04. 昨日見た夢
神様、懺悔します。
細い細い手首。
少し力を込めるだけで簡単に握り潰せそうだな。
想像はリアルに脳内実行され、彼女の表情が苦痛に歪む。
細い手首がとめどない欲望を吸収していく。やがて、変な方向に折れ曲がる。
間違った方向に。
「美原くん」
くん、と呼ぶ。その声を恋と錯覚したのはいつのことだったか。
目下のピラフからグリンピースを寄り分ける作業に熱中しすぎて、忘れてしまった。
「…… なに?」
「あ、ごめんね、ご飯中に。ここ、いいかな?」
と、目の前の空席を示す。
その指先の、深爪にならない程度に切り込んだ爪が、ピンク色に光った。
ピアノ講師のアルバイトをしているらしい彼女は、指先の手入れを怠らない。
派手な飾りが乗らない、健康的な色をした爪。
視線をもとに戻す。今はグリンピースを第一優先事項に決める。
「いいよ」
彼女はほっと息をつき、ピンクの色の爪を光らせながら、細い手首を返して、椅子を引く。
テーブルを隔てて、向かい合う。
午後の授業が始まるまでにはまだ二十分ほどの余裕があった。
学生で溢れる大学の食堂の中で、一人の人間を見つけ出すというのは困難な作業のように思う。
彼女はもうすでに昼食を済ませたようだったので、オレは、目下のピラフを食べ続けてもいいものかどうか一寸悩んだ。
「あの、美原くんって確か真下教授の国際関係論とってたよね?」
とってたような気もする。
ごく普通の学生らしい会話内容だ。
興味をそがれたように頷くと、前回の講義プリントをコピーさせてもらいたい、と両手を合わせて拝まれた。
オレは、いいよ、と簡単に答えた。
彼女の顔が輝く。お礼になんでもするから、と、いとも簡単にそんなことを言う。
昨日見た夢の続きを見てもいいと言うんだろうか。
細い手首を折れそうなくらいに歪ませて、白いシーツに押し付けたその先を?
口に入れた米にグリンピースの味が微妙に染みていて顔が歪んだ。そういうことにしておく。
「あと、その……」
言いよどんだ彼女のためらいは、周囲の雑音がかき消す。
食堂には有線放送が入っている上、休み時間の学生たちの口が閉じているはずもない。
「その伊狭がどうかした?」
彼女の目の前に溜まっていたためらいの露を払う。
正直もうすぐ講義が始まるし、面倒くさいと思い始めていた。
彼女とオレに間にあるものなんて、いつも同じ、決まっていた。
彼女をためらわせるのは伊狭。
オレにいい友達を押し付けてくるのも伊狭。
今、食堂の入り口をくぐって、人一倍騒がしい声で周囲を笑わせている伊狭だ。
「あ、美原ー」
人懐っこい笑みを浮かべて手を振ると、周りの友人たちと別れわざわざこちらの席にやってきた。
空いているのは向かい側、彼女の隣の席だけだったので、選ぶことなくそこに腰掛けた。
動揺を隠せずに顔を真っ赤にして、彼女は俯く。
「―― 伊狭、この間の国際関係論のプリント持ってない?」
「持ってるけど?」
「じゃあ、白鷺さんに貸してやって」
伊狭はオレが指差した先、そこで初めて隣の席の女子学生に目をやった。
名前を呼ばれた本人は、目をまん丸にしてこちらを見ている。
「別にいいけど。お前もこの間の授業は出てなかったっけ?」
「プリントは、居眠りしてる間に順番飛ばされて、もらい損ねた」
馬鹿だなぁとオレを軽く貶めてから、伊狭は隣の彼女に向き直った。
「えっと、白鷺さん?」
名前を呼ばれて露骨に肩がびくりと揺れる。伊狭は気づいているのかいないのか、話を前に進めた。
「プリントだけでいいの? ノートも貸そうか?」
「あ、プリントコピーさせてくれるだけで十分です。ありがとう」
「遠慮せんでもいいよ。オレのノートはテスト期になると一部コピーにつき100円の代物だから」
でも、と逡巡する彼女に、伊狭がにっこりと笑う。
鞄から、驚くほどきちんと整理されたファイルを取り出して、プリントと、一枚のルーズリーフを一緒にテーブルに置いた。
「じゃあ、100円……」
「あー、いらんいらん。美原のお友達に請求したりできませんよ」
ぺこぺこと伊狭とオレの両方に過剰に頭を下げてから、彼女は食堂をあとにした。
伊狭は、たっぷりその後ろ姿を見送っていた。その様子に、少し胸がざわつく。
一方、皿の上の仕分け作業は終了していた。
完璧に、グリンピースの緑色だけ避けられたピラフを見て、軽くため息がつかれた。
「好き嫌いして、おいしいところを食べ損ねるなよ」
それにどんな意味が含まれたのかを尋ねる前に、伊狭は他の友人に呼ばれ、席を移っていった。
お米一粒には百人の神様が宿る。
小さい頃からそう教わってきたオレは、たとえ米一粒だって無駄にはできない。
グリンピースにくっついているものも引っぺがして、舌に乗せる。苦い味がした。
「あ」
声がして顔を上げると、彼女がいた。
両手にペットボトルを二本ぶら下げて、少し息が乱れている。走ってきたのだろう。
視線の先には、友人に囲まれる伊狭の姿があった。
「あの、美原くん、ありがとう」
よかったら二本ともどうぞ、と、少し恥ずかしそうに目が伏せられ、睫毛が影を作る。
ペットボトルを置く細い手首が誘う。昨日見た夢の続きを。
皿の上でさみしげに転がっているグリンピースを。
二本並んだペットボトルを。
少し頬を染めている彼女を。
「…… どうも」
夢を見続けているオレを。
おしまい