兄のこと
「どうしたの?」
頭上から声が降ってきた。顔をあげると、いつの間に戻って来たのか、佑二が立っていた。
「べつになんでもない」
あたしは無理に口角をあげて首を振った。
佑二はあたしの素振りを特に気にした様子もなく、あたしの向かい側の席に再び腰掛けた。それからあたしたちはたわいもない話をして時間を過ごした。会社の同僚のだれそれがどこで何をしたというような話。そのうちに注文した料理は運ばれて来た。
運ばれて来た料理は待たされただけあってかなり美味しかった。ここのカツ丼は美味しく、地元ではかなり有名だ。
「そういえば今度、そろそろお前ん家のところに挨拶にいかないとな」
佑二はカツ丼を箸で口のなかにかき込むのを止めると、あたしの顔を見て思い出したように言った。
「まだいいんじゃない?」
あたしは苦笑めいた微笑を浮かべて言った。佑二としては結婚を前提に付き合っていることをそろそろあたしの両親に伝えておこうと思ってくれているのだろう。もちろんそんな佑二の気持ちは嬉しかったけれど、でも、一方ですごく怖かった。あたしの家に挨拶にいくことによって、あたしの家族の内情が佑二に露見してしまうことが。もしほんとうのことを告げたら、佑二との結婚がなくなってしまうんじゃないかとあたしは心配していた。
あたしはまだ佑二には告げていなかった。あたしにはひこもりの兄がいることを。そういえばあたしの兄と佑二は同い年なんだと今更のように気がついた。
あたしの兄は五年くらい前からずっと部屋にひきこもっている。大学を出たあと普通に就職して働いていたのだけれど、会社が合わなかったのか、すぐに辞めて実家に帰って来た。そしてプロの画家になりたいと言い出した。それで父親と喧嘩になった。父親はプロの画家になんてなれるわけがないだろと兄を罵った。その頃から兄は次第に様子がおかしくなっていった。今はほとんど自分の部屋から外に出ず、部屋でネットをしているか、たまに気が向けば絵を描いているみたいだ。そんな兄を思うと不憫になる。兄はもともと内向的な性格で外に出て働くのには向いていなかった。傷つきやすい性格だった。そんな兄に対して父親はあんなふうに言うべきではなかったのだ。兄の希望を聞き入れて応援してあげるべきだったのだ。
確かにプロの画家になるのはかなり難しいし、兄の将来を思えばこそあんなふうに厳しい口調で言ったのだろうけれど、そのことがかえって兄を取り返しのつかないくらい深く追いつめてしまった。
記憶のなかでいつも兄は絵を描いている。記憶のなかで、あたしは兄の側に近くづく。そして兄の描いている絵を覗き込む。兄が描いている絵は家族の絵だ。記念撮影みたいな形で家族みんなが集まって、全員が正面を向いて笑っている。もちろん、そのなかにはあたしもいる。絵のなかのあたしは嬉しそうで楽しそうでこれからの未来に何の疑問も不安も感じていないように見える。その絵はほんとうにいつかどこかで兄が描いた絵なのか、それともあたしが作り出した空想の記憶なのか判別がつかない。
「どうかした?」
ぼんやりとしていたせいだろうか?佑二が怪訝そうな表情であたしの顔を見た。あたしは少し強張った微笑を浮かべてなんでもないと答えた。そして思った。兄のことを告げたら、佑二はなんて思うのだろう、と。なんて感じるのだろう、と。
佑二はどちらかというと保守的な考え方するところがあるから、あるいはもしかしたら、兄に対して否定的に感情を抱いてしまうかもしれないと予想した。三十歳になろうという男が社会に出ずに、何を甘えたことを言っているんだと不快感を抱くかもしれないと思った。
確かに一般的な考えからすれば佑二が兄に対してそんな感想を抱いたとしても仕方がないのかもしれなかった。文句を言える筋合いではないのかもしれないのかもしれなかった。でも、と、あたしは思う。兄だって好きでひきこもっているわけではないのだ。自分のなかに自分ではどうすることもできない弱さがあってひきこらざるを得ないからそうしているだけなのだ。みんなが同じような強さや能力を持っているわけではない。
でも、そう言っても父親と同様佑二は納得しないんじゃないかと感じた。自分が当然のようにできているのだから、他人も当然できるはずだと考えるんじゃないかとあたしは思った。