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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
12/22

第12話

12.


 その日家に帰ると、久々に佐久間妙子から電話が掛かる。

「今、どこ?もうお家に帰ったの?」

「まさか。まだ実家」

「もしかして、このまま別居続けるつもり?」

「私、あの家に子供達連れて帰ろうかなと思ってるんだよね」

それを聞いた途端、私の心は少し明るくなる。

「だってさ、別に私達が悪い事した訳じゃないんだから、あの家から追い出される事ないかって」

聞いていると、妙子の口調がなんだか私の思っていた円満な内容と違う事を匂わせた。

「旦那が出てくべきでしょ?あっちが裏切ったんだから」

感情が沸点に達した この間のやり取りから、何も変わっていない事を感じる。

「あれから、話し合いとか・・・したの?」

「むこうが謝ってきたら 少しは話してもいいかなと思ってたけど、一っ言もないからね」

一度は愛して子供まで設けた夫婦なのに、相手の事を『あっち』とか『向こう』とかっていう呼び方に、私の心は寒々しくなる。だけど、嫌な事を避けて向き合わないところは、私と一緒だ。いや、妙子の方が深刻な問題だから、私と一緒にするのは違うか・・・。そんな風に思いながら、私は妙子の話に再び耳を傾けた。

「近い内にあの家に帰って、あの人には出てってもらう」

「出てってもらうって・・・、それじゃご主人困るでしょ?」

「困りゃしないわよ。女ん所でも転がり込むか、実家だってそう遠くないんだし」

「だけど・・・ご主人の名義のお家でしょ?それに働いてローン払ってきたのもご主人だしさ・・・」

私は少し小さい声で、正論を言ってみる。すると電話の向こうから激しい口調が返ってくる。

「働いたのはあっちだけど、やりくりしながら払ってきたのは私だから!」

その時、私の頭の中に浅見の顔がよぎる。浅見の奥さんも、こういう言い分だったのだろうか。

「あ~やの考え方からすると、自分で稼いでない専業主婦は、何も自分の物として残らないじゃない!家事と出産と育児には対価が払われないって、不公平じゃない?」

まるで、会った事もない浅見の奥さんが言っている様に聞こえる。所詮私には、専業主婦の大変さなんか分かってないのだろう。当然、返す言葉もない。すると今度は、妙子の質問がこちらに飛んで来る。

「あ~やはどうなのよ?隣に越してきた男の子とは」

「あ・・・」

今の妙子にお隣さんとの事も、マンション購入の事も伝えるのに気が引ける。

「やっぱまだ『私は恋愛も結婚もとっくにスイッチ切った』っての、貫いてるわけ?」

私がやんわりとそれを否定しようとしたよりワンテンポ早く、妙子は話を続けた。

「確かにそれが賢明かもね。結局男なんてさ・・・いや他人なんてさ、信じてたって裏切られるし。あ~や、結婚しないで正解だったよ。私なんてさ、今更どうしろって言うのよぉ・・・」

「子供達いるじゃない。私にはいない。羨ましいよ」

「子供達いるから自由も利かないんじゃない。働くにしたって、昔みたいに身軽にって訳にはいかないから」

「・・・そうだけど・・・」

「それにさ、子供達食べさせてかなきゃならないじゃない?ただで大きくはならないし。そう考えると、しっかり慰謝料と養育費分捕っとかないとね」

妙子はまるで冗談でも言ったみたいにはははと明るく笑ったが、私はそれに便乗する気にはなれなかった。

「子供達、パパの事、何か言わないの?」

それまでテンポの良かった妙子の口が鈍る。

「ま、そこはごまかしごまかしよ」

「そっか・・・」

「離婚するのも体力使いそう。だから、結婚なんてするもんじゃないね」

自分の生きてきた道を全部否定する様な台詞に、私の中に再び寒々しい風が吹き抜けていく。

「私もあ~やに続いて女のスイッチ切ったからさ。先輩!ご指導ご鞭撻のほど、お願いしますよ」

「・・・・・・」

「・・・とか言って、あ~やがころっと結婚しちゃったりして」

「そんな ころっと結婚なんてしないから・・・」

「本当?!信じちゃうよぉ」

私の胸の隅がチクッと痛む。

「本当にさ、隣に越してきた若いイケメンとは、どうもないの?」

再びその話題になると、今度は心臓がドキドキ激しくなる。

「どうもないけど・・・」

「けど・・・?」

私の正直な語尾に、敏感に勘づく妙子だ。

「一回だけ、一緒に出掛けた」

妙子の相槌がすぐに聞こえてこないから、私は慌てて言い訳を付け足した。

「出掛けたっていうか・・・たまたま映画の話になって、その流れで新しく出来た映画館にって・・・」

「・・・デートじゃん」

「いや・・・デートって訳じゃないけど・・・たまたま話に出て・・・じゃあって流れで・・・」

「・・・へぇ~」

冷たい相槌が気になる。そんな不安を抱えていると、妙子が追い打ちを掛けてくる。

「で、おしゃれして、ルンルンで出掛けたって訳か・・・」

「いや、そんなんじゃない。ただ普通に・・・」

「いいよ、いいよ。無理に言い訳しなくたって」

「言い訳なんかじゃなくて・・・」

そう言いながら、必死に言い訳してる自分が滑稽に思える。

「じゃ、そのイケメンとどうもならないって言い切れる?」

即答なんかできる訳ない。でも、変な間が出来たら、また何を突っ込まれるか分からない。

「そりゃ・・・今は別にそう思ってるし・・・」

誰が聞いたって怪しい返事だ。何か先に針の先程の期待を持ってしまっているのが、バレてしまう様な言い草だ。

すると今度は、違う切り口から攻め込んでくる。

「その若いイケメン、彼女の一人もいないの?」

「・・・いたんだけど、ついこの間別れたらしい」

急に妙子の声の調子が変わる。少し高くなって私を嘲笑うかにも取れる様な声だ。

「あ~あ~、そうやって それ信じちゃうんだ?」

私の耳に、妙子の言葉が引っ掛かる。

「何でかなぁ~。み~んな若いのにホイホイホイホイ付いてっちゃって」

「ゴキブリみたいな言い方しないでよ」

「ついてく方もついてく方だけど、若いのは分別もないし、何より自分の欲求を満たす事のが大事だからね。欲しい物は手に入れないと気が済まないし、理性とか秩序とか、人としてどうだとか、そういう頭回んない幼稚な生き物なのよ。そんな事も見えないで、見た目の華やかさにごまかされて」

私の事を言っているのか、自分の旦那の事を言っているのか、聞いていて分からなくなる。

「まぁ、うちのも歳だけ食って中身と頭が幼稚だったって事よ。あ~やも、そんな大人と一緒にならない様にね」

妙子の偏見を聞きながら、まだまだ裏切られた腹立ちが煮えたぎっている事を感じる。

 妙子との電話を終えると、その間にもお隣さんからの着信が来ていた。

『お電話頂いたみたいで、ごめんなさい』

そうとだけ返信をすると、またすぐに電話が掛かってくる。聞こえてくるのは、明るい声だ。

「今度の土曜、どこに行こうか相談したくて」

この間から、まるでお隣さんと付き合っていると錯覚させる様な会話が多い。これも向こうの作戦の内?そんなちょっと引いて見てしまう私がいる。だけど、本当は・・・本当はドキドキする程嬉しくて、内心キュンとしてしまう自分がいる。

「お天気が良ければ、亜弥さんの手作りのお弁当持って、どっか出掛けたいところなんですけど、あいにく雨みたいだし」

「・・・そうなんですね」

「だから、ドライブなんかどうですか?横浜の方とか・・・ベタですけど」

「ドライブ?!」

「それとも、ドライブはもう少し後にとっておいて、紅葉の時期に少し遠くまで行きますか?」

紅葉の季節・・・きっとその頃には、もう私はここを引っ越してしまっている。一体こうしてお隣さんと“お友達として”出掛けるのを、私はいつまで続けるつもりなんだろう。

「お任せします。私は何でも・・・」

「この間の渓谷、亜弥さん凄く楽しんでくれてたから、自然が好きなのかなと思って」

ついこの間まで 他の人を好きだった筈なのに、もう私とのデートプランを考えられる程、気持ちって そんなにすぐに切り替えられるものなんだろうか?そんな事をふと考える私の脳裏に、さっきの妙子の言葉が蘇る。

『自分の欲求を満たす事のが大事だからね。欲しい物は手に入れないと気が済まないし』

勝手に寂しくなる私の心とは裏腹に、お隣さんの楽しそうな声が飛び込んでくる。

「山梨の昇仙峡って行った事あります?」

「いいえ」

「よし!じゃ、そこにドライブ行きましょう。あとのプランは考えておくんで」


 お隣さんの用意した白いレンタカーの助手席に座ると、やっぱり落ち着かない気持ちでいっぱいになる。

「じゃ、出発しま~す」

お隣さんは今日も楽しそうだ。首都高から中央自動車道を進みながら、遠くの景色をぼんやり眺めていると、うっかり7年前に記憶と気持ちが引きずられていく。だけど思い出すのは、楽しかった記憶じゃない。車の中で喧嘩した事やむこうが不機嫌になったエピソードばかりが顔を出す。

「今日は晴れましたね」

お隣さんの声で、ようやく私は現実の世界に戻ってくる。

「亜弥さんて、どんな音楽が好きですか?」

「・・・普通に・・・テレビとかCMで流れてる様なの、です。・・・あっ!って言っても、新しいのはそんなに分からないですけど」

お隣さんがカーラジオからオーディオに切り替えると、懐かしい曲がほんのりと流れ始める。

「大学ん時に、当時好きだった曲を集めてMDに入れてたんですけど。どう?懐かしいでしょう?」

私が頷くと、お隣さんも嬉しそうに話を続けた。

「これ覚えてます?シャンプーだかのCMで使われてた曲」

「あ~、そういえば」

「今はMDなんかに入れないけど、当時はそういうのまとめてみたりして」

次に車中に広がったメロディーが、私をぐ~んと深い海の底へ連れて行きそうになる。

「これは確か、ドラマの主題歌でしたよね~」

明るいお隣さんの声が、海底にいる私には太陽の光の様に届かない。

深海生物の様に暫く底を彷徨うと、私はもう一度光の届く所まで上がってくる。

「これ作ったの、大学生の時ですか?」

「確か・・・大学一年か二年だったと・・・」

私が天国から地獄へ滑落していた頃、お隣さんはまだ社会にも出ていないなんて・・・。時間の流れの速さの違いを感じる。と同時に、自分が何も変われていないまま 何年も過ぎてしまっている現実に、遅ればせながら 恥ずかしささえ覚える。

「音楽って、その時の色んな事まで一瞬で思い出せるから・・・不思議ですよね」

“不思議”という表現にしたのは、私の強がりだと思う。だって本音の言葉を並べたら、きっと凄く後ろ向きで陰湿な鉛の様な塊がゴロゴロ姿を見せそうだったから。でもそれで正解だった様に思う。お隣さんがそれに頷いてくれていたから。

 次の曲が流れ始めると、お隣さんが少し笑いながら話し始めた。

「まさに、これがそうですよ。僕の失恋ソング」

しかし車中に広がるのは、明るい軽快なナンバーだ。

「これが?」

「僕が上京してきちゃった事で、学生の頃から付き合ってた彼女と離れ離れになって、それでも暫く頑張ってたんだけど、その年の秋にフラれて。これは、当時よく一緒に聴いてた・・・懐かしの一曲です」

“懐かしの一曲”か・・・。そんな風に爽やかに自分の失恋の思い出を語れるのは、もうそれに囚われていないからだろう。私は・・・。さすがに7年前に別れた彼に未練がある訳じゃないのに、お隣さんみたいに『実はこの曲・・・』とエピソード紹介なんか出来ないのは、自分の中で消化できていないからだ。自分の失敗や当時上手くいかなかった原因を受け止めきれていないんだ。“ああすれば良かった”とか、“こんな事しなければ良かった”とか、本当に様々な反省を繰り返してきたけれど、当時の色んな事を思い出す時、“私の精一杯は無駄だったんだ”って自虐して、その上どこか心の隅っこの方で“じゃ、どうすれば良かったの?”という叫びがとぐろを巻いている。

「友達の話なんですけどね・・・」

私は古い常套手段を用いる。

「もし仕事の帰りが遅くなって、家で待ってる彼女なり奥さんに『先に寝てていいよ』って言ったとしますよね?それでも帰った時、起きて待ってたらどう感じます?嬉しいですか?それとも・・・重たいですか?」

「そりゃ、嬉しいですよ」

即答だ。

「それが一回じゃなくて、毎回毎回そうだとしても?」

「はい」

お隣さんの答えに迷いはない。

「あ、でも・・・相手も仕事してたら、次の日の体調は心配になります」

そうだ。当時そう言われた記憶が蘇ってくる。

「ですよね?それで段々重たく感じる様になりません?」

お隣さんは首を傾げた。

「・・・重たいとは思わないなぁ。かえって、早く帰りたくなりますよ」

当時彼は、そうやって段々に家に帰らなくなっていったのに、お隣さんの真逆の答えに私の胸が変にざわざわする。

「じゃあ・・・」

元恋人と正反対の答えを言ったお隣さんに、もう一つ質問したい。そんな衝動が、私の口を勝手に動かした。

「彼・・・というかご主人の為に、料理教室に通って、毎日仕事の後におかず三品は必ず作る様な人・・・どう思います?」

「そういうの、憧れます」

お隣さんのその一言で、それまでの7年間の腐った気持ちが、嘘の様に救われた思いになる。

「僕、そこまで尽くしてもらった事ないから・・・羨ましいですよ」

「だけど、仕事もしてるんだから そこまでしなくてもいいよ、っていう気持ちが重なって、かえってそれが負担になるって事・・・ありません?」

「実際そういう状況になった事がないから、想像でしかないし、あんまり断言もできないけど・・・」

そこまで言った辺りで、それまで流れていた曲が終わり、一瞬し~んと静まり返る。そこへ、お隣さんの声が滑り込んできた。

「もし、亜弥さんが僕にそうしてくれたとしたら、負担になんか思いません。毎日亜弥さんのご飯楽しみに帰ってきたいし、その分をお休みの日にいっぱい癒してあげたいです」

丁度時間を計った様に、お隣さんの台詞が終わると同時に、次の曲が流れ始める。一瞬の躊躇はあったものの、私は慌てて訂正にあたる。

「さっきの話、私じゃないですよ。友達の話です」

「はい。分かってます。僕も、例えばの話です」

それなのに、まだ私の心臓は馬鹿みたいにバクバクしている。こういう時にむやみに喋ると、声が震えてドキドキがバレてしまいかねない。だから私は、暫くじっとしている事にする。この心臓のドキドキは、嘘がバレそうになったからだと、必死に自分に言い聞かせながら。


 さっきまで遠くの山に向かって走っていた車が、トンネルを幾つかくぐっていくと、あっという間に山に囲まれた景色へと様変わりしていく。ぐねぐねとした山道を走らせながら、お隣さんが言った。

「所々紅葉してるところもありますね」

荒々しい山肌や崖に切り立つ木々の雄々しい風景に、私もつい夢中になる。

「滝があるそうですよ。降りて行ってみますか?」

秋の休日、やはり観光客で溢れている。若いカップルもさる事ながら、家族連れや老人会の様な年齢層の団体もいる。駐車場には大きな観光バスも停まっていたりして、外国人観光客もいる。

 私達は人の流れについて階段を降りて行くと、真っ直ぐに落ちる滝から煙るしぶきが、薄っすら肌に感じる場所で足を止めた。・・・止めたというより、写真撮影のスポットで、渋滞中なのだ。

「撮りましょうか?僕らも」

私の返事を聞く前に、お隣さんがそっと私の背中に手を当てて、滝をバックにカメラを構えた。目の前に映る自分の顔が少し緊張気味なのは誰が見ても分かる。するとお隣さんが、そっと呟いた。

「滝に心霊写真映ってたら、笑えますよね」

「えっ?!」

思わず驚いて、お隣さんの方へ顔を向けた瞬間に、カシャッとシャッター音が聞こえる。

「亜弥さ~ん。横向いちゃったから、もう一度撮りますよ」

「だって、変な事言うから・・・」

するとお隣さんは、大きな口を開けてわっはっはと笑った。

「冗談ですよ~。本気にしました?」

「しますよ~」

「ただの小学生みたいな冗談ですよ。亜弥さんも単純だなぁ」

その瞬間、再びシャッターが切られる。

人の流れの少ない所へ移動して、お隣さんは今撮った写真を見せてよこす。凄く自然な笑顔で映っている自分に驚く。『単純だな』と言われたあの瞬間、一瞬だけだけど、お隣さんとの歳の差も、自分の気持ちにブレーキを掛けている重しも、全て忘れてしまった瞬間だった様に思う。その写真だけみたら、まるで普通のカップルだ。

「僕ら、お似合いじゃありません?」

またドキッとする事を言う。もしかしたら私の気持ちを揺さぶってもてあそんでいるのかもしれないと思う。すると、もう一枚前の写真をめくって、一枚目の失敗作を見て笑った。

「亜弥さん、いい表情してるなぁ~。どっきりだったら、大成功!の札出ますよ」

楽しい。やっぱりお隣さんと一緒にいると、楽しい。自然と笑顔になる自分がいる。だけど・・・だけど・・・。私は必死に自分の気持ちのブレーキを全開に踏むのだった。


 朝通った道が夜の顔に変わっている。それを車の中から眺めながら、二人の会話も弾む。絶えず私の中のブレーキを踏み続けてはいるけれど、確実に二人の距離が縮まった様に感じる。

だから私は、決めなければいけない。今日家に帰ってから、お隣さんにメッセージを送る事を。だって、このままでは思わせぶりにお隣さんを振り回す事になるから。

「紅葉の季節になったら行きたい所、これでもう一つ増えましたね」

もうすぐ終わる今日のデートを振り返って、お隣さんが言った。だけど、私は返事が出来なかった。

「この間の場所と、今日の場所と。あ、でも一ヶ月やそこらで、また同じ所に行くってのも 何だか・・・ね。来年とかでもいいですね」

来年・・・。今二人の来年の予定なんか、とても決められる筈はないのに、こんな事を言わせてしまう私がいけないんだ。

 車はマンションの前に停まって、お隣さんが笑顔をこちらに向けた。

「お疲れ様でした。到着しました」

「また・・・車、返しに行かなくちゃいけないんでしょ?大変ですね。ごめんなさい」

何故か語尾に謝罪を付け足してしまう。

「亜弥さん、電車とドライブとどっちが好きですか?」

当然答えにくいのを察して、お隣さんが続けた。

「僕はドライブも新鮮で楽しかったです」

「今日は、ありがとうございました」

終わりにしよという雰囲気を察したのか、お隣さんが私の肩越しに待ったをかける。

「来週、また時間もらえませんか?」

「・・・ごめんなさい」

視線の端にふとお隣さんの悲しい表情が飛び込んでしまったから、私は思わず言葉を足した。

「来週は引っ越しが・・・」

「引っ越しか・・・」

お隣さんの溜め息が聞こえる。

「・・・寂しいです」

「・・・・・・」

私の心は その言葉でじんわり満たされていくけれど、それとは裏腹に、返す言葉が見つからない。

「じゃ、月曜。仕事の後に、待ち合わせしませんか?」

「・・・ごめんなさい」

二回目のごめんなさいは重たい。お隣さんが私の横顔をじっと見つめている。

「僕・・・可能性なしですか?」

「・・・・・・」

ここでもう一回『ごめんなさい』と言えば、決定的だ。その一言で、後で送りつける文章に悩む必要もないのだ。それなのに、なかなか口から言葉が出ない。いつもなら周りのご機嫌取りの為に『ごめんなさい』なんて言葉、いくらだって言えるのに。いつもの『ごめんなさい』は丸く収める為の いわば繋ぐ『ごめんなさい』だけど、今言おうとしてるのは 切る『ごめんなさい』だから。

「理由、教えて下さい。ちゃんと受け止めるんで」

私が三回目のごめんなさいなんて言わなくたって、もうお隣さんには届いていたのだ。彼が覚悟めいた顔をしたから、私の胸はさっきとは打って変わって苦しくなる。本当、自分勝手だ、私って。

「・・・・・・」

理由なんか言える訳がない。だってそれは、心にもない事を言えって事になるから。

「やっぱガキで、頼りないですか?」

「いえいえいえ!全然そんな事思った事ないです」

そこはちゃんと否定しておきたい。

「じゃ・・・全然つまんなかったですか?一緒にいて」

これだって否定したい。だけど、それさえ否定してしまったら、『じゃ、なんで?』となる。だから答えられない。

「僕は楽しかったんだけど・・・僕だけでしたかね、楽しんでたの」

寂しそうにそんな事を言う顔につられて、私は思わずそれを否定してしまう。

「違います!」

「じゃ・・・」

想定内のお隣さんの言葉を聞きかけたところで、私はそれを途中で遮った。

「そんな急に、気持ちって切り替えられるものですか?」

言ってしまって、自分でびっくりだ。まるでお隣さんが元カノから私に気持ちを切り替えた事を責めているみたいに聞こえる。私は最低だ。自分の理由を棚に上げて、人のせいにしようとしているのだから。当然お隣さんは固まった表情になった。そして、背もたれから背中を離し、深くお辞儀をしてみせた。

「そこちゃんと話してなかったですね。すみません」

「・・・いえ・・・」

「お互いに友達でいた方がいい相性なんだって納得できたから、気持ちも残ってないし・・・もちろん向こうも同じです。友達としての期間が長かったから、又それに戻っただけっていうか。そう思えたら、嘘みたいに気持ちが楽になって・・・で、亜弥さんの事が凄く気になり始めて・・・毎日、今日は大丈夫かな?とか 今日は何してるかな?とか考える様になって」

思いもかけず、お隣さんの気持ちを聞く事になり、正直戸惑いが膨らんでいく。

「正直、元カノと別れてから亜弥さんの事好きになったのか、亜弥さんの事が気になり始めて 彼女への気持ちが変わり始めたのかは分かりません」

正直な胸の内を聞いて、余計に私の中に得も言われぬ不安の塊がどんどんとかさを増して、私を押し潰しにかかってくる。何なんだろう、この不安。何なんだろう、このモヤモヤは。何なんだろう、告白されているのに喜べない感じは。

「よく、分かりました。でも・・・ちょっと待って下さい。今日は一旦、家に帰ってもいいですか?」

これは逃げる為の口実じゃない。本当にもういっぱいいっぱいだったのだ。一旦家に帰って一人になって、冷静にもう一度一から色んな事を考えたい。そう思ったのだ。

「そうですね。慌てて答え、出さないで下さい。僕、待ちますから。ちゃんと考えてくれるの、嬉しいです」

またいつもの優しい笑顔を向けられて、私はついホッと胸を撫で下ろす。

「でも一個だけお願いがあります」

その言葉が、私の後ろ髪を引っ張った。

「引っ越す前に、もう一回だけ時間下さい」

お隣さんは本気だ。いつものやんわりとした雰囲気とは違うオーラが出ている。私には見えないけれど、もしスピリチュアル何たらっていう、その人の出してるエネルギーの色を感じ取れる人が見たら、きっとお隣さんは さっきとは違う色を発していると思う。そして最後にもう一言付け足した。

「その時に、答えが出てても出てなくても」


 家に帰るなりベッドに倒れ込む。混乱しているのは気持ちだけでなく頭もだ。諸々一切合切リセットする様に、私は熱い風呂に入った。

 出てきてみると、不思議とさっきより少しだけ頭がすっきりした様に感じる。錯覚かもしれない。でも あのモヤモヤから解放された事は、あの熱い風呂の効果だと自負する。さてと、一つ一つ問題と向き合っていきますか、と言わんばかりに、私は大きなグラスいっぱいにウーロンハイを作って床に座った。

 そのタイミングを見計らった様に、紅愛からの着信だ。

「こんな時間に、ご主人は?平気なの?」

夫のいる人が掛けてくるには、遅い時間だ。私は率直な疑問をまずぶつけた。

「今日は飲み会だって~。だから、暇つぶしに掛けてみたぁ~」

「暇つぶしね・・・」

「テレビも飽きたし、今旬のあ~やと話すのが、一番楽しそうだったんだもん」

完全に面白がられているけれど、憎めないキャラクターだけに返す言葉はない。

「その後どう?進展あった?」

「・・・凄い嗅覚だわ。尊敬する」

「あら?またナイスタイミングだった?私、神かな?」

アラフォーらしからぬ若者の口真似をしてみせて、勝手にあははと笑っている。私は手元のウーロンハイを、ゴクリと最初の一口流し込んだ。景気付けだ。そして今日の出来事や帰りの車での話を一通り伝えると、少し胸がすっとする。ただ聞いてもらいたかっただけの様な気もする。誰かに吐き出して、一旦空っぽにしたかったのかもしれない。嘘の様に、心が軽くなる。あんなにモヤモヤしていた自分に首を傾げたくなる位だ。

「早くオッケーしちゃいなよ」

紅愛の第一声がこれだ。私もさすがに面食らう。

「また面白がってぇ。真剣に考えてよ」

すると紅愛は、声のトーンを急に落として言った。

「ねぇ、あ~や。私達もうすぐ40なんだよ。出産もギリギリの年齢。そんなにじっくり考えてる時間、ないよ」

「それは分かるけど、だからって勢いとかノリでって訳にいかないでしょ」

「なんで?」

「なんで?なんでって・・・それ聞く?」

「聞くわよ。なんでノリとか勢いで決めちゃいけないの?」

「それは・・・」

今から付き合うって事は、結婚なしでは考えられないからだって・・・言えない。だって、付き合う前から結婚したいかどうかなんて分からないでしょ?って一喝されるに決まっているから。

「何よ。理由はない訳?」

「・・・・・・」

「どうせ、結婚の事とか考えると・・・とか何とか言うんでしょ?」

悔しいけど、全部読まれている。だから返す言葉もない。

「もっと自分の感性を信じなさいよ」

そう。昔から紅愛は感性を大事にしてる。よく昔言っていた。『紅愛は右脳で生きてる人。亜弥芽は左脳で生きてる人』いわゆる何でも理屈をくっつけないと動けないタイプだ。

「先の人生、何か保証されてる人なんて、誰一人としていないんだよ」

分かってるけど・・・。私はいっつも、その言葉の後に言い訳を付け足すのが上手い。なかなか私が重たい腰を上げないから、紅愛はとどめの言葉を打ち込んだ。

「今生きてる私達が、人生において皆平等に決まってる事って、二つしかないんだって。それって何か知ってる?」

「・・・何?」

「今生きてるって事と、必ず死ぬって事。この二つ」

「・・・」

「そう考えたら、それ以外は何も決まってないし、何も保証されてないって事」

「うん・・・」

「まだ言わなきゃ分かんない?だからぁ、相手のいる事いくら考えたって、どうなるかなんて分からないの。どうしたいか、なの!」

理屈っぽい私に、かなり寄せた説明をしてくれてるのが分かる。紅愛の言う通りだ。良くわかる。良く分かるけど・・・。と又いつもの癖で、言い訳を足したくなる。

「じゃ、不安要素、順番に上げてごらん」

まるでお母さんが子供に諭すみたいだ。だから、私もそれに甘える事にする。

「私の事が気になって彼女とも別れたんだとしたら・・・近くにいる人を好きになっちゃう様な・・・惚れっぽい人なのかなぁ?だとしたら、私が引っ越して傍に居なくなったら、また別の人好きになりましたってフラれるのかな・・・って」

「なるほど」

紅愛のその言い方が、私を高い所から見てうすら笑っている様に感じる。でも、それが何でだか、分かっている。

「自分で言ってみて、気が付いた?」

半分笑いながら、紅愛が私に聞く。

「・・・分かってるよ。相手のいる事、いくら考えたって分かんない、でしょ?」

「イエ~ス!」

「・・・・・・」

「あ~やは、フラれる事ばっかり心配してるみたいだけど、それと同じ位 上手くいって結婚って可能性だってあるんだよ」

紅愛のポジティブさは凄いと昔から尊敬していたけれど、同じ人間なのに、なんでこうも思考回路が違うんだろう。

「一歩ずつ、先に進んでみたら?取り返しがつかない事なんて、そうそうないよ。違うなって思った時点で、やめればいいだけの事だもん」

大抵 物事はシンプルだ。それを勝手に難しくしているのが人間だ。・・・ってどっかで聞いた事がある。私の心が段々に固まっていく。

「引っ越した後の彼の様子を見てから、答え出した方がいいかなぁ・・・」

そう口に出してみて、分かる。紅愛に言われる答えが。

「今生きてるって事しか決まってないの。明日が来る保証はどこにもない。・・・ちなみに彼にもね」

「・・・だよね」

「私に言われなくても、分かってるんでしょう?」

そうだ。あとは背中を押してくれる追い風だけが必要だ。

「じゃ、今この電話切ったら、返事しに行きな」

「え?!直接?」

「だって、隣でしょ?」

「隣だけど・・・」

「電話とかラインとか、駄目だよ」

「どうして?」

「簡単に始まったら、簡単に終わりにされるよ」

急に重たい言葉だ。もう少し爽やかな追い風を期待した私だったが、きっとこの位ジェット機並みの爆発力がなかったら、私みたいなまどろっこしい人間は今夜の内に動かないんだろう。


 電話を終えてウーロンハイを飲み切ると、私は気持ちを落ち着ける為にベランダに出てみる。秋の夜風が、高鳴る鼓動を正常値に戻してくれる様に感じる。ベランダに寄り掛かってふうっと大きく溜め息を吐くと、隣から声がする。

「亜弥さん」

慌てて声のする方を振りむくと、同じ姿勢でベランダに寄り掛かっているお隣さんがこちらを見ていた。

「あ・・・あ、どうも」

予期せぬタイミングに、私の慌てぶりがお隣さんの笑いを誘う。

「ごめんなさい、急に声掛けて」

「いえ・・・そんな事はいいんです」

言いながら、私は窓の方までズズッと下がった。

「あれ・・・?見えなくなっちゃった・・・」

お隣さんが覗く前に、私は慌てて口を開いた。

「います。ここに居ますから・・・」

「・・・顔見えないの、寂しいです」

「気にしないで下さい」

良く考えたら 変な返しだって事位わかる。だってお隣さんが、クスッと笑ったから。だけど、私にとっては よそ行きじゃない自分を見られる事の方が問題だ。

「今日、楽しんでもらえましたか?」

「はい。あっ、ありがとうございました」

そうだ。まずは今日のお礼を言わなくちゃいけなかった。私は次に話す事ばかりに頭を占領されて、冷静さに欠けている自分を反省する。

「後から知ったんですけど、山梨ってほうとうが有名じゃないですか?それの手作り体験できる所があったらしいんですよね。リサーチ不足で、すみません。分かってたら、一緒にやってみたかったなって」

「ほうとうなら、お蕎麦より太いから、切るのそんなに難しくなさそうですよね」

「亜弥さん、そば打ち体験とかした事ありますか?」

「ないです、ないです。龍君は?あります?」

「僕もないです」

そう言った後で、お隣さんの明るい声が続いた。

「久し振りに名前、呼んでくれましたね」

「そう・・・ですか?」

自分だって分かってる。だけど、照れ臭くて ついしらばっくれてしまう。

 会話のない時間が一瞬立ち込めたから、その隙に大きく息を吸った。

「ほうとう・・・又の機会に」

「そうですね。・・・え?!」

そう聞き返されても、その意味を説明する事はできない。でも、すぐに何のリアクションもないから、こちらの真意は伝わっていないのかもしれない。

「また・・・誘ってもいいんですか?」

「はい・・・是非」

「・・・ほうとう以外でも・・・ですか?」

お隣さんにしては、随分慎重に言葉を選んでいる。

「はい。以外でも・・・」

「それって・・・」

そう言いかけたお隣さんの言葉を待ちながら、私は心の中で必死に念じる。あとは『はい』と答えるだけで済む様な質問にして、と。そしてお隣さんの言葉が続いた。

「まだチャンスがあるって事ですか?」

これでは『はい』と答えたって、こっちの意味は伝わらない。私がその返事に慎重になっていると、ふと夏の一コマが急に私の脳裏に蘇ってくる。

偶然ベランダに出た時に漏れ聞こえてきた、お隣さんと彼女の告白シーン。こっちが赤面してしまう様な場面を偶然といえども盗み聞きしてしまった事の衝撃で、鮮明に覚えているのだ。それが今このタイミングで再生される皮肉。ベランダでの告白なんて、二番煎じみたいで嫌だ。いや・・・違う。お隣さんと可愛らしい元カノのキラキラした思い出に引けをとって、くすんでしまうのが嫌なんだ。

私の言葉が 急に喉から引っ込んで、頭も真っ白になってしまうのだった。

「ごめんなさい。又にします。本当、ごめんなさい!おやすみなさい」

逃げる様に部屋の中に引っ込んで、勢い良く窓をガラガラッと閉めた。突然返事をしようとしたり、思わせぶりにお隣さんを振り回しておいて部屋に逃げ込むなんていう反則技、分別の付くいい大人がする事じゃない。しかも『ごめんなさい!』なんて言って恥じらい深く逃げたりするの・・・乙女かっつうの!と紅愛に叱られそうだ。もうこうなると溜め息しか出ない。

 そこへ携帯がメッセージを受けてお知らせ音を響かせる。何となく相手は分かっている。伏せていた電話を恐る恐る手に取ると、やはりその主はお隣さんだった。

『もし嫌じゃなかったら、月曜の朝、一緒に駅まで行きませんか?』

果たして、迷うところだ。月曜の朝駅に向かって歩きながら 例の返事をするか、それとも それまでにきちんと返事をしておくべきか・・・。また色々左脳で考えようとする私を、紅愛が私の右脳からひょっこり顔を出して何か言いたげに見ている様な気がしてならない。その圧に押し切られて、私の指は渋々動く。

『明日、お家に居ますか?』

するとすぐに返事が来る。

『特別何の予定もありません』

私は決戦の日を明日に決めた。


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