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副将軍記  作者: 淳A
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夜明け 1  ラワッシュ中級神官の話

 中級神官とは言ってしまえば鳴かず飛ばずの籠の鳥。 努力したおかげで中級神官に昇格はしたが、必死に学んだ事を使う機会など死ぬまで与えられない。

 こうなると知っていたら神官を志す事はなかった。 残念ながら私が神学生になったのは三十五年前。 当時はまだ、神官こそ天に仕え、地を豊かに、民を幸せにするという幻想を抱く私のような若者は少なくなからずいた。 

 時は流れる。 その幻想を体現している神官など一人もいないという現実を教えながら。 長年の失望の果てに希望の萌芽をいくつ見せられようと、それが育ち、いつか大きく花開くとは最早信じられない。 玉竜が鳴かなくなったのも地の貧しさ、民の愚かさを天が嘆いている故ではないのか?


 そこに響いた皇王城を揺らすほどの玉竜の咆哮。

「おお、遂に青竜の騎士が登城して下さったか」

 私の同僚、フォーレ中級神官が歓喜の声をあげる。 周囲にいる私の部下も小躍りせんばかり。 その喜びに水を差そうとは思わない。 しかし青竜の騎士はいずれ北へとお帰りになる御方。 御滞在中は咆哮が続いたとしても、その後は以前の静寂に戻るだろう。

 これほど悲観的なのは私の直属上司、チャセンコ上級神官の影響なのかもしれない。 春の竜鈴鳴動の時でさえチャセンコ上級神官の瞳に喜びはなく、沈鬱なお声でおっしゃった。

「青竜の騎士は激変を齎すであろう」

 良い意味での激変ではない事が窺えたが、周囲には上司の恐れを全く気にしない者もいた。 ノマード中級神官のように。

「騒乱よ、来たれ。 たとえ我が血で地を覆う事になろうと」

 中級神官休憩室にいたのは私達二人だけだったが、ノマードは言祝ぎの詠唱で謡った。 さすがに呆れ、本気か、と聞いたら。

「本気も本気だ。 無事無風。 無駄に人生が終わるくらいなら騒乱の渦中での死を選ぶ。 其方こそ昔は熱血の論客として知られていたではないか。 騒乱が起こったら私より先に飛び込みそうなもの」

 私はただ肩を竦めた。


 確かに若い頃は祭祀庁の抜本的な改革を夢み、ノマードとは毎晩のように議論を交わしたし、幾つかは上司に提出したが、全て却下された。 唯一却下されなかった飢える民への麦粥の施しは麦を貯蔵する蔵に民が押し寄せ、強い者が奪い、弱い者にまで行き渡らず、踏み潰されて死ぬ子もいたという大失敗。 激しく非難され、護衛の数と施す場所の数を増やせば乱闘と盗難を避けられるという提案は受け入れられなかった。

 瑞鳥飛来、ハレスタード皇王陛下の戴冠、竜鈴鳴動と慶事が次々起こった事により改革への希望を捨て切れない彼の気持ちは痛いほど分かる。 けれど議論は何も生み出さず、慶事によって神官の何が変わったと言うのか。 以前も今も民が神官に救いを求める事はない。 求めたところで無駄と知っているから。 天や陛下、領主から救いが齎される事がないように。

 勿論、救いが不要だからではない。 現に青竜の騎士には救いを求めている。 争って青竜の騎士の領地や縁の地を訪れ、ケルパ神社のお守りや土産物を買い、果ては大峡谷の石や砂を持ち帰り、後生大事に拝んでいるのが何よりの証拠。 陛下でさえ青竜の騎士のお手を握ってお放しにならない。 まるでこれこそ我が命綱とおっしゃるかのように。


 ならば私も青竜の騎士に救いを求めるべき? 求めたとして、あの御方が祭祀庁を変えて下さるのか? 宮廷内の雰囲気が大きく変わった事は認めるが、中央祭祀庁内も変わったとは誰も言わないだろう。 しきたりや神官の仕事で変わった事など何もない。 そもそも神官が望んでいるのは騒乱でも新たな改革でもなく、グリマヴィーン元中央祭祀長がお始めになった神官の新規採用中止という改革を止め、それ以前の、神官がうま味を吸い放題だった時代へ回帰する事なのだ。

 スティバル祭祀長をお継ぎになったテーリオ祭祀長は神官の新規採用をお始めになった。 しかしそれは北軍祭祀庁で始まっただけで中央祭祀庁ではまだ開始されていない。 元々北軍祭祀庁の神官は十八人という極限まで削られた数。 たとえ十倍に増やされようと全祭祀庁の神官総数で見れば大した増加ではなく、今年の退官数より少ない。 加えて採用されたのは教師や医者。 なんと大工や石工までいるのだとか。 神学生でもなければ貴族の子弟でも現神官の親類縁者でもない。 それでは賄賂を貰えないし、貰えたところで大した額ではないだろう。 

 ネイゲフラン猊下は教師や医者に神官服を着せたい訳ではないのだ。 仮に青竜の騎士が改革を御提案なさろうと、それがグリマヴィーン時代より前の状態に戻すものでない限り、ネイゲフラン猊下がうんと仰るとは思えない。 青竜の騎士が玉竜を治癒して下さった事には感謝なさるだろうが、それと改革の受け入れは別問題。 たとえ改革が実行されたとしても、それによって私の人生がどう変わると言うのか。


 だからチャセンコ上級神官の荒い息遣いと滝の如く流れる汗を見ようと、今日から自分の人生が一変するとは思いもしなかった。 ただ尋常ならざる異変が起こった事は確か。 上級神官の冠と上掛けは外していらっしゃるが、陛下へ御目通りする際の正装。 つまり着替える間も惜しむ程お急ぎなのだ。

 まさか陛下からの直命? だとしても正装の上級神官が走るか? 陛下をお守りする警備兵でさえ神域内で走る事はないし、沈着静謐を重んじる神官が走るなど考えられない。 いや、あり得なかった、と言うべきだろう。 窓からチャセンコ上級神官に追い付こうと必死になって走っている側付き、バークビグラ中級神官の姿が見えるのだから。


 チャセンコ上級神官は私が差し出した水をお飲みになる前に早口でお命じになった。

「至急、ワスムンドを呼べ」

 意外としか言いようがない。 再びワスムンドの名を聞く日が来ようとは。

 ワスムンド下級神官は私の直属の部下だが、今まで上司だけでなく誰からも彼について聞かれた事はなかった。 これは私の同僚や知り合いだけでなく、ワスムンドの過去と現在の同僚、親兄弟、親戚、友人を含む。 それも無理はないと言えよう。 降格自体は時々あるが、上級から下級へとなると史上初ではないにしても相当珍しい。 余程の理由があったと推察される。

 もっとも降格理由は誰も知らない。 少なくとも私は知らないし、チャセンコ上級神官も知らぬとおっしゃった。 本人にも聞いたが、存じません、と答えるのみ。 知らないはずはないと思うが。 本人には通達されない場合でもこの降格をお命じになったスティバル祭祀長は理由を御存知だ。 上級神官の降格なら陛下へも奏上なさったはず。 ワスムンドは難解な上級への昇格試験に首席で合格した秀才で、先代陛下の半身と噂されるスティバル北軍祭祀長の側近を長年務めた。 現在は不遇を託つ身であろうと祭祀長もしくは陛下に近い御方とのコネが何かしらあるだろう?


 とは言え、しがない中級神官の私に無理矢理聞き出す手段などない。 そんな事をしたら誰からどんな報復があるか。 ワスムンドが中級への昇格試験を受験したいのなら直属上司の推薦が必要だから私の歓心を買う必要もあるが、彼にその気はないらしい。 毎日黙々と書庫の整理をしている。 因みにそれは普通なら下働きがする仕事だ。

 但し、嫌がらせでこのような肉体労働をさせているのではない。 下級神官なら覚えねばならない実務が山ほどある。 昔は一つの仕事の専任となり、十年も経てばベテランとなれたのだが、人員削減政策のせいで何でもやるしかなくなった。 神官となって二十年経つ者でも一度もやった事がない実務を任される事もある。 それに以前やった事があろうと十年も経てば忘れるのが普通だから、忘れないよう臨時の手伝いに駆り出される事も多い。 ともかく完璧であるより何でも一通りこなせる事が重要で、それらを配慮した仕事配分をしている。

 だが私達が拠り所にしている実務の手引き書はどれもワスムンドが作成したもの。 下手に実務を任せ、手引き書通りにやっていない事がばれたら面倒だ。 手引き書通りではないのはそれなりの理由がある。 予算不足、人手不足、担当神官の能力不足、上司の都合、天候、事故、等々。 彼が二十数年前に書いた何十冊もの手引き書の全てを覚えているかどうか確認した事はないが、神学生時代から驚異的な記憶力の持ち主として知られた男だ。 知らないふりをする事はあろうと忘れるとは思えない。

 もし私が上級神官になりたいのなら上司としての立場を利用し、受験勉強を助けてもらったと思う。 彼ほど優秀な教師はいないから。 だが私にそんな野心はないし、上級神官になりたい同僚は何人かいるが、下級神官には教師になる資格がない。 それに降格された神官に教えられたと世間に知られたら外聞が悪いから、彼に教えを乞う中級神官はいないだろう。

 何をさせるべきかチャセンコ上級神官に聞いたが、私に一任するとの事。 仕方なく放置されたままとなっている書庫の整理を任せた。 自分の才能なら無駄遣いされようと大した損失ではないが、彼ほどの才能を無駄遣いするのは祭祀庁にとって大きな損失だ。 とは思うが、彼の才を惜しむ声を聞いた事はない。


 毎日ワスムンドが書庫で昼寝をしていようと私に責める気はないし、それはやんわりと本人に伝えているのだが、真面目な性格だからか本当に書物を整理している。 おかげで今では書庫の入り口に貼られている配置案内を見れば、どこに何が置いてあるか一目で分かるようになった。 以前は一旦書庫に収納されたら収納した神官がまだ生きているのでもない限り再び見つける事は不可能だったのに。

 急いで書物を見つける必要があるならワスムンドに聞けばよい。 しかしチャセンコ上級神官の目的は書物ではないだろう。 貴重な書物は祭祀長のお住居にある図書室か、副祭祀宅に隣接して建てられている図書館に置いてある。 書庫に置いてあるのは神官の履歴書や試験結果、会議や行事の記録など、整理されていようといまいと誰も気にしない物ばかり。 上級神官が走って見つけねばならない物など一つも置いていない。 それはチャセンコ上級神官も御存知だ。


「ワスムンドは書庫におりますが、書庫のどこにいるかは分からないので下働きを呼んで探させます。 少々お待ち下さい」

「いや、下働きに走れと命じたところで走るまい。 書庫の隅から隅まで探していたら何時間かかるか。 時が惜しい。 緊急避難警報を鳴らせ」

 この警報は火災や暴動などが起こった時にのみ鳴らす。 神官になって三十年経つ私でさえ一度も聞いた事がないという代物だ。 鳴らす手順なら中級へ昇格した時に教えられたので知っているが、習ってから二十年近く経っている。 しかし鳴らす手順を忘れましたと言えるような雰囲気ではない。 今書庫にいる中級神官は私だけだ。 バークビグラが辿り着いたが、その途端倒れた。 あの様子ではしばらく立ち上がれまい。 警報は立っていないと手が届かない所に設置されている。 仕方なくおぼつかない手つきで恐る恐る警報を鳴らすと、ワスムンドは書庫の出入り口からそう遠くない区画で働いていたらしく、すぐに現れた。


 チャセンコ上級神官がワスムンドにお命じになる。

「急ぎスティバル中央祭祀長のお召し物を用意せねばならぬ。 其方なら猊下の寸法を知っていよう」

「はい、存じております」

「バークビグラ。 其方の側付き用ベルトをワスムンドに貸せ。 今晩、スティバル猊下はテーリオ猊下のお住居にお泊まりになる。 其方は宿泊準備に取り掛かれ。 お側付き、警備を何名お連れになるかは不明だが、ヘルセス公爵家次代が泊まるかもしれん。 二十名は泊まれるようにしておけ」

「畏まりました」

「ラワッシュ。 其方はサリ様のお住居の準備をせよ。 青竜の騎士御一家は今晩そちらにお泊まりになり、警備の陣頭指揮はタケオ北軍副将軍が執る。 副将軍拝領は新年二日の午後だが、北軍軍葬施主とお呼びしてはどういう儀礼で対応すべきか下働きが混乱するからな。 近衛の誰が現れようと、現れたのがカリゴウス近衛副将軍であろうと、必ずタケオ北軍副将軍に確認するのだぞ。 それとヴィジャヤン御典医筆頭見習とヴィジャヤン女官がお泊まりになっても差し支えないよう寝具を余分に用意する事と神獣への気配りを忘れるな」

「承知致しました」

「ワスムンド。 衣料倉庫へ走るぞ」

 ワスムンドは既に水筒を入れた背嚢を担ぎ、汗拭きをベルトに下げている。 お二人は信じられない速さで駆け去った。 毎日かなりの重さの紙を動かしているであろうワスムンドが健脚でも驚かないが、ペンより重い物を持った事がないように見えたチャセンコ上級神官が伝令も顔負けの健脚でいらしたとは。


 それにしてもスティバル中央祭祀長? 聞き間違いのはずはない。 確かにそうおっしゃった。 スティバル姓は珍しくないが、中央祭祀庁に、いや、全祭祀庁を含めてもスティバル姓の神官はいない。 神学生の名前までは知らないからその中にはいるかもしれないが、中央への転属前は北に、転属後は書庫に籠りっきりのワスムンドが神学生の体の寸法など知っている訳がなく、それは私から業務報告を受け取っていらっしゃるチャセンコ上級神官も御存知だ。


 意外と言えば意外な御指名。 とは言え、祭祀長の突然の退任は実はよくある事だ。 ネイゲフラン聖下の前任、マーガタン中央祭祀長の退任もそうであったように。 それに聖下が他所の祭祀長に任命された前例もある。

 ただ普通なら祭祀長が在職中に次の祭祀長を選ぶ。 時には退任なさる何年も前に。 スティバル聖下もグリマヴィーン中央祭祀長の元で十年以上中央祭祀長見習としてお仕えになられた。 なぜ中央ではなく北軍の祭祀長となられたのかは分からないが、突然の御指名であろうとスティバル聖下なら戸惑いはないだろう。 しかしネイゲフラン聖下が御自分の後継としてスティバル聖下を御指名なさるだなんて。 あり得るか?

 何かが起こったのだ。 あり得ない交代劇をあり得る事にした何かが。


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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。 神官たちは 希望に満ちて祭祀庁に入り、民の為に神に祈ることなく、私服を肥やす 上の方を見て どれだけ落胆したことでしょうね。その期間が長ければ長いほど、心が乾涸びてしまう…
更新ありがとうございます。 祭祀庁の内情は読んでいてワクワクします。今後の展開がとても楽しみです。
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