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ファンタズム・ファンタジア  作者: 日差丸
第三章『空硯編』

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第58話 無音の刃

「……う、うーん……」


 火花は目を覚ますとコンクリートの地面の上に寝転がっていた。

 体中が痛い。動くのがダルい。

 それが意識を取り戻して最初に思ったことであった。


「やりすぎだよ……死ぬかと思ったじゃん」

「あなたたちアイ研にはこれくらいのお灸がお似合いよ」

「酷い! DV反対! 警察に訴えてやる!」

「私はあなたの配偶者になったつもりはないわよ」


 喚く火花の頭に容赦なく大鎌の石突が振り下ろされた。ガチーンという痛そうな音が響き渡る。実際痛かったらしい。彼女はいつもの余裕の笑みを消して年相応に涙ぐんでいた。


「それにしても夜美姫様、弱くなったねー。前だったら私程度30秒もあれば倒せてたでしょ?」

「……否定はしないわ」

「霊器をなくしたってのもあるんだろうけど、やっぱり幻魔化の影響かな? 動きが前より三、四段ぐらい下になってる気がするんだよねー」

「……これでも二ヶ月前と比べたらだいぶマシになったのだけれどね」


 忠則と戦った時ぐらいは本当に酷かった。体は節々が錆びているかのように思い通りに動かず、まともな術すら発動することもできない。そのころと比べたら、今はずいぶんと体が馴染んできた気がする。

 ……だが、これでもまだ元の体には到底届かない。因幡の白兎は弱小の妖怪だが、それでも人間よりはベースが上のはずだ。だったら幻魔となった今の方が強くなるはずなのだが、脚力が上がっただけで全体的な動きのキレはどうしてか生前に劣ってしまっている。

 その理由がわからない。わからないからこそ夜美の中で焦燥が増していく。

 時間は無限にあるわけではない。王牙を一人前の術師にするまでの間、その時間を稼ぐ存在が必要なのだ。皮肉なことに、彼女は幻魔になった今になって、かつてないほど力というものに焦がれるようになっていった。生前ではあれだけ無頓着だったのに。

 


「お、いたいた。おーい! そっちも終わったのかー?」


 と、そこで遠くから夜美たちに呼びかける声が聞こえてきた。王牙である。彼はいまだに目を覚さない綺羅々をお姫様抱っこしたまま彼女たちのもとに駆け寄ってくる。


「……わお。私はともかく綺羅々ちゃんまでやられちゃったの? これはさすがに予想できなかったかな」


 その光景を目の当たりにした火花は目をパチクリとさせていた。それに対して夜美が当然というように鼻を鳴らす。


「私が教えているんだもの。この程度のこと、できてもらわなきゃ困るわ」

「……夜美姫様もそんな顔をするんだね。初めて知ったかも」

「……? なんのことかしら?」


 夜美としては意趣返しのつもりでそう発言したのだろう。

 しかし火花は彼女の顔を見て言い返す気もなくなっていた。その顔からは隠しきれない喜びが漏れ出ていたからだ。


「えーと、この子はお前の横に置いておいていいんだよな?」

「えー? 綺羅々ちゃんをお姫様抱っこしてるのに他に感想はないのー? 本物のお姫様なんだよー?」

「いや本物って、でも夜美にものすごく頭下げてたじゃねえか」

「それは彼女個人が私を敬っているだけよ。彼女の甕星家は両儀宗家のような最高貴族ではないけれど、上級貴族の中でもトップレベルの影響力を持っているわ」

「……つまり?」

「その子は光天京の中でも五本指に数えられるほど高貴な姫君ってことよ」

「……マジか」


 途端に彼女が急に重くなったように感じた。

 それだけいい生まれなのに何があったらこんなに気弱になるのだろうか。しかしそんな姿勢が低いところが彼女の魅力でもあるのだろう。実際に絆された結果、殴ることができなくなった王牙はそれをよく理解していた。


「……んっ」

「お、起きたみたいだな」


 彼女のまぶたがゆっくりと動き出す。それにつられて王牙はお姫様抱っこの状態のまま、彼女の顔を覗き込んだ。そしてバッチリと彼女と目が合ってしまう。


「……へっ?」

「綺羅々ちゃーん、昨夜はお楽しみでしたねー? キャハッ」

「昨夜……? お楽しみ……? ……え、ま、まさか……」


 眠気まなこのままそう問い返す。そして火花の突然の意味深な発言を理解した途端、綺羅々の顔は一瞬で真っ赤に染まった。

 そして弾かれるように彼女は王牙の腕から飛び降りると、火花に泣きついた。


「どどど、どうしましょう!? まだ婚約すら結んでいない殿方と睦事をしてしまいました!」

「へーそーなんだ」

「家の人たちになんて説明すれば……! いえまずは旦那様の方を優先しなければ……!」

「だ、旦那様? おい嫌な予感がするぞ」


 綺羅々は目をぐるぐると回しながら王牙と向き合う。そして突如その場に膝をつくと、三つ指ついて頭を地面にクレーターができるほど勢いよく下げてきた。それはもはや礼というよりも土下座だった。


「ふ、不束者ですが、これからどうぞよろしくお願いしますっ! 旦那様!」

「いやおかしいだろうが!?」


 どうしてこうなった!?

 王牙は必死に頭を上げさせようとするも、彼女はテコでも動く気配はなかった。

 火花はその状況をニヤニヤとウザい笑みを浮かべながら見守っていた。明らかに楽しんでいる。死ね。


「いいわけないでしょうが! 綺羅々、正気に戻りなさい! 今はまだ夜よ! 気絶してたった数十分しか経っていないわ!」

「キャハハッ。夜美姫様、めっちゃ焦ってるじゃん。おもしろー」

「どうやらもう一度お灸が必要のようね」

「いひゃいいひゃい!」


 夜美が火花の口に指を入れてその端を思いっきり引っ張ったせいで、彼女の顔が面白い形に変形する。いい気味である。ものすごい痛そうで若干涙目になっていたが、王牙が止めることはなかった。むしろ仕返しに悪魔のように嗜虐的な笑みを浮かべていた。

 一方の綺羅々は夜美の言葉を聞いて正気に戻ったようだ。ハッと騙された事実に気付いた後、羞恥心のためか再び顔を赤くして小刻みに震えていた。


「……まあその、ドンマイ」

「……穴があったら入りたい。そして出口を塞いで窒息死したい……」

「……本当に、ドンマイ……」


 もはやそれしかかける言葉が見つからなかった。泣き出しそうな顔で見ていられなかったため、王牙はなんとかしようと彼女の頭に手を置き、精いっぱい優しく撫でる。その行為に初めはキョトンと目を開いていた彼女だったが、やがて心地よさそうに目を閉じてそれを受け入れるようになった。

 

「……落ち着いたか?」

「は、はい。その……こんな私に優しくしてくれてありがとうございます……」

「そう卑下すんなって。これだけ可愛くて強いんだから、もっと自信を持ったほうがいいと思うぜ?」

「か、かわっ……! あうっ……!」


 しまった。また綺羅々が熱のあまり倒せそうになってしまった。なんというか、これだけあたふたしていると、先ほど彼女が王牙を追い詰めたのが夢なのではないかと思えてくる。


「……でも、私は巫女姫様みたいに完璧じゃないので。だからダメなんです。私はダメダメなんです」


 しかしそう己に言い聞かせるように口にすると、彼女の顔に暗い影が差してしまった。


「そうかぁ? 俺にはあいつがそんなたいそうなやつには見えねえんだがな」

「巫女姫様はすごいんですよ! いっつも美しくてカッコよくて、霊力も術式も体術も超一流で、頭がよくて政治の腕もものすごくって、とにかくものすごく完璧なんです!」

「お、おう……お前そういう声出せるのか」


 あまりの熱量に王牙は若干引いてしまった。

 この感じ、ヒカリのファンと化した桜に似ている気がする。要は彼女は夜美のファンみたいなものということか。いや、どちらかというと信奉者に近いかもしれない。


「うーん、それでもあいつはそんなに完璧じゃないと思うぜ? 家事はてんでできないし、金銭感覚はバグってるし、性格もお世辞にも良いとは言えないからな」

「えっ」

「マジだマジ。つい先月なんて数百万の借金を背負わされたりもしたし。あいつと一緒に暮らしているととてもあいつが完璧なんて思えねえよ」

「そ、そんなふうには見えないのですが……」

「だったらアレ見てみろよ」

「アレ?」


 王牙はクイクイとある方向を指差す。

 そこには無表情のままえげつないチョークスリーパーをかけている夜美の姿があった。犠牲者の火花は白目を剥いており、どう見ても意識がトビかけていることがわかる。


「アレ見ると優雅とか到底思えないだろ?」

「あ、あはは……」


 その光景を見た綺羅々は動揺のあまり、笑うことしかできなくなっていた。それくらい衝撃的な絵面だったのだ。


「お前の信奉する夜美姫様はたしかにすごいやつなんだろうよ。俺だって術師の端くれだ。それくらいはわかる。でもよ、そんなあいつだって完璧じゃないんだ。だったらお前が完璧じゃないことに気を病む必要はねえよ。それで文句言うやつがいたら『まずはテメェがやってみせろ』って言ってやりゃいいだけの話だ」


 「だから自信を持てよ」と、王牙は付け足しながら彼女の額に軽くデコピンをし、笑いかける。

 「あうっ」という小さな悲鳴を漏らした彼女は、文句ありげに彼をジトっと目で訴えようとする。しかし彼の笑みを見ていると、その気も失せてしまい、次第に彼女も小さく笑ってしまった。


「ふふっ。なんというか、あなたは神楽様に似ている気がします」

「神楽って……たしかアイ研の会長だっけ? 夜美の幼馴染っていう」

「神楽様はですね、私が巫女姫様とは別でお慕いしている方なんです。豪快で、やることなすことがハチャメチャで、それでも優しくて、仲間は絶対に見捨てない。そんな立派なお方なんです」

「そうか。いいやつに出会えたんだな」

「はいっ」


 例の会長について語る彼女は先ほどの夜美の話の時のように楽しげだった。それだけで彼女がその会長を慕っているのがわかる。

 ……前に夜美から聞いた印象と一致しないのが少し気になるところだが、そこは黙ってておくとしよう。

 何気なくくしゃくしゃと頭を撫でていると、彼女は突然上目遣いのままあることを頼んできた。


「あ、あの……よろしくければあなたを『王牙様』とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「ああ。別に呼び捨てでいいぞ。それに様はいらねえよ」

「いえ、私がつけたいだけなので……。その……ダメ、でしょうか……?」


 上目遣いに加えて彼女の目がどことなくウルウルと震え出す。側から見れば今にも泣き出してしまいそうだ。さすがの王牙も良心がとがめたのか、これには参ってしまう。これを天然でやっているのだから本当に大したものである。


「はぁ……。わかったよ。好きに呼べ」

「はいっ!」


 了承した途端、彼女は今度は太陽のような笑みを浮かべてきた。不覚にもそれを見て可愛いと思ってしまった。

 夜美や桜、ヒカリ。王牙がこれまで出会ってきた少女のどれとも違うタイプの人間だ。案外こういうのが自分の好みなのだろうかと、綺羅々を撫でながらそう自問自答する。小動物的な可愛さを持つ彼女は心地よさそうにされるがままになっていた。


「綺羅々ちゃーん! そろそろ行くよー!」

「は、はい! 今行きます!」


 そこでお仕置きが終わったらしく、回復した火花が彼女に呼びかけた。

 夜美は気が済んだらしく、腕を組んでいつものようにふてぶてしい態度をとっている。今さら厳格ぶっても火花にはもちろん綺羅々にも先ほどのチョークスリーパー事件を見せてしまっているので、意味ないと思うのだが……。


「きょ、今日はその……本当にありがとうございました」

「おう。いつでも来いよ。戦いも歓迎だぜ。ただし殺しはなしでな」


 遠距離攻撃ばっかで少し苦渋を舐めさせられたとはいえ、彼女との戦闘は弾幕シューティングゲームの中に入ったみたいでなかなかに楽しめた。

 最近自覚し始めたのだが、どうやら王牙には戦闘狂の気があるようだった。最初は嫌々やっていた修行も今では暇さえあればずっとやっているし、模擬戦を楽しいと思うようになってきたのだ。

 しかし王牙の身近で戦いに付き合ってくれる人間は夜美と夏転、春水くらいしかいない。だから今日の戦いは気分転換になってくれたので彼は上機嫌だった。


「……その……私、名乗るのもおこがましいですがアイドルをやっていまして……」

「まあアイ研だしな」

「よければ……いつかライブを見に来てください……!」

「おう。楽しみにしてるぜ」


 そう言うと彼女は非常に明るい表情になった。

 アイドルか……。思い浮かべるのは先月から仲良くなったヒカリだが、あんな歌が聴けるならぜひ見に行きたいものだ。今は夜美を匿っている事情で目立つことはできないが、いつかは光天京とやらに行ってみてもいいかもしれない。


「んじゃお兄さんもさよならー! 今度会った時はもーーっとスペシャルな花火、見せてあげるよ」

「今度は俺とも手合わせしてくれよ。その兎耳剥ぎ取って標本にしてやるからさ」

「キャハッ! だったら私はそのビジュアル系な髪をアフロにしてあげる!」


 楽しそうに笑いながら、火花は綺羅々を連れて夜の闇に消えていった。

 残ったのは王牙たちのみ。危険がようやく去ったと確信してから、王牙は背中を伸ばしてこった筋肉をほぐす。


「いやー、たしかに派手なやつらだったな。おまけにめちゃくそ強い。アイ研ってのは全員あんなのなのか?」

「これでもまだマシな方よ。会長の神楽がいる時は本当にタガが外れるから。ところで……」

「……ああ。俺も気にはなっていたんだが……」


 王牙たちは同時に後ろを振り返る。そこには一地区全てが廃墟となった町並みがあった。ビルは五個ほど倒壊しており、近くの地面は数え切れないほどのクレーターができている。


「……これ、元に戻すの俺たちなのか?」

「……さすがにあの子たちがやってくれるはずよ。……忘れてなければきっと。たぶん」


 もしそうなったら王牙たちは破産だ。八百神社に頼もうにも、これほどの被害を直す金は彼らにはない。

 その後、応急処置として夜美が例の記憶改竄の術を被害地区周辺にかけ、大規模な災害が起きたことに認識を塗り替えた。その後は知らん。一晩中彼女たちを探し回ったが、その時にはもう彼女たちの姿は影も形もなくなっていた。

 次会ったら絶対町の修繕させてやる。青筋を額に浮かべながら、王牙はそう決意した。



 ♦︎



「いやー、つまんない任務だとおもったけど思わぬ収穫だったねー」


 夜美たちと別れたあと、火花はボロボロの姿にも関わらず笑いながら、夜道を歩いていた。鼻歌を歌ったりと、見るからにご機嫌のようだ。


「その……火花ちゃん。巫女姫様のことは……」

「わかってるって。言いふらしたりはしないよ。もっとも、上層部は知ってるかもだけどね」

「神楽様にはどうするんですか?」

「うーん。いい加減立ち直ってほしいし、内密に話しちゃおっか。万が一言いふらされても、神楽ちゃんの話だったら誰も信じないだろうし。普段のアイ研の評判の悪さが役に立ったね」

「う、嬉しくないです……」


 改めて自身が半分テロ組織に所属していることを認識してしまったのか、綺羅が若干涙目になっていた。

 だからと言ってここを離れるつもりはないだろうが。

 悪目立ちすることは多いが、仲間を何よりも大事にするこの部隊が綺羅々は大好きだった。

 二人はそうしてビジネスホテルに向かうまでの道中、先ほどの戦いのことで話に花を咲かせていた。

 ――その時、リィィィン……という仏壇の鈴が鳴るような音が、どこからともなく聞こえてきた。


「……えっ?」


 ――そして次の瞬間、綺羅々の胸から日本刀の刃が生えていた。その刃は彼女の血に濡れ、月光の反射によって不気味に輝いている。


「っ!? 綺羅々ちゃん!」


 下手人はその凶刃を彼女の背中から引き抜くと、蠅でも払うかのように血振りをした。赤黒い血液が孤を描くように地面にぶち撒かれる。


「このっ! 霊装解放――『穿天花』ァッ!!」


 霊器を召喚すると同時に火花はそれをハンマーのように薙ぎ払った。しかし下手人はムーンサルトのように滑らかな動きでそれを回避。夜闇に隠されてその顔は伺えない。

 しかし距離は取れた。火花はすかさず射撃をしようとして――穿天花の砲身が嫌な黒煙をあげていることに気づく。


(しまった……! さっきの『桜火散華』で砲身がオーバーヒートしちゃってる……!)


 その隙を見逃すほど下手人は甘くはなかった。握った刀の柄頭。そこには金剛鈴が飾りとしてつけられていた。下手人はそこに手を伸ばし、指で鈴を弾く。

 ――瞬間、再びリィィィンという心が洗われるような音色が鳴り響き――。


「ガッ……!?」


 ――気づいた時には、刃が火花の体を横一文字に切り裂いていた。

 先ほどの戦いでのダメージも重なったのだろう。彼女はまるで噴水のように血を大量に噴き出すと、倒れてしまった。そして意識を繋ぎ止める力も途切れ、そのまま気絶してしまう。


「……」


 下手人はフードを被ったまま、無言で刀を逆手に持ち替えた。そして足元に倒れ伏す火花にその凶刃を振り下ろそうと――。



「――狼藉はそこまでにしておきなさい」


 ――する前に悪寒を感じ取り、とっさにその場から飛び退いた。

 やがて声のした方から闇をかき分けて何者かが現れる。

 赤と青が入り混じった鮮やかな髪。珊瑚と真珠が組み合わさった和風チックなマーメイドドレス。

 ――八百神社が主祭神、ヤオこと八百比丘尼がそこにいた。


「基本的に私は領地内の術師同士の争いには干渉しません。巻き込まれない人間や妖怪がいないのならそれでいいんです。好きにやって好きに殺し合えばいい」


 そう前置きを言っておきながら「ですが」と彼女は続ける。


「今回の戦闘では被害が大きすぎました。町の一地区は完全に全滅。『遮境門』は内部に一般人がいる場合は、人払いのために無意識に干渉して結界外に自発的に追い出す効果があります。ですので人的被害はゼロでした。しかしこの破壊規模、治すのには最悪一週間はかかるでしょう。修繕費もバカになりません。だからこの二人に、ひいては陰陽師院に払わさせるために、今殺させるわけにはいかないんです」

「……」


 フードの下手人はその言い分を聞き、数秒ジッと動かなくなる。しかしその後決断したのか、血濡れの日本刀をヤオに突きつけた。

 彼女はしかたないと言うように深くため息をつく。そしてその宝石のように美しい瞳を彼女に向けた。


「――二度目は言いませんよ?」


 ――次の瞬間、彼女の体から身もすくむほどの霊力が噴き上がり、その場の空気を一変させた。

 その色は緑。神聖なる精霊、国津神の象徴。

 刀が無意識のうちに下げられる。それだけではない。その高密度の霊力が重圧になって下手人の足を地面に縛り付けている。


「っ……!」

「おゆきなさい。追うことはしません。しかし今行かなければ、私が目の前から消し去ってあげましょう」

「っ……!!」


 その言葉を聞いた瞬間、下手人は再び柄頭の金剛鈴を指で弾き、清らかな音色を響かせた。

 突然のことでヤオはまばたきを一つ。

 しかしその一瞬で、気がついた時には下手人の姿は消えていた。


「この感覚……あの霊器の能力ですか。不可解なことばかりですが……まあいいでしょう」


 ヤオはパンパンと両手を叩く。すると闇の向こうからおどろおどろしい鬼火を纏った人力車が、夏転に引き連れられてやってきた。


「その人たちを乗せてください。私も後で向かいます」

「ヤオ様も乗せてあげるっスよ? そっちの方が速いだろうし」

「……いえ、遠慮しておきます。私はとっても重要な調査があるので。ええ、とーーっても重要な……ね」

「わかりましたっス! じゃあまた後で!」


 言うが否や彼女は爆速で来た道を引き返していった。地震でも起きているかのように揺れている人力車を見送ったあと、密かにヤオはため息をつく。

 決してあの暴走人力車に乗りたくなかったからではない。ないったらないのだ。


「……それにしても、『ディストピアス』ですか。この町に潜伏している以上、調べる必要がありそうですね……」


 疲弊していたとはいえ、夏転や春水に勝るとも劣らない手だれ二人を瞬殺した実力。明らかに只者ではない。


「気をつけてくださいね、王牙さん。もしかしたら次は……」


 『ディストピアス』の狙いはあくまで陰陽師院であって能力者ではない。彼女の一番の寵愛を受ける信者が積極的に狙われる可能性は少ないだろう。

 だとしても彼女は、そう無事を願わざるを得なかったのだった。

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