第2話 禁断の扉
午後二時。診察室は深い静寂に包まれていた。正人が最後の患者を送り出し、看護師に「今日はもう上がっていいよ」と声をかけた。 しばらくして玄関の戸が閉まる音がすると、建物全体が外界から切り離されたような、 独特の落ち着きを帯びる。
正人は窓のブラインドを下ろし、二つの椅子を向かい合わせに置いた。
自分の分だけコーヒーを淹れ、ゆっくりと口に運ぶ。マグカップを持つ彼の指先が、微かに震えているのを健一は見逃さなかった。
「悪いな、俺だけ飲んで」
「いいさ、後でいただくよ」
健一は努めて穏やかに微笑み、診察台に横たわった。天井を見つめる視界の端で、正人が横に椅子を引き寄せる。
「準備はいいかい?」
「ああ」
返事とは裏腹に、心臓の鼓動は速まっていた。十八年間、厳重に封印されてきた記憶。それを解き放ったとき、自分は壊れてしまわないだろうか。
「まず、リラックスして。ゆっくりと深呼吸を……」
正人の声は、真綿のように優しく健一を包み込んだ。意識が重力から解放され、ゆっくりと深い場所へ沈んでいく。
「十八年前に戻ろう。君は十二歳。私や明日香も一緒にいる。……十、九、八」
窓の外で鳥が鳴いた。
「七、六、五……」
正人の声が遠ざかり、同時に、驚くほど近くに響き始める。
「四、三、二、一」
その瞬間、重い鉄扉が軋みを上げて開かれた。
雨が降っていた。視界を白く染めるほど重い、梅雨の雨だ。
健一と明日香、そして正人は増水した川のそばにいた。明日香がお気に入りだった、鮮やかな赤いレインコート。それが雨を弾き、鈍く光っている。
正人は少し先を歩き、健一のすぐ隣には明日香がいた。
轟々と鳴り響く川の音。濡れた石の滑りやすい感触。足の裏に伝わる嫌な予感が、十八年の時を超えて蘇る。
そして、悲劇は唐突に訪れた。
「きゃあ!」
短い悲鳴。赤い残像が視界から消え、濁流へと吸い込まれていく。
「正人! 人を呼んでこい!」
健一の声が雨音に掻き消されそうになる。正人が青ざめた顔で駆け出していくのが見えた。
明日香は流れに呑まれ、必死に手を伸ばしていた。助けを求めるその瞳が、まっすぐに健一を射抜く。
だが、健一は動かなかった。動けなかった。
なぜだ。なぜ助けなかった?
明日香の手が、水面から。必死に。
健一はその場に立ち尽くし、ただ彼女が流されていくのを、石のように固まって見つめていた。
「……っ、俺が──!」
「健一! 大丈夫か!」
意識が浮上した瞬間、健一は診察台の上で激しく嗚咽していた。
視界が涙で滲む中、床には割れたマグカップが散らばり、黒いコーヒーが染みのように広がっているのが見えた。
「正人、どうしたんだ……?」
「ああ、すまない。手が滑ってしまって……」
正人は狼狽した様子で破片を拾い集めている。その手は、隠しようもなく震えていた。
「俺は……」健一は喘ぐように言葉を絞り出す。
「俺は、明日香を助けられたはずなのに、何もできなかった……俺のせいで、明日香は……」
「落ち着いてくれ。今日はここまでにしよう」
正人が健一の肩を抱いた。その指先には、痛いほどの力がこもっている。
「一度にすべてを思い出すのは危険だ。段階を踏もう」
その夜。
客間で一人になった健一の脳裏には、明日香の最期の表情が焼き付いて離れなかった。助けを求める目。恐怖。そして、それを見捨てた自分。
眠ることができずに、窓の外を見つめていた。雨が降り続いている。十八年前と同じような梅雨の雨。
その時、庭の向こうに人影が見えた。
赤いレインコートを着た人影。
健一は目を凝らした。でも、雨で視界が悪く、はっきりしない。人影はゆっくりと移動している。
まさか。
心臓が激しく鼓動を始めた。あの赤いレインコートは、明日香の愛用品だった。
人影は桜の木の近くで立ち止まった。そして、こちらを見上げているようだった。
健一は急いで窓を開けた。しかし、次の瞬間には人影は消えていた。
見間違いだったのだろうか。それとも。
健一は混乱した。催眠療法で記憶が戻ったせいで、幻覚を見るようになったのかもしれない。
でも、あの赤いレインコートは確かに見えた。明日香の赤いレインコート。
湿った夜気がどっと流れ込んできた。健一はゆっくりと窓を閉めた。
雨の音だけが、静かに部屋に満ちていた。
翌朝、健一は正人に昨夜の出来事を打ち明けた。
「庭に人影が見えたんだ。赤いレインコートを着た……」
正人は箸を止めて、健一を見つめた。
「それは、催眠療法の副作用かもしれない。急激に記憶が戻ったことで、心理的な混乱が起きている可能性がある。一時的なものだと思うけど……」
健一は頷いた。確かに論理的に考えれば、幻覚だろう。明日香はもう死んでいる。十八年も前に。
でも、あの人影はあまりにもリアルだった。
正人はコーヒーを飲みながら続けた。
「しばらく様子を見よう。もし幻覚が続くようなら、薬物治療も考えられる」
ふと正人の手に目が止まった。手のひらに真新しい包帯が巻かれている。
「怪我をしたのか?」
「ああ、これか。昨日のマグカップを片付ける時に少し切ってしまってね。大したことはないよ」
正人は軽く笑った。
だが、健一の胸に小さな違和感が芽生える。昨日の催眠療法の直後、正人は素手で破片を拾っていたはずだ。その時に出血していた様子はなかった。
その日の午後、健一は町を散歩していた。久しぶりの故郷を歩き回り、懐かしい風景を楽しんでいる。
商店街を通り、小学校の前を歩き、川沿いの道を進んだ。記憶が戻ったことで、昔の思い出がより鮮明に蘇ってくる。
明日香と一緒に歩いた道。三人で遊んだ場所。すべてが懐かしく、そして切ない。
川沿いの道を歩いていると、ふと振り返った瞬間、向こうに人影が見えた。
赤いレインコートを着た人。
健一の足が止まった。距離があるので、顔ははっきり見えない。でも、体格は大人のようにも見える。
その人は手に何か光るものを握っているようだった。
明日香?
いや、明日香はもう死んでいる。幻覚に違いない。わかっている。それでも、あの赤いレインコートの人影が彼女以外の何者にも思えなかった。違うなら違うでいい。ただ、はっきりさせたかった。
健一は人影の方へと歩き出した。
「明日香!」
声をかけた瞬間、人影が走り出した。
「待って!」
追いかけた。しかし、角を曲がったとき、もうそこには誰もいなかった。
周りを見回したが、誰もいない。
確かに見えた。あの赤いレインコートと、手に光るもの。金属のような、鋭い光。
健一は混乱した。正人の言うとおり、催眠療法の副作用なのかもしれない。
夜になって、健一は自分の記憶を整理しようとしていた。
催眠療法によって記憶が戻った。明日香を助けられなかった罪悪感も蘇った。そして、赤いレインコートの人影を目撃するようになった。
すべては関連しているのだろうか。心理的な混乱が、幻覚という形で現れている。
明日香が現れたのだろうか。
明日も幻覚が続くようなら、正人に詳しく相談してみよう。薬物治療が必要かもしれない。
でも、心の奥では、もう一度明日香に会いたいという気持ちもあった。十八年前に言えなかった謝罪の言葉を、伝えたいという思いが募っている。
たとえそれが幻覚であっても。
窓の外では、再び雨が降り始めていた。梅雨の季節は、まだ続いている。
健一は窓辺に立った。庭の桜の木を見つめながら、明日香のことを考えている。
今夜も、あの赤いレインコートの人影は現れるのだろうか。
心のどこかで、健一はそれを期待していた。




