この部屋に花を
土曜日の昼過ぎ。私は近くの定食屋に昼をとりに歩いていた。初夏の日差しが心地よく、平日の激務を忘れられる束の間の休日が、ゆっくりと流れていた。
この街は最近市の開発が進み、家族向けのマンションが多く建ち始めた。数年前までは「隠れたベッドタウン」として都内に出るサラリーマン達に人気だったが、今では家族連れのほうが多いのではないか。しかし、私のように会社勤めをしていると、この街がいかに好立地なのかが良く分かる。道沿いで、作業着を着た男たちが新築マンションの基礎工事をしているが、建築前の物件を見かけたところで開発の話に結び付けるだけで、それより考えるのをやめてしまった。
前から、下校途中の小学生たちが四人ぐらいの集団でこちらに歩いてくるのが見えた。まもなく集団は私とすれ違う恰好となり、みるとその数メートル後ろにも同様の集団があった。それぞれが同級生と見え、前の集団と後ろの集団は、大声でお互いの名前を呼び合っては、大きな笑い声をあげていた。私はそこで一瞬歩を弱めたが、すぐに定食屋への道を急いだ。腹が減っている。
定食屋は、交通整理の昼休憩をとっている警備員姿の男が座敷に数人いる程度だった。私は入ってすぐのテーブル席についてカレーライスを注文し、昼のワイドショーを映すテレビをぼんやりと眺めていた。ワイドショーでは、有名な元プロ野球選手が薬物使用で逮捕されたニュースを取り上げ、コメンテーター達がああだこうだ議論している。
「お待ちどうさん。」程なくして、店主の親父がカレーを運んできた。ここのカレーはコクがあり、いつ来ても美味い。大盛りを頼むと追加のルーまで出してくれるので、腹いっぱい食べられる。この店は夜、居酒屋としても営業しており、私も何度か近くの知り合いと飲みに来たことがある。その時に親父に美味いカレーの秘訣を聞いたことがあるが、酒も入っていたせいでさっぱり忘れてしまった。結局、家でカレーを作るとなっても冒険はしないものだ。大昔、母親から教わった作り方を未だに実践している。
男たちが出て行き、店の客は私一人になった。テレビでは相変わらず、落ちぶれた元プロ野球選手の話題が続いている。私は薬物というものについて考えた。これは今までの私の人生には全くと言って良いほど縁の無いものである。地元の友人が学生時代に行ったケニアで「ガンジャ」を手にし、一度試した事がある、という古いエピソードを思い出すのが精一杯なぐらいだった。自分にとってその程度でしか無い存在に対し、意見を持つという事は難しい。何かの受け売りであっても、テレビのコメンテーター達のそれらしい意見を聞きながら、私はそんな事を考えていた。
「考えりゃ分かるのにねえ。」食べ終わったカレーの食器を片付けに来た親父がぼそりと言った。それは独り言とも、または私に簡単な同意を求めるようなセリフとも取れ、唐突な声に私は、「はあ」とほとんど空気みたいな返事をしていた。「こんなの小学生でも知っているだろう、薬物はいかん、って。」隣のテーブル席でたばこをふかし始めた親父が続けた。私は、「ですよねえ」とこれもまた間の抜けた返事をした。以降、私の意見は一向に形にならず、親父の言葉は私の体の中をふわふわと漂い続けた。
腹がこなれてきたので私は席を立ち、会計を済ませ店を出た。午後二時、太陽は夜に向かってゆっくりと首をかしげ始めていたが、依然として良い天気である。奥歯に挟まった鶏肉を気にしながら、自宅までの道を歩く。
道端には、ツツジの花が見事に咲いていた。昔、よく学校の帰りに友達と一緒にこの花を摘んで蜜を吸ったことを思い出した。今考えれば躊躇いもせずよくやっていたなと思う。しかしツツジが車道にはみ出すことなくきれいに咲いているのは、とても美しかった。
自宅に着いた。私の部屋は物が少なく、整然としている。いつからか、片付けて、片付けて、何から何まできれいに棚にしまうのが、習慣になっていた。
一服をしようと、窓を開けベランダに出る。たばこに火をつけた。すると、子供たちが野球道具を持って遊びにでかけるのが見えた。一瞬、その中の一人が窓の開いた音に反応してこちらを見たような気がした。しかし、たばこの煙越しには、彼の表情はよく見えなかった。
彼らは、どんどん離れていく。声も、どんどん離れていく。声は、遠く彼方で鳴っていた。私には、うっすらと耳に入ってきた。
たばこの火を消した。ベランダから部屋を見渡した。やはり、あまりに整然としている。今度、ホームセンターでツツジを買ってきて育ててみようかと、考えていた。