ラストブザー
六月中旬。夕方の気持ちのいい風が土手を歩く俺の頬を撫でた。
俺――伊吹京介は帰路にいた。
広さのある河川敷では小学生くらいの子供たちがサッカーボールを追いかけて走り回っていた。
川を渡す鉄橋の下。バスケットボールリングがひそかに据えられている。そのリングの下では一人の制服姿の高校生がボールを弾ませていた。
峯川真司。俺と同じく中央高校バスケットボール部員。
俺は近づく。すると、真司はスリーポイントラインの外から構える。彼がほうったシュートは綺麗な弧を描き、そして――
金属の鈍い音を立ててリングからこぼれた。
「やっぱスリーは入んねえな」
苦笑いしながら俺の方を向く真司。
「練習すれば入るよ」
足元に転がってきたボールを拾い上げ、エナメルバッグを下ろす。
ボールを頭上に、数えるのがそもそもの間違いというほどに練習して体に染み付いた動きでシュートフォームを整える。
音もなくほうったボールは綺麗な弧を鮮やかな縦回転で描き、そして――
ボールは金属にぶつかることなく、ネットが絡みつく音を残して数回バウンドした。
「さすがウチのシューターだな」
ボールを拾ってきた真司が俺の元に駆け寄る。
まぐれだよ、と俺は笑う。
「やっぱすげぇわ」
彼は身長186センチの高さから身長170センチの俺を見おろす。
謙遜などではなくてまぐれなのだ。
この頃俺はシュートの調子が悪い。高二の冬なら五本中四本は入っていたが最近は五本打って入るか入らないかだ。
「でも最近シュート入らなくて」
「マジかよ。もう少しで最後の大会だぞ? しっかり整えといてくれよ」
おう、と軽く返事し、帰ろうと踵を返した。しかし、
「ちょっと一対一付き合ってくれよ」
真司が声を投げてきた。
「分かった」
俺は再度エナメルバッグをおろし、ストリートバスケットボールコートに入る。
「いくぞ」
左右の手で不規則なリズムのドリブルをつく真司の顔から笑みが消えた。
次の瞬間、右のコースにまるで獣のようにドライブを仕掛けてきた。
俺はすかさず左にサイドステップを運ぶ。
ターン。
感覚で感じ、右へ重心をずらした瞬間。
そのまま左側を抜かれ、華麗なレイアップを決められてしまった。
「次、お前な」
軽く笑い、ボールを渡された。
向かい合う真司はやっぱりでかくて。「俺なんか小さいやつじゃ勝てない」そう思わせるに十分な姿だった。
“小さいなりに工夫すればでかいのにも勝てる。バスケは高さだけじゃない”
小学校の頃のコーチの言葉だった。俺の中に今でも刻まれている言葉だ。
右のフェイクから左に行くと見せかけるフェイク。戻して右にという流れをそのまま左に切り込む。
真司の反応が一瞬遅れる。次の攻撃に備えて少し俺との距離が開いた。
俺の強みはこの瞬間のために磨いてきた。
最高速度から刹那のうちに零になる。真司はぐらつくが、俺の軸はブレない。そしてそのまま何千何万とこなしてきたフォームを整えて真上へ跳び――
金属がぶつかる音を立ててボールはリングを通過することはなかった。
「なんか、いいわ。帰る」
最後にボールを拾って真司に返した。
「付きあわせて悪かったな」
「またな」
俺は真司に別れを告げて河川敷を去った。
橙色のキャンバスに紫の絵の具が染みてくるような空だった。
部活終わり。後輩たちや三年の面々は帰った。誰もいない体育館に佇むのは俺一人。
蒸すような暑さの中、練習着は汗を吸って重くなっていた。
「調子、取り戻さないと」
ボールを頭上に、構え、ほうる。
ボールはリングを通り抜けることはなく、リングにぶつかり、あらぬ方向へとんでいった。
「来週、大会なんだぞ」
口の中に苦い味が広がる。喉元までせりあがってきた何かを抑えつけ、ボールを拾う。
再びスリーポイントラインの外側に立ち、跳び、シュート。
何万回と打ってきたはずのシュートが段々入らなくなってきている。
やはりというようにシュートが外れる。
もうボールを取りに行くのも嫌になり、床に座り込む。溜め息をつき、窓から差し込む光を照り返す磨かれた床の上に寝転がった。
右腕を目の上に置く。光が消え、暗闇しか感じれなくなる。いや、蒸すような暑さとひんやりとした床の感触は感じる。
ウトウトしてこのまま寝てしまおうかと思った。
「あの、キャプテン?」
しかし突然かけられた可憐な声で意識が戻る。
「ん?」
腕を目の上から外して声の主を視界に収める。
二年マネージャーの今野紗季だった。紺のジャージ姿にスポーツドリンクが入ったペットボトルを二本抱えていた。
「具合悪いんですか?」
心配そうに顔を覗き込んでいる紗季に笑いかけ、俺は体を起こした。すぐに紗季からスポーツドリンクが差し出される。
ありがとう、と受け取りキャップを開けてぐっと飲む。
練習後の疲れきった体にスポーツドリンクは染み渡ってきた。
「練習付き合いますよ?」
「ありがとう。ボールを拾ってくれない?」
「わかりました。取ってきますね」
ちょこちょことポニーテールを揺らしながら走っていく紗季。ボールを投げてよこしてきた。俺はそれを受け取り、目を細め、リングを見つめ、
ボールがネットに擦れる音が二人しかいない体育館に響き、バウンドする音が響いた。
「俺な、今絶不調なんだ」
キョトンとした顔で俺を見る紗季。なんのことを言ってるのか本気で分からないようだ。
「だって、京介さん、シュートすごく入るじゃないですか」
俺はゆっくりと首を横に振った。
「以前の俺ならもっと確立が高かった。でも駄目なんだ。全然入らない。これじゃあ、みんなを連れて行くことなんて――」
たまらず言葉を吐き連ねた。そんな俺の膝の上に華奢な手が乗せられる。
「キャプテンだからって無理しないでください」
「…………ありがとう」
俺は疲れているんだろう。立ち上がり、紗季に手を差し伸べた。
紗季は俺の手を掴んで立ち上がる。
「あ、あの!」
絞り出したような声を出し、紗季は俺の手を握り直す。
顔を赤らめつつ何かを言おうとしたがそれを呑み込み、続けた。
「なんでもないです。今は忙しいですもんね」
なにがなんだか分からない俺から離れ、紗季はお茶目に笑う。
「それより京介さん。私お腹空きました。なんかおごってくれません?」
「付き合わせちゃったし、そばでも食いに行くか?」
はい! と嬉しそうに笑った紗季を見てると俺も笑みをこぼした。
学校近くのそば屋で早めの夕食を摂った。
隣を歩く紗季は俺に話しかける。
「その、シュートなら入りますよ」
「え?」
妙に緊張した様子で続ける紗季の方を見る。
「今まで京介さんのシュート練習、見てきました。すごく、綺麗だし、かっこいいし……」
話して紗季はすぐにはにかむ。
「なに言ってるんでしょう。私ってば。要するに何も考えなくてもシュートなんて入ります。京介さんなら。私、信じてますから」
そうか。俺を励まそうとしてくれているんだ。
「なにも考えず、か……」
キョトンとする紗季に俺はほほえむ。
「今日はありがとな。大会までよろしくな」
しかし紗季は寂しそうな表情を作る。
「そんなこと言わないでください。大会終わっても次の大会あるじゃないですか」
「あ、ああ。全国まで一緒に行こうな」
紗季は微笑を浮かべ、コクリと頷いた。
試合当日。形式はトーナメント戦。代表は決勝に進んだ二校が上の大会へ駒を進める。中央は決勝まで勝ち上がるレベルの力は持ち合わせているはずだ。しかし優勝候補である誠山高校が準決勝であたることになる。
一回戦、西高校。56-23で圧勝。
勝利に湧いて二回戦。前半負けていたが、後半は俺のスリーポイントシュートが入り、逆転。
三回戦――準決勝
俺は試合開始を、苦楽をともにした仲間と整列して待っていた。
センターサークルを挟んで向こう側に整列しているのは誠山高校。そうそうたる顔ぶれだった。しかし、気迫は負けていなかった。
ちらりとタイマーを見やる。デジタルの数字が零を示すと同時に電子ブザーが鳴る。
「「っしゃす!!」」
礼。ジャンプは峯川真司。真司は深呼吸してセンターサークルの中央で構えた。
審判が高々とボールをあげた。
真司と同時に跳ぶのは黒のユニフォームをまとった5番。
上空で二人は同時にボールを叩く。ボールはスピンしてあらぬ方向へ。
掴んだのは誠山の4番。
軽快なドリブルでゴール前まで切り込んでくる。
必死の表情で高田がボールを弾く。それを掴んだ早川が相手陣地まで運ぶ。
俺は早川を呼ぶ。俺に誠山の注意が向いた。その隙を突く真司。すでにゴール下で陣取っている。
早川は俺の方を見ながら、それでいて途中まで俺にパスを出すそぶりを見せ、なんの予備動作も無しにボールは真司へ向かった。
俺についたマークディフェンスがすぐにボールを持つ真司へ向かった。
真司はゴール下で競り合いながら俺を見据えている。
わかってる。
真司は自由の俺へパスを送る。俺は受け取り、誰もいないこの瞬間にフォームを整えて跳ぶ。
最高点に達した俺は軽い動作でボールをほうる。
綺麗な弧を描いたボールは吸い込まれるようにリングの中へ。
中央 誠山
3- 0
先制点は俺たちが取った。
「よし!」
しかし喜びはつかの間、切り返しの早い誠山に二点を取り返される。
一筋縄にはいかないか。
俺はパスをつなげながら思った。
試合はシーソーゲームに突入した。
お互いに守備よりも攻撃の方が強い。
点を取ったら取り返され、また取り返す。そんな試合になった。
ピリオド3終了
中央 誠山
47-42
俺を含め選手は言葉無くスポーツドリンクを飲む。
聞こえるのは選手たちの荒い息遣いだけだ。
そんな沈黙を破ったのは二年女子マネージャー今野紗季だった。
「勝ってます! このまま点差離して逃げ切りましょう!」
早川、高田、三村、峯川真司。そして俺――伊吹京介が互いに顔を見た。疲れこそ見えども、誰もが勝ちを見据えていた。
こんな時、キャプテンの俺が黙ってたら立つ瀬ないだろ。
「紗季の言う通りだ。このまま逃げ切るぞ!!」
「「おうッ!!」」みんなの声が揃った。
電子ブザーが体育館に響く。
俺たち五人はコートに足を踏み入れた。
試合は膠着状態におちいった。
最終ピリオドの後半に突入し、お互い体力が限界に近い。ミスも目立つようになってきたしお互いシュートが外れだす。
中央 誠山
56-55
とうとう一点差まで詰められてしまった。タイマーは残り……
01:34
一分半。
かなり厳しい時間だ。離してもすぐに詰めれる時間。
三村が自陣線からボールを出そうとした時、
「ディフェンスが変わった!?」
誠山は全体で潰しにかかるオールコートプレスディフェンスに切り替えた。プレスは高校レベルになると対処をしっかりすれば簡単に破れるディフェンスだ。しかし体力の無い今、これを破るのは厳しい。誠山は懸けにでたのだ。
「早く出せ! 相手ボールになる!!」
三村は苦渋の表情を作り、そして、
大きく遠投した。
「何考えて!?」
俺はボールが落ちる先に顔を向けた。
そこには真司が走っていた。
しかし、
誠山の6番がロングパスをカット。すぐに素早い攻撃が展開される。
人数で負けている中央。パスで翻弄され、簡単に三点決められてしまった。
中央 誠山
56-58
「時間は!?」
急いで視線を動かす。
00:20
「急げ!! 京介ッ!!」
早川がボールを受け、相手陣地にあがる。
00:17
高田は早川からパスを受け、スリーポイントシュートを放つ。無理な体勢のシュートはリングにぶつかり、ゴール下に落ちる。
00:09
歯をくいしばって跳ぶのは峯川真司。5番と競り合いながらもボールをしっかりと掴む。誠山のディフェンスが真司に集中した。
00:05
真司がディフェンスを振り切り、跳ぶ。しかしそこには誠山黒の5番。
00:03
しかし真司はシュートにいかなかった。
代わりにボールは俺の手元に。
00:02
全てがスローに感じる。紗季が何かを叫んでいるのが聞こえた。早川が、高田が、三村が、そして真司が、俺の名前を呼んでいる。
俺は観客たちの声も何も聞こえなくなっていた。
何千、何万と繰り返されたフォームを整え、跳ぶ。
誠山の4番が迫るが、俺は構わず最高打点に達し、
シュートをほうった。
00:01
綺麗な軌跡を描き、ボールはゆったりとした回転を魅せながら、リングへ向かう
リングにぶつかり、ボードにぶつかり、ボールはリングの上を回る。
ボールは、
試合終了のブザーとともにリングからこぼれ落ちた。
00:00
中央 誠山
56-58
俺は崩れ落ちた。喉から嗚咽が漏れ、涙は止められなかった。
「あっしたッ!!」
体育館には誠山の挨拶が響いたのだった。
広さのある河川敷では小学生くらいの子供たちがサッカーボールを追いかけて走り回っていた。
川を渡す鉄橋の下。バスケットボールリングがひそかに据えられている。そのリングの下では一人の制服姿の高校生がボールを弾ませていた。
その親友はバスケが好きで、しかし同じ部員ではない。
「おっす」
おう。
「“元”キャプテンのご登場だな」
やめてくれ。
「さ、一対一やろうぜ」
今から? ま、いいけど。
「お前、先攻でいいぜ」
前にもしたことのあるやり取りをかわし、俺はボールを受け取る。しばらく触っていなかった。こんなにも好きでいるのに。
俺は左右にドリブルをつき、親友の重心を揺する。
左のコースを攻めるフェイクから右から鋭いドリブルで攻める。
若干遅れたが、親友はさすがのセンスで俺の攻撃についてくる。しかし、
最高速度から零に止まり、跳躍。
誰もいない空中。俺は軽くボールをほうる。
綺麗な弧を描き、俺のほうったボールは縦回転で吸い込まれるように、
リングを通過してネットを揺らした。