気高き子供
残業を終えて終電を下り、疲れた足取りで家路を急ぐ道中、なぜか私はその路地が気になった。いつもは通り過ぎるだけの、人が二人も並べば幅いっぱいになろうかという細い路地。目には見えているけれどただそれだけ、いつもなら意識することもなく通り過ぎるその路地が今日に限ってはなぜか気になった。そして一度気になり始めると、その路地が私を呼んでいるような気がした。そうして私はフラフラと吸い込まれるように、その路地に入った。
その路地には明かりはなく、どこまで進んでも暗い、闇、闇、闇。自分の足元さえ覚束ない。それでも私は奥へと突き進む。奥へ奥へと――と突然、そう本当にそれは突如として目の前に現われた。古い小さな錆びた看板に『子供売ります』の文字。そしてその隣には看板と同じように古びて朽ちかけた木製の扉。
私は迷うことなくその扉を押した。もう真夜中といってもいい時間帯、普通に考えれば扉は閉まっているだろう。しかし私はなぜか扉は開くだろうと確信があった。そして――
壁に沿って数本のろうそくが火を灯していた。そのオレンジ色の灯りが届かない部屋の隅に何かが蠢いている。私はその蠢いたものをもっとよく見ようと足をそちらに向けた。するとそこには数人の子供たち――全部で四人いる。どの子供も顔立ちは整っているが、どこか薄汚れており表情も暗い。まるで何かに怯えているような、そんな視線と表情。髪には蜘蛛の巣が絡み、顔や服も埃まみれだ。私はそれだけのことを観察すると、視線を左に向ける。
――そこには一人の老人がいた。
腕は枯れ木のように細く、脚は――脚には古びた布が掛けられていた。その老人がこちらに近づいてくる。老人が動くたびにギィッギィッと耳障りな音がする。車椅子の軋む音だ。車椅子に乗った老人が私の顔を下から見上げ、口の両端をニィッと上げる。きっと笑ったつもりなのだろう。
「どの子がお望みかな、お嬢さん?」
私はお嬢さんと呼ばれたことに多少気をよくしながらも、老人の放った言葉の意味を理解できず、老人の顔を無言で見つめてしまう。
「はて、子供が必要なのであろう? お嬢さん」
そう、そうだった。確かに表の看板には『子供売ります』とあった。とすればあの薄汚れた子供たちが商品なのだろう。
子供を商品とすることの倫理的な問題が気にならなかったわけではないが、それよりも私は一人の少年に心を奪われてしまっていた。
私は震える指先で、その少年を指さす。
「ほぅ、これはなかなかお目が高い」
その言葉に続いて老人の口から出た言葉はけっして安くはない金額、しかし趣味もなく恋愛にも興味はなく、毎日会社と家の往復をただ繰り返していただけの私には払えない額ではなかった。
必ず払うと約束し、その少年をじっと見つめる。すると少年はより怯えた表情で私から目をそらす。
「行きなさい」
その老人が呟くように言うと、少年はおずおずと私へ近づいてくる。
私はそんな少年の様子に嗜虐的な思いに駆られ、強引に彼の手を引く。そして――
☆☆
私の目の前には一人の青年が横たわっている。あの怯えた表情をしながらもどこか気高さを持った少年は、もうどこにもいなかった。あれから10年、気高き少年はただのずる賢い眼をした青年に。
しかしこれでもう、あの忌々しい眼に悩まされることはない。
私はあの後、残りの代金を支払うと、一度もあの店には行かなかった。路地を横切ることさえなかった。あれから10年――
しかし行かなくては。もう一度あの店へ。
「いらっしゃい、そろそろ来る頃だと思っていましたよ、お嬢さん」
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