夜明け 3
フォーレの言葉通り、翌朝チャセンコ上級神官直属の中級神官十名が出席する定例会議で以下の発表があった。
善きかな、竜鈴鳴動。 ハレスタード皇王陛下の治世の隆盛を告げる玉竜の咆哮よ。
ネイゲフラン中央祭祀長猊下は、この慶事の機を逃すまじ、と御勇退を御決断。
その御決断潔し、と陛下はスティバル聖下を新中央祭祀長に任命なさった。
昨晩、スティバル猊下は全上級神官と御歓談なさり、皆の変わらぬ篤き信仰心に触れ、中央祭祀庁へお戻りになった事を深くお喜びになる。 その際、この思いを全神官と分かち合いたい、とのお言葉あり。
ついては本日昼過ぎ、全中級神官は本堂へ集まり、猊下より就任の御挨拶を拝聴する。 その後、青竜の騎士が皆と握手して下さるとの事。 以上。
チャセンコ上級神官は発表の後、何もおっしゃらず退室なさった。 質問される事を恐れるかのように。
嘘はつきたくない、かと言って分からぬ知らぬで通すのもお嫌なのだろう。 それなら余計な事は何も言わず逃げるのが一番。
そのお気持ちは分かるし、そもそもネイゲフラン聖下の喉の事や青竜の騎士の握手によって誰にどのような障害が出たとかの発表があるとは誰も思っていない。 この退任劇がネイゲフラン聖下の御決断となっている事にも驚く者はいないだろう。 そう発表されたら本人以外、誰の責任でもなく、待っていましたと言わんばかりの後任の御指名でも陛下に抗議や非難を向けようがない。 実に穏便な理由と言える。
だが七人の上級神官が辞職したのならその上級神官の直属中級神官はどうなった? どなたにも十人前後の中級神官の部下がいる。 合計七十人を一人で引き受ける御方などいないだろう? 残った二十三人の上級神官で分配したなら、どの上級神官にも新顔の直属中級神官が最低でも一人、多ければ四、五人いるはずだ。 なのに異動してきた神官の紹介がなかった。 なぜないのか?
七十人もの中級神官が全員退職した訳ではあるまい。 フォーレだって私の退職を引き止めたくらいだ。 退職する気があるようには見えなかった。
では七人の中級神官が上級へ昇格した? しかし上級への昇格試験は年一回、春にしかない。 今年の合格者は二名。 どちらもテーリオ猊下の側付きとなり、中央祭祀庁から北軍祭祀庁へ移籍した。
昔は受験せずに昇格した神官もいたらしいが、それは私が神官になる前の話。 私が神官になってから、つまり三十年以上、そんな特例があったとは聞いていない。 それに一人ならともかく、特例昇格者が七人もいたら後々問題になるだろう。 中級神官は実務を担当している。 普段何をしているのか直属の部下でさえ知らない事が多い上級神官が七人退職するより遥かに大きな影響がある。 常に他の中級神官と協力して仕事をしているので誰が何をしているか知られているだけでなく、急に七人もいなくなったら他の部署の仕事にも大きな支障が出る。
大幅に削減されると予想される新年の儀式はまだいい。 質素倹約で知られるスティバル猊下が贅を尽くした前任者のお住居をそのまま使うとおっしゃるとは思えない。 空き家ならいくらでもあるが、どれも祭祀長のお住居として建てられたものではないから新築するか、改築するなら土台からやり直す建て替えとなる。 その間滞在なさるお住居を用意せねばならないし、ネイゲフラン聖下のお引越しもある。 十人の中級神官と分業しなければ円滑に進めるのは無理だ。 かと言ってチャセンコ上級神官直属の中級神官全員をお住居の新築に専心させたら、人事異動、年間予定表の作成、神事の担当神官選定は誰がやる?
下級神官七人を昇格させれば済むという問題ではない。 細かいしきたりや手順を教える者がいないと等級名が中級に変わっただけの下級神官に中級神官の仕事を任せたら間違いだらけになる。 ただでさえ人手不足の折り、毎日残業に次ぐ残業なのだ。 そのうえ同僚の指導までやらされたら対応し切れるとは思えない。 せめて自分の身に降りかかる火の粉がどれくらいになるのかだけでも聞いておきたいが。 辞めるならそれら全てどうでもよい事。 今すぐ知らねばならないのは青竜の騎士に握手されたらどうなるかだけ、と言えない事もない。
中級神官は全員それぞれの伝手を使い、私がフォーレから聞いたのと同じ話を聞いているだろう。 案の定、会議後の食堂で皆が熱心に話しているのは祭祀長の首の挿げ替えより握手の後、自分が無事かどうかだ。 予想は大きく分ければ以下の三つになる。
一、影響はない。 障害が出た七人の上級神官はいずれもネイゲフラン聖下の腹心。 中級神官以下に腹心と呼べる神官は一人もいないし、青竜の騎士は末端の神官に酷い仕打ちをなさるような御方ではない。 その証拠に上級神官でさえ御無事な御方の方が多い。
二、影響は大有り。 腹心と腹心ではない神官の違いは何か、知っている者がいる訳でもない。 自分は腹心ではないし中級だから無事と思い込むのは危険。 下級神官を上級神官と間違えた事で有名な御方に、腹心と腹心ではない神官の区別が付けられると思う方が間違っている。 我が身がかわいければ握手の前に辞表を提出するべき。
三、影響はあったとしても限定的。 青竜の騎士御本人は賢くなかろうと周囲は賢い方揃い。 北の猛虎、策士マッギニス、腹黒執事ウィルマー、才女ベイダー、今では呪術師組合の組合長タイマーザまでいる。 誰をいつどう不具にするか、入れ知恵されているので中級神官は新年の行事が終わるまで無事。 但し、その後も無事とは限らない。
握手による障害は呪術師タイマーザに起因するのではと憶測する者。 権力者となればいずれこのような悪行をなさると思っていたと憂い顔の者。 スティバル対ネイゲフランとなれば、どちらが勝つか分かりきった事と諦めのため息を漏らす者。 全てはスティバル祭祀長を慕っていた猛虎が青竜の騎士を脅してやった、と見てきたかのように言う者。 様々な意見が交わされていたが、新祭祀長が中央祭祀庁をどのように変革なさるのかを気にしている者は一人もいない。 誰もがこの退任劇は遅かれ早かれ起こった事と捉えており、年齢が上がれば上がるほどグリマヴィーン時代に戻ると考えている。
因みにそれは古き良き時代を意味しているのではない。 よく言えば質実剛健。 悪く言えば神官になるうま味が全くない時代だ。 今だって神官になるうま味など大してある訳ではないが、年中何かと儀式はある。 儀式の度に御祝儀やお零れがあるから全くないとは言えない。
だがグリマヴィーン猊下は儀式を行う事による出費を嫌われた。 まるで費用を御自分のお財布から出していらっしゃるかのように。 当時は皇都でさえ飢えて死ぬ民が珍しくなく、国庫の窮状を考慮すれば当然の節約。 とは言え、神域内の儀式に平民が出席する訳ではないし、神官のほとんどは貴族の子弟だから困窮の時こそ天恵を願い、盛大な儀式をすべきと考える者が多かった。
あの当時と比べたら現在の経済状況は格段に改善しているし、弓と剣のお二人と近いスティバル祭祀長が儀式は盛大に、とおっしゃれば相当な御祝儀が集まるはず。 なのに質実剛健へ戻したら、神官は以前より更に大きな不満を抱くのでは? その火種がどう暴発するか、考えただけで寒気がする。
いずれにしても先の見込みは明るくない。 私は全ての噂を聞き流した。 私の懐には退職届。 これを提出しさえすれば召集に応えずに済む。 祭祀庁内に改革があろうとなかろうと無関係だ。
と考えていたのに気が付けば召集に応え、本堂でスティバル猊下の御臨席を待っている。 最後まで迷う事は迷った。 懐の退職届は捨てていないが、天翔ける生きた伝説と握手する機会を逃して後悔しないのか? と自らに問うなら、後悔する、と答えるしかない。
勿論盲目になっても後悔する。 生涯続く不便を考えたら一時の喜びの為に払わねばならない代償は軽くない。 しかし今朝の祈りには退職届を提出なさった方々も参列していらした。 晴れ晴れとした、と表現しても適切かどうかは分からないが、今まで見た事のない明るいお顔で。
どうせ辞めるから? だとしても嬉しそうに退職する神官などいたためしはない。 嬉しそうに仕事をしている神官もいなかったが、退職した神官は貧乏暮らしか肩身の狭い実家暮らしとなる。 現状にどれほど不平不満があろうと死ぬまで退職しない神官が多く、やむをえない事情で退職せねばならないとなったら死を選ぶ者さえいたほど。
それに晴れ晴れとなさっているのは障害が出た神官だけではない。 上級神官全員、上機嫌と言ってもいいくらい晴れ晴れとした面持ちでいらっしゃる。
前日の鬱々と今日の晴れ晴れ。 違いは青竜の騎士との握手しか考えられない。 理由は分からないが、青竜の騎士と握手すれば晴々となれるのなら、たとえ障害が出て退職する事になったとしても悔いはないと思ったのだ。
集会場である本堂の段上には祭祀長用の椅子が二脚置いてある。 先触れの神官がスティバル中央祭祀長、テーリオ北軍祭祀長、そして青竜の騎士の御臨席を告げると、まず北の猛虎が入場した。 その威容。 なぜ青竜の騎士がこの剣士に惹かれるのか、よく分かる。 私とてもし軍人だったら惹かれただろう。 いや、神官でも惹かれる。 今まで中央と北は敵対関係と考えていたから恐れるばかりだったが、味方となれば話は別だ。
もっとも味方と言い切ってもよいのかどうか。 スティバル猊下とテーリオ猊下のお仲がよろしいのはスティバル猊下が上でテーリオ猊下が下のお立場だった時の話。 お立場が逆になられても友好な関係が続くかどうかは誰にも分からない。
ただ今日の場合、この集会はスティバル猊下が召集なさった。 テーリオ猊下が召集なさったのなら北軍大隊長が真っ先に入場しても不思議はないが、中央祭祀長の召集なら先頭の護衛は近衛副将軍か近衛大隊長でないとおかしい。 本堂の入り口やそちこちに立っている警備兵は近衛兵士だが。
それに祭祀長がお二人と皇王族筆頭である青竜の騎士、守られるべき御方が三人いらっしゃる。 なのにお側付き護衛がたったの一人とは。 いくら一騎当千の呼び声が高い剣士だろうと、あまりにも護衛の数が少な過ぎるだろう? それとも護衛は青竜の騎士とタケオ大隊長のお二人という意味? しかし皇王族御自ら護衛を務めただなんて聞いた事はないし、二人でも少な過ぎる。
だがスティバル猊下の後ろに続いている神官を見て、そんな疑問は頭の中から消え去った。 なんと。 ワスムンドだ。 側付き上級神官の神服を着ている。 その時初めて昨日チャセンコ上級神官と共に駆け去ってから一度もワスムンドの姿を見かけなかった事を思い出した。 なぜ帰って来ないのか理由を考えている暇などなかったが、まさか祭祀長側付きに返り咲きを果たしていたとは。 お世辞にも頼り甲斐のある上司とは言えない私にとって、これは凶としか言いようのない出来事だ。
青竜の騎士がテーリオ猊下に何事か囁かれる。 するとテーリオ猊下がスティバル猊下に何事か囁かれ、スティバル猊下は少し首を傾げられたが、何事かを思いつかれたようで、それをテーリオ猊下に御提案なさった御様子。 テーリオ猊下は微笑みながら頷かれた。
そこでスティバル猊下から短い着任の御挨拶があり、続いてワズムンド上級神官から指示があった。
「只今より青竜の騎士が巡回し、皆と握手して下さる。 各自、名を名乗るように。 尚、時間が押している事でもあり、皇王族に対する儀礼の必要はない」
中級神官は約三百人いるが、青竜の騎士の方が動いて下さり、こちらは名乗るだけならそれほど時間はかからないだろう。 青竜の騎士は先頭の列から次々握手なさり始める。
私からは誰とも無言でいらっしゃるように見えたし、少なくとも私の前後左右の数人は誰もお言葉をかけられていない。 皆生きた伝説との握手に感動していた。 私自身、握手と同時に清々しい気流が体内を駆け巡ったような気がする。 それはいいのだが、青竜の騎士は私と握手する時だけお顔を綻ばせて。
「よろしくな」
驚きのあまり何も言えなかった。 なぜ私にだけによろしくとおっしゃったのか? 思い当たる事など何もない。 言うまでもなく青竜の騎士は私にとって雲の上の御方。 お姿を遠目に拝見した事なら何度もあるが、お言葉を頂戴したのは今日が初めてだ。
まさかワズムンド上級神官が青竜の騎士に何か推薦のお言葉を伝えて下さった? 上司とは名ばかりの私を、何に推薦する? 褒められる事など何もした覚えがないのに。 嫌がらせもしていないが。 では、その何もしていない事を感謝された? 確かに傷口に塩を塗ろうと思えばやれる立場ではあったが、何もしていないのは私だけではないだろう?
ともかく握手が滞りなく終わり、猊下と青竜の騎士が御退席なさる。 他の皆と同じく仕事へ向かおうとしているところをチャセンコ上級神官に呼び止められた。
「ラワッシュ。 猊下のお召しだ。 本堂近くの庭にある茶室へ行くように」
猊下のお召し? 私を?
お住居の件か? しかし建設の責任者は私と決まってはいない。 私も含まれる可能性は高いが、私の他に最低でも十人の中級神官が担当するはず。 ところが担当しそうな中級神官は全員出口へと向かっている。
無駄とは思ったが、一応チャセンコ上級神官に伺った。
「どのような御用事でのお召しか、御存知でしょうか?」
「知らぬ」
これは凶兆。 だがここで退職届を出そうと受け取ってもらえる訳がない。
では、猊下に提出する? 猊下直属の上級神官でさえそんな事はしないのに?
それにこの場には上級神官も全員出席していた。 盲目になられ、退職届を提出したはずのサシュレ上級神官も含め。 つまり退職届を出そうと受領してはもらえないという事。
せっかく爽やかになった体が一気に奈落の底へ落とされたよう。 何を命じられるのだろう?




