに、小田急線も改札は一つじゃない。私は肩を落として、何度も何度も見回した改札付近から離れた。ついさっきお隣さんと訪れたサザンテラスに寄り道をしてみる。一瞬だけだけど、乙女チックな感情が沸き起こった自分が、今は隣が寂しいと感じている。
ぼんやりとした頭が急に目を覚ました様に、私の視線が数十メートル先の男の人の後ろ姿に釘付けとなる。きっとあれはお隣さんだ!気が付いた時には、もう私は夢中で走り出していた。雪が積もっているのだから、さっきまで滑らない様に気を付けてゆっくりと歩いていたのが嘘の様だ。何とかその男の人に追いついて、私は後ろから腕をガシッと掴んだ。
「待って下さい!」
そうは言ったものの 息が切れてしまって、私はその人の腕だけ掴んだまま 暫くかがんで呼吸を整えた。その途端、急に正気に戻った私の頭の中は、人違いだったらどうしようという不安でいっぱいになる。とりあえず急いで腕を離して、恐る恐る顔を上げた。
「ごめんなさい」
まずは謝ろう。謝っとけば間違いない。そんな行き当たりばったりの私、本当にどうかしている。振り返って立ち止まる男性の顔を見ると、やはりそれはお隣さんだった。
「どうしたんですか?!」
困惑顔だ。当然だけど。
「ごめんなさい」
「・・・・・・」
「誤解なんです」
黙っているところを見ると、その後の私の言い訳を聞いてくれるつもりなんだと思う。
「いや・・・誤解っていうか・・・そういう意味じゃなくて・・・。う~ん・・・何て言ったらいいか・・・」
「・・・何の事ですか?」
「さっきの・・・です。さっき言ってた・・・」
もう一度“あの”フレーズを口にする勇気はない。
「さっき・・・?」
やっぱり伝わらないか・・・。私は鼻から冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、小さい声で口にした。
「恋愛ごっこを楽しんでるっていう・・・」
その言葉を聞いた途端、お隣さんの表情が一変したから、私は腰を90度折って、謝った。
「ごめんなさい!あれは・・・何ていうか・・・友達の手前・・・心にもない事を言いました」
「・・・・・・」
お隣さんは黙っている。だから私は体勢を戻して、ちらっとお隣さんの顔を見てみる。まだ表情は強張ったままだ。
「本当、私って・・・そういうとこあるんです。ずるいっていうか・・・卑怯っていうか・・・」
「僕がそれ聞いて、あぁそうだったんですかって言うと思います?」
「そうですね・・・。仰る通りです。だけど・・・酷い言葉で傷つけてしまった事は謝りたくて・・・。今更ですけど・・・私・・・好きになりかけてたと思います。それなのに・・・冷静になれって忠告してくれた友達に、自分の気持ち言い切れなくて・・・」
「だから、友達に説得されて、黙って居なくなったんですか?」
「違います!それは・・・違います。説得は、されてません。自分で・・・決めた事です」
「どうしてですか?」
「だって・・・もし私なんかと付き合う事になったら・・・きっと物好きだって笑われます」
「笑われませんよ」
「笑われますよ。だって実際・・・言われてました」
「誰にですか?」
「・・・お友達・・・かな?」
「僕の?」
「はい」
お隣さんは首をひねる。
「隠さなくても平気です。私、ちゃんと自覚してるつもりですから」
私は勘違いなんかしない“わきまえた大人”だと、自分に言い聞かせる。しかしお隣さんは引かない。
「本当に、一回も亜弥さんの事、そんな風に言われた事ないです」
だから私はもう少し具体的なヒントを差し出してみる事にする。
「お家に遊びに来てたお友達に、『俺には理解できない』って言われてませんでした?『そういう趣味があったとはなぁ』って」
暫くして、お隣さんが急に目を見開いた。
「多分それ・・・電車と競争して走る僕の練習方法の事でしょ?」
「電車と競争・・・?」
「そう。線路沿いを延々とジョギングして、電車が来たらそれに負けない様にダッシュする。そうやってよくトレーニングしてたって話。友達に話すと、大抵『物好きだ』とか『理解できねぇ』って言われるから」
笑っちゃう。ベランダで聞こえてしまったほんの僅かの会話の欠片を、勝手に自分の事だと勘違いしていたなんて。私が呆れてふっと笑うと、お隣さんの顔もほぐれた。そして真上を指差した。
「見て下さい。雪・・・どんどん凄くなる」
「ほんとだ・・・」
言い終える前に、見上げた私の唇をお隣さんが塞いだ。
一瞬じゃない。意外と長い時間私の口が不自由だったから、頭の中がもう大変な事になっていて・・・初めは疑問符で、そのうち顔が真っ赤になる様な恥ずかしさと胸が高鳴る感じ、そして最後には、この後どうなってしまうんだろうという不安に似た期待が、押し寄せる波の様に寄せては返していた。
唇が離れた途端、私は思わず吹き出してしまう。
「笑います?このタイミングで」
「だって・・・やっぱり“物好き”だなって」
お隣さんがゲラゲラと笑うから、私も一緒になって笑った。すると、さっきまで周りの目が気になっていた自分は、もうどこかへ居なくなっていた。
「手・・・繋ぎませんか?」
そっと右手を出すと、お隣さんの以外にも大きい手に触れる。すかさず恋人繋ぎにして指を絡めてくる肉食っぽさに、私の心臓は ここ最近では最高の脈拍数を叩き出している。
「これって・・・」
私が遠慮気味に質問しようとすると、お隣さんはそんな私を面白がる様に言った。
「はい。そういう事です」
「・・・そういう事って・・・」
「男と女がキスして、手繋いで・・・。そういう事って、他にどういう事があります?」
「ですよね・・・」
「ですね」
「あっ!だとしたら、もう一つ、訂正しなくちゃならない事があります」
「何ですか?」
「えっと・・・恋愛も結婚も、もう一切真剣に考えてないって言ったの・・・あれ・・・」
そこまで言うと、お隣さんは優しく私を抱き寄せた。
「言わなくても、分かってます」
何故かその一言で、私の肩の力が嘘の様に抜けていく。全部説明しなくても分かってくれる人。一から十まで話さなくても分かり合える関係。私・・・この人が大好きだ。そんな気持ちが体中に溢れてきて、私のみぞおちの辺りを熱くする。もう一度 お隣さんの顔を見たら、それまでの緊張がほどけて 思わずふふっと笑いが漏れた。
「おかしいですか?」
「はい・・・私が道端でこんな事してるの・・・」
「じゃ・・・せっかくだから、もう少しこうしてましょう」
「はい」
可愛い。愛しい。そんな温かい感情が私の心を緩めていくと、同時に笑みも零れる。お互い目が合って、照れくさくて笑ったりすると、恋愛に年齢なんか関係ないんだって分かる。今まで高くて超えるのを恐れていたハードルが、極々低いちょっとした段差にしか見えない。不思議なものだ。
どこに向かっているかは、正直完全に舞い上がっていて分かっていないけれど、歩きながらお隣さんが言った。
「前にお詣りした縁結びの神様、ご利益ありましたね」
嬉しそうに笑いながらこっちを見て、手にぎゅっと力を込めた。
「このまま帰っちゃうの、もったいない気持ちになりません?」
本当はすぐに頷きたい位、同感だ。だけどこんなに雪が降りしきっているんだもの。帰れなくなったら大変だ。・・・ん?もしかして・・・そういう事を期待して打診してるんだろうか?
「亜弥さん家、京王線でここから何分位ですか?」
「うち?!」
まさか・・・うちに来る気?私が固まっていたからだろうか。お隣さんが優しい笑顔を向けた。
「今度、遊びに行ってもいいですか?」
この笑顔に私はいつも救われている。
「お腹、空いてません?」
そう言われて初めて、空腹を実感し始める。
「・・・空いてるけど・・・」
「何食べたいですか?」
私は慌てて足を止めた。
「待って。今日は・・・早くに駅に行かないと帰れなくなっちゃうと思うから・・・」
お隣さんは次々と舞い落ちる真っ白い雪を仰ぎ見ながら言った。
「帰れなくなったら・・・まずいですか?」
「・・・え・・・」
こういう時、年上の余裕を見せたいのに、私ったら完全にテンパっているのが分かる様な上ずった声を漏らしている。
「今日は・・・帰ろうよ・・・」
思い切ってそう言うと、お隣さんの鋭い眼差しが私を捕らえた。
「じゃ、今日は、帰ります」
「付き合ってその日にホテルに誘ってくるなんて、なかなかやるねぇ、その平成ボーイ」
「ま、ホテルに誘われたって訳でもないんだけど・・・」
「同じでしょう!言い方違うだけで」
電話の相手は紅愛だ。
「最近じゃ そういう肉食系、あんま見ないから 却って男らしく感じるわ」
少し楽しんでいる様にも感じる。更には、こんな事まで言いだす。
「でもそういうのも有りかもよ。正直歳も歳だしさ。のんびり恋愛してる内に、出産のリミット過ぎちゃうかもしれないじゃない?それなら、とっとと相手の色んな所見て、可能性有りか無しか、白黒はっきりさせるのも手だわな」
「・・・・・・」
「まぁまぁ、付き合う事になりましたって日に話す事でもないか。まぁ今しばらくは、恋愛の一番おいしい部分にどっぷり浸ったらいいわよ」