覚え書 ニカ(ポクソン大隊長補佐夫人)の話
亡夫は覚え書を書く人だった。
日記、とは言えない。 日付は書かれていたけれど、感慨や思いなどが綴られていた事はなかったから。 それ故書斎の机の上に開いたままという、誰の目にも触れられる状態で置かれていたのだろう。
私は軍対抗戦の出場選手名や百剣の順位に関心はなかったし、好奇心で読みたいと思った訳ではない。 ただ自分の昇進、怪我、病気だけでなく、親戚、友人、同僚の結婚や昇進なども記載される事があり、夫の関心事と言うか、何を気に掛けていたのか、妻として知っておきたくて読んでいた。
夫の女性関係を心配したからではない。 貴族の夫婦にとって愛人はいる方が普通だ。 私は子爵家の正嫡子だから正妻となる可能性の方が高く、愛人管理は正妻の仕事の一つ。 そちら関係の教育も受けている。 仮に女性の名が頻繁に記載されていたとしても私が嫉妬心を抱く事はなかったと思う。
ただ夫は生涯愛人と庶子を作らなかった。 夫は皇王族のお血筋だから皇王族の御迷惑になるような事は避けたいと考えていたのかもしれない。 庶子が生まれれば庶子の母の実家にも皇王族の血筋というお零れがある。 どれほど遠かろうと。 それにもし私が子を産まないか産んでも女の子ばかりで、愛人の子が男の子であれば、愛人の実家はその子を利用して様々な画策をするだろう。 それが理由だったのか、夫に聞いた事はないけれど。
私達は良くも悪くも貴族として普通の夫婦だったと言える。 夫は家庭以外の事に忙しく、私は家庭内の事で忙しい。 夫から邪険にされた訳ではないし、私や私の実家に対する気遣いもあった。 けれど妻として愛されていた自信はない。
縁談は夫の方から親戚を通じて申し込まれた。 とは言え、夫と私は結婚するまで一度も会った事はなかったのだから私を気に入ったとか見初めたという理由ではない。 夫は次男だけれど望めば伯爵令嬢や侯爵令嬢を娶る事も可能だったはず。 なのに私に申し込んだのは、私を望んだと言うより親族から何人もの北軍上級将校を輩出した家柄である事が一番の理由だと思っている。
北軍将軍は常に北出身で、北軍将軍夫人も北以外の出身であった事はない。 モンドー将軍のように祖母が西の御出身とか、母が北以外の出身である将軍は何人もいらっしゃるけれど。 北に伯爵以上の貴族はいないし、北出身で軍属に強い人脈を持つ、適齢で婚約が決まっていない子爵令嬢、という観点で選んだから私になったのだろう。 つまり私を選んだ時既に夫はいつか将軍になると予想していた事になる。
縁談を申し込んだ当時、夫は北軍に入隊したばかりの十八歳。 自分を北軍将軍候補と考えるのは若さ故の傲慢に見えるかもしれないが、それは充分起こり得る可能性だった。
北軍副将軍を務めた事がある私の祖父によれば、北軍将軍は現将軍が誰を副将軍に指名するか、そして現将軍が誰を副将軍に指名するかは誰に最も恩義があるかで決まる。 しかしもし将軍に金で返せないほどの恩がなければ、次は血筋の尊さが考慮されるのだとか。 その当時北軍兵士で皇王族の五親等以内の血縁は夫だけで、皇王族から北への御降嫁は百年近くない。 これからもあるとは思えないからだろう。 祖父母も両親もこの縁談を大層喜んだ。
私達は夫が二十歳、私が十六歳になった時に結婚した。 毎日稽古に忙しい夫と温かい家庭を築けた自信はない。 けれど祖父母、両親、身近な親族の誰もが両家の利害が一致した結びつきだったし、結婚とはこんなものと思っていた。 夫は順調に昇進し、女の子だけではあっても子供にも恵まれた。 事実の列記である無味乾燥な覚え書は夫と私の日常を正確に表していたと言えない事もない。 だからか、ある日の一行に違和感を抱いた。
リイ・タケオ、入隊す。
誰だろう? 夫の親戚だけでなく私の親戚にもタケオという姓はない。 よくある姓ではあっても奉公人にはいないし、夫の友人、知人、部下にもいなかったような気がする。 ただなんとなく、いずれ分かる、という予感がした。
その予感通り、間もなく驚くべき噂によって彼の名を聞く事になった。 スティバル祭祀長がタケオをお茶に招待なさっていらっしゃるという。 しかも毎週。
最初は将校夫人のお茶会で聞き、親戚の集まりでも必ず話題となった。 軍内で相当な噂となっていたからだろう。
夫は神域の警備を務めた事が何度もあり、お言葉を頂戴する事もあったと聞いている。 しかしそれは単なる任務で、スティバル祭祀長からお茶に招待された事はない。 夫だけでなく、大隊長以下でスティバル祭祀長からしきたり以外のお茶の御招待があった人はいないと聞いていた。
なぜか夫の覚え書にそれに関する記載はなく、夫が私と話す時にその話題が出た事もなかった。 気になったとは言え、この御招待をどう思っているか、夫に聞くのは憚られた。 聞けば必ず、なぜそんな事を聞く、と質問されるだろう。 それになんと答えたらよいか分からない。 なぜ覚え書に記載なさらなかったのか気になりまして、とは言いたくなかった。 覚え書を読むのは夫に無断でしていた事だったから。
傲岸不遜という専らの噂。 普通の剣士でないとしても噂だけでは判断のしようがなく、執事のダヒールにこの剣士について何か知っているかを聞いてみた。
「先々大変有望な剣士です。 農家の出自ではありますが」
「何か変わった特徴と言うか、他と違う点はない?」
「平民で、しかも農家の長男である点が世間の耳目を集めております」
「農家の子弟の入隊は珍しくないのでは?」
「おっしゃる通りです。 しかし子沢山であっても長男が入隊する事はあまりありません。 実家が貧しく、土地が痩せていて耕作の人手を増やすより長男には給金のある仕事を見つけ、実家に仕送りしてほしい等の経済的な理由があれば入隊する事もあるでしょうが。 だとしたら、なぜ読み書きを学ばせる余裕があったのか不思議ですし」
「読み書きが出来る事が珍しいかしら? 兵士でも文官なら必要でしょう?」
「文官の仕事は貴族か、富裕な平民の子弟へ配分されます。 平の兵士でしたら読み書きは大して必要ないうえに、読み書きが出来たとしても給金が上がる訳ではないため、コネのない貧農の子弟にとっては無用の長物と申せます」
私の疑問は解消されなかったものの、それ以降、彼の名は夫の覚え書に何度も現れた。 百剣入り。 新人戦の北軍代表選手。 そして優勝。
新人戦で優勝するとは並みの剣士ではない。 少なくとも北軍剣士で優勝した者は今まで一人もいなかったはず。 それは軍対抗戦での北軍大将を務めた事、そして優勝した事にも言える。 小隊長昇進、百剣の頂点に登り詰めた事も。 ただそれらはどれも世間の噂でも聞いていたから、夫の覚え書のみで知った事ではない。
私の心に小さく引っかかっていた違和感の理由に気付いたのは、ある日夫がサダ・ヴィジャヤンの入隊を記したからだ。 夫は侯爵子弟の入隊なら書き記していたが、親戚か知人でもない限り中級以下の貴族子弟の入隊を書き留めた事はなかった。 でも六頭殺しの若の入隊なら記載した事は頷ける。 北ではどこもこの快挙の噂で持ちきりだったし。
けれどタケオは単なる平民。 何らかの軍功を立てての入隊とは聞いていない。 噂によれば推薦人はおらず、読み書き可の項目に丸が付いているだけで特記事項は空欄だったとか。 ならば貴族や神官の縁故、特殊技能がある訳でもない、数多いる平民新兵の一人に過ぎないリイ・タケオの入隊を、なぜ書き留めたのだろう?
もしや、スティバル祭祀長からタケオに関するお言葉があった? スティバル祭祀長から直接ではなくとも、スティバル祭祀長から将軍、将軍から大隊長、そして中隊長である夫へ伝達されていたのかも。 だとしたら何を伝えられたのだろう? タケオを特別扱いするように、とか?
しかしそれだとスティバル祭祀長はタケオの事を入隊前から御存知でいらした事になる。 どのようにして? 祭祀長が第一駐屯地の外へお出掛けになったのはグリマヴィーン中央祭祀長が退官なさった時だけと聞いている。 噂で聞く限り、タケオは貧農の出で、第一駐屯地を訪れたのは入隊した時が初めてだ。 それに夫から聞いた事がある。 入隊当時のタケオは剣の扱いを知らない素人で、剣の持ち方から教えなければならなかった、と。
誰から何を言われたのだとしても、現在のタケオの強さとは何の関係もない事は確か。 特別扱いされたら強くなれるなら誰も苦労はしないし、それを言うなら夫こそ誰からも特別扱いされていた。 皇王族のお血筋という事で。 それにタケオは僅か二年で夫を追い越したと記憶している。
それを覚え書で読んだ時、夫はさぞかし悔しかろうと推察したのだが、夫がタケオの名前を口にする時、そのような悔しさを滲ませた事はない。 どちらかと言えば、称賛? なんとなく、その称賛はタケオの強さに対するものだけではないような。 彼には夫を夢中にさせる何かがあったような気がしてならない。 でなければ皇太子妃殿下お出迎えの副隊長のような、失敗する事がほとんど確実と言ってもよい任務を受けたりはしないだろう。 任務を受けさえしなければ、いずれ大隊長へと昇進するのは確実なのに。
お出迎えの失敗は死を意味する。 夫は遺言を準備してから出発した。 幸い夫は無事に帰宅したけれど。
「旦那様、遺言ですが、私から弁護士へ破棄しておくよう通知致しましょうか?」
すると夫は不思議な微笑みを浮かべて。
「いや。 そのままで。 私の人生はこれからも波乱万丈であろうから」
波乱万丈? その言葉の選択に内心驚いた。 今回の任務にしても危険ではあったけれど、それは何か起こり得るという意味での危険であって、実際は何も起こらなかったのだから波乱万丈とは言えないと思っていたから。
私から見れば夫は今まで順調な人生を歩んでいる。 勿論、夫が北軍将軍となれば波乱万丈となる事を覚悟せねばならないし、北軍将軍夫人として私の人生も波乱万丈となるだろう。 しかし現在中隊長の夫がすぐに大隊長に昇進するとは考えられないし、したとしても副将軍へ昇進するのはそれから十年後か十五年後。 将軍は更にその数年後でないと。
タケオの人生なら既に波乱万丈と言える。 平民にして中隊長へと昇進した事だけでも。 そして皇太子妃殿下のお出迎えの大任を立派に務めた。 夫が大隊長に昇進したらタケオを大隊長補佐に指名するかもしれない。 そう思っていたからヴィジャヤン小隊長がタケオの妹と結婚した時、何かと気に掛けたし、彼女のお産が近づいた時も色々面倒を見た。 彼女がいずれ雲の上の御方となる事を予想したからではない。 そうと知っていたら私の子供のお下がりをポクソン子爵家の家紋が入っていたままであげたりはしなかった。 相手を目下と思っていたから気にならなかったのだ。
今となっては恥ずかしくて仕方がない。 出来れば誰かの目に触れる前に全て新品と交換しておきたかったけれど、子爵子弟の妻という身分で準大公家のお住居にお邪魔出来るはずもなく。
リネ様は御身分が上になろうと人を見下す御方ではなかったから、私を見掛ければ笑顔でお言葉を掛けて下さる。 サリ様の乳母として遣わされたのは公爵令嬢だし、他にも貴族の奉公人がいるのだから、私がした事の意味を御存知ないはずはないのに。 ヴィジャヤン大隊長が御存知ないのは、まあ、あの御方なら、と思うけれども。
ただタケオ中隊長が大隊長へ昇進し、夫が彼の補佐になった時は、さすがに夫の日常が平坦なものではなくなった事は知っていた。 覚え書に書かれていたのは。
リイ・タケオ、第十一大隊大隊長を拝命す。
同日、第十一大隊大隊長補佐を拝命。
この二行だけだったけれど、北軍史上初の平民大隊長。 その補佐を務める事が波乱万丈でないはずはない。 そしてそれは夫の望むところであったのだと思う。 辞退しようと思えばいくらでも辞退出来たはずだから。
では、夫はこれも望んでいた? 華々しい軍葬。 とめどなく流れる準大公の涙。 準大公夫人が歌い、万人の涙を誘った弔歌。 固く握りしめられたままのタケオ施主の拳。
夫は満足なのだろうか。 波乱万丈の終わりが儚く美しく散る花火と知っても。
軍葬が終わってテーリオ祭祀長へお礼を申し上げた時、お言葉を頂戴した。
「其方の行く末には波乱万丈が待ち受けている。 恐れずに受け止めよ。 其方の夫がそうしたように」
それはどういう意味なのか。 分かったとは言えないのに、分からないとは言えないような。
そして腑に落ちた。 夫は知っていたのだ。 来るべき波乱万丈を。 それに巻き込まれる事の意味さえ、おそらく。 リイ・タケオ、入隊す、の一行を書き留めた時点で。
そして最後まで進んだ。 恐れずに。
ならば私も進まねば。 夫の名に恥じぬよう。
追記
ニカ・ポクソン
準大公の長男、サナ・ヴィジャヤンの養育係として準大公家に長く仕えた。 女傑として知られる。 言い伝えによれば、これは準大公が彼女を指してそう呼んだ事が始まり。 サナには幼少の頃から片時も離れない猿神がおり、準大公の命には従わなかったが、ポクソン夫人の命には従ったため。 但し、準大公家執事覚え書にこの件に関する記述はなく、この伝承の出典は明らかではない。
夫はネイ・ポクソン。 リイ・タケオ将軍が大隊長であった時の筆頭大隊長補佐。 北軍将軍毒殺事件の際、毒殺されたが、タケオ将軍はポクソンの死後も補佐に指名したので、北軍におけるポクソンの最終階級は筆頭将軍補佐となっている。
(「弓と剣とマグノリア 北軍将校夫人伝」より抜粋)