5話 ベックス!
——玉川クリステン・正信
クリステンは予定通り月に行き、商談をして帰った。
気がつけばガラス戸から雨を眺めていた。視界右手にダイヤルが表示されていた。つまみを回して雨を止ませようとして、気が変わってそのままにしておいた。
クリステンは部屋の中庭前のガラス戸に立っていた、雨が小さな中庭の苔の生えた丸石にボタボタと降りかかる。
今日は随分ぼーっとしていたらしい。瞑想状態になっていた時間を確認すると、普段よりも2時間も多かった。
中庭に出て、二人がけのベンチに腰を下ろす。
「そんなに、ボッーとしていたか……」
言いながらも、今だってぼうっとしていた。
濡れた白い砂利から苔の生えている大きさな石に目を移すと——
「もうまもなく到着いたします、地球、地球」
と頭の中でアナウンスが流れた。
——軌道エレベータ客室。
クリステンはベンチで背を曲げて両肘を腿に置いて手を組んで俯いていた。
頭を上げて腕時計に触れると、雨は消えて辺り一面真っ暗な宇宙空間に変わった。
大きくため息をついて仮想煙草を一つ取り出す。
「あと5分でついて、そのあとは1時間以内に少し散歩くらいはしておくか、後は……」
スケジュールを確認しながら、肉体管理ソフトからの通知も軽く目を通していると、すぐに北欧エリアについた。帰りは東京ではなく、オスロの自宅の受け入れ準備ができていたのでそちらへ向かった。オスロは旧北欧連盟の主要都市の一つで内向型の人間には人気の都市だ。ナイトクラブでさえ、落ち着いている街でクリステンのお気に入りだった。
先祖に旧ノルウェー人と旧スペイン人を持つ女性と出会ってよくデートした。彼女はとてつもなく美しく、またスタイルも抜群でクリステンは生まれてこの方このような女性と付き合ったことはなかったが、(特に本物の人間で)恋愛はうまくいかなかった。
——夜、オスロの自宅にて。
やや寒い日だった。
あまりよろしくないニュースが知らされた。
地球政府内部の動向が怪しいというもので、多重星籍の市民や人の移動に制限をかけるための法律が通り始めるとの予測、それに対する抗議への参加要請などがあったが、直感的にクリステンはさっさと木星に向かわねばならないことを察した。
一応抗議に人間ポイントを多少使用し支援を表明。
抗議に集まったポイントは市民の不満を表すことと、それを無視するものが要職についた場合も見越して、関係する役職の人間の調査費用などに当てられる。市民は不信感を抱いた個人やグループを調査する権限があ理、また強行採決されたものの否決権も多数の市民が集まれば可能であった。
これは過去に個人的な利益や、死刑を免れるために独裁者や有力者が戦争を誘発し、市民をスケープゴートにした事件などに対する対応策の一つだった。地球市民倫理委員会が発足して、このようなものには目を光らせていたはずだったのだが……
そこまで考えて、そういえば八年ほど前に倫理委員会の新委員長が何やら怪しい組織に入っていると言う情報があったのを思い出した。一体何が起きているのか。
何にせよ、クリステンはこの時には地球籍自体を捨てる覚悟をした方がいいと判断した。使命のためだ。
——翌日。
夕刻には木星行きの直通便が取れた。
クリステンの使命に関わる未来予測、星間戦争と二人の英雄の救出。いつからか彼の頭にずっとあった記憶。その未来を変えることが世界を救う、そう言われた気がしたのだ。誰に? わからない、宇宙の意志か、神か。
この絶対的な使命感と確信の前では真にどうでもいいことだった。
クリステンは次いつ帰ってくるのかも不明だったので資産は分散するように地球、木星、土星、海王星へと送っておくことにした。
後は木星へ行くのみ。
クリステンがオスロの自宅から閑静な住宅地を歩いていくと雪が降り始めた。
ちょうど日が沈み始めるところだった。
家々の隙間からかろうじて見える地平線の灯りよりも街灯の灯りが強くなった時、道端の電話ボックスが音を鳴らした。ドアを開けて入ると上空に乗船用トンネルがやってきて、次の瞬間には宇宙船の中だった。
***
——木星行き、XLJP号船内。
船内では人々が交流を楽しむロビーがあり、皆一様にゲームに興じたり、備え付けのバーで会話していて、クリステンもその中に混じった。
クリステンは木星に行ったことは2度だけあった。
一度めは昔、育ての親に連れて行ってもらって、その時は気が遠くなるほど遠い場所だと思った。
何せ、片道で2年以上もかかったのだ。
二度目の時ですら片道1年。宇宙船内部の暮らしぶりは正直に行って普段と変わることは無いのだが、地球やその他の惑星との通信状況が悪いので知人とのやり取りに難が出て疎遠になってしまうということが毎回起きたのが嫌だった。それになんと言っても帰り道の長さは精神的にくるものがある、うんざりするのだ。
それにダメ押しとばかりに木星で作った友人とも疎遠になる。
今回の木星到着までの時間は約3ヶ月。
ずいぶん縮まったのだが、
「なかなか近くならないものだな……、木星というのは」
クリステンに言わせれば進歩なしだった。
今ではもっぱら仮想分身と記憶データのみを飛ばして遠隔に行かせてしまい、それが戻ったら記憶にドッキングしてしまうので長距離宇宙旅行などは人気が下火になりつつあった。実際に木星行きは人気がない。
それでも機内にはそれなりの乗客がいて最初の1週間、クリステンは退屈しなかった。それを過ぎると人恋しくなり、精神衛生上、多少積極的に乗客と交流するようにに努めた。
クリステンのビリヤード仲間はほとんどの場合。長身で逞しい体躯の老人一人と、茶髪でパーマをかけた気の良い日本人の青年だった。
老人はいつもポロシャツとスラックスで寡黙だが模範的な紳士であった、アフリカ系アメリカンとアメリカンインディアンとアジア人の先祖をを持つ人で見た目の上でもその通りだと思えるような姿だった。実年齢もそれなりに行っているらしい。
日本人の青年はまだ若いが、それなりに察しがよく、また気持ちの良い背年だった。好んでニット帽をかぶっていて、思ってもいないお世辞を言うことに関してはほぼ迷いがないような男。よく冗談を言う男で、彼は自分は埼玉と第一東京市のハーフなんだと、くくく、と笑いを堪えながら自己紹介したりする。
ちなみに埼玉という地域は昔の第1東京市、北部にあった「県」というかなり昔の行政区分の呼称だというのはAIがそれとなく教えてくれた。
要するに先祖はそこからということらしかった。
老紳士はローガン・モー、日本人はムネヨシ・吉宗と言った。
ローガンは宇宙共通英語系の発音でムニーと呼び、クリステンはムネヨシのことを日本語の発音でも英語の発音でも、どちらで呼んでも構わなかったが、素晴らしい紳士であり友人のモーに合わせてムニーと呼んだ。
そんな二人とクリステンがいつもの如くビリヤードに興じているとフロアの角っこの方が騒がしくなった。
古代のパンチングマシンのオブジェがあったのだがまだ使えるんじゃないかと思った客たちが起動させられないかとシステムに要求したところ使用許可が降りたのだった。
皆面白がって、純粋な肉体のみの力、知識、技術系のダウンロード無しで力だめしをすることになった。
ローガン・モーは老人の肉体でありながら美しいフォームで拳を振って見事に目の前のミットをノックアウトしたが、計測された数値は見た目よりもずいぶん低いもので首を傾げていた。
側から見ていても同意せざるおえなかったので、クリステンもおかしい、(計測方法が本当の意味でパンチの威力を測っているか怪しいものなのでは?)と訝しんだ。
ムニーは殆んど空振りと言っていいほどに拳をぶるんと回し、拳の角が擦れるようにしてミットを揺らしただけだった。笑顔と見間違うほど自然な悔し顔で、チキショー、と言いながら、こちらへやってきた。
クリステンは、仮にカメラで通過する物体の速度を計測しているのならと、不恰好に早く計測されるように拳をまっすぐ突き出してみた。すると多少は良い数値が出たが、仮説が当たっているかはわからなかったので、嬉しいとも思わなかった。
結局船内のパンチングマシーンのチャンピオンはネビルという男で__
背は195センチ、無駄な贅肉はなく、それでいて全身に鎧のように装着された筋肉は古代のプロレスラーたちにも見劣りせず、しかしその肉体も、神代の英雄の像にありそうな顔つきも生まれつきだという男だった。
ネビルはこの信頼のできない測定器ではなく実際の格闘シミュレーションを使っても彼に敵うものはいないに違いない、と誰しもが思うような男で、それはイキリたった雄牛のようなものというよりは悠然としたヘラジカやシベリア虎のような風格だった。
ムニーがネビルを褒めしきると距離が近くなってその後はたまにネビルもビリヤードやボウリングに参加するようになった。
ネビルはビリヤードの腕は至って普通で、と言っても皆ソフトウェアを使い素人同然の腕にリセットして楽しむのが一般的なのであるが、つまり皆いつもどっこいどっこいでネビルの類まれな戦闘のセンスだけはその範疇に収まっていなかったのだ。
ネビルは最近始めたというダーツにクリステンたちを誘うようになって、この3、4人組はいつも旧ドイツ、または旧チェコビールか、強者という製品名のサイダーを飲んでいる奴ら、と他の乗客たちに認識されるようになる程度には船内で一緒だった。
よく飲んでいた、すでに倒産した大昔のビール会社の製品を復刻させた「ベックス」と言うビールが皆のお気に入りで、そこからムニーが「俺たちはベックスだ!」とふざけて言って、乾杯する時には決まって——
「ベックスに乾杯!」と言うようになった。