鋼を撃つ者
昭和十四年、夏。
満洲の原野に、ひとりの兵が伏せていた。
迷彩塗装の粗末な布をかぶり、異様に長い銃を抱いて、草むらに身を潜める。
名前は神原一平。
第二独立狙撃中隊所属、対戦甲車狙撃兵――すなわち、対戦車兵である。
その銃は、特別なものだった。
三八式歩兵銃を基に再設計された十五ミリ口径の単発式長砲身対戦車銃。
全長一八〇センチ、銃身一五〇センチ、銃身重量だけで十二キロを超える。
「人が担げる反戦車砲」などと揶揄されながら、試験場で軽戦車を何輌も撃ち抜いてきた。
「来るぞ。……今度は、正面から」
隣に伏せていたのは補助兵の塚本伍長。
背負子に薬莢箱と小型測距器、砲弾識別表を持っている。
地平線の向こう、モンゴル側の丘陵を越えて、三輌のソ連戦車が突っ込んでくる。
BT-5型、時速五十キロの快速戦車。すでに歩兵線を突破した機動部隊だ。
神原は銃を肩に据え、アイアンサイト越しに敵影を追った。
わずかな光の反射と、姿勢の微調整。測距器では間に合わない。
「一番、右の車輌……」
「八百五十。風なし。下がれ……五、六。下がれ五、六!」
塚本が小声で叫ぶ。
神原はサイトを微調整し、息を止める。
「撃つ」
地面を叩くような反動と共に、銃口から焔がほとばしった。
草が焼け、薬莢が跳ねる。
「着弾……車体下! 貫通、履帯破損!」
塚本の声。戦車の履帯が切れ、がくんと横に傾いた。
エンジン音が悲鳴のように唸り、やがて静かになる。
「次、左側!」
「千。距離千! 上がれ三、左に一!」
神原は無言で再装填し、照準を切り替える。
二輌目は正面をこちらに向けて突進してきた。
土煙を上げ、明らかに発砲地点を把握している。
「撃つ!」
二発目。砲塔の基部に命中、火花が散り、戦車の砲身が下を向く。
煙が上がり、戦車はその場で動かなくなった。
「二輌目、停止! ……燃えてるぞ!」
「三輌目は!?」
塚本が慌てて辺りを確認する。
左手の灌木帯、その奥。三輌目は姿勢を低くし、丘の陰に回り込もうとしていた。
「回ってる、こっちの側面を取る気だ!」
「角度四十、距離九百、下がれ七!」
「撃つ!」
三発目が放たれる。だが、敵は半身だけ見せていた。弾丸は車体側面をかすめ、土をえぐった。
「外れ! 右にずれた!」
「修正!」
四発目。今度は砲塔直下に命中。
戦車が短く爆発し、車体が横転する。
「三輌目、停止確認。全車撃破だ」
塚本が静かに言う。
神原は、砲身の上に手を乗せ、ゆっくりと息を吐いた。
「……重てぇな、やっぱり。だが、効く」
この対戦車銃を初めて演習で撃ったとき、神原は惚れた。
重く、鈍く、しかし確実に。戦車の心臓を撃ち抜く手応え。
銃でもなく、砲でもない。
それは兵士ひとりの手に握られた、戦場の希望だった。
「神原」
塚本が声をかける。
「これ、ほんとに歩兵の銃かよ……」
「……知らねぇよ。ただの鉄の塊だ。けど、俺はこれで戦える」
神原は立ち上がると、肩に銃を背負った。
薬莢を回収し、背負子を確認しながら小声で言う。
「……また来るぞ。そのうちもっと分厚いのが」
「そんときゃ、また撃てばいいさ」
二人は、草むらの中へと消えていった。
――鋼を撃つ者。
それは、人の手で鋼鉄に立ち向かう、最後の一撃だった。




