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八重垣姫

作者: windy cristal

八重垣姫

                  


――昔、昔のことでした。

 万年雪を頂く山々に四方を囲まれて海は見えず、そこに住む人々は山を崇めている国がありました。

 その山々の中に戸隠山(とがくしやま)がありました。これは天照大神のお隠れになった洞窟の岩戸を、力持ちの神が投げ捨てた際に落ちてできたものです。そこに九頭竜(くずりゅう)さまがお住まいになり、下界へ流れる水を司っていらっしゃいました――

「父上の今いらっしゃっているところですね!」

日が西へ傾きつつあるころ、七ツヶ池のほとりで黒姫(くろひめ)は娘の八重垣姫(やえがきひめ)に物語を聞かせていた。戸隠という名を聞いて、思わず八重垣姫は口走ってしまった。

夏の終わりごろから、父である龍神は九頭竜さまのもとへ今年の水の流れを決めるとかで出かけていた。父の代わりに留守を八重垣姫が任されているのである。結界を張り巡らせても破る者が少なからずいる。外の者達が霊気の源に立ち入らぬよう、常に気を巡らせていなくてはならない。

(龍神の力を受け継いだ私が母上とこの山を守らねば。母上には指一本触れさせはしない)

 それでも隣山のことが気になる。八重垣姫は隣山へ足を踏み入れたことが無いのだ。

「父上、はやく戸隠から戻られないかな。戸隠には何があって、九頭竜さまとはどんな方なんだろう」

八重垣姫はそばの柳の木に立てかけてある薙刀を手に取って池の縁に立ち、刃で水をすくうように素早く振り上げる。刃にかかった水を一滴もこぼすことなく、薙刀を回転させながら軽く宙返りしてみせた。柳の葉がひらりと池の水面に(いかだ)をつくる。黒姫が、蓮華の咲きこぼれるような笑みを浮かべて感心した。

「本当にうまくなりましたね。父上もお喜びになるでしょう」

 八重垣姫はふいっと首を回して西の空を見た。

「母上、夕暮れが近づいてまいりました。山をまわってきますが、何かあったらすぐに知らせてください」

 黒姫はにっこりと笑った。

「まるで、父上の人間のお姿の頃を思い出します。どうか、気をつけてくださいね」

 山頂近くの洞窟は強力な霊気で守られているところだ。どんなに強い修験者でもあそこを突破できるものはいないだろう。黒姫をそこまで送ると八重垣姫は中腹まで下りることにした。

秋になるとこの山は綺麗に色づく。七ツヶ池のほとりでは紅く色づいた葉が風に乗って舞い、山頂近い林には既に落葉が地面に積もっていて、白樺の幹が白く映えていた。山頂を挟んで、低木しか生えていない七ツヶ池の反対に位置する湿地には、まわりに様々な草木が生えており、水辺にとろりと甘露にも似た雫が落ちて水輪を広げている。あそこは山中で一番開けた場所にあるから、晴れていると下界の様子がよく見える。しかし今は深い霧がかかって見えなかった。

八重垣姫はしばらく山の中を歩き、急峻な岩場を越えた。薙刀をもって足場を確認しながら一跳躍で飛び越える。水のにおいが強くなったと思うと、ごうごうと音を立てて落ちる滝が、黒い岩肌に白く線をつけながら堅い岩を抉っていた。その先は小さい川が流れているが、春になれば雪解け水が集まり大きな川となって下界を潤すことになる。

一通りみて回ったので、八重垣姫は再び洞窟の方へ向かおうとした。すると深い霧の中をまっすぐ進んで山を上る気配を感じた。

(なんだろう?)

周りの山が修験場であることから、ときどき山伏がこの山を通りすぎることがある。道を間違えた山伏だろかと思ったが、彼らは滅多なことが無い限り複数で山に入る。今感じる気配は一つだけだったので、八重垣姫は気になってあとをつけることにした。

見ると山伏の荷物は一切持っておらず、代わりにその腰に煌びやかな業物(わざもの)があった。刀を抜かずとも、独特の(しゅ)を施した気配が鞘からにじみ出てくる。

「山伏でないとしたら……まさかあれは」

 行く先は先程黒姫を送った洞窟の方向のようだ。あの業物で洞窟に入り込もうとしているのか。

(だとすれば、なぜ……)

 あちらの足さばきは軽快だが、岩場を飛び越える力は鹿のごとく強靭で、深い霧など無いようにまっすぐ進む。衣はあたりの霧や露で重くなるはずが、呪をかけているのか乾いたままのようだ。身のこなしと言い、あの業物となるともはや普通の人間ではあるまい。

「もしや、術者?」

八重垣姫は好奇心にかられて一陣の風を吹かせた。向こうは急な突風で飛び跳ねるのをやめ、朽ち葉の降り積もる地に足をつけた。

よく見ると、髪を水引で束ね、山吹の単衣に二藍(ふたあい)の狩衣を着た青年だった。透き通るような肌をしていて、凛然と立つ様子は黒姫がかつてお話をしてくれた牛若丸とかいう者に似ていた。

 青年の手が業物の柄に触れ、ひとりでに鞘から抜けたように勢いよく放たれた。傾きかけた日に照らされて刃がぎらぎらと鈍色(にびいろ)に輝いている。見たことのない刀と気配に、八重垣姫はただ黙ってじっとしていた。

「我は夜叉を討つべくこの山に入った地雷也(じらいや)である」

 高らかに地雷也が名乗ると、刀はさらに霊気を帯びた。その気に触れるだけで身が切り裂かれそうな鋭さである。

「さあ出てくるがよい。この降魔刀の露にしてくれよう」

 八重垣姫はこちらも姿を現した方がよさそうだと思い、一瞬にして紅葉の襲の上に絢爛な錦織の唐衣をまとい、紅の綾袴で(やぶ)から出た。

地雷也は八重垣姫の姿を見て一瞬目を瞠った。狐が化けて出たと思ったのか、刀をさらに前に突き出して威嚇した。焼けつくような気配が炎のように揺らめいている。八重垣姫はその気配に圧倒されないよう、気丈にふるまった。

「物騒なものをしまうがよい。我はこの山の姫神の八重垣姫である。そなた、何をしにここへ来た」

 八重垣姫が(ろう)たけた声でそう言うと、地雷也は低く唸るような声で答えた。

「ここには人の生き血をすする夜叉がいると我が恩師の白泉仙人(はくせんせんにん)から伝え聞き、いざ討伐せんとこの山に入った次第。もし聖なる姫神ならば、この刃に触れられるだろう」

 切っ先をこちらに向けたまま、地雷也は突きこむようにして前へ踏み込んだ。

八重垣姫は呆れてものが言えなかった。禍々しいとは言わないまでも、あの刀の中には強力な力を宿すなにかが呪によって封印させているようだった。触れたらこの山で解放されて暴れるかもしれない。そうなれば母上を守れない。それだけは絶対に避けねばならない。躊躇していると地雷也が拍車をかけてきた。

「どうした、触れられぬのか? やはりお前は夜叉の娘か」

「無礼な!」

 さあっと冷たい(おろし)が木の葉を散らす。八重垣姫は目にも綾な絢爛の衣装から紺の袴に白の小袖を着た姿になった。怒りのあまり、薙刀の切っ先を青年に向けた。雷雲が立ち込め、あたりが暗くなる。地雷也は本性を現したなどと吐き捨てて足場を定め、柄を強く握った。

――(ごう)ッ――

 刀が振り下ろされると、猛然と破魔の気が飛びかかってきた。素早くよけたが、八重垣姫のいた背後の樫の幹が、じくじくとただれたように樹液の泡を出しながら溶けていく。背筋に冷たいものが走り、同時に怒りが駆け巡った。

八重垣姫の白い頬に、細い腕に翡翠色の流紋が現れた。さっと腕を横に一閃すると、薄青く透明な水の結界が辺り一帯を包囲した。

「神を強引に封じた刀など、禍々しいこと限りない」

 薙刀が淡い翡翠に輝くのを見て、地雷也は鼻で笑った。

「この刀に封じられし魔物を神と言うならば、お前はこれと同じ卷属か!」

地雷也が刀を振りまわして斬りかかってきた。

――()ッ――

 勢いよく振り下ろされた刀と、撥ねつけるように横に薙いだ刃が切結んで火花が散った。そのとき、封じられているのが(みずち)だというのが分かった。次の斬撃の瞬間、八重垣姫は水の気を集めて刃と刃の間に氷を作った。

 かちん。地雷也が力任せに斬りつけたせいで、氷の破片が飛び散った。

「う!」

 地雷也が狩衣の袖で顔を覆った。氷の破片が意志をもったかのように地雷也めがけて襲ったのである。八重垣姫はそのすきに薙刀をもち直して横に一閃させた。

 ばしゅっ。一陣の風が刃のごとく鋭くなり、地面ごと周囲を薙いだ。地雷也の足場を切り崩し、一歩大きく後退させた。

(この地雷也を山から出さないと!)

 地雷也の刀は相手の霊気を吸い取るようだというのが分かった。まともに切結んだら勝機はない。うまく霧や風を味方にしながら着実に地雷也を退かせていくしかない。そう八重垣姫は考えた。地雷也が次々と斬りかかってくるのを薙刀の柄と刃で防ぎかわしながら、すきを探ることしかできなかった。

「あ!」

ちょろちょろと小川の流れるところで足元をすくわれ、地雷也が高く跳んで八重垣姫の背後にまわり勢いよく蹴飛ばした。つんのめって小川に落ち、かろうじて薙刀を杖にしたので小袖だけは濡れなかったものの、袴がずぶぬれだった。

「ちょろいものだ! 姫神とはこれくらいのものか」

 地雷也に笑われたことで一気に怒りが絶頂に達した。ばっと立ち上がり、薙刀の刃を小川の中に差し入れた。


野末火和(やまかわに) 風懸多留柵かぜのかけたるしがらみは 流不和紅葉也鳧ながれもあへぬもみじなりけり


 あたりが急に静かになり、小川の流れる音と冷たさだけが感じられるだけだ。

 その異様さに地雷也は動きを止めた。自然の結界が既に張り巡らされ、閉じ込められたことを知ったらしい。刀の腹をなでて、結界に刃を突きたてた。鋭い音が響くも、傷一つつけることすらできなかった。

「破魔が効かないだと?」

次の瞬間、ざっと音がしたかと思うと地雷也の足元の木の葉が一斉に舞いあがり、彼を包んだ。

「うああ!」

 地雷也は身動きが取れず刃もろくに振り回せなかった。力の限り叫び、体をよじっても無駄だった。八重垣姫はそれを眺めて、静かに言った。

「今すぐ山を降りなさい。ここにはお前の討つべきものはない。白泉仙人とかいうのは隣の山に最近住むものか。いにしえよりこの地を治めている神を侮辱したら容赦しないと伝えなさい」

 言い放つと、地雷也は歯を食いしばって睨んだ。

ひとまずこの状態のまま山を下りようと、八重垣姫は紺の袴をさばいて茂みの中を進んだ。薙刀の切っ先を上にして肩に預けると、地雷也を包んでいる紅葉の風がひかれるようにして後についてきた。

 少し開けた獣道を通って山の麓まで下りると、まだ下界は夏の蒸し暑さが残っているようで、緑も深かった。

――待て、八重垣姫――

薙刀を前に出して地雷也を放とうとした瞬間、背後から声がした。振り返ると、蘇芳(すおう)の狩衣をまとった青年が立っていた。凛々しい美しさをもった青年は、威厳のある黒い瞳で八重垣姫と地雷也を見下ろしていた。

「父上! お帰りになったのですね」

――いや。戸隠の九頭竜殿が、地雷也なるものが先日戸隠から黒姫へ向かっていると教えてくださったのだ。地雷也よ、そなた、戸隠の九頭竜殿を調伏せんとその刀を振るったな――

 龍神の、静かな声でも内にひめる鋭さは、地雷也を完全に萎縮させた。先程の猛々しさはどこへやら、すっかり尻込みしてしまって声が震えていた。

「す、すべては我が恩師白泉仙人のご命令に従ったまで」

――では白泉仙人に伝えよ。九頭竜殿はそのお住まいの滝から流れる川を司っておられる。調伏し岩戸に閉じ込めんとすれば滝壺から流れる水は枯れ、麓の民が苦しむことになる。そしてその業物はそなたが振るうには荷が勝ち過ぎている、とな――

 地雷也はそれでも苦い顔をして言い放った。

「龍は、龍は悪しきものだと仙人はおっしゃっていた。勝手に水を我がものとしてふるまうのは、民を恐ろしさで支配する夜叉も同然とな!」

――たわけ!――

 青年は目をかっと開き、雷のごとき咆哮をあげた。頬や腕に翡翠色の流紋が鮮やかに浮かび上がり、地雷也を大きな水の球に包みこんだ。地雷也は苦しそうにもがいて水球に爪を立てるが柔らかくへこむだけだった。龍神は猛り狂った風のごとく咆哮した。

――古の神を侮辱するとは言語道断! この地から出てもなお、お前の師もろとも永遠に神の祟りを被ることとなろう――

 父上は片手を差し出すように伸ばし、ものを投げるしぐさをした。すると水球に包まれたまま、地雷也はどこかへ飛ばされてしまった。

その後、龍神の何事も無かったかのように振り返って山を上っていく姿をみて、八重垣姫はあっけにとられていた。

(父上が怒るとああなるのね)

――八重垣姫――

「は、はい!」

 突然呼びかけられて、思わず声が上ずってしまった。

――留守の間しっかりとこの山と母上を守ってくれたな。よくやった――

 

 龍神はすぐさま戸隠山へ引き返したが、その夜のうちに九頭竜さまを連れて帰ってきた。九頭竜さまは紅の単衣に黒の狩衣を召された翁で、今日のことについて八重垣姫を褒めた。

 洞窟へ行き黒姫を迎えた後、一行は滝壺へ赴いた。山の霊気がたっぷりと漂っていて、ごうごうと落ちる水とともに底なしの淵へ注ぎ込まれる。明るい時であれば紅葉がちょうど色づき、水の深い碧青(あお)と紅葉の色がとても美しいのに、日が沈んだ後なので闇になじんで見えなかった。

――八重垣姫よ、母上から教えてもらった舞を舞うがよい――

 龍神は青年の姿で、黒姫の酌で酔っていた。九頭竜さまも陽気に笑っている。ふっとどこからか篝火(かがりび)がいくつも現れ、周囲を暖かな色で包んだ。

(神の前で舞えるものではないのに。酔っているとはいえ、神を楽しませねば舞の意味が無くなってしまう)

八重垣姫はしぶしぶ立ち上がり、震える手で薙刀を握り滝壺の岩場に飛び乗った。呼吸を整え、薙刀の石突で足元の岩を突いた。

こおん。

 ひらりと薙刀を振って舞う。ゆっくりと旋回し、刃を振り上げ斜めにおろす。風を切り、それに乗って紅葉がひらひらと宙を漂う。篝火の炎が刃に映り込んで紅く輝いた。滝壺の水が深い淵に飲み込まれる音が、次第に遠のいていく。九頭竜さまが懐から笛をとりだし、奏で始めた。


千荒降留(ちはやふる) 神代不聞竜田川かみよもきかずたつたかわ 唐紅水掬止波からくれないにみずくくるとは


風が一斉に紅葉を散らす。闇の中だというのに、紅、黄色、紫、朱、まだ色づいていない青いものも内側から光を発するように鮮やかに見え、笛の音とともに宙を舞って滝の水とともに落ちていく。急に滝壺が静まり返り、深い色をたたえる淵がその時だけ綾錦(あやにしき)を広げたように彩られた。ぱちぱちと篝火から火の粉が舞う音がする。

――八重垣姫よ、だんだんと黒姫に似てきたな――

 父上がそう言うのが聞こえた。

 もうすぐ、下界にも秋が降りてくるだろう。


原点に立ち返ってみた。

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