第13話
13.
『夕方、伺います』
と昨夜返事した事を、私は今更後悔している。昨日は、朝じゃ気持ちの準備に時間が足りない・・・だからって夜というのも迷惑だ。そんな消去法と私のいつもの先延ばしにする性格が、“夕方”と指定してしまったのだけど、それまで落ち着かない時間がいかに長いかが盲点だった。時々隣の部屋からコトッと物音がする度に、私の心臓が跳ね上がる。引っ越しの為の荷造りなんて、とてもとても手に付かない。
そこへピンポ~ンと軽快なチャイムが、どうにもならない空気に割って入った。
警戒心丸出しで、遠巻きにモニターを睨む。夕方まで待ち切れなかったお隣さんが、訪ねてきたらどうしよう・・・。
しかし、そんな猜疑心は見事に裏切られて、モニターには宅配業者が映っていた。
届いた荷物は父からの野菜だった。いつもの様に、一人暮らしの所に送ってくる量じゃない程の愛らしい野菜達が、段ボールの中から顔を覗かせる。まるで、これを口実に、早くお隣さんの所に行っといでと背中を押されているみたいだ。
とはいえ、野菜のお礼の電話を実家に入れたり、それからお隣さん用に取り分けた分を袋に入れて、入念に身支度を整えて、自分の気持ちに覚悟をつける迄時間が掛かり、結局腰を上げたのは 夕方5時を回っていた。
深呼吸を何回したって変わらないのに、何度も何度もこれ以上吸えないって位息を吸って、指先に力を込めてお隣のインターホンを押す。
インターホン越しに『竹下です』と答える準備をしていると、いきなりドアがガチャッと開いた。
「こんにちは」
優しい笑顔が出迎える。
「あっ、これ・・・実家からまた送ってきて。良かったら、どうぞ」
「お父さんの手作りの野菜ですか?」
「はい。ま、そんな大して珍しい物でもないですけど」
お隣さんは 私の話を聞きながら、早速袋の中身を笑顔で覗いてみる。
「あっ、いい匂い。畑の・・・なんか懐かしい匂いがします」
嬉しそうにするお隣さんが呑気に見えてしまう程、私の心臓は 実は大変な事になっている。
「夕方来るって・・・この事でした?」
お隣さんからは当然の質問だ。私にしたら、ゴングが鳴った様なものだ。しかし『付き合って下さい』と自分から言われなければならないという、かなり高いハードルが立ちはだかっているのだ。だから私は思わず、
「あ・・・はい」
なんて答えてしまっている。すると、お隣さんが助け舟を出した。
「亜弥さん、ちょっとだけ 近くに散歩に出ませんか?」
マンションの裏手にある遊歩道を歩きながら、道端に咲くコスモスが時々揺れるのを見てお隣さんが言った。
「コスモス見ると、あぁ~秋だなって実感しますね」
「私、コスモス一番好きです」
こんな風に、お隣さんにも 自分の気持ちを伝えられたらいいのに・・・と思う私だ。
「字も素敵ですよね?秋の桜なんて」
「ですよね。私この葉っぱも好きなんです。畑に植わってる人参の葉っぱとか。似てますよね?分かります?何ていうかな・・・線香花火っぽいっていうか・・・」
お隣さんも合わせて話題に乗ってきてくれる。だけど、20代の若い男の子には こんな花の話題、退屈だろうな・・・。そんな事がふと頭をよぎる。そうなると、もう会話を続ける力はどこかへ行ってしまう。せっかくお隣さんが緊張をほぐしてくれてるというのに・・・。
「ごめんなさい。つまらない話しちゃって」
「つまらなくないですよ。亜弥さんの好きな物知れるし、何話してても楽しいです」
今の若い子は、こういう事をサラッと言える。・・・いや、“今の若い子”なんていう括り自体、偏見や先入観の塊だ。『若い者は自分の欲求を満たすのが最優先の幼稚な生き物』と言った妙子と、さほど変わりはないのかもしれない。
「亜弥さんは、どの季節が一番好きですか?」
お隣さんが、変わらない調子で会話を続けた。
「秋です。龍君は?」
「僕は夏かな」
「もしかして、夏生まれですか?」
すると、お隣さんの顔がぱぁっと明るくなった。
「え?!分かります?」
「自分の生まれた季節を一番好む人が多いって聞いて事あります。ま、皆が皆じゃないでしょうけど」
「じゃあ、亜弥さんは秋生まれですか?」
「・・・はい」
正直、ちょっと気が引ける。誕生日の話題は年齢と直結してる様に感じて、あまり触れて欲しくはないって、無意識の内に思ってるんだと思う。だけど、そんな感覚、当然お隣さんにはない。
「何月ですか?」
「・・・11月です」
「その時・・・一緒に居たいです」
『私もです』って言えば、スマートだ。それに付け足してにっこりはにかむ様に笑ったりしたら、尚の事ぐっと盛り上がったりするのかもしれない。それは分かるけれど・・・どうしても『私も』の『わ』が出ない。
かなり困った顔をしていたのだろう。お隣さんは、その場に出来た妙な間をすくい上げる様に、
「あっ、そうだ!」
と言った。
「さっきの野菜の美味しい食べ方、聞いとかなくちゃ」
結局言えなかった・・・私の思いきりの悪さと、先延ばしにする悪い癖が、いつも私を俯きながら生きてく人間にしていく。
しかし、きっとこの後も私がここに居る間は、多分何回だってチャンスは巡ってくる筈だ。そう自分を慰めて、私は 現実から逃避する様にテレビをつけた。
終業時間を過ぎ、今日は珍しく浅見が一番に席を立つ。
「お先~。お疲れさん」
「お疲れ様でした」
皆が口々に言った後、課長も席を立った。
「じゃ、私も今日はこれで」
「お疲れ様でした」
課長も部下も居なくなった総務課で、黙々とパソコンのキーを叩く音だけがカチカチ飛び交う。
そんな時、デスクの上の電話がメッセージを着信して震えた。お隣さんからだ。
『お疲れ様です。今日お客さんとのアポが8時に入っちゃって、一緒に帰れなくなりました。僕から誘っておきながら、すみません』
ちょっとがっかりだ。でも、連絡が来ただけで嬉しいから、ちょっと複雑な表情をしていると、向かい側のデスクの小林が身を乗り出して、声を少し潜めた。
「部長からですか?」
「え?!」
「これから待ち合わせですか?」
「ううん。約束が無しに・・・」
携帯に気を取られていて、ついうっかり説明しかけてしまったけれど、何やら嫌な予感がして、はたと気付く。
「え?何の話・・・?」
しかし、そんな事今更言っても もう遅い。小林のニヤニヤが止まらない。
「時間差で会社出るなんて、なかなか警戒してますねぇ~」
「え?・・・何が?」
「部長とですよ~。さっきも廊下で楽しそうにきゃっきゃ話してるの見ちゃいました。ごめんなさい」
「いやいやいやいや・・・。待って待って。前も言ったけど、全然そんなんじゃないからぁ~」
気が付くと、小林とのコソコソのやり取りを 周りの皆が注目している。
「いや、待って。本当、違うから」
すると高橋恭平が悪ノリして声を発した。
「秘密の事してる時って、妙にテンション上がりますよね」
小さいけれど、笑いの波が一回押し寄せる。
「秘密の事って・・・」
悲しい事に、私の声なんか誰も聞いてはいない。すると石川真凛が身を乗り出す様にして私に言った。
「課長じゃときめかないけど、浅見部長なら大人の男って感じで、フラッとしちゃいますよね~。私は分かります、亜弥さんの気持ち」
「私も賛成派!」
小林が笑顔で手を挙げている。いつしか話題の中心になっている事への困惑と、完全なる誤解を解かなきゃと気持ちは逸る。しかし、私の割り込む隙が無い程、皆の会話があちこちと飛び交っている。
「部長って生活感が無いのが素敵」
「私生活が謎な所が、余計惹かれるわぁ~」
「仕事も出来る、女にもモテる。見た目もそこそこカッコ良くて、なんかスマート過ぎんだよな~」
初めは誤解を解く事で頭がいっぱいだったけれど、皆の率直な感想を聞いている内に、ちょっと気持ちが変わってくる。
「亜弥さんは、どんな所に一番惚れたんですか?」
そんな直球の質問が投げ込まれたお陰で、私も発言権を得る。
「皆には申し訳ないけど、部長と私、本当に何でもないから。私、今好きな人いるし」
一瞬にして、総務課の中がし~んとなる。だからチャンスとばかりに、私は話を続けた。
「私何度か部長とお食事ご一緒させて頂いたけど、確かに格好良いかもしれないけど、生活感がないとか、女にモテるとか、そういったイメージとは 正直ちょっと違うかもよ。話してみると、もっと人間味の溢れた人だと思うの。だから、皆も部長がここから転属になる前に、一度でもいいから、しっかり接点を持ってもらいたいと思う。一言一言、勉強になるから」
すっかり外野が静かになっている。言い換えれば、引いているとでも言えるのかもしれない。
「仕事の後まで職場の人に拘束されたくない気持ち、わかるんだけど・・・そこを1月迄は脇に置いて、部長ともっと話してもらいたいと思う。何でも聞いて下さるし、懐が深いから、大抵の事は受け止めた後で、しっかり解決策を考えて下さるから。じゃないと、せっかくなのに勿体ないと思う」
私の言葉に対して、誰も何も発しない。しかし、暫くして石川が口を開いた。
「なんで部長、ここに配属になったか聞いてますか」
「聞いても・・・はっきりとは仰らなかった」
するとそれを聞いて、石川が言った。
「私、以前にうちの人事課の友達に、ちょっと課長の飲みの誘いの愚痴をこぼしたんです。そしたら少しして浅見部長がいらして」
「確かに、部長が来てから、めっきり課長大人しくなった」
高橋が確信犯と言った顔で発言する。
「え~?!じゃ、部長が居なくなっちゃったら、また元の課長に戻っちゃいますかね?」
小林の顔が急に曇る。
「そんな事はないと思う。そういう任務で来られてるんなら、きっときちんと課長ともお話なさってるだろうし」
私がそう言うと、向かい側から小林が言った。
「絶大なる信頼ですね、部長の事」
はっとして皆の顔を見ると、一度疑りの覚めた顔から、再びやっぱり・・・といった表情に陰りつつあるのを感じると、丁度良いタイミングで小林がツッコミを入れる。
「亜弥さんの好きな人って、どんな人ですか?」
どんな・・・?難しい質問だ。この若者達は、どんな説明を望んでいるのだろう。困っていると、小林が更にグイグイ踏み込んでくる。
「写真あったら、見せて下さい」
「写真・・・?」
写真ならある。確かにある。初めてデートに行った時にお茶屋さんでも撮ったし、二回目のデートでは 滝をバックに撮ったから。だけど会社の人に自分のプライベートを見せるのにはかなりの抵抗がある。
私が戸惑っている間に、し~んとした空気が立ち込めて、もしかして『好きな人がいる』というのも、部長との仲を誤解されない為の嘘だったんじゃないか・・・といった顔が幾つも私の目に飛び込んできた。だから私は携帯を手に取って、アルバムを開いた。
気が付くと、私のデスクの周りに若い子達が集まって来ていて、その写真のお披露目を今か今かと待ち構えている。
時の人が記者会見場に現れた瞬間にたかれるフラッシュみたいに、私がお隣さんとのツーショット写真を出すと、皆の頭がその上ににゅうっと集まってくる。
「え~!イケメ~ン!」
「若~い!めちゃ若くないですか?」
「どこで知り合ったんですか?」
飛び交う質問を聞いていると、一人が一問ではない。言いたい事を言いたい放題言っている感じだ。しかし、悪い感想は一つも聞こえては来ない。これはやはり・・・正直気分のいいものだ。
「亜弥さん。彼氏さん、年下ですよね?」
「まだ彼氏じゃないし」
「いやいや~、この写真、もう彼氏でしょう」
「違うって」
「何歳差ですか?」
「・・・10こちょっと・・・」
“ちょっと”という曖昧な言葉でごまかす私も、往生際が悪い。見栄っ張りだ。
「結婚とかしないんですか?」
「そんなの・・・まだ分かんないから」
「早く付き合っちゃえばいいのにぃ~」
一つ一つの質問にまともに答えていったら、えらい事になりそうだ。だから私は、写真の画面をブチッと切った。普通ならそれが記者会見の打ち切りの合図となりそうだが、そこにいた若者達には通用しなかった。
「収入の格差とかあるから、結婚となると難しいですよね~、その辺のお金の事」
「その前に、彼氏さんってサラリーマンの方ですか?」
「だからまだ“彼氏”じゃないし・・・」
そんな私の訂正など、誰も聞いてはいない。
「収入の格差があるとは限らないじゃない。会社員なら大体収入の想像はつくけど、今は若くても稼いでる人いっぱいいるし」
「確かに~。起業家とか、実業家とか。IT関係なら、ちょっと収入のシステムも違うって聞いた事あるし」
これを言いたい放題、無法地帯と言うのだろう。
「亜弥さん。彼の収入って知ってます?」
いちいち面倒になって、私ももう『まだ彼氏じゃない』と訂正する事をやめた。
「・・・そんなの・・・興味ないし」
「え~!興味ないですかぁ~?」
正に女子会と化している現場に、高橋の一言が刺さる。
「亜弥さんは、自分でも蓄えがあるから、男にぶら下がって生きてこうなんて更々思ってないの。男に幸せにしてもらおうって依存してる様な女子が、収入ばっか気にすんだよ」
私の心臓がヒヤッとする。しかし構わずに座談会は続く。
「そっかぁ。亜弥さんはしっかり貯めてそうだもんなぁ」
「そんな事ないよ」
一応、そこだけ口を挟んでみる。勝手な想像を独り歩きさせる訳にはいかないから。だけど、実際は言われる通り、貯まっている。でも『しっかり貯めた』というのとは少し違う。使い道がないから貯まっていってしまっただけだ。ブランド物も、服飾関係も宝石も大して興味はない。インテリアにこだわって輸入家具とかを置くタイプでもない。お金を投資する様な趣味もない。グルメの食べ歩きも交際費も殆どない。親への仕送りも必要ないし、お給料が入ると、家賃や光熱費を差し引いて、少しの生活費さえあれば、不自由なく暮らせる様な人間だ。だからって、かなり余るお給料を 定期預金でもしておけばいいのだろうが、そういう財テクみたいな事にも無頓着だ。普通預金の口座に次々溜まっていくだけだ。
「もしかして亜弥さんの住んでる所って、分譲マンションとか、ですか?」
「あ・・・今度引っ越すの。今までは賃貸だったんだけど」
「え~、凄~い!」
「やっぱさぁ、独身もいいよね~。自分の稼いだお金、全部自由に使えるし。好きな服買っても誰にも文句言われないし、どれだけ美味しい物にお金使っても問題ないしね。結婚してたらそうはいかないじゃない?窮屈っていうかさ・・・」
好きな妄想を膨らませる女子達の会話には夢がいっぱい詰まっている。私の年代になると、こういう自由な選択肢が狭まってくるから、こういった会話にはなりにくい。懐かしい感覚を耳に楽しみながら、女子トークを微笑ましく眺めていると、高橋がまた呆れた顔で言った。
「男だって同じだよ。一人でいた方が悠々自適で暮らせるわ。早く帰って来いだの、休みの日は家族サービスしろだの、うるさく言われないで済むからね」
結婚へ憧れを持たない人達の正直な感想を聞いていると、理屈は分かるけれど、やっぱり価値観が違うんだと感じる。頷く事はできない。でも、こんな風な感覚の人が もしかしたら、現代の主流なのかもしれないと思うと、お隣さんも例外ではないのかもしれないとの不安がよぎる。
「マンション買って、そこに年下の彼氏呼んで、一緒に住むんですか?」
「いやいや・・・そういう事じゃないから」
「え~?!違うんですかぁ?一緒に住めば、ローンも半分払ってもらえるのに~」
「亜弥さんはお金に困ってないから、君らみたいに そういうせこい発想しないの!」
高橋が言う。
「それにね、もし一緒に住んでも、男にローン半分払えだの、生活費入れろだの、言わないから。私が全部やってあげるから、お金の事は心配しないで、あなたは夢を追いかけてね!みたいなさ・・・」
高橋の妄想も、私の実際とはかなりかけ離れている。
皆が気が済むまでギャーギャー言った後、お喋りをしてすっきりした顔で帰って行く後輩達を見送った私の心は、どこか重たい。
多分お隣さんと同年代の後輩達。こんな感覚で私を見ているのかもしれない。私という一人の人間を見ているんではなくて、“年上の女”っていう いわゆるタイトルに興味をそそられているだけなのかもしれない、なんて悲しく思う。それに、後輩達が言う様な収入の格差はそう無くても、10年間の少しずつ溜まっていった貯蓄の格差は確かに否めないだろう。私はそういうの、全く気にはしないけど、やっぱり彼はそういう事を気にするんだろうか・・・?
その晩、隣が少し賑やかだ。11時頃私がベッドに入った頃、時々大きな笑い声が壁の向こうから聞こえてくる。さっきまでは静かだったから、お友達と飲んでいて 一緒に帰ってきたのだろうか。何となくお隣さんの気配を感じて温かくなる胸を大事に抱え、私は部屋の電気を消して、それまで開けていた窓を閉めようとした その時だ。何故かお隣さんの声が近くなる。思わず耳を澄ますと、私の耳に お隣さんの声と連なってもう一人の男性の声が飛び込んでくる。ベランダに出て話でもしている位近い。会話の内容が聞こえる程だ。
「へぇ~、俺には理解できねぇわ」
「ま、お前はそうだろうけど」
「たっつぁん、そんな趣味があったとはなぁ。なかなかの物好きだね」
聞いてはいけないものを聞いてしまった気まずさが、私の心を硬直させた。何の話をしているのか主語は聞こえてはいないのに、勝手な確信が私の中にむくむくと膨れ上がっていくのだった。
翌朝になっても、昨夜のお隣さんの部屋から漏れ聞こえた友達との会話が頭を占領している。
『へぇ~、俺には理解できねぇわ。なかなかの物好きだね』
やっぱり、早くここを出よう。私はその日会社で、金曜日に有給休暇を申請した。
何かに掻き立てられる様に作業をすると、私でも意外に引っ越しの荷造りがはかどる。部屋の中に積み上がった段ボールが、私を一日も早くここから追い出そうと圧力をかける。
私は少し前に来ていたお隣さんからのメッセージをもう一度読み返す。
『明日の帰り、駅で待ち合わせしませんか?どこかで夕飯でも一緒にどうですか?』
私はゆっくりと返事を打った。
『ごめんなさい。明日は先約があります。お気持ち、ありがとうございました』
すると、すぐに返信が来る。
『残念です。では、またの機会に』
週も半分を過ぎた水曜日の夜、お隣さんからメッセージが届く。
『今週どこかで時間取ってもらえませんか?』
私の心が揺らぐ。でもやはり、この間 隣から漏れ聞こえてきた会話が私の指を動かす。
『今週は仕事も忙しい時期で、お約束できません。ごめんなさい』
『そうでしたか。多分、引っ越しも近いし忙しいんですね。ところで、引っ越しは土曜ですか?日曜ですか?』
返せない。だから私は、そこで携帯を閉じた。
いよいよ明日、引っ越しの日だ。会社の有給休暇を使って平日に引っ越すのには理由がある。ただ引っ越し費用を安く上げたいだけじゃない。
私はこの部屋で過ごす最後の夜を惜しむ様に、お風呂上りにベランダの窓を開けてみる。夜風が程良く気持ちいい。こうして自由に窓を開けたり、部屋の電気をつけたり出来る幸せを、今一度思い出す。あの一ヶ月近くの間の恐怖と不自由な生活から救ってくれたのはお隣さんだ。ストーカー被害に遭う前に お隣さんが越してきた事は、やはり運命的な出会いだった様にも思う。しかし、そんなメルヘンチックな自分が、幼稚に思えるもう一人の私もいる。
そんな時、テーブルの上での着信が私を呼んだ。相手は妙子だった。
「あ~や、お願いがあるんだけど」
「何?」
「今度旦那ときちんと話し合う事になってね」
「あ、良かったね」
「良かったのかな・・・。ま。とりあえずはね。今後の事もあるし。もし話がまとまらなければ、弁護人を立てて離婚調停って事にもなってく可能性があるから、とにかくまずは本人同士話をしておかないとね」
私の軽く言った一言が、本当に浅はかだった事に気付く。そんな内容になっているなんて、やはり私は世間知らずだ。
「でさ、そん時、あ~やに子供預かってもらいたいんだけど」
「うん。いいけど・・・」
「親に頼んだらさ、まんまと断られちゃって」
笑っているけれど、多分かなりへこんでいるに違いない。
「家に来てもらいたいんだよね。でさ、子供達の2階の部屋で子守りしてて欲しいの」
「いいよ。わかった」
その言葉を聞いて、妙子は大きな溜め息をぶわぁ~と吐いた。
「たすかるぅ~」
現状を聞きたい気もするが、あまり触れてはいけない様にも思う。妙子の本音も知りたいが、臆病な私は そこまでずけずけと聞く勇気はない。
すると、妙子が私に質問をしてきた。
「その後、そっちは進展なし?」
言える訳ない。この間は付き合うなんて これっぽっちも考えてない、なんて言ってしまってるんだから。だけど妙子の嗅覚が、私の会話のテンポの悪さから嗅ぎつける。
「もしかして・・・まさかが起きちゃった訳じゃないでしょうねぇ?」
こういう聞かれ方をすると、かえってどう説明したらいいのか分からない。まずは、少しずつカミングアウトする覚悟を決め すうっと息を吸い込んだ。
「あのね・・・」
その一言で、妙子が相槌を被せてきた。
「は~い!食われちゃったぁ!」
「いや・・・待って。違うの。あのね・・・」
「若い男に食われちゃって、他に言い訳必要ないでしょ?」
「そういうんじゃないから」
「じゃ、どういうの?」
そう言われると、口が上手く回らない。
「食われたとか・・・そういう事じゃなくて・・・」
「何?マジなやつ?もしかして」
「・・・・・・」
私がどこから説明したらいいか もたもたと考えている間にも、妙子が雄叫びを上げた。
「嘘でしょ~?この歳になって、若い男とマジで付き合ってんの?」
私が何か言いそうになる前に、次々と妙子からミサイルが発射される。
「そこそこモテそうな若者が、私達みたいな40近くなったおばさん、本気で相手にすると思ってんの?」
「そんなの分かってる」
「じゃ、何?分かってるけど、遊ばれんの覚悟で付き合ってるとか?」
「そういう事じゃない」
「彼は遊びで私と付き合ってるんじゃないもん!とか、もしかして彼を信じちゃってるパターン?恋愛から遠ざかってたから、男見る目も疎くなっちゃったか?!」
「そんな・・・私はいたって冷静だよ」
「皆そう言うの。私は冷静だって。だけど後になって皆必ず同じ事言うの。『舞い上がってた』って」
果たして自分もそう思うのだろうか。自問自答してみる。もしかしたら、私も例に漏れず、妙子の言う類の人間になってしまっているのかもしれない。だから私は明日、彼が仕事に行っている間に、ここから姿を消そうと決めたんだ。
「何がそんなに良いんだろうねぇ。結婚とか男とか。今振り返っても、良い事より、面倒で大変な事の方が多かったと思うけどな・・・」
「それは、一回した人だから言える事。出来る事なら私だって、結婚とか家庭とか築きたかったわよ」
「そ~んな、観光地訪れる様な軽い気持ちだと、大惨事になるよ~」
快調な例えをしているけれど、妙子だって今はまだ傷心中だと思うと、少し肩入れした気持ちにもなってくる。
「結婚した相手と共に白髪の生えるまで添い遂げるって、多分エベレストに登る様なもんなのよ。それをね、そこら辺の高尾山とか登る様な軽装備で登るから、遭難したり命落としたりするのよねぇ~。悪い事言わないからさ、やめときな」
私は窓際に置いてあるサボテンに水をあげ終えると、言った。
「相手は20代半ばの若い男の子だよ。私が真剣にそんな子と将来考えると思う?とりあえず、久し振りの恋愛ごっこを楽しんでみたってだけ。前にも言ったでしょ?私は結婚とか恋愛とか、もう一切真剣に考えてないから」
ようやく納得してくれた妙子との電話を切ると、少し・・・いや、かなりブルーな気持ちに乗っ取られている。それを切り替える様にわざと大きな声で溜め息を吐き出した。夜風が気持ちいいからと、調子に乗って当たり過ぎた感がある。少し湯冷めしそうな感じだ。ベランダから見える都会の小さな小さな明るい空を見上げてから、私は窓を閉めた。
金曜日に無事引っ越しを済ませ、土日で荷物の片付けを黙々と進める。律儀に引っ越しの挨拶に来たお隣さんに、何も言わずに部屋を引き払ってきた事が、引っ掛かっていないと言ったら嘘になる。きっと今頃は、集合ポストにも不在のシールで蓋がされているだろう。私が引っ越して行った事は一目瞭然の筈なのに、お隣さんからの連絡はない。『色々ありがとうございました』とだけメッセージを送ろうか迷ったけれど、結局中途半端な義理立てが良くない様な気もして、私は不義理を承知で連絡をしていない。しかし彼からも連絡一つないというのは、一体どういう事なんだろう?やはり妙子の言う様に、私が舞い上がっていただけだったのかもしれない。そう。思い返してみれば、彼は上京してきて田舎に居た彼女と別れ、会社の同期の“真央ちん”に恋をして、付き合って。そしてすぐに、引っ越してきた先の隣の住人である私と親しくなったら、今度は“真央ちん”と別れて 私を好きだと言った。傍に居る人に惚れっぽい人なんだとしたら、離れていった私に未練なんかある訳はない。それどころか きっと、『お世話になりました』の一言もなく去って行った私を軽蔑しているかもしれない。
私は少し広くなった新しい住処をぼんやりと眺めて、思う。そうだ。心機一転、明るく再スタートを切るつもりで購入したマンションだ。決して安い買い物ではない。これからはここで一生腰を据えて、働きながらローンを返していくのだ。結婚してみたかったとか、子供が欲しいとか、家庭を築きたいとか、そんな 巻き戻せない時間に未練たっぷりの自分を潔く捨てて、これからはここを自分の城に作り上げていこう。誰かに幸せにしてもらう事ばかり依存している自分を卒業して、これからは 一人でも幸せだと感じられる私にならないといけない。
その晩私は、随分昔に友人の結婚式の記念品で頂いたまま使っていなかった バラの花びら入りの入浴剤を入れて、湯船に浸かった。
今日は、先日から頼まれていた妙子の子守りの日だ。イコール、妙子がご主人と今後の話し合いをする日だ。よく晴れた日曜日の昼間だというのに、私の心は正直重たい。
「今日晴れてるから、近くの公園で遊ばせてくれてもいいんだけど」
妙子がそう言うと、二人の子供達の期待する視線が私に向かう。
「どうする?」
「公園、行きた~い」
左手に雄大、右手にさくらと手を繋ぎ、公園までの道を歩く。とはいえ、子供達の良く知っている道順らしい。私の手を引いて、公園まで案内されているといった感じだ。
公園に着いた途端、雄大はぱっと手を離して、滑り台に一目散に走り始めた。
「気を付けてね」
私はその後ろ姿に声を掛けた。
休日の昼間の公園なんて、普段縁のない場所だ。家族連れや孫を連れて遊びに来ているお爺ちゃんお婆ちゃんの姿がある。なんとも穏やかな空気が流れていて、この中の誰も大きな悩みなんか無い様にさえ感じてしまう。
右手に残ったさくらに、私は話し掛けた。
「どうしよっか?」
「さくら、ブランコ」
ブランコに座らせたさくらの手はぎゅっと手すりにしがみついていて、固まったままだ。どうやら慎重派の様だ。
「やっぱり、降りる」
さくらをブランコから下して、私は言った。
「一緒に乗る?」
「うん!」
嬉しそうに頷くさくらのいじらしさに、私の中のここ最近の殺伐としたものが塗り替えられていく感じを覚える。
さくらを左手で抱っこして、ブランコに座る。地面に足をつけたまま、私はゆっくりとブランコを揺らした。さくらの小さな手で私の腕をぎゅっと握りしめるその体温から、私が幸せ色に染まっていく様な錯覚になる。
「いいお天気だねぇ」
とか、
「見て、雄君、凄い。スーパーマンみたいな滑り方してる」
なんて会話を交わしながら。
「怖い?」
さくらは黙って首を横に振った。少しずつ揺れを大きくしてブランコに慣れた頃、首だけ振り返って私に言った。
「一人で乗ってみる」
さくらを一人でブランコに座らせると、満身の力で手すりをぎゅっと握っている。すると隣のブランコで孫を遊ばせていた婦人が声を掛けてきた。
「おいくつ?」
「3歳です」
「あら~、かわいいわねぇ」
「おいくつですか?」
私は、その婦人の連れている女の子に視線を馳せながら聞いた。
「4歳なんですよ」
その会話を聞いているさくらに、私が言った。
「さくらちゃんより、一つお姉さんだって」
「ご兄弟は?まだお一人?」
婦人の質問に私が答える前に、さくらが滑り台を指差した。
「お兄ちゃん、あそこ」
「お兄ちゃんがいるの。いいわねぇ」
その婦人はさくらに返事を返すと、私に向かって続きを話し始めた。
「娘のとこの子なんですけどね、結婚して10年目でようやく授かったんです。娘も今44だから、次があるかは分からないものね。でもね、高齢出産でも母子ともに無事に元気に生まれてくれたから、贅沢は言えないんですけどね」
すっかり『友達の子供です』と言いそびれてしまった私は、ただ黙って頷いた。
「あなたはきっとまだ若いから、頑張ってもう一人位産んでね。今は大変でも、将来子供が必ず力になるから」
その話を聞き終えたかの如く、さくらが雄大の方を指差した。
「さくらも、あっち行く」
婦人と4歳の女の子に会釈をして、私はさくらの手を引きながら考える。今の言葉は私に対してのエールかもしれないけれど、妙子にとっても又同じかもしれない。別れるなんて答えを簡単に出して欲しくない。
遊び疲れた子供達を連れて、近所のハンバーガーショップに入る。
最初はアイスやアップルパイを頬張っていた子供達も、一息つくと私の顔をじっと見て雄大が聞いた。
「パパとママ、喧嘩してるの?」
私はどう答えていいか分からない。
「喧嘩したら、ごめんなさいって言って、いいよって言えばいいんじゃないの?」
「う~ん、そうだよね・・・」
「なんで、ごめんなさいって言わないのかな?」
私はまっすぐな子供の感性に切なくなる。
「雄君とさくらちゃんは、喧嘩する事ある?」
「あるよ」
「どんな時?」
真っ先に答えたのはさくらだ。
「さくら おままごとしたいのに、お兄ちゃん遊んでくれない」
「だって、ゲームしたいんだもん。さくら、一人でやればいいだろ?」
「さくらはレストランごっこしたいの。お兄ちゃんお客さんやってくれないんだもん」
「だからって、ゲームの邪魔する事ないだろ?」
そう言って、今度は私の顔を見た。
「さくらはね、自分の思い通りにならないと、こっちが遊んでたゲームの線抜いちゃうんだよ。せっかくステージクリアしてても、全部駄目になっちゃうからって言っても、全然言う事聞かないの」
傍で聞いていると微笑ましい喧嘩の様に思うが、大人でもこういう事ある。自分の思いばかりを相手に押し付ける事。大人の世界も子供の世界でも、やはり上手くいかない様だ。
「どうやって、仲直りするの?」
「さくらは絶対に謝らないから、放っとく」
「さくら、何にも悪くないもん」
「俺だって悪くないから、謝らない」
なんだかちょっと、妙子達夫婦の姿に重なって見える。どちらも謝らなくても、こうしてけろっとしていられるのが家族なのかもしれない。だけど夫婦ってどうなんだろう。もとは他人同士だ。雄大とさくらの様に、謝らなくても時間が経てばけろっと元の関係に戻れるものなのだろうか。それともやはり、どちらかが折れて、お互いに歩み寄る努力をしないと難しいものなんだろうか。
私は二人に言った。
「自分が悪くなくても、ごめんねって謝ったら仲良くなれると思わない?」
さくらは首を傾げているが、雄大はちょっと違う。
「・・・それはそうかもね」
私は今度、さくらに聞いた。
「もし相手が謝ってくれたら、自分は悪くないと思ってても『ごめんね』って言って仲直りする気にならない?」
さくらがにこっと笑って言った。
「うん。なる」
本当にどこまで理解しているかは分からないが、勝手に少し嬉しい気持ちになる。やっぱり喧嘩は長引くのは良くないから。
すると雄大が言った。
「それ、パパとママにも教えてあげたら?」
「あ・・・」
私が戸惑っていると、さくらはもう椅子から降りようとしている。
「そうだ。今すぐ言いに行こう」
私は慌てて引き止めた。
「今は二人っきりで大事なお話してるから、まだもうちょっと待ってようね」
すると雄大が、目を見開いて私の腕を引っ張った。
「パパとママにお手紙書きたい!」
「お手紙?」
「そう。仲直りして欲しいって書きたい」
「さくらも書く!」
「さくらはまだ字書けないだろ?」
「書けるもん!」
「そうか。じゃ、さくらちゃんはパパとママの絵描いて、雄君はお手紙書く?」
それから早速三人は商店街で便箋とカラーペンを選ぶ。そして、スーパーのフードコートのテーブルで、二人は一生懸命に書いた。こんな小さな頭で色んな事を考えて、こんな小さな心で沢山心配して、こんな小さな手だけど、なんとかパパとママの手を繋ぎ直そうと必死の姿に、私もただじっとしていてはいけない様な気持ちになってくる。
「亜弥ちゃんも書けば?パパとママに」
雄大がそんな私の背中を押した。初めは妙子にだけ、と思っていたけれど、書き始めると色んな事が浮かんできて、言いたい事が溢れてくる。だから、私は結婚式以来会った事も話した事もないご主人だけど、きっと上手く謝れない妙子の代わりに、『ごめんなさい』と『これからもよろしくお願いします』を書く事にしたのだ。
完成した手紙と絵を持って、三人は家に向かった。正直ドキドキする。子供の前でとんでもない夫婦喧嘩を見せる事になったらどうしようと不安が募る。しかも、家中の家具や食器が壊れていたりして、とんでもない戦場の跡となっていたら・・・。そんな心配をよそに、子供達は嬉しそうにスキップなんかしている。この子達の小さな心が傷つく事のない様に、私はひたすらそれだけを祈って、両手に二人の手を握った。
家の前に着いて、玄関に掛けようとした雄大の手を取った。
「今、パパとママに渡せそうかどうか聞いてくるから、ここでちょっと待っててね」
ピンポンと押してから、私は玄関に一人で入った。
「あ~やか。子供達は?」
玄関に出てきた妙子の顔は暗い。家の中も、淀んで張り詰めた空気が玄関まで充満していた。
「子供達が、パパとママにお手紙渡したいって一生懸命書いたの。今・・・渡せる?」
妙子がチラッと部屋の中にいるご主人の方を気にした。
「まぁ・・・いいよ」
「じゃ・・・子供達入れるね。平気?」
「待って。今旦那にも話してくるから」
部屋に一旦引っ込んだ妙子が再び玄関に戻って来ると、静かに頷いた。
「いいって」
私は子供達を呼びに行く為玄関の扉を開けようとして、振り向いた。
「子供達、凄く心配してる。二人の前では笑顔で安心させてあげて。お願い」
「・・・分かった」
子供達を連れて玄関に入ると、妙子が笑顔で雄大に聞いた。
「公園楽しかった?」
「うん」
「亜弥ちゃんにアイス買ってもらった」
さくらが報告する。その時、部屋に見えた父親の姿に、さくらは靴を放り出して、走って飛びついた。
「パパ~!」
「さくらぁ!」
嬉しそうなご主人の声が聞こえる。雄大も行きたそうな表情を一瞬浮かべるが、手に持っていた手紙を母親に差し出した。
「ママにお手紙書いた」
「え~、ありがとう」
受け取る妙子の目に薄っすら涙が滲む。
「これ、さくらから・・・」
そう言いながら、雄大はさくらが書いた方の紙を手に持って、部屋に入っていったさくらに声を掛けた。
「さくら、手紙渡しちゃっていいの?」
「だめ~!さくらが渡す!」
パパの腕の中から降りると、さくらはまた玄関に走ってくる。
「パパも来て」
娘にそう言われ、玄関に鈍い足取りで現れるご主人だ。
「ご無沙汰してます。竹下です」
「どうも。子供達がお世話になりました」
気まずそうに挨拶をするご主人に、私も深々と頭を下げた。
「子供達がパパとママにお手紙書きたいって言うもので・・・。凄く一生懸命書いてましたので、見てあげて下さい」
子供達がそれぞれ手紙を渡すと、さくらが私の方を見た。
「亜弥ちゃんも書いたんだよね?」
「あ・・・はい。子供達に乗せられて・・・すみません」
私は鞄から封筒を二枚出す。
「これは妙子に」
「パパにもあるんだよね?」
さくらが言う。
「え?」
「あ・・・はい。すみません」
「ねぇさくらのお手紙、見て見て~」
妙子とご主人がそれぞれに広げたさくらからの手紙には、家族四人がニコニコの笑顔の絵が描かれていた。妙子の方には、家で4人で一緒にご飯を食べている絵。ご主人の方には公園で4人で遊んでいる絵だった。さくらの説明がないとちょっとまだ分かりにくい絵ではあるけれど、その色使いから、さくらの思い描いている映像が明るい物だと分かる。
「さくら・・・」
うるっときている妙子をご主人がチラッと見る。そして雄大がパパとママに聞いた。
「もう仲直り、出来た?」
二人は顔を見合わせた。その様子を察し、雄大が言った。
「じゃ、僕の手紙も読んで」
それぞれが雄大の手紙を広げる。その間も、さくらは久し振りにパパに会えた嬉しさで、足にまとわりついて ぴょんぴょんと飛び跳ねている。
ほぼ同時に手紙を読み終えた二人が無言でいると、雄大が言った。
「これからはさくらにもっと優しくするから、ごめんなさい。だから、パパもママもごめんなさいして、仲直りしてよ」
嘘の様に、行きと違って心が軽い。絵に描いた様に あの場で、
『ごめんなさい』
『こっちこそ』
とは もちろんならなかったけれど、雄大を妙子がぎゅっと抱きしめて、『パパ抱っこ』と甘えるさくらを両腕に優しく抱えたご主人を最後に見る事が出来て、私は正直ほっとしていた。本当にどうなる事かと思っていたけれど、やっぱり何だかんだ言っても子供の力は大きい。“子は鎹”って良く言うけれど、本当にそうだ。あの二人の子供がいなければ、もしかしたらあの夫婦は ちょっとしたボタンの掛け違いからすれ違っていって、その溝を修正できないまま離婚となっていたかもしれない。今日一日触れた子供の純粋さや温かさやパワーに感化されて、私はすっかり母性本能をくすぐられてしまっている。
子供・・・欲しいな・・・。たまにしか会わない友達の子供でさえ あんなに可愛いんだから、我が子だったらどうなってしまうんだろう。もちろん大変さや苦労もあるだろうけど、今日公園で会った婦人の言葉を思い出す。
『将来子供が必ず力になるから』
44歳の娘さんに4歳の子がいるという事は・・・40歳で出産したという事だ。・・・そう考えると、私にも希望が持ててくる。この歳で初めてのお産、意外に沢山いるのかもしれない。だけど・・・今日の婦人の話だと、結婚して10年目でようやく授かったって言ってたっけ。・・・私にその時間はない。こればっかりは誰にも分からない。宝くじに当たるかどうか・・・そんな確率に似てる様な気がする。だけど、宝くじも買わなければ当たらない。一生・・・当たらない。
思ったよりも早く体が空いた私は、ホームで電車を待ちながら ふとお隣さんの事を思う。今頃、どうしているだろう。私の事なんか、もう忘れてしまったかな。
ついこの間、後ろを振り返らず心機一転頑張ろうと誓った筈なのに、その舌の根も乾かない内に、私はまた後ろの景色に間違い探しをしている。そう。私は今まで、どうせ当たらないからと諦めて宝くじを買おうとしていなかったのだ。怖がってばかりいないで、お隣さんとの将来を本気で考えてみれば良かったんだ。彼が友達に何て言われようと、恐れずに前に進んでみれば良かったんだ。いつも100%のお隣さんに、私はいつも逃げ腰で・・・そんな私からもう卒業する筈だったのに・・・。
後悔で全身がいっぱいになった頃、私の目の前に電車が滑り込んでくる。電車の窓に映っている私をじっと眺めながら、後悔の末に辿り着いた行き先を考える。停まった電車のドアの前に出来た列に並びながら、私はもう一度窓に映った自分を確認する。
・・・その時、窓に映った自分の向こうに見えるお隣さんの姿。目を疑った私をもう一度驚かせたのは、その隣に“真央ちん”がいる事だった。一瞬にして巡らしていた考えを消し伏せ、前の人影に身を隠した。
次々に私を追い越して電車に乗り込んでいく人達に揺さぶられながら、私の視界も揺れている様にさえ感じる。しっかりしろ、私。そう頭の中で自分に叫ぶ。
プシューッとドアが閉まる音が私の耳に響く。電車が再び走り出した頃に、車内の二つの瞳と視線が合ったまま、段々に離れていく二人の距離。
電車がその場から走り去った後に残った、お隣さんの何とも言えない顔の残像。
人の少なくなったホームを離れ、私は再びさっき下りてきた階段を昇る。一段一段昇りながら、頭の中の画像がコマ送りされる。お隣さんと“真央ちん”の楽しそうな笑顔。並んだ時のしっくりと馴染む感じ。“真央ちん”が向けたお隣さんへの視線は、信頼と情愛に溢れていた様に思う。お隣さんの様に真っ直ぐで、何に対しても一生懸命で誠実な人は、きっとああいう真っ直ぐに丸ごと彼を信じてついて行く女の子と一緒にいる事で幸せになれるんだと思う。私みたいに計算したり、自分を守ろうと嘘を積み重ねながら全部を見せない女は似合わないのだ。
反対側のホームに降りた頃、ふっと笑いが零れてくる。さっき“買わない宝くじは一生当たらない”なんて意気込んでいた私が、滑稽に思えてならない。どうしちゃったんだろう、私らしくもない。きっと今日の二人の子供達が可愛すぎて、麻薬に侵されたみたいに思考がおかしくなってしまったんだ。でももう平気。段々にその薬も体内から抜け、本来の私を取り戻しつつあるみたいだ。
家に帰ると、私は電気もつけないで布団を被る。真っ暗な部屋の中で、音も何もない世界。・・・懐かしい。ついこの間の事だ。ストーカーに怯えていた日々が蘇る。またふりだしに戻ってしまった・・・そんな自分を、私はどこか客観的に見ていたりもする。一体私は何にそんなにショックを受けているんだろう。引っ越し先も告げずに逃げてきたお隣さんに偶然会ってしまったから?それとも“真央ちん”と楽しそうにしている彼を見てしまったから?だとしたら・・・。だとしたら、私はいつの間に こんなに思い上がった人間になってしまったんだろう。お隣さんに優しくされ過ぎて、私は勘違いしちゃっていたのかもしれない。久し振りに“真央ちん”と出掛けて、懐かしくて居心地の良い感じに お隣さんの心が動いたっていい。二人のヨリが戻ったっていい。だって、きっとそれが自然の形だから。私は胸の奥が少し息苦しくなるのに気付かないふりをする。
いや、待って。もしかしたら、元々別れてなんかいなかったのかもしれない。同時にタイプの違う女とのデートを楽しんでいただけかもしれない。だとしたら、一人欠けたってなんて事はない筈だ。かえって、早く夢から抜け出せて良かったのかもしれない。
真っ暗な布団の中で携帯が光る。着信だ。今日は出ないと決めた筈なのに、誰からかが気に掛かる。裏返していた電話をひっくり返すと、やはりその主はお隣さんだった。私は心を無にして、再び電話を伏せた。
その後、電話は2回鳴って静かになった。部屋中に元の静寂が戻ると、再び私は電話に手を伸ばす。そして電源を切った。
そう。初めからそうしておけば良かったんだ。電話もメッセージも完全に拒否するなら、元から電源を切っておけば良かったんだ。切った途端、暗闇の中に完全に一人ぼっちになった孤独感が容赦なく押し寄せてくる。子供達と過ごした昼間の公園での風景が、まるで嘘の様だ。・・・あの後、妙子達どうなったんだろう。丸く収まって元のさやに戻れたのだろうか。あの子達の笑顔が失われない様に・・・どうか夫婦が修復されます様に・・・。そんな祈る気持ちで帰ってきたのを思い出す。
私は電話にもう一度手を伸ばす。電源を入れるか迷う。違う。お隣さんからの連絡を気にしているんじゃない。妙子から何か連絡が入っているかもしれないから。いや、もし入っていなかったら、私から連絡してみよう。私は自分に言い訳をしながら、電源を入れた。
その途端、来ていたメッセージが目に飛び込む。しかしそれは妙子からではなく、お隣さんからだ。見ない。私は、これを見る為に電源を入れたんじゃないんだから。
『あの後、どうなった?またあの家で家族4人暮らせるといいね』
私はそんなメッセージを送る。するとすぐに返信がある。
『今日は色々とありがとう。もう一度やり直してみる事にした。正直、旦那の事許せるかは分からないけど、私にも原因があったのかなって少し反省もしたの。子供達もパパが大好きだし、旦那も この家に私と子供達が帰ってきて、また一からやり直そうって思ってるみたいだから。それにしても、子供がいなかったら私達、完全に離婚してたと思う。それを思い出させてくれたのが、あ~やと子供達だった。本当にどうもありがとう』
長い文章の中に、この間までの様な棘は感じられない。まるで憑き物が落ちたみたいだ。その内容にほっとしていると、画面が急に切り替わって、お隣さんからの着信を知らせている。私は電気ショックでも受けたみたいに、慌ててそれを放り出して布団を被った。
ブーンブーンという電話が震える音が暫く長い事鳴っていたが、それが途切れてから、一度被っていた布団を這い出て深呼吸をしてみる。頭に酸素を送って、冷静に考える為だ。
私はとりあえず、さっき放り出した電話を拾ってメッセージを確認する事にした。
『ご無沙汰してます』
この一言が、私の胸に突き刺さる。深呼吸をしてから、その続きを読んだ。
『急に引っ越してしまったから、正直驚いています。でもそれが、亜弥さんの答えだったんですよね?』
少しの間を空けて、続きがある。
『ふった男がどんな風に暮らそうが興味はないだろうけど、僕の勝手な独り言だと思って聞いて下さい』
『今日は、偶然渋谷駅で昔の彼女と電車が一緒になりました。途中でお腹空いたから うちの近くのラーメン又食べたいって言われて、三ちゃん麺でラーメン食べて帰ってきました。それだけです。これは信じて欲しいです』
これを読み終わった時、私の胸はやけに寒々しい気持ちになる。今までとは違う。
『三ちゃん麺でラーメン食べて帰ってきました。それだけです』
・・・それだけです、かぁ。・・・そうかぁ・・・。あの店は確か、お隣さんが引っ越しを手伝ってくれたお友達と“引っ越し蕎麦”と称して食べに行った店だ。すなわち、“真央ちん”と初めて越してきて食事した店だ。“真央ちん”にとっては懐かしい“思い出の店”の“思い出の味”なのかもしれない。『替え玉半分しか食べられないかもしれないと思ったけど、細麺だから意外と食べられちゃった』という彼女のエピソードを聞かされた記憶がある。もしかしたら今日も、『替え玉半分食べてね』なんて言いながら、『やっぱり食べられちゃった』なんてキャッキャ言いながら楽しく食事をしたのかもしれない。いいんだ、それで。それが自然の形。
私は返信しようと頭をひねる。
『ずっと連絡せずにごめんなさい。今日の事、気にしないで下さい』
そう打ち込んでみて考える。なんか、嘘っぽい。そう。私は中途半端な悪だ。中途半端な悪だから、結局そこまで悪者になり切れないのだ。こういう人が相手を傷付けるんだ。私みたいなこういう半端な人間が、切れ味の悪い刀で何度も何度も刺して 相手を半殺し状態にするんだ。最低だ。最低な女だ。お願いだから、お隣さん。もう私に関わらないで欲しい。こんな私を放っておいてもらいたい。送信ボタンを押す前に、液晶画面の明かりが落ちた。
こんな風に私の日常は、感情を揺さぶられる様な事があっても、それを適当に紛らわせながら過ぎていった。30代最後の誕生日も、去年と同じ様に通過したし、年末年始も当たり障りなく過ぎていった。この頃は“当たり障りなく過ぎる”事が、何よりも幸せに感じる。例えば、大晦日の晩はソファにゴロゴロしながらテレビをつけっ放しにして明け方まで見る。疲れた頃ようやくベッドに入って、元日の昼近くまで熟睡する。その後 実家に帰って両親や兄家族と過ごし、実家に泊まる。次の日は近くにある爺ちゃんと婆ちゃんの墓参りをして帰ってくるのだ。特に近くに住む親戚はいないから、挨拶回りも必要ない。家族だけにしか会わないから、『誰かいい人いないの?』と聞かれる事もないし、『そろそろ結婚の事、本気で考えたら?』と言われる年齢もとうに過ぎた。気楽なもんだ。きっと所帯を持ったらそうはいかなさそうだ。兄の所を見ていると分かる。元旦は竹下の実家。2日は嫁の実家。近所に住む親戚の家を、お年賀を持って挨拶回りだ。そしてそこに小さい子供達が居れば、皆にお年玉を配る。赤の他人の二人が結婚するだけで、家族が倍になり、そこに繋がる親戚も倍になる。自分が属するコミュニティが自動的に増えるのだ。そう考えると、今の様なこんな気ままな生活、何にも代えがたい貴重な時間だと実感する。万が一、お隣さんと付き合っていたとしたら・・・きっと今日の様な気ままな正月は無かっただろう。一日中パジャマのまま、正月番組を見たい放題見て、適当な時に食べて適当な時に寝る。こんなゆる~い時間が最高に幸せだと感じる私だから、色恋だの結婚だのというジャンルに足を踏み入れなかった去年の決断が正解だったと自負するのだった。