第4話 真実の記憶
翌日の夕方。健一は導かれるように、一人で川沿いの道を歩いていた。
二日続いた梅雨の雨で、川は恐ろしいほどに増水していた。普段は穏やかなせせらぎが、今は濁った茶色の水を轟々と押し流している。遊歩道に沿って続く鉄製の欄干は、錆びつき、塗装が剥げ落ちていた。大人の腰ほどの高さしかないその柵に両手をかけ、健一は流れを見下ろした。
岸の岩にぶつかる水しぶきが、白い泡となって渦を巻く。大人でも呑まれれば無事では済まない激流だった。
「明日香……」
小さくその名を呼ぶ。応えるように突風が吹き抜け、川面に無数の波紋が広がった。
やがて、濁流の上を滑るようにして、一つの影が近づいてきた。
鮮やかな、あの赤いレインコート。
『健一君、来てくれたのね』
明日香は十八年前の姿のまま、健一の隣に立った。二人は並んで、逆巻く川を見つめた。
「君ともう一度、きちんと話がしたかった」
健一は真剣な表情で言った。
『思い出したの?』
明日香の静かな問いに、健一は欄干を握りしめた。冷たい鉄の感触が、引き金となった。
あの日。十八年前の、同じ梅雨の午後。
健一と正人は十二歳、明日香は十一歳だった。
「あの日、俺たちはここにいた」
『そうね、そして雨が降り始めていたわ』
健一は川を見下ろした。記憶の中の光景が重なってくる。
「正人は少し離れたところで石を投げて遊んでいた」
『覚えてるのね』
「そして、君は俺に言った……」
言葉が詰まった。
『言って……』
明日香が促した。
「父さんの浮気のこと、みんなにバラしちゃおうかなって」
静寂が流れた。川の音だけが続いた。
『ほんの冗談のつもりだったのに……』
「でも俺はカッとなって」
健一の声が震えた。
「君を突き飛ばした」
川の音が大きくなった。
『どうして?』
「分からない。ただ、頭に血が上って……」
明日香は静かに頷いた。
『私、川に落ちちゃったのね』
「すぐに正人に人を呼んでくるように言った。でも俺は何もしなかった」
『どうして?』
「……君が助かったら、……俺が突き落としたことがバレてしまうから」
健一の声がかすれた。
「君は流されていくのに、俺は見ているだけだった」
『そう』
「君は──」
『死んだの』
明日香があっさりと言った。川の音だけが変わらず続いていた。
『私、十一歳で死んだの』
健一の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ごめん、明日香。本当にごめん!」
『分かってる』
明日香は優しく微笑んだ。
『健一君の気持ちも分かる』
「でも俺が」
『子供だったのよ、お互い』
膝をつき、嗚咽する健一の頬を、明日香の小さな手が優しく撫でた。
『もう、自分を責めなくていい』
「明日香」
『私、ずっと健一君を恨んでたの』
明日香の声は相変わらず優しい。
『でも、もういいの』
「本当に?」
『本当よ』
明日香は美しく微笑んだ。
『健一君が帰ってきてくれた。それだけで十分』
健一は安堵で胸がいっぱいになった。
「許してくれるのか……?」
『もちろん』
明日香は健一を抱きしめた。
『これで、私も安らかに眠れる』
温かい抱擁。十八年間抱えてきた重荷が、ついに降ろされた。
「ありがとう、明日香」
『こちらこそ』
明日香は健一から離れた。
『さようなら、健一君』
「さようなら」
明日香の姿が、だんだんと薄くなっていく。
透明になって、やがて光の粒子となって消えていった。
健一は一人、欄干の前に立っていた。
終わった。すべてが終わった。
胸の重荷が消えて、心が軽やかになった。
明日香は自分を許してくれた。完全に、無条件に。
罪悪感が少しずつ薄れていく。あの鉛のような重さが、ついに心の奥から取り除かれていく。
健一は大きく息を吸った。空気が新鮮に感じられる。
これで終わりだ。十八年間の苦しみがようやく終わった。
明日香のおかげで、新しい人生を始められる。もう結婚を躊躇することはない。
そう決意した時、背後から静かな足音が聞こえた。
砂利を踏む音だった。一歩、また一歩。川の音の合間に、確かに聞こえた。健一は足音に気づいたが、振り返らなかった。きっと散歩をしている誰かだろう。
すべてが終わった。もう恐れるものは何もない。
足音は次第に近づいてきている。でも、健一は全く気にならなかった。
明日香との最後の会話が、すべてを洗い流してくれた。
健一は笑顔になった。久しぶりに、心の底から幸せを感じている。
足音が真後ろまで来ていた。
「それは幻影だよ。君の願望……」
健一は微笑んだまま振り返った。
そこには赤いレインコートを着た正人が立っていた。




