第10話
10.
その週の土曜日、7年振りのデートを明日に控えた私は落ち着かない気持ちで過ごす。クローゼットを開けて明日着ていく服を物色したりする自分に戸惑っているのも確かだ。今更勝負服でも選ぶつもり?私ったら、どんな自分を演出しようとしているんだろう。大人の落ち着いた女性?それとも少しでも若くみえる服?はたまたGパンと白シャツで、シンプルで普段のまま飾らない感じで来ましたってアピールする?今まで大抵会うのは会社の行き帰りだ。だから仕事に行く時みたいな服とは違う格好で行こう。そう決めた自分の気持ちに、再び疑問が湧いてくる。いつもと違う自分を見てもらう為?普段とのギャップ?私は頭をぐしゃぐしゃっとして、クローゼットを閉めた。
私がそんな事で憂鬱になっている間に、お隣からは少し物音が聞こえてくる。誰かお友達でも遊びに来ているのかもしれない。ベランダの窓を開けているから、時々お隣さんの笑い声が聞こえてくる。・・・彼女?!まさか?!そんなフレーズが頭の中を行ったり来たりする。私と明日デートの約束をしている前日に、家に彼女呼ぶ?まさか・・・そんなデリカシーの無い人だとは思えない。だけど・・・。私は、彼女がいると知ってる上でデートに行く事を承諾した位の女だから、そこに気兼ねする必要なんかないと思っているのかもしれない。私は深い溜め息を吐いた。今後もしお隣さんと本当に付き合う事になったとしたら、こういう事を承知の上で付き合うという事だ。
「やっぱ、無理だわ・・・」
思わず零れた独り言と共に、私は床にへたり込んだ。溜め息と共に鏡の中に映る自分に、見つけた一本の白髪。抜いてみるが、髪をかき分けると中から又白髪が顔を覗かせた。私は慌てて靴を履いて、近所のドラッグストアへと走った。
ヘアケア製品の並ぶ棚の前で迷う。多種あるカラーリング剤の中から、ヘアマニキュアを選ぶべきか。白髪染めを選ぶべきか。近くを通り掛かった自分よりも年上に見える店員に質問する。
「ヘアマニキュアでも、ちょっと位の白髪なら染まりますよね?」
「白髪には色が入りにくいんですよね、マニキュアだと。だから白髪をお染になりたければ、やっぱり白髪染めをお薦めします」
肩を落とす私の手がなかなか出ない。とうとう自分も白髪染めを買う歳になってしまった現実を受け入れるのには時間が掛かるのだ。たかが一本や二本見つけた白髪なら、ヘアマニキュアだってまだ充分な筈だ、という声と、白髪を気にして飛び出して来たんだから、今更何を迷ってんだと自分をせっつく声が入り乱れる。
結局白髪染めを一箱購入して、私は家に帰る。そして携帯を取り出した。
『ごめんなさい。明日、行けなくなってしまいました』
そうメッセージを打って、送るのに又時間が掛かる。それを見ていた様なタイミングで、お隣さんからメッセージが届く。
『明日10時、下のエントランスで待ってますね。楽しみにしてます』
勝手にキュンとしてしまう自分を強制的に無視して、自分のさっき打ち込んだメッセージを送信しようとしたところで、電話が鳴った。
「明日だね、いよいよ。どう?緊張しちゃってる?」
紅愛だ。
「・・・やっぱ、やめようかな・・・」
「ほ~ら、そんなこったろうと思って」
面白がっているだけじゃなく、意外と私の事を気に掛けてくれている様だ。
「余計な事、色々考えちゃったんでしょ?いいのいいの。明日は久々に映画館で観る映画を楽しんでくればいいじゃない。それで、ちょっとだけ、その・・・龍君だっけ?その子がどんな子なのか、観察してくればいいんだよ」
「簡単に言うけど・・・」
「あ~やだって、今まで年相応に男の人とも付き合ってきたでしょ?しかも同棲だってした事あるんだよ。その人の言動から中身まで見抜ける力、付いてる筈だよ。10代や20歳そこそこの頃とは違うんだからさ、私達」
紅愛にそう言われると、まずは約束通り明日行ってみようと思えてくる。私はお隣さんに送ろうとしていた断り文を消して、白髪染めをした。
日曜日朝10時、エントランスに下りると、そこにはお隣さんがもう来て待っていた。
「おはようございます」
やっぱり昔みたいに、気楽に笑顔で挨拶するのには少し抵抗がある。
「あいにくの天気ですね」
外は朝から雨が降っていた。お隣さんが少しがっかりした顔で言うから、私は少し声のトーンを上げた。
「映画館は屋内ですから」
それを聞いて、お隣さんはにこっと笑った。
「ですね」
傘を差して歩くから、ちょうどいい距離が保てるのも 私にとっては都合がいい。いつもの様に駅まで歩いて、一緒に電車に乗って映画館まで歩く。そんな何の変哲もない事の筈なのに、私の心臓はずっとドキドキしっ放しだ。ただ7年振りのデートだというだけで、こんなに乙女な自分になってしまうものだろうか。背中に初心者マークをつけて歩いている様な気さえする。歩きながらする会話だって、気の利いた事一つ言えない。車の免許取り立ての頃、運転に必死で誰かと会話なんかする余裕がない、そんな感じだ。
映画館に着くと、お隣さんが私にチケットを一枚差し出した。
「もう買って下さってあるんですね」
そう言って財布を取り出すと、お隣さんがそれを止めた。
「今日は僕が誘ったんで、格好つけさせて下さい」
そう言われてしまったら、出せない。
チケットカウンターには凄い人が並んでいる。入り口前にも長蛇の列だ。
「飲み物、買いますか?」
アイスコーヒーを二つ買って、開場された館内へ入る。お隣さんの後について行くと、今まで映画館の中で座った事もないエリア・・・指定席だ。しかも何だかそこだけ立派なシートだ。
「凄い・・・。映画館でこんな所座った事ない」
「映画って結構長いじゃないですか。それがこのシートだと、快適らしいですよ」
座ってみると、確かに頭の後ろまであるゆったりしたカウチソファといった感じだ。包み込まれる様な座り心地に、思わず私は隣を向いた。
「心地良過ぎて、寝ない様にしなきゃ」
するとお隣さんが優しい笑顔で言った。
「もし寝ちゃったら、僕のお薦めの映画が亜弥さん好みじゃなかったって事だから・・・僕のせいです」
「やだぁ、そんな風に言われたら、絶対寝られないじゃない!」
私が笑うと、お隣さんも笑った。
「じゃ、もし寝ちゃってたら起こしてあげます。だから、僕も寝ちゃったらお願いします」
映画が終わると、エンディング曲が流れる中エンドロールをじっと見つめる私の方へ、お隣さんは顔を向けた。
「どうでした?」
私は慌てて濡れた頬を手で拭いて、わざとごまかす様に笑った。
「全く寝ませんでした」
「良かった」
「このシート、このままもう一本観られそうな位、座り心地最高ですね」
「実は、映画館ってスクリーンがでかいのはいいんだけど、最後の方は座り疲れちゃうっていうか・・・それが苦手で、ついつい家でDVD観る様になっちゃったんですよねぇ」
私もそう言えば映画にあまり良い思い出はない。7年前まで付き合っていた彼と付き合い始めの頃、むこうが待ち合わせに大遅刻して 楽しみにしていた映画に途中から入った事がある。最初の肝心な部分が分からなくて せっかく観たのに何だか感動が薄くてちょっと不機嫌になっていた私が、帰り際にそのうっぷんを弾けさせて喧嘩になった事がある。それから映画は決まって家でDVDを観る様になってしまったんだっけ。
20代の頃に付き合っていた彼は、あまり計画的な方じゃなかったから、デートもいつもノープラン。困った時の映画館といった風だったから、観たい物がやっていなくても時間潰しみたいに映画館に入って寝てしまう・・・そんなデートに退屈していた日もあった。
高校生の頃好きだった先輩と初めて映画に行った事もあったっけ。でも緊張し過ぎて、途中でお腹が痛くなってトイレで過ごした苦い思い出もある。
映画館を出ると、お隣さんが言った。
「お昼、食べに行きましょうか」
そう言って傘を広げた。
「亜弥さん、シーフード好きですか?」
私が頷くと、お隣さんは嬉しそうに微笑んで説明した。
「この近くにシーフードが美味しい店があるんです」
下調べをしてきたんだろうか。次はここ、次はここ と、手を引かれる様に案内されて、一緒にいて 楽だ。
お薦めと言うサラダやガーリックシュリンプ等をオーダーする。私はハワイアンな店内を見回しながら言った。
「シーフードレストランなんですね」
「一度来てみたかったんです。会社で良い評判聞いてたから」
“会社”というフレーズに、私のアンテナが一気に傾く。会社で聞いた評判という事は、彼女も聞いているのかもしれない。それなら当然、彼女と行きたいねと話題になるものじゃないんだろうか。
「良かったんですか?私と来ちゃって・・・」
これは顔を見ながらは言えない。さすがに声も小さくなる。するとお隣さんが言った。
「僕、彼女と別れました」
「え?!」
思わず反射的に顔を上げてしまう。私が何も言わずにじっと見ていたからだろうか。お隣さんは何を言うでもなく、ゆっくりと頷いた。
「・・・はい」
はいと言われても、何と返したらいいのか困る。だから私はこの際、思い切って聞いてみる事にした。
「どうして・・・ですか?」
「いや・・・まぁ・・・」
歯切れの悪い様子を見て、私はあまり間を空けずに質問を繋げた。
「私のせいですか?」
「亜弥さんの?!違います、違います」
何で別れたのかをはっきり言えないという事は、もしかしたら二股男の常套手段かもしれない。別れてないのに、別れたと言って安心させる手口だ。
「だって、ついこの間伊豆に旅行に行ったりして、上手くいってたじゃないですか?」
ここは私もお人好しにならず、突っ込んで聞いておきたい。大事なところだから。目の前の相手が本当の事を言っているか、嘘をついているか位、紅愛の言った通り、多少は分かるつもりだ。
「僕のせいです。僕が・・・飛ばし過ぎました」
彼の表情から、これが嘘を言っている顔でない事くらい、きっと誰だって分かる。でも、それ以上聞いていいのかどうなのか 私が躊躇していると、お隣さんの方から口を開いた。
「彼女とは入社した時から仲良くなって、それでも今まで2回フラれてたんです。今年の夏3回目の告白で、ようやく付き合える事になったから、つい飛ばし過ぎちゃって・・・」
手に入ったら、もう飽きちゃったって事?私の中に湧き上がる疑問を声に出す事はできない。だから別の言葉に変換されてしまう。
「そんなに何年も好きだったのに、もう・・・いいんですか?」
「最初は楽しかったけど・・・お互い相手に求める事が多過ぎちゃって。段々窮屈だったり寂しかったり、噛み合わなくなっちゃったんですよね」
なんか聞いてて、理由がリアルだ。これが嘘だとは思えない。だけど・・・やはり一抹の不安が残る。この人は追いかけるのが好きで、振り向いてしまったら急に醒めてしまうタイプの人なのかもしれない。
「いつも・・・こんなに短いんですか?」
お隣さんは、少し考えてからクスッと笑った。
「こんなに短いのは初めてです。・・・って、心配になりますよね?」
「いえ、そういうつもりじゃ・・・」
私は心の中を見られたみたいに恥ずかしくなり、慌てて首を振ってそれを否定した。
「でも嬉しいです」
突然お隣さんはそう言って、私に笑顔を向けた。
「多少は僕の事、そういう対象として考えてくれてるって事ですよね?」
「いや、そんな深い意味ないです」
何でか分からないけど、顔が熱い。だから私はお水を飲む。お水を一口飲んだ位で顔が冷える訳はないのに、人はテンパると可笑しな行動を取るものだ。『溺れる者は藁をも掴む』に近い心境なんだと思う。そして、そんな私を眺めて、お隣さんが向かい側でクスッと笑った。
「亜弥さんて、可愛らしい女性だなって思います」
今最高潮に熱くなってしまった顔を平常通りに戻そうと必死になっている時に、お隣さんが変な事をしらっと言うから、私は体中嫌な汗がどっと噴き出す。こんな事平気で言えるなんて、随分女に慣れていると言うべきか、私の事をからかっていると言うべきか、絶対にどっちかだ。私はどんどん悲しい気持ちになっていくのだった。
その時オーダーしていたサラダが運ばれてくる。まるで私の負のスパイラルにブレーキを掛けるかの様に、すっと割って入ってきたのだ。これ以上自分の感情に振り回されない様に、私はお隣さんの分のフォークと取り皿を手に取って渡した。
「美味しそう」
頭の中を別の事でいっぱいにしないと、今はどんどん暗い方に引きずり込まれる気がする。そんな思いで、必死に私は目の前の料理の事だけを考える。付いてきたドレッシングを回し掛け、取り分け用のスプーンとフォークでサッと和えると、私はお隣さんの目を見ずに手だけ差し出した。
「取りましょうか?」
夢中で自分の皿にも取り分けた分を口に運び、声を上げた。
「このドレッシング、美味しいですね」
「何が混ざってるんですかね」
お隣さんが首を傾げている。
「人参と玉ねぎのすりおろしと、オリーブオイルと・・・ガーリックも入ってますよね?」
お隣さんは確認する様に、サラダをもう一口食べてみている。
「凄いですね。食べたら、その材料分かっちゃうんだ」
昔に結婚を考えて料理教室なんかに通ってから、食べたら大体のレシピは分かる様になったのだ。しかし、それももう悲しい過去の出来事の一つでしかない。だから、自慢気に話せる事でもない。
「料理、得意なんですね」
「いえいえ。全然。当たり前の誰でも出来る様な物しか作りません」
今は余計な事を極力思い出したくないのに、勝手に過去のフィルムが頭の中で再生されてしまうから困る。
『料理とか掃除とか洗濯とか、そんなに完璧に頑張んなくていいよ。お互い仕事してんだしさ。俺そういうの、別に亜弥芽に求めてないよ。はっきり言って、亜弥芽が頑張れば頑張る程、俺も家でちゃんとしないといけないのかなって思っちゃって・・・疲れたわ』
サラダを黙々と食べながら、私の記憶が一瞬 当時の二人の住んでた部屋へと飛んでいるのだった。
そこへ又、その記憶を一時停止するかの様に、ガーリックシュリンプが運ばれてくる。
「これって名前は聞いた事あるけど、食べるの初めてです」
何でって、7年前に別れた彼氏は甲殻類アレルギーだったから、海老蟹系は全部パスだったのだ。
「亜弥さん、ハワイ行った事あります?」
私が首を振る。
「僕大学の卒業旅行で、友達とハワイ行ったんです。そん時これ初めて食べて、めっちゃ感動した料理です。でも、日本で同じ位感動的な味には、まだ出会ってません」
「じゃ、期待しちゃいますね?」
取り皿に取り分けてお隣さんに勧める。口に運ぶ様子をじっと見ていると、お隣さんは微妙なリアクションだ。そして私に言った。
「亜弥さんも食べてみて下さい」
私がもぐもぐしているのをじっと待って、お隣さんが聞いた。
「美味しいですか?」
「はい」
でもその後にお隣さんのリアクションが続かないから、今度は私が質問した。
「美味しくないですか?」
「いや、美味しいですよ。でも・・・あの時の感動程じゃない」
「あの時は初めて食べた感動と、ハワイっていうロケーションの感動も合わさってたんじゃないですか?」
「そうかぁ。それであんなに鮮明に残ってるのかなぁ?」
「そうですよ、きっと」
もう一口海老を口に運ぶのを見ながら、私は続けた。
「何でも初めての事って、新鮮で感動して 記憶にも深く残ってるものですよ」
「確かに。そういう“初めてスペシャル”な効果に魅了されたのかもしれないですね」
食事を終えて店を出ると、それまで降っていた雨が止んでいる。そして建物の隙間から見える小さな空を、お隣さんが指さした。
「虹!虹が見えてる!」
「虹?!」
私がキョロキョロしていると、お隣さんは私に顔を近付けて視線を指先の方へ一直線に投げた。
「ほら、あっちの空。見えました?おっきい虹」
お隣さんに導かれた指の方向へ視線を走らせると、そこには大きな虹が小さな空いっぱいに掛かっていた。
「凄~い!綺麗!」
「虹なんて見たの、何年振りだろう」
「私も」
やはり何故かテンションが上がる。虹っていつも見たい時に見られる物じゃないから、余計だ。ある時ふっと顔を出す、私の過去の記憶と一緒だ。
「今日一日、空けてくれてますか?」
突然の質問に、私は言葉を失う。すると、お隣さんは更に追い打ちをかけてくる。
「この後の時間、僕に下さい」
男の人に頭を下げられては、これ以上の断りはない。
「雨が止んだから、行きたい所があります」
行き先は内緒と言うが、どことなく嬉しそうな温度が片側から伝わる。
「こっちです」
案内されたのは、緑に囲まれた緑道だ。
「亜弥さん、ここ来た事あります?」
「ここ・・・?」
私がキョロキョロすると、不動尊の看板が目に入る。若者にしては随分渋い選択だなと思いながら、私は首を横に振った。
「ここ、都内で唯一の渓谷らしいです」
「渓谷?ここに?」
道路から少し下りただけで、すっぽりと緑に囲まれて、ここがどこだったか一瞬忘れてしまいそうな雰囲気がある。
「足元、濡れてて滑りやすいから気を付けて下さいね」
階段を下りると、すぐに川が現れる。午前中から降っていた雨のせいもあり、所々に湧き水が流れているから、地面が濡れている。あちこちから鳥の鳴き声が響き、さっき顔を出したばかりのお日様の光が、木々の葉の隙間から 筋となって神秘的に差し込んでいた。
少し進むと、川に板が渡してある場所でお隣さんが立ち止まって聞いた。
「向こう、渡ってみますか?」
今朝まで雨が降っていたから、少し水量は多い。だけど、深い川じゃないから板の上を渡るのも怖くはない。だけど、先を歩くお隣さんが途中で降り返って
「大丈夫ですか?」
って聞いてくれる優しさに、正直心が癒されている私だ。そしてお隣さんが手をそっと差し伸べてくれるから、戸惑いはあったけど、私もちょっとだけ手を借りる。ちょっとだけのつもりだったけど、意外にもがっちり握ってくるお隣さんに、今までは感じなかった男らしさを感じて、胸がきゅんとなる自分がいる。そう。滑ったら危ないからだ。私は自分にそう言い聞かせて、心臓の高鳴りを鎮める・
「ここ、紅葉の季節になったら、凄く綺麗でしょうね」
「そうですね。春も桜が満開になるらしいです」
「へぇ~」
そう言って、私は辺りの木々を見回して想像してみる。思わず深呼吸したくなる様な場所だ。普段と違って沈黙も気にならない。却って、鳥の澄んだ鳴き声や木の葉が風に揺らされて擦れ合う音が ヒーリングのBGMの様だ。
遊歩道を進むと、苔の生えた岩間から湧き出した水が落ちる滝の前で立ち止まる。
「マイナスイオン、たっぷり出てますかね?」
思わず私の口も滑らかになる。渓谷内の散歩が私を元気にしてくれている証拠だ。
茶店に立ち寄って、暫しの休憩を摂る。メニューにひとしきり悩んで、結局お隣さんはところてん、私は抹茶とあんみつを頼んだ。椅子に腰を落ちつけると、足の疲れを実感する。
「前もコンビニでスイーツ悩んでた事ありましたよね?」
お隣さんは思い出して笑った。
「そうだ。その時、亜弥さん居たんですよね」
「両方買おうか迷って、結局その日食べたいって元々思ってた方買って帰ったんでしたよね?」
「そうそう。よく覚えてますねぇ」
「あの日諦めた期間限定のゼリー、あの後買いました?」
「買いました、買いました。次の日に早速」
一旦食べたいと思った物は確実に手に入れていく人なのかな・・・。
注文した品を前にお隣さんは嬉しそうな顔をしている。
「いただきま~す」
ところてんを食べながら、お隣さんは私があんみつを食べるのをじっと見ている。
「どう?美味しいですか?」
「はい。あんみつなんか本当久し振りに食べました」
「女の人が和菓子食べるのって、絵になりますよね」
その感覚は私には分からないけれど、ちょっと可笑しくてクスッと笑ってしまう。
「馬鹿みたいでしょ?すみません・・・」
自分の事を飾らないお隣さんという人。一緒にいると こっちまで自然体でいられる気がする。
「あ~、やっぱあんみつ、美味しそうだなぁ」
ところてんを食べ終えてしまったお隣さんが、私のあんみつをうらめしそうに眺めているけれど、まさか『一口どうぞ』とは言えない。
「ごめんなさい。先に一口あげれば良かったですね」
「いえ、大丈夫です」
「・・・こんな食べ掛け、どうぞって訳にいかないし・・・」
「いえ、本当気にしないで」
迷った挙句、お隣さんはもう一つあんみつを注文した。
自分の目の前に来たあんみつにご満悦の表情をいっぱいに浮かべる。
「この黒蜜が美味しいんですよね~」
思わず“かわいい”って思ってしまった私だ。そんな事を考えながらお隣さんを眺めていたら、自然にくすっと笑いが零れてしまう。
「おかしいですか?」
それまであんみつに釘付けだった彼が、その声に気が付いて、私の方へ顔を上げた。
「男の人が甘味食べてるのも、充分絵になりますよ」
「そうですか?!」
そう言って、お隣さんが思い出した様にポケットから電話を取り出した。
「あ、食べる前に写真撮れば良かったなぁ。食べ掛けだけど、いいか。ほらほら、亜弥さんも一緒に入って」
慣れた自撮りの手つきでシャッターを押す。映った写真を良く見てから、お隣さんが言った。
「亜弥さんもあんみつの器、持って」
もう一枚カシャッとシャッターを押す。
「亜弥さん、可愛く撮れてる。あとで送りますね」
サラッとこういう事が言えるのは、若さだろうか。それとも女性慣れしている証拠だろうか。
「龍君て、兄弟います?」
あんみつを最後の一口食べながら、お隣さんはにこっと笑いながら言った。
「姉貴と妹がいます。女兄弟に挟まれて育ちました」
やっぱり。納得だ。彼が今まで女性に不自由しない位経験が豊富なんじゃない。女性の心にすっと溶け込む感じ、育ちにあったんだと合点がいくと、ほっとしてる自分がいる。
「姉貴はめっちゃ姉御肌。まさに“はちきん”です」
「はちきん?!」
「聞いた事ないですか?向こうの言葉で・・・う~ん・・・男勝りで強い女性の事言うんです」
「へぇ~、はちきん・・・」
「それに比べて、妹はめっちゃ可愛いです。8つ離れてるから、まだ高校生なんですけどね。『兄ちゃん、兄ちゃん』ってしょっちゅうラインが来ます」
「仲良しなんですね」
「自撮り写真とか、友達と変顔で撮った写真とか、くっだらないのめっちゃ送ってよこしますよ」
微笑ましいエピソードに、こちらも心が和む。
「お姉さんとはいくつ離れてるんですか?」
「二つです。それなのに、あんなに図々しくなれるもんかなと思う位、逞しいっすよ。」
「高知県の女性って、しっかり者って聞いた事ありますよ」
「確かにしっかりもしてるとは思うけど、姉貴の場合は それに三重位上塗りされてます」
お隣さんはきっとか弱くて頼ってきてくれる様な女の子が好きなんだろうな・・・。逆に年上でしっかりしてる女は受け付けないのかもしれない。
「だから亜弥さん見た時、年上なのに、こんなに優しくて控えめで偉そうにしない女性もいるんだなって感動した位です」
「感動って・・・大袈裟」
「いやいや、その位の衝撃ですよ。大学とか職場でも女性の先輩は沢山いたけど、皆たいてい『私が何でも教えてあげるわ』みたいな人ばっかりでしたから」
「まぁ・・・指導する立場になれば、自然とそうなりますよね・・・」
「ほらほら、こういう所です。人の事、絶対に悪く言わないじゃないですか、亜弥さん。皆に優しい感じ、僕好きです」
『僕好きです』に正直面食らってしまって、でも、そんな自分を必死で隠す為に、私は最後の抹茶を飲み干した。
お茶屋を出て階段をずっと昇っていくと、不動尊に辿り着く。
「せっかくだから、お参りしていきましょうか」
「ここって、どんなご利益があるんですか?」
「縁結びらしいです」
私の耳にその言葉が飛び込んでくるなり、心臓にその衝撃が直結しているみたいに 胸が慌てだす。
「見込み薄だから、せめて神頼みしてみます」
笑いながらそう言って、お隣さんはお賽銭を入れた。
手を合わせながら、私は何をお願いしたらいいんだろう・・・迷う。自分の気持ちが固まっていないから、お願いもできない。一回 目を開けて隣を見ると、まだお隣さんは真剣な表情で手を合わせている。私は時間を合わせる様に、もう一度目を閉じた。
もし私に運命の人がいるのなら、その人と神様のお力で引き合わせて下さい・・・。
目を開けると、お隣さんがにこっと微笑んで言った。
「お願いできました?」
「あ・・・はぁ・・・」
その変な相槌に、お隣さんは大きな口を開けて笑った。
日本庭園と称された芝生の広場に辿り着くと、ちょうど夕日が傾きかけていて 西の空に綺麗に彩りを放っていた。少々疲れた私は、無意識にふうっと長い息を吐く。
「綺麗な夕焼け・・・」
そんな言葉で自分をごまかしたけれど、日曜の夕暮れ時、誰もが一番物悲しくなる瞬間かもしれない。例外なく私も、その魔法にかかる。お隣さんと過ごす今日という日が終わったら、いよいよ引っ越しの準備を始めなければいけない。そして10月には引っ越しをして、荷物が片付いた頃、年末年始を迎える。今までと違う町で迎える新年。そうやって又一年が過ぎていく。同時に一歳年を取る。来年はいよいよ39歳。30代最後の年だ。
「何考えてたんですか?」
私は再び自分の心に仮面をつけた。
「今日、凄く楽しかったです。ありがとうございました」
お隣さんはにっこり笑って相槌を返した後、じっと私の顔を見つめた。
「亜弥さんて・・・時々、凄く悲しい表情しますよね」
思いがけない言葉だったから、私は無意識にお隣さんの方へ顔を向けた。
「聞いちゃいけない事だったらごめんなさい。今日一日一緒にいて、時々ふっと見せる表情が寂し気です・・・」
「・・・・・・」
お隣さんはベンチの前で足を止めた。
「座りますか」
『過去を思い出しただけです』とか『龍君を見て、色んな事考えてるんです』って言えば簡単に済む話だ。でも私はそれを言わずに、別の質問をした。
「自分の人生設計って、考えたりします?」
お隣さんは 胸いっぱいに夕日のエネルギーみなぎる空気を吸い込んでから、話し始めた。
「前にも話したかもしれないですけど、僕、元々施工の方に行きたくて。だけどまず入社3年間は営業って決まってるから、それはそれで頑張ってきたんですけど。実は今年 配属替えに名前が上がらなくて、だから来年こそはって思ってて。うちの会社、法人向けも個人向けもやってるから、40迄には 両方のスキルを身につけて、いずれ小さくても独立なんか出来たらいいなって思ってます」
「40の自分って、想像出来ます?」
「かなり良い風に想像しちゃってますけど」
そう言って空を仰ぐように笑ったお隣さんの顔に、夕日の橙の色が差す。そんな横顔が眩しくて、私は目を逸らした。
「世の中、そんなに甘くないよって思いますよね?」
「そんな、そんな!絶対叶いますよ。頑張って下さい」
言いながら自分の言葉の薄っぺらさに嫌気がさすけれど、久し振りに若い人の新鮮な夢や目標を聞いた気がする。やっぱり若いっていいもんだ。頭の中に夢が沢山詰まっていて、どれも頑張れば叶う様な勢いも持っている。聞いているこちらまでも、明るい気持ちになれる。だけど同時に、自分が目標もなく生きている事が浮き彫りになってしまうのも事実だ。晴れた日には必ず日陰が出来るのと同じ理屈だ。
「亜弥さんは何かありますか?これからやってみたい事とか、挑戦してみたい事とか」
この私にそんなもの、ある訳がない。あったらもう少し胸を張って生きている様な気がする。結婚してお嫁さんになって家庭を守って暮らしていく位しか考えていなかった私から 結婚という選択肢が無くなったのだから、ふわふわ浮草の様に今を彷徨っているだけだ。
「夢や目標に向かって進んでる人の前で、お恥ずかしいです」
私はそうとだけ答えて、俯いた。
少し会話が途切れた隙間を埋める様に、私は言った
「ここ離れるの、惜しいですね」
「引っ越しの事ですか?」
「あ、いえ。そうじゃないです。今、ここから帰るの・・・」
お隣さんは私の方へ顔を向けて、にこっと人懐っこい笑顔をいっぱいに広げた。
「帰りたくないって事ですね?」
「え?!いや いや・・・そういう事じゃなくて、ここが凄く素敵な場所だったから、現実に戻るのが・・・」
必死に一息でそこまで言うと、お隣さんは私の肩に手を乗せて 声高らかに笑った。
「分かってますよ。大丈夫です。ちょっと冗談言ってみただけです」
「・・・・・・」
馬鹿みたいだ。勘違いさせちゃいけないと思ったからと言って、あんなに慌てて言い換える事なかった。無様な自分が恥ずかしいやら格好悪いやらで、言葉が一瞬にして全て消えていった。
夕日がすっかり落ちた後、二人は公園を出て駅に向かう。さっきまで薄暗かった程度の街が、一瞬にして真っ暗な街に変わり、同時に営業を始めた店達のネオンが灯り始める。ふと曲がり角に目をやると、そこは小さな飲み屋が建ち並ぶ横丁だった。
「ちょっとだけ寄ってみましょうか?」
今流行りの立ち飲み屋や店先に小さなテーブルがある店等が ひしめき合っている。
「どこにします?」
どの店もそこそこ盛況で、活気が溢れている。二人が決めかねて歩いていると、お隣さんを呼ぶ声がする。声の在りかを探し当てると、お隣さんは立ち止まった。
「大学時代の友人です」
私に一言そう言うと、お隣さんは近付いていった。と同時に、私はお隣さんの陰に隠れる様にして下を向いた。
「おおっ!久し振り!今この近くにいるの?」
「そうそう。今こっちなんだよ。お前は?何してんの?」
とっさに私は鞄から電話を取り出して、掛かってきたふりをしてその場を離れた。
「もしもし?あ、こんにちは」
必死の芝居を続けながら、私はこの場から消えて居なくなりたかった。
そこそこ長い電話のお芝居をしながら横丁の入り口まで出てきた私は、恐る恐る電話を耳から離す。その場からお隣さん達は見えない。少しホッとしながら、私はお隣さんへのメッセージを打ち込み始めた。
『ごめんなさい。電話が入って、急用で行かなくちゃいけなくなりました。先に帰ります。今日は本当にありがとうございました』
そこまで書いたところで、少し息の上がったお隣さんが目の前に立っていた。
「急に居なくなっちゃうから・・・探しました」
「あ・・・ごめんなさい。電話が入って・・・」
「そうでしたか」
「あの・・・私・・・っ」
言いかけたと同時に、お隣さんもさっきの説明を始める。
「大学時代の友人でした。確か宇都宮の方の会社に行ってたから、ここで会うなんてびっくりしました」
「良かったんですか?もう。私の事なら気にしないで・・・」
「大丈夫です」
にっこり笑いかけるから、さっき私が言おうとしていた言葉が出そびれる。
「亜弥さんを紹介しようと思って振り向いたら どこにも居なくて。まじビビりました」
「ごめんなさい。お話中だったから、声掛けなくて・・・」
「そうだったんですね」
そう言ってにっこり笑顔を向けて、お隣さんはもう一度横丁の方へ体を向けた。
「どこにしましょうか」
今だ!私の心が背中を押して そうせっついて来る。
「あの・・・私、行かなくちゃいけなくなっちゃって・・・」
「・・・どこにですか?」
こんな質問が来ると思っていないから、思い付きの言い訳を必死に守る私だ。
「あ・・・ちょっと・・・友達からの電話で・・・」
完全に目が泳いでいる。見えてなくても、自分でも分かる。お隣さんが又一瞬悲しい表情をしている。今日こんな顔させたの、何度目だろう。
「ごめんなさい」
心苦しくて、つい そう言葉が漏れる。
「じゃ、今日はこれで帰りましょう。途中まで送ります」
「いえ、駅までの道も分かるし、ここで大丈夫です」
「僕も駅まで行きますから」
歩き出す前に、私の喉の奥の言葉を何とか絞り出す。
「いいんですか?せっかくの久し振りのお友達と合流しなくて」
お隣さんは、さっき以上に顔に悲しい色を浮かべた。
「亜弥さん。僕に気遣って『帰る』って言ってます?だとしたら、その必要ないです」
「いえ・・・」
見透かされた自分が恥ずかしい気持ちと、まださっきの嘘をつき通したい気持ちが混在する。
「じゃ・・・駅まで」
並んで歩きながら、ついつい早足になる。もうお隣さんの知り合いに会いません様に・・・そう心に唱えながら。
駅まで着いて、お隣さんとは反対のホームに行く事にする。
「今日は、楽しかったです。ありがとうございました」
「こちらこそ。付き合って頂いて、ありがとうございました」
「じゃ・・・」
「亜弥さん」
再び私とお隣さんの声が被る。すると、もう一度お隣さんが言い直した。
「今日一日一緒に過ごして、亜弥さんともっと一緒にいたいって思いました。もちろんすぐに付き合うとか、そういうのは抵抗があると思います。だから これからも何度か一緒にデートしてもらえませんか?この間の返事は、それからでいいので」
お隣さんの目が真剣だ。だから私はその視線をかわした。
「今・・・急いでるので・・・」
頭をペコッと一回だけ下げて行こうとする私の腕を、お隣さんが反射神経良く掴んだ。
「その返事だけ聞かせて下さい」
「・・・・・・夜、お返事します」