第1話 帰郷と再会
車窓の外を、田んぼが流れていった。
柳沢町行きの各駅停車は二両編成で、乗客は健一を入れて五人だった。向かいの席では老人が一人、所在なげに窓の外を眺めている。健一もまた、それ以外にやることもなく、流れる景色に目を投じていた。
ふと、三週間前の電話を思い出す。
「正人、俺だ。健一」
「健一? ……本当に健一か?」
十八年ぶりに聞いた親友の声は、驚きと喜びに震えていた。
あの時、勇気を出して電話をかけてよかった。風の噂で聞いた、正人の催眠療法。それが、膠着した自分の未来を変える唯一の鍵かもしれない。
脳裏に、恋人の笑顔が浮かぶ。結婚を考えている看護師の彼女は、優しく理解のある女性だ。だが、健一はどうしても最後の一歩が踏み込めずにいた。明日香の事故以来、心の澱のように残り続けている漠然とした罪悪感が、新しい幸せを拒んでいるのだ。
故郷を離れたのは、事故のすぐ後だった。申し訳なさから引っ越しを決めた家族に連れられ、健一は事故のショックで当時の記憶を失ったまま町を去った。それ以来、正人とも疎遠になっていた。
電車が橋を渡り、夕日に照らされた川が見えた。水面が鈍く光っている。健一はその光を直視できず、わずかに目を逸らした。
向かいの老人が居眠りを始め、電車の揺れはどこまでも穏やかだった。窓の外、田んぼの向こうにはなだらかな稜線を描く山がある。柳沢町はあの山の手前だ。子供の頃、あの山の形が好きだったことだけは、鮮明に覚えていた。
「お帰りなさい、健一君」
駅の改札を出てすぐの商店街で、懐かしい顔ぶれが健一を迎えた。八百屋の田中さん、文房具店の佐々木さん。皆、等しく歳を重ねてはいるが、その笑顔は記憶の中のままであった。
「お久しぶりです」
健一は何度も頭を下げた。心からの言葉が自然と口をついて出る。
「あれからもう、十八年も経つのねえ」
田中さんが感慨深げに目を細めた。
「健一君も辛かったでしょう。今日は正人先生のところに泊まるの?」
健一は小さく頷いた。
明日香が川で溺れて亡くなったことは、事実として知っている。自分もその場にいたことも。けれど、その時の感情や光景だけが、まるで厳重に封印されたかのように思い出せないのだ。
診療所は町の中心部にあった。白い二階建ての建物の一階が診察室、二階が正人の住居だ。看板には『柳沢診療所 院長 川村正人』と誇らしげに掲げられていた。
「健一!」
白衣姿の正人が、玄関から飛び出してきた。昔と変わらない人懐っこい笑顔。だが、その瞳の奥には親友を案じるような色が滲んでいる。
「相変わらずチビだな」
「おまえがでかいだけだろ」
健一の苦笑いに、正人が昔通りの調子で言い返す。二人は固い握手を交わした。医師として多くの命に触れてきた正人の手は、厚く、温かかった。
「親父さんの診療所を継いだんだな」
「ああ。親父は今、都市部の病院に入院しててね。母さんも付き添ってるんだ。まあ、いい機会だから代替わりしたのさ」
正人の表情がわずかに翳った。健一は、正人がこの町に留まり続ける理由が他にもあるような気がしてならなかった。明日香の思い出が詰まったこの場所を、彼は守っているのではないか。
「覚えてるか? 明日香がいつも言ってたこと」
正人が懐かしそうに切り出した。
「何だっけ」
「『お兄ちゃんはチビだけど、健一君は大きくて頼りになるの』ってさ」
その瞬間、胸の奥に温かい灯がともったような感覚があった。柔らかく、いつも笑いを含んでいた明日香の声が、かすかに耳の奥で再生される。
けれど、それ以上は霧の中だった。感情の輪郭がどうしても結ばない。
「明日香は二人のことを比べるのが好きだったな」
「……チビって部分は余計だったけどな」
二人は笑い合ったが、その笑みには消えない寂しさが混じっていた。
「よく来てくれた。ありがとう」
正人は健一の荷物を持ち上げ、診療所の中へと促した。 一階の待合室は清潔で明るく、数人の患者が腰を下ろしている。 受付では白衣の女性スタッフが電話対応をしていて、正人が通りかかると小さく会釈した。 患者たちもまた、親しみを込めた笑顔を返す。この町で彼がどれほど信頼され、根を張っているかが伝わってくる光景だった。
二階の居住スペースは、医師らしい几帳面さが感じられるシンプルで機能的な空間だった。
「客間を用意したんだ。ゆっくりしてくれ」
案内されたのは、六畳ほどの静かな和室だった。窓からは裏庭が見渡せ、そこには一本の立派な桜の木が立っていた。
「この桜、昔からあったっけ?」
健一が窓の外を眺めながら尋ねると、正人は少し意外そうに答えた。
「ああ、昔からあるよ。お前も何度も見ているはずだけど」
「うーん、よく覚えてないな」
健一は苦笑いした。故郷の記憶が、思っていた以上に虫食い状態であることを痛感する。
「まあ、仕方ないか」
正人は深く追及せず、ただ理解を示すように短く言った。
夕食は、正人の手料理だった。魚の煮付けに味噌汁、漬物。
「料理も上手になったんだな」
「母さんが親父の付き添いで向こうに行ってから、しばらく自炊が続いてね。嫌でも慣れたよ」
箸を進めながら、健一は核心に触れた。
「それで催眠療法は、いつ頃から始めたんだ?」
正人の表情が真剣なものに変わる。
「大学で心理学を副専攻して、卒業後に資格を取った。……実を言うと、お前の記憶喪失がきっかけだったんだ。医学的に、何が起きたのかを理解したくて」
健一は言葉を失った。正人もまた、あの日の悲劇から逃げずに戦い続けていたのだ。
「お前は強いな。俺は、逃げてばかりだった」
「そんなことはないさ。お前は今、こうして戻ってきたんだから」
正人は健一をまっすぐに見つめた。
「明日から始めよう。一緒に過去と向き合って、前に進むために」
「……ああ。お願いするよ」
その夜、用意された客間の和室で、健一は天井を見つめていた。
明日香。その名前は呼べる。大切だったこともわかっている。だが、なぜここまで『感情』が欠落しているのか。意図的に脳が蓋をしているような、不自然な違和感。
明日、正人の治療を受ければ、すべてが明らかになる。
明日香への想い、あの日の真実、そして自分を縛り続ける罪悪感の正体。
それを乗り越えれば、今の彼女との新しい人生を、曇りなき気持ちで始められるはずだ。
窓の外では、梅雨の雨が静かに降り続いていた。
闇の中に立つ庭の桜が、月光を浴びて幽かに揺れている。
健一は、吸い込まれるような深い眠りに落ちていった。




