未踏 21号 「夢」
「夢」
夢を見た。どうしてか私はまた病院のベッドに寝ていた。二度と入院はしたくないと思っていたのに、どうしてまた入院することになってしまったのか。事態がまだ呑み込めていなかった。そこが病院とは思ったが、まるでテレビによく出てくる避難所のようだった。広い体育館のような室内には、ベッドが何十と並び、患者達はその間を点滴台を押したりしながら、のんびりと歩いていた。大部屋と言ってもこれは甚だしい。患者達はそれに少しも不満な様子もなく、挨拶を交わしたりしながら談笑している、よく見ると昔の病院とは違って、ベッドが持ち込みなのか、まるでショールームで見るような豪華なベッドが競って並べられ、それぞれのベッドの横には、また贅を凝らした立派なサイドテーブルが置かれていた。
「夢」
夢を見た。どうしてか私はまた病院のベッドに寝ていた。二度と入院はしたくないと思っていたのに、どうしてまた入院することになってしまったのか。事態がまだ呑み込めていなかった。そこが病院とは思ったが、まるでテレビによく出てくる避難所のようだった。広い体育館のような室内には、ベッドが何十と並び、患者達はその間を点滴台を押したりしながら、のんびりと歩いていた。大部屋と言ってもこれは甚だしい。患者達はそれに少しも不満な様子もなく、挨拶を交わしたりしながら談笑している、よく見ると昔の病院とは違って、ベッドが持ち込みなのか、まるでショールームで見るような豪華なベッドが競って並べられ、それぞれのベッドの横には、また贅を凝らした立派なサイドテーブルが置かれていた。中でも目を引くものは、そのサイドテーブルの上に置かれた、さまざまな形の時計が突き出るようにして並んでいることだった。地球儀のような丸いもの、ピラミッド風のもの。ロココ調のものと、どれもデザインに凝った、個性的な、逸品ぞろいなのだった。私のものはと言えば、立方体の、中の振り子が見える、どこかで見たことのある安物のものだった。それらを先程から一人の男が何か修理でもしているように、手にはドライバーを持ち、順番に見て回っていた。そして私の所にもやって来ると、断りもなくその時計をいじりだした。よく見るとその男というのは友人の絵描きだった。
「おい、Mここで何をしているの」
「何をかって、見てのとおりさ」
「ぜんぜん分らん」
「一体ここは何処なのだろう」
「病院だよ」
「病院にしては変だね、こんなに大勢で」
「そうかねー」
友人は一向に気にしていない様子だった。
「随分時計があるけれど、これは一体何なの」
何度もドライバーで時計の針を動かしては何か調整をしているようなのだが、なかなか難しそうだった。
「ああこれね、これは各人の人生の残り時間を表示させてるんだよ」
友人はこともなげに言った。
「ええ、そんなこと分るの?」
私は冗談だろうと、友人に聞き返したのだが、返事をしない。あい変らず時計の調整に余念がなかった。
そうか、私は思い当たった。十五年前、主治医が冗談半分で言ったことだったが、今でもその時の、運命に支配されている人間存在というものの不条理が思い出された。
当時まだ私は転移を恐れ、定期検診に月一度は通っていた。その折に「陣内さん元気だろうか」と、同室だった私より年下の患者の名前をあげて主治医に聞いたときだった。
「もうとっくに死んだよ」
「えっ、じゃあ他の人は?」
「俺が三ヶ月と言えば三ヶ月、半年と言えば半年、みんな予想した通りに逝ったよ」
生還した私に、主治医は冷笑を浴びせるように言った。実際その病院には末期癌の重症患者ばかりが回されてくる、その主治医は日曜も返上して奮闘していたが、毎朝、誰々が亡くなったと患者どうしで噂していた。誰も自分がまだ死ぬとは思ってはいなかったが、主治医はじめ、看護婦たちには各人の残された時間はわかっているのだった。
「そうか、今はちゃんと告知して、時計を付けるようにしたんだ」
私は友人に呟いていた。
「で、どうやって見るの」
普通の時計と何も変わっている様子はなかった。
「ああ、このボタンを押すと、残り時間が表示されるんだよ」
友人が赤いボタンを押すとあらゆる針が逆回転を始めた。
「この目覚ましの針が、残り時間を表示していて、秒針が日数、短針が月数、長針は年数。その日になると四つの針が全部重なる仕組みになっているんだ」
そうか、よく考えられているなーと私は頷いていた。
「でも、相手は癌だからね、微妙に狂ってくるんだ、で、その都度調整をしているのだよ」
そう言って友人は、四つの針がその日にうまく重なるようにと、何度も逆回転をさせては調整を繰り返していた。
良い事だ、病人に残りの人生があと何日なのか解れば、何をして、かにをしてと、計画が立てられる。ああ、今では誰もが死ぬ日がわかるようになったのだ。かつて私が癌になった時、胃潰瘍だが穿孔が在るから手術をした方が良いとあくまで癌を伏せた医者、思いやりではあったのだが、私には人生の一大事であった。この世にやってきて、まだ何もしていない、癌なら癌とはっきり言って欲しい。計画を立て遣るべきことを遣って置きたい。とは言ったものの、癌と聞くことも、余命を知ることも、心の底では恐れていた。
病室の患者達、余命が分っているんだ。分っているから誰も気にしないのだ。時代は随分変わったのだと思った。
「ところで、私の残り時間はどうなっているのだろうか?」
長針が七時を指しているという事は、七年という事か。調整を終えたような様子の友人に、一瞬疑問に思って聞いた。早ければ後十年くらいと考えていたから、そんなものだろうとは思った。
「七ケ月だね」
「えっ、あと七ケ月なの」
友人に聞き返し顔を見たが、友人は私と目を合わさない。私はパソコンに還暦までの残り日数を表示していたが、まだ千四百日余りあった。
「どうしてなのだろう。どこも痛いところはないし、病室の患者達もみな元気そうだし、ここは病院には違いないようだが、本当に時計はあっているのだろうか」
私は病気以来、覚悟はして生きてきたが、突然に身に降りかかったその事態がまだ信じられなかった。運命はいつも突然に戸を叩くものだったが。随分と早い気がした。
「そうか、あと七ケ月なのか」
ようやく私は独りため息をつくように呟いていた。
「転移していて、手遅れなんだ」
私は、意志とは関係のない身体の寿命を思いやった。
「そうなんだ、死とは、私の意志とは関係のないところで、あたかも医師が決めるように、身体が決めるものなのだ」
「そうか、身体はもう死にたいと言っているのか、術後十五年、よく頑張ってくれたからなー、仕方がないか」
私は自分の死を自然なことのように受け入れていた。元気な時の覚悟とは違い、無理な感情がなかった。安らかな心地よい気分さえ味わっていた。
そこで眼が覚めた。
夜中の四時だった。昔よくあった、うなされての寝起きではなかった。
「夢分析」
時計の件は直ぐに合点がいった。昨夜ホームページに貼り付ける時計のデザインをあれこれ調べていたせいだろう。
どこかその夢を楽しんでいる風なのは、児童文学の作品を書いていこうと、このところの読み物が、ファンタジーものが多く、その影響だろう。
人生の残り時間が正確にわかりたいと言うのは、もし癌から生還したら、時間をそろばんではじいて生きていこうと思ったのに、最近は怠惰な時を送っていることへの、自責からだろう。
夢とは、海馬に残像として残っている映像の切れ端を、モンタージュしたようなものだというが、どのようにモンタージュするかは、その前後の精神状態によるのか。死ぬ時は死ぬのだと、身体を精神とは別の他者のように見ていても、世界を私対世界と、旅行者のように俯瞰的に見ていても、身体も精神も、世界に含まれてあり、日々影響を受け、Oの死、Sの死と、彼らの生は何だったのか、そしていずれ私の生も何だったのかと、この数年の私の精神状態は、癌からの生還、お釣りの人生の実感から遠のき、またしても生と死の問答を繰り返す日々になっており、それが夢の世界にまで波及しているということなのだろうか。夢の中の私は従容と死を受け入れていた。
十五年前の癌の時とは違って、じたばたしていない。胃全摘で還暦近くまで生き、人生の充足が在ったのだろう。いずれにしろ、人の生とは死者が見る夢のようものなのだから。
この世に誕生しただけで奇跡と思わねば。
ブンと暮らして
山口和朗
お前は覚えているだろうか、私がオーバーのポケットに入れて散歩をしていた頃のこと、それほど小さなぬいぐるみのようなお前だった。柴犬にしては熊みたいに鼻の回りが黒いといってお母さんが気にしていた。そんなお前が我が家に来ることになったのには訳があった。私が胃癌になり、早期の発見ではあったが、転移の不安はあり、覚悟をして過ごす時があった。五年がたち、もう転移はないと安堵した頃、友人の勧めもあり、これからはお前と長生きの競争をしようと、お前を迎えたのだった。名前は万年文学青年にちなんでブンちゃん、
ブンの孤独
犬でもどんな生き物でも、考えてみれば皆孤独を生きているのだった。人の家族の中で生きているもの、人の社会で生きているものと、外面的には本能的絆によって人との連帯を生きてはいるが、本質は孤独、人からの助けを受けはするが、死というものに生を委ねて生きている。人とは本質的に共感するところはないのだった。年老いたブン、見えず、聞こえず、歩けずがもう何年も続いている。アトピーのようなアレルギーで、何年も薬を呑んできたせいだが、老化が早かった。十五歳を過ぎた今、食事、排便は困難となり、私の介助なしには一日も生きてはいけない有様。隅にぶつかっては蹲り泣いている。訪れている事態に意識がついていっていない。助け起こしてやるとまた同じところをぐるぐる回る、前足だけで動いているブンはぶつかった所が行き止まり。祈っているように、瞑想しているように、斜傾した頭をうなだれ佇んでいる。
それでもまだ生き続けているブン。
ジュンと女の子と
太陽の下、公園の野球場の中でジュンと女の子とお前とでサッカーボールに戯れていた。サッカー少年のジュンに、サッカー少女の女の子、ジュンを慕っていつも一緒にいる。ジュンも拒む風でもなく、不思議な関係の時があって、その二人がお前を仲立ちにして、生き生きとお前とボールを取り合っていた。ボールめがけてまっしぐらに走るお前、先にボールに追い着くのだが、後から追って来たジュンと女の子にボールを取られそうになる。するとお前は胸と前足で押さえ取られまいとする。が、あっけなくジュンの足でボールは蹴り出されてしまう。するとまたお前は一直線にボールへと、そんなことを何度も何度も繰り返えしていた。疲れを知らないブン。夏の芝の上で、ジュンと女の子と若かったお前、「ブン、ブン」と呼ぶ声が球場に響き渡っていた。
お母さんの帰宅
毎日家族の帰りを待つお前、ジュンやヨシキは自転車の音で判るようだった。が、勤めが不規則な母さんを待ち受ける夜は、何度となく玄関へ見に出かけ、ついには待ちくたびれて座りこむお前、やっと帰ってきた時には、飛びついて、大騒ぎ、キューキューと泣き声を上げ、尻尾を思いきり振って、最後はお母さんの足元にじゃれつき、「ああかわいい、かわいい」と身体をひとしきり撫でてもらってやっと興奮が収まる。お前の歓迎ぶりは私の「お帰りー」などよりどれだけかお母さんを癒やしたことだろう。
ジュンとヨシキに抱かれて
ジュンやヨシキが私に意見され、悔しい思いをした時など、抱きかかえられ一緒に眠っていた。私の父らしくない言動をお前は、ジュン、ヨシキと一緒になってどれだけ引き受けたことか。反抗期の二人にとって、抱き合って眠ってくれるお前はどれだけ有りがたかった事だろう。私やおかあさんも、お前が我が家にいることで、家族ではあるが、人間のつまらぬ価値とは別のところを生きているお前を感じることで、心がやわらいだ。
ジュンの帰宅とブンの喜び
お前にとってジュンは友達か又は、子分のつもりだったのか、ジュンの見ている前で、ジュンの蒲団におしっこをかけたり、からかわれると本気で怒ったり、そのジュンが家を出てからというもの一緒に遊ぶということが出来なくなり、寝てばかりになったが、たまにジュンが訪れたりすると、それはそれは誰にも見せない歓迎振りだった。めったに聴いたことのない、本来の犬の声で吠え、ジュンを顔中なめまわし、興奮して家中を飛び回る。
「どこへ行ってたんだ、何してたんだ」と言わんばかりに、甘え続ける。しばらく遊んでもらってやっと収まるのだが、お前にとっては、家族が欠けることなく、にこやかな時の中に在ることだけが喜びのようであった。
もって来いのブン
新聞を取ってくる犬のテレビを見て、お前にも何かをと、新聞、煙草、ライターをお前にくわえさせては、お母さんに呼んでもらい、届ける。終われば褒美にジャーキーをやる、何度か繰り返すと難なく出来るようになったお前、家族の一員として、何かお手伝いしていることが誇りのようであった。「ブーン」と呼ばれ、「持って来―い」の声が掛かるのをいつも待っていた。
ハーモニカとブン
またの日、歌を唄う犬のテレビを見た。歌になってない声だった。お前はいつの頃か、ジュンが吹くハーモニカに合わせて、オオカミの遠吠えのような悲しげな、高い声で応えていた。いつまでも続くその声に、制止を求めないではいられなかった。今、年老いて私を呼ぶ声、その頃のお前の声そのもの、人の赤ん坊とは違う、歌のような抑揚、「よーう、助けてよう」「一体俺は、どうしてしちまったんだー」と。
徘徊
真夜中、みんなが寝静まっている頃、決まって徘徊を始めるお前、台所をあちらにぶつかり、こちらにぶつかりと、仕事のあるお母さんが眠れないというから、私が起きている時は、足元に置き、寝かせつけ、私が寝る時はお母さんとは別の部屋で一緒に寝、昔子ども達が小さかった頃、なかなか寝つかない子を、抱き上げ、揺らし、眠ったのを見計りそっと布団に寝かしつけた記憶が甦る。
クウの死
今は亡き友人のYさんちのクウ、死の数日前、もう危ないと聞いたので、最後に会っておこうと出かけた。元気な頃、私が訪ねると、家中を飛び回り歓迎してくれたクウ。今は静まり返り、「いらっしゃーい」とYさんの声がするばかり、みかん箱に寝ていたクウに挨拶すると立ち上がろうとする。そして尻尾を振っていた。末期癌であちこち痛いのだろうに、変わらない親愛の情を示してくれていた。人の臨終とは違う、死ぬことを考えないで、ちょっと立ち上がれないので申し訳ないとでもいった感じで、見開いた眼で私を見あげていた。
介護
朝起きたら風呂へ連れて行き、便を掻き出し、おしっこで蒸れている股間を洗ってやり、次には腰が萎えて、おしめが上手く出来ないお前を、椅子の上で股に挟んで立たせ、おしめを替えて、ミンチにした鶏肉をご飯と牛乳で混ぜ、手に盛って食べさせ、しばらくは台所を動き回らせ、時々日光浴もさせと、この一年介護の時をお前と過ごし、その中にある喜びの時、おしめを外したときにピコピコと振るお前の尻尾に、ご飯をちゃんと食べたあとの元気な姿に、水をスポイドで飲ませようとすると嫌だと頭を振り払う力に、まだ在る時の中のお前と私。
ブンの死
死とは、ただそれだけのことではあるのだが、まだ生きているブンと私、どのような状態にあってもまだ在る生身の今という時の中に、 Oが死に、Yさんが、Sがと、が死とはこのまだ在る私の中の死、生き残っている者にとっての死、死はけっして死者のものなぞではなく、この先をまだ生きて行く者の、その私にとってのレクイエム、死に行く者の、その死を見つめる者のレクィエム、死に行くブンを見つめる私の時の中にこそ、お前の死はあるのだから。
ブンと暮らして
お前が居たことと、居なかったこと、居なければ居ないで、私は私の生活を送ったことだろう、しかし、居たことによって、味わった多くの感情、それは結婚をしたことと、しなかったこと、子どもが居たことと、居なかったことと同じぐらい、私の人生に付け加わったものとしてある。この世へ何をしに来たかと問われれば、家族を持つためと答えられる私にあって、お前の存在は、家族というものの象徴のような存在。太古のその昔より、助け助けられ生きてきた、犬と人との関係、どんな家畜動物とも違う、人の唯一の友達。人がお前に出会わなかったら、ここまで人は生き残れなかっただろうと、誰かが言っていた。人の眠りを見守り、狩を手伝い、誠実、親愛を主人、家族というものには分け隔てなく示し、こうしたお前の存在は、外敵から人を守っただけではなく、人の感情、家族というものの在りようにさえ影響を与えてきたのではないかと、いまお前と十五年を暮らしてきて思う。人の生を早送りで見せてくれているようなお前の生、歩けず、見えず、聞こえずの、最後の生を、生命ある限りは生きようと、生きている。その生き様は、愛というものの無条件性を要求している。立派な犬になろうなどと考えがえたことはない、幸せになろうとさえも、ただ在るだけで、家族がにこやかで、つつがなく流れていく時の中に住むことだけを喜んだお前、病んだ人と同じ、苦しくとも、痛んでさえ、いま少しこの世界に存在していたいと、家族が生きていて欲しいと願うなら生きようとするが、生かすも殺すもご随意にと、孤独の本質を生きている。草木、動物、太古からの人と何ら変わらぬ、この世界に在ったという痕跡をお前は今生きている。
今日の涙
山口和朗
安藤優子の涙
フジテレビのキャスター、安藤優子は時々涙を見せるが、今日の涙はすごかった。アイラインが崩れて真っ黒になるほどだった。スーパーテレビで、脳腫瘍で亡くなった少年のドキュメントを放映、それを見ていた安藤優子、放映が終わっても涙が止まらず。アナウンスを替わってもらっていた。私はその番組を見てではなく、涙する安藤優子のその姿に泣いていた。元気印の、涙を見せることはあっても、すぐ切り替えて次のニュースに移る、いつもの軽快な姿とは違って、その時は、人の死というものに、報道としての人の死ではなく、その、一人の人間の死というものに、一個の人間として出会っている姿があった。キャスターという、感情を挟んでは出来ない仕事の中で、堪えられなかった涙。私はそんな彼女の思わず出てしまった人間性に、貰い泣きをしていたのだった。
日本ワールドカップ予選
ジーコと対話形式でワールドカップを振り返る番組で、ジーコが言った「最後まで諦めない心がこの結果につながった」と、毎試合ハラハラの連続だった。前回は最後の何分間かで出場ならず。今回は最後の何分間かで逆転しての出場。バラバラだった各シーンが一つに繋がって思い出された。「負けてもいい負けはある。しかし、諦めない心は、そのように試合に臨めば必ずできること」と。
この、人の人生における意味のような、死ぬその日まで問い続ける、に通じるような言葉に涙していた。
朝日地方版
幼少時代に両親が離婚。男性を引き取った父は自殺し、小学校の途中から両親の実家や、養護施設で暮らした。食事も十分に食べさせてもらえず、空腹を満たそうと万引きをしたこともあった。高校卒業後、ホテルなどで働いた。しかし、職場が閉鎖されたり、重い椎間板ヘルニヤで退職せざるをえなくなったり、判決文によると、男性は「トイレの故障で服が汚れた」などと嘘をつき、クリーニング代の名目で横浜市のホテルなどから一万三千円を騙し取った。
これに対し接見した弁護士らが尽力し、再起へ力添えをした。小学校時代の担任の教師は裁判での証人尋問で「人生は、失敗しても、失敗しても、何度でもやり直すことができる」と訴えた。
私が涙したのは、この教師の言葉。人生はやり直すことができる。何度でもやり直すことができるという、よく言われるこの言葉の持つ意味に泣いていた。人は記憶し、経験をつみ、先入観や、既成概念を積み上げていく、これは犯罪ではなくても、毎日の生活において、何度でもやり直せるとは思えなくさせる。やり直せるとは、夕べに死んで明日に生きることなのだが、生まれ変わった明日を生きることは少ないのだった。
森有正に
森有正に感じるアンビバレンツな感情を調べたくネットを調べた。「自分は父を憎む、父に対してはそうした感情しか抱いていなかったと、前方を見つめながらも再び、三度繰り返し語ったことである」との言葉に接し、森有正とはどんな人なのだと、山本洋三のHPで森氏との出会いが書かれてあり、「神様森有正氏は私の心の中から消え去った、それと同時にこの過酷な現実を背負って一人歩いている同時代人としての森有正氏が私の心の中に生きはじめた」の言葉に接し、森有正の全著作を読んでみたいと、かつてリルケの「フィレンツェ便り」で感銘した作家だった。森氏の印象は翻訳者としてではあったが、リルケその人のような感性をその訳から感じた。未だ探り続けている私、森氏とて同じであったはず、生涯探り続けた人に思えた。身近な人に、森氏の母への愛は、濃く厭になるが、父への憎しみは私には計ることの出来ない感情。祖父森有礼、文相で暗殺される、父明は牧師。
闘い続けたと思える、未だ読まぬ森氏に共感したのだった。
生きようとする力
戦争で手足を失くした子供たちが、治療によって歩けるまでになったり、物が持てたりするまでに再生治療を受け、再び故国へ帰って行く、両手切断、両足切断など、地雷を踏んで失った手足を再生手術によって、再び自立できるまでに、その生命の生きようとする力、それは自然界と同じ力、それは信じられる力、心が死んだと思っても、生きようとする身体、身体で感じる喜び、それが心の喜びとなって、溢れていた。生命は再び、生ある限りは生き始める。
人というものの
白浜海岸の断崖、自殺の名所、その日も挙動がおかしい一人の女性を警察官が見つけ、声をかけ警察署へ連れて行く、事情を聞くが、何も話さない、話して欲しいと語り続ける警察官に、いつしか女性は折れて、手帳に挟んだものを見せる。肉親に当てた遺書だった。それを読んだ警察官は言葉をかけられなくなった。死を決意させるものだった。息子に連絡を取る。息子が来て、母と子は手を取り合って、謝り合い、応え合う、息子の呼びかけによって、その女性は再び生き始めようとする。
肉親の死に対して、自分の死を以って償おうとする人というもの、その人に対する肉親である息子によって、又生き始めようようともする人というもの、肉親によって、死にも、生にも至る、人というものへの哀切の涙。
作家精神
文学青年を、無名のまま生きて来てしまった。無名であるが故に尊大で、達成感、評価、ゴールが無く、最後までこれで行く事となるが、その長い青年のスパーンを生きてきた事のノスタルジー、矜持の心、それらが太宰の生き様を見ると思い出し、今も太宰に向き合える自分がいることへの涙があった。そのように生きた自分だけが自分であると、そのように生きている間だけが自分であると、最後まで貫くことの作家精神。
ソーローのように
過ぎ行く時の中、過ぎ去った過去を思い巡らし、三ッ池に寝て過ごした。そこには健気な少年時代の私、恐れを知らない青年時代の私、そして現在に繋がる私がいた。これらの私の中の私、よく闘って来ていると涙した、既定や、固定に対して私は闘っている、同志はこの過去の中の私だと思った、現在や未来、私の外に同志はいない、私対世界という構図、これが私の実存という意識、「僕の人生は、僕の書きたい詩だった」と、人生の精髄をしゃぶり尽くす生き方をしたソーローのように「僕の人生は、僕の書きたい小説であった」と。
ディープインパクト
ディープインパクトの走り、出遅れたり、躓いたりのスタートだが、最後には飛ぶように他を抜いて行く、爽快と、力強さと、一人行く姿、決してスマートな走りではない、がむしゃらな、前へ前へと向かう走り、騎手は疾走を恐れて手綱を引き続ける、抑えられた闘志は最後の直線で爆発する。前へ前へというひた向きさ、そして最後には勝利するという、人の憧れ、
共感
実家には居場所はなく、母は愚痴の塊で、同棲していた男は糖尿病で、疲れ果てた私は拒食症になってしまった、何度も死にたいと思ったと、泣きながら話す、嘉樹が連れてきた彼女、私が生きていることの意味を話した時、その涙は共感の涙となり、この数年の人の不実に虚無的であった私の心に、しばしの安らぎの時が訪れ、
新聞の囲み記事
住所も電話も聞かず次回会う約束をして別れた女性と、新宿のとある喫茶店で、待ち合わせをし、勇んでその日、遅れず出かけたが、二時間待っても女性は来なかった、それだけの女かと思い帰ったのだが、自分が「上高地」と、「田園」と取り違えているのかも知れないと、「田園」に行ってみたら彼女は四時間も待っていた、二人で泣きながらその誠実さを確かめ合った、その事があって二人は結婚することになったと、その頃に携帯電話があったら自分たちは結婚していたかどうだかと、その男の話。
人の誠実を示す、誠実を信じるということ、かつて誠実という言葉を好きではなかった、自分を縛るもののようで、しかし人と人の一体の感情へ向かわんとする時、誠実が根底であり、愛とはこの誠実を土壌にして育ったものを言うのであり、結婚とはその出発にしか過ぎないのだった。
追憶
音楽を聴いていて、その音楽が次々といつか聞いた曲を連想させ、その連想から思い出が甦り、今は無き、そうした失われた時への追憶、再生に涙がとまらなかった。
新たに刻まれていくものが何もないように思える今日この頃、これらの日々は果たして記憶となっていくのだろうか、同じ時だというがその時を生きていく私が変化してきている。見出された時が、失われた時へと、恵美子が三十八才の私の姿に泣けたと、涙を見せて言った、三十八才はまだまだだった、今五十八才の私にあって、恵美子を泣かす姿とは。
母の愛
母を思い、妹を思い、二人の痴呆に飽きれと、戸惑いに襲われ。潤を思い、嘉樹を思い、あんなに可愛かった子供時代を私に与えてくれた、恵美子はどれだけお前たちを可愛がり愛したことか、今でもその頃の情景の一つ一つが思い浮かぶ、私は自分が可愛がられているような喜びを持って毎日眺め味わっていた。子供を愛する母の姿、それは美しいものだった、女の最高の姿がそこにはあり、恵美子がどう変化し、年老おうとそれは刻まれた時間、お母さんを大切にしなさい、感謝しなさい、写真に残っている姿、テープに残っている歌声、どれも自愛に満ちた最高のお前たちの母の姿がそこにはあり、
息子の涙
母の通夜、潤が母の顔を見て涙している姿を見て、私も涙が、私と恵美子を通して、母を、妹を、その他の人を愛してくれた潤や嘉樹、その子の涙を通して私は涙する、私が愛されているような気持ちが泣くのだった、
サンチャゴに雨が降る
チリで女性大統領誕生のニュースに、アジェンデ大統領の下に民主連合政府が樹立され、非暴力により社会主義国家が誕生したと喜んだ、そのチリが「サンチャゴに雨が降る」の映画に描かれたように、CIAと右翼によって崩壊させられ、支持者たちは虐殺された。サッカー場で、飛行機でと、ピノチェトの軍事政権が続いていた、そして今、左翼の女性大統領を再び誕生させたことの、内戦、非合法とかではなく、遺志を受け継ぐという形で、流れていく人の歴史というものに涙していた、次々と崩壊して行った社会主義、私の理想であった思想、今又新たな形で生き続けんとしている。
一筋の涙
トランペッターの父をもつ、トランペッターになろうとする息子に、母は家庭がないような芸人の父を持つお前が何故トランペッターなんかになるのと、デビューの日、母と父は離婚、二児を抱えた息子も旅公演の中、妻に離婚を申し付けられ、母は私が見てあげると息子が再婚するまで子を育ててくれた、その母が六十四歳で脳梗塞で死んだ、終生再婚しなかった父と母、母の死に父はトランペットを捧げた、ディンマーチンの「いつも愛してる」という曲、その曲を吹きながら一筋の涙、人は芸という理想に生きる動物である、家庭を顧みずやってしまう。死んでから流す一筋の涙。
柳原和子「100万回永訣」
患者と医師が生命と人間に向き合うことが出来るのが癌という病、癌が憎いからと言った、かつての私の主治医、兄を救えなかった悔いを、めった切りの○○と言われながら、
日曜祭日返上して癌医療に捧げていた。医療とは人が人を助ける、人が人に出会うところと、胆管が詰まれば、胆管を、腸閉塞が起きれば腸をと、もう片足棺桶に突っ込んでるなと患者には冗談を飛ばしながら、転移する癌に立ち向かっていた。不敵な医師だった。
柳原和子、健気に、時に強気に、医師に問い続ける、逃げない、諦めない医師を求めて、延命治療しか出来ない現在の癌治療、ギブアップしない医師を、生命と人間に向き合う医師を、彼女は無駄死にはしないと、果敢に最新医療に挑戦していた、医療と言うものの希望を求め、
ジルペレスの写真
何百本ものナイフの山 血の凝固した 錆びたナイフの散乱 長いもの、曲がったもの、中には針金で柄を縛ったものも 様々に人を殺すために加工された それらのナイフ 人の骨が散らばったあたりに 何かが書かれたノート 赤ちゃんのつなぎの服 血に染まった 踏みにつけられ 変色したアルバム 中には子供たちの写真 人影の無い家々 壁にはHUTUの文字 家に入ってみると 足の踏み場もない腐乱死体の山 壁には黒板の掛かっていた跡 机の下には首のない 手足のない 白骨化した 服を着た死体 布がかけられているものの骨が飛び出し 投げ捨てられた死体 サッカーか何かのシャツを着た13番の背番号のある 土を引っかいたまま うつ伏せている死体 ミイラのように 干からび 太い背骨の盛り上がった死体 川岸に捨てられ泥水に膨らんだ死体 カボチャか何かの肥料のように並べられた死体 側には青々とカボチャの葉 眼は崩れ落ち 口は裂け 異様な長さの歯茎が突き出た 教会の前に横たえられた死体 上着と 手と 頭だけがあり 首から下が倒れたままに 離れてレリーフのようになった死体 上を向いたり 下を向いたり 折り重なったり 白い波に浮かぶ死体 死体 死体 死体
夜巡り先生、水谷氏の講演
自らもリストカッターであり、薄幸の少年時代を過ごした、夜学の教師であった、私と同年の氏、新宿の夜の盛り場の少年たちに声をかけ続けている。1000回の講演をこなし、夜半には日に数百のメールに電話で応え、少年たちを励まし、支え続けている。そんな少年たちの中で20数人が死んだ、自分が殺してしまったと非力を詫びている。一人で木を植え続けた男のように、一人によって世界が開けるかのように、死ねば生きるようにやり続けている。赤裸な、生身の姿で、教師の道を選び、邁進してきた氏は、教師の枠を超えて、街中へ、彼らこそは、自分を支え、共感してくれる存在なのだと、日々彼らと繋がり、同伴していく、人とは生身で向き合えば理解し合えると。
生命が生命に共鳴
WHOの感染予防の職員をしている女医、高校生のとき弟を脳腫瘍で亡くし、その亡くなった弟が「医者になって脳腫瘍の人に、明日はあるよと言ってやって欲しい」との末期の言葉に、医者になる約束をし、女性には珍しい脳外科医となった。が、過酷な労働に心身を壊しジュネーブへ、そこで予防医学を学び直し国連へ、そして今世界の感染源へ一刻を争って駆けつけ、大事に至らぬ前に封じ込める仕事をしている。子供らには、明日は死ぬかもしれないからと「努力すること、自立すること」を母の言葉として忘れないでと言い続けていると。
「何故生命の危険に晒されて行けるのか」に対して「生命が行かせるのでしょうね」と、損なわれんとする生命に生命が反応しているのだと、尋常ではない険しい瞳の奥に、一点の光のようなものを見せ、カメラを凝視した顔は戦士であった。生命とは生命に共鳴するもの、未知の病気に挑む医の原点、シュバイツァー、コッホ、野口、etcの生命が生命への危機に、決死を促すのであった。こうした行為が今や英雄的行為でも何でもなく、世界のあちこちで為されている現代という危機の時代、戦後60年を経て今まさに、地球の中の人間、自然の中の人間という視点が明確になり、あらゆる過去の対立を超えられる時に到っているのだった。鳥インフルエンザで600万人が死ぬと推定されている。
ルソーを継承するもの
石田宇三郎 教育論集、古本屋で100円で買ってきたもの、解説だけ先ずと読んだ。松永伍一などの綴り方教育の先駆者で、戦前には治安維持法で捕まり、戦後は民主教育の歴史を作ってきた人物であった。民主教育が民主的出版の中で育まれて行ったのだと、そうした歴史の上に今日の日本があることが、ついこの100年間のことにしか過ぎないこと、文化というものが継承され、乗り越えられて作られて行く姿を知らされた。テレビでは北里柴三郎の先駆的予防疫学の、その時歴史は動いたを見、人類は手を携えて社会というものを作り上げてきているのだという、戦後こうした理想や、希望の中に私というものは在ったのだと思い起こしたとき、涙が出たのだった。病気以降、「私対世界」と常に社会存在と対峙している私であったから。
底流者
神谷美恵子がたどった道のりは、ある流れの人々に共通する。それは人類の中に底流のように流れているもの、彼らは連帯している、北原怜子にも似る、自分の意味への意思を持った女性、こうした人々が居るのだと知った、小学生の私の涙が今日また甦った。私とはこうした人々に包まれ育くまれてきたという、私も何かを為さねばと思うのだが、私に至る、私達に至る流れを、教育や文化によるのではなく、人が無条件で達する方法、それを示したいのだった。私はといえば、養護施設、社会主義、文学、病気を通してであったが、病気が決定的な変革点であった、この病気の持つ意味を、底流者には多くこの病気体験がある、神谷にしても結核の体験、病むことによって獲得された、生きてあることの意味、人が無条件で意味に至るこの病んだ体験、底流者に共通するその発見に私は涙していたのだった。
たとえ一人になっても
望月さんがいつも転送してくれるメール、根津公子さんの停職「出勤」日記。「君が代」斉唱拒否で停職させられている公子さんが、春の離任式での生徒たちへの言葉を読んで泣けた。「私が生きるうえで大事にしていることで、皆さんにも知ってほしいことを話します。皆がするから、言われたからするのではなく、正しいことか、間違ってはいないか、みんなの幸せ、平等につながることか、自分の頭でよく考えて行動していって下さい。大勢がやるから正しいとは限りません。そうすることで辛いこともあるかもしれませんが、ほんの少しの勇気を持って、たとえ一人になっても正しいと思うことをしていって下さいね」と。
このたとえ一人になっても、という人の流れ、ガリレオ、ソクラテス、etc、etc、の背後には無数のたとえ一人になってもやり続けた人々がいた。そして現代にも、決して一人ではないのだった。正しいと思うことをやり抜くことに意味を感じる心が人にはあり、その心を育てる、そのように生きることの喜びを示す、主義主張ではなく、教育とはどうあらねばならないか、教師はどうあらねばならないかを問い続ける姿がそこにはあり。
イブラヒムおじいさん
映画「イブラヒムおじいさん」2003年仏、パリの裏通りで食料品店をやっている老人と、近所に住む少年との出会いと別れの話し。父が家出をし、一人になってしまった少年を、いつも温かく見守るおじいさん、少年の父が自殺したとき、少年はおじいさんに養子にしてくれないかと、移民のおじいさんは手続きが大変で、やっと息子に、そしておじいさんの故郷トルコへの旅、だがたどり着いた故郷でおじいさんは車の事故で死んでしまう。
泣けたのは養子にして欲しいという少年の心と、息子にするよというおじいさんの心、孤独者どうしが、少年とおじいさんという出会いで成立していくという、自然さと、人のもつ、肉親を超えた、愛する心というもの、ゴーリキーの「秋の一夜」、独歩の「源叔父」と同じ、人の心に出会うということの、人は出会えるということの涙であった。
「ポリーヌのぬくもり」
スペイン映画、スペイン版国木田独歩のようで泣けた。源叔父が孤児を引き取る話のように、人が人を求め家族になるという、人という刹那さの意識が為せる業、隣人の若い娘の堕胎を非難し、自分がその子を孫にするから生んで欲しいと、そして家族として一緒に暮らしたいと、親子以上の歳の差カップル。
私は幼少期の家族の経験が少ない分、理想形としての家族ばかりを求めてしまうが、家族になるということが、人が理解し合うということの、最高形態と捉えたい。子供が欲しい、母親になりたい娘と、食料品の買い置きはしない、明日のことは判らないからと生きている老人、一人息子を亡くし、妻を亡くし、ずっと一人暮らし、いま孫が欲しいと、二人の必要から生まれた絆。単純だがそこに家族というものの姿があり、夜が明けた、また一日神様が授けてくださったと、その老人は言い、人生は変えられると言ってと娘、家族さえつくれるなら、人は意味に。
村上昭夫(S2.1.5)動物哀歌
一番星
(一番星はどんな星)
一番星は空の悲哀の子だ
後からどんなに沢山の星が出てきても
一番星は慰められない空の孤独の子だ
一番星は空のかたくなの子だ
後からどんなに愛の言葉を投げかけても
一番星は救われない空のかたくなの子だ
――――
雁の声
雁の声を聞いた
雁の渡ってゆく声は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ
私は治らない病気を持っているから
それで
雁の声が聞こえるのだ
治らない人の病いは
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ
雁の渡ってゆく姿を
私なら見れると思う
雁のゆきつく先のところを
私なら知れると思う
雁をそこまで行って抱けるのは
私よりほかないのだと思う
雁の声を聞いたのだ
雁の一心に渡ってゆくあの声を
私は聞いたのだ
最期の日記のページには「村上昭夫頑張った」のかすれた文字が読み取れたと、弟さんの記に接し私は泣いていた。住み着いた野良犬の世話をし、そのクロが生きることのすべてを教えてくれたと、鳥に、虫に、生き物に降り立ち、生と死を共感し、死途についた村上昭夫、死というものを、死の瞬間まで見つめ続けた、四十一才の生涯。
パッシングハート
スエーデン短編映画、少年がある夫婦の家を訪ねる。子どもを亡くした両親のよう。その子の部屋を見せてもらう。帰る段になって母親がその少年に抱きつき「ダニエルありがとう」と。説明はなく、物悲しい音楽だけが流れ、訪ねてくれた息子の友人に感謝している母の姿と、友人の死を共有する心優しい少年の映画に見えた。ところが少年がシャツをたくし上げると縦一文字に手術の跡があり、その跡を母親は懐かしむように手を這わせ、静かに耳を押し当て微笑んだ。「ずっと気になっていた、息子の心臓はどんな子に受け取られたのか」と、それが今その子に会え、その子の中で確実に生きていることを知ることが出来た喜びだったのだ。日本では、遺体に傷をつけたくないとか、無償の贈与というものに慣れていないとかで、臓器提供が極めて少ないとの、水谷弘氏の脳死論を読んだばかりだった。癌サバイバーのリレーフォーライフのように、生命が無償の贈与によって繋がることに涙した。