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モノクロの世界に色が差した日  作者: 長谷川るり
1/22

第1話

今回は女性主人公が年下の男の子に恋をするお話です

アラフォー女子の葛藤、又20代半ばの男性から見た年上の女性、どちらの目線からでもお楽しみ頂けたら嬉しいです

全22回の連載です

1.

総務課の課長である豊田光男が終業時刻近くなると、どことなくソワソワし出す。私の席は課長のすぐ傍だから、ついそんな空気を察知してしまう。いつもの事だから、気が付かないフリも多少は上達した様に思う。

「今日はいつもにも増して蒸し暑いから、ビールが飲みたくなっちゃうなぁ」

と、少し大きめの独り言を呟いている。しかしそれに 間違っても、

『そうですね』

等と安請け合いな相槌は禁物だ。そう口走ってしまおうものなら、もうシナリオは決まっている。

『そうですね』→『じゃ、飲みに行こうか?』→一軒目はいつもの安い大衆居酒屋→二軒目カラオケ→〆のラーメン

この地獄のシナリオが待っているからだ。でも、だからといって誰も上司に相槌を打たないというのも、場の空気が壊れる気がする。だから私は常にその回避策を考えているのだ。

『課長、本当にビールお好きですね』

とか、

『夏になると、しょっちゅうその台詞聞いてる気がします』

と笑って言うとか、またある時は、

『少しは自制なさらないと、体壊しますよ』

と言ってみた事もあった。この三つは成功した例だ。飲みにも誘われず、その場の空気も壊さずにやり過ごす事ができた優秀な台詞達だ。

だから私は、今日もその成功例を増やすべく戦いに挑む。

「課長、ビール飲みたくない日って逆にあるんですか?」

しかし、これが失敗だったのだ。語尾をうっかり疑問形にしてしまったのが敗因だと分析する。

課長は私のその質問に満面の笑みを浮かべて返事を返してよこした。

「それ言われると弱いなぁ~」

頭なんか掻きながらそう言って、課長の次の一手が飛ぶ。

「飲みに行く奴~!」

課長が挙手を求める声が部屋中に響く。しかし、どの社員もパソコンから目も逸らさず、無反応だ。私がこの空気をどうにかした方がいいか迷っていると、課長に先手を打たれてしまう。

「うちの課の皆は、仕事熱心で頼もしいなぁ~。な?竹下」

そう私に名指しで聞いてくるから、答えない訳にいかない。

「そうですね」

私はそこで 間違っても使ってはいけない『そうですね』というフレーズを使ってしまったのだ。もうこうなったら、敵はいつもの王手を容赦なく差してくる。

「じゃ、仕事は出来のいい部下達に任せて、我々は今後の戦略を練るために場所変えて一杯行きますか」

「・・・はい」


 いつも通り、会社の近くの立ち飲み居酒屋だ。おつまみは全品均一料金だ。ジョッキの生ビールで乾杯をして、豊田課長は一日の中で一番幸せそうな顔をする。

「今の若い子は、上司からの酒の誘いを何だと思ってるんだろうな」

これも決まって最初の愚痴だ。ここは相槌を声に出さず、ゆっくり頷く程度で話を聞いている事をアピールするのが大切だ。あまりオーバーリアクションにすると、同じ様に思っていると思われて面倒な事になる。

「俺がただ単に 酒飲みたくて声掛けてると思ってんだな、あいつらは」

ここでも、どちらとも付かない相槌が重要だ。

「飲ミュニケーションって言葉 知らないんだな、まったく」

これ以上素直な相槌を続けるとエスカレートするから、ここら辺で口を挟む。

「時代は変わったんですよ、課長」

「時代は変わっても、仕事ってもんは人間と人間が集まってこなしてくもんだろう? 意思を通い合わせ、力を合わせて業務を遂行していくのには変わりないじゃないか」

課長のジョッキを持つ手に力が入っているから、熱くなっているのが分かる。だから私は、一回はそれを聞き入れる。

「そうなんですよね」

「だろ?分かってくれるの、うちの課じゃ竹下くらいなもんだよなぁ」

「でも課長。今はロボットでも仕事を忠実にこなす時代ですよ。余計な事に自分の貴重な時間やお金や労力を使いたくないっていう時代なんですよ」

「何だよ!余計な事って。上司の気遣いが分かんないのかよ」

飲みに誘う事を 部下への“気遣い”だと言ってしまう位疑いなく 自分のやり方が正しいと思っているのだから、もうこれ以上は平行線だ。こうなったら私も、あとはニコニコするしかない。


 生ビールをジョッキで一杯と日本酒の四合瓶一本を空けると、そろそろ課長もほろ酔い気分となる。そしていつもの流れで、向かい側のカラオケボックスへ移る。立ち飲み屋とカラオケが近過ぎで、ここの間で切り上げるのは至難の業だ。今まで一度も成功した事はない。いや、正確に言うと、切り上げるチャレンジをしたのは 入社したての頃だけだ。ある時から、もうこれはセットだと諦める事にしている。ある意味、無駄な抵抗をやめたとでも言うのだろうか。

 しかも、ほろ酔いの上機嫌でマイクを持つのだから、上手いとか下手とか関係なく ひたすら一人で歌いまくる。毎回一応最初に部屋に入ると、

『竹下も何か歌えよ』

と言う。しかし、多分あれは社交辞令だろう。それを知らない頃は、私も無理に上司受けしそうな曲を選んで歌った事もある。が、一切人の歌など聞いていないのだ。初めの内は、課長の好きそうな曲をあれこれ選んだり、デュエットなんかを選曲した事もあった。しかし、どれを歌おうが関係ない。ならば、課長にめいっぱい歌ってもらって、早く気が済む時を迎える方が賢明と分かったのだ。だから私は手拍子でリズムを取って、『あと10分でお時間です』の電話を取る事に神経を配る。もし間違って課長が電話を取ろうものなら、延長という地獄が待っているのだから。

「課長、あと5分ですって。最後の一曲、お願いします」

僅かだが、5分サバを読む。あと一曲と思えば、乗り切れるものだ。

「延長したいなぁ~」

「混んでるから、この時間 延長できませんって」

これで渋々諦める。

「まぁ、仕方ないか。今日のところは、これ位にしておこう」

この言葉を聞いて、毎回私は心の中でガッツポーズだ。一時間課長の歌を聞き続けた努力が報われた思いだ。


 しかし、まだまだ気は抜けない。会計を済ませてカラオケボックスから出ると、次の決まり文句が待っている。

「あ~、何か小腹が減ったなぁ。ラーメンでも食ってくか?」

そりゃ、一時間ほろ酔いの上機嫌で 思う存分一人で歌い続けたのだ。お腹も空くのだろう。しかし、私はそうではない。そこでこう言う。

「課長、すみません!」

腰を90度折って、課長に頭を下げる。

「私・・・この辺で・・・」

まずはジャブだ。

「え~、ここまで付き合って、寂しい事言うなよ~」

課長がこう言ってくる事くらい、想定内だ。

「私も35を過ぎますと・・・この時間からのラーメンが胃もたれしちゃって・・・」

課長の言葉にブレーキが掛かる。そこで私は ここぞとばかりにもうひと押しする。

「お恥ずかしい話、やっぱり歳には勝てませんね」

すると課長が言った。

「じゃあ、ラーメンじゃなくて蕎麦にするか?」

そうなる。その手が来る事も想定内だ。

「課長。最近めっきり代謝が落ちちゃって、こんな遅くに食べちゃうと、全部肉になっちゃうんですよね~」

そう言って、お腹の辺りを摩ってみせる。

「課長には分からないかな・・・、この乙女心」

切ない顔で留目を差す。

「分かった。じゃ、俺も今日は我慢して帰ろう。中性脂肪も気になるしな」

課長までお腹周りを触っている。

「ありがとうございます。お互いどんどん歳は取る一方ですから、健康に気を付けながら飲みましょう」

「そうだな。この深夜の〆のラーメンが一番良くないって言うしな」

「そうですよ、課長。美味しくてやめられないのも分かりますけど、体壊したら 好きなお酒も飲めなくなっちゃいますからね。気を付けて下さい」

明るくにっこり笑顔を付け足す事も忘れない。


 私は今日一日の長い任務を終えて、電車に揺られる。今日が土曜出勤だったという事を、乗客の服装で思い出す。毎月最終土曜は出勤と、うちの課は決まっている。課長にはラーメンがお腹にもたれるなんて言ったけれど、決してそんな事はない。私は駅前の餃子の美味しいラーメン屋“三ちゃん麺”ののれんをくぐった。

「あ、いらっしゃい、亜弥芽ちゃん」

「大将、こんばんは」

この町に住んで6年。通い続けているお店の一つだ。私はカウンターに座ってビールと餃子を注文する。数時間前にも同じ様に生ビールを飲んだけれど、全く別の味がする。自分へのご褒美ビールだからだ。今日もよく頑張った、お疲れ様と 心の中で自分を労う。ようやく気持ちが一息つくと、私は少し賑やかな店内を見回した。この時間、大抵一人客が多いけれど、今日は若者のグループがテーブル席にいる。20代中頃の男女数名が酒を飲みながらラーメンをすすり、楽しそうに笑っている。

「細麺だから、食べやすくて入っちゃうね」

「俺、替え玉もらおうかな」

「あ、僕も」

「すみません、替え玉二つ」

大将がカウンターの中から威勢良く返事をする。すぐに出てきた替え玉をすすると、今度は女の子の声が聞こえてくる。

「え~、私も替え玉もらっちゃおうかなぁ・・・」

「頼む?」

すぐさま男の一人が気を利かせる。大学の同期?それとも仕事仲間?。何を食べても、何を喋っても間に笑いが起こる。きっと若さの象徴だなぁ等と、少し疲れた自分が遠巻きに思う。

「一玉、食べきれないかも~。でも少しだけ食べたいんだよな~」

女の子がそう言うと、男が前のめりになって提案する。

「残したら、真央ちんの分食うよ。まだまだいけるし」

「え~、じゃぁ たっつぁんにお願いしようかなぁ」

親し気な呼び名に、この二人の関係を勝手に想像する。言ってしまえば、餃子が焼けて来るまでの暇つぶしだ。

 餃子が焼き上がって、目の前に来る。その一口を味わうと、残りのビールを喉に流し込んだ。

「大将、ご飯下さい」

女将さんが、すぐにご飯を運んで来る。小皿にキムチが付いてくる。餃子とご飯の黄金のセットでお腹も気持ちも満たされていく。あ~今日も幸せだなぁと感じる瞬間だ。

 そこへさっきの若者達の声が耳に入ってくる。

「替え玉、一ついけちゃうかも」

さっき替え玉を注文した彼女の声だ。少しだけ食べたいと言っていた彼女が、残りを食べてあげると言っていた男に謝っている。

「ごめ~ん、たっつあん。残んないかも」

また笑い声が上がる。

「意外にいけちゃうよね~」

仲の良いのは良い事だ・・・。そんなお母さん的な目線で、その会話を聞く。

「ご飯貰って ここに入れて食ってみようかな」

すかさず女将さんが注文を取りに行く。

「無料でキムチ付きますけど、どうします?」

「あ、お願いします」

お腹がいっぱいで食べられないと言った料理を、綺麗に平らげてくれていた彼氏という存在。遠い昔にそんな人もいたなぁと、薄っすら思い出す。気が付けば7年近くが経っている。今彼はどうしているんだろう。私はキムチを白いホカホカのご飯に乗せながら、そんな事を思う。

「良い店、見つけたね」

若者達のテーブルから聞こえる。

「たっつあん、いいなぁ。これからは毎日でもここ来られるやん」

たっつあんと皆に呼ばれる男は、どうやらこの町に住んでいるらしい。私はそんな事を思いながら、退屈しのぎに耳を澄ます。

「荷物片付いた頃、また遊びに来てよ」

「来る来る」

「今日手伝ってもらって、マジで助かったわ。お礼何も出来ないけど、ここの分 自分持つんで、それで勘弁してもらえないかな?」

「ごっつあんで~す」

引っ越しの手伝いか?そんな若者達の会話から勝手に想像して、私は椅子から立ち上がった。

「大将、ご馳走様。また来ます」


 『終わり良ければ全て良し』・・・今日も“三ちゃん麺”の美味しい餃子が食べられた。その幸せで、一日のモヤモヤを帳消しにするのだ。こうして、嫌だった気持ちを次の日に持ち越さない。昔CMで『その日の汚れ、その日の内に』というのがあった。あれに近い。


 マンションに帰ってきて 玄関の前に着くと、今朝まで空き室だった隣の玄関の前に傘が一本ぶら下がっている。そして潰した段ボールが何枚か束ねられて壁に立て掛けてある。誰か人が引っ越してきたのだ。しかし都内の一人暮らし用のマンションだ。大抵引っ越しの挨拶なんかは来ない。私もここに6年住んでいるけれど、隣の人が引っ越してきた時も出て行く時も、挨拶一つなかった。だからきっと、今度の人もバッタリ会わない限り顔も知らないまま暮らすのだろう。傘もビニール傘だから、男か女かすら分からない。ま、でもいいのだ。私には関係のない事だ。私は、今まで通り変わらずに暮らすだけだ。そんな事をぼんやりと思いながら、私は玄関の鍵を開けた。


 今日は日曜日だ。珍しく、物音で目が覚める。隣からゴトゴト音がする。昨日は土曜出勤の後、課長に付き合わされて どっと疲れた夜だった。だから今日は目覚ましも掛けず、体が寝たいだけ寝てやろうと意気込んで昨夜ベッドに入ったのだ。それなのに、今 朝の8時だ。昨日の朝までは空き部屋で 物音一つしなかった隣から、随分朝早くから荷物を動かしたり片付けたりする音が響いてくる。いくら引っ越しの荷物を早く片付けたいからと言っても、こんな時間からせっせと動く人はどんな人なんだろう。私は寝起きの頭で考える。ま、まだ布団の中でゴロゴロしていたいから、その時間を使っているだけだ。・・・若者ではないと読む。中年のおじさんか?朝遅くまで眠っていられない歳かもしれない。もしくは、単身赴任の旦那の部屋の片づけを、奥さんが朝からせっせとやっているのかもしれない。う~ん、きっとそうだ。なかなか良い推理だと思う。そんな勝手な察しがついたところで、テレビのリモコンを取る為 私は上半身だけベッドから這い出て、テーブルの上に手を伸ばす。そして一通りチャンネルを変えてみる。特別見たい番組が無くても、その中でも耳障りでないチャンネルを選んで、それをBGMにまた布団の中で目を瞑る。私にとってのささやかな贅沢だ。母親が見ていたら きっと、

『見てないなら、消しなさい』

と言われそうだ。

 

 そんな私の次の目覚ましになったのは、チャイムだ。ぼやけた目でドアホンのモニターをじっと見る。見覚えのない人が映っている。私は布団から這い出て、モニターにそっと近づく。やはり見た事のない顔だ。しかし新聞の勧誘や営業っぽい雰囲気はまるでない。着ているものが私服っぽいからだろうか。迷った挙句、それに応答してみる事にする。すると、待ってましたという様に、表情が急に明るくなって、その男は言った。

「はじめまして。昨日隣に引っ越してきた堀之内といいます。ご挨拶に伺いました」

私は思わず返事をするのを忘れてしまう。想像していたお隣さんと、かけ離れていたからだ。私が何も相槌をしないから、その堀之内と名乗る男がインターホンに耳を近付けている。

「あの・・・今、お時間・・・」

そうだ。引っ越しの挨拶に来たのだから、私が出て行かなければ始まらないのだ。しかし、寝起きの私が出られる状態でないのは一目瞭然だ。

「あ・・・今ちょうど・・・火を使ってまして・・・」

7年間冬眠していた女の私が嘘をつく。

「そうでしたか。じゃ、また後程 伺います」

「・・・すみません」

「今日はこの後、お出掛けになられますか?」

日曜というOL全般にとっての休日に、どこにも出掛ける予定がないと思われては格好がつかない。私はとっさに下らない見栄を張る。

「はい」

「ですよね。何時頃、ご都合宜しいですか・・・?」

「あっ・・・あと30分位で・・・」

 ドアホン越しの会話を終えて、私は初めて時計を見る。10時だ。日曜日だから、この位の時間に火を使っていると言ったって、きっとおかしくはなかった筈だ。今になって、とっさについた嘘がどうだったかなんて、そんな馬鹿げた事を思う自分がいる。しかし、気付けば時間がないのだ。30分と言ってしまったのは私だ。慌てて顔を洗って、歯を磨く。着替えて化粧をしながら、さっきのモニターに映った堀之内の顔が少し心に引っ掛かる。何故かどこかで見た事ある様な気がするのだ。仕事関係、友達の彼氏、近所のお店の人、通勤電車で大概一緒になる人・・・神経衰弱でもう一枚のカードを探す様に、色んなカテゴリーの中に その顔を探す。しかし、どれもヒットしない。確かに、人間 似た顔の人物が三人 この世界中にいると言うから、それかもしれないと私は諦める。

さっきの突然のチャイムで飛び起きてから、この30分弱の間で作り上げた自分を鏡の中に見付けると、思わず笑ってしまいそうになる。たかがお隣さんが引っ越しの挨拶に来るだけだ。それなのに、バッチリメイクして、まるで今にもデートにでも出掛けるかの様な洒落た洋服を体に巻き付けている私は、一体誰の為の見栄を張っているのだろう。しかも、出掛ける予定など何もないのに、

『お出掛けになられますか?』

と聞かれ、

『はい』

なんて答えてしまったのだ。誰も、

『デートの予定は入ってますか?』

なんて不躾な事を聞かれた訳ではないのに。嘘をつかなくたって良かったところで、私はもう一つ無意味な見栄を張ったのだ。

約7年前に5年近く付き合っていた彼氏と別れた時から、私は女という生き物を手放したのだ。花嫁修業のつもりで通っていた料理教室もエステも全部やめて、世の中の男性に異性を感じない様 アンテナを切ったのだ。それなのに、今頃になって これ以上ない位の準備万端な 女の自分が鏡の前に立っている。私はその自分を受け入れられずに、着ていた服を脱ごうとした その時、インターホンが鳴った。モニターにはさっきの男が映っている。私は 脱ごうとしていたその手を止めて、玄関のドアを開けた。

「何度もすみません・・・」

開けるなり、私は頭を下げた。

「昨日隣に引っ越してきた堀之内龍と言います。宜しくお願いします」

液体洗剤を差し出しながら 改めてそう挨拶をする堀之内の顔を見上げて、私は思わず声が漏れた。

「あっ・・・!」

「・・・は?何か・・・?」

私が何か思い出した様に目を見開いて声を上げるから、堀之内はちょっと戸惑って、首を僅かに傾けている。

「昨日・・・いましたよね?」

私が半信半疑でそう聞くと、同じ様に恐る恐る堀之内が答える。

「あ、はい。昨日から・・・。あっ、すぐにご挨拶に伺えずすみませんでした」

「あ、いえいえ。そういう意味じゃなくて・・・」

「・・・はい?」

堀之内の首がもう少し大きく傾く。

「昨日・・・三ちゃん麺に・・・お友達と」

「三ちゃん・・・麺?」

益々目を見開いて、すっとんきょうな表情になる。

「あ、駅からここに来るまでの間にあるラーメン屋さんです。ライス頼むと キムチが付いてくる・・・」

そのキーワードを聞いた途端、堀之内の表情が変わる。

「あ~、行きました行きました。遅くまで引っ越し手伝ってくれた友達と一緒に。美味しいですね、あそこ」

「そうなんですよ。私はあそこの餃子が凄く好きで・・・」

すると堀之内の顔に満面の笑みが広がる。

「確かに!美味しかったです。・・・良く行かれるんですか?」

正直に答えそうになる一歩手前で、私の喉がブレーキを踏む。

「よくって程でも・・・。たまに・・・」

「僕この辺の事 全然分からないんで、今後色々教えて下さい」


 挨拶に貰った洗剤をテーブルの上に置いて、私は床にへたり込んだ。若いのに、隣近所に挨拶に来るなんて しっかりしている。親の躾の行き届いたと言うべきか、育ちのいい好青年とでも言うべきか。昨日のラーメン屋では ただの若者としか思っていなかったけれど、意外に童顔なだけで 年齢は見た目よりもいってるのかも。しかし昨日一緒に居た友達を思い出してみると、やはり20代半ばといった感じだ。その途端、急に胸がざわつき始める。20代半ばの男の子から見たら、私みたいな40代目前の女の一人暮らしを 一体どう思うのだろう。仕事一筋のキャリアウーマン。長い事不倫をしてきて、相手が離婚するのを待っている訳アリ女。バツイチ子なしで、第二の人生を謳歌している女。それとも・・・男に縁がなくて行き遅れたお局様?社会では、まだまだこの位の歳で独身でも、そうそう珍しくない時代だ。しかし彼の様な若者から見たら・・・かなりイタイ存在なんじゃないか?

・・・私は、下らない思い込みの回路を一旦停止させる。そしてさっきセットした髪の毛をぐしゃぐしゃっとした。馬鹿だ。大馬鹿だ。私はさっきから歳の事ばかり気にしている。そしてお隣さんにどう思われるか・・・なんていう 一つも腹の足しにならない様な事を考えて、ああでもない、こうでもないとくだを巻いている。きっと向こうは、こっちが思ってる程気にしちゃいない。現実なんてそんなもんだ。私はめかしこんだ洋服を脱いで、Tシャツと短パンに履き替えた。


 朝とも昼ともつかない食事で一旦空腹を満たすと、あとは録り貯めた番組を順番に見ていく。気が付けば窓から差す陽が、西日色だ。切りの良いところでテレビを消すと、意外と疲れていた事に気付く。大きな溜め息を吐いて、ベッドの上で伸びる。携帯を手に取って、寝転がったまま それを耳に当てた。

「もしもし?」

懐かしくて変わらない母の声がする。

「亜弥芽?どうしたの?あ~、今日日曜日か」

「うん。元気にしてる?」

「お母ちゃんは元気だよ。お父ちゃんが又この前ぎっくり腰やっちゃって」

「仕事行けてるの?」

「コルセット巻いて仕事してる。今日だって朝帰ってきたのに、ちょこっと仮眠取ったら、すぐ畑行っちゃって」

父はタクシーの運転手をしている。そして休みには、近所に借りた小さな畑で季節の野菜を幾つか育てるのが ここ何年かの楽しみだ。

「畑作業できる位元気なんだ?」

「元気じゃなくても、畑行くと元気になって帰ってくるから」

それを聞いて、少し私の気持ちも落ち着く。

「それにさ、今日は麗奈れいな大志たいしみやびも来てたから、張り切って野菜採って来たりして・・・」

「お兄ちゃん達、今日も来てたんだ?」

私には兄が一人いる。その兄には子供が3人いて、千葉の実家のすぐ近くに住んでいる。だからしょっちゅう遊びに行き来しているらしい。私が子供の頃の記憶では、そんなに子煩悩な父のイメージはなかったけれど、孫となると別物なのか・・・それとも父が歳を取ったのか。孫の為には何も苦ではない様だ。孫が生まれる度に お宮参り、七五三、入園式に卒園式、入学式に運動会、下手したら遠足まで遠巻きに見に行きそうな勢いだ。世間で良く言う嫁姑のいざこざも聞かない。出来た兄嫁なのか、本当に相性がいいのか。母も兄家族の話をする時は 声が一段明るくなるから、多分上手くいっているのだと思う。良く言う“スープの冷めない距離”というヤツで、よく

『おかずを多く作ったから持って行った』

だの、

『頂き物の果物 食べきれないからって裕子ちゃんが持って来てくれた』

だの、嬉しそうに話す。この間なんかは、

『裕子ちゃんが学校の懇談会行ってる間、大志と雅預かった』

と嬉しそうに報告してくれたっけ。私には何の関係もない話なのに、延々とその時の様子を事細かに聞かせてくれて、最後には楽しそうに、

『くたくたになっちゃったわよ~、まったくぅ』

な~んて、一種ののろけ話に聞こえる。一言でまとめると、今うちの両親は充実した生活を送っているという事だ。友達に話すと、

『良い事じゃな~い』

と皆が口を揃えて言う。確かに、そろそろ 体にガタが来てる親もいるし、同居や介護の現実と直面してる友達もいる。結婚したのになかなか子供が授からなくて、やいのやいの言われている人もいる。それに比べたら、結婚してない娘を急かす素振りもないのだから、気が楽と言えばその通りだ。こんな有り難い事はないのだろう。でも・・・。今日の様にたまに実家に電話を掛けるけれど、心は満たされないのだ。

『贅沢な愚痴だよ』

と友達にこの間一喝されたばかりだ。私は母との電話を切ると、再びベッドに伸びた。


お読み頂きありがとうございました

毎日投稿予定です

第二話も開いて頂けたら幸いです

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